酒鬼薔薇が「透明な存在であり続けるボク」と言ったあの言葉の意味のはじまりは社会全体のことというより、たった一人、母親に自分の苦しみをわかってもらえなかったことだったんじゃないか。
彼は母親にだけ自分の苦しみをわかってもらいたかったんじゃないか。
母親にわかってもらえないという
絶望が祖母を失う前からもあって、祖母の死によって〈仮の〉愛情さえも失ったことから、その愛憎と性的な強力なエネルギーが結びついて命を破壊することで自分を破壊していくことで、母親に愛されない自分と自分を映すすべてのものに報復したかったのではないか。
自分を愛してくれない母親への愛憎が、愛されないのは自分がだめだからだという自分自身への愛憎となり、そしてその愛憎が自分が映した鏡であるすべてに向かわれたのではないか。
母親に愛されない自分は価値がない、そう思う彼の心は自分自身で自分は透明であると感じることによって、自分以外のすべてが透明に見えて、自分以外の価値さえ自分と同じように価値を感じられなくなっていったのではないか。
「透明な存在であり続けるボク」という感覚は同時に「
透明な世界に透明な存在であるボクがい続ける」という感覚だったのだと感じる。
自分は透明なのに自分以外は透明ではないという感覚はあり得ないからだ。
だから「透明な存在であり続けるボク」は「透明な存在であり続ける世界」と書き換えてもまったく同じ意味を伴っているだろう。
彼は当時と鑑定時に
離人症状があったと言われている。これは私が11年前に父を喪ってからずっとある症状で、現実感の欠如、まるで夢の中にいるようにふわふわと浮いているような感覚、もう一人の自分が自分を見ているという感覚、生きているという心地がないという感覚、自分が今ここにいないという感覚などがあって、これが著しい精神的ストレスなどにより酷くなると、おかしな行動に出ることもある。
私の場合は25歳のときに恋人との喧嘩で深夜2時ごろに家を裸足で飛び出し、道路の脇にずっと蹲っていたことがある。いつも以上に現実離れした感覚があり、もうすぐ待っていたら死んだおとうさんが迎えに来てくれると信じてずっと一人で人も通る場所で蹲っていた。普通の感覚だとこんな場所で蹲っていたら恥ずかしい、人を驚かせてしまうと思いやめるのだがそういった現実的な感覚をすべてなくしてしまう状態で、彼も犯行時は同じような〈人間を自分が離れる〉というような感覚に襲われていたのだと感じる。
そしてこの
離人症の感覚を知る人なら「透明な存在であり続けるボク」という表現がどれだけこの感覚の的を射た表現であるかわかるのではないだろうか。
まさにそのような感覚だからだ。そして透明なのは自分だけではなく、自分以外のすべてとこの世界に感じる「
透明な世界」でしか生きていけなくなった透明な人間の悲しく切実な叫びだったのである。
しかし私が意識的に
離人症の感覚に生きていると感じたのは父を喪った22歳のときからだと思っていたが、「透明な存在であり続けるボク」に深く共感したのは15歳のときなので、私はその頃から既に今と比べると浅いものの
離人症的な感覚にいたということになる。
「
絶歌」では彼は自分がどれほどクラスの中で目立たない存在だったかを書いていたが、わたしが思うには彼は誰よりその異質さで目立っていた生徒だったのではないかと思っている。彼が自分は誰にもわかってもらえないと感じるのは、彼が一番にわかってもらいたい母親にわかってもらえないことによる自己喪失感を常に持って生きていたからだろうと感じる。そしてその自己喪失の自分の目に映った者たち全員にも自分に自分が見えないように見えてないんだと感じていたのだろう。自分自身が自分を見えないのに、他者は自分を見えていると感じることはないからだ。
自分を自分の目が追っているという夢を見たことがある人にはわかりやすいだろう。自分が道を歩いている、その自分の姿を少し離れたところから自分の目が見て観察している。この感覚が
離人症によく似ている。幽体離脱しているわけではないので自分の意識だけが自分から離れたところにいつもあって、常に他人を観察しているような感じで自分を見ているという感覚だ。
そしてこの離れたところにある意識が同じように他者をも見ているわけだ。見るのはいつでも自分から離れた意識になる。そんな意識が自分も他者も同じように他人のような感覚で見つめている。だから自分が怒っていたら、他人が怒っているのを見るように、ああまた怒っているな。とまるで他人事のように見たりするわけだ。確かに怒っているのは自分であるのには違わないが、自分の意識が離れたところにあるため、言わば自分の感情をいつも冷めた目で自分の意識が見ているということになる。だからこのような人間はどんなに感情的な人間であっても常に冷め切っている。情熱的な感情さえもいつも冷めた目に見られているために、心の底から喜ぶということができない。どんなにいい笑顔を向けてありがとうと人に感謝を述べても離れたところでもう一人の自分が冷めた目で無言で見ている。これは天使と悪魔みたいな両方が自分というものではなく、表れる感情というものを自分が一切認めないというどこまでも冷静な本当の自分の意識を常に自分が感じているという感覚だ。
熟睡して夢も見ていないとき以外この感覚から逃れられないというのは結構たまらなく苦しいものだったりする。
私は今でも彼がこのような感覚に在るような気がする。
もしそのような症状が当時より少し抜けているのだとしたら、彼は夢の中で行った殺人を、朝目覚めて、現実の世界で自分の夢の中で犯した殺人の罪を償い続けている感覚に近いだろうと思っている。
しかし抜けていなければ、彼は夢の中で行った殺人の罪を夢の中で今でも償い続けているのだろう。
そして私も、夢の中を抜け出ることができない。
春には桜が咲き、夏には蝉が鳴き、秋には銀杏の葉を踏み、冬には一年の終わりがやってくる、私はそのことになんの感情も持たない、時間が流れているという感覚がないからだ。
自分の中は時間が止まっているので、季節の移り変わりがただ意味もなく季節の本のページをペラペラめくっている感覚にしかならない。
夢の中では時間の感覚を持てないのと同じだ。
春の桜の色、夏の鮮やかな緑、秋の紅葉の橙、冬の真っ白な雪、それを見てもすべてが透明にしか見えない人間がいる。
自分が透明になってしまった人間はどんな色を見ることも叶わない。
色を映すことのできる自分の目を喪ってしまったからだ。
彼の「
絶歌」の風景描写から、そういえば私はなんの色も感じなかった。なんの色彩も思い出すことが出来ない。
でも彼が見た風景は何より美しいと感じた。
それは、光そのものだと思った。
それはそこにある悲しみが、すべての色を喪うほどの悲しみだと感じたからだった。
彼は私よりずっと悲しんでいるとそう感じる証だった。
彼の描く風景描写はそのすべてを物語っていた。
まだ彼は「
透明な世界」にいる。そう深く確信できた。
それが私の「
絶歌」に対する一番の賛美だ。