眠っていたよ
夢を見たよ
溺れそうになって慌てて眼を覚ましたんだ
そこはお風呂の中だった
足を伸ばして入っていて、浅いお湯の中で
ずっとそこにいたい気持ちにかられたけど
ずっとそこにいるのも怖いと思った
次は、目が覚めると、お風呂のお湯を湯船に出しっぱなしにして
眠っていて、そこらじゅうが水浸しだった
そこから急に実家に変わるんだ
どの部屋も暗くて、早く水を拭かなくちゃと思うのに
何度電気をつけても、つかなくて
あまりに喉が渇いてて水を飲むんだけど
何度飲んでも喉が渇いたままで
また電気を何度もつけるんだけど
つかないんだ、薄暗い部屋は怖くて
炬燵の布団の中に何か怖いものが潜んでいる気がしたけど
怖くて、それを見ないふりしていたんだ
寂しいさみしい夢だった
目が覚めて、夢を思い返していた
あの湯船の中は、胎内のようでもあったし
棺の中のようでもあったな、って
胎内と棺の中は同じ場所かもしれない
何度電気をつけようとしてもつかなかったことが
とても不安で怖くてさみしかったよ
人はあんな風に一人で生まれて一人を生きて一人で死んでゆくんだと思った
みな、そうやって同じ場所へ帰るんだね
僕は一番愛おしい人をこの手で殺したんだ
その絶望を僕は死ぬまで越えられるはずないと思ったよ
でおさん、僕は愛を超えることができない
夢のように、何度も何度も光を灯したくて
灯そうとするけれど、灯ってはくれないんだ
僕はもう二度と光は灯せないと、今日の夢が
本当のこと見せてくれたようだった
だから太陽のようなでおさんにも
ほかのだれにも関わること許されないのに
でも寂しくて、甘えてしまう僕を許してほしい
ごめんなさい
愛敬なるシルヴィタン
時間かなりかかって疲れました、この曲繰り返し聴きすぎて
ちょっと当分聴きたくないですε( ´・ω・)←嘘です
5年前に別れたので、一層いい曲とpvとなってます
David Sylvian - Heartbeat
ために、pvにはボウイは全く映っておりません(笑)シルヴィタンの復讐です
Sylvian & Sakamoto - Forbidden Colours
japanは16歳上のおねえたまの時代で、おねえたまが当時ファンでした
私がまだ聴いてない時に、japanのアルバムやシルヴィタンのアルバムをもらったのですが
うーんって感じで聴かなかったんですけど(笑)それとは知らずにシルヴィタンを
自分で見つけて聴いて好きになり、あ、これっておねえたまがくれたやつやってんやって(笑)
それをおねえたまに言うと、「ええやろー?あのアルバム探してたんや、
おまえんとこにあったんか」って(笑)
Japan - Visions of China HD-video
ZERO LANDMINE
(クラフトワーク、シンディ・ローパー、ブライアン・イーノ、とか
日本ではUA、大貫妙子、ミスチルの桜井、佐野元春、chara、吉田美和、などなど)
(歌っててソロバージョンもあります)
歌詞 David Sylvian
「ZERO LANDMINE」
This is my home
The land of my mother
The place I play
With sisters and brothers
The trees are rooted
In the ground beneath
Take away the violence
Give the earth back its peace
This is our world
Our common salvation
It knows no borders
It serves no nation
The same sun shines equally
On those beneath
Take away the violence
Give the earth back its peace
There's fire in the ground
In the space between the trees
In the forests and fields
On pathways,in dreams
The stars are whispering
To the ground beneath
Take away the darkness
Give the earth back its peace
Who painted the green grass red with danger
Who coloured the big sky blue with sorrow
A strong wind carrying fear and anger
Came and went and stole tomorrow
This is my home
The land of my mother
The place I play
With sisters and brothers
The trees are rooted
In the ground beneath
Take away the violence
Give the earth back its peace
The same sun shines equally
On those beneath
Take away the darkness
Give the earth back its peace
Like trees we're rooted
In the ground beneath
Take away the violence
Give the earth back its peace
Give the earth back its peace
訳、村上龍
【地雷のない世界】
ここがわたしの家
おかあさんに育てられ
懐かしい兄や妹たちと
遊んだところ
あなたにも見える?
地面には木が根を下ろしている
暴力はもうたくさんだ
この地にもう一度平和を
ここはわたしたちみんなの世界で
わたしたちみんなの救いがある
だから、国も、国境も、関係がない
太陽が光り輝いている
みんなが光を浴びている
暴力はもうたくさんだ
この地にもう一度平和を
熱くて、息ができないよ
地面に炎がある
木の間に、森や畑や小道にも
私たちの夢の中にも
あなたにも聞こえる?
お星さまがささやいている
暴力はもうたくさんだ
この地にもう一度平和を
緑の草原を、血みたいな赤に塗ったのは誰?
広い大空を、悲しみの青に塗ったのは誰?
強い風が、恐れと怒りを運んできたよ
そして風が明日を奪っていったよ
ここがわたしの家
おかあさんに育てられ
懐かしい兄や妹たちと
遊んだところ
あなたにも見える?
地面には木が根を下ろしている
暴力はもうたくさんだ
この地にもう一度平和を
太陽が光り輝いている
みんなが光を浴びている
暴力はもうたくさんだ
この地にもう一度平和を
根を下ろす樹々と同じように
わたしたちもこの土地を離れることはできない
暴力はもうたくさんだ
この地にもう一度平和を
この地にもう一度平和を
行動でしか間に合わないこと
mixiのスクラップヘブンのレビューに書いたこと
昨日観て、まだ落ち込みが激しい
愛があっても人を変えられないってことをまんまと見せつけられたからかもしれない
オダギリ演じるテツの愛は届かなかった
でも加瀬演じるシンゴは、きっと映画が終わった後から少しずつそれが
わかってくるはずだと思った
だから生きなければいけなかった
そこが唯一この映画の救いなんだと感じた
誰も傷つかずにそれをわからせるなんて、やっぱり無理なんだと
それをみせしめてくれたことに感謝したい
激しい痛みの分跳ね返った強い思いが誰かのところに行くんだと思った
人が気付くのは、想像力ではなく出来事なんだ
それじゃ遅い
遅いんだ
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今日も朝からずっとスクラップヘブンを引きずっています
映画の初めごろでオダギリ演じるテツと加瀬演じるシンゴ二人は
「想像力が必要なんだ、想像力が足りねえんだ」と言い
想像力があれば悪いことを変えられると信じます
でも二人はまるで想像できなかった、起こる事態を
取り返しのつくことなら、それでいい全然、起こってから気づけばいい
でももう二度と取り返しのつかないことがある
誰かの死だ
思えば、その死というものに4歳のころから私の人生は持ってかれてる
母の死で、4歳から、なんなんだこの世界は、と
世界を恨んでいたか、もういいこんな世界に何も望むもんか、と
思っていたか、なんでなんだ、なんでお母さんは死んでしまったんだ、と
自分はどうすることもできなかった、その無力感を嫌でも思い知らされた
受け入れはしなかった、から母を忘れることで生きようとしたが
うまく行くはずもなかった
15歳の時、酒鬼薔薇の言った「透明なボク」に酷く共感する
彼は自分だ
その後5年間彼をもう一人の自分のように想い続ける
家族以外と特に誰とも関わらず、そうして鬱はひどくなり寝たきりの生活で
父を酷く悩ませる
22歳の時父が死んでしまった
ずっと恐れていたことが本当に起きたんだ
ずっと想像しては泣いていた、その父の死が本当に来たんだ
信じられない、未だに、まったく
あんなに私は想像してたじゃないか
なのに、私は鬱なんかのせいにして布団から起き上がれなかったんだ
希望なんてものを持つことができなかった
そんな絶望の真っただ中に父は死んだ
これがおまえの本当の絶望だよ、とそこは地獄以外のなんでもなかった
想像してたよりもあまりに早く父はあっけなく死んでしまったんだ
想像なんて、してるだけじゃ、意味ないやんか
想像して泣いてるだけで、私なんもせんかったやんか
だからこんなことになった
一生この真っ暗闇の後悔からは抜け出せないのか
私にはまだそんな同じような後悔の対象になる人がいる
姉と兄だ、特に兄とは私が25歳までずっと一緒に暮らしてきたのに
今では何の連絡も交わさないような関係だ
二年前に兄から勝手なことばかりしてる私に向かって
「お前は向こうで(ここではないどこかという意味)死ね」
「こっちで死んで迷惑かけるな」というようなことを言われ絶縁されてから
特にお互い謝りの言葉もなく、二人で特に何も話さず今がある
私が今死んでしまえば、兄はそんなことを言ったことを後悔するのだろうか
「おまえのせいでお父さんは死んだんや」そう何度も言った姉と兄は
私が死ねば、きっと後悔するんじゃないか
私がちゃんとした生活を送れてさえいれば、いくらでも会える
いくらでも話せる、だってまだお互い生きてるんだ、同じ世界にいるんだ
想像してるんだ、お兄ちゃんも精神面が危ういから心配なんだ
心配だけしててもしかたないんだ
動けなくちゃ意味ないんだ
動ける力がほしい、その勇気が本当にほしいよ、当たり前の勇気がほしいんだ
テツが本当に可哀想でならない、あんなに行動してたのに
なんで、なんでそれでもだめなんだろう
スクラップヘブン
http://img.blogs.yahoo.co.jp/ybi/1/e6/48/sirosorajp/folder/551779/img_551779_61004285_0?1264082697',1024,768)">
共鳴
自由は近代人に独立と合理生徒をあたえたが、一方個人を孤独におとしいれ、そのため個人を不安な無力なものにした。その孤独はたえがたいものである。かれは自由の重荷からのがれて新しい依存と従属を求めるか、あるいは人間の独自性と個性とにもとづいた積極的な自由の完全な実現に進むかの二者択一に迫られる。
人間は外界の位置構成部分であるかぎり、個人の行動の可能性や責任を知らなくても、外界を恐れる必要はない。人間は個人となると、独りで、外界のすべての恐ろしい圧倒的な面に抵抗するのである。
ここに、個性をなげすてて外界に完全に没入し、孤独と無力の感情を克服しようとする衝動が生まれる。
人間がみずからの良心のままに信仰を求めることを許さなかった教会や国家の権力に対する勝利ではあるが、一方近代人は、自然科学の方法によって証明されないものを信ずるという内面的な能力を、いちじるしく失ったことは、十分に理解されていない。
言論の自由はたしかに古い束縛にたいする戦いにおいて、重要な勝利ではあるが、近代人は、「自分」が考え話している大部分が、他のだれもが考えはなしているような状態にあることを忘れている。
われわれは、人間がかれになにをすべきで、なにをなすべきでないかを教えるような、外的権威から解放されて、自由に行動できるようになったことを誇りに思っている。しかしわれわれは世論とか「常識」など、匿名の権威というものの役割を見落としている。われわれは他人の期待に一致するように、深い注意を払っており、その期待にはずれることを非常に恐れているので、世論や常識の力はきわめて強力となるのである。
自我と人生とを信ずることができるような、新しい自由を獲得しなければならないことを忘れている。
人間や自然にたいする自発的な関係である。それは個性を放棄することなしに、個人を世界に結びつける関係である。この種の関係―そのもっともはっきりしたあらわれは、愛情と生産的な仕事である―は全人格の統一と力強さにもとづいている。それゆえそれは自我がどこまで成長するかの限界によって左右されるだけである
降るプラチナ
存在することは損傷
「自分」というのが自分の手に負えるものだと思っているのが大きな誤解ですよね。
「自分」は自分の手に負えない。
自己責任とか自己決定とかいう言葉は胡散臭いというのが私の実感です。
私は自己であるということは課せられているもの、刑罰みたいなものだと思っています。
なのに、わざわざ自分からそれを探すということは、自虐の極みだと思いますよ。
でも、自虐せざるを得ない理由もわかる。
おそらく、ある根源的な痛みを別の痛みで代償しているんだと思います。
先ほど申し上げたでしょう、存在することは損傷だと。
この痛みが消えないとすれば、別の痛みで代償するか、元の痛みに気づかないようにするしか道はない。
結構わかりやすい言葉でゆうてくれてるからだと思う、そこにかなり好感を持てる
思うに、仏教は(仏教を含む)あらゆる立場や考えの相対性を認めた上で、
「絶対確実な根拠」を持たぬまま、ある一つの立場(仏教者なら無常と無我の考え)
を選ぶべきだと、勧めているのです。この決断(私に言わせれば、賭け=「信」)こそが、
ニヒリズムの向こう側に出る営為でしょう。
信じて虚無さえも超え行くとゆうことか、
それになんかこの人すごい人間くさくていいんだよなぁ
生きにくい人生を少しでも生きやすくする為に、それが大切だからなんだろう
本当のぼくは誰ですか? 本当の自分を見失いかけた少年が、老師に問う。
人間とは何ですか? 自ら命を絶つことは許されるのですか?と答えを求める少年に
老師が言った言葉です。
善悪を言うのは意味がない。それは人の一時の判断で、なんら確かな根拠はない。
しかし、友よ。人は自ら死ぬべきではない。たとえ、それが悪いことでなくても、
その人にとって生きることが死ぬことよりはるかに辛いことだとわかっていても、
自ら死ぬべきではない
生きる意味より死なない工夫だ
聞け、自分が存在する。自分が生きている。そう思うか
ら、人は自分とは何かを問い、なぜ生きているかを問う。
しかし違うのだ
自分が存在するのではない。存在するのだ。自分が生き
ているのではない。生きているのだ。問いはそこから始ま
る。「自分」からではない
信じていることを忘れたとき、人は理解する
『自分』を脱落せよ、ならば問いは消滅する
欲望だけが生きていることの苦しみなのだ
大切なのは答えではなく、答えがわからなくともやっていけること
味方
特殊清掃(注意要)
事故物件についてのページをずっと読んでいると
特殊清掃員が書いたブログを発見した
http://blog.goo.ne.jp/clean110
特殊清掃とは、遺品処理・遺品回収・遺品整理・遺体処置や事件・事故現場等、
通常の清掃業者では対応出来ない特殊な清掃業務のこと
最初は怖ろしい思いと怖いもの見たさのような気持ちで読んでいた
読んでくうちに、その思いはまったく消えていた
気付くと私は感動して泣いていた
自分はなんて浅はかな思いで故人のこと、そこに関係する事柄を見ていたのだろう
そこには、他の死にある悲しみとは何か違うものがある
そして、遺族の悲しみも、また違うものだ
死、とゆうのも、とても生々しいものだ
機械が壊れるのとは、わけが違う
私は毎日と言っていいほど死にたい思いにかられる
それはとても、絶望の闇であり、苦しいことだ
それが限界に近くなった時に、よく想像することがある
それは私が自分で命を絶って、その体はただの腐りゆく物と成り果て
見るにもおぞましい姿になっているそれを
私の大切な家族が見て茫然としている光景だ
それを想像して、いつも、生きてる方がずっとマシだな
と思い、死ぬことを諦める
このブログを読んで、その思いは一層大きくなった
そんな苦しみを家族にさせるくらいなら
どんな非道な生き方だろうが、廃人だろうが
生きてる方がいいに決まっている
それでも、
いつかお世話になる時も来るかもしれない
今のうちから感謝して、お世話になる時はありがとう、という思いで生きようと思った
なかなか出来る仕事ではない、大きな尊敬を込めて
一本の樹ではなく、広い森を見て生きてゆきたい