✢未来のホロコースト(第三次世界大戦)の情景(今日の私の夢)✢Scenes from the future Holocaust (World War III) (my dream of the day) ✢

処刑 第三次世界大戦 夜と霧 ホロコースト 強制収容所 予知夢 絶望 屠殺 地獄 ヴィーガン

✢今日の僕の夢✢



スクリーンショット (880)

(右上の図)恐らく、人々の恐れていた《第三次世界大戦》が起き、人々はNazis(ナチス)同様、強制収容所に投獄され、迅速に大量に処刑される未来が遣ってきた。
ホロコースト(Holocaust)は効率良く行う必要があり、その為には必ず人々を"騙さねばならない"
「あなたがたのすべてを今から処刑する」などと言うものなら大暴動が起きるだろう。
この処刑法はまだ実験段階なのか、処刑されるのは一度で、《5人》の男だ。
それは牢屋のなかで行われる。
5人の男性が檻の中に入っているが、ここで自分が今から処刑されるとわかっているのは(右上の図)向かって右から4番目の男性Aだけだ。
他の4人は、Aだけを処刑すると告げられている。
だから他の4人はAを慰め、大人しくさせる為にただ利用されていると信じている。
しかし今から行われるのはこの5人全員の処刑である。
Aはとても慈悲深く耐え忍ぶ力のある人で、これから処刑されるのに他の者たちの事を心配している。
Aはおもむろに右隣の男性B(図の向かって右から5番目)に向かって言う。
「日本の関東にも大震災が起きましたね…本当に心配です。」
そう、Bは日本人で、異国のこの収容所にいるのだ。
我が母国よりも、Bの国を心配するAに対して、Bは涙を堪えながら応える。
「うゥ…わたしはなんと言ったら良いか…」
それが精一杯である。
Aは慈悲の表情を浮かべ、Bに「きっと大丈夫」という意味で微笑む。
突然、Bは感極まり、Aをぎゅっと抱き締める。
先に言っておくべきだったが、Aは50代前半で、Bは60代半ば程である。
Bは少し小肥りの体型で髭を生やし、博士のような雰囲気だ。
Aは誠実で清潔な面持ちをしている。
二人ともきっと子どもがいて、さぞかし心配だろう。
すると何を想ったのか、BとAが泣きながら抱き締めあっているその身体を離した瞬間、BはAに想い切り口付け(キス)をし、それだけでは飽き足らず、BはAの汗でぐっしょりと濡れたシャツの上から、半分透けているかのような乳首を下から号泣しながらいやらしく舐め上げる。
Aはつい、感じてしまったのか、「あっ…」という、喘ぎ声が出てしまう。
その様子を、他の3人の男たちは少し後ろから見つめながら、黙っている。
二人とも恥ずかし気で、それ以上の展開は起こらず、彼ら二人のお別れの儀式が終ったようで、元の位置に戻ろうとする時、図の向かって右から2番目の男性Cが、ぼそっと言う。
「なかなか大胆なことをするんだな。」
少し顔がにやけている。
向かって右端の男性Dは頷き、納得している様子だ。
その時、ずっと我慢していたものがはち切れたのであろうか、向かって右から3番目の男性Eが真ん中の少し後ろへ下がり、突如、『サタデー・ナイト・フィーバー』風に、派手な踊りを一人でし始める。
かなり楽し気だ。
完全に馬鹿にされているのだということをAとBは感じていたが、二人とも人格者であった為、彼(E)に対し、最早、何も求めなかった。
私は今から一人の男を処刑する事に精神が堪えられなくて崩壊し、ああなったのだろうかと考えながらそのEのダンスを残りの4人と同じように静かに眺めている。
そしてこの後、この《5人》の男性たちの処刑が完全に行われるのである。
通路を挟んで、向かって左側にも牢屋が続いている。
そこにはこの先、処刑される人たちがたくさん閉じ込められている。
幼い子どももいる。
「Dad... mom... where did you go...?(パパ…ママ…どこに行ったの…?)」
彼は泣いている。
この男の子も、いつの日か、処刑されるであろう。
『過去に起きた全ては、未来に繰り返されるからである。』
何故なのか…?と人々は神に向かって問い掛ける。

そう、実は僕はこのような第三次世界大戦の様子の夢を何度も観たことがある。
2012年には、その夢が切っ掛けでヴィーガンになった。
その当時の夢は今日の夢以上に残酷なものであり、人々が跪かされ、次々に斬首刑に合うというのを目の当たりにし、僕は震えあがった。
そしてこれは、未来に起る《予知夢》であるのだと感じたんだ。
その後、僕は屠殺場》の映像を観て、其処にある《生命の堪え難い地獄》と《人類の真の地獄》がまさに繋がっている(密接な因果関係にある)のだと、覚った。













剣を取る者たち

夜と霧

2015年、地球が危ない。
そして、俺が危ない。みんな、危ない。2015年というこの年を生き抜くためにはみんなが危ないということに気づくことが大事だという。俺はいち早く危ないということに気づくために年の明けた夜に「夜と霧――ドイツ強制収容所の体験記録」霜山 徳爾 (翻訳)の解説を読んだ。そして解説を読んだだけで危ないということがものすごくわかった。
2015年をいい年にしようという以前に地球が危ない。
とりあえず争いをやめよう。争いをすると地球が危ない。
争いをしている人たちに争いはやめようと言わなければならない。
争いを止めなければならない。止めなければ地球が危ない。
争いをしている人達にまたは争いを始めようとしている人達に争いはやめようと立ち向かわなければならない。
争いをすると地球が危ないから争いはやめようと重い腰も上げて立ち向かわなければならない。
争うことが間違ってると言ってるんだ絶対に俺は。何故なら争うと地球が危ないから。
争いをやめようとだから俺は叫んでるんだ。俺の心の叫びを書いているんだ。
争いたいなら他でやれよと叫びたいんだ。地球外で。
争うことで地球が危なくなるから争うことは間違ってると言ってる。
争うことで地球が危なくならないなら別に争えばいい。やりたいことを、やればいい。
争いを阻止するために、俺たちは今立ち上がらなければならない。
争いたい人たちは争いたい人たちだけで地球外で生活してくださいと。
争いをなくすために土下座してでも全財産をあげてでも借金してでも頼みこまなければならない。
争いをする人たちがそれでもやめてくれなかった場合。
争いをやめさせるために僕らは剣を持たなければならない。
争いをやめさせるために僕らは争わなければならない。
争いをすれば地球が危ない、地球を守るために、僕らを守るために。
争いだけはどうしても絶対に駄目だから僕たちは彼らと今戦わなければならない。
争うことだけは俺は絶対に許さない。
争いをする人に争いをやめさせなければならない。何をしてでも。
争いが行われている以上だれひとり幸福にはならない。すべての者が不幸である。
争いを終わらせるために、争っている人たちを終わらせなければならない。
争っている人たちが聴く耳さえもたないのなら。僕たちの剣で終わらせなければならない。
争いを争いでしか終わらせることができないのなら、ぼくたちは今剣を取らねばならない。
争いがなくなるために争いがなくなることを願って争いを争いでやめさせよう。剣を取ろう。
争っている人たちを監禁しよう。外へ出したら争うのだから。
争っている人たちを懲らしめよう。懲らしめないとわからないだろうから。
争っている人たちの首を切ろう。首を切らないとわからないのだから。
争っている人たちの家族を悲しめよう。それは、しかたないことだから。
争っている人たちを批判し、非難し、絶対的にあなたたちは間違っていると声高々に叫ぼう。
争っている人たちに絶大な憐れみを持ち、あなた方がいなければ地球は平和なのにと嘆こう。
争っている人たちの口を塞ごう。間違った言葉しか出てこないのだから。
争っている人たちを心から憎悪し、嫌悪しよう。彼らは間違っているのだから。
争っている人たちの涙を拭かずに僕らの剣を彼らに振り上げよう。その涙は嘘なのだから。
争っている人たちは間違っているのだから、あなたたちは間違っていると言おう。
争っている人たちが地球を滅びに向かわせるのだから。

「剣を取る者は、剣によって滅びる」とイエスも言ったじゃないか。
絶対に間違ってるんだから。争うことは。

荒れ果てた罪 

悪夢 第三次世界大戦 夜と霧 ホロコースト 強制収容所 斬首刑 絶望 屠殺 地獄 ヴィーガン

まったくもって、恐ろしい夢を見た。

かなり大きくて広い家に住んでいる。
洋館であった。
何人かで一緒に住んでいる、中でも仲の良いと思われる二人は、中学生時の友だち、そして何故か芥川賞作家の円城塔氏であったが、まあ顔が似てるだけで別人かもしれない。
いろいろわけがあってここに暮らしているという風であったが、ある日、それは突如起こる。
私はドアを開けて外に出ようと思ったら、ドアの外に誰かいる気配がする。
気持ち悪い、誰だろう。
私は覗き穴から外を窺う。
すると明らかに怪しい人物がこちらを見ている。
よく銀行強盗をする人たちがこぞって気に入り被る帽子、あれは目出し帽というのだが、あれをかぶっているのであるが、その色が真っ赤な目出し帽であって、気持ちが悪い人物である。
それではあまりに目立ち過ぎるのである。
その男はこのドアを何かで破壊せしめて室内に入り込むのが目的という感じで何かを操作している、銃のようなものか、それとも爆発物を取り付けているのか。
私はどくどくと打つ鼓動の中で一瞬にして思い浮かんだことを実践する。
私は震える声でドアの向こう側にいる男に向かって叫んだ。
「警察を呼びました!」何故敬語なのかと自分で思いながらも何度も叫ぶ。
すると表の男はそれに驚いて応える。
「本当か、本当に呼んだのか、クソっ」とか言いながら慌ててならば仕方ないという風にその場を去る。
しかし男は一度は去ったが必ずまたやってくる、それも極短い時間の間にだ。
その時私たちの命はないだろう、それを確信していた、のは、そう、これはその時がやって来てしまったからであり、いつ来るか、来るか、と怯えていた時が起き始めた、そう私は恐怖に慄き、青褪めた顔で部屋にいるであろう仲間にそれを知らせた。
彼女はそれを知り、震えながらも冷静に、しかし信じられないという顔で即ここを逃げ出す準備に取り掛かった。
私はもう一人の仲間にもそれを知らせた。
彼は妻と子と離れここで暮らしている男だったが、彼は仲間である私たちよりも当然妻と子の身を真っ先に案じ慌てて準備をし出した。
普通、そういう事態なら警察に連絡すれば良いがしかし、それは無駄なことであった。
私が先程確かに警察を呼んだと言えば男は逃げた、しかし彼らは警察の一部と繋がっている組織であり、彼が逃げた後にそれがわかったので、今はもう誰の助けも呼ぶことさえできないのである。
それがどのような事態であるか、あなたはもうおわかりであろう。
ついに現代の日本に、前代未聞の恐ろしい戦争が起きたのである。
それをこの目で実際見たのは、その数分後である。
穏やかな、しかし寂しげでもある農園の中にこの洋館は建っていて、緊迫しながら私は窓の外を見た。
枯れた田畑が広がっていて、その奥にはビニールハウス式の小屋も建っているようなのどかな冬の風景である。
しかしその光景はいつも私たちが見ていたものではなかった。
私の目が見たものは、確かに現実であった。
あなたは夜と霧というナチスによる強制収容所で行われていたことのドキュメンタリィ映画を見たことがあるだろうか。
ちょうどあれがこの現実に起きた実際のことであるのと同じに、その私の目の前の光景もまた現実であった。
その広い風景の中の何箇所かでそれは行われていただろう。
私が見たのはその一つであって、私は最初奇妙な感覚でそれを見ていた。
何故奇妙な感覚だったのか、それは今の日本にこのようなことが本当に起きるとは思えないという気持から、私は奇妙な物事を私は見ているという感覚に落ちながらその一部始終を見ていた。
彼らは、次から次へと並ばされていた、皆は白装束を着せられ並ばされてそして座らされる、膝をついて手は後ろで縛られそして顔は、顔も白い袋を被らされており異様で気味の悪い格好をさせられて順番に座らされている、彼らは皆おとなしい、何が今から始まるのかまったくわかっていないのだろう、彼らはとても従順である。
彼らを並ばせてそして座らせる男たちも数人彼らの後ろに立っていて、それまで私も静かな気持でなんだろうと思って見ている中、一番前に座らされ前屈みになるように男は押さえられている、その左に立っていた男が突然長い柄の鎌を男の頭の部分に振り下ろした。
瞬間に男の首からこれが飛んで頭が落ちて座らされていた男には頭がなかった。
見ていた私の体は震え上がった。はい、次、はい、次、という形で何か黙々と行う流れ作業のような事務的な仕事のよう(システマティック)に、次に並ばされていた男の頭が次には切り落とされるのである。
次、その次の何番目かの人間は私ではないのか、そう思った私は絶望して、部屋中探して見つけた彼女に震える声で「あ、あ、あ、頭、頭がき、切り落とされてた・・・・」と言って、こうしちゃいられない、一刻を争う、私もここを出る準備に取り掛かりだす、しかしそれより先に兄と姉たちに連絡をしてこれを知らせて早く安全な場所へ避難してほしい、そう思うが気が焦りすぎてテンパり過ぎてもう自分で何をやっているのかわからない、部屋をうろうろうろうろして、そしてはっと部屋中見回すと、彼女も彼もいてない、シーンと静まった広い屋敷に私は一人残されていたのであった。
つまり仲間と思っていた彼も彼女も私に一言も告げることはなく我先よとこの屋敷から避難したのである。
ものすごい恐怖であった、一緒に避難できると思っていたのであったから少しは心強かったのが、この絶望と恐怖で恐ろしい世と一変した地に私一人残されたのである。
しかしそうやっていつまでも絶望したまま突っ立っていられない、私は逃げられうる場所を探し出した、まず頭を打ち落としていた場所の方角からは逃げられない、ドアのところからも無理である、私は今にも恐ろしい組織の男たちに窓から侵入されて殺されるのではないか、覗いた窓にはもうそこに男たちが鎌を持って居るのではないかと戦慄しながら赤茶色のカーテンをそっと引いて外を見たら黒い柵の中は長い雑草たちでよく見えない、向こうの方に抜けられる道が覗いている、ここだ!ここからなら見つからず逃げられるかもしれない!そう思い立った私はばたばたばたと階段を駆け上がり、今自分が何故だかズボンを履いておらずレッグウォーマーとパンツ姿であったので、いくらなんでもこの姿で外に行きたくないと二階の洋服ダンスから自分のジーンズを急いでハンガーから外しながら、ボタンをつけていてなかなかすぐに外れてくれない、こんなことなら丁寧にボタンをかけてハンガーに吊るすんじゃなかったと心底後悔した。
そしてその次には私の愛する家族のみちた君である、みちたはもうすでにキャリィバッグに入っていた、そして大切なもの、かばんにいくらかもう詰め込んである、その鞄がやけに重たい、要らないもの、いらないものと焦る手で探す、大切にしていた、CD、本、それらをすべて鞄から出した、こんなもんより命が一番大事や、そう思いながらすべて出して、こんなことしている間に殺されるのではないかと恐れ、みちたの餌も詰めて、ああでも水が、水がないわ・・・・と思いながら、もう出る!はよ出ないかん!と私はもうつんのめりながら足がからまりながら、うわあーと走ってさっきの安全だと踏んでおいた窓から身を乗り出して屋敷を出た。

そして、世界は広かった、外の世界は、眩しかった、この方角の後ろでは人が無残に物のように殺されていってるのに、こっちの方角はなんて平和なように見えるのか、まだこっちの人たちは知らないのだろうか、とにかく私は私の目に映った良いと見える方へ走った。
街路樹が光ったように見える公園のような場所がある道に向かって私は走ったのである。
何も知らない場所、行き交う何も知らない人たち、美しく見えた、私には、普段はそんな風に見えることはなかったはずである。
何も知らずにのほほんと暮らす人々と場所は穢れて見えたのではありませんか、しかし絶望な場所から脱出できた私にはそれはそれは美しい景色に見えた。
助かる、助かる、殺されずにすむのだ、私は、私は、私は、殺されたくない。
神よ。
神よ。
神よ!

殺されて行く人たちと私は何が違うのか。
彼らは、殺され続けている。







追記:わたしはまさしく、この夢を切っ掛けに、屠殺場の映像を観て、
其処に存在する《地獄》と人類の《地獄》が
完全に繋がっているのだということを覚り、
後にヴィーガン(vegan)となる。















全ての夜明けよ

夜と霧 ホロコースト 強制収容所 ガス室 救い ヴィクトール・フランクル

昨日ナチスによるホロコーストのドキュメンタリー映画「夜と霧」を見て

そこから、どうにか救いはないのかと探しましたが

何も見つけ出せそうにありませんでした

ただ、怖く、恐ろし過ぎて、

何をしていても殺された人たちのことが浮かび、つらかった

ベッドに横になれば、あの狭いベッドに寝ているような感覚になり

しかし、ここは温かく、とてつもない疲労などない、恐怖はない

鏡に自分が映ると、自分も死んでいる体なのではないかという感覚になった

恐ろしかった、あの映画を観ている間にも、何故これを私は観なくては

いけないのか、と、もう、観たくない、観たくない、と、

ただその場から動けない自分がいるだけだった

殺された人たち全員がまるで、自分の家族のような感覚を覚えた

だから、もう観るのが本当につらく、やり場のない思いに

ひたすら逃げたくなった




少し落ち着くと、彼らには一瞬でも、強制収容所に入れられてから

幸せを感じる瞬間はあったのだろうか、と思った


愛する家族と離され、労働能力のあるものはひどい強制労働をさせられ

労働能力のないと見なされた老人、妊婦、子供、女性たちは

すぐにガス室で殺されたのです


他の人のブログの中で、ガス室に向かう人たちの顔が、それほど恐怖に

満ちていない、それは何故かは、彼等は、これからシャワーに行くと

騙されて、それを信じて待っていた顔だからだ、と言うのを読み


もう苦しくてたまらない、何も考えることもできなくなる

ずっとずっと苦しかった、時には涙も流したが、救いがどこにも見当たらなかった



しかし、そこから生き残った心理学者ヴィクトール・フランクル

収容所での生活が書かれた「夜と霧」の中身をネットで少し読んで、知り

私は心から感涙して、救われた

彼はそんなあまりに苦しい毎日の中で、自分が導き出した答えによって

救われ、また、それを話したことで同じ仲間の心を救ったのです

愛する妻と心の中で対話をし、どんな苦しみをも光に変えたのです



私が特に救われた、美しくて愛おしくてたまらない場面があります、下引用文

“ある時など、過酷な労働で疲れ果てバラックの土間に死んだように横たわっていた時、

一人の仲間が飛び込んで来て、極度の疲労と寒さにもかかわらずに、

ちょうど、彼の目に映った美しい日没の景色を見逃させまいと

急いで出て来るように催促してきたこともあった。

外に出てみると、そこにはバイエルンの美しい夕暮れの光景が広がっていた。

燃えるような雲が青銅色から真紅の色に変化していく様は、

まさにこの世のものとも思えぬ幻想的な芸術であった。

感動の数分後、誰言うともなく「世界ってどうしてこんなに綺麗なんだろう」と

タメ息まじりの声でつぶやくのである。

自分たちの背後には、荒涼として灰色で泥だらけで

殺風景きわまる収容所があるだけなのに。”




嗚呼、なんて生物だろう!人は

本当にそうなのだな、人は苦しみを知るほど世界は美しく観えるのだな

それは、本当に普通の暮らしでは絶対にわからない美しさであるだろう、と思いました




そして、もう一つの感極まり涙が溢れた文が、停電の夜に起きたことです

少し長いのでホームページのほうで、ぜひ全部読んで頂きたい

これを機にまだ「夜と霧」を読んでいない方には読んで頂きたい

私も必ず読みます



それと心温かい監視兵がいたということが、どれほど彼らにとって

救いであったのでしょう




しかし、実際そのような救いを知ることなく死んでいった人たちに対して

私たちは、何ができるでしょうか

それは私は、いつもこう思うのです

死は終わりである、という人がたくさんいます

私はそれを絶対に信じたくない

死が終わりなら、無念を残し無残に死んでいった人たちの夜明けは

一体いつ来るのですか?

永遠に安らかに眠っているだろうから、それが救いである、とは

思えないです

彼らには生きていたならあとどれほど喜びを感じられたのでしょうか

安らかに眠ることは、喜びではない、また、苦しみでもない

彼らが、また生となり、彼らの生活する時間が再び来ることを

私は心から願い、信じます

それはすべての再生であり、私自身の再生でもある