✢未来のホロコースト(第三次世界大戦)の情景(今日の私の夢)✢Scenes from the future Holocaust (World War III) (my dream of the day) ✢

処刑 第三次世界大戦 夜と霧 ホロコースト 強制収容所 予知夢 絶望 屠殺 地獄 ヴィーガン

✢今日の僕の夢✢



スクリーンショット (880)

(右上の図)恐らく、人々の恐れていた《第三次世界大戦》が起き、人々はNazis(ナチス)同様、強制収容所に投獄され、迅速に大量に処刑される未来が遣ってきた。
ホロコースト(Holocaust)は効率良く行う必要があり、その為には必ず人々を"騙さねばならない"
「あなたがたのすべてを今から処刑する」などと言うものなら大暴動が起きるだろう。
この処刑法はまだ実験段階なのか、処刑されるのは一度で、《5人》の男だ。
それは牢屋のなかで行われる。
5人の男性が檻の中に入っているが、ここで自分が今から処刑されるとわかっているのは(右上の図)向かって右から4番目の男性Aだけだ。
他の4人は、Aだけを処刑すると告げられている。
だから他の4人はAを慰め、大人しくさせる為にただ利用されていると信じている。
しかし今から行われるのはこの5人全員の処刑である。
Aはとても慈悲深く耐え忍ぶ力のある人で、これから処刑されるのに他の者たちの事を心配している。
Aはおもむろに右隣の男性B(図の向かって右から5番目)に向かって言う。
「日本の関東にも大震災が起きましたね…本当に心配です。」
そう、Bは日本人で、異国のこの収容所にいるのだ。
我が母国よりも、Bの国を心配するAに対して、Bは涙を堪えながら応える。
「うゥ…わたしはなんと言ったら良いか…」
それが精一杯である。
Aは慈悲の表情を浮かべ、Bに「きっと大丈夫」という意味で微笑む。
突然、Bは感極まり、Aをぎゅっと抱き締める。
先に言っておくべきだったが、Aは50代前半で、Bは60代半ば程である。
Bは少し小肥りの体型で髭を生やし、博士のような雰囲気だ。
Aは誠実で清潔な面持ちをしている。
二人ともきっと子どもがいて、さぞかし心配だろう。
すると何を想ったのか、BとAが泣きながら抱き締めあっているその身体を離した瞬間、BはAに想い切り口付け(キス)をし、それだけでは飽き足らず、BはAの汗でぐっしょりと濡れたシャツの上から、半分透けているかのような乳首を下から号泣しながらいやらしく舐め上げる。
Aはつい、感じてしまったのか、「あっ…」という、喘ぎ声が出てしまう。
その様子を、他の3人の男たちは少し後ろから見つめながら、黙っている。
二人とも恥ずかし気で、それ以上の展開は起こらず、彼ら二人のお別れの儀式が終ったようで、元の位置に戻ろうとする時、図の向かって右から2番目の男性Cが、ぼそっと言う。
「なかなか大胆なことをするんだな。」
少し顔がにやけている。
向かって右端の男性Dは頷き、納得している様子だ。
その時、ずっと我慢していたものがはち切れたのであろうか、向かって右から3番目の男性Eが真ん中の少し後ろへ下がり、突如、『サタデー・ナイト・フィーバー』風に、派手な踊りを一人でし始める。
かなり楽し気だ。
完全に馬鹿にされているのだということをAとBは感じていたが、二人とも人格者であった為、彼(E)に対し、最早、何も求めなかった。
私は今から一人の男を処刑する事に精神が堪えられなくて崩壊し、ああなったのだろうかと考えながらそのEのダンスを残りの4人と同じように静かに眺めている。
そしてこの後、この《5人》の男性たちの処刑が完全に行われるのである。
通路を挟んで、向かって左側にも牢屋が続いている。
そこにはこの先、処刑される人たちがたくさん閉じ込められている。
幼い子どももいる。
「Dad... mom... where did you go...?(パパ…ママ…どこに行ったの…?)」
彼は泣いている。
この男の子も、いつの日か、処刑されるであろう。
『過去に起きた全ては、未来に繰り返されるからである。』
何故なのか…?と人々は神に向かって問い掛ける。

そう、実は僕はこのような第三次世界大戦の様子の夢を何度も観たことがある。
2012年には、その夢が切っ掛けでヴィーガンになった。
その当時の夢は今日の夢以上に残酷なものであり、人々が跪かされ、次々に斬首刑に合うというのを目の当たりにし、僕は震えあがった。
そしてこれは、未来に起る《予知夢》であるのだと感じたんだ。
その後、僕は屠殺場》の映像を観て、其処にある《生命の堪え難い地獄》と《人類の真の地獄》がまさに繋がっている(密接な因果関係にある)のだと、覚った。













夜明け前の声

第三次世界大戦 絶望

今日で父が死んでから15年が過ぎた。

毎年、この命日に父に対する想いを綴ってきた。

人間が、最愛の人を喪った悲しみが時間と共に癒えてゆくというのはどうやら嘘であるようだ。

時間が過ぎて、父を喪った日から遠ざかってゆくほど喪失感は深まり、この世界はどんどん悲しい世界として沈んでゆく。

それはわたしがだんだん孤立して孤独になって来ているからかもしれない。

父の死と向き合う余裕さえないほど、日々は悲しく苦しい。

ここ最近毎晩、赤ワインを必ずグラスに6杯以上寝床に倒れ込むまで飲んで寝る。

胃腸の具合も最悪で歯もぼろぼろになって来ている。

こんな状態を続けていたら母の享年44歳までも生きられそうもない。

亡き最愛の父に対して、特に今は言いたいことは何もない。

もし父に再会できないのなら、わたしはまったく生きている意味も価値もない。

もしできることなら、タイムスリップしてこの気持ちを父に伝えて父を悲しませられるならどんなに喜ばしいだろうと想う。

父はわたしの為にもっと悲しむべきだった。

わたしがどれほどお父さんの為に悲しんできたか、それをお父さんは知るべきだ。

今も必ずどこかで生きているはずなのだから。

父は突然容態が急変した死ぬ一週間前に麻酔を打たれて眠らされた。

麻酔が打たれ、集中治療室のドアが開かれて、そこで眠っていた父の姿は、生きている人だとはとても想えなかった。

無理矢理人工呼吸器を喉の奥につける為、歯が何本と折れ、口の周りには血がついていた。

あとで折れた何本かの歯は肺に入ったと半笑いで若い女医から聞かされた。

喉には穴が開けられそこに人工呼吸器が取り付けられ、眼は半開きで髪はぼさぼさの状態でベッドの上に父は寝ていた。

無機質な白い空間のなかで冷たい器具に囲まれ、父は何度もそれから死ぬまでの一週間、肺から痰を吸引する時に鼻から管を通す際、必ず麻酔から少し醒めては苦しそうに呼吸した。

それでも一度も意思疎通はできずにそのまま父はあっけなく死んだ。

その間の父の肉体的苦痛と死を想っては、わたしは精神的な地獄のなかにいた。

もしかしたらあの一週間の間、拷問的な苦痛が父を襲っていたのかもしれない。

でもわたしたちは側にいても何もしてやれなかった。

姉と交代で集中治療室の父の側で眠る日々の絶望的な地獄の時間を想いだす。

父が側で拷問を受けているかもしれないのに、わたしはそれをやめろとも言えなかった。

ただ側で眺めて、苦しんで涙を流すしかできなかった。

一週間後に死ぬことがわかっていたなら、あんな苦しい目に合わせずに済んだと。

後悔してもしきれない。

何のために父があれほど苦しまねばならなかったのか。

何のために母は全身を癌に冒され死んでゆかねばならなかったのか。

今ではそんな疑問も持つことはない。

わたしたち人間のほとんどは、それを与えられるに値する罪びとだとわかってからは。

言い訳をすることすらできない。

いったい神に対してどんな言い訳ができるだろう?

何年か前に見た映像の屠殺された後の牛の血だらけの頭が、父に見えてしまったことは本当なんだ。

何故わたしたち人間は、それを回避できるだろう?

何故わたしたち人間は、安らかな死を許されるだろう?

何故わたしたち家族は、この死ぬ迄消えない苦しみについて、神に対して苦情を申し立てることができるだろう?

わたしたちのほとんどはまるで幼子の様に善悪を分別することすらできていない。

人類に耐え難い苦しみが終らないのは、人類が動物たちに耐え難い苦しみを与え続けているからなんだ。

堪えられる苦痛ならば、自ら命を絶つ必要もない。

堪えられないから自ら命を絶った人たちのすべてがわたしたちの犠牲者なんだ。

何故わたしたちがのうのうと楽に生きて死んでゆくことが許されるだろう?

神が存在するのならば、わたしたちのすべてはすべての存在の為に犠牲となって死ぬ世界であるはずだ。

安楽の人生と安楽の死を求めることをやめてほしい。

きっと求めるほど、罪は重くなり地獄に突き落とされるからだ。

楽園を求める者、弥勒の世を求める者は今すぐ耐え難い者たちを救う為に立ち上がって欲しい。

最早、父の死を悲しんでもいられないほど、深刻な時代だ。

ナチスのホロコーストが、20年以内に日本でも起きるかもしれない。

数10年以内に、肉食という大罪により、人類は第三次世界大戦と世界的な飢餓と水不足と大量殺戮と人肉食と大量絶滅を経験するかもしれない。

人類はいつまでも幼子でいるわけには行かない。

夜明け前はもっとも暗い。

わたしたちはすべて、受難への道を進んでいる。

それがどれほど苦しいことなのか、想像することもできない。

世界の家畜頭数はFAOの2014年データによると、

    世界の人口は73億人
    牛は14.7億頭
    豚は9.9億頭
    羊は12.0億頭
    山羊は10.1億頭
    水牛、馬、ロバ、ラバ、ラクダなど大きな家畜を含めると合計して50.0億頭
    鶏は214.1億羽

世界の人口の4分の1は15歳未満の子供であるので、世界全体で、だいたい大人1人当たり、約1頭家畜を飼っていることとなる。

また鶏は採卵鶏あるいはブロイラー等として214.1億羽飼養されているので、人口1人当たりでは、2.9羽飼っていることとなる。

鶏以外のすべての四肢動物は人間の3歳児ほどの知能があり、同じほどの痛覚を持っているとされている。

3歳児の痛覚と、成人の痛覚はどれほど違うものなのだろうか?

 

すべての人類の罪を、すべての人類によって分けて償ってゆく必要がある。

楽園は存在しない。

でも救いは必ず存在する。

殺されゆくすべての動物たちはわたしの父であり、母である。

夜明け前、わたしは一本の蝋燭に火をつけ、寝椅子に座り目を瞑った。

そして禁じられた夢の最中にわたしの名を呼ぶ大きく響く声で目が醒めた。

『こず恵』

その声はお父さんとお母さんの声の合わさった声だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

坂口安吾「白痴」観照

絶望 人間の普遍 自分自身の卑小さ 現実の悪 苦悩するもの

坂口安吾の「白痴」の感想といいますか、自分なりの解釈を述べようと想います。
自分は本の感想文と言うのが大変苦手でして、滅多に本の感想を言わないのですが、この「白痴」はいくつも色んな解釈がしていけてとても面白い人間の心理が隠れていて色々と考えさせてもらえる面白いお話です。

なんで読もうと想ったかというと

これが観たくて読んだのですが、町田康は我が師匠ですので、これは読まんと観れんと想いまして
これだけ観ても「白痴」の内容はわかりますが、是非さっき載せたサイトのネット文庫(無料で読めます)で先にお読みになって頂きたいです。

で、この「白痴」は何年か前に漫画のほうで読破してしまいまして、漫画では特に何も残らないものでした。
文学は先に漫画で読むべきではないのではないかと少々、危惧するところがあります。
坂口安吾はそれでか、あまり自分は好きではないかもしれないという「読まず偏見」でおりました。

昨晩やっと読みまして、読んだ後に湧いてきた解釈がひとつ、あったのでまずはそれを載せたいと想います。

昭和20年頃、舞台は終戦間際の空襲で日本が破壊される日を今か今かと恐れる極限的な東京、伊沢(いざわ)という生活を嫌い芸術を愛する映画の見習い演出家の男が、隣家に住む白痴の人妻オサヨに気に入られて、そこから周りの目に隠れながらの関係が始まるわけですが伊沢は終始、自分の頭の中で自分自身に苦悶し続け、またオサヨに対する目も尋常では在りません。

昨晩は、この伊沢という男の心理は別段おかしな心理ではなく、人間誰しもが持っているであろう普遍的な心理であると思えました。
極限状況だからこうなる、というわけではなくて、伊沢はオサヨを心の底から差別していて、その自分の醜さが気に入らなかった。
芸術の高潔な美しさをひたすら追い求めている男ですから、自分の卑小で俗悪で醜悪なこの心理に苦しんでいる。
人というのは人を差別していることが苦しいことですから、その苦しみを克服したくてあえて差別している人間を自分の中で美化させて義なる存在に仕立て上げてしまうのです。
そうしてどうにか受け容れようと奮闘するわけです。

それは差別しつづけることで自分の醜さと向き合い続けるより受け容れられることのほうがずっと楽だからです。
でもそこには本心から美しいと想っている心が在り続けるわけじゃありませんので、一種の逃避術で誤魔化しですから、その幻影というものが剥がれ落ちると、幻影を観る前よりも一層相手が醜く見えて、その醜さが自分の醜さであることがわかっていますから、前以上に自分に対して絶望してしまう。
「棄てることも面倒だ」っていうのは、もうこれ以上、俺はしんどい想いをするのが面倒だって言ってるわけですね。ここで相手を棄てたら相手を棄てる自分の醜さに今以上に向き合い続けて生きなくてはなりませんから。


っていう、まあ人間の普遍という誰でもあるような心理かなと想いました。
でも約5時間ほど寝て、何かまた母親で父親でもあるような存在に向かって怒り叫んでいるというよく観る悪夢を観て目が醒めまして、あの怒りってものすごいエネルギーで、富士山も噴火するんじゃないかというくらいの根源的な怒りで、底のないような悲しみからの怒りの変換であり、新生児の怒りそのものだよな、なんてことを考えていますと、また布団の中でこの「白痴」の解釈に繋がっていきまして、また違う解釈が生まれたんです。

それはどういうものかと言いますとね、
ええと、なんやったかな。まずね、伊沢という男、こいつがね?彼奴(きゃつ)がね、実のところ、オサヨという白痴の美女を、もう、もんのすごい「手篭めにしてやりてぇぜ」、みたいな、いやらしい肉欲の塊の男でして、まあそれも普遍的な男の本能なわけですけれども、とにかく伊沢はオサヨに対して、その姿を見るたんびに欲情していたと。実は。
しかし低俗な動物的な人間というのをこれ忌み嫌う伊沢でありますから、その理智的な表情の奥に自分の醜い怪物は封印せねばならなかった。
それは伊沢自身さえも、気づかないほどの激しい秘匿(ひとく)であったため、自分自身も気づくことができていなかったと。

それなのに、オサヨという女はそんな伊沢を気に入ってまるで新しくて優しい飼い主になつく仔犬のような純粋さ、素直さで伊沢の家で寝泊りを始めだす。
オサヨは自分に愛されたがっているんだということがわかった伊沢は、無償の愛で愛して遣れる男だよ、俺はね。とオサヨを安心させようとする。
しかし伊沢はそんなことを言って優しくしている自分の汚さに感づいて厭になります。
何故なら、目のまえには美しくて幼女以上に透きとおった手篭めにしたい女オサヨが肉々しくもいるからです。
伊沢は自分は自分の差別して見下している世間の人間たちとなんら区別のつかない浅ましい人間であるのにそれをオサヨに隠している自分に対して辟易とします。

しかし伊沢は生きる気力のある男なのです。
太宰治なら、もうここで心中してしまったかも分かりませんが、伊沢はそれでも女と生きることを”何故か”選ぶわけなんだす。
極限状況に置かれるほうが生きたくなるのはもっともだと想いますが、日本の明日はもうない、という絶望的な時代なので、何が必要かというとそこにはやはり”希望”が必要になってくるわけです。
伊沢が何に絶望しているのか、というのは一つではありません。ほとんどに絶望しているわけですが、そこでも最も絶望しているのは、自分自身の卑小さに対してなんだと想ったんですね。

オサヨが本当に美しいのは、その”心”の美しさで、伊沢はそこを見抜いていました。
そして心の美しいオサヨをまえにすると、自分の醜さ、つまらなさ、下らなさというものが厭というほど見えてきてしまうことに気づいてしまったわけです。
オサヨと自分は対極的な存在で、いつでもオサヨは美しくて自分は醜いのだと。
彼女が醜ければ、自分は欲情する醜さに苦しむこともなかった。自分の小ささをこれほどまでに見せられることなどなかった。

その伊沢の深層心理というものが、ここで倒錯的な形を帯びてきます。
伊沢は自分の醜さ、そのものをオサヨに投影し始めだしたのです。
それはいともたやすく成功し、彼女は醜い肉塊と成り果てました。
伊沢は彼女の”無意識”さを醜いと感じます。
最も美しいと感じていたはずの部分への愛を180度切り替えました。

そうすることで楽になりたい自分がいたことは確かでしょう。
でも同時にその投影は伊沢自身をまた新しい方法で苦しめる自虐的な方法でもあったわけです。
人(他者)を醜いと感じるその”心”こそ、醜いことを伊沢はわかっていたからです。
伊沢はどっちに、どこへ転ぼうとも絶望的な境地に陥らねば気がすまないほど、自分のこの”生活さ”を憎悪しておりました。
芸術の美しさの対極に在る現実の悪というもの、それといつでも闘っていたのです。
醜い自分の投影と成り果てたオサヨの胸に触れ、伊沢は本心では欲情するわけですが、心では自分はオサヨを醜いと感じているのだから、この欲情の醜さは虚構であり、真実は苦悩するものとしての芸術の美しさへと転じることができると想ったわけです。

つまり伊沢の芸術の美の定義は、”苦しみ”であったり”悲しみ”であったり、それが行き着くところ、それこそが美しいものとして自分を認める(赦す)ことができるのではないかと想いました。
ですから伊沢はあれでもないしこれでもない、とあらゆる”苦悩”へ挑戦しようと自分の心理の粘土を、こうコネコネ、コネコネと捏ね続けているような人間だったのではないか。
完成の形はどこなんだ、と。

まあそれを捏ね続けているのは伊沢であり、作者の坂口安吾なわけですけれども、とにかく苦しいものですから、苦しいほど人は捏ね続けられるというもんです。
で、伊沢はそうしてコネコネとして、自分の最も愛するというか美しいと想えるオサヨを最も気持ちの悪い醜女と化けさせることに成功いたしました。
「醜い」と心で罵りながらも欲情して女を抱く、サディズムな自分に対して伊沢は悦びを覚えていたのではないだろうか。
しかしそこに世俗的な悦びはあればあるほど伊沢は苦しむ人間でありますからマゾヒズムでもあります。
伊沢はこの苦しみも美ではないと感じて次なる転換を夢見ます。

そして訪れた東京大空襲。命からがらオサヨと大火の町なかを逃げ走り、オサヨが初めて”意志”からの決断を下したことに絶頂の快楽を覚え伊沢は逆上します。のぼせ上がるという意味ですね。
二人は逃げ通せることができたわけですが、ラスト、伊沢はこれまでにないほどの気色悪さを自分とオサヨに対して感じて虚無なる絶望のなかに堕ちます。
どこまで捏ね続けても美しさからかけ離れてゆく自分と、そんな自分の心境を知らんで豚みたいな寝息をたてて眠りこけているオサヨ。
豚ではないか、と。こいつが豚に見えるということは、すなわち俺も豚ではないか。
尻肉削がれていることに気づきもしないほどのぼせ上がっていた俺が豚だったのだ。
そうだ最も大きな快楽、その喜びを知るには、俺の最も心地の良い柔い肉から削がれ堕ちていかねばなるまい。





坂口安吾「白痴」観照 完




「この世界ってどんづまりだな」

絶望

「sheep sleep sharp」藤田貴大 インタビュー

藤田 貴大(ふじた たかひろ、1985年(昭和60年)4月27日 - )は、日本の劇作家・演出家。「マームとジプシー」主宰。

こういう若者が居ると、若者って俺の4つ下だが、こういう若者が居ると俺は、嬉しい。とても共感できる良いインタビューだったので好きな箇所を載せる。”言葉”っていうものは、言葉を信用しないほど、面白くなる。そこをわかってしまうと、もう言葉の魔力にとり憑かれてしまう。

以下転載。

最初から変わらず暗い世界で、言葉のなさを想像する

――2014年の『小指の思い出』を皮切りに、2015年には寺山修司原作の『書を捨てよ町へ出よう』を上演して、昨年末には『ロミオとジュリエット』があったわけですよね。三作とも青柳いづみさんは出演していて、そこで彼女は絞首台に立ち、パチンという音とともに自爆し、ティボルトを殺して自らも毒を飲み命を断つというキャラクターを演じています。藤田さんはオリジナル作品でも死というモチーフを扱うことは多いですけど、死っていうことについて他人の言葉を通じて考えて続けてきたということも、今回の新作に繋がっているんじゃないかと思うんです。

藤田 本当に、何でそんなことをずっと描いているのかわからないんですけどね。これは具体的に語るつもりはないんだけど、地元で起きた出来事というのがあって、そのことについてこないだ初めてネットで検索したんです。そのことに目を背けていたところはあって、自分の記憶の中の話としてしか考えないようにしてたんだけど、今度の新作について考えている最中に初めて検索してみたんです。僕の地元で起こったよくない事件がいくつかあって、検索して出てきたこともあったし、出てこなかったこともあって。ニュースっていうのは事実だけを並べ立てるわけですけど、やっぱり結構きつかったんです。僕は自分の記憶の中で「あの人はああいう人だったよな」ってことを追い続けてたんだけど、ニュースはめっちゃ俯瞰して事実だけが並べられていて、短い記事なのに何時間も読んでたんです。そこで改めて思ったのは、僕はやっぱり、死ぬ前に見た暗さみたいなことをやりたいんだなってことで。暗さっていうのはブラックアウトするとかってことではなくて、この世界って本当に暗かったなってことなんです。僕の知り合いの中にも、「この世界ってどんづまりだな」ってことを思った人が何人もいる。その瞬間みたいなことを、どの作品をやっていても考えるんですよね。

 その記事を読んだときにもう一つ思ったのは、2017年現在の社会のことで。去年あたりから明るみに出ていることはあって、これからどうなっていくんだろうって不安も年々急速に増してるとは思うんです。でも、そんなことが起こらなくたって最初から暗かったよなと思うんですよね。本当につらいなとか、本当に暗いなってことを感じてた人が身の回りにいる。その人たちが思っていたことがわかりやすい形で明るみに出るときってあるじゃないですか。震災もそうだし、政治のこともそうだと思うんだけど、それをきっかけに明るみに出ただけで、最初から最後まで世界なんて変わりはなくて、どの時代に生まれるかって偶然性があるだけだと思うんです。僕らの親の世代はあからさまに戦争を経験しないかもしれないけど、僕らの世代は経験するかもしれないとか、そういうレベルの違いがあるだけだと思うんです。どこでそれが明るみに出るかって問題があるだけで、最初から変わりない世界を生きているだけなんじゃないか。そんな世界をただ生きているっていうことを、戦争だとかそういうわかりやすいモチーフを入れずにやれたらなってことを思ってます。


――今の話を掘り下げて考えるためにも、もう少し『ロミオとジュリエット』について聞いておきたいと思います。あの作品で印象的だったのは、藤田さんが書き加えた「このことに言葉なんてない」という台詞なんですね。あの一行にすべて集約されているんじゃないかとさえ思ったし、作品全体にも言葉に対する絶望みたいなものを感じたんです。

藤田 やっぱり、「言葉とかじゃないよね」って思うことが年末にあったなと思っていて。言葉を扱ってきたけど、言葉でどうにかできないことって多いなと思ったんですよね。いろんな媒体があって、あいかわらず言葉を発しやすいじゃないですか。そこで皆いろんなことを言葉で形容しようとするけど、言葉がどうとかじゃないなと思ったし、言葉にしてしまった途端にチープになってこぼれてしまう感情がいっぱいあるなと思ったんです。言葉をやってしまっては駄目だっていう気持ちがない人の言葉は聞きたくないなと思ったし、言葉なんてないんだってことが前提にある言葉じゃないと自分は嫌だなと思ったんですよね。



透明な世界

絶望 酒鬼薔薇 透明な世界 離人症 絶歌

酒鬼薔薇が「透明な存在であり続けるボク」と言ったあの言葉の意味のはじまりは社会全体のことというより、たった一人、母親に自分の苦しみをわかってもらえなかったことだったんじゃないか。
彼は母親にだけ自分の苦しみをわかってもらいたかったんじゃないか。
母親にわかってもらえないという絶望が祖母を失う前からもあって、祖母の死によって〈仮の〉愛情さえも失ったことから、その愛憎と性的な強力なエネルギーが結びついて命を破壊することで自分を破壊していくことで、母親に愛されない自分と自分を映すすべてのものに報復したかったのではないか。
自分を愛してくれない母親への愛憎が、愛されないのは自分がだめだからだという自分自身への愛憎となり、そしてその愛憎が自分が映した鏡であるすべてに向かわれたのではないか。
母親に愛されない自分は価値がない、そう思う彼の心は自分自身で自分は透明であると感じることによって、自分以外のすべてが透明に見えて、自分以外の価値さえ自分と同じように価値を感じられなくなっていったのではないか。
「透明な存在であり続けるボク」という感覚は同時に「透明な世界に透明な存在であるボクがい続ける」という感覚だったのだと感じる。
自分は透明なのに自分以外は透明ではないという感覚はあり得ないからだ。
だから「透明な存在であり続けるボク」は「透明な存在であり続ける世界」と書き換えてもまったく同じ意味を伴っているだろう。
彼は当時と鑑定時に離人症状があったと言われている。これは私が11年前に父を喪ってからずっとある症状で、現実感の欠如、まるで夢の中にいるようにふわふわと浮いているような感覚、もう一人の自分が自分を見ているという感覚、生きているという心地がないという感覚、自分が今ここにいないという感覚などがあって、これが著しい精神的ストレスなどにより酷くなると、おかしな行動に出ることもある。
私の場合は25歳のときに恋人との喧嘩で深夜2時ごろに家を裸足で飛び出し、道路の脇にずっと蹲っていたことがある。いつも以上に現実離れした感覚があり、もうすぐ待っていたら死んだおとうさんが迎えに来てくれると信じてずっと一人で人も通る場所で蹲っていた。普通の感覚だとこんな場所で蹲っていたら恥ずかしい、人を驚かせてしまうと思いやめるのだがそういった現実的な感覚をすべてなくしてしまう状態で、彼も犯行時は同じような〈人間を自分が離れる〉というような感覚に襲われていたのだと感じる。
そしてこの離人症の感覚を知る人なら「透明な存在であり続けるボク」という表現がどれだけこの感覚の的を射た表現であるかわかるのではないだろうか。
まさにそのような感覚だからだ。そして透明なのは自分だけではなく、自分以外のすべてとこの世界に感じる「透明な世界」でしか生きていけなくなった透明な人間の悲しく切実な叫びだったのである。
しかし私が意識的に離人症の感覚に生きていると感じたのは父を喪った22歳のときからだと思っていたが、「透明な存在であり続けるボク」に深く共感したのは15歳のときなので、私はその頃から既に今と比べると浅いものの離人症的な感覚にいたということになる。
絶歌」では彼は自分がどれほどクラスの中で目立たない存在だったかを書いていたが、わたしが思うには彼は誰よりその異質さで目立っていた生徒だったのではないかと思っている。彼が自分は誰にもわかってもらえないと感じるのは、彼が一番にわかってもらいたい母親にわかってもらえないことによる自己喪失感を常に持って生きていたからだろうと感じる。そしてその自己喪失の自分の目に映った者たち全員にも自分に自分が見えないように見えてないんだと感じていたのだろう。自分自身が自分を見えないのに、他者は自分を見えていると感じることはないからだ。
自分を自分の目が追っているという夢を見たことがある人にはわかりやすいだろう。自分が道を歩いている、その自分の姿を少し離れたところから自分の目が見て観察している。この感覚が離人症によく似ている。幽体離脱しているわけではないので自分の意識だけが自分から離れたところにいつもあって、常に他人を観察しているような感じで自分を見ているという感覚だ。
そしてこの離れたところにある意識が同じように他者をも見ているわけだ。見るのはいつでも自分から離れた意識になる。そんな意識が自分も他者も同じように他人のような感覚で見つめている。だから自分が怒っていたら、他人が怒っているのを見るように、ああまた怒っているな。とまるで他人事のように見たりするわけだ。確かに怒っているのは自分であるのには違わないが、自分の意識が離れたところにあるため、言わば自分の感情をいつも冷めた目で自分の意識が見ているということになる。だからこのような人間はどんなに感情的な人間であっても常に冷め切っている。情熱的な感情さえもいつも冷めた目に見られているために、心の底から喜ぶということができない。どんなにいい笑顔を向けてありがとうと人に感謝を述べても離れたところでもう一人の自分が冷めた目で無言で見ている。これは天使と悪魔みたいな両方が自分というものではなく、表れる感情というものを自分が一切認めないというどこまでも冷静な本当の自分の意識を常に自分が感じているという感覚だ。
熟睡して夢も見ていないとき以外この感覚から逃れられないというのは結構たまらなく苦しいものだったりする。
私は今でも彼がこのような感覚に在るような気がする。
もしそのような症状が当時より少し抜けているのだとしたら、彼は夢の中で行った殺人を、朝目覚めて、現実の世界で自分の夢の中で犯した殺人の罪を償い続けている感覚に近いだろうと思っている。
しかし抜けていなければ、彼は夢の中で行った殺人の罪を夢の中で今でも償い続けているのだろう。
そして私も、夢の中を抜け出ることができない。
春には桜が咲き、夏には蝉が鳴き、秋には銀杏の葉を踏み、冬には一年の終わりがやってくる、私はそのことになんの感情も持たない、時間が流れているという感覚がないからだ。
自分の中は時間が止まっているので、季節の移り変わりがただ意味もなく季節の本のページをペラペラめくっている感覚にしかならない。
夢の中では時間の感覚を持てないのと同じだ。
春の桜の色、夏の鮮やかな緑、秋の紅葉の橙、冬の真っ白な雪、それを見てもすべてが透明にしか見えない人間がいる。
自分が透明になってしまった人間はどんな色を見ることも叶わない。
色を映すことのできる自分の目を喪ってしまったからだ。
彼の「絶歌」の風景描写から、そういえば私はなんの色も感じなかった。なんの色彩も思い出すことが出来ない。
でも彼が見た風景は何より美しいと感じた。
それは、光そのものだと思った。
それはそこにある悲しみが、すべての色を喪うほどの悲しみだと感じたからだった。
彼は私よりずっと悲しんでいるとそう感じる証だった。
彼の描く風景描写はそのすべてを物語っていた。
まだ彼は「透明な世界」にいる。そう深く確信できた。
それが私の「絶歌」に対する一番の賛美だ。

「絶望を肯定する男」

絶望

多くの方は絶望的なもの、苦しみや悲しみ、不快なものをできれば避けたい、できればそうではないものを求め、それがないところが幸福だと思われてるかも知れません。

それは人間の本能的な欲求であるので、私にも備わっています。

しかしこの世界からそれらを一切消滅せしめることができて、幸福ばかりがある状態を想像してみてください。

愛されたい人に愛され、やりたい仕事ができて、何もかも思い通りにできるわけです。

願った瞬間にすべては叶えられるので、もう夢を見ることさえありません。


つまり人間は、願うことが叶えられること、これが人間の幸福ということになります。

叶えられたくないことを願う人はいません。

今、願いが叶えられていないと感じるから人は不幸を感じるということです。

しかしどんな絶望的に生きて苦しみや悲しみを感じている人でも、自分は不幸ではないと感じる人がいます。

その人を観た人は誰もが言います。あの人はなんて不幸なのだろうか、と。

しかし本人はちっとも自分が不幸だとは思っていないのです。

絶望や悲嘆や苦痛、人々が嫌うものすべてを持って生きているのに、彼は自分が不幸だとは思わないと言います。

何故かと訊くと、彼はこう応えます。

「何故って?そりゃあ、こういうことだよ。僕は僕の苦しみのすべてを僕自身が願い、望んで、そして叶えられた宝物だと感じているからさ」

彼はそう言いながらも、今にも泣きそうな悲しい顔をして言うのです。

私は彼に言います。

「それってぇ、おかしくはないかい?願いを叶えられたのなら、もっといい顔をしたらどうだい?なんで君はそんなに悲しい顔をいつもしているのだね?」

すると彼は泣き笑いの顔を浮かべてこう応えます。

「なにもおかしいことはないさ。よく考えてごらんよ。僕が望んで手に入れたのはこの絶望と悲嘆と苦痛なんだよ?僕が悲しい顔をしてないなら、そりゃぁ、まったく叶えられていないじゃないか。僕は本当に悲しいんだよ。苦しいんだ。息をしているだけでもね。僕の顔がいい顔と思わないのは君の願いと僕の願いは違うからさ。僕だって自分の顔がいい顔だなんて言わないよ?でもそれは否定してるんじゃなく、肯定した絶望感が僕の顔は醜いと判断するだけなんだ。でも全肯定しているんだから、本当のところは醜いとは思っちゃいない。難しい話だけれど、僕自身が苦しめば苦しむほど僕の願いは叶えられているんだと僕は感じるんだよ」

私はそれを聴きながら、彼の顔をじっと見ておりましたら、彼の塞ぎこんだ顔がいい顔に見えてくるのでした。
なるほど、彼は確かに変な話だが死にそうになりながら生きることを生き生きと生きておるように見える。

だとすれば、彼が不幸になるときとは、彼が周りから見て幸福に映るときであるのだろう。

最後に私は彼に今一番欲しいものはあるか?と訊ねたら彼は涙をうっすらと浮かべた目ではにかんでこう言った。

「生涯愛し合うたった一人の恋人」

私はそれってぇ、またおかしくはないかね、と言いそうになったが、彼の二つの眼差しがもうどこをも捉えていないのを見て、私は何も言うのをやめたのだった。

今になっても彼を思い出すときには私は、彼の幸福を想う時、いつでも彼の不幸を想っていたことをここに記し、筆を置くことにする。

暗闇

絶望

「アンチクライスト」の記事を書き終わった後また鬱と吐き気がやってきて横になって、少しうたた寝をして目が覚めてもまた恐怖と吐き気に襲われ酷く苦しかった。お父さんのことを想って少しだけ涙がこぼれた。涙を流すことに罪悪感を覚えた。恐怖と苦しみのなか朦朧としていつも真っ暗にして寝るのに今夜も闇が恐ろしかったから豆球を点してたその天井を見上げていた。隣から話し声が聞こえた、酷く不快で怖かった。しかし朦朧としているとある確信めいた声が自らの内部から発せられた。それと同時にさっきまでのつらい吐き気が一瞬でやんだ。不快だった隣の声もやんでいる。静まり返った夜の空気は本当に安らかでありがたかった。私の内部にわたし自身が疑う必要性もないほどに全身から信じられる声として響いたその言葉は、その病み上がりのような安心感に満ちたわたしと意識のない狂気を以て調和していた。
これは3月2日の夜のことだけど、一日経った今でも想いは変わらない。
わたしのなかに、もう恐怖はない。悲嘆と苦痛と絶望さえ、どこかへ逃げて行った。暗い森の中を裸で駆け抜けて行った。
わたしは、さっき二度目にアンチクライストを観た。わたしはもう闇を怖れない。なぜなら、わたし自身が、もう闇に融け込み始めた。
ここには闇がある。わたしをけっして置いてけぼりにはしない闇がある。
『わたしはずっと、お父さんに殺されることだけを望んでいた。』
町田康の「告白」をぱくった「天の白滝」は意識のないまま書き連ねて何故か父親と娘の近親相姦劇になったことからも私の本望が今初めて気付いたわけではなかったことがわかる。どのような結末へ向かうか私はわかっていた。前世では既に互いに殺めあったとした。
世界で最も愛するお父さんに殺されることが私の一番の救いだと確信するからわたしはもう吐き気もしないし恐怖も感じない。
わたしはなにより信じる。
わたしを信じる闇に眠らせ頭を撫でてくれたのはお父さんしかいない。
わたしの苦痛を鎖を恐怖を解き放とうとするのはお父さんしかいない。
たとえ、それが悲しい子の親への狂気であったとしても。
愛は狂気ではないと何故言えるだろう?
わたしはたとえお父さんに赦されたとしてもわたしはわたしをけっして赦さないのだからわたしが生きている以上わたしはわたしを苦しめ人を苦しめる。
わたしを解き放つことができるのはお父さんしかいない。
お父さんだけがわたしを解き放つことができる。
わたしをあらゆる苦しみから解き放ちたいと願うのは誰よりお父さんなん
わたしはなぜまだ生きているのだろう。
なぜお父さんのいない世界で。
なぜ笑ったり怒ったり泣いたり悲しんだりしているんだろう。
どんどん忘れていくばかりなのに、生きていても。
忘れないために生きていると言えるの?
つらいから思いだすことも避けてるくせに。
死んだら楽になる、楽になれる日を待ちわびている、そうじゃないの?
お父さんを思い出すことが恐怖なんだろう?
恐怖から逃げている。
暗闇の森の中を裸で逃げて行ったのは、私だ。
そして逃げて行ったところでわたしが出会ったのはお父さんの幻。
わたしはお父さんの幻に向かって怒り狂い、泣き叫んだ「なぜ私を愛してくれないの?!」
お父さんの幻は私を知らない。わたしはそれでも叫び続ける「なぜ私を見捨てるの?!」
お父さんの幻に掴みかかって押し倒し拳を体へ何度も叩きつけて叫ぶ「なんでなんでなんでなんで!」
恐怖から逃げるということは、恐怖が逃げたそこで待ち受けているってことじゃないか。
恐怖から逃げるために恐怖に会いに行ったんだ。
恐怖から逃げるためにわたしは暗闇の森の中に走って行き、静けさが安らかに漂う夜の森で落ち着きを取り戻し今これを書いている。

愛よ来たれ

絶望

私は本物の絶望者かもしれない。
何故なら、自分のこと何かしたいと真剣に思えないからです。
いい加減にしか思えない。求めることもできない。
結婚したいのは、今よりほんの少しでも楽に生きられるようになりたいからです。
今よりほんの少しでも良い生活状態で生活したいからです。
これはただの欲望で本能からなる欲求です。
私は自分のことがいい加減なので、人に対するのも同じくいい加減です。
ただただ親の無償の愛に飢え切った赤子と同じです。
相手が親の愛に劣るときには、赤子が大声で泣き叫ぶように、怒りと憎悪と悲しみは爆発して、コントロールが利かなくなります。
相手をこれでもかと言うほど責めさいなめます。
相手からすれば、なんでこんなことで、そんな怒るの?ということで、私は死にかけながら訴えるのです。
自分の苦しみがあまりに激しいために、相手の苦しみが自分と同じところに来たと感じられるまでは、反省ができません。
そんな関係が続くと、相手も徐々に精神をきたしてきます。
私は苦しみに耐えきれなくなり、わざと自分から振られるような行動に出ます。
相手がもう耐えきれない、となるまで追い詰めるのです。
いま33歳で、今まで5人と付き合いましたが、どれもこの理由で別れてきました。
私は恋人を求めていますが、恋人の中に親の愛情しか求めていないのです。
言うなら、性行為と恋愛感情を求める親のような存在を求めているのです。
親は何より子が大事です。
何より自分を優先してくれることだけを望んでいるということです。
そんな人間がこんなところで結婚相手を探している。
自嘲をぬぐえないがしかし私は、それでも求めることをやめられない。
何故なら苦しいからです。
息をしているだけで、毎日が苦しくてならないからです。
親の愛を求めることは子の本能であり生きるすべです。
このような人間でも生きて行かなくてはならないために、愛を求めるしかできないということです。
愛を求めるのは、ただ飢えているからです。
飢えとはそれがなければ苦しくてたまらないというものです。
苦しいと余裕がなくなります。
人にやさしくする、人を思いやる、明るく元気でいる、これらはできなくなります。
ただただお腹がすいて食べるものがなく、相手が持っているならそれを奪ってでも食べたいと願う、これが餓えです。
相手を悲しませてでも、愛してほしいと懇願し続ける。
自分が苦しめられている限り相手の非を許すことができない。
「何故愛してくれないのか」ということだけで相手を憎み続ける。
私が恋愛に命さえかけているのは、愛がないと生きられない存在だからです。
愛がなければ生きていても生ける屍のようだからです。
外に出て、光が私に当たっても、なんの喜びも感じられないからです。
それは愛ではないからです。
私の求める愛ではない。
私の求める愛とは、たったひとつの、親の愛なのです。
私の親はどこにいるのでしょう?
どんなことがあろうとも、私という子を手離さない親に代わる人はどこにいるというのでしょう。
生きていても、生きている心地がないのです。
季節がいくつも移り変わろうと、私はそこに何をも見ていないのです。
何度目が覚めても、時間が過ぎて行かないのです。



っつうことをイギー・ポップの「イディオット」聴きながら赤ワイン飲んで書いてる俺は嬉しい生き物だなあっ。
俺は自分を愛してる。
それで、いいじゃないか。
俺は俺を愛してる。
俺が死ぬとき、それは俺の愛により、死ぬ。
俺は待ってる。
俺は、愛だけを、待ってる。
愛だけを。






絶望

死にたいなあ。とまったく思わなくなったところに本物の絶望がある。
と言ったのは誰だったか。
……俺か。
ってさっき俺が思ってん。糞しながら。
思えば糞してるとき、俺はいつより悟ってる。
なのに出てきた瞬間凡濁になる。凡濁とは凡庸な命が濁濁に濁っているという意味である。
すると前世で堅牢神父に金を貸して返ってこなかった思い出とか蘇るのだった。
しにたいなあ。とはまったく思わないが、ちにたいなあ。と思うときがなきにしもあらずだなあと思うときがないこともないこともあるにはあるように思えないこともないことはない気がしないでもない時もあったりなかったりするかなって感じ?っていうか、ま、ないかな。
あいつは俺が終わりだと言った。
いや言ってない。そんなことは誰も。
俺を喜ばす人間はこの世に∃しちゃいけないんだよ。
∃(存在)、なんでこれが存在なんだ。
「∃ 〔数学〕存在する」って
数学はいったい、どうなってるんだ。
存在で変換したら∃って出てきた、これが広く使われるようになったら。
喜ばす∃。
悲しませる∃。
ある仮定の∃。
現実的な∃。
酷くよわっちい∃。
俺の∃。
這い蹲った∃。
俺だけの∃。
俺だけが見えてる∃。
俺という∃はネ、俺だけが見てる∃。
どうしたって、君は見ない∃。
俺も見ない、君の∃を。

シュレディンガーの猫

絶望

昨日という明日を探していたんだ。
夜更けのない暗闇の静まる朝にね。
人格の切れ目の冬が呼んでいたから。
何も待っていない君を僕が待っていた。
抱えきれない絶望を抱えて僕を待ってて。
遅れてきた人を待たずにゆくの?
門が閉まる前に諦めた君が。
君を決めてきたものを僕が欲しがる。
最後の理由は延命に憬れている。
助かる見込みどこにもないんだよ。
知ってたの君は孤独の磁気に合わさって。
来客の形の帯びない形を見ている。
シュレディンガーの猫を君は見たの?
猫は信じるものだけに生かされている。
僕は君の見えたものを見たかった。
でもその箱の中には、
やっぱり何もなかった。