来世、食肉の家畜になっても…?

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この世界がどのような仕組みで、どのような摂理のもとにできているかを私たちは本当のところ、何も知らない。
だからこそ、私が出したこの設問は、非常に恐ろしく、また残酷なものであると実感しています。

何故なら、私たちが今の生を終えた後、どのようなことが待ち受けているか、何もわかるすべを持たないからです。
このおぞましい設問は、ある一つの可能性として、今ここに存在しています。
どのような可能性も否定し得ることはできない世界だからです。

しかし間違いなく言えることは、肉を食べるあなたが来世、食肉家畜になるのならば、間違いなく私も、そして私の大切な家族もなる、ということです。
それは肉を食べていたからです。

肉を食べていた期間、私は彼らの苦しみを無視していました。
そして都合のいいことに、きっとそれほど苦しいものではないのではないかとどこかで思っていました。
一瞬の痛みだけで素早く屠殺されてるのだろうと何の根拠もなく、何も調べずにただ漠然とどこかで思っているだけでした。

前にも一度同じようなことを訊いたことがあります。
「来世は自分が食肉になっても、食べるのか」と。
その人は「それでも食べる」と言いました。
でもその人は見たら食べられなくなるからと、屠殺の映像を見たことがない人でした。

私は、それはおかしいと思いました。
どうして映像さえも見たことがないのに、そんなことが言えるのだろうと。

来世だろうと前世だろうと、自分が食肉家畜の場合、今食べている肉は自分の肉なのではないか?
他者の肉であると言えるのだろうか。

それとも、そんな来世などきっとないだろうと思うのだろうか?
でもそんなことは誰もわからないのである。

拷問に合って死んだ人を知り、あのような拷問はきっと自分の身には起きないだろうと言えるだろうか?
そんなことは言わないとしても、どこかできっと自分は大丈夫だろうと思ってはいないだろうか?
だから酷い事件や災害に合ったとき、人間は「何故私がこんな目に」ということを思ってしまうのではないか。
それは他者には起きても自分にはまあ起きないだろうと何故か思っている証拠だ。

しかしこの世界を見渡せば、まるで終わりのない地獄のように悲劇は必ずどこかで起きている。
NPO法人国連WFP協会HP 
「現在、栄養不良の人々は世界で約7億9500万人います。
すなわち、世界の9人に1人は健康で活動的な暮らしを営むための十分な食糧を得られないのです。」
「数字が語る世界の飢餓」に、「世界では、5秒に1人の子どもが飢えに関連する病気で命を落としています。」


日本人の自殺者は年間三万人弱としても一日に70人近い人が自殺しているという計算になる。
このような世界で「どうして自分がこのような目にあったのだろう」と思うことは、それは無知だろうか?平和ボケだろうか?それは人間に巣食う重篤な伝染病だろうか?

1秒間に 米俵1,000俵に相当する58.4トンの穀物が生産され…
世界の漁港で、カツオ1,850匹分、3,700kgの魚が水揚げされ…
牛3頭、豚7頭、鶏1,100羽分、計6.9トンが食肉として生産されています。


5分でわかる食糧問題

飢餓が原因で1日に4~5万人(1年間に1500万人以上)の人が亡くなっており(FAOより)、そのうち7割以上が子どもたちです。

世界中には食べ物が足りないの?

「飢餓」になるのは、食糧が十分につくられていないからではありません。穀物は年間 24億トン生産されています。これは世界中の人が生きていくのに必要な量のおよそ2倍になります。

24億トン (年間穀物生産量) ÷ 71億人 (世界の人口)
⇒  338kg (1人当たり)
※1人当たり1年間の標準量は  180kg

それでも食べ物の不足している人がいるのは、どうしてでしょうか?

たくさんの穀物はどこへ

1人当たりの食糧供給量を比較すると、日本では必要なカロリーより 31%も多く、ソマリアでは16%不足しています。
私たちのように食べるものがいつでも十分手にはいるのは、世界のおよそ2割の人だけなのです。

穀物は人間が食べるだけではなく、先進国では穀物の 6割(約4億トン)が、ウシ、ブタ、ニワトリなどの家畜のえさになっています。
牛肉1キロ作るために穀物11キロ、豚肉1キロ作るために穀物7キロ、鶏肉1キロ作るために穀物4キロを消費しています。
結果として、世界の 2割足らずの先進国にすむ私たちが世界の穀物の半分以上消費しているのです。



肉を食べるということは、家畜たちだけでなく、飢餓で死んで行く人たちの命をも奪い取ることだという情報は、なかなか広がっては行かない。

肉を食べるということは、来世、自分が食肉の家畜となり地獄のような拷問を受け、首元を掻っ切られて意識あるうちからから解体され死ぬことを覚悟の上で食べていたならば良い、という問題ではないことを言います。

それらはあらゆる地獄のような死の苦しみに関わっていることだからです。
一秒間の数えきれないほどの断末魔を私たちはこの耳で聞くこともできないし、想像することさえあまりに難しいだろう。

だって一秒なんて、ほんとうにあっというまに過ぎるじゃないか。
この1秒間に牛3頭、豚7頭、鶏1,100羽とカツオ1,850匹分、3,700kgの魚の絶叫と5秒に1人の子供の苦痛の心の叫びがどこかで聞こえてる。

これはたった一度だけ、来世で食肉用の家畜の拷問のような苦しみを経験すればチャラになって返せるという犠牲ではない。
一体どれだけの拷問のような犠牲を自分が肉を食べたいがためだけに彼らに払ってこさしたのだろう。
自分はどれだけの犠牲を、同じほどの拷問のような苦しみで以って彼らに返すことができるだろうか?

自分はそのような数えきれない想像することも難しいほどの苦痛を観て見ぬふりしてきた。
これからは自分のこの体で彼らに返す番だと思っている。
それは来世家畜となって自分の死体を彼らに美味しく食べてもらうという地獄の連鎖の返し方より、同じほどの苦痛でもっといい方法で返すことはできないのだろうかと考える。

しかし彼らが死体を食べ続ける苦痛を味わいたいなら、どうしてそれを自分が断ることができるだろう。
断る方法も選択も、私にはない。

屠殺の映像をまだ観てないで、来世は食肉の家畜になってでも食べると誓った君は、映像を観ないよりは、観たほうがいいと私は想う。

屠殺場の現場を隠し撮りした「アースリングス」というドキュメンタリー映画の屠殺の場面だけでも、もし観る気になったなら是非ご覧になってください。




そしてこの映像に耐えられた君は、これをはるかに超えるおぞましく恐ろしい映像を良かったらほんの少しでも観てみてほしい。
レンダリングプラントという、動物性脂肪精製工場の巨大攪拌機の機械に入れられる牛や馬の映像です。
「レンダリング・プラント」(動物性脂肪精製工場)って知っていますか?
食用にできない部分をそのままミンチにできる機械ですが、ここには死んだ牛や馬が丸まま放り込まれることもあります。
そして映像で見る限り、動いているように見える子もいました。
瀕死の状態であるのかもしれませんが、観るに堪えない映像です。
観ようと思う君は、トラウマになる覚悟で観てください。
閲覧厳重注意の動画です。
無理をして観るのは大変危険です。それはやめてください。




家畜たちは、牛も豚も鶏もみな、殺して屠る前に首元を掻っ切って、血を抜きます。
死んでからでは上手く血が抜けず生臭くてまずくなるからです。
牛や豚はその前に意識を失わせるノッキングガンという額に撃って頭蓋骨に直径一センチほどの穴を開ける方法や、電気ショック法や二酸化炭素で気を失わせるという方法などが使われているようです。
しかし一番手っ取り早い方法だからと言ってそれらを行わずに鶏と同じように豚も喉元を切り裂いてそのまま次の段階へと運ぶところもあります。

『いのちの食べかた』 森達也 (理論社)

体をあらわれた牛は、一頭がやっと通れるだけの幅の通路に追い込まれ、先頭の牛から順番にノッキングを受ける。
 この光景は、まるで一頭ずつ、押し当てられたピストルを額で打ち抜かれているように見えるが、額に当てられた銃口から出るのは弾丸ではなく、「ノッキングペン」と呼ばれる細い針だ。
 銃口から飛び出す針の長さは3センチほど。眉間を撃たれると同時に脳震盪を起こした牛は硬直し、つぎの瞬間、通路の側面の鉄板が開かれ、段差にすれば1.5mほど下の床まで、牛は四肢をこわばらせたまま傾斜を滑り落ちる。
 この時点で、眉間を撃たれた牛は、すでに意識を失っているといわれている。
 牛が、斜面を滑り落ちてくると同時に、待ち構えていた数人の男たちが牛を取り囲む。頭に回った一人が、眉間に開けられた穴から金属製のワイヤーを素早く差し込む。
 1mほどの長さのワイヤーが、あっというまに牛の身体に吸い込まれて見えなくなる。
 差し込まれたワイヤーは脊髄を破壊する。つまり全身が麻痺するわけだ。
 牛によってはこの瞬間に、片足を痙攣させるなどの反応を示す場合もあるが、ほとんどの場合は無反応だ。
 このとき、ほぼ同じタイミングでもう一人が、首の下をナイフでざっくりと切る。
 切断された頸動脈から大量に血がほとばしる。
 天上の取り付けられたトロリーコンベア(吊り下げ式のベルトコンベアと考えればよい)から下がる鎖に片足をひっかけて、牛は逆さまに吊りあげられる。(p.51-53)


このような方法で意識のないうちに素早く解体していくと言われていますが、隠し撮りの映像では明らかに逆さに釣り上げられているときに悲痛な鳴き声で鳴いている子も多くいました。
しかしそのような子も皆と同じように意識を持った状態のままで解体されていきます。

大量生産で素早く作業しなくてはいけないので、そのように意識のある状態でも豚は熱湯に入れられる子がたくさんいます。
鶏は吊るされて流れるコンベアベルトの機械の隙間に挟まってもそのままにされ身体の千切れるような痛みにも耐えねばなりません。


家畜たちの苦しみ、飢餓で死んで行く人たちの苦しみ、その短くはない地獄のような時間。
どうしてもっと早く彼らの痛みに向き合って肉食を断てなかったか。
それが私の一番の後悔の苦しみとして、それはずっと死ぬまで消えることはないと思います。

食肉と飢餓

屠殺 食料飢餓 畜産業

http://vimeo.com/12884758" target="_blank">ペット、食肉、革製品、動物実験、娯楽産業、狩猟、人間たちはあらゆる動物たちを利用し、利益のために虐待、殺戮を繰り返しています。彼らは私たちの知らないところでどのように虐げられ、殺されているのか。真実を撮ったドキュメンタリー映画「アースリングス」をご覧いただけます。
 


畜 産 と 飢 餓
http://homepage3.nifty.com/kojirotoyuki/kiga1.htmこちらから全文抜粋させていただきました。


 (ピーター・シンガーの『動物の解放』 の中で,現代畜産と飢餓の問題について示唆的な内容が記されておりましたので,以下に一部を引用します。原著は1975年刊行のため少し前のものになりますが,基本的な趣旨は現代にも通じるものと言えるでしょう。)
    

 この瞬間に,世界の多くの地域で,何百万人もの人々が十分に食べ物を得られない状況におかれている。さらにまた何百万人もの人々が,量的には十分な食べ物を得られるが,適正な種類の食べ物を得ることができない。たいていの場合,彼らは十分な蛋白質が得られないのである。問題は豊かな国々で行われている方法による食料の生産が,飢餓の問題の解決に寄与するかどうかということである。

 あらゆる動物は,人間の食用に適すると考えれる大きさ及び体重になるまで成長するために,エサを食べなければならない。例えば,もし仔牛が牧草だけで生育できて,とうもろこしやその他の人間が食べられる穀物を植えることのできない荒れた草地で草を食べるならば,その結果は,人間にとっては蛋白質の正味の獲得であろう。なぜなら成長した仔牛は我々に,少なくとも経済的な形では草から抽出できない蛋白質を提供するからである。しかし,もし我々がその同じ仔牛を放牧するのをやめて,フィードロットやその他の監禁システムの中に入れたならば,事情は違ってくる。今度は仔牛にエサを与えなければならない。この仔牛やその仲間たちがどんなに小さなスペースにおしこまれようとも,とうもろこし,ソルガム(もろこし),大豆あるいは何であれ,仔牛が食べる作物を育てるために土地を使わなければならない。つまり,我々は人間の食物にもなりうるようなエサを,仔牛に食べさせていることになるのである。仔牛はこのエサの大部分を,生きていくうえでの通常の生理的プロセスのために必要とする。仔牛の運動がどんなに厳しく制限されていても,彼の体は生命を維持するためだけにも,食物を体内で燃焼させなければならない。エサはまた仔牛の体の中の食用とならない部分,例えば骨をつくるためにも使われる。これらの必要を満たされた後に残ったエサだけが,牛の肉に変えることができ,従って,人が食べるlことができるのである。

 エサに含まれる蛋白質のどれだけを仔牛が消費し,どれだけを人間が利用できるのであろうか?その答えは驚くべきものである。人間が食べる1ポンドの動物蛋白質を生産するために,21ポンドの蛋白質を仔牛に与える必要があるのだ。我々は投入したもののうち5%以下しか回収できないのである。

 我々はこの問題を別の方面から検討することもできる。我々が1エーカー(約4047㎡)の肥沃な土地をもっていると仮定してみよう。我々はこの土地を,えんどう豆やその他の豆類などの高蛋白の作物を栽培するために使うことができる。もしそうすれば,我々は1エーカーの土地から300ないし500ポンド(135.9~226.5kg)の蛋白質を得ることができるであろう。あるいはまたその1エーカーを使って飼料作物を栽培して家畜に食わせ,それを殺して肉を食べることもできる。その場合は結局1エーカーから40ないし45ポンド(18.1~20.4kg)の蛋白質しか得られないであろう。(中略)

 以上の事実が世界の食料生産にとって意味するところを知れば,人は呆然とするであろう。1974年の終わり頃,インドとバングラデシュに飢餓が拡がりつつあったときに,海外開発審議会のレスター・ブラウンが試算したところでは,もしアメリカ人が年間の肉の消費をわずか10%だけ減らすとしたら,少なくとも1200万トンの穀物を人間の食用として余分に放出できるであろうということである。この量は6000万人分の食事に相当するものであって,ゆうにインドとバングラデシュにおける飢餓を解消するに足るものである。実際,もしアメリカ人が,穀物で飼育した牛の肉を食べるのを全面的にやめたとしたら,そこで浮いてくる穀物の量は6億人のインド全人口を養うのに十分な量なのである。また別の人の試算によると,主として人間の食用にもなる資源から得られる2000万トンの蛋白質が,1968年だけで米国の家畜(乳牛を除く)に与えれているということである。これだけの量を与えられた家畜が生産する蛋白質は,わずか200万トンである。このプロセスで浪費された1800万トンの蛋白質は,世界の蛋白質の不足量の90%に相当する。もし我々がこの数字に他の先進国における同様な浪費の量を加算するとしたら,その量は全世界における蛋白質の不足分の総量を優に超えるであろう。

 蛋白質だけでなくあらゆる種類の食物を考慮して,アメリカ合衆国の前農務長官ドン・パールバーグは,米国における家畜の頭数を半分に減らすだけで,それによって得られる余分の食物のカロリーは,非社会主義発展途上国におけるカロリー不足の総計のほとんど4倍以上に達するであろうと述べた。これらの事実を合わせて考えるならば,我々は,先進諸国で肉の生産によって浪費される食物の量は,もし適正に配分されるならば,世界の飢えあるいは栄養不良にさらされている全人口の必要を満たすに十分なものであるということがわかる。(中略)穀物や豆類の需給が逼迫してインドやバングラデシュやサハラ砂漠以南のアフリカ諸国,あるいはその他の飢餓によくさらされる国々が買えないほど価格が高騰することがあるのは,ひとえに我々がこれらの貴重な食物を家畜に食わせたために供給量が少なくなったということによるのである。

 だから,アニマル・リべレーション(動物解放)の見地からベジタリアンになるべきだとする主張は,世界の食料問題をめぐる事実によって強力に支持される。人間のための配慮と他の動物のための配慮は,まさに同じ方向を指し示しているのである。
    
       
                 






肉は本来、人間の食料として必要不可欠なものではなく、なくても穀物、野菜、豆類、海草、果物などの植物をバランスよく摂っていたなら人は健康に生きることができる。
つまり肉は、酒や煙草のようにただの嗜好品として人々はそれを食べている。
本来人間には不必要なものの為に膨大な数の命は毎日奪い続けられている。
人間が食べる量以上の穀物を屠殺する日まで家畜に与え続け、そして日がきたら殺し、肉は消耗品となる。
食べて美味しいと感じるその快楽の時間は日に長く味わっても約ものの20分かそこらだろう。
命であったものはそのようにして一日の約20分の快楽の為に育て上げられ、殺され続けている。
貧しい国の人たちよりも先進国の飼われているペットの方が良い物を食べているのは薄々みな気付いていることと思うが、貧しい人が食べることのできない、餓死していく人たちに与えられない穀物を一日20分間の味覚を楽しむために育てられる家畜たちにやっているっつうことである。

動物チャリティー団体が一変、牛を貧しい国へ送ったが・・・

動物愛護をしていた団体が一変して寄付されたお金で動物を貧しい国へそのまま資源として贈ったが、動物を育て上げるのに人間以上の穀物、水が必要なのにそんなものはない、自分たちの食べるものがないというのに、どうしたらいいのかと困り果て、牛を返したくて仕方ないと言っている。
押し売り、というものがあるが、これは押し贈り、牛送り、みたいなことになっている。迷惑な贈り物である。
何故、それよりも穀物を贈れないのか?
yes、それは穀物よりも家畜の方が安いからである。
穀物などは高くて贈れないが、今家畜はあまるほどにいる、だから家畜を送る、喜んでいただけただろうか。
NO、必要なのは肉じゃない、胃に体に優しい植物を送るべきだ。
腐ってすぐに虫が湧く様な肉ではなくて、保存もできる穀物を。
穀物が、足りないんだ。
貧しくもない人たちが肉を喰うてるから。
餓死と殺戮の世界から、共存と調和の世界を有望し、一歩前へ踏み出す。
それは、誰がか。
それは、僕たちだ。