Amen

処刑 ホロコースト 強制収容所 ガス室 絶望 地獄 神父 クリスチャン



原題「AMEN」という映画を観ました(アーメンの意味は、まさに然り、その通り、真であるように、等)
邦題は「ホロコースト アドルフ・ヒトラーの洗礼」です(←内容と合ってない変な邦題です)


ナチス親衛隊の中尉、クルト・ゲルシュタインはポーランドの強制収容所でユダヤ人たちが
毒ガスで処刑されているのを覗き窓から見せられ
ショックを受けた彼はどうにかそれを阻止する為、ベルリンにあるカトリック教会の司教に告発し
他の国に知らせるように言います
しかし、司教は聞き入れません
が、それを知った若い修道士リカルドがそれを見逃さず熱心に話を受け止め、リカルドも
ローマ法王に虐殺の真実を伝え、どうにか虐殺を止めようと二人は必死に行動しますが、
教皇は中立に立場を起き、沈黙します

英題「Der stellvertreter」は舞台劇「の代理人」から取っていて
ゲルシュタイン中尉はのスパイとして親衛隊に入り、後に彼の残した証拠で
ホロコーストの虐殺が証明された実在人物だそうです

ゲルシュタイン役のウルリッヒ・トゥクールは知りませんが、
リカルド役のマチュー・カソヴィッツは「アメリ」でアメリが恋する青年役の人で好きな俳優です
どこまでもしたたかな悪を突っ切る親衛隊准将役のウルリッヒ・ミューエという俳優が、
なんだか気に入ったのですが、2007年に亡くなっていると知り哀しいです


終わり近くまで話がほんとに淡々とただ流れるのですが
(収容所側の残虐なシーンはほとんどありません)
終わり間際、吃驚する哀しい展開が起こります

読んでもいい方は続きをどうぞ…























神父リカルドが何もことを起こさない教皇らに絶望
ユダヤ人がつけられていた黄色の星型紋様を自ら胸につけ
強制収容所へとゆくのです、その展開が起こるシーンはとてもいいです
自分の命を投げ打ってでもゲルシュタインもリカルドもその正義を全うする以外
生き続けることなどできない人間なのでしょう

そして収容所に着いたリカルドは神父だから役に立つようにと火葬場での労働を強制させられます
最も過酷なその労働を続けるリカルドの元に偽装した書類を彼を助けるために
作り逢いに来たゲルシュタインに、怯えて言葉もすぐに出せないほど憔悴しきっているリカルドが
とても哀しい顔でこう言います

「我が子が焼き尽くされてもは無言だ
その御心を知りたい」

ああ…と泣きたい気持ちになった、イエスでさえあまりの苦しさにに問うたあの場面が浮かんだ
「神は私を見捨てたのですか?」
それはずっと愛され続けた親に見捨てられたと感じた子供の悲しみと同じなのだ

それでもリカルドはそんな中、神を信じて死んでいったのだろうと思った
そんな人たちが同じ思いでたくさん収容所で死んでいったことを思うと
一番苦しい時にこそ宗教が必要であり、宗教がなければ争いが減るという考えは違うと思う

世の中のあまりに酷い残酷さを目の当たりにした時に、人は神を信じる以外どうにもできない


十字架とナチスの象徴である鉤十字が合わさったポスターは映画ともに大きな論議を起こしたそうです
実際何もことも起さなかった法王もヒトラーとあまり変わらない悪であるようにも思えます
バチカン(カトリック教会の総本山)の暗部はただの賄賂を受け取る政治家のような感じ

全ての夜明けよ

夜と霧 ホロコースト 強制収容所 ガス室 救い ヴィクトール・フランクル

昨日ナチスによるホロコーストのドキュメンタリー映画「夜と霧」を見て

そこから、どうにか救いはないのかと探しましたが

何も見つけ出せそうにありませんでした

ただ、怖く、恐ろし過ぎて、

何をしていても殺された人たちのことが浮かび、つらかった

ベッドに横になれば、あの狭いベッドに寝ているような感覚になり

しかし、ここは温かく、とてつもない疲労などない、恐怖はない

鏡に自分が映ると、自分も死んでいる体なのではないかという感覚になった

恐ろしかった、あの映画を観ている間にも、何故これを私は観なくては

いけないのか、と、もう、観たくない、観たくない、と、

ただその場から動けない自分がいるだけだった

殺された人たち全員がまるで、自分の家族のような感覚を覚えた

だから、もう観るのが本当につらく、やり場のない思いに

ひたすら逃げたくなった




少し落ち着くと、彼らには一瞬でも、強制収容所に入れられてから

幸せを感じる瞬間はあったのだろうか、と思った


愛する家族と離され、労働能力のあるものはひどい強制労働をさせられ

労働能力のないと見なされた老人、妊婦、子供、女性たちは

すぐにガス室で殺されたのです


他の人のブログの中で、ガス室に向かう人たちの顔が、それほど恐怖に

満ちていない、それは何故かは、彼等は、これからシャワーに行くと

騙されて、それを信じて待っていた顔だからだ、と言うのを読み


もう苦しくてたまらない、何も考えることもできなくなる

ずっとずっと苦しかった、時には涙も流したが、救いがどこにも見当たらなかった



しかし、そこから生き残った心理学者ヴィクトール・フランクル

収容所での生活が書かれた「夜と霧」の中身をネットで少し読んで、知り

私は心から感涙して、救われた

彼はそんなあまりに苦しい毎日の中で、自分が導き出した答えによって

救われ、また、それを話したことで同じ仲間の心を救ったのです

愛する妻と心の中で対話をし、どんな苦しみをも光に変えたのです



私が特に救われた、美しくて愛おしくてたまらない場面があります、下引用文

“ある時など、過酷な労働で疲れ果てバラックの土間に死んだように横たわっていた時、

一人の仲間が飛び込んで来て、極度の疲労と寒さにもかかわらずに、

ちょうど、彼の目に映った美しい日没の景色を見逃させまいと

急いで出て来るように催促してきたこともあった。

外に出てみると、そこにはバイエルンの美しい夕暮れの光景が広がっていた。

燃えるような雲が青銅色から真紅の色に変化していく様は、

まさにこの世のものとも思えぬ幻想的な芸術であった。

感動の数分後、誰言うともなく「世界ってどうしてこんなに綺麗なんだろう」と

タメ息まじりの声でつぶやくのである。

自分たちの背後には、荒涼として灰色で泥だらけで

殺風景きわまる収容所があるだけなのに。”




嗚呼、なんて生物だろう!人は

本当にそうなのだな、人は苦しみを知るほど世界は美しく観えるのだな

それは、本当に普通の暮らしでは絶対にわからない美しさであるだろう、と思いました




そして、もう一つの感極まり涙が溢れた文が、停電の夜に起きたことです

少し長いのでホームページのほうで、ぜひ全部読んで頂きたい

これを機にまだ「夜と霧」を読んでいない方には読んで頂きたい

私も必ず読みます



それと心温かい監視兵がいたということが、どれほど彼らにとって

救いであったのでしょう




しかし、実際そのような救いを知ることなく死んでいった人たちに対して

私たちは、何ができるでしょうか

それは私は、いつもこう思うのです

死は終わりである、という人がたくさんいます

私はそれを絶対に信じたくない

死が終わりなら、無念を残し無残に死んでいった人たちの夜明けは

一体いつ来るのですか?

永遠に安らかに眠っているだろうから、それが救いである、とは

思えないです

彼らには生きていたならあとどれほど喜びを感じられたのでしょうか

安らかに眠ることは、喜びではない、また、苦しみでもない

彼らが、また生となり、彼らの生活する時間が再び来ることを

私は心から願い、信じます

それはすべての再生であり、私自身の再生でもある