坂口安吾「白痴」観照

絶望 人間の普遍 自分自身の卑小さ 現実の悪 苦悩するもの

坂口安吾の「白痴」の感想といいますか、自分なりの解釈を述べようと想います。
自分は本の感想文と言うのが大変苦手でして、滅多に本の感想を言わないのですが、この「白痴」はいくつも色んな解釈がしていけてとても面白い人間の心理が隠れていて色々と考えさせてもらえる面白いお話です。

なんで読もうと想ったかというと

これが観たくて読んだのですが、町田康は我が師匠ですので、これは読まんと観れんと想いまして
これだけ観ても「白痴」の内容はわかりますが、是非さっき載せたサイトのネット文庫(無料で読めます)で先にお読みになって頂きたいです。

で、この「白痴」は何年か前に漫画のほうで読破してしまいまして、漫画では特に何も残らないものでした。
文学は先に漫画で読むべきではないのではないかと少々、危惧するところがあります。
坂口安吾はそれでか、あまり自分は好きではないかもしれないという「読まず偏見」でおりました。

昨晩やっと読みまして、読んだ後に湧いてきた解釈がひとつ、あったのでまずはそれを載せたいと想います。

昭和20年頃、舞台は終戦間際の空襲で日本が破壊される日を今か今かと恐れる極限的な東京、伊沢(いざわ)という生活を嫌い芸術を愛する映画の見習い演出家の男が、隣家に住む白痴の人妻オサヨに気に入られて、そこから周りの目に隠れながらの関係が始まるわけですが伊沢は終始、自分の頭の中で自分自身に苦悶し続け、またオサヨに対する目も尋常では在りません。

昨晩は、この伊沢という男の心理は別段おかしな心理ではなく、人間誰しもが持っているであろう普遍的な心理であると思えました。
極限状況だからこうなる、というわけではなくて、伊沢はオサヨを心の底から差別していて、その自分の醜さが気に入らなかった。
芸術の高潔な美しさをひたすら追い求めている男ですから、自分の卑小で俗悪で醜悪なこの心理に苦しんでいる。
人というのは人を差別していることが苦しいことですから、その苦しみを克服したくてあえて差別している人間を自分の中で美化させて義なる存在に仕立て上げてしまうのです。
そうしてどうにか受け容れようと奮闘するわけです。

それは差別しつづけることで自分の醜さと向き合い続けるより受け容れられることのほうがずっと楽だからです。
でもそこには本心から美しいと想っている心が在り続けるわけじゃありませんので、一種の逃避術で誤魔化しですから、その幻影というものが剥がれ落ちると、幻影を観る前よりも一層相手が醜く見えて、その醜さが自分の醜さであることがわかっていますから、前以上に自分に対して絶望してしまう。
「棄てることも面倒だ」っていうのは、もうこれ以上、俺はしんどい想いをするのが面倒だって言ってるわけですね。ここで相手を棄てたら相手を棄てる自分の醜さに今以上に向き合い続けて生きなくてはなりませんから。


っていう、まあ人間の普遍という誰でもあるような心理かなと想いました。
でも約5時間ほど寝て、何かまた母親で父親でもあるような存在に向かって怒り叫んでいるというよく観る悪夢を観て目が醒めまして、あの怒りってものすごいエネルギーで、富士山も噴火するんじゃないかというくらいの根源的な怒りで、底のないような悲しみからの怒りの変換であり、新生児の怒りそのものだよな、なんてことを考えていますと、また布団の中でこの「白痴」の解釈に繋がっていきまして、また違う解釈が生まれたんです。

それはどういうものかと言いますとね、
ええと、なんやったかな。まずね、伊沢という男、こいつがね?彼奴(きゃつ)がね、実のところ、オサヨという白痴の美女を、もう、もんのすごい「手篭めにしてやりてぇぜ」、みたいな、いやらしい肉欲の塊の男でして、まあそれも普遍的な男の本能なわけですけれども、とにかく伊沢はオサヨに対して、その姿を見るたんびに欲情していたと。実は。
しかし低俗な動物的な人間というのをこれ忌み嫌う伊沢でありますから、その理智的な表情の奥に自分の醜い怪物は封印せねばならなかった。
それは伊沢自身さえも、気づかないほどの激しい秘匿(ひとく)であったため、自分自身も気づくことができていなかったと。

それなのに、オサヨという女はそんな伊沢を気に入ってまるで新しくて優しい飼い主になつく仔犬のような純粋さ、素直さで伊沢の家で寝泊りを始めだす。
オサヨは自分に愛されたがっているんだということがわかった伊沢は、無償の愛で愛して遣れる男だよ、俺はね。とオサヨを安心させようとする。
しかし伊沢はそんなことを言って優しくしている自分の汚さに感づいて厭になります。
何故なら、目のまえには美しくて幼女以上に透きとおった手篭めにしたい女オサヨが肉々しくもいるからです。
伊沢は自分は自分の差別して見下している世間の人間たちとなんら区別のつかない浅ましい人間であるのにそれをオサヨに隠している自分に対して辟易とします。

しかし伊沢は生きる気力のある男なのです。
太宰治なら、もうここで心中してしまったかも分かりませんが、伊沢はそれでも女と生きることを”何故か”選ぶわけなんだす。
極限状況に置かれるほうが生きたくなるのはもっともだと想いますが、日本の明日はもうない、という絶望的な時代なので、何が必要かというとそこにはやはり”希望”が必要になってくるわけです。
伊沢が何に絶望しているのか、というのは一つではありません。ほとんどに絶望しているわけですが、そこでも最も絶望しているのは、自分自身の卑小さに対してなんだと想ったんですね。

オサヨが本当に美しいのは、その”心”の美しさで、伊沢はそこを見抜いていました。
そして心の美しいオサヨをまえにすると、自分の醜さ、つまらなさ、下らなさというものが厭というほど見えてきてしまうことに気づいてしまったわけです。
オサヨと自分は対極的な存在で、いつでもオサヨは美しくて自分は醜いのだと。
彼女が醜ければ、自分は欲情する醜さに苦しむこともなかった。自分の小ささをこれほどまでに見せられることなどなかった。

その伊沢の深層心理というものが、ここで倒錯的な形を帯びてきます。
伊沢は自分の醜さ、そのものをオサヨに投影し始めだしたのです。
それはいともたやすく成功し、彼女は醜い肉塊と成り果てました。
伊沢は彼女の”無意識”さを醜いと感じます。
最も美しいと感じていたはずの部分への愛を180度切り替えました。

そうすることで楽になりたい自分がいたことは確かでしょう。
でも同時にその投影は伊沢自身をまた新しい方法で苦しめる自虐的な方法でもあったわけです。
人(他者)を醜いと感じるその”心”こそ、醜いことを伊沢はわかっていたからです。
伊沢はどっちに、どこへ転ぼうとも絶望的な境地に陥らねば気がすまないほど、自分のこの”生活さ”を憎悪しておりました。
芸術の美しさの対極に在る現実の悪というもの、それといつでも闘っていたのです。
醜い自分の投影と成り果てたオサヨの胸に触れ、伊沢は本心では欲情するわけですが、心では自分はオサヨを醜いと感じているのだから、この欲情の醜さは虚構であり、真実は苦悩するものとしての芸術の美しさへと転じることができると想ったわけです。

つまり伊沢の芸術の美の定義は、”苦しみ”であったり”悲しみ”であったり、それが行き着くところ、それこそが美しいものとして自分を認める(赦す)ことができるのではないかと想いました。
ですから伊沢はあれでもないしこれでもない、とあらゆる”苦悩”へ挑戦しようと自分の心理の粘土を、こうコネコネ、コネコネと捏ね続けているような人間だったのではないか。
完成の形はどこなんだ、と。

まあそれを捏ね続けているのは伊沢であり、作者の坂口安吾なわけですけれども、とにかく苦しいものですから、苦しいほど人は捏ね続けられるというもんです。
で、伊沢はそうしてコネコネとして、自分の最も愛するというか美しいと想えるオサヨを最も気持ちの悪い醜女と化けさせることに成功いたしました。
「醜い」と心で罵りながらも欲情して女を抱く、サディズムな自分に対して伊沢は悦びを覚えていたのではないだろうか。
しかしそこに世俗的な悦びはあればあるほど伊沢は苦しむ人間でありますからマゾヒズムでもあります。
伊沢はこの苦しみも美ではないと感じて次なる転換を夢見ます。

そして訪れた東京大空襲。命からがらオサヨと大火の町なかを逃げ走り、オサヨが初めて”意志”からの決断を下したことに絶頂の快楽を覚え伊沢は逆上します。のぼせ上がるという意味ですね。
二人は逃げ通せることができたわけですが、ラスト、伊沢はこれまでにないほどの気色悪さを自分とオサヨに対して感じて虚無なる絶望のなかに堕ちます。
どこまで捏ね続けても美しさからかけ離れてゆく自分と、そんな自分の心境を知らんで豚みたいな寝息をたてて眠りこけているオサヨ。
豚ではないか、と。こいつが豚に見えるということは、すなわち俺も豚ではないか。
尻肉削がれていることに気づきもしないほどのぼせ上がっていた俺が豚だったのだ。
そうだ最も大きな快楽、その喜びを知るには、俺の最も心地の良い柔い肉から削がれ堕ちていかねばなるまい。





坂口安吾「白痴」観照 完