[2:42:07] kozue ueda: 今日、奇妙な夢を見たんだ
[2:42:34] kozue ueda: 知らない家にお父さんといるんだけども
[2:42:44] kozue ueda: ベランダになんか棚があって
[2:43:03] kozue ueda: ちょっとだけSFチックな感じで
[2:43:49] kozue ueda: で、お父さんとくつろいでたら、突然その棚の上にあるなんか顔の置物がしゃべりだして、ぎょっとするんですよ
[2:44:05] kozue ueda: でっかい顔だけの置物
[2:44:21] kozue ueda: なんか奇妙なメイクしてて
[2:44:41] kozue ueda: で、よく見たら、お兄ちゃんやったのw
[2:45:24] kozue ueda: その棚の後ろにお兄ちゃんがもう何時間も前に隠れてて、でそこに顔をはめ込んで、驚かそうとしたみたい
[2:45:51] kozue ueda: ずっとそこでじっとしてたんだと思うと、おかしかったw
[2:46:02] kozue ueda: 根性を見せてもらえたw
[2:46:34] kozue ueda: 変な夢を見るもんですねw
[2:47:21] kozue ueda: だからさ、顔をはめ込んで、じっとしてたわけなんだよねw
[2:47:32] kozue ueda: で、私もお父さんもずっと気づかなかった
[2:48:10] kozue ueda: なんか、寂しいというかw
[2:48:17] kozue ueda: ずっと気づいてもらえなかったんだっていうw
[2:49:19] kozue ueda: まあ気づいてたら、ぎょっとさせられなかったから成功なんでしょうね
上辺の世界
ぼくらはみんな水面を泳いでいる。
そこは、上辺の世界だ。
水面には、光がたくさん反射する。
強い光をぼくらは吸収して生きている。
水の底は、とっても暗い。
真っ暗でなにも見えない。
そこには、ほんとうのぼくらが眠っている。
ぼくらのまだ知らない、誰も知らない自分が眠っている。
誰もまだ知らないからそこはとっても暗い。
そこで眠っているほんとうの自分はすべてを知っている。
でも眠っているんだ。
ぼくらのなかで目覚めることなく、まだ眠っているんだ。
すべてを知っているのに、まるでなにも知らない赤ん坊のように眠っている。
ぼくらはなにも知らず、光の水面を泳ぐ。
水面は眩しく、あまりに素晴らしく、底のないほど悲しい。
上辺の世界で、底のない世界を知ることがぼくらにはできるだろう。
そこは、上辺の世界だ。
水面には、光がたくさん反射する。
強い光をぼくらは吸収して生きている。
水の底は、とっても暗い。
真っ暗でなにも見えない。
そこには、ほんとうのぼくらが眠っている。
ぼくらのまだ知らない、誰も知らない自分が眠っている。
誰もまだ知らないからそこはとっても暗い。
そこで眠っているほんとうの自分はすべてを知っている。
でも眠っているんだ。
ぼくらのなかで目覚めることなく、まだ眠っているんだ。
すべてを知っているのに、まるでなにも知らない赤ん坊のように眠っている。
ぼくらはなにも知らず、光の水面を泳ぐ。
水面は眩しく、あまりに素晴らしく、底のないほど悲しい。
上辺の世界で、底のない世界を知ることがぼくらにはできるだろう。
怒涛の愛HASEKRSW
2016年、恒心教です!
俺は今年に生まれてきて、去年には死んだ白魔術くんナリ。
耳のある者は聞いてほしい。
命を削って俺は書こうと思う、何をか。
何を、何を書こうか、死神の血は金色だったという結末から先に書かねば仄めかしのゴリホーモ認定を受けるかもしれないが、ここはひとつ、なんにもないところから始めたいと思います。
思えば嘘しかついてなかったのに、どうして真剣に生きてきたんだ。
おっかしぃやろー、それ、おっかしぃやろー、中の人、どうゆう顔してるンゴ。
俺は顔が見たいと思った。どうせ死んでるんやろ、そう思った。
自治会費払ってる顔なのか、見極めたかったのもあったンゴ。
ちなワイはなんJ生まれのなんJ育ち、当職を馬鹿にする者は赦さないナリよ。
ここで希望の全員が、枕を失った。移住地に居住したのち、全員をこれ集め、匿名会議は行われた。
「君の会社の弁当の揚げ物の衣ってなんであんなに大きいの」というテーマから話し合われたが、誰一人、答えは見出せなかった。
いい答えを見出せなかった自辱の思いに全員が絶望した。
しかしこの時、某弁護士が突如現れ苦しそうな吐息交じりで「非常に、ハァ、人生にとって、フゥ、もったいのない時間だとホォ、思うフゥ」と言い残し静かにどこを見てキメルでもなく去って行かれた。
恒心教徒たちは、とっさの出来事にこれ、みな唖然としてしまい何する術も持たなかった。
みな中身のないことをワイワイガヤガヤと賑わしく打ち述べていた時、三十路の白魔術くんはこれ一人自撮りの加工作業に勤しみ、光を失い果てた目を中空に投げかける。
誰かが突然「ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!ブリブリブチチチチチブリリリリリリュリュリュルユウリュリュリュブリュユウ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!ブリブリブチチチチチブリリリリリリュリュリュルユウリュリュリュブリュユウ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」と絶叫した。
しかし特に何事もなく次のテーマに取り掛かっている教徒の群れの中に紛れ込んでいった。
白魔術くんは、朽ち折れそうな日もあったが、なんとか恒心教徒たちの間に減り込むことによって耐えている節はあったんじゃないか。
ハッセはどこかで
と今でも思ってるかどうかはわからない。
でももうすぐ4年も経つんだと思うと何か、神秘的な気持ちで縁というものを感じざるを得ない。
尊師が言った「人は人を愛さなければない」という言葉の意味を教徒たちは永遠に考え続けていかなければない。
私はそう思う。
恒心教に出会ってはや5か月、俺は疲れ切った声で、言い続けた。
「出会いに感謝」
尊師の愛はきっと届く。声なき声に力を。


俺は今年に生まれてきて、去年には死んだ白魔術くんナリ。
耳のある者は聞いてほしい。
命を削って俺は書こうと思う、何をか。
何を、何を書こうか、死神の血は金色だったという結末から先に書かねば仄めかしのゴリホーモ認定を受けるかもしれないが、ここはひとつ、なんにもないところから始めたいと思います。
思えば嘘しかついてなかったのに、どうして真剣に生きてきたんだ。
おっかしぃやろー、それ、おっかしぃやろー、中の人、どうゆう顔してるンゴ。
俺は顔が見たいと思った。どうせ死んでるんやろ、そう思った。
自治会費払ってる顔なのか、見極めたかったのもあったンゴ。
ちなワイはなんJ生まれのなんJ育ち、当職を馬鹿にする者は赦さないナリよ。
ここで希望の全員が、枕を失った。移住地に居住したのち、全員をこれ集め、匿名会議は行われた。
「君の会社の弁当の揚げ物の衣ってなんであんなに大きいの」というテーマから話し合われたが、誰一人、答えは見出せなかった。
いい答えを見出せなかった自辱の思いに全員が絶望した。
しかしこの時、某弁護士が突如現れ苦しそうな吐息交じりで「非常に、ハァ、人生にとって、フゥ、もったいのない時間だとホォ、思うフゥ」と言い残し静かにどこを見てキメルでもなく去って行かれた。
恒心教徒たちは、とっさの出来事にこれ、みな唖然としてしまい何する術も持たなかった。
みな中身のないことをワイワイガヤガヤと賑わしく打ち述べていた時、三十路の白魔術くんはこれ一人自撮りの加工作業に勤しみ、光を失い果てた目を中空に投げかける。
誰かが突然「ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!ブリブリブチチチチチブリリリリリリュリュリュルユウリュリュリュブリュユウ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!ブリブリブチチチチチブリリリリリリュリュリュルユウリュリュリュブリュユウ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」と絶叫した。
しかし特に何事もなく次のテーマに取り掛かっている教徒の群れの中に紛れ込んでいった。
白魔術くんは、朽ち折れそうな日もあったが、なんとか恒心教徒たちの間に減り込むことによって耐えている節はあったんじゃないか。
ハッセはどこかで

でももうすぐ4年も経つんだと思うと何か、神秘的な気持ちで縁というものを感じざるを得ない。
尊師が言った「人は人を愛さなければない」という言葉の意味を教徒たちは永遠に考え続けていかなければない。
私はそう思う。
恒心教に出会ってはや5か月、俺は疲れ切った声で、言い続けた。
「出会いに感謝」
尊師の愛はきっと届く。声なき声に力を。


橋が架かる
今日で父が死んで12年目になる。
父は肺の病気で2003年の9月ごろから発病して12月ごろに入院して、死ぬような病気ではないと医者からは言われていたのだが、症状は一向に良くならず12月23日に病状が急変して悪化し、その日に麻酔で眠らされ一週間後の2003年12月30日の夕方に意識の戻らぬまま息を引き取った。
父が62歳、私は22歳だった。
12年前の今日の夜ほど悲しかった日がない。
その夜ほど本気で死んだほうが楽だと思えた日がない。
あの夜ほどどんなに泣き続けてのた打ち回ってもほんの少しすら悲しみが和らぐことのなかった日がない。
とにかく人生中で一番悲しい日で本気で自殺をしようと思ったが姉兄のことを思うとそれはしないことにした。
そして時が経っていくほど確かに悲しみは薄れてゆくかと思えば、確かに薄れてはいる。
しかし薄れるというのがなんとなく違和感を感じる表現に思う。
何故なら父が死んで数年の間は父のことはよく想い出して父のことを書くことも結構できてたが、それが時が経つほどできなくなってきた。
数年は喪失と悲しみであったのが、それがだんだんと喪失の深さの深まってゆく恐怖のような感覚になっているように、想い出すことが怖くなって来た。
悲しみは薄れているというよりも、奥へ奥へと押し込んでいるのかもしれない。
それはもしかしたら、奥へ奥へ、底へ底へと押し込まなければ耐え切れないような悲しみに膨れ上がってきているからなのかもしれない。
どうしてかは、わからない。
それは自分がその悲しみから逃げているからだと思うこともできる。
でも逃げるのもまた、耐えきれないからだから、やはり悲しみが深まって来てるように思う。
自分の悲しみを受け入れる皿が弱くなったと考えることもできる。
父を喪って数年間は強くなければ生きていけないという心の強さを持っていたのが、その強さがなくても生きていけるようになった、しかしおかしなことにそれと同時に、その弱さでは受け入れられない悲しみを封じ込めようとして、封じたのはそれは、まだ強くないと耐えきれないのにもう弱くても大丈夫だろうと甘く見て勘違いした自分の心であるかもしれない。
もうずいぶん悲しみは薄まって癒えたに違いない、もう弱い心でも十分耐え得るだろうと自分の心は自分の悲しみを侮った。
ふぅと息をついて、過去の悲しみを、喪失を乗り越えようとした。
しかし、見くびっていた。
自分の喪失は、自分の思ってたより遥かに大きなものであるようだった。
自分はもう十分苦しんだ、もう楽になりたいと思って自分は、この喪失を手放そうとしたのかもしれない。
自分でもわからない。
しかし今急に涙が溢れてきたのは、そういうことなんだろうか。
私はもうお父さんを忘れかけている、これが手放してしまったことの証だと、今わたしは何の違和感もなく感じることができる。
悲しみが薄れたわけではなかった。
悲しみを封じ込めたわけではなかった。
悲しみをわたしは手放してしまったんだと自分の流れた涙がまるで証のようだ。
しかしこんなことを言うと、お父さんはどんなに悲しいんだろう。
娘の私が生きるためだとしても、どこかでいま泣いてなければいいが。
12年目の一つの考え方であるから、これが本当のわけじゃない。
ただこうやって一年ごとにひとつひとつ考えを出してって、自分がどう変わっていくかは楽しみであるし、自分が他人になっていく感覚を感じながら虚しさも同時に膨れていくようだ。
最近こんなことを思った。
地球から一光年離れるたびに、地球の一年前の姿を見ることができるという。
十三光年離れて、地球の地上に暮らす自分の家の中を覗けるなら、そこには元気なお父さんが今も生きていることだろう。
さらに二十光年離れて覗いてみたら、そこにはお母さんも微笑んでいて、小さな私と幼い兄、その傍らには若い父が暮らしている。
不思議なことに自分が幼い頃の自分の姿を眺めることもできる。
三十四光年離れれば私はまだ母の胎内で眠っていることだろう。父も母も兄も姉も私のことをまだ知らない。
もう少し近づいて、私の誕生した夜を覗いてみる。
ぷってぷてのあかてゃんの私は母の隣で眠りこけている。
ふと気づくと私の手は一つのボタン装置を持っていた。
いつ手に入れたか覚えていないが、どうやらこのボタンを押すと、今見ているあかてゃんの自分をこの世界から消滅させることができるらしい。
普通に考えたら見ているこの自分も瞬間に消滅するだろう。
っていうか、どうやったら元の地球へ帰られるか方法を思い出せんが。
とにかく自分を消すか消さないかという選択肢を何故か神はわたしにいま与え賜った。
わたしを消すことができるとすると、わたしが存在したことでのみんなの喜びもなくなってしまうが、同時にわたしが存在したことでの苦しみや悲しみを消すことができうる。
わたしが存在したことでの家族の苦しみ悲しみは、わたしがどうにかできるものではないと感じる。
しかしそれがどうにかできるようになった。
可愛いあかてゃんの私が消えたらば、そりゃみんな悲しむことだろう。
しかしそれ以上の悲しみ苦しみを私はみんなに与えてしまったと思っている。いや、これからも与え続けることになるだろう。
ならば、いっそのこと、このボタンを押して自分を消してしまったほうがいいのではないか。
未来のことを何も知らぬような顔をして眠っておる自分は、じきに悪魔の子のように育つのである。
いったいどれだけの人を悲しませ、苦しめたことだろう。
その感情は、与えた喜びよりも遥かに大きいものだ。
自分の選択に架かっている。一本の橋が架かっている、その橋を渡る渡らないを自分が決められるわけだ。
なんという自由!
橋を渡ればすべては始まる。止まることのない歯車は回りだす。
しかし橋を渡らなければ、なにも始まることもない。私は死ぬのだ。本当の意味で。
私をこの世界から除き、あとのすべての歯車が回りだす。
秩序よく、なんの欠陥もなく、止まることはなく。
いつのまにか母の隣で眠っていたあかてゃんの私は目を覚ましてきょとんとした顔で虚空を何故か見つめていた。
わたしはほんとうにふしぎでならなかった。
あの赤ん坊は確かに自分なのに、まるで自分ではないようだ。
だがその瞬間、言い知れぬ憎悪が自分の世界を真っ暗な闇で覆った。
そしてこの赤ん坊は確かに自分なのだと実感することができた。
わたしはやっと決意した。私の全身の血は私の決意に賛成し、これを神の選択と疑うことなく肯定した。
あんなに強いしがらみも未練も死の腕が伸びてきて一瞬で断ち切らせたようだ。
わたしは宇宙の虚空にふわふわ浮かびながら目を見開いて無心で手の中のボタンを押し込んだ。
その瞬間に、小さな赤ん坊の自分の意識に移ったわたしは目の前の暗く寂しい橋の上を這うようにして渡り始めた。
父は肺の病気で2003年の9月ごろから発病して12月ごろに入院して、死ぬような病気ではないと医者からは言われていたのだが、症状は一向に良くならず12月23日に病状が急変して悪化し、その日に麻酔で眠らされ一週間後の2003年12月30日の夕方に意識の戻らぬまま息を引き取った。
父が62歳、私は22歳だった。
12年前の今日の夜ほど悲しかった日がない。
その夜ほど本気で死んだほうが楽だと思えた日がない。
あの夜ほどどんなに泣き続けてのた打ち回ってもほんの少しすら悲しみが和らぐことのなかった日がない。
とにかく人生中で一番悲しい日で本気で自殺をしようと思ったが姉兄のことを思うとそれはしないことにした。
そして時が経っていくほど確かに悲しみは薄れてゆくかと思えば、確かに薄れてはいる。
しかし薄れるというのがなんとなく違和感を感じる表現に思う。
何故なら父が死んで数年の間は父のことはよく想い出して父のことを書くことも結構できてたが、それが時が経つほどできなくなってきた。
数年は喪失と悲しみであったのが、それがだんだんと喪失の深さの深まってゆく恐怖のような感覚になっているように、想い出すことが怖くなって来た。
悲しみは薄れているというよりも、奥へ奥へと押し込んでいるのかもしれない。
それはもしかしたら、奥へ奥へ、底へ底へと押し込まなければ耐え切れないような悲しみに膨れ上がってきているからなのかもしれない。
どうしてかは、わからない。
それは自分がその悲しみから逃げているからだと思うこともできる。
でも逃げるのもまた、耐えきれないからだから、やはり悲しみが深まって来てるように思う。
自分の悲しみを受け入れる皿が弱くなったと考えることもできる。
父を喪って数年間は強くなければ生きていけないという心の強さを持っていたのが、その強さがなくても生きていけるようになった、しかしおかしなことにそれと同時に、その弱さでは受け入れられない悲しみを封じ込めようとして、封じたのはそれは、まだ強くないと耐えきれないのにもう弱くても大丈夫だろうと甘く見て勘違いした自分の心であるかもしれない。
もうずいぶん悲しみは薄まって癒えたに違いない、もう弱い心でも十分耐え得るだろうと自分の心は自分の悲しみを侮った。
ふぅと息をついて、過去の悲しみを、喪失を乗り越えようとした。
しかし、見くびっていた。
自分の喪失は、自分の思ってたより遥かに大きなものであるようだった。
自分はもう十分苦しんだ、もう楽になりたいと思って自分は、この喪失を手放そうとしたのかもしれない。
自分でもわからない。
しかし今急に涙が溢れてきたのは、そういうことなんだろうか。
私はもうお父さんを忘れかけている、これが手放してしまったことの証だと、今わたしは何の違和感もなく感じることができる。
悲しみが薄れたわけではなかった。
悲しみを封じ込めたわけではなかった。
悲しみをわたしは手放してしまったんだと自分の流れた涙がまるで証のようだ。
しかしこんなことを言うと、お父さんはどんなに悲しいんだろう。
娘の私が生きるためだとしても、どこかでいま泣いてなければいいが。
12年目の一つの考え方であるから、これが本当のわけじゃない。
ただこうやって一年ごとにひとつひとつ考えを出してって、自分がどう変わっていくかは楽しみであるし、自分が他人になっていく感覚を感じながら虚しさも同時に膨れていくようだ。
最近こんなことを思った。
地球から一光年離れるたびに、地球の一年前の姿を見ることができるという。
十三光年離れて、地球の地上に暮らす自分の家の中を覗けるなら、そこには元気なお父さんが今も生きていることだろう。
さらに二十光年離れて覗いてみたら、そこにはお母さんも微笑んでいて、小さな私と幼い兄、その傍らには若い父が暮らしている。
不思議なことに自分が幼い頃の自分の姿を眺めることもできる。
三十四光年離れれば私はまだ母の胎内で眠っていることだろう。父も母も兄も姉も私のことをまだ知らない。
もう少し近づいて、私の誕生した夜を覗いてみる。
ぷってぷてのあかてゃんの私は母の隣で眠りこけている。
ふと気づくと私の手は一つのボタン装置を持っていた。
いつ手に入れたか覚えていないが、どうやらこのボタンを押すと、今見ているあかてゃんの自分をこの世界から消滅させることができるらしい。
普通に考えたら見ているこの自分も瞬間に消滅するだろう。
っていうか、どうやったら元の地球へ帰られるか方法を思い出せんが。
とにかく自分を消すか消さないかという選択肢を何故か神はわたしにいま与え賜った。
わたしを消すことができるとすると、わたしが存在したことでのみんなの喜びもなくなってしまうが、同時にわたしが存在したことでの苦しみや悲しみを消すことができうる。
わたしが存在したことでの家族の苦しみ悲しみは、わたしがどうにかできるものではないと感じる。
しかしそれがどうにかできるようになった。
可愛いあかてゃんの私が消えたらば、そりゃみんな悲しむことだろう。
しかしそれ以上の悲しみ苦しみを私はみんなに与えてしまったと思っている。いや、これからも与え続けることになるだろう。
ならば、いっそのこと、このボタンを押して自分を消してしまったほうがいいのではないか。
未来のことを何も知らぬような顔をして眠っておる自分は、じきに悪魔の子のように育つのである。
いったいどれだけの人を悲しませ、苦しめたことだろう。
その感情は、与えた喜びよりも遥かに大きいものだ。
自分の選択に架かっている。一本の橋が架かっている、その橋を渡る渡らないを自分が決められるわけだ。
なんという自由!
橋を渡ればすべては始まる。止まることのない歯車は回りだす。
しかし橋を渡らなければ、なにも始まることもない。私は死ぬのだ。本当の意味で。
私をこの世界から除き、あとのすべての歯車が回りだす。
秩序よく、なんの欠陥もなく、止まることはなく。
いつのまにか母の隣で眠っていたあかてゃんの私は目を覚ましてきょとんとした顔で虚空を何故か見つめていた。
わたしはほんとうにふしぎでならなかった。
あの赤ん坊は確かに自分なのに、まるで自分ではないようだ。
だがその瞬間、言い知れぬ憎悪が自分の世界を真っ暗な闇で覆った。
そしてこの赤ん坊は確かに自分なのだと実感することができた。
わたしはやっと決意した。私の全身の血は私の決意に賛成し、これを神の選択と疑うことなく肯定した。
あんなに強いしがらみも未練も死の腕が伸びてきて一瞬で断ち切らせたようだ。
わたしは宇宙の虚空にふわふわ浮かびながら目を見開いて無心で手の中のボタンを押し込んだ。
その瞬間に、小さな赤ん坊の自分の意識に移ったわたしは目の前の暗く寂しい橋の上を這うようにして渡り始めた。
不自然
僕は仮面乱交パーティーへ参加したことがある。
そのパーティーは、みな服をしっかり着ながら乱交に及ぶんだ。
女はスカートの下は何も履かず、男はズボンのチャックを下すだけで事をこなす。
顔もわからなければどのような体をしているかもわかりづらい。
ただ性器と性器が擦れ合うことだけによる快感と、見られているという興奮だけで充分なんだ。
僕が22歳の時だったんだけど、僕は童貞で女とキスもしたことがなかったし、好きな女の手を握ったことさえなかった。
僕の家は厳格なクリスチャンの家で成人になるまでは異性と付き合うことも許されなかった。
自慰をするときは、女性の裸体や性器などを思い浮かべて行ったことはないし、ましてやポルノグラフィックやビデオなどはもってのほかだった何故ならそれは聖書の教えに反する行いだからだよ。
イエスが言った言葉にある。
「だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです」
物心のつかない頃から聖書の教えを絶対的と育てられた僕はプログラミングされた姦淫=情欲を抱いて女を見ること=罪という設定を覆すことはできない。
はっきり言うが、できないんだ。
僕はただ烈しい罪悪感に苦しみたくなかった。だから僕が自慰するときはいつでも抽象的な何か女性っぽいもの、一番良かったのはアワビだったけれど、一番長く快楽が続いたのはユリの花だったし、一番幸福感を伴ったのはパンパンに膨れ上がった牛のおっぱいだった。
一応言っておくけど、獣姦しようとしたことはない。
女に情欲を抱くことが罪だから、僕はいつも女の身体を見ることを避けて暮らしてた。
それでもふと視線を向けたところに露出度の高い女が歩いていたりすると、瞬間的に股間に鈍痛を覚えなくちゃならない。すると普段は温和で優しく冷静な好青年で通ってる僕が「ガッデム!」と叫びながら走ってってその女のどたまを拳骨で殴りつける。その度に父親から冷ややかに見下してるような静かで静かな説教を食らうんだ。
ほんとに気持ち悪い。僕自身が。
嫌気がさしたんだ。本当に罪深いことをして、自分に罰が降りるといい。そう思ったんだ。深く思った。
僕がその為に利用した仮面乱交パーティーは、僕の想像をすべて超えたものだった。
サタニストたちの暗黒の呪術に基づいた命を懸けた儀式だったんだ。
これに参加したら僕は終わりだと思った。
大袈裟に聞こえるかも知れないが、存在するすべての終末がここに存在していると感じたんだ。
それを知った頃ちょうど僕の学校に入学してきた女の子に恋をしだした。
彼女を見た瞬間に情欲が湧いてきてしまうから、僕はできる限り見ないようにした。
ある日彼女と図書室で、偶然会った。僕が梯に上って取ろうとして上から落としたユゴーの本を彼女が拾ってくれて、それを受け取るときにほんの一瞬彼女の指に僕の指が触れた。
僕は言葉を詰まらせてしまって、お礼も言わずにその場を立ち去って、我慢できずに校内のトイレの中で自分の一物を懸命に扱いた。そのとき浮かべたのが何故かなめことイソギンチャクの交尾だった。自分でもよくわからないが、それが一番何か、彼女の生々しさの現実的な欲求の具象化の脳内イメージとなった。
僕はとっさに、自分の部屋に着いた瞬間、「アイムクレイジー!」って叫んだけど、そのすぐ後には本当に狂ってると思うならそんなこと口に出して言うものじゃないって確信した。
馬鹿げてるよこんなこと、自分の行いが、すべて、嫌になった。
終わりにしてしまえばいい、そう思ったんだ。あの儀式に参加したら、きっとすべてを終わらせることができるとそう思えたんだ。
でもその儀式は僕の想像してるより、ずっとおぞましいものだった。
それは狂気を超えた何かだった。
そこにいるのはみな人間ではなかったし獣でもなかったし、神でもなかった。
僕の今ある価値観がまるで死に絶えたようにピクともしなくなる世界がそこにはあった。
僕はショックのあまり放尿と脱糞をして気絶してしまい、気づくと薄暗い部屋のベッドに寝かされていた。
体は綺麗になっていて、裸だった。
僕は起き上がって、窓の外を眺めた。
濃い霧の中に森があって、奇妙な鳴き声で鳥が鳴いていた。
霧と同じ色の空があって、境界はわからなかった。
僕は彼女のことを真っ先に想った。
あの儀式に参加してしまえば、もう彼女に会うことも許されない。
僕は今頃になって、彼女の胸に僕の好きなバタイユの本が抱かれていることを思い出した。
どこまでも深い霧を抜けても、もう彼女の元へは戻れることはないのだと感じた。
何かを知ってしまうだけの罪が、とてつもなく重い罪であることを僕は初めて知った。
あの儀式を知っているだけで、後戻りは不可能なほどに、それは人間の誰も知らない原初の罪なのだと僕は味わったことのない凍り付くような火をともす太陽が胸に宿っている感覚を覚えた。
不自然に凍る海に沈んだ青く照らす太陽を見つけてしまえば、最早、空を見上げる必要などない。
僕が見つけてしまったもの、それは不自然という抗えない新しい神だった。
僕の知らない愛がそこにあったことは確かだ。
それは自然を超えた超自然ではなく、不自然な愛だった。
僕はその儀式を行うことはしなかった。
少し離れた場所からぼんやりといつも眺めているだけでいつも射精に到達できた。
そして何度目かに、ぼんやり眺めながら、僕はふと気づいた。
何故、これが不自然であったのかを。
乱交に及んでいる者が被っている面は男も女も、すべてが、僕の顔をした面だったからだ。
新しい神は、いま、不自然に僕に微笑みかけた。
そのパーティーは、みな服をしっかり着ながら乱交に及ぶんだ。
女はスカートの下は何も履かず、男はズボンのチャックを下すだけで事をこなす。
顔もわからなければどのような体をしているかもわかりづらい。
ただ性器と性器が擦れ合うことだけによる快感と、見られているという興奮だけで充分なんだ。
僕が22歳の時だったんだけど、僕は童貞で女とキスもしたことがなかったし、好きな女の手を握ったことさえなかった。
僕の家は厳格なクリスチャンの家で成人になるまでは異性と付き合うことも許されなかった。
自慰をするときは、女性の裸体や性器などを思い浮かべて行ったことはないし、ましてやポルノグラフィックやビデオなどはもってのほかだった何故ならそれは聖書の教えに反する行いだからだよ。
イエスが言った言葉にある。
「だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです」
物心のつかない頃から聖書の教えを絶対的と育てられた僕はプログラミングされた姦淫=情欲を抱いて女を見ること=罪という設定を覆すことはできない。
はっきり言うが、できないんだ。
僕はただ烈しい罪悪感に苦しみたくなかった。だから僕が自慰するときはいつでも抽象的な何か女性っぽいもの、一番良かったのはアワビだったけれど、一番長く快楽が続いたのはユリの花だったし、一番幸福感を伴ったのはパンパンに膨れ上がった牛のおっぱいだった。
一応言っておくけど、獣姦しようとしたことはない。
女に情欲を抱くことが罪だから、僕はいつも女の身体を見ることを避けて暮らしてた。
それでもふと視線を向けたところに露出度の高い女が歩いていたりすると、瞬間的に股間に鈍痛を覚えなくちゃならない。すると普段は温和で優しく冷静な好青年で通ってる僕が「ガッデム!」と叫びながら走ってってその女のどたまを拳骨で殴りつける。その度に父親から冷ややかに見下してるような静かで静かな説教を食らうんだ。
ほんとに気持ち悪い。僕自身が。
嫌気がさしたんだ。本当に罪深いことをして、自分に罰が降りるといい。そう思ったんだ。深く思った。
僕がその為に利用した仮面乱交パーティーは、僕の想像をすべて超えたものだった。
サタニストたちの暗黒の呪術に基づいた命を懸けた儀式だったんだ。
これに参加したら僕は終わりだと思った。
大袈裟に聞こえるかも知れないが、存在するすべての終末がここに存在していると感じたんだ。
それを知った頃ちょうど僕の学校に入学してきた女の子に恋をしだした。
彼女を見た瞬間に情欲が湧いてきてしまうから、僕はできる限り見ないようにした。
ある日彼女と図書室で、偶然会った。僕が梯に上って取ろうとして上から落としたユゴーの本を彼女が拾ってくれて、それを受け取るときにほんの一瞬彼女の指に僕の指が触れた。
僕は言葉を詰まらせてしまって、お礼も言わずにその場を立ち去って、我慢できずに校内のトイレの中で自分の一物を懸命に扱いた。そのとき浮かべたのが何故かなめことイソギンチャクの交尾だった。自分でもよくわからないが、それが一番何か、彼女の生々しさの現実的な欲求の具象化の脳内イメージとなった。
僕はとっさに、自分の部屋に着いた瞬間、「アイムクレイジー!」って叫んだけど、そのすぐ後には本当に狂ってると思うならそんなこと口に出して言うものじゃないって確信した。
馬鹿げてるよこんなこと、自分の行いが、すべて、嫌になった。
終わりにしてしまえばいい、そう思ったんだ。あの儀式に参加したら、きっとすべてを終わらせることができるとそう思えたんだ。
でもその儀式は僕の想像してるより、ずっとおぞましいものだった。
それは狂気を超えた何かだった。
そこにいるのはみな人間ではなかったし獣でもなかったし、神でもなかった。
僕の今ある価値観がまるで死に絶えたようにピクともしなくなる世界がそこにはあった。
僕はショックのあまり放尿と脱糞をして気絶してしまい、気づくと薄暗い部屋のベッドに寝かされていた。
体は綺麗になっていて、裸だった。
僕は起き上がって、窓の外を眺めた。
濃い霧の中に森があって、奇妙な鳴き声で鳥が鳴いていた。
霧と同じ色の空があって、境界はわからなかった。
僕は彼女のことを真っ先に想った。
あの儀式に参加してしまえば、もう彼女に会うことも許されない。
僕は今頃になって、彼女の胸に僕の好きなバタイユの本が抱かれていることを思い出した。
どこまでも深い霧を抜けても、もう彼女の元へは戻れることはないのだと感じた。
何かを知ってしまうだけの罪が、とてつもなく重い罪であることを僕は初めて知った。
あの儀式を知っているだけで、後戻りは不可能なほどに、それは人間の誰も知らない原初の罪なのだと僕は味わったことのない凍り付くような火をともす太陽が胸に宿っている感覚を覚えた。
不自然に凍る海に沈んだ青く照らす太陽を見つけてしまえば、最早、空を見上げる必要などない。
僕が見つけてしまったもの、それは不自然という抗えない新しい神だった。
僕の知らない愛がそこにあったことは確かだ。
それは自然を超えた超自然ではなく、不自然な愛だった。
僕はその儀式を行うことはしなかった。
少し離れた場所からぼんやりといつも眺めているだけでいつも射精に到達できた。
そして何度目かに、ぼんやり眺めながら、僕はふと気づいた。
何故、これが不自然であったのかを。
乱交に及んでいる者が被っている面は男も女も、すべてが、僕の顔をした面だったからだ。
新しい神は、いま、不自然に僕に微笑みかけた。
亡者
お酒ってのはいいね。嫌なことを平気でできちゃう。シリアルキラーと呼ばれた人だって死体の解体には酒がないときつかった人がいたそうだよ。お酒があればなんだってできる。ずっと好きだった人に告白もできる。ずっと嫌いだった人を殺すこともできる。唾を吐いて地獄に堕ちろと言える。とにかく嫌なことをなんだってできる。酒の力があれば。人から馬鹿にされてばかりで実のところ自分が一番自分を馬鹿にしている。辛いだろう生きるのが、もっと苦しむといい、酒があれば生きていけるさ。なにもかも忘れさせてくれる酒がおまえには必要だ。もっと強い酒を、悪い酒を飲んで寿命を縮めるといい。人間の人生はそんなものだよ。大それたことじゃない。おまえがどんなに苦しもうが、それはまだ、まだこの世界では大それたことじゃない。おまえは胸を時めかせて待っているといい。本当の地獄というものを。どのような肉体的苦痛の拷問をも凌ぐ精神の苦痛がおまえにも必ず訪れるだろう。見たこともないほどの醜い物、それがおまえになる。
俺の知らないところで多くの人が俺を馬鹿にしているんだ。
それがどうした、お前の知らないところでおまえがなんで馬鹿にされるんだ。そいつらは自分の鏡を馬鹿にしているだけだ。可笑しいだろう、みんな自分に向かって馬鹿にしては、嘲笑ってるんだよ。この世は自虐ばかり、自虐地獄だ。自分を殺して苦しまない人がいようか、例え憎き自分であろうとも、それは愛には違わない、愛によって苦しまない人はいようか。みんな苦しみたい奴ばかりだ、一人残らず。だから他者を苦しめたがる、それが自分だからだ。自分の至らなさは他者の中にはより見えてくる。何度でも言ってやろう。おまえは自分しか見てはいない。すべての者が自分だけを見ている。何故他者の中に自分にはないものを気づくことができようか。闇を知る者が何故己れの中にない闇を闇と認識でき得る。
自分の中になければ、どうだっていいことだ。だから平気で他者を甚振る。虐げる。殺すんだ。彼等が純粋でなくて、一体何が純粋というのだろう。
幻想を死ぬまで追い求めるがいい。それはどこにも存在しないものだからだ。
真理も神も本当もそれはどこにも存在しないものだからおまえが息絶え朽ち果てるまで乞い求めるがいい。
親の愛を知らぬ亡者のように。
俺の知らないところで多くの人が俺を馬鹿にしているんだ。
それがどうした、お前の知らないところでおまえがなんで馬鹿にされるんだ。そいつらは自分の鏡を馬鹿にしているだけだ。可笑しいだろう、みんな自分に向かって馬鹿にしては、嘲笑ってるんだよ。この世は自虐ばかり、自虐地獄だ。自分を殺して苦しまない人がいようか、例え憎き自分であろうとも、それは愛には違わない、愛によって苦しまない人はいようか。みんな苦しみたい奴ばかりだ、一人残らず。だから他者を苦しめたがる、それが自分だからだ。自分の至らなさは他者の中にはより見えてくる。何度でも言ってやろう。おまえは自分しか見てはいない。すべての者が自分だけを見ている。何故他者の中に自分にはないものを気づくことができようか。闇を知る者が何故己れの中にない闇を闇と認識でき得る。
自分の中になければ、どうだっていいことだ。だから平気で他者を甚振る。虐げる。殺すんだ。彼等が純粋でなくて、一体何が純粋というのだろう。
幻想を死ぬまで追い求めるがいい。それはどこにも存在しないものだからだ。
真理も神も本当もそれはどこにも存在しないものだからおまえが息絶え朽ち果てるまで乞い求めるがいい。
親の愛を知らぬ亡者のように。
masquer
愛しい人ができたの。
恋人のあなたには少し言いづらいことだけれど、彼は愛する奥さんと子供のいる人で、43歳の役所勤めの平凡でフランス文学と音楽をこよなく愛する素敵な、とても魅力あふれる人なのよ。
親子ほど年が離れてるって?彼はわたしの父親にどこか似ているのかしら。
出会いはレイトシネマをいつも見に行く小さな映画館。
「ゴルゴダの丘」をやってたのよ。私イエスを愛してるから観に行ったの。
独りで。だってあなたいないんですもの。
お酒を実は隠し持って行ったの、最近手放せなくって。
ブランデーを瓶飲みしてたら、半分も観ないうちに眠くなっちゃって、駄目ね、わたし。
ちょうど隣にいい枕があったので、借りたの。それがわたしと彼との出会い。
勘違いしないでほしいのだけれど、肩じゃなく、膝のほうよ。
頭の後ろに何か硬いものが当たってるのは気づいてたんだけれど、そのまま夢の世界へ行ったのよ。
もういいやって感じで。相手がどんな顔かも知らない、キモイおっさんかもしれない、でもそんなこともうどうでもいいと思ったのよ。
起きたら輪姦されて冬の港に置き去りにされてるかもしれないと思って眠ったらほんとにそんな夢を見たのよ。
いい夢だったわ。今度夢で逢ったら全員皆殺しにしよう、そう思いながら目を開けたのよ。
肩を軽く叩かれて、目を開けたの、するとそこに彼の顔があった。
彼は教養深い優し気な顔の口元を引きつらせていて、私を透き通った、でも暗い海の色の目で見つめて細かく震えていたの。何故だか。
私はもっさりした動きで起き上がりながら彼を見つめて涎を手の甲で拭ってこう言ったのよ。
「いやぁ、よく寝ちまったなぁ」
彼はそれを聞いた瞬間噴き出したのよ。失礼でしょう。
っておまえのほうが失礼だろって今突っ込んだ?
わたしは彼への恋に落ちた。底の見えない穴のように感じて、今すぐ彼とファックしたいと強く願った。
わたしのあそこは、瞬間的にぐっしょぐしょだったし、彼の立つかどうか少し怪しいちんぽを待って、開いてた。
わたしはまだ酒の回りで全身を侵されていたので、ぼんやりと彼にこう囁いたの。
「立って」
彼は立った。そして私に向かって照れたように微笑みながら言ったわ。
「きみも立てるかい?」
わたしは恥ずかしくなって、途端に顔を真っ赤にしてしまったの。なんて、なんて、積極的な人なのだろう、そう思ったのよ。
言われないまでも、わたしのあそことあそこも、もうこれ以上立たないくらいに立っていたから、恥ずかしくてしょうがなかったけれど、わたし応えて言ったの。
「もう立ってるわ」
彼はまたぷって噴き出して笑った。そして笑い終わって私の目の奥を見ながら言った。
「それは失敬。ぼくの目は少し濁ってるようだ」
わたしは訳がわからないんだけど、証明しようとしたのか、服を脱ぎだしたのね。
彼は慌ててそれを手で止めて、「少しどこかで休んだほうがいい、近くに喫茶店があるから、そこで水を飲もう」
そう言った。
わたしはぐったり椅子に倒れてたけど、それを起こして彼は喫茶店へと連れてってくれた。
行き先がホテルじゃないことに下唇を噛んで、噛みすぎて少し血が出た。
席へ着かしてもらうと、彼は無言でグレーのハンカチを渡してくれた。
わたしが、意味をわからないでいると彼はハンカチで私の口を拭ってくれた。
「ごめんなさい」とっさに私は謝った。焦点がなかなか合わない目で彼の目を見ようと必死になるんだけど彼の目が見えずに見えるのはグレーの海に塗られた赤い血だった。
彼はがぶがぶとわたしに水を飲ませた。そしてトイレに着いてきてくれた。
トイレの中で彼の指が私の粘膜の部分を触って、わたしは何度も吐いた。
で、少しよくなって、わたし彼に言ったの。
「ありがとう。わたし、何かお礼をしないと」
「気にしなくていい。無事に家まで送ってくよ」
私は少し考えて、紙にこう書いたの。
≪わたしは、あなたにあげられるものが一つだけある。あなたがそれを求めるか、求めないか、あなたの自由≫
彼はそれを読んで、私を見つめてまたふわっと微笑んだ。そして俯いて口に手を当てて深く思案するような顔をしてこう訊ねた。
「きみはそれを知ってるのかい?」
わたしは知らなかったけれど自信たっぷりに応えた。
「ええ」
彼は鼈甲の真ん丸眼鏡がとても似合っていて、髪はやわらかくカールして綺麗な栗毛だった。
わたしは彼に見惚れてたの。彼もその間ずっとわたしを静かに見つめていた。
ごくりと小さく喉を鳴らして、彼は応えた。
「ぼくにそれをくれるの?」
わたしは、少女のように「うんうんうん!」って三回も頷いた。
彼は震える口元で「いつ?」と訊いた。
「今からでも」わたしは興奮して言った。
彼は目頭を押さえて、ゆっくり話し出した。自分には、一応愛する妻とまだ幼い子供がいる。もう少し、時間がほしい。ただでそれをもらえるとは、ぼくも思っていない。
わたしは心の中で歯ぎしりした。
突然立ちがあり、「もう帰るわ」そう言ってよろけながらも速足で歩いて行った。
彼は私のコートを持って、急いで追いかけてきて、「待ってくれ」と焦った顔で店の片隅でわたしを引き留めた。
「どこか、別の場所へ行かないか」
必死に、懇願するように、彼のそんな姿を見て、私はもっと激しく彼を困らせてみたいと思った。
「家に帰りたくなったの、送ってくださる?」
彼は悲しそうな顔をして、少しの間のあと、こう言った。
「また会えるかい?」
店にいる客たちの視線を感じて、「とにかく店を出ましょう」とわたしは言った。
そして彼の車の中に着いたとたん、彼は私を見つめて言った。
「考えが決まったよ。今すぐにそれをくれないか」
私は彼の青い闇に浮かぶ漆黒の月のような目の奥を見つめながら小さく頷いた。
彼はその瞬間、優しく微笑んで輪っかにした指を咥えて音を鳴らした。
どこからともなく7人の奇妙な仮面を被った男たちが現れ、わたしは森の奥で髪を持って引き摺り回されて輪姦され、気が付くと港に捨てられていた。
私を犯したのは数えて8人だった。愛しい彼が、仮面を被って混ざってたのよ。
わたしはそれをわかっていて、だからわたしは8回とも、ものすごい快楽の絶頂にいったわ。
わたしは、確かに彼にあげられたのよ、彼の求めるただ一つの私の中に在るものを。
そして、彼の中にわたしが求めるただ一つのものを、わたしはもらえたの。
で、誓ったの。
次に彼に会ったら、彼の私の中に求めるもう一つのものが、私の彼の中に求めるもう一つのものだと。
それは、私は知ってるのよ。
彼を愛してしまったの。
彼はグレーの月に浮かぶ血の色の海。
恋人のあなたには少し言いづらいことだけれど、彼は愛する奥さんと子供のいる人で、43歳の役所勤めの平凡でフランス文学と音楽をこよなく愛する素敵な、とても魅力あふれる人なのよ。
親子ほど年が離れてるって?彼はわたしの父親にどこか似ているのかしら。
出会いはレイトシネマをいつも見に行く小さな映画館。
「ゴルゴダの丘」をやってたのよ。私イエスを愛してるから観に行ったの。
独りで。だってあなたいないんですもの。
お酒を実は隠し持って行ったの、最近手放せなくって。
ブランデーを瓶飲みしてたら、半分も観ないうちに眠くなっちゃって、駄目ね、わたし。
ちょうど隣にいい枕があったので、借りたの。それがわたしと彼との出会い。
勘違いしないでほしいのだけれど、肩じゃなく、膝のほうよ。
頭の後ろに何か硬いものが当たってるのは気づいてたんだけれど、そのまま夢の世界へ行ったのよ。
もういいやって感じで。相手がどんな顔かも知らない、キモイおっさんかもしれない、でもそんなこともうどうでもいいと思ったのよ。
起きたら輪姦されて冬の港に置き去りにされてるかもしれないと思って眠ったらほんとにそんな夢を見たのよ。
いい夢だったわ。今度夢で逢ったら全員皆殺しにしよう、そう思いながら目を開けたのよ。
肩を軽く叩かれて、目を開けたの、するとそこに彼の顔があった。
彼は教養深い優し気な顔の口元を引きつらせていて、私を透き通った、でも暗い海の色の目で見つめて細かく震えていたの。何故だか。
私はもっさりした動きで起き上がりながら彼を見つめて涎を手の甲で拭ってこう言ったのよ。
「いやぁ、よく寝ちまったなぁ」
彼はそれを聞いた瞬間噴き出したのよ。失礼でしょう。
っておまえのほうが失礼だろって今突っ込んだ?
わたしは彼への恋に落ちた。底の見えない穴のように感じて、今すぐ彼とファックしたいと強く願った。
わたしのあそこは、瞬間的にぐっしょぐしょだったし、彼の立つかどうか少し怪しいちんぽを待って、開いてた。
わたしはまだ酒の回りで全身を侵されていたので、ぼんやりと彼にこう囁いたの。
「立って」
彼は立った。そして私に向かって照れたように微笑みながら言ったわ。
「きみも立てるかい?」
わたしは恥ずかしくなって、途端に顔を真っ赤にしてしまったの。なんて、なんて、積極的な人なのだろう、そう思ったのよ。
言われないまでも、わたしのあそことあそこも、もうこれ以上立たないくらいに立っていたから、恥ずかしくてしょうがなかったけれど、わたし応えて言ったの。
「もう立ってるわ」
彼はまたぷって噴き出して笑った。そして笑い終わって私の目の奥を見ながら言った。
「それは失敬。ぼくの目は少し濁ってるようだ」
わたしは訳がわからないんだけど、証明しようとしたのか、服を脱ぎだしたのね。
彼は慌ててそれを手で止めて、「少しどこかで休んだほうがいい、近くに喫茶店があるから、そこで水を飲もう」
そう言った。
わたしはぐったり椅子に倒れてたけど、それを起こして彼は喫茶店へと連れてってくれた。
行き先がホテルじゃないことに下唇を噛んで、噛みすぎて少し血が出た。
席へ着かしてもらうと、彼は無言でグレーのハンカチを渡してくれた。
わたしが、意味をわからないでいると彼はハンカチで私の口を拭ってくれた。
「ごめんなさい」とっさに私は謝った。焦点がなかなか合わない目で彼の目を見ようと必死になるんだけど彼の目が見えずに見えるのはグレーの海に塗られた赤い血だった。
彼はがぶがぶとわたしに水を飲ませた。そしてトイレに着いてきてくれた。
トイレの中で彼の指が私の粘膜の部分を触って、わたしは何度も吐いた。
で、少しよくなって、わたし彼に言ったの。
「ありがとう。わたし、何かお礼をしないと」
「気にしなくていい。無事に家まで送ってくよ」
私は少し考えて、紙にこう書いたの。
≪わたしは、あなたにあげられるものが一つだけある。あなたがそれを求めるか、求めないか、あなたの自由≫
彼はそれを読んで、私を見つめてまたふわっと微笑んだ。そして俯いて口に手を当てて深く思案するような顔をしてこう訊ねた。
「きみはそれを知ってるのかい?」
わたしは知らなかったけれど自信たっぷりに応えた。
「ええ」
彼は鼈甲の真ん丸眼鏡がとても似合っていて、髪はやわらかくカールして綺麗な栗毛だった。
わたしは彼に見惚れてたの。彼もその間ずっとわたしを静かに見つめていた。
ごくりと小さく喉を鳴らして、彼は応えた。
「ぼくにそれをくれるの?」
わたしは、少女のように「うんうんうん!」って三回も頷いた。
彼は震える口元で「いつ?」と訊いた。
「今からでも」わたしは興奮して言った。
彼は目頭を押さえて、ゆっくり話し出した。自分には、一応愛する妻とまだ幼い子供がいる。もう少し、時間がほしい。ただでそれをもらえるとは、ぼくも思っていない。
わたしは心の中で歯ぎしりした。
突然立ちがあり、「もう帰るわ」そう言ってよろけながらも速足で歩いて行った。
彼は私のコートを持って、急いで追いかけてきて、「待ってくれ」と焦った顔で店の片隅でわたしを引き留めた。
「どこか、別の場所へ行かないか」
必死に、懇願するように、彼のそんな姿を見て、私はもっと激しく彼を困らせてみたいと思った。
「家に帰りたくなったの、送ってくださる?」
彼は悲しそうな顔をして、少しの間のあと、こう言った。
「また会えるかい?」
店にいる客たちの視線を感じて、「とにかく店を出ましょう」とわたしは言った。
そして彼の車の中に着いたとたん、彼は私を見つめて言った。
「考えが決まったよ。今すぐにそれをくれないか」
私は彼の青い闇に浮かぶ漆黒の月のような目の奥を見つめながら小さく頷いた。
彼はその瞬間、優しく微笑んで輪っかにした指を咥えて音を鳴らした。
どこからともなく7人の奇妙な仮面を被った男たちが現れ、わたしは森の奥で髪を持って引き摺り回されて輪姦され、気が付くと港に捨てられていた。
私を犯したのは数えて8人だった。愛しい彼が、仮面を被って混ざってたのよ。
わたしはそれをわかっていて、だからわたしは8回とも、ものすごい快楽の絶頂にいったわ。
わたしは、確かに彼にあげられたのよ、彼の求めるただ一つの私の中に在るものを。
そして、彼の中にわたしが求めるただ一つのものを、わたしはもらえたの。
で、誓ったの。
次に彼に会ったら、彼の私の中に求めるもう一つのものが、私の彼の中に求めるもう一つのものだと。
それは、私は知ってるのよ。
彼を愛してしまったの。
彼はグレーの月に浮かぶ血の色の海。
〈恐怖と願望〉
前の記事では、願望していないことには、人間は恐怖の感情を持たない。と言い切ってしまいましたな。
私はいつの日からか、空を見上げるのも怖くてね。
一本の木を眺めるのでさえ怖い。
自分の目に映るもの、あらゆるものが怖くて、家でずっと引きこもって暮らしている。
それは自分の目に映るものがすべて自分の化身であり、そのすべてが私を責め苛んでくるから。
しかしすべてを恐怖するには、すべてを観望しているということになる。
で、自分はいったいこの自分に何を願望しているのかを考えたんです。
自分に対して、どんな自分だったら?
するとこれがどうしたことだろう。自分に対する願望はただ一つ、自分が地獄に落ちて苦しみ続けることだけだったんです。
つまり、恐怖の対照的となる願望の姿を願望しているために生まれる恐怖とは違ったというわけです。
自分が願望してるもの、そのものが、この恐怖だったわけです。
恐怖を私が願望して、恐怖しているわけです。
そしてこの恐ろしき論理は、すべての恐怖に当てはまるのではないかと私は考え中。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・考え中。
みなさんこんな夢を見たことはありませんか。
ああ!幽霊が出そうな場所やなあ!ここは!うわ!マジで出そう!こわ!幽霊出たらどないしょう!嫌よ嫌よ、怖いよ。なんて恐怖した瞬間に、ぬらりひょん、と幽霊の姿がそこに具現化、うわ、ワイが恐怖してしまったがために、ほんまに具現化させてもうたんやわ、ひえええっ、なんてことはありませんか?
しかしこんな夢も見たことはありませんか。
あっ、なんかイケヅラのタイプな男がおるな、あの方と、性欲のある限り、愛し合ってしまったりなんかして、そんな展開にならないかなと思っていたら、実際にそんな展開になって、あっ、これは自分がそれを願望したがために、まったくその展開通りにしてしまったんだ、と。
つまり、夢の中では、恐怖したことも願望したこともそのとおりに引き寄せてそれらが実際に夢の世界に起きてしまうということなんです。そういう構造をしているのが夢なわけです。
中には恐怖でもない願望でもないような意味の分からないことも起こりますが、それらは自分に理解できない脳の部分での自分の知らない自分の恐怖と願望の表れであるかもしれないわけです。
恐怖も願望も同じ念ずるということが起きてしまっていると考えられる。
ねんずる【念ずる】
①ある事柄・事態などの実現を強く思い願う。こうあってほしいと心の中で祈る。
「合格を-・ずる」 「子供の幸福を-・ずる」
②神仏の名,経文,呪文などを,心の中で唱える。 「仏ヲ-・ズル/ヘボン」
③苦痛・悲しみなどをじっとこらえる。 「中に心さかしき者,-・じて射むとすれども/竹取」
恐怖といえば、起きてほしくない、そうではあってほしくない、という思いから生まれる感情です。
願望は逆に、起きてほしい、そうであってほしい、という思いから生まれる感情です。
しかしなんで?なんで夢の中では起きてほしいことも起きてほしくないことも同じように起きてしまうのであろうか?
それは、念じてしまってるからなんです。
念ずる、というのは、願う、唱える、こらえる、というような意味があるが、どれも強い感情の強い念によって、その思いを抱くということです。
起きてほしくない!起きたら怖い!と強く思ってしまうことで、そこに強い念というものが生まれてしまい、その念によって、起きてほしくないものや表れてほしくない存在が現れてしまう。
夢の世界は、念の強さによって操作できる世界とも言えます。
何故ならば、起きてほしくない!と思う念よりも、それとは違うあれが起きてほしい!と強く念ずる思いがあれば、自然と、その強い念のほうが勝って、勝った念の通りに具現化させることができると言えるからです。
現に夢の中で恐怖の事態になっても、これは偽物である!消えるように!と強く念じることによって瞬く間に恐怖が消えうせるという展開の夢を何度も見たことがあります。
しかし、起きてほしくない!と思う念よりも、これが起きてほしい!と念ずる強さが弱くて負けてしまった場合は、当然、起きてほしくない恐怖の勝ちで、恐怖のありさまが具現化してしまいます。
例えば、薄暗いお屋敷に何故か自分がいて、いかにも怖い幽霊が出てきそうなシーンで、あっ幽霊でそう!と恐怖するのですが、それ以上に私を守ってくれる素敵でイケヅラで年収がすごい高い王子様が表れそう!と願望してしまえば、この恐怖と願望はこの世界で一瞬火花をバチバチと食らわし合って戦いますが、今回ちょっとした差で願望が勝ちましたので、即座に私を守ってくれる素敵でイケヅラで年収がすごい高い王子様が表れてくれて、私を出口へと誘ってくれました。やったあ!自分の欲望ってすごいな!と目覚めた後自己嫌悪に陥ったものの、まあおっとろしい幽霊に出くわすことは避けられたわけです。
で、ここからこの構造が夢の世界だけではなく、現実でも、同じ構造で成り立ってると考えられると私は思っているわけなんですという話になります。
そういえば引き寄せの法則というベストセラーを私はまだ読んでないのですが、もしかしてあれに同じようなことが書かれてるのかもしれません。近いうちに読んでみようと思います。
引き寄せの法則を知って、幸福になった、楽になった、なんて思った人が多いかどうか知りませんが、私が言ってることは、取り方によっては、人を地獄の底に突き落とすような考え方とも言えるのではないかと思います。
例えば、愛する者が死ぬことを恐怖している人は多いと思います。
これは、あっと思い出して、せや、と恐怖する、心配する、ということではなく、気が付けば恐怖しっぱなしだった、心配のしっぱなしだったということに気付くのではないでしょうか。
人もどんな生物もいつ何が起きて病気になったり、事故にあったりと、心配して恐怖しないではおられない存在だからです。
だから愛する者を愛するがゆえに、心配し続け、何か悪いことが起きたらどうしようと恐怖し続けてしまってる人は多いと思われます。
で、この現実世界といわれる世界が、実は夢の世界と全く同じ構造で作られている世界ではないと、否定できる人はいません。
私はこんな夢もよく見ます。自分の歯がボロボロになる夢。自分の顔があんまり酷く目も当てられないような姿になる夢。自分だけが裸で往来を歩いている夢。これらすべてが恐怖心から見てしまうわけですが、そういった夢以外にも、知っている人から殺されそうになって追いかけられる夢、警察から追われる夢、サイバーテロにより自分のパソコンが恐ろしいウィルスに侵されてしまう夢、そして家族の出てくる夢では家族が死んでしまう夢、すでに他界している父が夢で何度も死んでしまうという夢、愛する父が私を愛していなかったという夢、あらゆる恐怖が夢に現れます。
そしてそれらの恐怖には、恐怖の前提である願望というものが、果たしてあるのかどうかと考えてみるのです。
願望が勝つなら、そんな恐怖の夢は見なくて済みます。
自分の歯がボロボロになる恐怖よりも、自分の歯が奇麗になる願望を持っていて、その願望が勝つなら次に見るのはきれいな歯の自分の夢でしょう。
愛する父が死んでしまうという恐怖よりも、愛する父は元気に暮らしているという願望がいつでも勝っていたなら、もう夢の中で何度も父の死を見なくて済むのです。
もちろん、父が死ぬ年、愛する父が元気で暮らしてほしいという願望がまずあって、父が死んでしまうかもしれないという恐怖に私は毎日怯えて、泣いていました。
父はしかし私の恐怖の通りに、死んでしまいました。
そしてすべてが私を責め苛むように見えるように恐怖するようになりました。
その恐怖は私の願望でもあるのです。
恐怖と願望が同一のものとなったのです。
私は父が死ぬことを心の底から恐怖しました。
父が元気に生きることを願望する想いよりも強く、強く、恐怖して、念じて(強く願う、祈るようにして)引き寄せてしまったのです。
そして私の願望通りに、私を含めたすべてが私を責め苛んで、こう囁き続けるようになりました。
「死ね」と。
私は私と世界に対してこれ以上の願望はなく、またこれ以上の恐怖もありません。
私はわかってしまったからです。
私が願うすべてが、私の身に起きるのだろうと。
そしてこれは私だけではありません。
あなたもそうなのです。
私はいつの日からか、空を見上げるのも怖くてね。
一本の木を眺めるのでさえ怖い。
自分の目に映るもの、あらゆるものが怖くて、家でずっと引きこもって暮らしている。
それは自分の目に映るものがすべて自分の化身であり、そのすべてが私を責め苛んでくるから。
しかしすべてを恐怖するには、すべてを観望しているということになる。
で、自分はいったいこの自分に何を願望しているのかを考えたんです。
自分に対して、どんな自分だったら?
するとこれがどうしたことだろう。自分に対する願望はただ一つ、自分が地獄に落ちて苦しみ続けることだけだったんです。
つまり、恐怖の対照的となる願望の姿を願望しているために生まれる恐怖とは違ったというわけです。
自分が願望してるもの、そのものが、この恐怖だったわけです。
恐怖を私が願望して、恐怖しているわけです。
そしてこの恐ろしき論理は、すべての恐怖に当てはまるのではないかと私は考え中。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・考え中。
みなさんこんな夢を見たことはありませんか。
ああ!幽霊が出そうな場所やなあ!ここは!うわ!マジで出そう!こわ!幽霊出たらどないしょう!嫌よ嫌よ、怖いよ。なんて恐怖した瞬間に、ぬらりひょん、と幽霊の姿がそこに具現化、うわ、ワイが恐怖してしまったがために、ほんまに具現化させてもうたんやわ、ひえええっ、なんてことはありませんか?
しかしこんな夢も見たことはありませんか。
あっ、なんかイケヅラのタイプな男がおるな、あの方と、性欲のある限り、愛し合ってしまったりなんかして、そんな展開にならないかなと思っていたら、実際にそんな展開になって、あっ、これは自分がそれを願望したがために、まったくその展開通りにしてしまったんだ、と。
つまり、夢の中では、恐怖したことも願望したこともそのとおりに引き寄せてそれらが実際に夢の世界に起きてしまうということなんです。そういう構造をしているのが夢なわけです。
中には恐怖でもない願望でもないような意味の分からないことも起こりますが、それらは自分に理解できない脳の部分での自分の知らない自分の恐怖と願望の表れであるかもしれないわけです。
恐怖も願望も同じ念ずるということが起きてしまっていると考えられる。
ねんずる【念ずる】
①ある事柄・事態などの実現を強く思い願う。こうあってほしいと心の中で祈る。
「合格を-・ずる」 「子供の幸福を-・ずる」
②神仏の名,経文,呪文などを,心の中で唱える。 「仏ヲ-・ズル/ヘボン」
③苦痛・悲しみなどをじっとこらえる。 「中に心さかしき者,-・じて射むとすれども/竹取」
恐怖といえば、起きてほしくない、そうではあってほしくない、という思いから生まれる感情です。
願望は逆に、起きてほしい、そうであってほしい、という思いから生まれる感情です。
しかしなんで?なんで夢の中では起きてほしいことも起きてほしくないことも同じように起きてしまうのであろうか?
それは、念じてしまってるからなんです。
念ずる、というのは、願う、唱える、こらえる、というような意味があるが、どれも強い感情の強い念によって、その思いを抱くということです。
起きてほしくない!起きたら怖い!と強く思ってしまうことで、そこに強い念というものが生まれてしまい、その念によって、起きてほしくないものや表れてほしくない存在が現れてしまう。
夢の世界は、念の強さによって操作できる世界とも言えます。
何故ならば、起きてほしくない!と思う念よりも、それとは違うあれが起きてほしい!と強く念ずる思いがあれば、自然と、その強い念のほうが勝って、勝った念の通りに具現化させることができると言えるからです。
現に夢の中で恐怖の事態になっても、これは偽物である!消えるように!と強く念じることによって瞬く間に恐怖が消えうせるという展開の夢を何度も見たことがあります。
しかし、起きてほしくない!と思う念よりも、これが起きてほしい!と念ずる強さが弱くて負けてしまった場合は、当然、起きてほしくない恐怖の勝ちで、恐怖のありさまが具現化してしまいます。
例えば、薄暗いお屋敷に何故か自分がいて、いかにも怖い幽霊が出てきそうなシーンで、あっ幽霊でそう!と恐怖するのですが、それ以上に私を守ってくれる素敵でイケヅラで年収がすごい高い王子様が表れそう!と願望してしまえば、この恐怖と願望はこの世界で一瞬火花をバチバチと食らわし合って戦いますが、今回ちょっとした差で願望が勝ちましたので、即座に私を守ってくれる素敵でイケヅラで年収がすごい高い王子様が表れてくれて、私を出口へと誘ってくれました。やったあ!自分の欲望ってすごいな!と目覚めた後自己嫌悪に陥ったものの、まあおっとろしい幽霊に出くわすことは避けられたわけです。
で、ここからこの構造が夢の世界だけではなく、現実でも、同じ構造で成り立ってると考えられると私は思っているわけなんですという話になります。
そういえば引き寄せの法則というベストセラーを私はまだ読んでないのですが、もしかしてあれに同じようなことが書かれてるのかもしれません。近いうちに読んでみようと思います。
引き寄せの法則を知って、幸福になった、楽になった、なんて思った人が多いかどうか知りませんが、私が言ってることは、取り方によっては、人を地獄の底に突き落とすような考え方とも言えるのではないかと思います。
例えば、愛する者が死ぬことを恐怖している人は多いと思います。
これは、あっと思い出して、せや、と恐怖する、心配する、ということではなく、気が付けば恐怖しっぱなしだった、心配のしっぱなしだったということに気付くのではないでしょうか。
人もどんな生物もいつ何が起きて病気になったり、事故にあったりと、心配して恐怖しないではおられない存在だからです。
だから愛する者を愛するがゆえに、心配し続け、何か悪いことが起きたらどうしようと恐怖し続けてしまってる人は多いと思われます。
で、この現実世界といわれる世界が、実は夢の世界と全く同じ構造で作られている世界ではないと、否定できる人はいません。
私はこんな夢もよく見ます。自分の歯がボロボロになる夢。自分の顔があんまり酷く目も当てられないような姿になる夢。自分だけが裸で往来を歩いている夢。これらすべてが恐怖心から見てしまうわけですが、そういった夢以外にも、知っている人から殺されそうになって追いかけられる夢、警察から追われる夢、サイバーテロにより自分のパソコンが恐ろしいウィルスに侵されてしまう夢、そして家族の出てくる夢では家族が死んでしまう夢、すでに他界している父が夢で何度も死んでしまうという夢、愛する父が私を愛していなかったという夢、あらゆる恐怖が夢に現れます。
そしてそれらの恐怖には、恐怖の前提である願望というものが、果たしてあるのかどうかと考えてみるのです。
願望が勝つなら、そんな恐怖の夢は見なくて済みます。
自分の歯がボロボロになる恐怖よりも、自分の歯が奇麗になる願望を持っていて、その願望が勝つなら次に見るのはきれいな歯の自分の夢でしょう。
愛する父が死んでしまうという恐怖よりも、愛する父は元気に暮らしているという願望がいつでも勝っていたなら、もう夢の中で何度も父の死を見なくて済むのです。
もちろん、父が死ぬ年、愛する父が元気で暮らしてほしいという願望がまずあって、父が死んでしまうかもしれないという恐怖に私は毎日怯えて、泣いていました。
父はしかし私の恐怖の通りに、死んでしまいました。
そしてすべてが私を責め苛むように見えるように恐怖するようになりました。
その恐怖は私の願望でもあるのです。
恐怖と願望が同一のものとなったのです。
私は父が死ぬことを心の底から恐怖しました。
父が元気に生きることを願望する想いよりも強く、強く、恐怖して、念じて(強く願う、祈るようにして)引き寄せてしまったのです。
そして私の願望通りに、私を含めたすべてが私を責め苛んで、こう囁き続けるようになりました。
「死ね」と。
私は私と世界に対してこれ以上の願望はなく、またこれ以上の恐怖もありません。
私はわかってしまったからです。
私が願うすべてが、私の身に起きるのだろうと。
そしてこれは私だけではありません。
あなたもそうなのです。
神と罪〈願望と恐怖〉
人間のメカニズムを描きたかったんです。超越的な存在、神のようなものに対する恐怖心が、何か正しいことをやらなきゃいけないという思いの根底にあるのではないか、と
— 町田 康 bot (@ma_chida_bot) 2015, 11月 19
神のようなものに対する願望とも取れるな。神は絶対的な正しさであってほしいと。そう願望して畏怖するからには神に支配されたる我々はそれに逆らったときは正しいところに神によって導かれたいという願望がまたあり、それが罰されるという恐怖となる https://t.co/OiPuh8nCn5
— 白魔術くん (@sirosorajp) 2015, 11月 19
人間っていうのは何か、人間を、生物たちを、この自然、地球、宇宙をすべてを幸福にせんければならぬ、みたいな気持ちが本能的にあるのではないかと思うんですよ。
つまりそれらを幸福にすることこそが、人間の正しい行いであるのだという想いです。
和菓子賞、失敬、我が師匠 町田康はそれが、「超越的な存在、神のようなものに対する恐怖心が、何か正しいことをやらなきゃいけないという思いの根底にあるのではないか」と言っていたが、ゆうとったが、
私が思うに、恐怖ってのは、その対象に対するなんらかの正しきイメージが前提としてないと、起こらないのではないのか、という気がするんです。
例えば幽霊に対する恐怖なんてのは、それが何者かわからないから、得体のしれない存在だから、と捉えることはまあできるでしょう。
しかしそげなことを言っていると、この世界、人間、生物体、あらゆるすべてが意味不明でなんでここに存在してるかわからないものであり、しかしそれが意味が分からないからと言って、すぐさま恐怖するということもあまりない。
何者か実のところわからないのに、わかってると思い込んでることで恐怖しないで済んでいる。
幽霊は目にはっきりと見えないし、人間や生物以上に何を考えてるかさっぱりわからないから恐怖なんだと言うが、そんなことは思い込みでしょう。
目に見えないと言うならば、空気や風やガスや電気エネルギーなどすべて目には見えない物質であり、それら全部を恐怖するのかというとみんな特に恐怖しない。
では何故に幽霊を人は恐怖するのか。
何故に人は神のようなものを恐れ、畏怖するのか。
それはその対象物に対しての無意識の部分での願望が存在しているからではないだろうかと私は思ったのである。
幽霊を恐怖するのは、幽霊は悪いことをする存在ではあってほしくないという願望、良い存在であってほしいという思いがあって、それが裏切られるのではないかと心配する気持ちから恐怖が芽生えるのではないだろうか。
良い存在であってほしいが、良いことをせずに悪いことをしてくるのではないかという懸念が膨れ上がり、起きてほしくないことが起きてしまうという恐怖へと変わってしまうのである。
つまり何が言いたいかというと、恐怖というものは、まずそれより先に対象物に対する願望がなくしては、感じ得ない感情なのではないかと。
これは死に対する恐怖も同じである。人は死にたくないという生きたいという願望があるために、死は終わりではないかと恐怖するのである。
死とは何かわからないからという漠然とした恐怖なのではなく、死は終わりであってほしくないという強い願望がまずあって、人は死を恐怖するようになる。
願望と恐怖というものが必ずセットでもれなくついてくるという理論である。
なので、その論理を神に対する恐怖、畏怖の説明をすると、上に張り付けたTwitterで言ってる事、
「神は絶対的な正しさであってほしいと。そう願望して畏怖するからには神に支配されたる我々はそれに逆らったときは正しいところに神によって導かれたいという願望がまたあり、それが罰されるという恐怖となる」
ということを私は思っているのである。
そしてそれは、その恐怖とは、神に対する願望心が大きければ大きいほどに恐怖もまた大きくなるのだと私は言えよう。
つまり、神に対する願望の大きさによって、自分の罪の大きさと自分に与えられるべき罰の大きさを変えてゆくということである。
己れの罪を知るものは神であり、己れの罪を裁くものもまた己れの見る神であるからである。
これは信仰する神だけではなく、自分の内にいつも感じている罪の意識と言っていいだろう。
罪の意識というものが、罰の恐怖となり、その意識によって自分は神のような存在を認めてしまっていることと同じことになるというわけである。
罪の意識というもの、それが自分の内に在る神なのである。
なので、罪の意識を感じるのに、俺は神の存在を否定するなんて言ってるのは滑稽である。
そして罪の意識を感じる以上、その罪は罰されるべきものであると感じるのが人間である。
しかし人は時にこう思うのである。何故わたくしめがこのような悲惨な目に合わねばならぬのか、と。
何故かというと、そう思うのは、自分の罪の意識を意識下で意識していなかったために、自分の身に罰が与えられたかもしれないとは思わないで、自分の罪に見合っていない罰を受けていると思ってしまうためである。
しかし罪の意識というのは深い根の部分に存在しているために、自分の行いを何度も吟味して思い起こせばそれなりの罪というものはどんな人間であろうと見つかってしまうものだと私は思っている。
いいや待ってくれ、と、俺はここまでの罪は犯してなどいないよ、と言うのなら、君は少し勘違いをしていないか?と俺は言ってやるのである。
君は自分の悲惨な状態に今置かれてしまってることを、何故神の罰のように感じたのだい?
それは君にとって罰ではなくて必要な試練であり、これによって自分は一つ視界が広がるのだと何故思わなかったのだ?
君はこれが神からの罰であると感じながら、なぜ自分がここまでの罰を被ってるのだ、などと言っているわけだ。
君が、神からの罰だと感じるのは、君に罪の意識があるからじゃないの?
罪の意識を感じてるのに、認めたくないと、なぜ認めようとしないんだ?
なぜ自分はこんな苦しみばかり、神は残酷だという人がいるが、何故、神によって自分は苦しめられてばかりいると思っているのだろう?
それは、神を都合よく理想化してるからだよ。
神を自分にとって都合よく願望したために、都合の悪い神からのお仕置きばかり受けてるのさ。
自分が何を犯しても神は許してくれる、神は自分を叱らないなんて願望してしまってるからなんだ。
でも自分の罪をほんとうに意識していないならば、神からの罰だなんて思うことはない。
罪を意識しているのに、神はなぜ自分にひどい罰を与えてばかりなんだ、なんて言ってるのさ。
もう一度復習すると、罪を意識するのは、神が正しい存在であってほしいと願うから。
神は正しいと願うために、自分が罪を犯したときは、ぜひ神によって罰されたいという願望もそこに同時にある。
そして人々は様々な罪の意識に苦しむ。
それなのに罰されたと感じて、神はあまりに厳しいなどと思ってしまう。
でも自分が神に対して、何一つ正しさを願望しなければ、そこには罪もないし、罰もない、神に対する恐怖も畏怖もない。
何をしようが、自分に罰は下りない、そう信じて生きていけるよ。
何を見ようが、何を願望しようが、何を恐怖しようが、君の自由さ。
悪魔崇拝をしている彼に実際会って僕は運よく話を聞けた。
「君はなぜ悪魔を崇拝しているの?」
彼はほがらかな白い笑顔でこう応えた。
「僕の中に存在していないから」
「君の中に悪魔は存在しないの?」
「うん」
「教えてくれてありがとう。僕の中には悪魔がいるんだ。君を今ここで殺して食べてもいい?」
彼はまた白い笑顔でほがらかに応えた。
「いいよ」
でらい愛
自分は駄目だなあと思う。
駄目なもんだから同じく駄目な人間の集まりであるハセカラ民と仲良くなることで自分の駄目を紛らわせばええんやと思った俺が阿房やった。何故ならそんなハセカラ民族の彼らからもこいつは駄目だと判子を押されて除け者にされ、脱糞した糞をバケツに溜めたやつを頭からぶっ掛けられるという世話を受けて尻尾巻いてとぐろ巻いて逃げ帰ってきた場所が、あーた、またこのこつこつと自分の思いを140文字以上にして書き続けるというブログ世界であったわけだなっつって、まだ話が終わったふうに思われないでほしいのは、わたくしは全くの駄目やって思ったときに、何故だかかぜだか我が生涯の師匠である町田康の強くも厚くもぶれない胸に突き刺さったままずっと残ってゆくみたいな言葉を求めて無意識に約二日間ほど、わたしは多分に求めた結果、こんなすぐに師匠は言ってくれたんだ。しかしなお、我が心の師匠の町田康は決して、けつして、人を励ますために言ったわけではないことを師匠本人が前、ゆうとったで、人を励まさなければならないみたいなそうゆうのはいらんやろ、みたいに前ゆうてはったで、だからこの発言もけつして人類全員を励ますためのものではなく、寧ろ、人類を全員どん底へ突き落とし、自らも堕ち抜いて同じ土壌の上にでろんと立ちはだかって、さあ来い、とでも言ってるようにおまはんには聞こえませんでっしゃろやろかいなっつって、まあ長々と前書きが多いなあ、もう、なんの話やねん、って思ってみんな肝心のところ読まんで帰るみたいなことがあるとこれはいけない。ってんで、あじゃあ、あじゃあ、あじゃあ、前に貼っておこうかなって一瞬思ったけどまあええか、強調しておけばええか、なんていうか、俺は師匠の言葉にやっぱり愛を感じるわ。人間自体に優劣はないっていう師匠の想いは、でらい愛やでほんま。
「でらい」(奈良の葛城市内の方言で大きいという意味)
芥川賞対談 津村記久子さん×町田康さん
すみません、こちらから全文転載させて頂きました。
なお若干だけ色が変わってる部分が強調の部分ですとりとり
芥川賞対談 津村記久子さん×町田康さん
大阪・今宮高同窓生
契約社員として働く独身女性の日常を細やかに描いた『ポトスライムの舟』で芥川賞受賞に決まった津村記久子さん(31)と、芥川賞作家でパンク歌手の町田康さん(47)はともに大阪生まれで、大阪府立今宮高校の先輩後輩だ。昨年11月に野間文芸新人賞を津村さんが受けた際、町田さんは選考委員を務めた。受賞を記念して、接点の多い2人に、文学や音楽、大阪の記憶について語り合ってもらった。
町田 受賞おめでとうございます。忙しいでしょう。
津村 ありがとうございます。エッセーを8本頼まれたり、色々と大変です。
町田 今回、『ポトスライムの舟』と受賞後第1作の『とにかくうちに帰ります』(新潮3月号掲載)を読んだんですけど。
津村 えー、すみません。雑誌が出たばかりなのに。
町田 津村さんの小説は、身につまされる場面がある。『ポトスライムの舟』で、主人公のナガセが仕事帰りに自転車のブレーキパッドを盗まれるでしょう。
津村 はい。
町田 あのときナガセは、とっさに自分の年収163万円を貯金することに決めた。話の流れと脈絡がないけど、人間はそんなもんですよね。
津村 はい。全然、わけの分からないことで、ちゃんとした決意をしたりする。町田さんの『宿屋めぐり』は、大権現様に太刀を奉納する男が、旅の途中で超能力者や大金持ちになったと思ったら裏切られたり右往左往したりする展開が、普通の人間の人生が描かれた作品よりもリアルで、生きるしんどさがとても伝わってきました。
町田 津村さんの小説は、収入が低かったり、大して能力のない人間が出てきたりします。それは多分、みんなそんな状況で生きているんだよ、という思いがあるからではないでしょうか。
津村 そうです。はい。
町田 僕も、この言葉は嫌いなんですけど、駄目人間ばかり書いてるって言われます。でも自分としては、普通の人間しか書いているつもりはない。駄目じゃない人間が果たしているのか。そんなのいないのではないか、と思います。
津村 『宿屋めぐり』の浮沈のリアルさと比べると、現実の人間を描いた伝記は生き方がスムーズに見えて、むしろ身に迫ってこないように思えてきます。
町田 大阪は商売人の街だから、「まっ、堅いことは抜きで」みたいな実質本位で、普通の人が普通に生きていく日常の細かいところから、積み上げながら考えていくところがありますね。
津村 そうですね。一般的なイメージから演繹(えんえき)的にものを書く習慣は全くないですね。30歳のOLやったら、一回は上司と不倫して……みたいなことは書かん。
町田 それは環境もあるんですか。
津村 ええ。今宮高校に通ったのも大きかった。校舎がJR新今宮駅のそばにあって、おっちゃんが近くをいっぱい歩いてる。
町田 ああいう場所は、東京には身近にないですね。
通天閣近くでリヤカー
津村 高校時代はコギャルブームの出始めでした。でもテレビに映る「女子高生」と自分が同じに思えなかった。軽音部の活動で演奏をしたら外でホームレスのおっちゃんが踊ってたり、美術部にも入っていて絵をリヤカーに積んで通天閣の近くを歩くと「しんどいな」と声を掛けられたり。
町田 渋いな。リヤカー。
津村 あのころ、自分を「女子高生」と思えなかったのは、他人を「OL」「主婦」などかぎ括弧でくくらず、その人間の生なものを積み上げて観察する性格につながったかもしれません。
お金のこと理屈っぽく
町田 『ポトスライムの舟』は大阪弁を使ってますね。大阪の言葉を小説で使うと、そのことに酔ってしまうことがある。だけど、津村さんは大阪弁にもたれかかってない。冷静に作品の中で操ってますね。それと、受賞作には「時間を売って得た金で」という文言が出てくるけれど、お金のことを理屈っぽく考えるのも良かった。
津村 「これ、いくら?」とお金に換算するのは、大阪人の感覚かもしれないですね。『宿屋めぐり』も、すごくお金のことが出てくる。実生活でも、私はうどんの値段がやたら気になる。
町田 意外に共通してるわ。僕は世界一うどんにこだわってるパンクロッカーで、うどんの歌がたくさんあるんです。
津村 家の近くのスーパーで、うどんが一玉25円なんです。でも京都の友人の家の近くの店に入って、一玉60円のものを見かけると、物価高いなと思って、すごく落ち込むんです。
町田 世界の基軸通貨が、うどん。
津村 町田さんの高校時代はどうでしたか?
町田 高校に友達はいたけど、当時ロックも一般的でなく、パンクはもっと誰もやってなかった。学校で行事があっても、みんなフォークソングやニューミュージックを歌うような雰囲気でおもしろくない。最後の方はあんまり学校には行きませんでしたね。
津村 でも、うちら「(パンク歌手の)町田町蔵さんが卒業した学校やねんから頑張り」みたいなこと先生に言われましたよ。町田さんにとって、音楽と小説の関係は、やはり強いのでしょうか。私の場合、音楽を聴いたからだと思うのですが、文章の正しさよりも音を優先させるところがある。
町田 僕の場合、リズムに乗せて日本語を歌うことをやってきたから、考えなくてもリズムが良くなる。むしろツルツルしてしまうので、わざとカクカクさせたり、ずっこける感じにする。僕は小説で大切なのは、音楽のノイズ(雑音)にあたる部分をカットしないことだと思います。
津村 雑音ですか。
町田 世の中の新聞や雑誌に載るニュースや記事は、理路整然としている。でも、それを根底から問い詰め、排除されたものをとらえ直すことで小説は始まる。パンクとは疑うことです。
津村 コンビニエンスストアで世間に流布する音楽を聴くと、たまに死にたくなる気分になるときがあります。言葉に無頓着だったり、何か整った価値感を押しつけられたりするようで。そういうものにはあらがいたい。
町田 仕事は続けていくんでしょう? 午前2時から4時まで書くそうですね。
津村 お金のこともあるけれど、私の場合は家にこもって小説を書き続けていると自意識過剰になってしまう。仕事中に私のサイン会の整理券を上司のおじさんが席に持って来たり、わけのわからないことのある方が自分を保っていられます。
町田 奇麗な音ばかり聴いていてはダメだと言うことでしょう。色々なことを言われるかもしれないけど、関係なく書き続けてください。
津村 どうもありがとうございます。現実に耐え、書き続けていくつもりです。
"
— 2009年2月12日 読売新聞
駄目なもんだから同じく駄目な人間の集まりであるハセカラ民と仲良くなることで自分の駄目を紛らわせばええんやと思った俺が阿房やった。何故ならそんなハセカラ民族の彼らからもこいつは駄目だと判子を押されて除け者にされ、脱糞した糞をバケツに溜めたやつを頭からぶっ掛けられるという世話を受けて尻尾巻いてとぐろ巻いて逃げ帰ってきた場所が、あーた、またこのこつこつと自分の思いを140文字以上にして書き続けるというブログ世界であったわけだなっつって、まだ話が終わったふうに思われないでほしいのは、わたくしは全くの駄目やって思ったときに、何故だかかぜだか我が生涯の師匠である町田康の強くも厚くもぶれない胸に突き刺さったままずっと残ってゆくみたいな言葉を求めて無意識に約二日間ほど、わたしは多分に求めた結果、こんなすぐに師匠は言ってくれたんだ。しかしなお、我が心の師匠の町田康は決して、けつして、人を励ますために言ったわけではないことを師匠本人が前、ゆうとったで、人を励まさなければならないみたいなそうゆうのはいらんやろ、みたいに前ゆうてはったで、だからこの発言もけつして人類全員を励ますためのものではなく、寧ろ、人類を全員どん底へ突き落とし、自らも堕ち抜いて同じ土壌の上にでろんと立ちはだかって、さあ来い、とでも言ってるようにおまはんには聞こえませんでっしゃろやろかいなっつって、まあ長々と前書きが多いなあ、もう、なんの話やねん、って思ってみんな肝心のところ読まんで帰るみたいなことがあるとこれはいけない。ってんで、あじゃあ、あじゃあ、あじゃあ、前に貼っておこうかなって一瞬思ったけどまあええか、強調しておけばええか、なんていうか、俺は師匠の言葉にやっぱり愛を感じるわ。人間自体に優劣はないっていう師匠の想いは、でらい愛やでほんま。
「でらい」(奈良の葛城市内の方言で大きいという意味)
芥川賞対談 津村記久子さん×町田康さん
すみません、こちらから全文転載させて頂きました。
なお若干だけ色が変わってる部分が強調の部分ですとりとり
芥川賞対談 津村記久子さん×町田康さん
大阪・今宮高同窓生
契約社員として働く独身女性の日常を細やかに描いた『ポトスライムの舟』で芥川賞受賞に決まった津村記久子さん(31)と、芥川賞作家でパンク歌手の町田康さん(47)はともに大阪生まれで、大阪府立今宮高校の先輩後輩だ。昨年11月に野間文芸新人賞を津村さんが受けた際、町田さんは選考委員を務めた。受賞を記念して、接点の多い2人に、文学や音楽、大阪の記憶について語り合ってもらった。
町田 受賞おめでとうございます。忙しいでしょう。
津村 ありがとうございます。エッセーを8本頼まれたり、色々と大変です。
町田 今回、『ポトスライムの舟』と受賞後第1作の『とにかくうちに帰ります』(新潮3月号掲載)を読んだんですけど。
津村 えー、すみません。雑誌が出たばかりなのに。
町田 津村さんの小説は、身につまされる場面がある。『ポトスライムの舟』で、主人公のナガセが仕事帰りに自転車のブレーキパッドを盗まれるでしょう。
津村 はい。
町田 あのときナガセは、とっさに自分の年収163万円を貯金することに決めた。話の流れと脈絡がないけど、人間はそんなもんですよね。
津村 はい。全然、わけの分からないことで、ちゃんとした決意をしたりする。町田さんの『宿屋めぐり』は、大権現様に太刀を奉納する男が、旅の途中で超能力者や大金持ちになったと思ったら裏切られたり右往左往したりする展開が、普通の人間の人生が描かれた作品よりもリアルで、生きるしんどさがとても伝わってきました。
町田 津村さんの小説は、収入が低かったり、大して能力のない人間が出てきたりします。それは多分、みんなそんな状況で生きているんだよ、という思いがあるからではないでしょうか。
津村 そうです。はい。
町田 僕も、この言葉は嫌いなんですけど、駄目人間ばかり書いてるって言われます。でも自分としては、普通の人間しか書いているつもりはない。駄目じゃない人間が果たしているのか。そんなのいないのではないか、と思います。
津村 『宿屋めぐり』の浮沈のリアルさと比べると、現実の人間を描いた伝記は生き方がスムーズに見えて、むしろ身に迫ってこないように思えてきます。
町田 大阪は商売人の街だから、「まっ、堅いことは抜きで」みたいな実質本位で、普通の人が普通に生きていく日常の細かいところから、積み上げながら考えていくところがありますね。
津村 そうですね。一般的なイメージから演繹(えんえき)的にものを書く習慣は全くないですね。30歳のOLやったら、一回は上司と不倫して……みたいなことは書かん。
町田 それは環境もあるんですか。
津村 ええ。今宮高校に通ったのも大きかった。校舎がJR新今宮駅のそばにあって、おっちゃんが近くをいっぱい歩いてる。
町田 ああいう場所は、東京には身近にないですね。
通天閣近くでリヤカー
津村 高校時代はコギャルブームの出始めでした。でもテレビに映る「女子高生」と自分が同じに思えなかった。軽音部の活動で演奏をしたら外でホームレスのおっちゃんが踊ってたり、美術部にも入っていて絵をリヤカーに積んで通天閣の近くを歩くと「しんどいな」と声を掛けられたり。
町田 渋いな。リヤカー。
津村 あのころ、自分を「女子高生」と思えなかったのは、他人を「OL」「主婦」などかぎ括弧でくくらず、その人間の生なものを積み上げて観察する性格につながったかもしれません。
お金のこと理屈っぽく
町田 『ポトスライムの舟』は大阪弁を使ってますね。大阪の言葉を小説で使うと、そのことに酔ってしまうことがある。だけど、津村さんは大阪弁にもたれかかってない。冷静に作品の中で操ってますね。それと、受賞作には「時間を売って得た金で」という文言が出てくるけれど、お金のことを理屈っぽく考えるのも良かった。
津村 「これ、いくら?」とお金に換算するのは、大阪人の感覚かもしれないですね。『宿屋めぐり』も、すごくお金のことが出てくる。実生活でも、私はうどんの値段がやたら気になる。
町田 意外に共通してるわ。僕は世界一うどんにこだわってるパンクロッカーで、うどんの歌がたくさんあるんです。
津村 家の近くのスーパーで、うどんが一玉25円なんです。でも京都の友人の家の近くの店に入って、一玉60円のものを見かけると、物価高いなと思って、すごく落ち込むんです。
町田 世界の基軸通貨が、うどん。
津村 町田さんの高校時代はどうでしたか?
町田 高校に友達はいたけど、当時ロックも一般的でなく、パンクはもっと誰もやってなかった。学校で行事があっても、みんなフォークソングやニューミュージックを歌うような雰囲気でおもしろくない。最後の方はあんまり学校には行きませんでしたね。
津村 でも、うちら「(パンク歌手の)町田町蔵さんが卒業した学校やねんから頑張り」みたいなこと先生に言われましたよ。町田さんにとって、音楽と小説の関係は、やはり強いのでしょうか。私の場合、音楽を聴いたからだと思うのですが、文章の正しさよりも音を優先させるところがある。
町田 僕の場合、リズムに乗せて日本語を歌うことをやってきたから、考えなくてもリズムが良くなる。むしろツルツルしてしまうので、わざとカクカクさせたり、ずっこける感じにする。僕は小説で大切なのは、音楽のノイズ(雑音)にあたる部分をカットしないことだと思います。
津村 雑音ですか。
町田 世の中の新聞や雑誌に載るニュースや記事は、理路整然としている。でも、それを根底から問い詰め、排除されたものをとらえ直すことで小説は始まる。パンクとは疑うことです。
津村 コンビニエンスストアで世間に流布する音楽を聴くと、たまに死にたくなる気分になるときがあります。言葉に無頓着だったり、何か整った価値感を押しつけられたりするようで。そういうものにはあらがいたい。
町田 仕事は続けていくんでしょう? 午前2時から4時まで書くそうですね。
津村 お金のこともあるけれど、私の場合は家にこもって小説を書き続けていると自意識過剰になってしまう。仕事中に私のサイン会の整理券を上司のおじさんが席に持って来たり、わけのわからないことのある方が自分を保っていられます。
町田 奇麗な音ばかり聴いていてはダメだと言うことでしょう。色々なことを言われるかもしれないけど、関係なく書き続けてください。
津村 どうもありがとうございます。現実に耐え、書き続けていくつもりです。
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— 2009年2月12日 読売新聞