でおさんへ

眠っていたよ

夢を見たよ

溺れそうになって慌てて眼を覚ましたんだ

そこはお風呂の中だった

足を伸ばして入っていて、浅いお湯の中で

ずっとそこにいたい気持ちにかられたけど

ずっとそこにいるのも怖いと思った





次は、目が覚めると、お風呂のお湯を湯船に出しっぱなしにして

眠っていて、そこらじゅうが水浸しだった

そこから急に実家に変わるんだ

どの部屋も暗くて、早く水を拭かなくちゃと思うのに

何度電気をつけても、つかなくて

あまりに喉が渇いてて水を飲むんだけど

何度飲んでも喉が渇いたままで

また電気を何度もつけるんだけど

つかないんだ、薄暗い部屋は怖くて

炬燵の布団の中に何か怖いものが潜んでいる気がしたけど

怖くて、それを見ないふりしていたんだ

寂しいさみしい夢だった








目が覚めて、夢を思い返していた

あの湯船の中は、胎内のようでもあったし

棺の中のようでもあったな、って

胎内と棺の中は同じ場所かもしれない



何度電気をつけようとしてもつかなかったことが

とても不安で怖くてさみしかったよ


人はあんな風に一人で生まれて一人を生きて一人で死んでゆくんだと思った

みな、そうやって同じ場所へ帰るんだね




僕は一番愛おしい人をこの手で殺したんだ

その絶望を僕は死ぬまで越えられるはずないと思ったよ

でおさん、僕は愛を超えることができない

夢のように、何度も何度も光を灯したくて

灯そうとするけれど、灯ってはくれないんだ

僕はもう二度と光は灯せないと、今日の夢が

本当のこと見せてくれたようだった

だから太陽のようなでおさんにも

ほかのだれにも関わること許されないのに

でも寂しくて、甘えてしまう僕を許してほしい

ごめんなさい

愛敬なるシルヴィタン

最近ずっと聴いておるDavid Sylvian特集です


この曲がたまらく好きで好きでたまらないので載せたくて動きも付けてがんばって作りました
時間かなりかかって疲れました、この曲繰り返し聴きすぎて
ちょっと当分聴きたくないですε(  ´・ω・)←嘘です











体内回帰、これの共演でシルヴィタン(David Sylvianのこと)とIngrid Chavezは結婚したそうですが
5年前に別れたので、一層いい曲とpvとなってます

David Sylvian - Heartbeat

modestoって誰か知らんが、この人のリミックスいいです
眼鏡をかけたシルヴィタンはやばいかと思います

"World citizen" Remixed by Modesto Muniz

シルヴィタンはいつもほんとに元気がなさそうなので、少し心配になるけれど
そこがいいのです

Immerse your heart

デヴィッド・ボウイが好きなシルヴィタンはこの曲をボウイにけちょんけちょんに言われた
ために、pvにはボウイは全く映っておりません(笑)シルヴィタンの復讐です

Sylvian & Sakamoto - Forbidden Colours

このpvがとても好きです、シュールで白黒の世界がとてもシルヴィタンには
似合っております

David Sylvian - The Ink In The Well

japan時代の、日本てバンド名のくせにチャイナってばっかなんですけど…
japanは16歳上のおねえたまの時代で、おねえたまが当時ファンでした
私がまだ聴いてない時に、japanのアルバムやシルヴィタンのアルバムをもらったのですが
うーんって感じで聴かなかったんですけど(笑)それとは知らずにシルヴィタンを
自分で見つけて聴いて好きになり、あ、これっておねえたまがくれたやつやってんやって(笑)
それをおねえたまに言うと、「ええやろー?あのアルバム探してたんや、
おまえんとこにあったんか」って(笑)

Japan - Visions of China HD-video

japanのこの曲を完璧に歌いこなせたら立派なゴーストになれそうです

Japan - Ghosts

ライヴいきてぇよっ…年をとったシルヴィタンの渋さは緑茶を全部袋ごと入れたお茶以上でしょう

David Sylvian - World Citizen [Live 4.10.03]

シルヴィタンの父親の顔やすごく笑った顔、奥さんと可愛い子供たちが映っています

David Sylvian & Ingrid Chavez - Time Spent (Part 1)

ZERO LANDMINE

『ZERO LANDMINE』(ゼロ・ランドマイン)は、地雷問題に関心を持った坂本龍一が

2001年にTBS開局50周年の地雷根絶キャンペーンの一環として作った曲です。

CDの売上金はすべて地雷撤去などの資金になってます。

坂本龍一の呼びかけで結成されたユニット、N.M.L.(NO MORE LANDMINE)には

全国からたくさんの有名アーティストが参加しています。
(クラフトワーク、シンディ・ローパー、ブライアン・イーノ、とか
日本ではUA、大貫妙子、ミスチルの桜井、佐野元春、chara、吉田美和、などなど)

詞は坂本の長年の友人である元・ジャパンのデヴィッド・シルヴィアンが担当しています。
(歌っててソロバージョンもあります)

私は今日初めてこんなものがあったことを知ったのですが

その頃はデヴィッド・シルヴィアンのことは知らんかったのですが

これは生で聴いておくべきだったと後悔しています…

18分半もの音楽が国も違うたくさんのアーティストで生演奏されてます、

前半は地雷のある国のいろんな民族音楽を基に作られています、かなり

素晴らしいです、これはライヴ映像がほんとにいいです、今頃知った自分が歯痒い感じです。

こういった世界共鳴的なものに私は弱いのです。

何より、デヴィッド・シルヴィアンが元気そうで嬉しいです、いや

坂本は友達だなんていいなぁ・・・、とか、いや、そんなことより!

是非これは聴いてください。

アマゾンで新品が高い値段で売られてますが

今それを買っても資金になるのか?がわからないけど、これは

もう9年も前やけど、買おうかと思いました。






歌詞 David Sylvian

「ZERO LANDMINE」


This is my home
The land of my mother
The place I play
With sisters and brothers

The trees are rooted
In the ground beneath
Take away the violence
Give the earth back its peace

This is our world
Our common salvation
It knows no borders
It serves no nation

The same sun shines equally
On those beneath
Take away the violence
Give the earth back its peace

There's fire in the ground
In the space between the trees
In the forests and fields
On pathways,in dreams

The stars are whispering
To the ground beneath
Take away the darkness
Give the earth back its peace

Who painted the green grass red with danger
Who coloured the big sky blue with sorrow
A strong wind carrying fear and anger
Came and went and stole tomorrow

This is my home
The land of my mother
The place I play
With sisters and brothers

The trees are rooted
In the ground beneath
Take away the violence
Give the earth back its peace

The same sun shines equally
On those beneath
Take away the darkness
Give the earth back its peace

Like trees we're rooted
In the ground beneath
Take away the violence
Give the earth back its peace

Give the earth back its peace


訳、村上龍

【地雷のない世界】

ここがわたしの家
おかあさんに育てられ
懐かしい兄や妹たちと
遊んだところ

あなたにも見える?
地面には木が根を下ろしている
暴力はもうたくさんだ
この地にもう一度平和を

ここはわたしたちみんなの世界で
わたしたちみんなの救いがある
だから、国も、国境も、関係がない

太陽が光り輝いている
みんなが光を浴びている
暴力はもうたくさんだ
この地にもう一度平和を

熱くて、息ができないよ
地面に炎がある
木の間に、森や畑や小道にも
私たちの夢の中にも

あなたにも聞こえる?
お星さまがささやいている
暴力はもうたくさんだ
この地にもう一度平和を

緑の草原を、血みたいな赤に塗ったのは誰?
広い大空を、悲しみの青に塗ったのは誰?
強い風が、恐れと怒りを運んできたよ
そして風が明日を奪っていったよ

ここがわたしの家
おかあさんに育てられ
懐かしい兄や妹たちと
遊んだところ

あなたにも見える?
地面には木が根を下ろしている
暴力はもうたくさんだ
この地にもう一度平和を

太陽が光り輝いている
みんなが光を浴びている
暴力はもうたくさんだ
この地にもう一度平和を

根を下ろす樹々と同じように
わたしたちもこの土地を離れることはできない
暴力はもうたくさんだ
この地にもう一度平和を

この地にもう一度平和を



こうゆうことをもっとたくさんたくさんしてほしいのにな

なんでもっとしてくれないんだろう

こうゆうのが一番金が集まるだろうからいいのにな

普段募金をしない人も、こうゆうのだと、よし買おうと思えるだろうに

何かしたいのにできない人間が自分含めたくさんいるんだろうな

日本は戦争も地雷もないけれど、死にたい人がたくさんいて

そんな人たちも役に立てる喜びを知れば、生きてゆける人がいるはずだ

せめて戦争と殺人と自殺がなくなる世界にいつかなってくれ、頼むって

僕らは願い祈ることしかできないのか

行動でしか間に合わないこと

mixiのスクラップヘブンのレビューに書いたこと

昨日観て、まだ落ち込みが激しい

愛があっても人を変えられないってことをまんまと見せつけられたからかもしれない

オダギリ演じるテツの愛は届かなかった

でも加瀬演じるシンゴは、きっと映画が終わった後から少しずつそれが
わかってくるはずだと思った

だから生きなければいけなかった

そこが唯一この映画の救いなんだと感じた

誰も傷つかずにそれをわからせるなんて、やっぱり無理なんだと
それをみせしめてくれたことに感謝したい

激しい痛みの分跳ね返った強い思いが誰かのところに行くんだと思った

人が気付くのは、想像力ではなく出来事なんだ

それじゃ遅い

遅いんだ


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今日も朝からずっとスクラップヘブンを引きずっています

映画の初めごろでオダギリ演じるテツと加瀬演じるシンゴ二人は

「想像力が必要なんだ、想像力が足りねえんだ」と言い

想像力があれば悪いことを変えられると信じます




でも二人はまるで想像できなかった、起こる事態を





取り返しのつくことなら、それでいい全然、起こってから気づけばいい

でももう二度と取り返しのつかないことがある

誰かの死だ



思えば、その死というものに4歳のころから私の人生は持ってかれてる

母の死で、4歳から、なんなんだこの世界は、と

世界を恨んでいたか、もういいこんな世界に何も望むもんか、と

思っていたか、なんでなんだ、なんでお母さんは死んでしまったんだ、と

自分はどうすることもできなかった、その無力感を嫌でも思い知らされた

受け入れはしなかった、から母を忘れることで生きようとしたが

うまく行くはずもなかった






15歳の時、酒鬼薔薇の言った「透明なボク」に酷く共感する

彼は自分だ

その後5年間彼をもう一人の自分のように想い続ける

家族以外と特に誰とも関わらず、そうして鬱はひどくなり寝たきりの生活で

父を酷く悩ませる

22歳の時父が死んでしまった

ずっと恐れていたことが本当に起きたんだ

ずっと想像しては泣いていた、その父の死が本当に来たんだ

信じられない、未だに、まったく

あんなに私は想像してたじゃないか

なのに、私は鬱なんかのせいにして布団から起き上がれなかったんだ

希望なんてものを持つことができなかった

そんな絶望の真っただ中に父は死んだ

これがおまえの本当の絶望だよ、とそこは地獄以外のなんでもなかった

想像してたよりもあまりに早く父はあっけなく死んでしまったんだ








想像なんて、してるだけじゃ、意味ないやんか

想像して泣いてるだけで、私なんもせんかったやんか

だからこんなことになった

一生この真っ暗闇の後悔からは抜け出せないのか

私にはまだそんな同じような後悔の対象になる人がいる

姉と兄だ、特に兄とは私が25歳までずっと一緒に暮らしてきたのに

今では何の連絡も交わさないような関係だ

二年前に兄から勝手なことばかりしてる私に向かって

「お前は向こうで(ここではないどこかという意味)死ね」

「こっちで死んで迷惑かけるな」というようなことを言われ絶縁されてから

特にお互い謝りの言葉もなく、二人で特に何も話さず今がある

私が今死んでしまえば、兄はそんなことを言ったことを後悔するのだろうか

「おまえのせいでお父さんは死んだんや」そう何度も言った姉と兄は

私が死ねば、きっと後悔するんじゃないか



私がちゃんとした生活を送れてさえいれば、いくらでも会える

いくらでも話せる、だってまだお互い生きてるんだ、同じ世界にいるんだ



想像してるんだ、お兄ちゃんも精神面が危ういから心配なんだ

心配だけしててもしかたないんだ

動けなくちゃ意味ないんだ

動ける力がほしい、その勇気が本当にほしいよ、当たり前の勇気がほしいんだ








テツが本当に可哀想でならない、あんなに行動してたのに

なんで、なんでそれでもだめなんだろう

スクラップヘブン

スクラップヘブンとゆう映画を観た

とてもよかった、よかったから観終わってまだ鬱が続いている



「アカルイミライ」に似ていると言われてたが、全然違う

観終わってすかっとは全くしない

ただ、どうしてだろう、と思う

それがこの現実なんだ、じゃあ僕らはただ黙ってこの世界のやられるまま

生きて悔しいまま死ぬしかないのか

それでいいのか、おまえは、俺は

やってやろうよ、復讐だよ

何に?

世界だよ、全部!




「すべてを一瞬で消す方法を知ってるんだ」とオダギリ演じるテツが言っていた

テツがほんとによかった、アカルイミライのオダギリとよく似ている

でももっと悲しい、だからほんとに好きだ

前半のテツと後半のテツは全然違う

あることをきっかけに、外に向いてた復讐がすべて自分に向いたのかもしれなかった

そんなテツのような人間を前にした時、道徳的ではない、犯罪者であるから、だとかは

全く無意味だ



ある流れで、その一線をあっさりと越えてしまうのは

大きな水溜りを越えようと飛んで、飛び越えることが出来ず足がはまってしまった

瞬間のように、飛び越えられると思ってたのに、予想は大きく外れてしまった

そんなことと同じで、それは罪でも馬鹿でもない



戦いはしないけど、俺は復讐するよ

この世界に復讐してゆくんだ、一度死んだようなもんだし

命が惜しいとかもうないんだ



痛みとか取り返しのつかないこととかじゃなきゃ

人ってなんもわかんねえんだよ

人の痛みをなんもわかんねえんだ



何もできなかった

なんもできなかったんだよ、俺は

一番守りたい人守れなかった

俺だけがきっと助けられる人助けられなかった



自分恨んでも意味ねえし

世界恨んでも意味ねえよ

復讐って意味合いつけてさ、人に痛み植え付けたいんだよ

そしたら、なんか取り返しのつかないなんか起きても

取り返しのつかないこと起きる前か後になんか気付くんじゃねえかって

気づいても何もできないことに変わりないけど

俺が死んだら世界は一瞬で吹っ飛ぶんだ

けど俺のそばにいた人の世界は吹っ飛んではくれないよ

その人が死ぬまでずっとずっと俺が苦しめる




さあ、どうやってあんたは復讐したい?








エンディングの歌流れて、びっくりした

フジファブリックだった、志村さんは最後にどんなことを強く思ったんだろうか





この映画では断然オダギリがよかった、加瀬は完全脇役だった


「誰も傷つかないなんてあるわけないだろ」とテツが言ってた

傷つけるのも傷つくのも嫌だってゆうなら、あんた一体何がしたいんだよ

わかんないってゆうんなら、もっと傷つけ、もっと傷つけろ

共鳴

エーリッヒ・フロムの『自由からの逃走 新版 』から抜粋文を張り付ける


自由は近代人に独立と合理生徒をあたえたが、一方個人を孤独におとしいれ、そのため個人を不安な無力なものにした。その孤独はたえがたいものである。かれは自由の重荷からのがれて新しい依存と従属を求めるか、あるいは人間の独自性と個性とにもとづいた積極的な自由の完全な実現に進むかの二者択一に迫られる。


人間は外界の位置構成部分であるかぎり、個人の行動の可能性や責任を知らなくても、外界を恐れる必要はない。人間は個人となると、独りで、外界のすべての恐ろしい圧倒的な面に抵抗するのである。


ここに、個性をなげすてて外界に完全に没入し、孤独と無力の感情を克服しようとする衝動が生まれる。


人間がみずからの良心のままに信仰を求めることを許さなかった教会や国家の権力に対する勝利ではあるが、一方近代人は、自然科学の方法によって証明されないものを信ずるという内面的な能力を、いちじるしく失ったことは、十分に理解されていない。


言論の自由はたしかに古い束縛にたいする戦いにおいて、重要な勝利ではあるが、近代人は、「自分」が考え話している大部分が、他のだれもが考えはなしているような状態にあることを忘れている。


われわれは、人間がかれになにをすべきで、なにをなすべきでないかを教えるような、外的権威から解放されて、自由に行動できるようになったことを誇りに思っている。しかしわれわれは世論とか「常識」など、匿名の権威というものの役割を見落としている。われわれは他人の期待に一致するように、深い注意を払っており、その期待にはずれることを非常に恐れているので、世論や常識の力はきわめて強力となるのである。


自我と人生とを信ずることができるような、新しい自由を獲得しなければならないことを忘れている。


人間や自然にたいする自発的な関係である。それは個性を放棄することなしに、個人を世界に結びつける関係である。この種の関係―そのもっともはっきりしたあらわれは、愛情と生産的な仕事である―は全人格の統一と力強さにもとづいている。それゆえそれは自我がどこまで成長するかの限界によって左右されるだけである








この難しすぎる文を自分の力で理解しようとしてみよう





自由とは何か、それは戦争も宗教もないこの国は特に自由な国だろうか

そこでは個人の独立が可能だ、何かの迷信に囚われることなく

自分の目的に沿って生きることができるだろう

その一方で自由な人は孤独になりやすく、不安で無力になりやすいのもわかる



『彼は自由というその重荷から、逃れ、

何か新しい依存や従属(強力なもの、中心となるものにつき従うこと)を求めるのか

あるいは、人間の独自性(他と違い、それだけに特有の性質)と個性にもとづいた

「積極的な自由の完全な実現に進むかの二者択一に迫られる」』←(これだが

ない気がする

誰もが何かに依存しながら、何かに従いながら、自分の独自性をそこから

見つけ出して行ってるからだ)



「人間は外の世界の位置構成部分(ってなんだ?人間がどの位置にいるべきかを組み立てた部分ってこと?)であるかぎり

個人の行動の可能性や責任を知らなくても、外界を恐れる必要はない←(そりゃないだろうと思う)

人間は個人となると、独りで、外界のすべての恐ろしい圧倒的な面に抵抗するのである。

ここに、個性をなげすてて外界に完全に没入し、孤独と無力の感情を克服しようとする衝動が生まれる。」

(社会に出て何かに圧倒されると、自分の個性などは捨てて社会に溶け込もうとして

そこで孤独と無力を克服しようと心は動く、とゆうことだろうか?)



「人間がみずからの良心のままに信仰を求めることを許さなかった教会や

国家の権力に対する勝利ではあるが←(これがまたわからない、人間の自らの良心とゆうものは

信仰を無理強いしようとする教会や、国家の権力に対する勝利である、とゆうことだろうか?)

一方近代人は、自然科学の方法によって証明されないものを信ずるという内面的な能力を、

いちじるしく失ったことは、十分に理解されていない←(これはわかりました、

宗教や目に見えない力を排除して生きるとゆうことは、それを失った、と言えるくらい

それは大切なことではないかと)



「言論の自由はたしかに古い束縛にたいする戦いにおいて、重要な勝利ではあるが←(一体何が

勝ちで負けなんだろう?言論の自由で失ったものもたくさんあるから、引き分けでいいと思うけどな)

近代人は、「自分」が考え話している大部分が、他のだれもが考えはなしているような状態に

あることを忘れている←(なんでそう思うんだろう?私がマイノリティだと

言われたのは何故なんだろう?私が考えていることを誰もが考えると当然思ってることは

おかしいことなのか?)



「われわれは、人間が彼になにをすべきで、なにをなすべきでないかを教えるような、

外的権威から解放されて、自由に行動できるようになったことを誇りに思っている←(誇りってなんだ

?誇りなんて必要なのだろうか?誇りとするなら、何々に誇りを持つのではなく

この世界でただ生きていることに誇りを持てばいい)

なんかだんだんエーリッヒに対しての否定文ばっかになってきたな、まあいいや)

しかしわれわれは世論とか「常識」など、匿名の権威というものの役割を見落としている←(これは

どうゆうことなんだ、世論とは、ある公共の問題について社会の大多数の賛同を得ている意見

常識とは、一般の社会人が共通にもつ、またもつべき普通の知識・意見や判断力

我々、って一体誰のことなんだ、そういやこれ抜粋文だから飛び飛びなんだ!わからないわけだ!)

われわれは他人の期待に一致するように、深い注意を払っており、

その期待にはずれることを非常に恐れているので、

世論や常識の力はきわめて強力となるのである←(やっと、わかった、我々とは社会に出て自分を

押し込めている人たちのことか)



「自我と人生とを信ずることができるような、新しい自由を

獲得しなければならないことを忘れている←(これはよおくわかった!みんなが安易に求める

自由は確かに束縛的なんだ、自分を縛っていることにも気づいていない人が多い

僕もその一人だし、気づいてもなかなか解くこともできない、でもさ

自分とその人生を信ずるのには、何が必要だろう?

知識?理解力?慈悲?自我を無くすこと?

そんなこと、わかってるよね、わかってるんだ、ほんとはみんな

愛しか、人を愛することでしか自由にはなり得ないってことを)



「人間や自然にたいする自発的な関係である。(自発的=物事を自分から進んで行うさま)

それは個性を放棄することなしに、個人を世界に結びつける関係である。←(自分の個性を認め

愛することで、それを世界に結びつける、世界の個を認める関係性だろうか?)

この種の関係―そのもっともはっきりしたあらわれは、

愛情と生産的な仕事である―は全人格の統一と力強さにもとづいている。←(ほら、愛情ってでてきたろ

う?愛は全てをひとつにして、何よりも力強さを持っている、ほんとにそう思う

なんだっていいんだ、それが愛なら、なんだっていい)

それゆえそれは自我がどこまで成長するかの限界によって左右されるだけである」←(成長がそうゆうこ

となのはわかってる、限界ってなんだろう、死のことかな?生きてる限り人は限りはないものな

生きてる限り人は愛を教わる、この大きくて生きてる日数通い続ける学校の生徒みたいなもんだ)



共存しているならば、共鳴しよう、何故か?

君が幸せに自由になれるように、ただそれだけ

降るプラチナ


このライヴのDVD買ったのに、先youtubeで見てもうた・・・・観るのドキドキする



ライヴバージョンとてもいい





僕が新居昭乃がとても好きなのはね、彼女の悲しみがとても深いものだから

彼女は子供の時にお父さんが自分の所為でいなくなってしまったんだと

ずっと思ってるんだ、それはどんな悲しみだろう

どれほどの悲しみなんだろう

ぼくにはぼくの悲しみがあって

彼女には彼女の悲しみがある

違うもの、かもしれない

でも、同じなんだ

同じなんだ

とても、とても深いんだ、その悲しみは

でも、その悲しみはとってもとっても愛おしいものなんだ

放したくないんだ、絶対に




雨、降ってるね

癒される、雨降ってるだけで

僕はたくさんのものに癒されてなんとか生きて行けてるんだ







あぁ、あの星は、今も回っている

僕の周りを回っているだろう

いつか、近づけるその時を待っているよ

さぁ、その先は僕ら知らないんだ

ただ、待っているんだ、君の鼓動を僕は聞いているよ

一緒に、近づこうね、怖いなら僕が手を繋いでいるよ









存在することは損傷


南直哉(みなみじきさい)という禅僧が気になる


 
「自分」というのが自分の手に負えるものだと思っているのが大きな誤解ですよね。

「自分」は自分の手に負えない。

自己責任とか自己決定とかいう言葉は胡散臭いというのが私の実感です。

私は自己であるということは課せられているもの、刑罰みたいなものだと思っています。

なのに、わざわざ自分からそれを探すということは、自虐の極みだと思いますよ。

でも、自虐せざるを得ない理由もわかる。

おそらく、ある根源的な痛みを別の痛みで代償しているんだと思います。

先ほど申し上げたでしょう、存在することは損傷だと。

この痛みが消えないとすれば、別の痛みで代償するか、元の痛みに気づかないようにするしか道はない。




なかなか難しい内容だけれど、この人の言葉はすんなりと入ってくるのは
結構わかりやすい言葉でゆうてくれてるからだと思う、そこにかなり好感を持てる

思うに、仏教は(仏教を含む)あらゆる立場や考えの相対性を認めた上で、
「絶対確実な根拠」を持たぬまま、ある一つの立場(仏教者なら無常と無我の考え)
を選ぶべきだと、勧めているのです。この決断(私に言わせれば、賭け=「信」)こそが、
ニヒリズムの向こう側に出る営為でしょう。

これはすごいわかりやすいな、絶対確実な根拠を持たぬまま、ある賭けのようなものを
信じて虚無さえも超え行くとゆうことか、

すごい、難しいけれど、わかりやすい

仏教にも興味出てきてるし、よしこの人の本読んでみよう
それになんかこの人すごい人間くさくていいんだよなぁ

絶対確実な根拠を持たないで、ただ人にとって救いになる「信心」を持って生きる
生きにくい人生を少しでも生きやすくする為に、それが大切だからなんだろう


老師と少年とゆう本から、抜粋文を借りてきました
本当のぼくは誰ですか? 本当の自分を見失いかけた少年が、老師に問う。
人間とは何ですか? 自ら命を絶つことは許されるのですか?と答えを求める少年に
老師が言った言葉です。


善悪を言うのは意味がない。それは人の一時の判断で、なんら確かな根拠はない。
しかし、友よ。人は自ら死ぬべきではない。たとえ、それが悪いことでなくても、
その人にとって生きることが死ぬことよりはるかに辛いことだとわかっていても、
自ら死ぬべきではない

生きる意味より死なない工夫だ
聞け、自分が存在する。自分が生きている。そう思うか
ら、人は自分とは何かを問い、なぜ生きているかを問う。
しかし違うのだ
自分が存在するのではない。存在するのだ。自分が生き
ているのではない。生きているのだ。問いはそこから始ま
る。「自分」からではない
信じていることを忘れたとき、人は理解する
『自分』を脱落せよ、ならば問いは消滅する
欲望だけが生きていることの苦しみなのだ
大切なのは答えではなく、答えがわからなくともやっていけること


君が苦しいのなら、やがて救われるだろう

本当に苦しいのなら、こうして救いは必ず導き出されるだろう

救いを求めることはやめてはいけない

よく生きようと思わなくていい、破滅や死を自ら選ぶ前に

何もかもから離れてしまえばいい、自分も他人もこの世界の繋がり全ても

そうすればきっと楽になる、自ら苦しむ必要はないんだ

自ら苦しむことができるのは、自ら救うことができるからなんだ

味方

さっき前の彼氏に「俺は君の味方だから」と言われたよ

泣きそうになった、でもぼくはすでに電話越しで泣いていた

あんなにひどいことお互いあったのに

そんな言葉をくれるなんて

ほんと、感謝(驚)だな







言葉なんないな























特殊清掃(注意要)

事故物件についてのページをずっと読んでいると

特殊清掃員が書いたブログを発見した

http://blog.goo.ne.jp/clean110

特殊清掃とは、遺品処理・遺品回収・遺品整理・遺体処置や事件・事故現場等、

通常の清掃業者では対応出来ない特殊な清掃業務のこと

最初は怖ろしい思いと怖いもの見たさのような気持ちで読んでいた

読んでくうちに、その思いはまったく消えていた

気付くと私は感動して泣いていた

自分はなんて浅はかな思いで故人のこと、そこに関係する事柄を見ていたのだろう

そこには、他の死にある悲しみとは何か違うものがある

そして、遺族の悲しみも、また違うものだ





死、とゆうのも、とても生々しいものだ

機械が壊れるのとは、わけが違う




私は毎日と言っていいほど死にたい思いにかられる

それはとても、絶望の闇であり、苦しいことだ

それが限界に近くなった時に、よく想像することがある

それは私が自分で命を絶って、その体はただの腐りゆく物と成り果て

見るにもおぞましい姿になっているそれを

私の大切な家族が見て茫然としている光景だ

それを想像して、いつも、生きてる方がずっとマシだな

と思い、死ぬことを諦める


このブログを読んで、その思いは一層大きくなった

そんな苦しみを家族にさせるくらいなら

どんな非道な生き方だろうが、廃人だろうが

生きてる方がいいに決まっている


それでも、

いつかお世話になる時も来るかもしれない

今のうちから感謝して、お世話になる時はありがとう、という思いで生きようと思った

なかなか出来る仕事ではない、大きな尊敬を込めて

一本の樹ではなく、広い森を見て生きてゆきたい