子ゾウリとまだskull人(Degenerate the faithful,信心深い人々を退化させる)

小説 短編小説 マジックリアリズム

何がセックスだ。なんで愛する人以外とセックスしなけりゃなんねえんだよ、この年になって。
ふざけたことしてくる奴は全員、俺がお望みの地獄に突き落としてやるからな。
本当に愛してもいない人とSexする奴は全員、死体だ。
お前ら気づいてないんだろ。
俺はもう死体じゃない。
お前らみてえな腐乱死体と交わる死姦(屍姦)マニアじゃねえんだよ糞が、
fuckoff!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
ああいった糞な奴らはクソ喰って糞とファックして糞の中で糞みてえに死んで糞になればいいんだ。
何が「抱かれたいか?」だ。
お前らみたいな男とファックするくらいなら鉄の塊の人工知能ロボットにレイプされるほうがずっと良い。
女性器は破壊されても精神的によっぽど救われる。
わたしにはWesという心に決めた夫がいるんだ。
死ぬまで、他の誰とも、性的な関係を持つ気はない。
我が神に懸けて。
そうだ今年中にVancouverへ引っ越そう。
Japanなんて糞だからな。糞じゃなくても糞に近い。
俺はジャンボ宝籤を当てて生活保護を抜けてバンクーバーのWesの事故物件を見つけてそのアパートで1人死ぬまで暮らすんだ。
死体のようにね。
Wesの亡霊に毎晩しゃぶられ尽くされ抱かれて暮らすというわけさ。
一日デートして一万円くれないか?とあの男に訊けばよかったな。
3リットルワインボックスが4日程でなくなるから酒代に困ってるんだ。
僕は必ず懐にジャガーナイフを忍ばせておく。
何かあれば、即、相手の股間を一突きさ。
警官には無論、レイプされそうになったと言うに決まっている。
嘘だけどね。
その気になりゃ俺だって、用意はできてるんだぜ。
お前みたいな男は何人も観て来た。
地獄の果てで縋り付いてくる奴らを蹴り飛ばして生き延びて来た女なんだよ俺は。
人びとは俺をシヴァの嫁はんと呼んで恐れて来た。
リンガを人差し指だけで折るって言うんだぜ、マジかよ、ひでえ女だなァそりゃあ。
それでそいつ、涙で目を腫らしながらこう言ったらしいぜ。
「食べたきゃ、食べていいんだよ。」
で、その女どうしたんだよ?
「知りてえか?」
「おう。」
「どうしたと想う?」
「どうしたんだよ。」
「喰ったと想うか?」
「だからどっちなんだよ。」
「俺だよ。」
「あ?」
「だから喰われたの俺だよ。」
「お前に食わせる価値なんてねえんだよ。」
「何、お前、怒ってんのか?」
「怒ってねえよ。」
「だったら、なんだってんだよ、お前、あいつの、何なのさ。」
「…もうやめようぜこの話。糞から屁が漏れてマダスカル人と薄汚いモーテルで添い寝したくなる。」
「マダガスカルだろ。」
「まだskull人だよ💀。」
奴は突然、震えだして全身を抱き締め乍らこう言った。
「お前、まだskull人の言い伝えを知らないのかよ。」
「知らねえなぁ、そんな生命じゃねえ奴。」
奴は深い溜息を吐くと思い切り見下した眼で言った。
「だからお前はアホなんだよ。」
「どういうのだよ、そりゃ。」
「とにかくゾウリムシとこの曲が関係してるんだ。俺は疲れたから寝るぜ。」



KC & The Sunshine Band - That's the Way (I Like It) (2004 Remaster) 


「おい、何だよ、気になるじゃねえか、ゾウリムシがどうなるんだよ。」
「ゾウリムシが踊り始めるんだよ、簡潔に言うと悪魔崇拝儀式だ。」
「マジかよ。」
「まだskull人が、一緒に輪になって激しく踊りながらゾウリムシ達に向かって言うんだ。」
「何を?」
「おい、こんな処よりもっと良い処あるんだぜ。知らねえだろう。俺たちは知ってるんだぜ。」
「それでなんて応えるんだ?」
「ほんとかよ。どうしようかなぁって迷い始めるんだ。」
「で、行くのかよ?」
「それで、こっから慎重な交渉が始まるんだ。」
「ゾウリムシたちに?」
「そうさ。」
「素面じゃ言いにくいな。キツイ話だ。」
「今スピード遣ってんだろ?」
「やっとらんわ。」
「どんな儀式だ?」
「拷問に掛けられんだ。」
「ゾウリムシたちが?」
「そうよ。」
「どんな…」
「まず、ひとりだけ選ばされる。」
「涙なしじゃ語れん…いっちゃん、ちっせえまだ子どもが選ばれ、前に出ろってまだskull人たちに言われるんだ。」
「可哀想じゃねえか、お前、観たのかよ?」
「ああ、観たさ、眼ン前でな。」
「…で、どうなんだ?」
「ボクヤダヨ。ってその子ゾウリムシが言うんだよ。泣きながら。」
「おい、やめさせろよ。」
「ヤダヤダ、ボク、イキタクナイヨ。って子ゾウリが泣き喚くんだ。」
「さぞかし怖えだろうよ…」
「まだskull人たちは、子ゾウリに向かって、バカ、こんな処にずっと居るほうが頭おかしくなるんだ。って言うんだ。」
「自分たちは正常なのかよ?」
「いやだって、これは神聖な儀式で最高の祝福だからね。」
「そんなちっちぇ奴がわかるはずないがな。」
「でもこれは遣らなくちゃならないことなんだ。絶対に必要な儀式なんだよ。」
「なんだ、お前、なんでそこまでまだskull人たちの肩持つんだよ。」
「俺は事実を言ってるだけさ。」
「俺ならやめさせるね。」
「お前はまだskull人たちの恐ろしさをまだわかっとらん。」
「その子ゾウリが、まだskull人たちに対して何したってんだよ?何の負債があるのさ。」
「歴史は僕たちの想像以上に複雑なんだ。」
「何ひでえことしたってんだよ?おい?」
「まあ落ち着けよ、酒切れたから買って来てくれ。」
「なんで俺が買いに行かなならんねん。」
「頭冷やしに行けってことだ。」
「ヤダ。」
「行かねえなら、子ゾウリが観るも無残な姿と成り果てるまでの悍ましき拷問話を聴かせよう。」
「よっこらしょ、っと。やっぱ行ってくるわ。サークルKの500円台のワインでええやろ?」
「おい、逃げるのかよ。」
「聴いてられるかよ。俺は正気じゃいらんねえ…」
男はゲップと屁を同時にすると出て行った。
奴は5年前に閉店したサークルKの公衆電話からかけてきた。
「おい、やっぱり子ゾウリの話の続きを聴かせてくれよ。もう他の事なんてどうだっていいんだよ。俺は今、子ゾウリの話が聴きてえんだ。」
「お前、なんで部屋に来て言わねえで公衆電話から言ってくるんだよ。」
「今、今、俺は聴きてえんだよ。」
「俺は今、酒を飲みてえんだ。酒を待ってんだよ。わかるか?まさかお前、俺の財布から持ってった3千円で買った酒を今飲んでるんじゃねえだろうな。」
「飲んでるよ、お先にね。」
「それで俺の金で公衆電話から掛けてんだろ?」
「そうだよ。」
「てめ、ふざけとんのか。」
「今聴きたくてしょうがねえんだよ。」
「俺は酒が切れて頭にキテんだよ。子ゾウリ拷問話はお前が寝る前にしてやる。だから今すぐに酒を持って帰ってこい。わかったな。ガチャ。」
すると5分後、また電話が鳴った。
「おい、頼むよ。俺は今ここでならその話を最後まで聴けそうなんだ。家でだとぬくぬくモードに入って聴けそうにねえんだよ。」
「悪いが俺は約6時間前からTwitterのダークモードでTweetし続けた人間が陥る最悪な目がチカチカする異常な状態に置かれた奴みてえな気分の悪さを感じてんだよ。今すぐに飲みてえんだよ。今すぐ帰って来ねえなら子ゾウリの命はねえからな。」
「どういうことだよ?お前んちに子ゾウリがいるのかよ?」
「俺はこんなことになるとわかってたからあいつは念の為に誘拐しておいたんだ。」
「おい、それは本当なのかよ?お前、今スピードやって」
「やってたらなんだよ?」
「もうやるなって言ったじゃねえか、あれは…」
「今そいつを子ゾウリ用に火であぶってる。」
「やめろよ!ファック!今すぐ帰るよ!」
「ただいま帰ったぜ!子ゾウリ!子ゾウリ無事だろうな⁈どこだ?おい、子ゾウリ!」
男はキッチンに立ち、何か鍋でぐつぐつ煮ている。
「お、お、おい…ま、まさか…」
ニヤと嗤い、男は応えた。
「遅かったな…」
「おまえ、マジ、子ゾウリ…煮たのか。」
「なわけないやろ。」
「なーんだーもー吃驚。」
男は鍋に近寄り言った。
「あらいい香り。」
「粕汁だ。」
「粕ノ汁なんざ、汚くて俺は喰いたくない。」
「なら喰うな。」
「おい最後まで聴きな?粕ノ汁なんざ、汚くて俺は喰いたくないなんて俺はぜぇったいに死んでも言わないと神に誓うとお前に約束するよ。食べさせてくれるよね?ね?」
「お前の分ないよ。」
「あるじゃんか鍋いっぱい。」
「くだらんお前に食わせるものなんかないって意味だよ。」
「怒ってんの?」
「怒っとるわっ。」
「俺ァお前を信じてたぜ。お前に限って、子ゾウリを悪い目にあわそうだなんて、なことた、あるわけないとね。」
男はきょろきょろと部屋を見まわし言った。
「で、子ゾウリはどこ。」
部屋中を探し回る男を冷めた眼で見つめながら男は鍋の中をかき混ぜながら黙っている。
「おい、どこにいんだよ子ゾウリちゃんはよ。」
お玉で味見して、「good」と言うと男は男を見つめ平然と言った。
「逃げたよ、あいつ。」
瞬間、泣きそうな顔で男は言った。
「おいいいいいいぃいぃいぃいっぃ…なに。」
「スピードを火であぶりながら、早く打ってほしいだろ?って訊いたんだ。するとあいつ、飛び上がって物凄い速さで回転しながら飛んでって、どっか行っちまって、見えなくなった。」
男は落胆して舌を鳴らした。
「もーー--ーなんでなんだよ…見たかったのに…子ゾウリ…。」
「見世物じゃねえんだぜ。」
「愛してるんだぞ、俺は。」
「だれを。」
「子ゾウリを。」
男たちは狭いキッチンで神妙に見つめ合った。
The Clash「Combat Rock」の"Rock the Casbah"が部屋の中に流れている。
火を止め、男は言った。
「よし、できた。皿によそってテーブルまで持ってってくれ。俺はワインを用意する。」
男はもう一度繰り返す。
「俺は子ゾウリを愛してんだぜ。」
男は笑った。
「帰って来るさ。」
男はソファに深く腰掛け、ワインを飲み干すと言った。
「俺たちは多くを誤り、多くを間違い、多くを失敗する。しかし俺たちにできないことはないんだ。本気にさえなれば…。」
男はカーペットの上に胡坐をかいて粕ノ汁を吸うと応えた。
「それ、だれか言ってたな。」
「ナザレのイエスだ。」
「イエスか…。」
「遣ろうと想えば遣れる。遣れない事はない。そうイエスは言った。お前が本当に子ゾウリに会いたいなら、子ゾウリから会いに来る。それを信じるか、どうかだ。お前次第なんだ。」
「俺は子ゾウリにただ会いたいわけじゃないぜ。助けたいんだ。まだskull人から解放してやりたいんだ。罪はないのだから…。」
「俺は子ゾウリにも罪はあると想っている。」
「一体、どういう罪だよ?あんなちいせぇ奴…。」
「子ゾウリは子ゾウリであるという罪を負っているんだよ、原初から。」
「お前、子ゾウリにまで、"原罪"を求めるのか?何も知らないんだ…。」
「どうしてわかる?すべてを知ってるかもしれない。俺たちよりも…。」
「わからない…すべて知っているとしても、拷問にあうのはあんまりじゃねえか…ひでえさ、許されることじゃねえ。」
「お前、"すべてを知っている"とはつまりは、"すべての罪を知っている"ってことで、即ち、"すべての罪を負っている"ってことなんだぜ?」
「それ…誰が言ってた?イエスか?」
「俺だ。」
「…子ゾウリって、だれなんだよ?神か?落ちぶれた神か?」
男は大きなゲップをして言った。
「俺だよ。」
「お前…まさか…人間だと想ってたよ、だってお前。」
「俺が子ゾウリだよ。」
「マジかよ…ファッキング。」
「そしてお前はまだskull人だよ。」
「Huh?!」
「お前は生まれた時からまだskull人なんだ。」
男はジーンズのなかに手を突っ込んで言った。
「shit.一ヶ月以上シャワー浴びてないから股の間を掻いただけで爪に黒い垢が溜まりやがるぜ。」
「子ゾウリは風呂に入らねえのか?」
「水もお湯も嫌いなんだ。」
「きったねえなおい。」
「俺たちにそのような辞書はない。お前の言葉の方がよっぽどdirtyだ。」
「おい、今日から子ゾウリやめて子スリッパに生まれ変わらねえか?」
「本質変わらんのだから意味ないだろ。」
「リッパ子スとかにしねえと本質変わらねえのか。」
「おいお前、いつ帰んだよ。いつまでここにいるつもりだよ。」
「俺はお前が、あの女のなんなのか聴くまで帰らねえよ。」
「まだ言ってんのか。」
遠くを見つめる眼で男は話し始めた。
「そう…もう随分前の話しだ。俺は目が醒めた。傍に女がいるのを感じた。それは女だった。俺の知らない女だった。母乳の馨りがする女だった。俺は勃起して、女に訊ねたんだ。俺って誰なんだ。お前は誰だ。」
「で、女はなんつったんだ?」
「お前の名は子ゾウリだ。」
「お前の名付け親はその女だったのかよ。」
「そうだ。」
「それでその女、お前とどういう関係なんだよ。」
「女は俺に答えた。一人の穢れた娼婦がお前を産み落としすぐに死んだ。哀れになり自分の乳を与えて育てたが、お前は乳より乳首をしゃぶる事の欲求によってわたしを求め始めたからもう嫌になってまだskull人にお前を売ることの契約を交わした。お前はまだskull人のものであって、わたしのものでは最早ない。お前のすべて、お前のいのち、お前の血、何もかも、お前はまだscull人のもので手の内にある。それ以外の処にお前はいない。存在してはいない。聴く耳があるなら聴け。お前はまだskull人となる。」
男は首を振って、悲しく笑うと言った。
「それが、その女が、お前の母親だよ。」
男は屁で訊ねた。
「ぷぅ?」
「嘘じゃねえよ。」
次は男は空笑いで答えた。
「パハハ。」
「本当だ。真実だ。トゥルースだ。」
耳から応えた。
「ポホホ。」
「信じろ。」
鼻の穴から応えた。
「ぷふふん。」
「俺を疑うのかよ?」
男は全身をわなわなと震わせ言った。
「なんで俺が知らないのに、お前が俺のmomを知ってるんだよ。」
男は笑って言った。
「知らないよ。知りまへんよ、そんなん。」
男は何を想ったか突如、全裸になると陰茎を持って言った。
「こいつに訊いてみよう。こいつはなんでも知ってるんだ。」
そして陰茎占いをして、男は力の抜けた声で言った。
「当たってるとよ。」
「だろ?俺がお前に嘘つくわけないではないか。ははは。お前の陰茎だってお前に嘘なんてつかねえ。俺はお前の陰茎と同等だ。おい、どういうことだ?そりゃ。」
「お前が言ってるんじゃねえか。」
「そうだな。ま、そういうこった。お前の母親の乳首をしゃぶりつくした男、それがこの俺だ、子ゾウリだ。ははは。」
永く、重い沈黙が、部屋に行き渡った。
やがて男は静かに、泣き始めた。
「俺だって、俺だって、しゃぶったことねえのによ…。」
男はベッドに横たわり、乳首を見せて言った。
「俺の乳首なら吸いたいだけ吸えよ。」
「そんな趣味ねえよ。」
「子ゾウリの乳首だぜ。愛してるってお前言ったじゃねえか。」
「今は、もうわかんねえんだよ。」
男は俯せになり言った。
「だったらもう帰ってくれよ。十時間以上お前と一緒にいる。俺は一人になりたいんだ。まだskull人の生贄になるのは、まだ先の話だからね。」
「俺はmomの事を詳しく知りてえんだよ。」
男はベッドで煙草を吹かしながら言った。
「いい女だったよ。ただあいつは最終的、俺をまだskull人に売った女だからな。ろくな女じゃねえ…。」
男は膝で歩いて男に近寄って言った。
「俺はmomに会いてえんだ。どんな女だって俺は構わねえ。どこにいるんだ?俺のmomは…。」
男は背を向けた。
「死んだよ。」


男がウトウトして、寝返りを打って目を開けると男の姿はなかった。
あいつ、帰ったのか…。
目を瞑ると、電話が鳴った。
受話器から男の声が聞こえる。
「なあ俺はここにいるとmomに会えるような気がするんだ。」
雨の音が聞こえている。
「どこにいるんだ?」
男は答えない。
「俺はだって、お前がいる。お前が俺のなかにいるんだからな。ここで俺は待ってなくちゃならない。お前がここに来ることはできないが、俺はここにこうしていられるんだ。俺とお前はもともと一つだったがmomが俺とお前を離したんだ。子ゾウリがすべてを知ってるなら、俺も、まだskull人もすべて知ってるんだ。俺はここで待ってる。」










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The Clash - Rock the Casbah (Remastered) 
















悪神の子

小説 地獄

すぐに自棄になって人との縁をぶっちぶち切っていく人格障害者と付き合うのはしんどいよね。
骨が折れるでしょう、僕も同じ気持ちになるもん、僕と似た人と知り合うと。
しんどくって無理だって思うもんね、痛くてしょうがないよね。
そうだよボクも歴とした人格障害者です。
ネット間で忌み嫌われ続けるボダです。この年になってもね。まだ糞元気なボダです。
その上欝も酷くてまともに働くことができません。
もう5年以上働いてません。家にずっと引篭もって暮らしてます。
5年ほど生活保護受給者です。
この世界ではどうしてだかわからないのですが自立して一人前に生きないとまともな生き方とは言ってもらえないみたいですね。
ずっと黙ってましたが、僕は最近もある知らない人から一人前の自立した人間になってくださいと言われたので自棄を起こしてしまって、衝動的な行動に走ってしまいました。
毎日決まった時間に出勤する仕事ができなければ好きな時間と好きな日に仕事ができる風俗業も男性に奉仕するのが大嫌いな僕は到底できそうにありません。
僕と言う人間がかろうじて、自立できるかもしれない方法、それは子供を持つということでした。
ですので、あれから数々の出会い系で知り合った知らない男を家に呼んでは何度も寝ました。
子供を作るためにです。相手は誰でも良かった。
この年でも結構男はわんさか寄ってくるものです。
生でしかも中に出してくださいと募集したからでしょうか。
とにかく種欲しさに一日に3人の男と寝たりもしました。
自分がますます汚れていくことは喜びでもありましたが苦しみでもありました。
そういった毎日を繰り返して、ふと先月の生理が来ていないことに気付き早速ネットで妊娠検査薬を買いました。
結果は陽性でした。
このボクが妊娠したのです。
なんと嬉しいことでしょうか。
僕は喜びのあまり散らかってゴミ屋敷だった部屋を一日中掃除して片付けました。
気力が漲ってしかたなかったのです。
次の日にはアルバイト情報誌をコンビニでもらってきて片っ端からできそうなバイトやパートに電話をかけ、面接に行きまくりました。
そして最初に面接に行った近所のうどん屋さんでパートが決まりました。
父親が誰かはまったくわかりませんでした。
よく女がイくときに子宮口が開き、受精しやすくなると聞きます。
でも私はこれまでイったことすらなければ、セックスで感じることすら皆無だったのです。
セックスで気持ちがいいという性的快楽を覚えたことが今まで一度もありません。
その上、私の子宮は双角子宮という子宮奇形であり、その子宮の人は不妊や流産の可能性が高くなるとも言われています。
そのボクが妊娠したのです。
僕は早速うどん屋に働きに行きました。
世界の景色は変わって見えたのです。
よくわからないのですが、一人一人がすべてそこに存在してるだけで美しいと思えるようになりました。
誰が父親でも本当に構いませんでした。
だからどんなおっさんとも私は寝たのです。
そして奇跡的に妊娠したのです。
我慢して色んな人と寝た甲斐がありました。
私はこれで自立できると思いました。
もう自立してくれとあんなつらいことを誰にも言われなくて済むのです。
可愛い可愛い僕の赤ん坊に早く会いたいと思いました。
ボクを自立させてくれるこの存在に感謝しようと思いました。
思ったので、実際感謝しました毎日毎日。
おなかのふくらみをさすって早く生まれておいでと何度も呼びかけました。
そうして一日中早く会いたい早く会いたいと思い続けたからでしょうか。
まだ全然産む月になってないのに朝起きたら早産していました。
パンツを履いてなかったので、そいつはごろんと私が蹴ったのでしょうか、足元のところらへんにいました。
子犬ほどの大きさでした。
臍の緒で繋がれた血だらけのそれが布団の上で黙って蠢いていました。
私はぎょえーっと大声で叫んで失神しそうでした。
立ち上がると股の間から大量の血や胎盤がぼとぼとと落ちてひいいいいいいぃっっっと思いました。
でもいつまでも驚いていられないので素早くその赤ん坊を抱き上げるとお風呂に湯を溜めて臍の緒で繋がったままじゃぶじゃぶ洗いました。
で、湯船に一緒に浸かりました。
そいちゅは「あぷわぷわぷわぁ」とわけのわからないことを言っていまちた。
こいちゅ頭おかしいんとちゃうかと思って一発殴りまちたが、それでもそいちゅは何が嬉ちいのか気持ち悪い笑顔で「あぷわぷわぷわわぁ」と言い続けていまちた。
こいちゅ、ほんま、アホや、ああ可愛い可愛いなあと言って毎日一緒にお風呂に入りました。
で、そいちゅは小さいくせに元気なんだけども夜泣きが激しかったのです。
ここは隣の人の小便の音が聞こえるほど壁が薄い、そんな部屋で夜泣き、これは迷惑で苦情が来てしまいます。
なのでしかたなく、泣き出したらそいちゅの口にガムテープを張りました。
何度か、鼻水が溜まってか、死にかけましたが、なんとか大丈夫なようでした。
そうしてガムテープを思いっきり外してお風呂に浸かるとまた「あぷわぷわぷわぁ」とご機嫌に喋ってるので、ほんまけったいなやっちゃ、と思いました。
ボクの世界は薔薇色だった。
そういや、そいちゅは、男の子でちた。
小さなちんちんが立派に生えていた。
可愛くてしょうがないので、ボクは思った。
こいちゅさえおったら、もうほかになんもいらん。
こいちゅとボク以外、全員どん底に落ちても構わない。
勝手にどん底に落ちればいいんじゃないか?
ボクとこいちゅだけ幸せだったらそれでもういい。
それだけでいいよ、この世界。
ボクとこいちゅだけ幸せであればいい世界だ、この世界は。
ははは、他のやつら全員死んでも別にいいですよ。
俺とこいちゅだけが生きれるならね。
ふふふ、こいちゅがおれば俺は天国、他のやつらは皆地獄に落ちればいい。
ほほほ、だってこいちゅがいたらボクはそれでええもん。
あとの全員死ねばええねん。
なーこいちゅ、と毎日そいちゅに話しかけていた。
いつも、こいつ、こいつ、と思ってたので、名前は鯉津という名前にした。
でも、つい、こいちゅ、と呼んでしまう。
腹立ったときはいつもぶん殴ってたけど、こいちゅは風呂が大好きなようで、風呂に入れたらご機嫌となって「あぷわわわん、あぷわぷわわわん」などと言うから可愛いてしゃあない。
もちろん母乳を乳から与えてましたよ?出ない日は仕方なく粉ミルクでしたけども。
で、乳をいっぱい与えるんやけど、なんでかでっかくなっていかないんだよな。
なんでなんやろな、ずっと子犬サイズで元気なんだけども。
俺はだんだん不安になってった。
得体の知れないものと一緒に暮らしてるみたいな気持ちになってきた。
風呂に入れると相変わらず鯉津は「あぷりゃーしゃあぷらーしゃ」とまたわけのわからん言葉を吐いては楽しんでいる。
俺はそれを眺め眺め、怖くなってきた。
しかもそいつは、いつまで経っても赤い身体で、まさに赤ちゃんなのである。
気味が悪くなってきだした俺は、鯉津、捨てよかな、と思った。
だってこんなんおかしい、どう考えても。
子犬の大きさで生まれて人工的な何も必要とせず元気なんもおかしいし、何度風呂入っても「あ」と「ぷ」の入った言語しか喋らないのもおかしいし、ずっと赤いままなんて、悪魔の子か、もしかして、こいつ、悪魔の子なんちゃうか。
私は身震いをした、そいつを抱いて風呂に入り乳を与えながら。
誰が悪魔だったのかとボクは思い出してみた。
悪魔らしきやつ、一人、おったわ、そういや。
何かこう、ミステリアスな感じで、何考えてんのかわからん変な奴やった。
哲学なんかなんか知らんけどさっぱり意味不明な難しいことばかりずっと一人でしゃべってるようなやつやった。
あいつだ、きっと。
あいつ悪魔だったんだ。
あいつの子か、鯉津。
くっそーくっそーくっそーと俺は三回思った。
まんまと悪魔の子供を孕まされたわけである。
俺としたことが、悪魔に気付かなかった。
何故なら誰でもええと思ってた俺だからであった。
自棄な思いからやったことやんけ、しゃあないんちゃうんけ。
そう思っても、くっそーうと言う悔しさが離れなかった。
悪魔の子とわかれば、こうしてられない、捨てに行こう。
ボクはそいつを捨てに行った。
どこに捨てるのがええか。
どこに捨てても、わからんやろう、俺の子だとは。
だって顔だって今見たらどこが似てるんや、蛙と鴨と鰯と麒麟と蝿とドルフィンとミミズと蛇と鹿と牛と豚と鶏をステゴザウルスで割ったみたいな顔やんか。
俺の血どこに引いてんねん。
人間も猿も入ってへんやん。
あ、でもそういやあの悪魔もどこか蛙と鴨と鰯と麒麟と蝿とドルフィンとミミズと蛇と鹿と牛と豚と鶏をステゴザウルスで割ったみたいな顔やったかもな。
恐ろしいことだな、マジ。
これはもう捨てるしかないだろう。
どう見たって悪魔の子なんだから。
ずっとこのまま一緒におったら俺がどうにかされるに違いない。
捨てるに限る、こんな子は。
ボクはその赤い赤い赤ん坊を捨てる場所を夜中の丑三つ時に探した。
口にはガムテープを張って抱っこしてうろうろと歩いて探した。
赤ん坊の体温はおかしいほど高い、それを感じて可哀相にもなったが。
生かしちゃ俺がやばいだろうから、そうだ、こいちゅはもう、殺したほうがええわけか。
捨てる場所ではなく、殺す場所、そしてこいつを埋める場所を俺は探した。
何を思ったか俺は、近くの神社で殺そうと思った。
そしてそこにある大木、神木の下に埋めようと決めた。
何故かはわからない。でも俺は悪魔が恐ろしくて悪魔の力をここでなら封じてくれるんじゃないかとどこかで思ったからだ。
ゆうたら悪神の子なわけですから?それが死んでその力が消えるとも思い難い、その力を封じるにはどうしても別の、神の力が必要だと思った。
そうと決まれば私は神社の社の前に赤子を置き、金は持ってこなかったので賽銭は無しで鈴を振って手を叩き、どうかこの子を永遠に封じてください、と願を懸けた。
そして一瞬気は引いたが、鯉津の鼻を思い切り抓まんで窒息死させた。
あっけなく鯉津は死んだ。
そしてその側にある推定二千年ほどの御神木ビャクシンの異様な形の木の根元を適当な木が他になかったのでしかたなく御神木の枝を折って、それで掘って死んでまだ温かい鯉津を埋めた。
で、もっかい帰りしなに、どうか赦してください、と願を起こして私は家に帰った。
家に帰って変に汗をかいていて体中がねたねただったので非常に疲れきっていたが風呂に入ろうと思った。
湯船にゆったりと浸かっていた。
すると涙が引っ切り無しに零れてくるのである。
悪魔の子ではあっても可愛い我が子に違いなかったはずである。
それを一時の恐れと覚えた気色悪さから我が子を殺してしまった。
さっき殺したばっかりなのに、今となって鯉津の可愛いあの顔が愛おしくてしょうがなく思えてくるのである。
あの時は確かに気持ち悪くて仕方ない顔に思えたはずだ。
だから私は殺したんだ。
それがなんで、なんで、殺した後には可愛い顔に思えてくるのか。
悪魔の子ではあってもずっと可愛いと思えてたら殺すことも無かったはずだ。
何で今になって、今になって、鯉津を殺したことを後悔するのか。
さっき殺したばかりだった、ほんのさっき。
さっき殺したはずだ、さっき、あの、あの女を。
鯉津は成人した立派な体を起こして湯船から上がると身体を拭いて布団に横たわった。
人間の顔をした鯉津はスマートフォンで新しい母親を探し始めた。


















悲しみの男カイン

小説 ホロコースト

 仄かに照らすランプの小さな炎の明りの中を四囲からあつまった煙がくゆっては昇り闇のなかへ消えてゆく。各々が自分のカードと相手の顔と賭けるコインを見ながら男たちは酒を飲んでは煙草を吹かしている。テーブルの上に硬貨が投げ出され、その丸い輪郭に沿って反射した光は乏しい。老若さまざまの男とテーブルを囲みカインは寝癖だらけの頭を掻きむしった。くそう、今夜はもう女にありつけそうにねえ、眠くなってきやがった。盛りのついた煤だらけになったような汚い雌猫が足にまとわりついてくる。なんだこいつは、雌猫に寄って来られてもしかたねえ、臭くて苛立つだけだ。すねの辺りに体をすり寄せてくる猫を転がってきたボールを蹴り返すように蹴ると猫はぬうぅと鳴いて少し飛んでいきまたよろよろと歩いて向こうの椅子の脚にすり寄せては低い声でうなっている。自分だけフォーのワンペアであとの五人は全員ツーペアで負けたカインはチッと舌打ちしてのっそり立ち上がると店を出た。
 一瞬遠くの瓦斯灯の灯りが月の明りと見まがうほど酔いつぶれ、ふらふらと道を歩いて帰った。
 カインは親と離れ実家のはなれに一人で暮らしていた。名付け親は父親であった、父親は敬虔なるクリスチャンであった。父親が目指すのはイエス・キリストである。それがその名付けの堅い理由となっていた。カインという名前は旧約聖書にある人類で最初に殺人を犯した人間の名前であり忌々しい名前であるからという理由で人々はこの名を子供につけることを避けた。忌々しい、そういう心で在る以上、クリスチャンでいる意味と価値と意義がない、そう思った父親はだから敢えて愛する息子に、カインという名をつけた。
 カイン本人は、この名前を、名前如きにこだわるつまんねえ人間に好かれてもしかたねえ、とそうすべてに皮肉を込めて世界を見下すためにあると信じた。カインは青年期に入ると気持ちの良いほど堕落な生活に浸かっていった。カインみずから堕落を好みその道を一直線に進んでいった。
 そんなカインという男が、常日頃思っていたこととは、もっともっと俺を喜ばしてくれる、女の体はねえのか、ということだった。
 女というものにカインが溺れだしたのは青年期に入ってからである。カインは幼い時分から母親を異常なほど忌み嫌っていた。カインは母親のことを馬鹿でこの上なく頭の悪い女と思っていた。生まれて一番最初に依存する女が母親であるがその女が理想の女でなかったから、理想の女、母親の化身を探し歩くようにして自分はここまで女を求めるのか、それはカインにもよくわからなかった。
 カインは女の精神に興味を持っていなかった。一番興味のあるもの、それは女の肉体だった。女の肉体によって起こる自分の快楽に絶えず飢え切っていた。カインの欲望がどうにか満たされるのは女を抱いたその日一日だけであったからである。
 最大の欲望の対象である女という肉体に有りつけない夜は、酒をしこたま呑んだ。翌朝に酒の毒の回る日に、カインはなんとなくぼんやりと思うのだった。今日は女を探す元気もねえ、俺以外の男が、俺の知らない気持ちの良い女に有りついてたら、悔しい。カインはそう思いながらベッドに寝そべって洗面器の中に嘔吐しては眠りについた。
 カインは、青年期という時代に入ってもまったく働く気を起こすことはなかった。女を抱くことが自分の仕事のような気がする、何故そう思うのか、カインにもわからなかった。夜毎女を抱くときに、仕事のようにして抱くことはなかったが、女を抱かずにはおれないことと、仕事をせずにしては食ってはいけない村人たちの違いが、どう違うのか、酒を呑みすぎて気持ちがおおらかになった一瞬だけふと頭によぎることがあった。しかし普段のカインは堕落を嫌うがゆえに嫌々働く人間たちを見下して暮らした。
 俺は嫌々女を抱いたことはない。実際、嫌々何かをしたことがかつて一度たりともカインにはなかった。その原因はあまりの過保護の下に教育された環境にあった。カインは生まれてこの方親に叱られたことが一度もなかった。逆に親を叱って育ってきたカインだった。「この馬鹿女、糞女、何してんだよ、俺に殺されてえのか、俺の言ったとおりになんでできねえんだよ、どこまで頭悪いんだよ」そうもっぱら叱ってきたのは母親であった。父親はというとそんな光景を目撃しても、うんうんと慈悲の表情を浮かべ、母親が殴られていてもカインを叱ることもせず、「母さんはこういうところがほんとうに可愛らしいんだ、それがきっと今にカインにもわかるだろう」と温かく見守った。「母さん何やってもだめね、でもカインはしっかり者に育ってくれて母さん嬉しいわ」と母親もこれを困りながらも温かく見守った。そんな両親に囲まれて育つうち、カインは親に何かの期待を抱くことをしなくなっていった。期待するのは唯一、女の体だけになった。
 カインの心は自分で気付かぬうちにものすごい早さで荒んで行った。
 悪友たちとはよく売春店へ通った。どぎつい化粧を施した女の乳房や股座を撫で回しながら酒を呑む。これの飲み代もみな親からもらった余分な生活代から払った。
 女が欲しいとき、カインは気に入った女にすかさず声をかける。女から拒まれることは滅多になかった。カインはいつも不思議に思っていた。女は俺の何処の何を好むんだろうか、俺にはさっぱりわからねえが、そのおかげで俺はこんだけ女に運よくありつけられる。カインは女のことでは有頂天になっていた。用の済んだ女から度々本気になられることも間々あった。しかし一度抱いた女を二度抱くことはカインになかった。理由はもっと気持ちよくさせてくれる女の肉体がどこかにあるはずだという不満の欲求から一度味を知ってしまった女をまた抱く気にはなれなかったからである。もうそこに期待するものなど何もないんでね、二度と抱く気にはなれねえんだよ。一度抱いた女は、みな女としてみることも俺はしない。煩く迷惑で汚らしい牝猫とおんなじだ。
 カインは寝つけない夜に思った。キリがねえんだろか、でも女など所詮俺のチンポで突いて射精するだけの生きたドールと変わらねぇ。そんなモノに期待する俺が間違ってんな。しかし俺はこの村や町の女を食い潰したら違うところへ行こう。女を股にかける旅となると股旅となるが、股にかけるほどの女がいねえ。ちきしょう、夜が明けっちまった、こんなんだったらあの不細工なマントヒヒみたいな女かザリガニみたいな女と目を瞑ってでもやっときゃ疲れて寝れたか知れねえが俺はやだね、そこまで落ちぶれちゃあいねえぜ、俺ァ絶対気に入った女とじゃなきゃやだね。そういやおとといの晩やった女はメンスの最中で臭かったな、あの血みどろになった女のヴァギナはなんでか興奮するがなんでなんだろう。
 カインはどうってことないと思ってる中にやってくるふいに自分に対する厭悪にちっと舌打ちして、徐々に眠りについた。
 夕方過ぎに起きると、はなれに運ばれたテーブルの上の冷めたスープを皿に口をつけて飲み、パンを一つ咥えて、残りのパンはシャツの中に放り込んで外へ出た。いつもの賭けポーカーの行われている店に向かう。頭は寝癖だらけで無精髭を剃らず寝巻にしているてろてろしたシャツに上着をはおりパンを齧りながらただ町の中を歩いているだけでカインを見ていやらしい含み笑いを浮かべたり、目を変に逸らす男がいるとカインは男に向かって唾を吐いた。パンを食いながらだったので噛み砕いたドロドロのパンが混じった唾が道路に落ちてそこをタキシード姿の若い紳士を乗せた馬車が通り過ぎた。カインは嘲笑うように見ていた男たちより馬車に乗っていた誠実そうな顔の紳士の興味深そうに見られた一瞥に胸が土踏まずの部分で大きな石ころを踏んでしまったときのようなごろっといういやな感触を覚えた。
 その晩はポーカー仲間に誘われ珍しい酒の飲める店へ赴いた。その店には派手な身なりの女がごろごろいた。カインはきつい酒を飲んで舌なめずりして女の体を眼で姦淫するようにじろじろ見た。特に気に入った女を一人に絞りこれを嘗め回すように見た。女は視線に気付きカインを見た。その澄み切った目に知的な顔の作り、身なりが汚らしいのに反して野生的でもあるのに賢そうで冷たい表情のその不思議な魅力の男カインに女は惹かれた。そしてぎらぎらした欲情を燃やして見つめ返してくる女にカインは手応えを感じ、連れの男に「おい、今おれのことをじっと見てるおまえの右後ろにいる女たちに一緒に飲もうと言って来てくれ、絶対いける、あの女は落ちたも同然だ」と伝えるとどこか壁の一点を見て流れる音楽に乗って体を揺らしていた連れのピョートルという年上の男は右うしろを振り返って向き直り「ほんとかよ、捕まえるのはええな、よし言って来てやる」と言うとふらふらな足取りで何度もテーブルの角にぶつかりながら女のところへ歩いて行った。カインはやっぱり自分で行けばよかったとピョートルの後姿を見ながら苦々しく思った。
 ピョートルの交渉があっさり通った様子で女二人が立ち上がりグラスを持ってふらふらのピョートルと一緒にカインのところへやってきた。カインは腰のあたりがときめいた、今晩は女にありつけると思うと体中欲情が循環しだした。脳中の細胞が勃起したかのようにスパークするようだった。カインは立ち上がって右の椅子に移動すると、睨んでいた女は左斜め向かいに坐った。「俺はカインで、こいつはピョートル、よろしく」と軽く紹介して握手を交わすと女たちも名前を言った、女はジーンと言う名前だった。
「ワウ、ジーンと言う名前にはジーンと来てしまった、何故なら君にぴったしの名前だからさ」
 そうカインが真面目な顔を作って言うと女は笑ってカインも笑った。カインは名前などどうだっていいと思った。俺の前で股さえ開いてくれたらそれでいいんだ、そう思っているカインはありったけの口説き文句と嘘の話を並べ立てた。女はいつもそれにころっと魅了されるようだ。カインの女を落とす嘘の話のバリエーションはいくつもあった。今晩は盗賊の話にした。カインは真実じみた話に見せるために声を潜めて話し出した。
「嘘じゃないよ、ほんとうに盗賊をやっていたことがある。俺が盗賊だったとき、いろんなことを学ばせてもらえたけど、一番教えてもらったのは俺は盗賊には向いていないということだった。え?俺の顔は盗賊に向いてるだって?オーイエ、それは褒め言葉であると信じるよ。んで、そう、それはある名画を美術館から盗み出して、またそれを売り捌く日がやってきた時に思ったんだ。俺はその絵を売るのがどうしても嫌になってしまったんだ。絵なんかに心奪われたことのなかったこの俺が、その絵だけはどうしても、まるで俺に出会うためにその絵は描かれたのだとさえ信じたほどだ。どんな絵か、それはいい質問だね。それはとっても意味のわからない変な絵だったよ。あれはたぶん女性を描いた絵なんだろう、でもそれは熱心に見ようとしなければ見えてこないんだ。その絵を眺めているだけで俺の心は騒ぎそして何よりも落ち着かせてくれた。でもその絵を売らないではやっていけない商売だからね、ちゃんと売らないと親方に殺されちまう。あの絵が売られてった晩、俺は自分の恋人が連れ去られてしまったような心地で絶望してずっと泣いていた。それからもうずっとそんな絶望が抜けなかった。そして俺はある夜決心したんだ、あの絵を盗み返しに行こうって。そして一年以上探してようやく居所を掴んだ。その絵はスリランカの豪商の見るからにあくどい顔をした老人の屋敷内にあった。調べるとその屋敷は庭に十二匹のドーベルマンを放し飼いにしているほかにもパーフェクトなセキュリティ監視下にあって盗賊のソウルがめらめらしたものさ。その絵を盗むために俺はまずその老人と仲良くなるしかないと思った。その老人の趣味がさ、変わったことに犬の首に輪っかを投げて競うゲームをする趣味なんだ、だからあんなにドーベルマンを飼ってるのかよって、それでその老人の通うドッグリングってクラブに俺も入った。犬って普通輪を投げられたら喜んで取りに行って口に咥えて帰ってきてしまうだろう?でもそこにいる犬はみんなすごいんだ、みんな走ってって自分の首で飛んできた輪を飛んで嵌めて行くんだ。で、新入りの俺はそれをポカンと見ながら実は犬を飼ったことがないって言うとさ、老人が声をかけてきた。「なんならわしの犬を使って練習してみろ」ってね。俺はやった!と思った、だってそれから老人の屋敷に呼ばれるようになって毎日のようにそこのドーベルマンに向かって輪を投げているだけで老人と親しくなれるとそう思ったからね。広い庭の一面に面した居間にその絵は飾られていた。俺がその絵に再会できた歓喜の中じっと見ていると老人が言ったんだ。「素晴らしい絵だろう、これは惜しくもレプリカだが良くできたレプリカでね、なんでも本物は一昨年だったか、美術館から盗賊に盗まれたまま行方がわからないらしい。いったいその巨額の絵を誰がものの小額で手に入れられたのだろう」俺はその老人の言葉を聞いてさわやかな憎しみのようなものが湧いたよ。何故なら小額と言っても馬鹿げた高値の額でこの絵は買い取られたと知っていたからね、スリランカは貧富の差が激しい国で、貧しいところは子供たちが学校も行かずに働きに出なければならないほどなんだ。まるで俺はそんな子供たちの幸せと引き替えにこの絵が買い取られ、ここにあるように感じた。そう思ってその絵を眺めているとそこから見えてきたはずの慈悲深い聖母はひどく穢れた娼婦のように見えてきた。俺はもうその絵を欲しいとはちっとも思えなくなってしまった。そうなるとここには用はなく、さっさと帰ってしまえばいいことだったけど、俺の興味はすぐさま別のものに向けられてしまったんだ。それは犬だった。俺は一度だけ子供の頃、犬を飼っていたことがあってね、黒い毛の短い犬だった、その犬はとても俺になついてくれる犬で、また従順で賢かった、ほかの犬は踏み殺せるほど可愛くもなんとも思わない俺がたいそう可愛がって育てたよ。でもその犬は首輪につなげていた鎖を切って外に勝手に散歩をしに行った日に、近所に飼われていた凶暴な猛犬に噛み付かれて死んでしまったんだ。体中血でべたべたに濡れて息絶えている犬を見たとき、あまりに哀しくてもう犬は飼うまいと子供ながらにおれは思った。その犬に似ていたんだ、一匹のドーベルマンが。すごく静かな犬なのにバズって名前のまだ若いドーベルマンだった、そいつだけが俺にすごくなついて、俺の投げた輪っかを誰より上手く首に嵌めていくのもバズだった。でも俺以上に老人は深く犬たちを愛していただろう。妻を十年前に亡くしてから飼い始めたこの犬たちが自分の唯一の家族だと言っていたからね。俺はそれをわかった上で、まるで老人に絵を汚された子供じみた復讐をするかのように、ある日バズを散歩に連れに行ってくると言って連れ出し、そのまま宿の荷物を急いでまとめバズを連れて船に乗った。散歩に連れて行ってくるといったとき老人は微塵の訝りも見せなかったから、俺はとても信用されていたんだ、それを思うと胸は痛かった。でも絵の代わりにバズを奪い出せた喜びに満足して、家に帰った。その日バズは長旅の疲れからか水も餌も一口も口にしなかった。でも次の日、その次の日、もう何日過ぎてもバズが水も餌も口に入れるのを拒むんだ。俺は老人から復讐の復讐をやり返されたような気持ちになった。老人から離されたバズは生きようとしなくなった、俺は敗北感に打ちのめされそんなバズをほったらかしにした、バズはだんだん骨と皮だけのようになるまで痩せていき、やがて餓えて俺の目の前で死んだ。俺は盗賊から足を払った。盗むことの行動それ自体に嫌気がさしてしまったんだ。でもこうして今夜君のハートを盗もうと俺が必死にこんな話をしてるのは、いったいぜんたいどういう因果だろう?はははッ、いい感じで話をまとめられて俺は満足だよ」
 話し終ってジーンという女の顔を見ると感動しきってジーンとしているようであった。カインは心の中で、けッ、ちょろいぜ、と思った。ジーンは素晴らしい話を聞いたと酒に酔って目がとろんとしている、カインはその余韻の冷め遣らぬうちにこの女に股を開かせなくてはならないと気が焦り、べろべろになったピョートルともう一人の左に坐っている女を置いて席を立ち、ジーンに向かって一緒に店を出ようと言った。女は何の迷いもないという風に席を立ちカインに着いて来た。カインの頭の中はこの女の股の間に自分のペニスを突っ込んでこすることでいっぱいだった。早く俺のチンポをこの女の膣にぶち込んで、んでもって奥まで捩じり込んでやりたいぜ、どっか良い場所はねえかな。カインは金のある日なら宿に入れたが、あいにく今は金がなく、まだ寒いが外でやるか、それとも店の便所でもやれる女なら助かるんだが、とひとけのない場所や店を探して煙草を咥えながら女と並んで歩いた。そうして歩いているとジーンが言った。
「ちょっと酔いすぎちゃったみたいだわ、ねぇ私の家が近くにあるんだけど、少し寄ってかない?横になってまたあなたの話を聞きたいわ」
「ああ、そりゃあいい、どこかゆっくり話せる所を探してたんだ、君の家へ向かおう」
 カインはやれる場所を探すのがとても面倒くさかったので、この展開に嬉しがった。
 二階建てのアパルトマンの狭い一室に案内され、部屋の中へ入った。香水と煙草と化粧粉みたいなのが混ざったにおいがぷんぷんする部屋のベッドに女は腰掛け、ぬべんと横になったかと思うとまた起きて水を炊事場に汲みに行った。ベッドに腰掛けて待っていると「お酒あるけど、何か飲む?」と聞かれたカインは「いや、今は要らないよ」と断った。もうすぐこの女と寝れる、そう思うだけでカインの陰茎は勃起しだした。右となりに女が坐って、女の組んだ肉厚な腿が短いスカートの隙間から見えた。カインの陰茎は更に硬くなった、しかし澄ました表情で「煙草吸ってもいいかな」と聞いて知的なことでも考えているように無言でズボンのポケットから煙草とマッチを出してこれをあらぬほうを見ながら吸った。
 そうしていると女が自分の太股の辺りを触りだした。振り向くと女は真っ赤な口紅を塗り手繰った唇を寄せてきた。血のように赤い唇を女は自分につけた。忌々しかった。何故女は接吻したがるんだ、接吻は嫌いだ、しかしここで受け入れねえと先へ進めねえんだろうな。生臭い生魚をかぶるように女の唇を吸い、煙草をベッド脇のテーブルにあった灰皿に押しつぶして女をベッドに押し倒した。
 我を亡くすように、やっと二日目の獲物にありつけたライオンがゆっくりその鹿の内臓に喰らいつき口から血を滴らせながら肉の味を味わうように事に及んでいると、突然けたたましいベルの音が隣の壁の向こうから聞こえ出した。いったいなんでこんな夜遅くに目覚まし時計のベルをかけてんだ。隣の住人は留守なのか。一向に音は止まる気配がない。ベルの音でやかましい中、どうにか集中してカインは頂点に達し、低い獣のような声を上げた。
 避妊具の中に溜まった精液を見るのがうとましく女に取らせて捨てさせた。本当だったら少し休んでから帰りたかったが、ベルの音が煩くいらいらするのでさっさと服を着込んで、もう帰るの?と寂しがる女に「また来る」といつもの決まりの嘘を優しい顔で言い、部屋をすぐに出た。
 下に降りて今出てきた部屋の隣の部屋の窓をふと見上げてみた、明りがついている。腹立たしさよりも不気味さを感じてカインは早く遠ざかろうと早足で歩きながらズボンのポケットから煙草とマッチを取り出そうとした、両方入ってなかった。あ、女の部屋に忘れてきたんだ、くそっ、あの女俺が部屋を出る時きょろきょろと忘れ物がないか部屋を見渡していたくせに、気付かなかったわけがねえ、気付いててわざと俺に渡さなかったな、仕方ねえ、諦めよう。カインはむしゃくしゃしながら月も星も出ていない春の薄い闇の下を歩いてねぐらへ帰った。カインが眠りにつくまで遠くで野良犬がアーウーオーンと面白い鳴き方で遠吠えしていた。
 
 それから六日も女にありつけない日が続いた。賭けポーカーをしに行っても負け通しで飲み代も少なくなってきた。
 そんなあくる日の午後、思ったより早くに起きてしまったカインはとてつもなく暇であった。心の血が油をとり過ぎたようにねばねばしているのに外の太陽から洩れるカーテンを透かした陽射しが清々しく、その不調和にくさくさした。その時、ちょうど父親がはなれにやってきて温情な顔でこう言った。
「珍しく早起きじゃないか、どうだね、今から教会へ一緒に行かないか」
 カインはいつもなら即断って、行くわけがないだろう、そんなペテン神の所になんか。とでも言っていたが、今日に限ってこの暇から逃れられるのならそれもいい、と思い父親に応えた。
「やあ、なんて奇遇なんだ、俺は今、教会にでも行きたいなぁとそう思っていたところだった、さあすぐに行こう」
 そうは言ったが教会へ行くには一応ちゃんとした身なりをしてよそ行きの服装に着替えなければならない、カインは実に面倒だというふうにのろのろと支度をした。まず顔を洗って無精髭を剃り、髪を油で撫で付け、タイを首に蝶々結びに結んでジャケットを羽織る。
 満足した顔の父親に連れられカインは村の教会へ赴いた。自分がゆったりと支度をしたせいで集会の時間に少し遅れてしまったようだ。いつ見てもなんと地味な教会だ、とカインは思った。十字架を掲げるのはやめて、滑稽な顔のぺらぺらの風見鶏でも掲げておけばよい。そう思いながら白蟻に食い潰されかけのような朽木のドアを開けて教会の中へ父親と入った。小さな十字架に磔られたキリスト像の下に祭壇を前にして年老いた豚みたいな顔の司祭が聖書を手に持ち静かに朗読している。中央廊下をあけて左右並べられた長椅子にびっしり坐った老人から猿のような小さい子供の姿はこれを真面目に聞きながら聖書のページをぺらぺらめくっている。父親と一緒にその一番後ろの左側の空いた席に座った。左に坐った父親から小さな聖書を手渡される。父親は隣の席から今読んでいるところを聞いて、聖書をすばやくめくると司祭の読んでいるところを指で示しながら自分に見せて、一回自分に渡した聖書と父親の持っている聖書を取り替えた。字が小さすぎる、こんな小さい字を読みたくない、なんて書いてあるのかわかりたくもない、カインはすぐに聖書から目を背けて、教会中の若い女を品定めしだした。といっても大体が後姿でわからない、カインは顔の見える自分の横と斜め前に坐る女をじろじろ物色した。父親は当然これに気付いているが何も注意もしない。しかしこれといって欲情をそそる女がいなくてがっかりした。ほんとうに退屈でたまらなかったので、カインは司祭の顔を眺めながら神にそむく妄想をしだした。この司祭は実は、この教会でみんなが帰った後、若い豊満な肉体を持った修道女に裸で四つん這いにされ首輪を嵌められ鞭で叩かれては快楽の叫びを毎晩あげているに違いない、そういった趣味があの司祭の顔にはぴったりだ、そしてその後にはいつも修道女の股座に顔をうずめ尿でその渇いた喉を潤している!ははは、ざまあみろ、俺の妄想、そんな妄想をされているとも知らず馬鹿真面目な顔をして聖なる書を読んでいる、馬鹿だ、ははッ、馬鹿、あいつ馬鹿だぜ、はははッ・・・・・、そう妄想で楽しんでいるカインの目が左斜め二列前に坐った女の麗しい横顔とそのうなじを咄嗟に捉えた。途端すさまじい性欲が昇ってくるのを感じた。いい女だ、いったい何処に住んでる女だろう、くそぅ、あの女とやりてえ、よし、帰るときに後を着けよう。
 集会がやっと終わったようで席を立った人間から帰っていくのかと思えば皆立ってそれぞれ話したい人間のところへ行き話し込んでいる。横顔しか見られてなかったその女も立ち上がると、中央の狭い廊下に出て一人の年増女となにやら話をしている。顔が良く見えない。立ち上がれば見えるかと思い立ってみた。女の顔の正面をまじまじと見てカインは抑えられず少々勃起した。実にいい女だ、この女を逃がすわけに行くか。その時女と目が合った。瞬間、陰茎がびくんと鼓動を打った。しかし女はすぐに目を逸らしまた話し込んでいる。父親の手前ずっと女を見続けることもできずまた坐った。父親が話しかけてきた。
「懺悔したいことがあるなら、是非して行きなさい。父さん外で待ってるから」 
「いや、今はないからいいよ」
 そう父親の目を見ずにカインは応えた。初老の小太りの男が父親に声をかけてきた。
「いやぁなんて珍しい、いったい教会に一緒に来るのは何年ぶりだね、ほおっ、十三年、それにしても立派に成長したものだ、あの時はカイン君はまだこんなに小さかった、覚えてないだろう、カイン君、わしのことを」そう男に言われカインは「ええ、まったく覚えちゃいません」と笑顔で応えながら、はっ、誰だか覚えちゃいねえが、よくもぬけぬけと知らん振りができる、俺がのらくら者になったという噂が村中に知れ渡っていることくらい俺は知ってる、ただその男の顔を知らない人間は多いだけだ、俺を小さい頃から良く知るこの親父が俺の噂を知らないはずもない、と心のうちで唾を吐いた。
 そうこうしているうちに女は話が終わったらしくカインの横を通り過ぎようとこちらへ向かってきた。女が来る!カインは立ち上がり落ち着いて声をかけた。
「ヤァ」
 しかし父親のいる前で「俺はカインってんだ、よかったら、これから美味しいお茶の飲めるカフェにでも一緒に行かないかい」などと軟派な態度に出ることもできず、カインはその後言葉に詰まって黙ってしまった。女は冷たい表情で作り笑顔をしてて軽く会釈するとそのまま通り過ぎた。カインは脳髄の芯の部分が軽く痺れるような感覚を覚えた。この俺様がこんなに媚びているというのに、あの冷ややかな態度、あんな女は初めてだ、絶対に落としてやる、落として股を開かせ味わっちまったら塵屑同様どぶに打ち捨ててやろう。後をつけるためにまだ男と話している父親に声をかけた。
「それじゃ、俺は先に帰るよ」そう言って立ち上がろうとすると父親にジャケットの裾をつかまれ制された。
「カイン、まぁ待ちなさい、この後ジェイコブさんのお宅で夕食を呼ばれることになったらからお前も来なさい」
「ジェイコブって誰?」
「この兄弟がジェイコブさんだよ」
「ジェイコブさん、是非今度また招待してください、今日は予定があるので帰ります、バーイ」
 カインは早口とありったけの笑顔でそう言った。そして朽ちてぼろぼろの戸を開けて外へ出た。クリスチャンたちがぞろぞろいる中に女の姿を探した。日が沈みかけた淡い青紫色の夕空の下にカインは女を見つけた。女はまた別の人間たちとしゃべくっていた。カインは教会の壁に身を潜め女をちらちら窺いながら煙草をふかして待つことにした。
 麻の葉を吸ってやったら、もっと気持ちがいいんじゃねえか。そういえば葉っぱを吸って女を抱いたことがねえ、よし、今度親から金を渡されたら、葉っぱ買ってやってみよう。そう教会に凭れて夕焼け空を眺めながらカインは想いを馳せ屋根の上の十字架の影の真ん中めがけて吸殻を投げた。
 いったいいつまで話してやがんだ、暗くなってきた、疲れた。カインは地面にへたり込んだ。蟻がカマキリの死骸に群がっていた。カマキリの腹あたりから白黄緑色のものが出ている。蟻は働き蟻といういいイメージがあるが、肉食なんだな。そう思って煙草の火の部分を蟻の所に置いた。蟻は運ぼうとしているカマキリを放してのた打ち回ってやがて丸く縮んで動かなくなった。俺に子供ができたら、子カイン、コカインて、はははは、縁起悪。そう思ってまた女を窺うと、女は自分の父親とさっきのジェイコブとかいう親父らと一緒にそこを去ろうとしていた。ちきしょう!ガッデム!なんだよ、まさか女もジェイコブの家に招待されるとは思ってなかった、くそおっ、どうしよう、格好悪いが、俺も行こう。俺の情欲のために恥辱は降参されたし。そうカインは思いながら父親とジェイコブと女と知らない婦人の四人の後ろを見つからないように着けた。
 分かれ道の股に立ち止まり、父親は右の家に帰る道を歩いて残り三人は左に歩いていく。これはどういうことだ?ふふん、わかったぞ、確かにうちの親父が母親を家に置いて人んちで夕食に呼ばれるはずがない、これは一旦うちへ戻って母親を連れて再度窺うということだな、やった!これで俺が先回りして家に着き、やっぱり行くよと言えばいいんだ!カインはそうと決まれば人の家の庭を通って近道を走り父親よりも先に家に着いた。はなれの方ではなく母屋に帰ってきたカインを見て母親は喜んだ。
「あらまあ、おかえりカイン、息を切らしてどうかしたの?」
「なんでもねえからうるせえんだよ、黙ってろよ、ああそうだ、今夜ジェイコブの家に呼ばれたんだって、俺も行くから、そう親父に伝えとけ、いいな」
 そう言いっ放してカインは階段を上って自分の部屋へ入った。ベッドに仰向けになり煙草を吸いながらあの女を落とすにはどんな手がいいんだろうかと考えていると顎の上あたりに天井から蜘蛛が一匹垂れ下がった、飛び起きてベッドに靴のまま立ち天井の隅を見ると蜘蛛の巣だらけだった。カインはどたどたどたっと階段を下りて炊事場で何かしている母親に向かって叫んだ。
「蜘蛛の巣があんなに張りめぐるほど掃除してないってどういうことだ?!なんであんたは掃除ができねえの?俺にこの家には帰ってきて欲しくねえってことだな?ああそうか!わかったよ、こんな糞家帰るもんか!俺の部屋にある荷物を今日中にはなれに全部運べ!いいな!」
 そう怒鳴っていると父親が帰ってきた。
「どうしたんだカイン、予定があったんじゃないのか」
「いや、予定が潰れたんだ、だからジェイコブさんちの夕食に俺も御呼ばれするよ」
「おおそうか、なら出かけよう、母さん、そういうことだから急いで準備しなさい」
「まあ、まあ、急がなくっちゃ」
 そう言って母親は少女のように浮き立ち走って支度をしだした。カインは大きな溜め息を吐いた。糞暢気な母親は俺があんなに怒って言った言葉も当に忘れている、ああ、胃が痛え。こんなに激昂してしまうのもまだ自分が親に何らかの期待をしてしまっている証拠だ、期待する俺が悪いのもある、ってか俺の部屋もまともに掃除もできねえくせに俺に関心を持つなんて煩わしすぎる、俺が親に関心を持つことも嫌になるが、親から関心を持たれるのも気持ちが悪い、互いに関心のない状態になることが俺の理想で、俺を解放するのだとこの親はわかんねえようだ。家に帰ってくると一気に疲れる、まだあの女のような冷たい目で我が子を見下ろすような親だったらどんなにか救われていただろう。子供が可愛いなら、ちゃんと親としての仕事をするか、子供が可愛くもなくてまったく親の仕事をしないのどっちかにして欲しいものだ。その矛盾した態度にいつもはらわたが煮えくり返って正気じゃいられねえ、それで子供を愛しているとでもいうつもりか、いたく馬鹿で愚鈍な母親。カインは寝椅子に凭れながらいらいらして母親の支度が終わるのを待った。父親は炊事場で母親の残した仕事をしている。
 長々とかかって支度を整えた母親が出てきた。家族三人揃ってジェイコブの家へと向かう。もう外は暗い。いったいこうして三人で外を歩くのは何年ぶりなんだって全然思い出したくもない。あの女が出席しねえなら俺は死んでもこんなことはしたくなかった。何故そこまでしてもあの女が気になるのか良くわからねえが、こうなったからにはあの女にどうやってでも俺の目の前で股を開いてもらわないでは割に合わねえ、この大損害を晴らすのがあの女の肉体だ。俺は絶対あの女をものにしてやらァ。決然としてカインは親の後ろをジャケットの隠しに手を突っ込んで歩きながら宵の紺青の空の下に広がる鉄色の麦畑の向こうの青黒い山々を一望した。山の谷あいから赤っぽい満月が覗いていた。巨大なあの女の開いた股を谷あいに重ね局所は軽く疼いた。
 着いたジェイコブの家は村の人間にしては広く豪勢な屋敷だった。ノックをすると出迎えたジェイコブの妻がカインに向かって驚きの顔でこう言った。
「まあなんて懐かしい!こんなに大きく育って!吃驚したわ、ねえ、あんなに小さかったのに。ああでもあの頃の面影が見えること、ほほほ。よく連れておいでになられたわ、さささ、どうぞあがって頂戴」
 カインは紳士的な若くさわやかな笑みでこれに応えたが内心うんざりした。あんなに小さかったが時間が十数年も経ってすごく大きくなった、これは当然じゃねえか、このおばはんは自然の摂理というものをしらねえのか。俺は何も覚えちゃいねえのに、向こうが俺を覚えている、気色が悪いにもほどがある、覚えてるからといって俺から何を欲しいというのか、何か見返りを欲しがっていそうなその態度にはまったく反吐が出るぜ。しかしあの女と近づくことができるきっかけを作ってくれたジェイコブ夫婦に感謝しよう、おかげで俺はあの女を抱ける、素晴らしい宴だ。カインは早くあの女の姿を見たい一心で通された食卓と居間が繋がった広い部屋に親の後に入った。居間に散らばったジェイコブ合わせて八人の人間の中に、赤いペルシャ絨毯の上に坐って知らない婦人と何か毛糸を使って作りながら談笑している淡い水色の柔らかそうな衣を着た女の姿がカインの目に映った。カインは先刻の教会での女が人と話しているときの穏やかな目元と同じ目で話しているそれを観て女が何故俺にだけあのような冷たい視線を送ったのか不思議に思った。俺の噂を知っているのだろうか。しかしそうであってもクリスチャンの女が俺にあんな視線を送るのだろうか。俺はただ「ヤア」と声をかけただけなのに。まあそんなことは俺があの女を抱くことに関して一切関係はないが。
 父親から次々に自分を知らない連中に、うちの息子のカインです、と紹介され向こうも名前を言って、おおカイン君よく来たね、立派な青年になられた、などと驚かれたりしながら、どうも、どうも、と適当に笑顔で挨拶を交わし握手していくと、最後に女の番が来た。
「やあ、また会えたね」
 そう言うと女は一瞬おびえた目つきをしてもとの冷ややかな目で笑顔を作り自分の名を言った。
「はじめまして、わたしの名はマリア」
 そう言って右手を差し出したマリアにカインはその右手を手に取ると床にごく自然に跪いて「またも御目にかかれて光栄です、マリア」と静かに囁き見上げると手の甲に接吻をした。マリアの手はとても細やかにまるでその手が小鳥となって周りに気づかれないようカインの手の中で砂浴びをしているように震えていた。カインが見上げるとマリアの顔は喜びと恐怖と嫌悪と後ろめたさの入り混じったような複雑な表情で微かに口元を引き攣らせて微笑みカインを見下ろしていた。カインは何故マリアというこの女が自分だけにこのような複雑な笑みをもたげるのだろうかと思った。いったいどのような感情、思いがマリアの心を今漂っているのか、それを知りたいとカインは強く思った。何故なら、もし自分を拒むばかりの感情であった場合、マリアを抱くことが難しくなってしまうからであった。しかしふとカインの心に浮かんだのは、今まで思ってもいないことだった。俺はこの女を簡単に抱きてえのか、カインも複雑な心情でマリアの手を離し、立ち上がった。するとジェイコブ夫人がみんな揃ったから食卓に並べるのを手伝って頂戴と呼び、男も女も関係なく、食卓に集まってこれを手伝いだした。自分は客だから何もしなくていいんじゃないかと思って何もしないで突っ立っていたら当たり前だというふうに知らないおっさんにスープの入った皿やフォークやナイフを次から次へと手渡され、自分も手伝う羽目になった。にしても女とよく目が合う、のは俺がじっと女を見ているからか。女は意識して俺の視線を感じているのを知って目をそらしているが、それでも俺をちらちらと窺う、実に愉快だ。
 そして全部が運び終えたので皆それぞれ席に座りだした。できたら女の真向かいに座りたかったのに真向かいの席には先ほどの知らない禿げ上がった頭のおっさんが先に着いて、くそっ、じゃあその隣でいいと思って座ろうと歩いていったら知らない顎のしゃくれた婦人が座ってしまった、じゃあ向こう側の隣にと焦ったらそこにはジェイコブが座った。ジェイコブ、このくそ親父、結局座れたのは女が見えづらい女と同じ側の端から二番目の席だった。みんなで十二人揃うと、ではお祈りをしましょう、とジェイコブが手を組み、カイン以外の全員が手を組んで目を閉じ、ジェイコブが祈りの言葉を静かに唱え始めた。カインは仕方ないから自分も手を組んでしかし目を開けて首を亀のように伸ばして左二つ向こうの席に座る女の顔を覗いた。向こうが目を瞑っているのでじろじろと頭のてっぺんから胸元、腹の辺りまで思う存分目を這わすことができた。ふんふんと鼻息でテーブルの真ん中に並べられた蝋燭の火がぶんぶん揺れた。今日一日の食物にありつけることを神に深く感謝し、祈りを捧げる娘の肉体にありつきたいと飢える男の目がぎらぎら燃えている、そこに祈りは一切なかったが祈りを超える強さの欲情の情熱がカインの中にほとばしっていた。
 イエス・キリストのみ名をとおしてお祈りします、アーメン、とジェイコブが祈りの最後の言葉を言い皆がそれに続きアーメンと言うのと同時に、カインはアーメン!と少しふざけた調子の低い声を大きくして言ったので、目を開けたジェイコブやその他の人間たちは少しく厳しい目で一瞬見咎めた。カインは笑いを押し込めて後ろに少し体を仰け反ると、女も後ろに体を傾け冷たい視線を自分に投げ掛けているのに気付き笑顔を返した。女はすぐに向き直りカインも向き直ると、それではいただきましょう、とジェイコブが言って皆が食事をしだした。
 こういうときに始まる話題は大体決まっている。お喋り好きのご婦人たちがお好きなお愚劣な話題だ。「このじゃが芋とっても甘くて美味しいわぁ」「でしょう、このじゃが芋は今日シュバルツさんの畑で一緒に採ったのよ、マリアさんも一緒に、それで三人で採れたてのじゃが芋を細く切って生で齧ったらなんと甘いこと、そのままでサラダとして出せちゃうほど甘いの、それでお昼に結構サラダとして食べたから今夜はスープに入れたの、おほほ」「まあ、じゃが芋って生でも食べられるの?」「この季節の新じゃがは生でもとても美味しいのよ、今度またわたしの家にみんなでいらしてちょうだい、今はほかにアスパラガスやエンドウ豆、たまねぎ、大根なんかも採れるわ」「まあ楽しみ!」「マリアさんもまた一緒に行きましょうね」「ええ、ありがとう」「この牛蒡とかぼちゃもシュバルツさんちで採れたものなの、うちで用意した野菜はクレソンとセロリだけ、ほほほ、やっぱり摂れたての野菜は格別に美味しいわね」「実に恵み多き豊饒の大地だ」「自分自らの手で苦労して収穫することは大事なことだ」「まったくだね、今度私も是非お呼ばれしよう」そんな話をいつまでも聞かされるのがあまりに退屈で煩わしくなってきたカインは若鶏の香草焼きをフォークでぶすぶす突き刺しながらふと思いつきこれを切ってナイフで刺して口へ運ぶと突として発言した。
「この若鶏の香草焼きも実に美味い!これも今日屠り立ての若鶏と僕は見た、この噛めば噛むほど甘みの乗っかった肉汁が口ん中に嫌というほど広がって生臭さがどこにもない、これはよほど新鮮な若鶏なのでしょう、もしかしてほんのついさっきそこのキッチンで暴れ倒す若鶏を見事に素早く屠ったのでは?こんな新鮮だと思える若鶏を僕は食べたことがない、実に見事な若鶏です」
 そう言って若鶏の香草焼きを続けざまに全部口の中で噛み砕いて飲み込むと、左隣に座っている父親の皿の上の若鶏をフォークとナイフで切って一口食べた。みんなの顔が青ざめていくのがわかる、何人かが咳払いをして、父親は黙ってカインを見た。父親は厳しく諌める表情でも呆れたという表情でもなく、自分の育て方の何が悪かったかという自責の思いがそこには少々現れてもいた。しかし自分は間違った育て方をした覚えはないといういつもの自信に満ちた顔をしているのでカインは想像はしていたものの余計胸糞が悪くなり、席を勢いよく立って「便所はどこに?」とジェイコブの妻に向かって聞いた。
 便所で用を足しながらカインは今さっき自分が便所へ向かおうとしたときに目を合わしたマリアの澄んだ少女のような目を思い出していた。それは終盤に闘牛士を死の際まで追い込んでおきながら最後あっさりと首に剣を刺されて倒れた牡牛の死を輝いた目で見つめる観衆に近い目であったかもしれなかった。カインは考えた、ただ股を開かせて終わりにするのは面白くない、マリアの心を奪い、そしてじりじりとじらせるだけじらせてその一番熟した体を堪能したら美味い若鶏を貪った後は糞を便所に流し、もうその糞には用はないのと同じにマリアを見捨てる、このやり方が面白い。その繊細で気高く可憐な真っ白い花を糞を踏んだ靴の底で踏み躙る日が楽しみでならねえな。
 カインは便器に座って煙草をゆったりと一服して、どうしたらマリアが自分を恋焦がれるようになるか、考えてみたがこれといっていいものは思い浮かばなかった。とにかく俺の中の熱情を倒錯させた形でマリアへ伝えていくしかない、純粋な愛の仮面を被ってマリアの前に現れるのがいいだろう。カインは先程、マリアの心をも悲しませることを口走ってしまったことを後悔した。マリアの心を傷つけることはもう言うのはよそう、その体をあじわいつくすまでは。マリアに向ける姿勢が固まったカインは挽回の機を逃さないためにすぐさま立ち上がってタバコの吸殻を便器の中に投げ入れ水を流すと何食わぬ顔をしてたち戻った。
 部屋に入ると女どもは後片付けをするのに炊事場に集まって、男連中は居間でくつろいで語らっていた。そっと足音を忍ばせてマリアのほうへ近づいていき、そのすぐ後ろに立ち、白いうなじに生えた黒い毛を見下ろした。柔らかく巻いたその毛は何かいたずら心を誘うものだった、思わず、ふっとそのうなじに息を吹きかけると、びくっとしてマリアが目を大きく開いて振り返った。
「変な羽虫がのっかってた、だいじょうぶ、どこか飛んでったよ」そう微笑んでいうとマリアは恥ずかしくなったのか頬を赤らめ俯いてまた後ろを向いた。カインは左で食器を洗い流していたジェイコブ夫人に「何か僕に手伝えることはある?」と聞いた。すると「そうね、そうしたら、このあとお茶を入れるからそこのカップボードからカップを十二人分出していただけるかしら」と言い新しいコーヒー豆を取ってくると床下の収納室の中に降りていった。
 ガラス戸の大きな食器棚がマリアの右側にあり、マリアは洗い終わった皿を拭いて棚の中へ一枚ずつ閉まっていた。カインは無言でカップをテーブルに出し始めた。マリアはカインに近づくのをためらっているのかいつまでも同じ皿をずっと拭いている。何か話しかけようかと思ったが、それはやめて小さなハプニングでも起こそうとカインは思った。カインは二ついっぺんに皿の上に載ったカップを運ぼうとして一つのカップを床にわざと落とした。カップは理不尽に殺された者の力ない断末魔のように鈍い音をたてて床板の上で割れた。
「ああしまった、割れてしまった」
 静かにそう言うとしゃがみ込んで破片をひらった。その時欠片の割れた部分に少し強く左親指を押し当てた。
「いてっ、切っちまった」そう小さく呟いて指から垂れてくる血に放心したようにしていると、すぐ傍に立っていたマリアが想像していたとおりに近づき、しゃがんでカインの手をとると流れおち手のひらを染めていた血を膨らんだ丈の長いスカートの下の白いペティコートで拭い、腰飾りに結んでいた淡いライラック色の薄く透けるレースリボンをすっとほどくとカインの親指にぐるぐると巻いて結んだ。そして立ち上がりさっさと持ってきた箒で破片たちをみるみるうちに掃いてそれらを塵取の中へ閉まった。カインは悲しい目をして親指に結ばれたライラックの蝶を見つめ呟いた。
「僕の血で汚れてしまった・・・・・」
 するとマリアはその大袈裟な物言いに素直にくすっと笑ってこう応えた。
「どうってことないわ、血はリボンよりずっと尊いものだから」
 カインは立ち上がり皮肉な笑みをたたえてこう返した。
「僕の血の価値は君のリボン以下だ」
 それを聞いたマリアはまた怯えた目つきになり目を伏せた。長い睫毛が震えだし、カインはしまった、と思った。てっきりそれほど君の価値が自分にとって大きいものだということを言ってマリアは喜ぶかとおもえばその過敏な心をまた傷つけてしまったようだ。なんてめんどくせえ女なんだ、しかし難しく難儀であればあるほどこの女を射止めた快楽はさぞかし大きいものに違いねえ、俺はその快楽のためなら、この歯痒いほど鈍いか、または鋭すぎる女の煩瑣に耐えよう。マリアの白い首を見つめ、自分の目の前で露わになる裸体を想像してカインの陰茎は少々硬くなった。
 ジェイコブ夫人が床下から「こんなもの見つけちゃった」と年に似合わないはしゃぎようで言いながら手にはコーヒー豆の袋とアルバムのようなものを持って出てきた。カインはジェイコブ夫人にカップを割ってしまい申し訳ないと謝ると、ジェイコブ夫人は「まあ、いいのよ、あら!指を怪我したの!」とカインの手を触るので、気安く触るな、と思いながら「マリアが緊急手当てしてくれたおかげで命を取り留めたんだ、カップを割ってしまったお詫びに僕はビールジョッキでコーヒーを飲むよ」とジョークをかますとジェイコブ夫人はけたたましく笑い、マリアもつられて笑顔を見せた。マリアの目をじっと見詰めると頬を赤らませて視線を逸らし俯く、これはもう仕留めたも同然かもしれない、カインは物足りなさも感じながらマリアが自分に縋りついて来る日を夢見た。
 リビングでソファや絨毯の上に座りコーヒーを飲み菓子を摘みながら皆アルバムを楽しそうに見ている。カインはつまらなく絨毯に寝そべり肘をついてぼんやり眺めていた。視界にここに来た時にマリアが手に持って作っていただろうものが入った。それは毛糸で編んだ人形だった。寝そべったままトドかアザラシのようにずりずり腹を這わしてそれを手にとってよく見た。鈎針がついてある。人形はまだ作りかけで足が片足半分もなかった。髪は後でつけるのだろうか剥げ頭で顔はにこやかに微笑んで目は真ん丸で鼻はなかった。これは果たして人間を模っているのかと思うほど、皮膚の色は不健康な濃い緑色をしていた。女どもは何故このような子供騙しな物を好むんだ、俺にはさっぱりわからねえ、こんなものを作って家に置いておくだけなのか、それの何が楽しいんだ、俺はこんなふざけたものが家に置いてあったら見つけざまに首と手足をもぎ取って窓から遠くへ放り投げたくなるだろう。意味がわからねえ、このような偶像的なものが人間の何の慰みになるってんだ?それよりも男の体が欲しいとはマリアは思わねえんだろか、こんなものより男そのものを求めてるんじゃねえのか、女なら、それをこんなくだらねえ人形なんかで慰みにして哀れな女だ、クリスチャンなんかになったばっかりに、おまえは男に向かって抱いて欲しいの一言さえ言えないんだろう、だからこうして男に抱いてもらう代わりに人形を作って抱いて寝るってえのか、なんと侘びしい女か、俺はそんな不憫でしかたねえおまえをいつか抱いてやるんだ、有り難く思え、淫らに甘い蜜をその蜜つぼに溢れさして俺に乞うがいい、火照った身体に涙溜めて哀願するがいい、そうしたら、おまえの濡れた裂け目に俺のぎんぎんになった肉棒を入れて揺さ振って。カインは妄想して勃起しだしていると、賑やかな後ろから「カイン君の小さい頃の写真がでてきたわよ!まあ、なんて可愛らしいのかしらぁ!カイン君も御覧なさいな」と呼ばれ我に返ったカインは全身の内で舌打ちし見た目クリスチャンに負けず劣らず誠実な面立ちで振り返りアルバムを覗いた。そこには周りクリスチャンに囲まれ父親と母親に挟まれてぐったりしたような子供なのに虚無を目にはらんで薄く笑ったような顔の自分の幼少の頃の写真があった。こんなものを自分に見せたジェイコブ夫人を恨んだ。いっそう虚無をたたえた目で皆の顔を打ち眺め、カインは思った。過ぎ去って今はもう何処にもない時間を眺めてそんな風に楽しめる人間は狂っているとしか思えない、それから何かを写真にとって未来に残そうとする考えも狂っているとしか思えない。その家系が絶えたら積まれたアルバムの行き先は赤々と燃え盛る焼却炉の中さ、大量のくせえ灰と化すだけだ、人々は少し先の未来のことだけを考えて遠い未来のことを考えないのか?俺は遠い未来をちゃんと考えたから、今をただ刹那的な快楽だけに生きようと決めたんだよ。遠い未来か近い未来か知らねえが、ゲヘナの火に投げ込まれるとか、知らねえよ、そんなことは、なんで俺が信じてもいねえ神に俺が支配されなくちゃならねえ、神が全知全能なら、この俺を信じさせてみろってんだ、できねえくせに、自分に従わない者を地獄に落として何の解決になるんだってんだ、もうそんなことより、マリア、お前がこの俺に恋焦がれ俺を神以上に求め苦しむ未来がありありと見えるんだ、それは近い未来だが、俺は遠い未来のために近い未来をこの手で犯す。
 絨毯の上で横坐りしてアルバムをみんなと一緒に眺めているマリアに向かってカインは呼びかけた。

「この人形は男の子?女の子?」
 マリアは朗らかな顔でこう応えた。
「うーん、まだ決めてないの」
「へえ、可愛いね」
 そう返すとマリアは心底嬉しいという顔をして微笑んで言った。
「ありがとう」
 マリアはそう応えた後で思った。自分で作った人形を誉めてもらって礼を言うのはおかしいかしら。
 慎ましやかな宴はカインの好調な挽回劇に沿って終え、皆はジェイコブ夫妻に厚い感謝を述べそれぞれ帰路へ就いた。カインはマリアを家まで送ろうとしたが、ほかの者に同じ帰路で帰るから心配要らないとしつこく余計な善意で押し返され到頭マリアを送って家を知ることはできなかった。
 帰り道、父親に「いい宴だったね、みんな良い人だろう?カインが来てくれて父さんすごく嬉しいよ、また今度呼ばれたら一緒に行かないかね」と言われ「ああ僕も楽しかった、次も是非参加するよ、それから集会がある日は僕も行くことにするから呼んでくれね、できれば前の日に知らせてほしい」とこたえると父親と母親は驚いて顔を見合わせ、にこやかに父親は「それは喜ばしい」と言い曇って月も見えない星がちらほらしか出ていない空を見上げて「今夜は星が綺麗だ」と呟いた。
 
 それからというものカインはマリアに会える集会の日を待ち望んで過ごした。マリアを抱くまではほかの女で紛らわそうとしたが、今はマリアの体を欲している体になってしまっているからどの女も味気なく、それほど情欲も掻き立てられず、家でポルノ雑誌を見ながら自ら一物を扱いて発散する日も続いた。いつも賭けポーカーをしながら連中の好む昨夜に寝た女の話を聞かせていた男たちに「最近、お前女の話をしねえが、どうしたんだ」と聞かれて「ちょっと、そういう気分になれねえんだ」と不機嫌に応えると男たちは、とうとう女の運が尽きたんじゃねえか、とカインを見て嘲笑した。カインの心の中はマリアを翻弄して支配することでいっぱいだった。
 
 そして七日目の集会の朝、カインは早くに起きて準備を整えると父親がはなれに呼びにくるのを待っていた。待ちかねて煙草を吸っているとはなれの扉がノックされ、慌てて灰皿に煙草を押しつぶすと駆けていき父親を迎えた。
「早起きさんじゃないか、今日は一緒にうちで朝ご飯を食べないか、母さんがちょっと張り切ってるようだ」
 カインは断るのも面倒だったので「ああ、そうするよ」とこたえて実家で朝食を食べてから行くことになった。
 実家の食卓に着くといつもより豪華な朝食が並べ立てられていた。母親は馬鹿に上機嫌だ。カインは冷めた思いで温かいスープに口をつけながら思った。親ってのは単純でまったく目出度いもんだ。子が何を思って教会へ通いだしたか知らないで、あんたらの息子は女を目で姦淫したあとに実際に姦淫せしめようとして繁々と教会へ足を運んでるのさ。それに気付こうともせずに何を安穏とお気楽にかまえてんだか。カインは台所の小窓から射す朝の光が流しにごちゃごちゃに散乱している食器や鍋などに降り注がれているのを見た。カインは早々と朝食を食べ終えて席を立つと、食器を運び袖をまくって洗いだした。
「あらいいのに、母さんがするから」そう言われてカインは返した。
「あんたが準備してるあいだ退屈なんだ」
 カインはこの汚れた食器類が集会から帰った後も、すぐには手をつけずに夕方近くまでほったらかしにされるであろう状態が目に見えて予測できた。酒と煙草に明け暮れているからだろうか、朝は酷く痰が絡む、カインは光り輝く朝日を浴びながら流しに痰を吐いた。
 
 教会に着くと、まだ人はまばらだった。マリアの姿もまだ見えない。カインはまた声をかけられたりすることから逃げるため、席について寝不足のための欠伸をすると目をつむって待つことにした。少し眠るつもりでいたが、ほんとうに寝てしまっていたと父親に肩をたたかれ起こされて気付いた。夢の中で司祭は豚鼻を鳴らしながら聖句を読んでいた。俺は何故か、教会の床を舐めていた、白いミルクが滴っていたそれを舐めて這い蹲って進んだ、そしてミルクの滴り落ちる場所を見上げた、そこにはマリアが右の乳房をあらわにして、自分の母乳を搾っていた、それはあたかも乳を実らせる一本の樹木のようにじっとして動かない、黒く艶めく柳のような髪が白い乳房の上に垂れていた、俺はその母乳を直接乳房から恩恵にあやかろうと口を伸ばして吸い付こうとしたそのとき、何処からか声が聞こえた。
「その乳を飲んでいいと思ってるのか」
 あたりを見渡すと教会の長椅子の背に一匹の蛇が巻きついており、それはまるで蛇のところから聞こえてくるようであった。
「おまえはそれを飲んではならない、否、触れてもならない、お前が死ぬことのないためである。ってそう神がゆうてたのをおまえ聞いてないのかよ、しかし吾がゆうてやろう、お前は決して死なない、それどころかお前がその乳房から飲んだ日には目が開いて神のように善悪を知る、それを神は知っているからだ」
 俺は蛇に向かって言った。
「じゃあ飲んでいいんだな、よし、俺は飲もう」と俺が乳に近づいていったら蛇はとめた。
「ちょっと待てよ、お前はもうすでに善悪を知る身じゃないか、何故乳を飲むんだ」
 俺は応えた。
「飲みたいからだ」
「何故飲みたい」
「まだ目が開いてない気がするからだ」
「よくわかってるじゃないか、確かにおめえはまだ目が開いていない、それは開いてるの内に入らない、何故ならば、おめえはまだ本当の善悪を知ろうとしちゃいねえからだ」
「そうだ、だから俺は本当の善悪を知るためにこの乳を飲むんだ」
「言い開きこくでない、お前はただその女の乳房を吸いたいだけなのは知っている、嘘を吐くんでない」
「ばれたか」
「お前の心の中はすべてお見通しだ、吾を誰だと思っている」
「おまえは蛇だ」
「違う、吾はサタンだよ、もう少しちゃんと考えろ」
「めんどくさいぜ、それでサタンが俺に何の用だ」
「用も何もよく考えてみろよ」
「何をだ」
「吾はサタンで悪の化身だが、何故その吾がお前に乳を飲ませまいとしているかわかるか」
「わからない」
「もうちょっと考えてくれよ、おい」
「なんでだ」
「決まってるだろう、お前が本当の善悪を知ることのないためだ」
「なるほどな」
「わかるだろう、お前が本当の善悪を知ってしまうとき、吾は滅びてしまうに違いない、吾は滅びるのは嫌だ、絶対に、だからその乳、飲むな、わかったな」
「嫌だね、俺はこの乳を飲む」
「何故言うことが聞けないんだ」
「俺は神にもサタンにも支配されない」
「くそぅ、だめか、しかしよく考えてみなよ、吾はお前から悪いことを起こさせまいとして奮闘しているぜ、悪いことはやっぱり悪いことで、よくないことだからだ」
「サタンがそれを言うのはおかしいだろう」
「おかしいよ、確かに、でもやっぱり悪いことを吾はしないほうがいいと思う」
「見え透いてるぜ」
「見透かされたか、じゃあこれだけは言っておく、お前その乳飲むと、本当の善悪を知って地獄の果てまで苦しみぬくだろう」
 そういって蛇は姿を眩ました。俺は乳房に向かって口を伸ばした。これ以上は伸ばせないというほど伸ばした。すると本当に信じられないほどに伸びていってやがてそれは口先が蛇の頭になりマリアの樹木に足元から巻きついていった。そして乳房に吸い付くのかと思いきや頭の天辺まで巻きつき頭の後ろから顔をぴょこっと覗かせて俺を見て蛇はシャーッと猫が怒ったときのような顔と声で口を開けると、そこから十の災いが這い出てきた。俺の周りはすべて血の海と化しその水面にはありとあらゆる生き物の死体が浮かんでいた。何百匹物の蛙が俺の体に這い上がってきておまけにブヨとアブが視界を埋め尽くすほど飛び回り海面に立った俺の身体はさまざまな病原菌にやられ膿の出る腫れ物が身体中にできてぼこぼこになり人間の頭ほどの大きさの雹が天から降ってきて天を覆い尽くした雷雲からちよろずの光の血管が血の海に向かって走り世界が明滅しているとイナゴの大群が俺のぐるり水平線から飛んできて慄いていたら真っ暗闇になった、最後の災いに縮み上がっていると教会に座っていて突然右肩の上に小さな獅子のような鷲が止まった。そこで目が醒めた。おそろしくも奇妙な夢を見たもんだ。それよりマリア、マリアは。カインはきょろきょろ見渡してマリアを探した。マリアの姿が見当たらなかった。そんな馬鹿な、とカインは思った。マリアがいねえんじゃ、いったいなんのためにここまで俺が面倒なことをしてこなくちゃならなかったんだ、ふざけるな、マリア、なんでいねえんだよ。そう思って席をすぐに立って家に帰って寝ようかとしたが、しかし待てよ、マリアは遅れてやってくるかもしれねえな、もう少しは待ってみようとカインは思い直しまた目をつぶって寝ようとした。そして眠りに落ちていった。カインは夢の中で何度も肩の上に止まった獅子のような鷲を手で追い払った。
 次に目が覚めたとき、カインは完全に長椅子に横たわって寝ていた。そして起きて教会を見渡すと父親とカイン以外誰一人いなかった。父親はそんなカインをしょうがない子だなぁ、というような幼児に向ける顔で見ていた。カインは思い出したくもないことを思い出した。小さい頃こうやって何度も教会で眠ってしまって、カインは実は起きていたのだが、帰り道を歩いて帰るのが面倒で寝た振りをしていたら父親に負ぶって帰ってもらえるのを知っていて、いつも空寝をこいていたことを。
 この後父親と並んで帰るのはもう嫌だと思ったカインは「今日は懺悔して帰るから、先に帰って良いよ」と父親に嘘を言った。
「そうか、今日はシュバルツさんの家に呼ばれてるんだが、カインも行かないか」
「うん、行く」
 カインはそれならそうと早く言ってくれよ、と思いながら「ちょっと待ってて」と言い懺悔室に向かって走ってった。そして「司祭が居なかった」と戻ってくると父親が「呼んでくるから待ってなさい」と言うのを「明日にするからいいよ、早く行こう」と父親の腕を引っ張り急いで教会のドアを開けて外へ出た。
 まだ午まえの白くまばゆい太陽の下にクリスチャンたちが静謐に戯れている。マリアの姿を探せども、どこにもあの白い項と神経質そうでいて柔らかな面影は見当たらなかった。でもシュバルツ氏の家に行けばマリアに会えるかもしれない。カインはマリアの肉体をこの手に得ることに諦念も懈怠も持たずシュバルツの家へ父親と共に向かった。
 数時間のち、カインは昼食を呼ばれたあとにシュバルツ家の菜園で大根やかぼちゃを土から掘り起こして額に汗していた。マリアはそこにも来ていなかった。カインは土の付いた良く育った大根を手に持って眺めながら思った。俺はいったい何をやってるんだ?何故マリアはこなかった!あの女なめやがって。ちきしょうめ、いつかおまえのその可愛な小さな口をぽっかり開けさせて俺のちんぽを舐めさしてやるから待ってろ!カインはぶつくさと心の内側で呪いながらたまねぎやインゲン豆を収穫した。帰る頃には必ずマリアの住処の場所を聞きだそうとたくらんでいたからである。カインは初夏の近づく閑静なる午下の空気とそよ風の潤いに紛れたクリスチャンたちの歓声を聞きながらその両の手を黒土だらけにして掘ったじゃがいもについた土くれを掃った。
 今日もこんなにたくさんの実りを私たちにお与えてくださいましたことを感謝します。そうクリスチャンが収穫し終わって祈りを捧げているあいだカインも目をつむり手を組んだ。カインはクリスチャンではないのでこれらの礼拝をする必要はなかったが、信者、または洗礼を受ける前の求道者の振りをしているほうがマリアと親しくなるのに都合がいいと思ったからだ。
 帰りしなになにやらご婦人たちがマリアに御裾分けする分だといって野菜を分けているのをカインは見逃さなかった。籠にこんもりと盛られた大根やかぼちゃや芋、さぞかしこれをマリアの家までもって行くのは婦人の力では大変だろう、そんなことはカインは毛ほども思わなかった、カインはただマリアの居所を聞きだすために善意の表情をして婦人らに声掛けた。
「その野菜、重いだろうから僕がマリアさんの家まで届けるよ」
 すると婦人たちはみな、この逞しき心優しい青年の好意に喜びマリアの住む場所をカインに教えた。カインは心の中でニヤニヤ笑い、上手くいったぜ、と上機嫌で大根、かぼちゃ、じゃが芋、いんげん豆、アスパラガスの盛った籠を両手に持ち教わったマリアの家に向かって歩いた。マリアの家は町の外れにある古いパン屋の屋根裏部屋だという。俺はそこのパン屋は昔何度か入ったことがあったからなんとなく場所はわかる。カインは西から差す日を背にしてジャケットとタイは父親に持って帰ってもらったのでシャツ一枚で袖をめくり大きな籠を手に持ち街中を歩いていると、偶然通りかかった顔馴染みの男たちがからかった。
「あのカインが頭を撫で付けて仕事してらァ」と言って男が嘲笑った。そう言われてカインも自分の姿を改めて観察してみると笑いがこみ上げてくるのだった。この俺が野菜の入った籠なんか持って街ん中を歩いてる、わはは、なんだか笑っちまうな、このありさま、女を口説くときにさえ寝癖一つ直さねえこの俺が紳士の髪つきを装い男やもめのように野菜籠を持って歩いてる、可笑しいぜまったく。カインはにやつきが止まらず通り過ぎる女の体なんかを観たりしながら歩いていたら石畳の段差で派手に蹴躓いて持っていた籠をひっくり返した。チッと口をゆがめ舌を鳴らすと大儀そうに散らばった野菜類を籠へ戻し、道の真ん中辺りまで飛んでいったいんげん豆を取りに行くとカインの目の前でそれはちょうど通りかかった男の足に踏まれた。
「この野郎!俺のいんげん豆を踏み潰しやがったな!いったいどうしてくれんだ!俺の今晩の飯が減っちまったじゃねえか!」
 カインはずいぶん演技をしてそう男に食ってかかっていった。山高帽を被りあご髭を生やした年配のその男は臆することなく厄介なことが起きたという顔をして応えた。
「それはどうも悪かったね、こんなところにまさかいんげん豆が落っこちてるとは思わんでね」
「さっきこけて籠から飛んでったのを拾いにくるところだったんだ!」
「なるほど、それでこのいんげん豆はいくらするのかね」
「そうだな、これは買ったんじゃなくてさっき畑で収穫したから値段はわからねえから、じゃあコイン一枚でいいよ」
 そう言うと男は懐から財布を取り出し銅貨を一枚カインの手に手渡した。カインはそれを目の前に翳して食い入るように見ながらおどけて言った。
「この銀貨、やけにくすんで汚ねえなァ!もっと綺麗なのにしてくれ」
「このいんげん豆はそんな価値があるというのかね」
「だってどこにも売ってなくて採れたてで瑞々しくて吃驚するほど甘い豆なんだ、銀貨一枚の価値はあるぜ」
 すると男は懐中時計を懐から出し、渋い顔して嘆息を漏らすと銀貨一枚を手渡しその場を急いで立ち退いた。やった!銀貨一枚も手に入ったぜ!カインはほくそ笑んで銀貨一枚をポケットにしまい込んだ。そしてまた転がったじゃが芋やたまねぎを籠へ入れてにやついた顔のまま歩き出した。歩きながらカインは思った。俺がこの野菜を持って突然現れたらマリアはさぞかし驚いて、きっとまた頬を赤らめて喜び恥じらい俺に一段と激しく恋に落っちまうにちげえねぇ。そうしても俺はまったく気付かねえ振りするから、すると夜な夜なマリアの夢には俺が現れ、マリアは俺に抱かれるだろう、あまりに俺を求めてとうとう耐えられなくなった晩には神に背いた行為を犯してしまうだろう。それは神秘的なエクスタシスをマリアに与えるか、それとも地獄のように苦しい罪悪となってマリアを蝕んでいくか、俺は楽しみだ、どっちにしたってマリアはもう俺のものとなって、俺がマリアに与えるものは絶大なる苦しみと幸福だからだ、俺はマリアを支配せしめる神のようになるんだ、そして支配したあとに俺はマリアを突き放す、そうしたらどうなるか、きっとマリアはかつて振捨てた男の元に戻る女のように神に泣き縋るんだろう、なんて素晴らしい滑稽劇だ、今思ったけど、あの女が神を信じて一つの道を歩む者でなかったら俺はここまで夢中にもなってなかったに違いねえ、俺は謂わばサタンのようにしたたかに誘惑してその信仰がどれだけ深いものか見てやろう、俺は神と勝負する、マリアが俺の前で自ら股を開けば俺の勝ちだ、大金を掛けてやろう、俺の全財産となるものってなんだろう、もし俺が神に負けたら、俺の一番大事なものを持っていけばいい、それは俺のチンポか、何か俺にはよくわからねえ、神ならそれがわかるだろう、それを持っていけばいいんだ、俺は絶対勝ってみせる、勝つ自信があるんだ、マリア、お前は俺と神の戦に捉えられた俘虜、または俺が神を試すための生贄だよ、果たしておまえが本当の苦しみの底にいるとき神は手を差し伸べるのか、俺は証明してやるよ、神なんてものは簡単に目の前から消え去ってしまえるほどもろいものだとね。
 カインの顔にもうにやけは消えて神に挑戦するという不敵な笑みが浮かんでいた。しかしカインはふと不思議に思った。信じてもいない神に挑むって、どういうことだ?ああ、そうか、俺は聖書の神が全知全能の世の絶対的支配者ということを信じてないのであって、神でもないのに神とのさばっている聖書の神という存在がいるのかもしれない、と思っているからだ。だからその偽者の神と俺は戦って必ず勝利を収めてやる。そして本物の神など実はどこにもおらず、その実、神は俺だった。というわけだ。俺様以外に神様がどこにいるんだ?俺は誰にも支配されたくない、し、それに大体支配しようとする神なんか俺は嫌いだ、俺は嫌いな神の支配下になんか絶対おらない、死んでも服従するか、俺は認めねえ、俺はやりたいようにやってやるんだ、俺は自由なんだ、そうだ、これはそう気付いた人間だけが得る本物の自由ってやつだ、誰者かに服して生きたいやつはそうすりゃあいい、俺はごめんだね、それこそ地獄さ、俺は嫌なんだよ、世間大体の目が良いとしていることをただなぞって生きるのは、くだらねえ、だからこの世はくだらねえのよ、何故世間一般の目が悪いとしていることを良しとして生きたらいけねえのさ、どうしてそう人間たちは支配されたがるのか、善悪を知る木の実を食べて自由になったはずが、なんでまた支配されようとするんだ、いったい何故善悪を知ることを神が恐れたと思う?神さえもわからない善悪を人間が知ってしまうことを恐れたからだ。だってそうだろう、神がほんとうに善悪を知っているのなら、人間たちが善悪を知ることを恐れるはずはない。決まった法則に従えばいいってのは、楽チンだろうよ、俺は本能に従ってるだけだけどなぁ、楽だとも、苦しむ必要がどこにある?信仰者だって法則に従がって生きるのが自分でいちいち模索して生きるよりは楽だからそうしてるんじゃねえのか、自分以外を信じて生きるのは楽かもしんねえなぁ、俺は自分しか信じたことがない、俺はただ、自分に従うのみなんだ、そこにはまったく余計なものはいらない、聖書、教会、キリスト像、十字架、祈り、何一ついらねえ、俺が今日何をしたいか、それをするだけだ、何もしたくないのに無理に何かをすることが善い生き方なのか、俺はしたいこと以外何もやりたくないんだよ、自由を讃美する者を神は滅ぼすのか?神は自分に似せて人間を作ったんだろ、その人間たちが悪さばかりするからゲヘナの火に放り込んで御終いか?滅茶苦茶な話だな。それじゃあ徒のホロコーストだ。俺でさえそこまでの悪趣味はないぜ。神の掟は人を縛りつけるものだ、神は縛ることが御好きなようだ。おお、そこは共感しよう、俺はマリアを縛って篭絡したいんだ。俺の力で。そこだけ俺は神と交感できそうだ。しかし俺はマリアが自分に背いてもマリアを滅ぼそうなんて考えちゃいないぜ。それは想定外だな。勝利は、目に見えている。嗚、咽が渇いた。わたしは渇く、そう最後にキリストが言ったのはあれは謎だな、しかしあれが反対の、わたしは潤う、で締めくくっていた場合、それだと独り善がりの成就に安心して死んだみたいで笑っちゃうな。俺はあれは言葉通りの心が飢えるというような意味に思えてしまう。俺もやり遂げたいことができてそれを成就させようと意気上がっているときは心が潤ったようでいて時間も忘れるほどだが、それが成就できてしまったあとにはいつも元通りの飢えを感じるからだ。それを思うと、この世を支配しているのは神ではなく、空虚、虚無かもしれねえな。空虚な神は一体何を教えるんだ。我もあなた方もすべて空虚であるから、空虚に生きよ。そう言うんだろうか。支配ではなく最早放任だな。俺が信じるとしたらそんな神だな。俺はそんなやる気のねえような神のほうがよっぽど信じたくなるぜ。俺はとにかくいつ何時もまるで死刑台を眺めながら神に脅えて暮らすのは願い下げだぜ。喉が渇いちまったな、水飲み場はもうすぐだな。ちょっくら休憩してくかな。いや、やっぱり水を飲むだけにしよう、マリアを一秒でも早く俺の盲従にしたいからな、そして俺はとゆうとマリアという格別に美味い小羊が俺に喰われに来るのを日々待ち望んでいる猛獣。草食獣みたいにただ生えてきた草を食ってれば食が確保されるわけじゃねえんだぜ。自分で育て、呪縛するのよ、お前は俺に食われるために生まれてきたんだとね。
 カインは水飲み場の前まで来て籠を下ろすと獅子の頭のついた給水栓のハンドルを上げて獅子の口から流れる水に口をもってって咽喉を鳴らして飲んだ。水が気持ちよく手を洗って顔を洗った。ついでに頭も洗いつけた油を落とした。実にさっぱりとしてさわやかになり脇目も振らずにまた籠を持つと、西に傾く太陽を背中に浴びてマリアの住む家に向かって足どり軽く歩き出した。
 そうして歩いていると前から一人の少年が仔牛を連れて歩いてくるのが見えた。その少年と仔牛が近くまでやってきた時、カインはなんとなしに声をかけた。
「その仔牛をどうするんだ」
 少年はカインを見た。凛々しく利口そうな顔立ちの少年であった。
「御得意様の旦那さんのうちまで持っていくんです」
「その仔牛はいったいいくらするんだ」
「これは今年初めて産まれた雄の初子でほかにはいない、もう買い手が付いてしまっているので売ることができません」
「こいつは肉になるのか」
「はい、牡牛ですから」
「ああそうかい、わかった行っていいよ」
 少年は従順に着いてくるおとなしい白黒模様の仔牛を引いて去っていった。仔牛は立ち止まっているとき自分の持った籠の中の野菜を物欲しそうに首を伸ばしたりしていたから腹が減っているのだろうとカインは思った。仔牛のつぶらな目がどこかマリアの目と重なって見えるようだった。俺はマリアを神を試す為の生贄としてこの作物を与え俺に従うように育てようとしているが、あの少年は得意先の旦那に買ってもらう日まで大事に飼い葉を与えて育てていたわけだ、なんだか似ているじゃねえか、どっちにしろ、育てた相手が行き着くのは平穏とはかけ離れたところだ。まああの仔牛は確実に殺され死んぢまうが、マリアは死ぬわけじゃなし、そんな大層に考える必要もねえな、俺は盲目になったマリアの目を開かせようとしているのと同じだ、そこには苦難が必要だというわけさ、自ら狭い鳥篭の中に入った小鳥の目を覚まさせるには、篭の外の世界の素晴らしさに気づかせて、そして外界におびき寄せたら俺が鳥篭を打っ壊してやるよ、二度と戻れないように、そして自由を知るんだマリア、誰にも縛られることなく、自分の目で善悪を知っていけばよい、俺はやっぱりサタンの仮面を被った神だな、俺のおかげでやっとマリアが救われるんだ、俺は救世主だと、マリアは思わねんだろうが、俺の虜となるあいだは俺を崇拝しているも同様だ、俺がお前に崇拝される、これは神に俺が打ち勝ったことを意味しているぜ、そしてそのうちマリアは教会へ足を運ぶよりも、神の教えに忠誠でいるよりも、俺に抱かれる日を喜びとするんだ。

 先ほど声をかけられた男からだいぶと離れ、仔牛を連れて歩きながら少年は大きな息を吐き出した。そして思っているか思っていないかわからないような茫漠とした領域の中の意識で思った。産まれてから一番に、来る日も来る日も可愛がって育てたこいつを、殺し、肉として食べられるために、こうして一緒に今こいつと僕は歩いている。そしてまたひとつ深い息を吐くとつと立ちどまり、どこまでもだだっぴろい澄んだ空を見上げた。

 のどを潤したカインは次には突如、空腹をおぼえた。料理店から漏れだした食欲をそそる好いにおいを嗅いだからである。角に面したその店は全面上半分の壁がガラス窓になっており、町のはずれだというのに高級に見せるためのやたら凸凹うねって彫刻されたバロック装飾もどきのほどこした建物の中にはやはり、中流下層階級のような人間たちが入って食べているところを見せびらかしてでもいるように食事をしていた。カインはこんな寂れた場所にこんな小奇麗で高そうな店を出すとはなんと厭味な店かと思った。しかしその店からはなんとも言えない腹が特別減っていなくとも嗅いだ途端に食欲をみなぎらせるほどの美味そうなにおいが漂ってくる。あまり嗅いだこともないにおいだが、これはきっと仔牛のなんとかシチューとかいう名前の料理だろう、食いてえな、さっきもらった銀貨一枚で食えるだろうか。しかしカインは素早くここで美味いシチューを食いたい欲望とマリアの心を早く奪いたい欲望を天秤にかけた、結果シチュー皿はあまりの軽さに跳ね上がり天秤皿から飛んで行って辺りにひっくり返った。やっぱいいや、どうせ食らい尽くしたらもう見たくもねえほど嫌なものになっちまうだけだ。そう思ってまたカインはさっきのてくてくと何も知らずに歩いていた仔牛の穢れのない闇を映したような眼とマリアの眼が重なるのを感じた。女も俺にとっちゃ肉体を味わっておしまいの仔牛と同等なのかねぇ、そう心で呟いてみてカインはああ、今度は違うと思った。今般の策謀には異議ありだな、何故なら今回は俺は女の肉体ではなく先に女の心を我が物にしようとしてる、今までは相手が俺をどう思っていようと特に関係はなかった、関心もなかった、ただ俺が頼まなくとも俺に抱かれようとしてきた女とやってきただけだ、しかしマリアの場合意味が違ってくるだろう、マリアは見た限りでは献身的なキリスト教徒だろう、そのマリアがほかの女のようにたわいなく良く知りもしない男の前で股を広げるはずがない、そこでマリアが俺に抱かれることを懇願する日、そこには何があるか、それはほとばしる本能に敗北した淫欲か、恋慕の果ての藁をも縋るその藁手綱か、いいや違うね、マリアが俺に冀うもの、それは俺という新しき神を崇拝することの自己陶酔だ、マリアは今よりもっとはるかな強い力で自分の心も身も投げ捨てて犠牲になることを求めずにおれなくなる神によってこの上なく深く陶酔できることを渇仰しているだろう、それは果たしてどんな神だろうね、主イエス・キリスト以上に正しい神だろうか?俺は違うと思うんだよ、崇拝に値するのは無上の正しさなんかではない、魅力だ、あいてを魅する力だ、つまりそれは、惑わし、眩惑のすべだ、俺なんだよそれが、俺だ、この俺はそれを具有しているはずだ、根拠のある自信だ、根拠は自分で作ってやるんだ、そうでなきゃ俺のこの行動、熟考、すべて労働以下のただ働きじゃねえか、まあこうしてるあいだ俺は楽しいけどなぁ、それは必ず俺が勝利できるって確信してるからさ、向後ありきの楽しさだ、俺の現在が前途を包摂している。マリアの神への崇拝がただの虚構でくだらない自己陶酔に過ぎなかったって気づかせることが俺の勝利で俺の役目かな。
 そろそろマリアの家が近づいてきてカインの足と心は弾んだ。しかしこの野菜を渡してすぐに帰るのは悔やまれるな、部屋に入りたい、マリアはどうでるだろう、部屋に呼ばれなかったら俺が至らなかったということか、そうしたら口惜しいがしかたない、ちょっと疲れたから部屋で休ませてくれ、とかなんとか言って部屋に入ろう。二人きりの時間、マリアがどんな態度をとるか楽しみだ!カインは悪巧みな笑みを浮かべながらマリアの住む屋根裏の窓が見えるパン屋の前まで来た。屋根裏なので外から入る階段はなく、中を通って行くしかない、一階のパン屋のドアを押した。パンの良い匂いとパンそのものに包まれた。色とりどりのパンに囲まれてカインは途端また食欲が出てきてパンが食いたくなった。狭い店の中は店員も誰も居なかった。カインは入って左にある帳場台に籠を置き声を張り上げて奥に向かって呼んだ。「誰か居ないかあ」すると帳場台の下からぬうっと男が現れカインは驚愕した。どうやら台の下で寝ていたらしい男はまるで浮浪者のように薄汚れてぼろぼろの着古した服を着ており、頭の毛も伸び放題で眼がうつろでパン屋の店員には到底ふさわしくないような見て呉れであった。カインは訝りながら訊ねた。
「あんたここの店員か」
 一見年が良くわからない、若いのか年をとってるのか、麦粉を間違えて顔にはたいたのだろうかと思うほど粉の吹いてるような口元で男は応えた。
「ああ、そうだともぅ、あなた客ぅ?」
 ふざけてるような語尾が粘ったへんなしゃべり方をする男だなとカインは思った。
「いや、客じゃないんだ、ここの屋根裏部屋にマリアって女性が住んでるだろ?」
「ああぁ、住んでるともぅ、でぇ?それがどうしたんだぁ?」
「そのマリアに用があるんだ、上へあがって良いか」
「マリアは今ぁいないんだよぅ、悪いねぇ兄ちゃん」
「いったいどこにいるんだ」
「ひょひょ、ひょひょ、知らないよぅ、おいらぁそんなことぅ」
「何時ごろに帰ってくるんだ」
「いやぁ、わからないねぇ、おいらぁそんなことぅ」
 チッ。カインは露骨に舌打ちをし、男をにらんだ。
「あんたほんとうにここで働いてんのか?」
 すると男は目を大きく開け、呆れ返って言葉も出ないという顔を横に振って冤罪をこうむった罪びとのように絶望した表情でぼそっと言った。
「無実ぅ・・・・・」
「ただ聞いてるだけじゃねえか、店員なら頼みがある」
「なんだよぅ、頼みってぇ」
「この野菜をマリアに届けて欲しいんだよ」
「んなぁ、そんなことかぁ、お安い御用だよぅ、そんなことはぁ」
「じゃあ頼んだ、この野菜は今日カインって男が収穫して持ってきた野菜だと、そう伝えてくれ、いいね」
「おおぅ、おおぅ、わかったぁ、カニティがとって持ってきたぁ、な」
「カインだ」
「カナン?」
「カインだ」
「カーナーだ」
「カインだっつってんだろ」
「カイナンね」
「カ・イ・ン」
「ア・イ・ン」
「あんた耳悪いのか、カ、だ」
「ヴァ?」
「あーもういい」
 そう吐き捨てるように言うとカインはしばし考え、いいことを思いついてズボンのポケットに手を突っ込んで入れていたリボンを取り出した。それは先日、マリアが自分の傷を負った指に巻いたリラ色のリボンであった。洗っても血は落ちず、色褪せた血のついたままのリボンをカインは籠の中のインゲン豆に巻いて結んだ。これで俺が持ってきたことがわかるだろう。
「やっぱり何も言わなくていい、この野菜を無事とどけてくれたらそれでいい、頼んだぜ」
 そう言い残してカインはパン屋の戸をあけて外に出た。
 西日が眼に刺さる、カインは少し離れたところから屋根裏の出窓を見上げた。馬の蹄の形をした窓硝子が夕日に反射して耀いていてマリアの不在に今となってがくっと項垂れ、飲みに行こう、そうぼそっと声に出すとまた来た道を戻るのだった。

 パンの耳を譲って欲しいと店に入ったのが機縁で憐れみ深いキリスト教徒のパン屋の主人に雇われ、腹が減ったらここのパンを食べなさいといわれていた浮浪者の男は野菜籠を見つめて思った。パンばかりじゃ厭きちまうぅよ、この野菜、新鮮で美味そうだぁ、頂くかぁ、マリアは優しいからおこりゃあしないだろぅ、うちに持って帰ってスープにでもして食べような、ふひょひょひょ。
 
 戻る道すがらカインは思った。そうか、近くの店へでも入ってマリアが帰ってくるのを待ってればいいんじゃねえか。さっきの料理店は高そうだからほかの店を探すか。
 そしてちょっと探し歩くと雰囲気も良さそうな手ごろなカフェを見つけて歩くのがしんどくなってきていたカインはホッと一息ついて中へ入った。席について給仕の親爺が持ってきたメニューを見ても特にこれといって食べたいものがなく、適当に魚介バターライスや揚げ魚や揚げナスや揚げいんげんやポテトなどがセットになった料理を選んでそれとビールを注文した。持ってきたビールを給仕が硝子のゴブレットに注いでいる、その白い泡の下の透明な金色の中でふつふつして上がって行く小さな気泡をぼんやり眺める。白に煌く雲の天上の軍と金に煌く地上の軍との雲泥の戦いにあって、金地軍は何人かずつ白雲軍に向かって攻撃をしていくわけだが、雲上人率いる白雲群は金地群の身体を取り込み、その白い泡を増幅させていくかに見えたが、そうではなかった、白雲軍の雲底は虚しくも金地軍にぐいぐいと侵攻されてうたかたの夢のごとく雲散して霧のように金の地上に混じり合い消え入ってしまうのだった。という話を思いついたがこれマリアに話すと怒るんだろな、カインはビールをごくごく飲んで、ああなんだか違うなぁと思った。サタンな女は俺は散々味を知ってきたんだから、マリアがサタンに牛耳られてから抱いてもちっとも良くないに決まっている。恋にとらわれて男に抱かれるのを夢見てそして実際に求め婚前交渉を持つことがサタンだといわれているようだが、そうだとするとマリアからしたらもう俺に抱かれた時点で立派なサタンだ、でも俺が言ってるのはそうじゃなく、俺が思う下劣さだ、俺はサタンな女がサタンのまま俺に股を開くのは別になんとも思わない、でもマリアがサタンに惑わされたところを打ち負かしてもそれじゃ俺の神への勝利にならねえじゃねえか。その抱かれる前の時点ですでに俺の勝利となってるのはわかるけど、俺がそんなマリアを抱く快感がいいものになると思えない、それは嫌だ、ここまで尽力してるのに、俺はサタンな俗気なマリアを抱きたいわけではない、じゃあなんだっつうと、いと穢れなき聖女のマリアを抱くこと、ではなくこの場合マリアから俺を誘うわけだから抱かれるになるのか・・・・・・?それは俺に情欲を抱く時点でもう聖女じゃないからそれは不可能だし、俺はそれを抱きたいとも思わない、聖女のままのマリアを犯したいという気持ちはねえなぁ、だってそれじゃマリアの肉体を冒したというだけで神への勝利なんてどこにもありゃしねえ、肉体の聖域を冒す、なんてことはねえ、いったいマリアの処女を奪ったところでどうマリアの聖域を侵したことになるんだ、それじゃ俺が神に勝てていない、俺はマリアが神以上に俺を愛することで神への勝利を掲げ、その快味の中でサタンでもなく、また聖女でもないマリアが俺を誘いそして抱きたいんだ、ありえねえのかこれは?今までなら肉体さえ良ければそれで好かったんだがなぁ。こんなことにこだわるのも親父がキリスト教徒だからかもしんねえな、うんざりなんだよキリスト教、俺からしたらキリスト狂いのキリスト狂だよあんなものは。俺がこの名前のおかげでどんな眼で反感を買ってきたか、外に現す嫌悪から外に現れない嫌悪まで俺は見てきたんだよ、笑っちまうよ、もっとも俺が傷ついてきた眼は俺の名がカインだと知った瞬間の必死に取り繕うとするあのクリスチャンたちの顔の奥の根本にあるような憎悪だった。気分が悪いことを思い出しちまったとチッと舌を鳴らしカインは黄金色に輝くビールを飲み干した。隣でテーブルを拭いている給仕に「ビーゥ」と言って指を二本立てた。
 気付けばカインは五壜ものビールを飲んでいた。外はすでに真っ暗になっていた。カインは考えていた。俺は、ルシファーだ。俺がサタンだ。だからその俺がサタンに支配されてるというのはおかしいぜ。サタンはサタンに支配されない、俺は何者にも支配されてたまるかだ、俺は必ずや証明する、神より俺のほうが正しいんだとね。だってそうだろうサタンは俺の掟に従わなければお前を永遠に滅ぼすなんて言っちゃあいねえぜ。聖書は恐ろしいよ。そうやって恐怖で脅して言うとおりにさせる、これが真っ当なのかねぇ、俺は盲目のマリアに教えてやるんだ、本当の救いとは神におびえている其処にはないとね。サタンにおびえている場所にもない。俺は神とサタンどっちに近いかといったらサタンに近いんだろう、でも俺は思うんだよ、俺のことをサタンだと強く毛ぎらいするその排他的な感情を持った人間の心が如何に醜いものであるか。同じように思って親父が俺にこの名前をつけたのは聞いている、でも親父はそんな目にさらされる俺をかばって何か言うこともせずいったい何を考えているんだか、俺は親父の何を証明するためにこの名をつけられたというのか、神でさえその罪を許さず呪ったのに、親父は俺の何を救いと喜びに繋げようとしている?俺を犠牲にして。俺はそんな見ぬ喜びと救いのために縛られるのは御免だよ。神が望むなら親父は迷わずアブラハムと同じことをするだろうよ、息子の命さえ犠牲にして神に愛されようとするんだろう。俺は絶対にイサクのようにはならねえ。生けにえになってたまるか。俺はこの名前がある以上、どの国へ行ってもきらわれるんだ。そう思ったあとカインは、別に本当の名前をいつも教えなくていいのか、異名を名乗ればそれでいいか・・・・・と思ってグラスに残ったビールを飲んだ。気付けばビールは七本目に達していた。結構呑んでしまったなぁ、とカインはぐったりとした。マリアはもう帰ってるんだろうか。こんな呑んだくれた姿で会いに行ってもマリアは俺に恋するだろうか。しかしこの状態でマリアの部屋の前で倒れこんで見せたらマリアは自分の部屋のベッドに俺を寝かしつけるかもしれない。それはいい案だぞ、一丁それでやってみるのは面白い、それでいこう、さて勘定を済まそう。カインは給仕を呼んで勘定を済ますと立ち上がろうとして上手く立ち上がれないことに気付いた。そして一気に疲労の大波が渦のように押し迫ってくるのを感じた。カインはそれでも早くマリアの部屋のベッドで寝たいために錘のような重い体を動かして店を出て歩いた。
 パン屋の前まで来て、ドアに手をかけた、閉まっていた、暗がりの中を見つめするもとうぜん誰も居ない。屋根裏の窓を見ても明りがついていなかった。マリアはまだ帰ってきてないのか、それとも帰って疲れてもう寝てしまったのだろうか、二階の窓を見ると明りがついていた。カインはドアをドンドンと叩いた。二階にいるであろうパン屋の主人を呼んだのである。少ししてパン屋に明りがつき、老婆が出てきた。品のよさそうな老婆であった。カインはひどく懈いのに力尽くして声を出した。
「マリアに用があるんだが」
 老婆はいぶかしむこともせずに真っ直ぐな容貌で応えた。
「マリアは今晩は親御さんのところに泊まっているはずですよ」
「あーそう」と開き直ったようにすかさず応えカインは老婆に何度か黙ってうなづいてみせるとパン屋を離れた。心身ともに疲れをどっと感じ、早く家に帰って寝たい、とそればかり思ってずるずるした足取りで家路に就いた。
 
 そして次の日、朝早くに目を覚ましたカインはベッドから起き上がり小鳥たちがささやく鳴声を無視して煙草を吹かして若干にんまりとして思い耽っていた。俺は大きな仕事をやったものだ、マリアはどんなに吃驚して俺の好意に喜ぶか知れねえ、居合わせたいものだな、そこにいたら俺は、大変だったでしょう、とマリアが気遣うのをさわやかな笑顔でこう返す、なんてことないさァ、そういいながらも、あ、目眩が・・・といってふらついてその場に倒れこむんだ、ハハハッちょっと貧血起こしちまったのかな。とでも言うと、マリアはきっと俺を引き摺ってってベッドに寝かせるだろう、悪いね、なんか、と言えばマリアは疲れが引くまで休んでってください、心配ですから、とか言うんだろうなぁ、もう俺に惚れちまってるはずだ、俺からは絶対さそわねえから、マリアはだんだんと熱くなって疼いてくるにちげえねぇ、でも俺は手を触れることさえしないさ、俺はまるで人間の生殖本能の欲望をなくしたイエスのようにマリアを愛する。かのようにマリアを魅する。はは、俺は悪いんだけど、マリアを以て、復讐をしてやるのさ。俺を決して救うことのない、間違いの神にね。捏造された不真実の偽りの神へ。
 カインはさっきからムラムラしていたので下着の短パンを下ろしてマリアが悶えているところを想像して一しごきしだした。カインの赤く脹れた矢でほとを突かれたマリアの姿、表情は聖女的でもなく、サタン的でもなかった、複雑に喜び苦しむその姿にカインは猥りがわしい愛慾に漲り頭の芯の部分が巨大な花弁が数え切れないほどある黄色の花を咲き開いたかのような尋常でない恍惚に白目を剥いて射精した。我に返ってカインは思った。俺がずっと求めてた快楽がマリアの中にあるのか!一人でこいてこれなんだから、マリアの中に突っ込めばどんなことになるんだ!?カインの心の中はきらめいて希望が充ち満ちだして溢れ、掌の自分の精液を強く握り締めて感激に震えた。
 マリアはサタンに堕落しても駄目だ、聖女のままであってもこの快楽には行き着かないだろう。俺はマリアに苦しみだけを与える気はないし、また喜びだけを与える気もない。俺はマリアにすべてを与えてやるんだ、それが本当の神だ、俺はマリアに縛ることをするひ弱な神からの解放という素晴らしい救いを与え、そして同時に俺には愛されないという苦しみを与えてやれるんだ。でもちょっと違うかこれは、マリアがそこで喜んでしまえばただのサタンじゃないか。おまえが神に背いて俺に抱かれることを望む、そこには神に背いてしまった苦しみと俺に抱かれた喜びがあるだろう、そして俺がおまえを捨てたあと、おまえはまた神に泣き縋るか知れないが、俺の勝利だよ・・・・・。おまえは処女と忠信を捨て去り、神を悲しませてでも俺を求めるんだからなぁ。俺は最近そんなことばかり考えている。
 カインは一服して冷めたスープを飲みパンを食べコーヒーを沸かしてこれを飲んだ。小鳥が八羽窓のすぐそこで囀っていたがカインの耳にこれは届かなかった。カインは、本当に気持ちよかったなぁ、と思い出してマリアの体を想っていた。衣裳棚には朝の陽光が虹をつくりゆらめいていたがカインの目には入らなかった。カインは激しい冀望を抱いたため、凄まじい飢えを感じていた。
 便座に座って左膝に左肘をつき、カインは右の台の上に置かれた砂どけいの上から下に落ちる砂を見て思い巡らせた。上の奴らが落ちてくる、堕ちてくる、じゃんじゃん墜ちてくる、地上はもはや天から投げ落とされたみ使いたちでいっぱいになった。天には住む者がいなくなってしまった。それはえらいことだ。地上の者らは思った。天が空っぽなんでなんだか白々しいよ、地上は人が増えて狭苦しいなあ、砂の数ほど人がいるぜ、嫌になるなぁ、よし、地上の太平を掻き乱す者たちをぜんいん天上へ投げつけてやろう。しかしどう足掻いても地の人間を上の世界へ投げ飛ばすことができなかった。息苦しく暑苦しい地上でみな絶望して死滅した。すると神が現れ、神の右手が天地をひっくり返した。うわぁー。突然何が起こったのかと死んだ全生命が錯乱状態におちいったが、やがて地上を見下ろして事がわかった。俺たち、天空にいるぜ。しかしそうわかった矢先にもう天の者らが次々に地に投げ落とされていくのであった。うわー、どういうことだーいと叫びながら七分以内にはすべての者が地上に投げ落とされるのであった。それをえんえんと繰り返す。神は思うのだった。退屈だなぁ。わたしは渇く。カインは自分の糞を水に流して閑処を出るとのどを潤した。そして渇いたままの心でマリアの精神と肉体と勝利を得る日は近いと、それを完遂することを己れに誓った。俺の野菜、とどいたかなぁ、俺の収穫した野菜。俺が農夫のようにパンツの中まで汗かいて照りつける日に皮膚を焼かせ土壌の微生物を爪の間にめり込ませながら掘った芋や、枝からぶっちぎった豆、俺の愛念をそそぎ込んだ大根を君に捧げるよ、僕のいけにえ、マリア。という手紙を書いて送ったら狂人だと思われるんだろうなぁとカインはへらへらしながら思った。
 マリアから礼を言いに来るまで待っていようかと思ったが、次の集会の日まで待てず痺れを切らし午後になってカインはマリアの家まで出向いてみた。パン屋の主人であるという気の良さそうな老爺がいたので尋ねてみると今は出かけて留守だという。どこにいるか知らないかと聞いてもわからないという。カインは日に日に贈り物へのマリアの返答を期待して待ち望み三日マリアの家に通ったがとうとう会えなかった。
 しかし四日目のことである。店の主人がカインにマリアの居場所を教えた。
「マリアは今日は教会へ行くと言って出かけていきました、村の教会の場所はわかりますかな?」
「ああ知ってるよ、そこで彼女と知り合ったんだ」
 カインはマリアの居所をようやくつかめたことに心躍らせて素直にそう応えた。
 パン屋の主人は最初変な青年にマリアが付き纏われているのでないかと懸念していたが傲然な中にも純粋さの垣間見られることに安堵して彼を信用できると思いマリアの居場所を教えた。
 カインは居場所を教えてくれたお駄賃とでもいうように大きなパンをひとつ買って店を出た。マリアを逐ってやってきたとゆうと怪しばまれたら嫌だから懺悔をしにきたとでも言おう。
 カインはパンの袋を手に持ち、大股でうららかなる午の低く舞う砂煙を踏んで歩いた。村に入るとカインの行く手にはからし畑の黄色い小さな花がいっせいに咲きわたっていた。カインは目の前に広がる黄色い花畑を見て、マリアを想って最初に絶頂に達した世界の色がこれと同じ鮮やかな黄色であったことを思い出した。黄色い野が、マリアと勝利を獲得することの象徴に思えてカインは欲情した。神に挑むという俺の剛勇な行いをこの黄色い花たちが祝福してくれているようだ。
 飾りけのない教会の戸口の前まで来たカインは胸を高鳴らせ戸を静かに開けた。
 質素な古びたキリスト像の下にひざまずいた女の後姿をカインは目で捉えた。女はひたむきに祈りを捧げているようすでカインが教会に入ってきたのに振り返ることもなかった。カインは一番後ろの席に音立てないように座ってこれを眺めた。マリアは清楚な白い衣服を着ていた。何をそんなに祈ってるんだ。カインはマリアの信仰の深さを見せ付けられているようでいい気分ではなかった。偶像を拝んでなんになるのかと上辺では冷笑できるのにキリスト像の前で一心に拝む女の姿はカインを是が非でも圧倒する無垢なる力のようなものがあり、それに悔しさよりも卑屈な笑いのほうが込み上げてくるのだった。その卑屈な可笑しさがはなはだし過ぎたために気づくとカインは靴底をダンダンと床に打ちつけ前の椅子の背凭れをガンガン叩いて声を上げて笑ってしまっていた。
「わはははははははははははッ!」
 マリアは驚いて振り返った。そして大笑いしているカインを見咎めるとまた最初に見せた冷ややかな目を向けた。カインはその目が癇に障り瞬時無意識に口から言葉が溢れた。
「キリスト教徒も大変だな、イエスの像をうちに一つ置いとけば教会にいちいち出向いて祈らなくてもいいのに」
 マリアは一瞬悲しい顔を見せて目を伏せると押し黙りこんでしまった。
 カインは正気に戻ってまたやってしまったと思って一緒に押し黙った。黙って挽回策を考えているとマリアが立ち上がってこちらに向かって歩いてきた。
 少し近づいて硬い表情でマリアが言った。
「あなたはクリスチャンではないの?」
 カインは真面目な顔で応えた。
「僕はまだ洗礼を受けてないよ。勉強してるところさ」
「そう・・・ごめんなさい」
「何故謝るんだ?」
「求道者はみな同じ道を目指す人たちだから、クリスチャンも求道者も変わりはないわ、疑ってしまってごめんなさい」
「いや、疑って当然だよ、僕の性格は悪い、このまえもそうだ、僕は困らしたくはないのにいつも困らせることばかり言ってしまうんだ」
 するとマリアは何かを思い返すように顔をほころばせてこう返した。
「それはわたしも同じだわ」
「じゃあ僕を困らせるといいよ」
「どうして?困らせたくはないわ」
「僕はもうすでに困っている」
「わたしは何か言ってしまったかしら・・・・・?」
 カインは黙ってマリアを熱い眼差しでもって見つめた。マリアは頬を赤くし眼をそらして言った。
「わたしはあなたに何を困らせたかしら?」
「はははは」
「言って頂戴」
「それはね・・・・・秘密さ」
「あなたはわたしを困らせようとしているの?」
「きみは困ってるのかい?じゃあ、お相こということで、へへへ」
「とても気になるわ・・・」
 するとそのときカインの腹が音を立てた。
「ぐぎゅるぎゅるぎゅるるぅ~」
「お腹が空いてるの?」とマリアは笑って言った。
「うん、腹が減ったみたいだ、おおっと、こんなところにパンがあるぞ!」
 カインは持っていたパンを袋から出して高く持ち上げ言った。
「恵みのパンだ!」
 マリアは楽しそうに笑ったからカインも笑った。カインはマリアと一緒にひとつのパンを二つに分けて食べた。カインは左隣に座ったマリアを押し倒したい猛烈な性慾に我慢しながらパンを食べた。
 そしてパンを三口ほどで食べ終わったカインはまだパンをちぎってちまちま食べているマリアの横顔を見た。こんなに近くで見るのは初めてだった。カインはこの四日連日絶えず激しく欲したマリアが今目の前にいることを喜び、そうなってはこの時に自分の魅力を最大限揮い尽くさなければならないと思った。思っているとマリアから声をかけてきた。
「今日はどうして教会へ来たの?」
 カインは堂々とうそをついた。
「懺悔をしにきたんだよ」
「ならわたしが司祭を呼んできましょう、ちょっと食べるまで待ってください」といってマリアは早く食べようとしたので「いや、いいよ急いで食べなくて。あのさ、僕もうなんべんも懺悔しに行ってるからなんだか、またこいつかって思われそうでちょっと嫌なんだ、顔は見えなくても声や話し方でわかっちゃうんじゃないかって」とカインは言った。
「司祭はそんなことを思う人じゃないから大丈夫よ、それに秘密は絶対厳守だから安心して」
「別に秘密を守らなくてもいいんだけど、僕まだあんまり司祭と親しくないから、できればもっと親しい人に打ち明けたいんだ」そうカインは真剣に悩んでいるようすを演じて話した。
「そう・・・・・誰か、ほかに聞いてもらえそうな人はいないかしらね」と真摯にこれを聞くマリアにカインは唐突に言った。
「僕はぜひ君に聞いてもらいたいんだ」
 するとマリアはカインの両の目を行ったり来たり見つめた、何かあまたの考えが頭の中で交錯しているようだった。そして自信なげに口を開いた。
「わたしで、いいのかしら・・・・・?」
 カインは自信たっぷりのうれしそうな顔で「うん」と応えた。
「わかったわ、じゃあちょっとお待ちになって、パンを食べ終わるから」とまた急いで食べようとしたのをカインは笑って「食べながらでいいよ」と返すとマリアはとんでもないという顔で「ダメよ、そんな態度で聞いてはバチがあたるわ」と言った。
「ははは、当たらないさ、それくらいで」
「いいえ、わたしはちゃんと真面目に聞きたいの」
 そう言ってマリアはパンを口の中に詰め込んでモグモグして飲みこんだ。そして指で口についたパンの粉をはらうとカインを見て「ここでいいの?」と聞いた。
「ああ、ここでいいよ」というとマリアは肯いて「わたしは後ろを向いていたほうがいい?」と焦って聞いた。「いや、前を向いていてほしいな」
 マリアは肯いて緊張をはりめぐらした表情でカインを見すえた。
 カインは遠い日を思い出すようにして静かにゆっくりと話しだした。
「これは、まだ僕が誰にも話してない話で、とっても遠い過去の話なんだ。僕はあのとき、確か十一歳とかだった。僕はそのときいつも学校から帰ると五人くらいの同級生たちと遊んでいたんだ。僕はその中でもリーダー格みたいにみんなに偉そうにしていた。そういう性格だったんだ、特に子供のころ。分けてなんの劣る部分もなくてもただ僕よりは弱っちいというだけで見下してしまう傾向があった。別にみんなが僕をリーダーとして認め敬っていたとも思えないんだけどね、なんだか乱暴で怒りだすと手に負えないんで、しかたなく反抗はしないでいただけかもしれない。僕はそのころほんとに悪いことばかりしていた、親の金を盗んで玩具を買い漁り、それを級友たちに配ったり、机の上に載って遊んでいてクラスメイトを故意に突き落として大怪我をさせたときも笑ってるような子供だった。教師に親が呼び出されて、親は金を盗んでる事だって気づいてただろうに僕を怒ることをしなかったから好い気になってたんだ。そんな子供なのにほかの子供と同じようにさまざまな職業に就く将来の夢を描いたりしていた。僕のいたクラスでは誕生日を迎える子供にクラスのみんなと教師からメッセージを紙に書いてそれを渡すという意味のわからない恒例があって、大体の奴らはみんな面倒だから誕生日おめでとう、とこれからも仲良くしてね、とか言うお決まりの文句を書いてるだけだった。でも僕のよく遊ぶその五人の中の一人のメッセージが明らかにほかとは違っていた。彼はその誕生日おめでとう。と書いたその下に、もうぼくのことを叩かないでほしい。ということを書いていた。思い返すと確かに僕は常日頃その彼の頭をよく叩いていた。別段悪意とかがあって叩くのではなくて、なんか癖になってたんだ、彼の頭を叩くことが、ほかの人間も叩いていたかはよく思い出せない。でも誕生日に贈るメッセージにそれを書くくらいだからそれを相当思いつめていたのかもしれない。でも僕としては嫌な気分だった、そこまで思いつめているなら普段からそれとなく言えばいいのに、こんな誕生日を祝う言葉のあとに憎しみのようにぶつけてくることがちょっと腹が立ったんだ。でもそれを相手に表すこともめんどくさいし、これからは気をつけるかなぁくらいの気持ちでいた。少し日が経って、今度は彼の誕生日がやってきた。彼の家で誕生日会をやるからと僕も呼ばれた。僕は多分それが初めて呼ばれた誕生日会で小遣いをはたいてプレゼントを買いに行った。買ったのは犬の形をした貯金箱だった。プレゼントだから自分が欲しいものではなく、まあこんなもんでいいかと思えるようなものを買ったんだ、それなのにいざあげると思えばさもしい性格にできてる僕はあげることが惜しくなってしまったんだ。それで、やっぱりこれは自分が欲しいと思って何か家の中にあるものでプレゼントになるものがないか探した。そしたら兄貴が何かの景品にもらってきた恐竜の玩具があったから、これがいいと思って、それを兄貴には黙ってプレゼントの代わりにした。安っちい感じの玩具だった。それを気後れせずに新品のプレゼントとして渡したんだ。彼は喜んでいた。まぁ実際犬の新品の貯金箱よりも恐竜の中古の玩具のほうが彼は喜んだのかは知らないけれどね・・・・・。彼が心から喜んでいるのを見て少し後ろめたさも感じた。そうして僕はほかの子供より不真面目に学校をズル休みしたりしながらも成績を落とすこともなく日常を楽しんだりもしてなんとか順調に過ごしてた。そんなある日のいつもと変わらぬ朝、学校に行くと教師が厳粛な顔をして教壇に立ち告げたんだ。僕に頭を叩かないでほしい、と言った彼が夜中に惨事にあって、酷い重体で深刻だというんだ。生徒たちはみな、何があったのかと問いただした。教師は話すのをためらいながらも彼の家に強盗が入ったことを話した。僕はそれを聞いた途端、素直に涙を流した。あまりに衝撃だったんだ。まだ十一年かそこらしか生きていない自分と同い年の彼が突然、死の危険に立たされ、想像もできない恐怖と苦しみの中にいたとき自分はすやすやベッドの中で眠りこけていた。ほかの生徒を見ると驚いてるだけで泣いている生徒はほとんどいなかった。みなそこまで想像もできなかったんだろう。教師は言った。みんなで彼の命が助かるように祈りましょう。と、でも僕は、涙をすっかり乾かせて、まったく逆のことを祈ったんだ。彼の命が助からなければいい、と。僕は本当にそう思った、助かってしまっては面白くない、と。死ぬほうがずっと重くてすごいことで面白い、と思ったんだ。だから強く願った、授業中にもずっとそれを願った。僕はすでに彼になんの憎しみもなく妬みも何一つ羨んでもいなかったが、純粋に残酷に、ただ彼の死を心から願った。その日授業が終わる前に教師はみんなに告げた。彼は助からなかった。僕は胸のうちで心の底から喜び叫んだ。彼は突然僕らの前から消えていなくなった。こんなにすごくて大きなことはない、こんなに興奮することはほかにないと思った。葬儀に学年全員で出席することになって、棺に入った彼が送られて行くのを見送りながら僕は演技して哀しい顔をして涙を流そうと思ったが、喜びがとても大きかったから涙を流せなかった。でもその喜びは長く続かなかった。喜びから冷めてしまうとあとには自分の罪を責める苦しみしかなかった。子供らしいその残酷さから醒めたとき、子供らしさを失ったような気がする。僕はあのときに一気に老人になった、変に冷めて狷介な老人にね。アダムとエバが無知を失いエデンの園から追放されたように、僕は子供の園から追放されてしまったようだ。僕はそれまで以上に人を見下すようになってしまった。自分を責めれば責めるほど、世界が色を亡くしていくようだった。僕は、自分を受け入れることができないのと同じに人を受け入れることができなくなってしまったんだ。他者にも自分にも向き合わないこと、これが僕の一番の罪悪かもしれない」
 話し終わって正面を向いていたカインはマリアを見た。目を合わせたマリアのまっすぐなふたつの目がふるえ急激に赤ばんで湧水が氾濫しだした。
「ごめんなさい」と言うとマリアは顔を背けた。
「話を聴いてくれてありがとう、マリア」カインは少し疲れた声でそう言った。マリアは手の甲で涙を拭うと言った。
「わたしの好きな聖句を読んでもいいかしら」
「ああ、いいさ」
 するとマリアは祭壇の上に置かれてある聖書を手に持ってきてまたカインの左隣に座った。マリアは細くしなやかな指で聖書のページをめくり威儀を正すようにして聖句を読み始めた。
「われこそ、我みずからのゆえにより、汝のとがを拭い去る者である、われは汝の罪を思い出さない。汝その潔白が証明されるため、己れが事を述べて、われに思い起こさせよ。われら諸共にあげつらおう」
 外でカラスが鳴いていた。日が暮れていたようで教会の中の薄暗さに気づいた。なんだか疲れちまった。ああ、酒が飲みてえ。そうカインが思っているとマリアが話しだした。
「わたしがこの句を特に好きなのは、神はすでに決まった法律のもとに人を裁こうとはせず、正しいことを見いだすために、共に論じあおうと言ってくださってることがものすごく嬉しいからなの」
「へえ、そんなへりくだったことを神は言ってくれるんだね、知らなかったよ。でも僕は今日は神に向けて話したんじゃないんだ。僕は君に、君に僕の罪を告白したかったんだよ」
 するとマリアはまた前に見せたおびえるような顔ばせをして言った。
「それはどうしてなの?」
 カインは少し考えるようにして浅く息を吐くと「さあ、それはよく自分でもわからない」と応えた。そして「君のことがなんか、気になるんだ、それで僕の事を洗い浚い話して知ってほしいのかもしれない」とつけ加えた。するとマリアは横を向いてその耳の先まで真っ赤に染めてうつむき少女のように恥じらいながら「わたしで、いいのかしら・・・・・」と言った。
「僕は君がいなけりゃこの罪を墓場まで持って行ってたと思う」
「でも今日は司祭に懺悔しようと思ってきたんでしょう?」
「いや、司祭に話そうと思ってたのはもっと小さな罪の話だよ」
「そう・・・・・わたしがマリアという名前だからマリアさまのように思ってなくて?」
 マリアはそう笑って言った。
「はは、君も冗談を言うんだね」
「からかってるわけではないのね?」
「僕を疑うのかい?」
「いいえ、あなたを信じるわ」
「僕も君を信じるよ」
 二人は見詰めあい、カインも少年のように照れて微笑んだ。
 心の中でカインは、鼻で笑いながら思った。まったくうぶい処女だぜ、まぁおだてに簡単に乗っちまうのは生娘も戯れ女も違いがねえが。しかしほんとのところ処女なんだろか?男にだまされて強姦された過去があったりしねえだろうなあ、それか信仰のなかったころにやりまくってたとかねえだろなぁ。まぁそのうちわかるか、そうだ、いつから信仰があるのか聞いてみよう。
「ところでマリアはいつからキリスト教徒なんだい?」
「わたしは、母親がクリスチャンだったの、でも早くに死んでしまって、子供のころに聖書を学んだっきり離れてしまってたんだけれども、去年からまた聖書を学びたいと思ってそれで教会に通いだしたの。それで一年通って、一ヶ月前に洗礼を受けたばかりなのよ」
「へえ、ついこないだなんだね」と返しながらそれを聞いたカインはえらくガッカリした。てっきり小さいころからずっと信仰を深く持って神と共に歩んできた信者だとばっかり思っていたからである。しかしマリアが漂わせているこの異様なまでの神々しい感じのものは何なんだろうとカインは思った。殊に人よりも抜けてるところがあるとも思うのにひょっとしてそれも全部が演技で本当は俺のことや自分のことあらゆるすべてのことを冷静に判断して認識しているような俺をまるで子ども扱いできるほど深遠なことを考えているような二面性を備えている気がしてならなかった。それはマリアが時折ふくざつな表情をするからというわけではなかった。それさえも演技であるかもしれない。それを思うと、いくら永い歳月を神への忠誠に生きたからって凡愚なものが見え隠れしていたらつまらねえ、やっぱり神を試すのにふさわしいのはこのマリアだ。神を試すって言い方はちょっとおかしいのかもしれないが、神を愛するマリアを唆して、神と俺どちらが勝利を手にするか、いうなればエバをそそのかす狡猾な蛇だ、俺は。しかし俺はマリアを試すためだけにこんな御面倒なことはしねえ、俺は神に愛されているであろうマリアを神から奪い去ってやるんだ、そして己れとの約束を破ったマリアを神がどう苦しめて行くかを俺は見てやる。神がそんなマリアを救っていけるのかをね。もしまったく救っていけないようだったら俺の二度目の勝利だ。
 そう思っていると教会の中がどんどん暗くなってきたのにマリアも気づいたのか「もう外が暗くなってきたから、今日は帰りましょう」と言った。
「そうしよう、危ないから家まで送ってくよ」
「平気よ、ひとりで」
「平気なもんか、このへんにはうようよ変な奴らがいるじゃないか、君みたいな美しい人が暗がりを歩いていて、そこをたちの悪い野獣が見つけたりでもしたらとんでもないことになる」
 するとマリアはくすくす笑って言った。
「いつも一人で歩いてるけど大丈夫よ」
「いや、今日に限っては何か起こるかもしれない、とにかく送らせてくれよ、それに君と一緒に歩きたいんだ」
 マリアは上目ではにかみながら応えた。
「ありがとう。では送ってもらうわ」
 薄く鉄みと紫がかった藍色の空に迫られた地平付近の燃えたあとの灰と交じり合った炭火のような淡い雲下の焼け焦げたような黒い山々に囲まれている丘の上の家の壁は黄色味がかって青い風景の中マリアと並んで坂道を上る。上りおえるとちょうど自分の背丈と同じほどの木が両側に生えそろった小径に入った。カインの右にはざくろの木、マリアの左にはオリーブの木が並み立っている。マリアの右肩や袖がカインの左腕辺りに当たった。すると何種類もの虫があいずを示し合わせたように鳴きだした。キリキリキリギリギリギリギリチーチーチージジジジジィツンツンツンツンヅーヅーヅーチィチィチィズイーズイーズイージーツンツンツンジーツンツンツンティティティティぃじーぃじーぃじーちゅりちゅりちゅりリリリリリリジーツンツンツン。なぜ虫の鳴らす音はイ段が多いのだろうかとカインは思ったが、それをマリアにゆうのはやめておいた。「はあ?」とかマリアは言わねえだろが、変な男と思われるのは避けたほうがいい。そう思ってカインはその代わり違う無難なことを言った。
「虫の音って僕好きなんだ」
 するとマリアは右を歩くカインの顔を見上げ目を輝かせて言った。
「嬉しい、わたしもなの、でも、虫の音を聴くとすごく切なくなるの」
 そう言われてもカインはわからなかったので適当に返した。
「それはあれじゃないか、君はこれからやってくる夏がもっと遅くに来てほしいと思ってるんじゃないかな、寒い冬が来る前の秋がもの哀しいと思う人がおおいのと同じ原理さ」
「そうなのかしら、わたし今の季節と、それから夏の終りの季節が一番好きなの、なにか、夢の中にいるような心地になるから」
「夢で季節を感じるのかい?」
「たまに見るの、季節や空気や温度を感じる夢を、きまって春の終りか夏の終りにある空気と似ているの」
 カインはそれを聞いてそんな夢を俺は見たことあったかなぁと思い返してみた。思いだす夢は真っ暗なプールの中にいる変な小さめのくろい鯨の上に載ってあそぶ夢や、薄暗いゴーストタウンと化した路地を一人でやかんを振り回して走ってる夢や、グロテスク極まりない人間の生首をでっかいスコップの上に何個か載せて運ぶという単調労働をなんとも思わずたんたんとやっている夢や、地獄みたいな温泉で黒山羊の頭と黒い翼を持った両性具有の魔物と性交する夢や、いろいろ思い出したが季節を感じる夢は一つとしてなかった。俺は夢ん中で心地の良い空気を感じたおぼえがない。カインは自分もそんな季節を感じる夢を見てみたいと思った。そして「夢の中の空気と似てるから切ないのかな」と言った。
マリアは「そうかもしれない」と応えた。
 ふたりの語らいを耳を欹てて聞いているようなせせこましく挟まれたオリーブとざくろの木のあいだの小径を抜けると左右にからし畑の広がる道に出た。強烈な黄色だった花々も夕闇の下では赤銅色になっていた。カインは夢の如きといえば神が奇跡を起こしたとか神の意志を行う者が天の王国に入れて神を認めず、聞き従わない者は滅びるというおとぎ話と変わりない神話をよく信じられるものだと思った。俺は信じられないばかりか神を怨んでるぜ、実際居もしねえ神を崇める宗教のおかげで散々嗤われて悪者にされてきたんだからなぁ。カインはマリアの横顔をちらと見た。股の間の玉の下らへんが少しこそばゆい感じがしたが、マリアの面前で掻くことはやめといた。マリアはおとなしくて物腰もたおやかで災いな口を無神経に動かし続ける世俗の女どもとは一線を画する。カインはいつも女の長い話を聞いては相槌を打ったり返答したりしなければならないのが面倒でならなかったからマリアの寡黙さには救われたが、これまで自分が女を簡単に落としてきた話芸ではこの崇高なものに身をゆだねるマリアの心を神よりも大きな手でつかみとることはできないように思えた。それにマリアは実は自分の嘘をあっさりと見破っているのかもしれないという思いがいったん沸き起こってしまったら、嘘を言うのが大変面倒にもなってしまったからであった。しかし本当のことばかり言い続けていたらどうなるか、マリアは俺をおそれて遠ざかってゆくに違いあるめえ。だとすると良いのは俺は優しい嘘と本当とを合せて半々でマリアの心を乗っ取るのがいいだろう。そう思ったカインはマリアに話しかけた。
「なんだか僕も異空間に来たようで時間が止まっちまった気がするよ、ああ、このまま止まってくれないかなぁ」
 するとマリアは少しまを置いて言った。
「時間が限られているということは、いつまでものんびりしてちゃいけないってことじゃないかしら」

 カインは思った。いや、そういう意味じゃなくって今このときがなんだか幸福だって意味にとって欲しかったんだが・・・・・。難しい女だな。
「しかしなんでそんなに急かされてんだい?僕らが原罪を負ってるからかい」
「それは・・・・・。限りあるものが儚くて美しくあるためにじゃないかしら」
「美しくあらなきゃだめなのかい」
「美しいことは喜びであるからよ」
「美しくないことは苦しみなのかい」
「自分のためばかりに苦しんでるとそうね、悲しみは美しいわ」
「悲しみが何故美しいんだい」
「悲しみはこの世で一番大きな、相手を想う感情だから」
「それじゃあ美しいことは悲しいことだから喜びにならないんじゃないか」
「あなたはそう思うの?」
「だって喜びであるなら、それは悲しいことにならないし、悲しみであるならそれが嬉しいなんてことにはならないんじゃないか」
「そうかもしれない。でも喜びはいつも儚くて美しくて悲しいことの先にあるのよ」
「不可思議だな。僕は死ぬことも悲しいことも儚いことも苦しいばかりで嫌だ。それらが美しい喜びのためにあるとは思えないよ、あったとしてもそれじゃあいつまで経っても楽になれやしないよ」
「楽であることは喜びではないから、必要はないのよ」
「そりゃぁあんまりに厳格すぎやしないかい」
「欲張りかしら、喜びにつうじるものしか求めないなんて」
「とんでもない、君が欲張りなら世の人々は大大大貪婪で大業突張りの犬畜生どもめらになっちまうさ」
 するとマリアは笑って「あなたっておもしろいのね」と言った。カインは笑いながら思いなしていたとおりの手厳しいマリアの一面を垣間見てまごついた。
 すると突如マリアが話しだした。
「夢は見てるとき夢だと気づかないでしょう、そして醒めたら夢として思い返すの、現実も今を今だと思って過ごすときはあまりないでしょう、あとで過ぎ去った日のことを思い返すばかり、そして今そう思っていても今が今を思うときは過ぎ去って思い返してばかりいるの、それは過去も未来も同じように、夢とどこか似ていなくて?」
 カインはそう言われてみればそうだなぁと思った。
「確かにそうだけれど、いったいそれがどうしたんだい?」
「せつないことはそれじたいが喜びなのよ」
「君のせつなさがどんなものか、僕も味わってみたいよ」
 マリアはさびしそうな笑顔をカインに投げかけた。
 カインはこの不思議で霊妙な超越した女の力と自分の具える魔力のように邪知の深い力、その引力が働くとどうなるのだろうかと思った。しかし引きあうということはこの俺も女に魅せられるということになる、それはありえねえ、根底や本能の部分から俺は女を見下しきってるんだ、女はまるで神への愛をあらわすために生けにえにされる仔羊や、その肉の旨味を味わうためにある家畜となんら変わらない、そんな下等な存在に俺が引かれるなどとは考えられねえな、俺は全財産を賭けてもいい、俺の内にある富がなんなのか知らないが、すべての俺にある富を賭けていい、俺が女に引かれることはないだろう。
 沈鬱げに見えてもそれを知らない墨に海を混ぜたような穀物畑が左右に広がっている。マリアには自分とまったく別の世界が見えてるのだろうかとカインは思った。
 町に入ってぽつぽつと間隔をあけて灯る街灯の灯は村の何もない暗さよりもわびしさを伴っていた。マリアは壮大な闇をおそれぬ自然の広がる村に住む者で、自分は闇をおそれてコセコセと慰みに小さな灯をともす町のほうの人間ではないかという考えが一瞬浮かんだが自尊心の高いカインはこれを即打ち消した。
 薄明るい町の中を歩きながらカインはどこかいい料理屋はないかと探した。夕食をマリアにおごってやって自分に惚れる機会を費消してでも惜しみなく作ろうと思ったからである。しかし女を連れてけるような洒落た感じの店がはずれなのでなかった。
 そうして歩いているとカインの右横を一人の小さい小童が走って通り過ぎて行く途中小さな何かを落としていった。それをマリアも気づいて走ってそれを手に取ると「ぼく、落としてったわよ」と呼ばわった。小童は振り返るとこちらに向かって走ってきて、無造作に何も言わずにそれを受け取りまた走っていこうとした、するとまた何かがひとつ小童の半ズボンのすそのあたりから落ちた。見るとテラコッタ風の小さなブロックだった。マリアはまたそれをひらい小児を呼び止めて戻った子に渡しながら「きっとズボンのポッケに穴が開いてるんだわ、うちの人に言って縫ってもらいなさい」と優しく言うと男児はうつむいて「うん」とめんどくさそうに言ってまた走ってった。カインはその一部始終を見てマリアが子供を好きであるということと、その母性の深さを見たような気がした。カインは率直に感じたことを言った。
「あんな小さいガキに何言ったって無駄さ、うちにかえったらころっと忘れてるよ」
 マリアはそれにクスッと笑って「でも目の辺りが少しあなたに似ていたわね、奥深い目をしていたわ」と言ったのでカインはすかさず笑いながら「ははは、そんな子供に奥深さなんてあるものかい?」と応えた。
「あるわよ、あなたの子供のころの写真の目とそっくりだったわ」
 そういわれてカインは苦笑してみせた。あの目が奥深いだって?俺には人生をあきらめて冷め切ったニヒリスティックな目にしか見えなかったぜ、と思ったがそれは言わなかった。
 ずいぶんと歩いていつもアイロニーに浸してやっていた高級そうな店が近づいてきた。カインは紙入れの中が心配でもあったが、街のはずれにそこまで高いメニューをおくとも考えられないし、こんなこともあろうかと余裕の分を入れてきたし、なんとか足りるだろうと思い足を止めてマリアに声をかけた。
「どうかな、よかったらこの店で僕が夕食をご馳走するよ」
 するとマリアは遠慮して「ありがたいのだけれど、ここはとても高そうよ、ほかのお店のほうがいいわ」と言った。
「はは、そんなことを御婦人が気にすることないさ、ほかに良い店もなかったし、きっとここは美味しいよ、さあ入ろう」と半ば強引にマリアの手をとり店の中へと入った。
 そして案内された席について給仕の持ってきたメニューを開いてカインは愕然とした。想像していたよりも五割は高い値段であったからである。しかしそれを顔には出さなかったので表向きは、どれにしようかとメニューをあれこれ品定めしている中流階級上級の余裕のある男に見えていることだろう。カインはこれはまずいかもしれないと思った。足りないことになったら大恥者になる、しかしなんとか足りるかもしれない、今日は結構持ってきたはずだ、でも具体的にいくら持ってきたか憶えてない、しかたねえ、ちょっと便所行って調べてくるか、とカインはマリアに「ちょっと憚ってくるからメニュー選んで待ってて」というと便所に向かった。変に広い大理石張りの便所でカインはさっそく便器に座って紙入れの中身を数えた。そして暗記していた先ほどのメニューの価格を暗算しだした。俺とマリアでまああれとかあれを食って飲んでだいたいこのくらいだろう。お、なんとか足りそうでもある、でもマリアがびっくりするぐらいの大食い大飲み女であった場合、まずいことにはなる、もしそうならほかの店に移ろうとか何とか言ってマリアを強引に店から出せばいいだろう。よし、なんとかなる、俺はこう見えて楽天家なのだ。そう安心してカインは用を足すと便所を出た。
 とてもすっきりした表情で席へ戻るとマリアはメニューをたたんでいて、カインにこう言った。
「すこし高級すぎてわたしにはやっぱり合いそうにないわ、もっと気軽な安い店にしましょう」
 カインは「そう?なんかうまそうなのが並んでたけどな」と言いながらメニューを見て「この仔牛のシュヌィッチェル、シュヌィッゼル、シュニッツェルか、言いにくいけど名前は、ハハ、この仔牛のシュニッツェレのトリュ、フ、ソース仕立てとかさ、あとシラビラメの、シダビラベ、舌平目のデミグラスジンジャーソース風ソテーとかさ、うまそうじゃない?」と言った。
「ごめんなさい、実はわたし、菜食なの」
「え?そうなの?でもこないだ、鶏肉食べてなかったっけ」
「御呼ばれしたときだけは食べるようにしてるのよ」
「そうなのかあ、あ?でもここは菜食料理もあるようだよ、このファラエル、ファラフェルか、ビヂテリアン向けだからこれ美味しそうだよ」
「でも変に高すぎるわ」
「いいからいいから、メニュー豊富だし、店のお薦めを聞いてあげるよ、あーあとお酒飲めるかい?僕は大好きなんだけど」
「いえ、わたしはいいわ」
「飲まないのかい、残念だな、まあいいや、あ、ちょっと」とカインは給仕を呼んでベジタリアンなんだけど、と自分もそうであるかのように鼻高々と言い、お薦めの料理を教えてくれとたずねた。そしてシェフのお薦めの菜食メニュー四品を注文した。カインは料理が運ばれるまで、女をじっと無言で熱い視線で見つめ続ける作戦に出た。これでおおかたの女が落ちるといえば言いすぎだが半数は仕留めてきた。雄弁は銀で沈黙は金、という言葉があるとおり、無言はしゃべりよりも勝る真実がここにあるのだろうとカインは思って、じゃあ俺は何でいつもあんなに頑張って女を落とすためにしゃべくり倒してきたのか、と思った。マリアはきっと俺の熱烈な視線の発する波動の魅惑に耐えきれなくなってまたその頬をクコの実のように赤く熟れさせて眼をそらすに違いあるめえ。
 そうやって甘い微笑をたたえマリアを見詰めていると、マリアは澄ました顔で「ちょっとお手洗いにいってきます」と言ってカインがそのままの甘い表情で「ああいっといで」と言うと席を立ってすたすたすたと歩いていってしまった。マリアが離れた途端カインの顔はいやらしい笑みに変わった。すかした女だな、やっぱり酒を飲んでやろうとカインは思った。
 それにしてもちょっと遅いな、マリアは化粧をしていないから化粧直しでもないし、もしや糞便をしてるんだろうかと思っているとマリアが戻ってきた。それと同時に料理もやってきてカインはぶどう酒を注文した。
 マリアと向かい合って食事をする。ナイフとフォークの使い方が自分以上に不器用で粗雑であった。育ちのいい娘かと思い込んでいたがちげえのかなとカインは思ったが、特にそれを気にしなかった。
 ぶどう酒が旨かったのでカインは追加注文をした、そしてぶどう酒を少しだけ飲まないかとマリアにすすめてみた。マリアは飲みたそうな顔をしているのに「いえ、やめておくわ」と言って断った。カインはそんなマリアに少しぢりぢりして言った。
「なんだい、いいじゃないか、君だって知ってるだろう?あのイエスだってどうも話じゃあ大酒飲みの大食漢だったらしいじゃあないか、君が少し飲んだからって神に背くことにはならないさ」
「イエスはだって、どんなに飲んでも酔うことをなさらなかったからいいのよ」
「それじゃあ君も酔わないくらいならいいだろう、一口二口でもいいから飲んでみなよ、とても美味しいぶどう酒だ」
「そうね・・・・・、では少しだけいただくわ」
 そう言ってマリアは赤いぶどう酒を飲んだ。
「どうだい、おいしいだろう?」
「ええ、おいしいわね」
「君の分も頼んであげるよ」
「いえ、もう飲めないわ」
 ちぇっとカインはにやにやしながら思った。できるだけマリアと長い時間を過ごして俺の魅力を存分に伝えたいのに、酔ってくれたらこのあと部屋に入れてもらえる確立が高まりそうだったが、まあしょうがねえ、無理に飲ませることはできねえからな。
 お酒が入るとこの人は円満になるようだ、わたしは楽しい。とマリアは思ったが、楽しいことが悲しいことだということをそういえばさっき言わなかったことを思いだした。マリアは数年こういった楽しいことがなかったため、それを忘れてしまっていたのである。
 食事を終えて勘定を済ますとカインの所持金はコイン三枚になった。カインは代金が足りたことに胸を撫で下ろした。
 店を出て夜の町をマリアとまた並んで歩く。カインは少し酔って気分が良かった。普段ならこのあと女の肉体を味わい尽くせるところだったが、今夜はそうはいかない、そのことにカインは頭の中で身をくねくねとくねらすような身悶えをしたが、しかし今夜はとても気分が良かった。それは未来に手にするであろう厖大な快楽が耀かしく目の前に置かれている状況であること、そこにまだ行き着かないでもその未来の泉から洩れだした快楽の水にいま自分の足が浸っているような気持ちがよい感覚にあったからであった。マリアの微妙なしぐさや表情から勝利ある未来を決め込む自恃を以て疑いを持つことがなかったのである。酒とマリアの組み合わせは俺を神にする、俺は神を超える武器を手にする、それが今は酒とマリアだが、これからは酒がなくても俺は神を倒せることだろう。今はまだ神を殪す行路に立ったばかりで俺の力はまだ及んでいないだろうが、俺はやってみせるぜ、そうして勝利を収めたら俺はどんなにこれからの人生気味が良いだろう。虚構の神に苛立つことだってもうしなくていいんだ。正しいことは自分で決めてやる、誰にも指図されない、俺に刃向うものに俺は為て遣られない。
 マリアの隣でカインは得意満面の笑みを浮かべ歩きながら、右を歩くマリアの横顔をちらちらと見て、この女をものにする日も近いと目の前の仔羊を眺め涎を垂らす狼のように喜びの飢えを感じた。
 家に近づいてきたとき、マリアは立ち止まり「もうすぐそこだからここでいいわ」と言った。カインは身振り手振りをしながら「いやーだめだ、僕が帰った瞬間そこの路地からグオーと叫びながら変な原始人のような男が棍棒を持って飛びかかってきたり、もしくは変な野犬がガルルーと言いながら涎を垂らして咬みついてくる可能性だって否めないんだ、ちゃんと家の前まで送るよ、僕は心配性なんだ」と返した。マリアは笑いながら「まるで童話のようね」と言った。
「君はなんだか美しい妖精のようだからね」
 そうカインが言うとマリアはカインの体貌を眺めて言った。
「わたしが妖精なら、あなたは妖精を守護する牧神のようね」
 カインはそういわれて、とっさにマリアは俺のことを好色な牧神パンと掛け合わし自分の本心を見破ったのかと一驚を喫した。しかしマリアが発する前に自分の全身をくまなく眺めていたのを思い出し、ただ見た目でちょっと毛深いから、とかそういった雰囲気的なあれで牧神だといったのだろうかとも思った。いったい何をひやひやしているんだろう、もし見破られても構うもんか、その上でマリアを自分のものにできたなら、誑し込むよりずっと正当な勝利として神に負けを認めさせられるってぇわけだ、だからといって自分から本性を曝けだすことはしねえがな・・・・・・。そう思いながらカインは適当な返事をした。
「そうそう、今度ぜひ素足になって蹄をカツカツいわせて君と踊ってみたいよ」
 するとマリアは笑うこともせずきょとんとした顔で黙ってカインの目を黒水晶のような目でじっと見るのだった。カインは少しいたたまれなくなって、酔いからおおらかさが残存していたので暗夜の石畳の路上で靴を蹄に見立て、トントン音を鳴らして「こんな風にね」と言いながら陽気にひとりで踊った。
 踊るカインを眺めながらマリアは、いったいわたしはどうしたんだろう、と思った。マリアは自分の感情があまりに複雑であることに戸惑っていたのであった。マリアを同時に襲っていたものは幸福と悲哀と憂苦といくばくかの昂奮であった。
 カインは躍ってみせてもまったく笑ったりなどしてくれないマリアに寂しくなり無言で踊りを静かに終えると「今度の集会には来るのかい」と聞いた。
「そうね、まだわからないわ」そう応えるマリアにカインはすばやく考案して返した。
「じゃあさ、僕の住所を教えるから、君は僕に手紙をおくれよ、会える日時を書いてくれたらいいんだ」
 マリアは少しく考えて返事をした。
「ええ、わかったわ、会えるときを手紙に書いて送ればいいのね」
「ああ、そうしよう、君は忙しいみたいだからね」
「では家に帰って紙とペンを持ってくるわね」と言ってマリアは歩き出してカインも並んで歩を進めた。
 家の前について閉まっている暗いパン屋の中へ一緒に入ると帳場台のランプに明りをとぼしマリアは「ちょっと待っていて」と言って走って右の奥にあるドアの向こうの階段を上っていった。カインは帳場台の椅子に腰を下ろしてパンの置かれていない陳列棚をぼんやり見やった。籠や盆に布も何も掛かっていないが、埃が掛かるんじゃないかと思ったが、そんなこと考えてなんになるってんだ、他人の商売の心配をするとはそもそも俺は楽しい酒を飲むと別人になる、とカインは思った。
 程なくしてマリアが紙とペンを持って降りてきた。カインはそこで初めて、紙とペンはここにもあるじゃないか、何故それを借りずにわざわざ部屋へ行って持ってきたのかと思った。マリアはそんなことは意とせずにカインに筆と紙を渡した。カインはそこに自分の住所と名前を書いてマリアに手渡した。少しこの遣り方は自分がマリアに気があると思わせてしまうからまずかったかとも思ったが、教会で会えないんじゃ、それ以外でマリアと会うには自分がマリアの家に通うしかない、そのほうが気を持たれてるということがばれてしまって、それをわかってからマリアが俺を好きになるのは気にいらない、弱みにつけこまれるのはご免だ、逆の立場に立ってどうする。マリアは俺の餌ばなんだ。この場合仕方ねえ、手紙という手段しか思い浮かばねん。マリアの家の周りを日夜うろちょろして、偶然会ったと見せかけ、ヤア、奇遇だね、というのも如何わしく思われそうだし、それにマリアに会えるまでずっと近辺をうろついているのも草臥れてしまうだろう。それにしてもこの女は何も言わず俺にすぐに帰ってもらいたそうにしているなあと思っているとマリアが「それじゃ気をつけて帰ってね」と言ったので、カインは焦った。まだ帰りたくない、そう思ったカインは突然「あれ、なんか腹が痛い、ううん、ちょっとかなり腹が痛いなぁ」と腹を押さえながら蹲って熱演した。するとマリアが声をかける前に、階上に通じた戸が開いたと思ったらパン屋の老婆が顔をだし「あら、どうなさったの」と驚いて駆け寄ってきた。カインはうーんと呻りながら、なんでこの間で入ってくるんだ!と心の中で嘆いた。そして面倒なことは避けたいと思い、もっそり立ち上がると「あーなんだか一瞬で治ったみたいだ、ははは」とさっぱりした顔で笑って言った。マリアと老婆が安堵の表情を見せるなか即時「んじゃ僕はこれで失礼するね、今日はとても楽しかったよ、おやすみ、良い週末を」と手を上げて挨拶をした。マリアは「楽しい一時をありがとう、あなたに神の御加護があらんことを」と囁いて店を出るカインを見送った。
 カインは帰る道すがらぶつぶつと独り言をぼやいた。ったく、なんという絶妙な悪い間で入ってきてくれたものだよ、あの婆は。それにしても今日の収穫は如何ほどのもんだろうか、俺は結構良い成果を挙げられたと思っている、マリアはもう俺に惚れたと見た。さあここからが勝負だぜ、今はまだ純潔な妖精の恋か知らないが、俺はそんなんじゃあ満足しねえとわかったら、神の意志に楯づいて、俺になにもかもをゆだねる、とこうなるにちげえねえ。気味がいいなあ、あの女は本気で神を愛してるだろうからこそ、神から女を攫う俺の栄光は巨大である。
 ねぐらへ帰ったカインは鴉が行水をするように湯を浴びて精神が緩んたところ一気にいびきをかいて眠りに就いた。
 
 あくる朝、カインの目醒めは初夏の碧い若葉の運ぶ風が頭の中にほわほわした綿毛やら蝶やらを飛ばしているような半睡半醒にあった。カインはマリアの手紙を待ち望んだ。昨日の今日だが、今日届くことを望んだ。もしかしたら郵便脚夫に託すると遅くなるからといって少しでも早く手渡したくて手紙を手に持ってやってくるやも知れない。
 カインはその日終日外へは出掛けず家の中で待った。手紙もマリアも来なかった。
 あくる日もそのまたあくる日も家の中で待ってみたがマリアも手紙も何も来なかった。その夜カインは寝台に座って机の上のろうそくの火を見つめながら思った。待ちきれねえ、マリアを誑かせていないと思う時間が苦しい、俺はもっとマリアが俺を崇拝していると信じる強い力の信仰でなけりゃ喜べない。俺には信仰が必要だ、自分の存在が神に立ち優ると信じて疑わないという信仰が必要なんだ、俺は俺を狂信することでしかこの気持ち悪い世界から抜け出せねえ、自分を救うためにこれをやるんだ、マリアがどうなっても俺には関係がないよ、気持ち悪いんだよ、何故迷信から俺を敬遠するのか。俺は堕落すべくして堕落した。俺は父親がこの名前をつけたことを憎んではいない、人を名前や堕落で在るか無いかとかそういったことで軽薄に判じる人間の心が浅ましく憎たらしいだけだ。なんでもかんでも聖書の言うとおりにしたら善いってもんじゃあねえ。だって善を施してばかりいる人でも自分が幸福になるためにやってたとしたらそんなものは偽善でしかないからね。何故、善だ然だといっといて俺を悪者にするのか。俺が不善だとゆうなら、俺は不善になるべくしてなった。快楽主義、悪魔主義、刹那主義、虚無主義、利己主義、何とでも言えばいいが俺は何ひとつにも浸かりたくはない。いったい俺の何がわかるってんだ、唯一思うのは、俺は俺を自由に解放したい。人を迷わせ惑わしてでも、俺は俺を解放するしかないんだ。
 カインは雀の砂浴びのような入浴を済ますと、ぽかぽかした身体のまま床に入った。そして真暗闇のなか思った。明日は手紙が来ようとマリアが来ようと知らないぜ、俺は外に出掛けてやる。酒を浴びて賭け事をジャンジャンしてやろう。でも出掛ける前にマリアがやってきたら一緒に外へ出掛けよう。そう思って、あ、明日は集会の日だった、マリア来るだろうか、来たらいいな、と思っていると知らず知らず眠りへと落ちていった。

 翌朝、父親に起こされてカインは目を覚ました。また一緒に家族そろって朝食をとる。目玉焼きの黄身が硬い!またはやらかすぎる!というようなことでしょっちゅう母親に激怒していたカインだったが、今朝の黄身は激しく硬かった。いつもだったら「どうしたらこんな糞硬くなるまで焼きつづけることを自分に対して許せるんだ!?」と憤激していたカインも今日は怒る気になれなかった。カインの胸中はマリアが今日くるか、こないのか、その期待と焦燥で膨れピンピンしてはブンブンしていたのである。
 母親は黄身が硬いことにもカインが怒らないことにも気づかなかったが、こうして一緒に食事をすることが嬉しくてただそれだけで心が華やかになるのだった。父親は黄身が硬いことにもカインが怒り出さないことにも気づいていたが、こうやって一緒に食卓を囲めることだけで神に感謝してそっと祈りを捧げるのであった。カインは黙々と硬いパンを食いちぎるようにして食べ、食べ終わってからスープに浸して食べたらよかったと思いスープを飲みほすと黙って席を立ち皿を片付け洗い物をし始めた。そして意識せずに奏でていた口笛に気づき、あれ、俺は御機嫌だな、と思った。
 教会に着いてマリアを探した。マリアはいなかった。しかし途中からやって来るかもしれない、そう思いカインは集会が終わるまでいようと椅子におとなしく座って司祭が話す間マリアのことを考え、讃美歌をでたらめに歌いながらマリアの温かくやわらかい石膏の像のようにすべらかな身体に触れる感触を妄想した。カインはマリアの髪を上げたそのうぶげの生えるうなじと背骨につうじる首筋とにくちづけするところを妄想している自分に気づき驚いた。自分がマリアのうなじの辺りが好きなのは知っていたが、これまで女の身体の部分に欲情して来たのはたいてい胸から下の腿のあたりまでであり、それ以外の部分に興奮をそそられたことはなかったからである。ましてや性器や乳房を嘗め回すことよりも、首筋にそっと口づけすることに情欲を抱いている自分が信じられなかった。
 色取り取りのステンドグラスなどではない小さく簡素な横の窓から差し込む光がマリアの後姿を照らしていないことをカインは残念に思った。と同時に動揺した。マリアを自分のものにする事がどういう事なのかカインにはわかっていた。マリアが神ではなく自分に向くことと、そのあとにマリアの肉体を翻弄すること、これ以外に自分が必要としているものがあるのは矛盾だとカインはおのれにむかっ腹を立てた。自分の喜びがそんなところにあるはずがない、世の真実が美であると信仰する美にとり憑かれた芸術家であるめえに。
 集会が終わるとカインはマリアの家におもむきたくなるのをこらえ、酒場へ向かった。
 昼間なのに店内は暗く、また外は気持ちのよい風が吹いていたがここは嫌な湿気を感じる、煙草のけぶが狭い部屋の隅々までに充満して行き場のない魂のようにさまよっている。隅っこでは顔見知りの男たちがあつまって酒を飲んでいた。そこにカインも加わり酒を飲んだ。六人の男のうち一人の歯がガッタガタのでかいドワーフのような男がカインに声をかけた。
「よお、カインじゃねえか、どこの御曹子かと思ったよ、最近顔をとんと見なかったがどうしてたんだ」
 カインは悠々と答えた。
「最近ちょっと忙しいんだ、ここんとこ教会へ通ってんだよ」
 すると男たちはどっと嗤うと口々にからかう言葉を投げた。
「そりゃいったいどういった風の吹き回しだ、人でも殺しちまったのか、わははははっ」
「ぎゃはははっ、懺悔することがありすぎて忙しいならわかるぜ」
「神様!もう女のアソコを乱暴に扱うのはやめます!もう少し丁寧に扱います!っつってな、だはははっ」
 カインは男たちのからかいに一緒になって笑った。そして酒を一気に飲み干すと立ち上がり意気込んで言った。
「俺は今、今世紀最大の美女を落とすことに賭けている!ものすごい難関の女だ、その女をものにすることに自分の全財産を賭けた!」
 男たちはみな椅子から転げ落ちそうなほど馬鹿笑いをして、坊主頭で左目の下に深い傷のある男が言った。
「その女の話を詳しく聞きたいもんだな」
 カインは口にこぶしを当てて大きく咳払いすると座って話しだした。
「その女はまず・・・・・・等身大のニンフのように透明感がすごくて、風がその女の皮膚に触れるとフルートの音を奏でたかと思うほど神秘が彼女を包み込んでいる、女は神秘にこよなく愛されているようだ、その身体に触れることは神でしか許されない、ほかの者が触れるとその感触の素晴らしさゆえに盲目となり発狂してしまうだろう」
 男たちは失笑して、欠けた歯を見せてドワーフのような男が言った。
「おめえはすでに狂っちまってるからだいじょぶだろ、ひひひっ」
 カインは笑って煙草に火をつけて吹かすとまた話しだした。
「でも俺はその女に触れても発狂しない方法を見つけた。それは、俺より先に彼女を盲目にさせるんだ、もちろん精神の上で。俺の鋭い勘では彼女は処女だ。彼女の処女はエデンの園なんだ。神はそこになんぴとたりとも忍びいることを許しはしないだろう。神と女が愛し合っている限り。しかし俺はエデンの園に入り込む方法を見つけた。そう、俺はそのもっと東のほうから彼女を呼ぶんだ。今にも死にそうな悲痛の声で。俺はエデンの園に入りたいとね。彼女に俺の声は聞こえるだろう。女は俺の為にエデンの園を離れ俺の元に来る。俺を救う為に。そしてエデンの園に俺を迎え入れるだろう。彼女はそういう女だと俺は知っているんだ。俺は彼女を信じている。神よりも」
 男たちは馬鹿にして言った。
「教会よりも病院に行ったほうがよくねえか?わはは」
「神を信じてないのに何で教会に行ってんだ?」
 カインは薄ら笑いを浮かべて言った。
「神を信じていないことを懺悔しに行ってるんだ」
 男たちはまた高笑いして、カインに飲ませる酒を注文した。

 翌日、宿酔で午過ぎに起きたカインは机の上に一通の封書があることに気づいた。裏を見ると送り主はマリアからだった。親が郵便受けにあるのに気づき部屋まで持ってきたのだろう。カインはペーパーナイフを使わずに封の間に指を突っ込んで抉じ開け、ぼろぼろになった封筒を床に落として突っ立ったまま手紙を読んだ。
 手紙には、明日の午後三時にレシヌマエルの池のほとりにある一本の大きないちじくの木の下で待つ。とだけあった。
 カインはゆっくり椅子に腰掛けると、ニタニタして手紙を眺めながら朝食をとった。明日マリアに会えるのだと思うと精神が昂揚して最前まであった頭痛がどこかへ飛んでなくなっていた。エデンの園が俺に向かってやってくる!俺のエデン、俺の楽園は近いぞ!カインはスープを飲み終えると残りのパンを持って外に飛び出した。そして村一番の高台であるメシューイェの丘に向かった。
 カインは狭い木の間を通り抜けるときに左の袖をいばらの棘に引っ掛けて破いた、その枝を根元からへし折ると剣のように振りかざし、走って丘の天辺まで来た。
 絶壁すれすれに立つと下に広がる村を望み見下ろし心中で叫んだ。
 俺が神に勝つということは、この世界が俺のものになるのと同じことだ!俺はもう誰にも脅かされることもない!カインは自由を振りかざすように天高くいばらの枝を振り上げると森や湖や家々を見渡し、思い出して衣服の中に入れていた腹のところにあるパンを取りだして力強くかじった。若葉のにおいをした風が汗かいた体に吹いて快いなか、カインは地面にいばらの枝で大きく「勝利」と書いた。そしてまた宿酔の疲れがやってきたので顔を青くして家に帰った。

 翌日、カインは朝早くに起きて入浴をすまし一応しゃんとした格好に着替え昼食をとると、慌てて食べたのでソースをシャツにこぼして急いで洗い、まだぬれたままのシャツを着てすぐに家を出た。まだ約束の時間まで二時間近く早かった。カインはいちじくの木陰に座って本を読んだり、または編み物などをしているマリアの姿が目に浮かび、もう来てるかもしれないと思い約束の場所へと行ってみた。
 しかしマリアはまだそこにいなかった。いちじくの木がアルファベットのCの形の池のそのくぼんだところのそばでぽつんとひとりで立って手をひらいた形のような大きな葉の影をゆらゆらさせているだけだった。いくらなんでも二時間前は早すぎるかと思い、どこか店で時間をつぶそうと町へ向かって歩いた。時間がまだあるし、マリアが家を出て向かうときに会えるかもしれないと思い、前に入ったマリアの 家の近くのカフェに行くことにした。
 カフェに入ってコーヒーを頼み雑誌や新聞を開いて時間をつぶした。
 マリアが歩道を歩いているのがすぐわかるように往来に面して一番見えやすい席に座り、窓の向こうをきょろきょろ見ながら一時間ほどが過ぎた。もしかしてこの道を通らずに別の道を通ってもう待ってるかもしれねえな、そう思ったカインはカフェを出てまた戻った。
 いちじくの木の下には誰も居なかった。カインは草の上に腰を下ろし木の陰にもたれかかって足を伸ばすと、手を組んで目をつぶった。チューィチューィチューィと変な鳥が鳴いている。カインは想像した。こうして俺が待っていると、あとすこしでマリアは来る、遠くから俺の姿を見つけて走ってくるだろう、でも俺は寝た振りをして目を開けない、するとマリアは抑えきれない衝動に身を焦がし、俺のまぶたに口づけする、俺とマリアのまわりすべて光と木漏れ日と影で小さくそして粗い玉模様となっていて、まるで印象派の絵画のよう、っておいおいおいおい、違うだろう、俺はまたいったいなに恥ずかしい俗悪な恋愛小説みたいな妄想をしているんだ?俺はそんなことを待ってるんじゃねえ、俺が待ってるのは、もっともっと激しい愛の調べ、愛の調べ・・・・・・っておいおい、気障な音楽家じゃねえぞ、俺は、今日の俺は狂想的だな、狂想なる協奏、って、はあー、だめだだめだ、気がふれちまってらァ、マリアが来るまで寝て待つか。本当は寝ているが、寝たふりをしているというように見せかけよう。
 目を醒ますと腰から下が茶色い毛並みの毛むくじゃらで、いったいいつズボンを脱いだのか思い出せない、陽根が毛に隠れていてほっとする、靴を脱いで蹄があることを喜ぶ、マリアも喜ぶだろう、俺は実は半獣神フォーヌだったんだ、自分でも忘れてた、魔女に魔法をかけられていたんだ、その年初めて結ぶいちじくの実をやったばっかりに、それにしてもマリアは遅いな、時計を見るとまだ三時前だ、もうすぐやってくるさ、俺を愛さないはずはないんだ、ほらやってきた、ああ何故きみはいちじくの葉の衣を着ている、枝が蛇に変わってしまうじゃないか、ほらご覧よ、すべての枝が蛇になり、葉は蛇の手となり、みなうれしそうに拍手している、マリア、君を幸福にできて僕は地獄にいるよ。
 バサバサバサッと頭上で音がしてカインは目を覚ました。カインは懐中時計をポケットから出して見た。もう三時半になっていた。自分の知る限りここらで大きないちじくの木といったらここだけにしかないんだが、なにか別の木と間違えてるんだろうかと思ったカインは池の周りを探し歩いた。そしてまたいちじくの木のところまで戻ってきた。池の水で顔を洗い考えた。やってこないはずはない、何か避けられない急な用事ができたにしても、マリアが今日ここへやってこないはずはない、これは俺の賭けだ、どんなに待ってでもこれが俺の勝ち軍であることは決まっている、マリアが来るまで帰るわけにはいかねえ、勝敗を神とマリアに見せつけてやる。 
 カインは意地でもマリアがやってくるまで待つことを決め、水面に映る自分の顔が波の干渉で揺らぐのを見つめた。ぽつぽつと雨が降ってきた。カインは波紋が散在する水面を眺めながら「ガッデン」と呟いた。
 いちじくの木の下に雨宿りしながら大降りになったらいやだなあと思っていたら、少し経つと石灰のような空の合間から太陽光が射し込んできた。ははは、神の余裕か、大雨になってもおりゃ帰りゃしねえぜ、いいんだぜ、降らしたかったら降らしてもなあ、マリアは土砂降りでもくるさ、そう思って空をうかがっていたが、雨はすっかり上がり厭味な青空が広がってきて、きつく眩しい西日がカインを照らした。目をつぶってても目の奥までさしてくる強烈な西日にカインは体を伸ばし地面に突っ伏してすねた子供のようにじっと地の草をながめた。小雨よりも逃げられない西日のほうがつらかったりしてな。カインはシニカルな笑みを浮かべると、そのままの姿勢でまた寝ついた。
 次に目を醒ますと五時過ぎであった。うつ伏せで寝ていたので、胸が圧迫されて苦しく、ひどい疲労を感じた。カインは起きて座ると、先ほどよりも近づいて照りつけてくる太陽をにらみつけて痛憤をぶつけた。いったいあの女は何時まで待たせやがんだ!いったいぜんたいどういうわけだ、俺を侮蔑しているのか、まさかな、そんな女のはずはねえ。カインは池に顔を洗いに立ち上がりマリアの家の方角を眺めた。池に頭をつけてばしゃばしゃと洗った、近くに浮かんでいた鴨の親子が逃げていった。親と子あわせて五羽の離れていく鴨を見てカインは思った。誰も獲って食おうなんざ思っちゃいねえのに、ったく誰もかも敵視しすぎだ、カモが。
 睡蓮がいくつも白いつぼみを水面上に出していて、まるで首を伸ばし何かを待っているように見えた。その光景がカインを苛立たせた。池の向こうの大きな柳の木は西日を受け地面まで長い葉をうれしそうに垂れさせているし、日が水面に反射して余計眩しいし、最悪な光景だ。カインは日をよけるために場所を移動した。左に向う岸へ渡る橋があり、その橋の影のところにまた座った。池に浸かった橋脚の影のなか蓮の葉の上に一匹ちょこんと迷彩柄の蛙がのっかって横を向いていた。カインはほふくの体勢をとり草の隙間からジッと蛙の顔を見てみた。見れば見るほど面白い顔であった、カインは思わず声を出して笑った。はははははッ。それでも蛙はジッとして動かず、水面に対し斜め四十五度の角度で顎をあげて何か考えているように見えた。よくこんなジッとしてられるなあとカインは思った。もしかして目を開けて寝てるのだろうかと思った。カインは捕まえてやろうと手を伸ばすと、蛙は顔色を変えずに池の中にぽちゃんと飛び込んでツイツイツイーと水面を泳いでいってしまった。
 カインは立ち上がってゆるく弧を描いた橋の真ん中辺りまで歩くとひだりの欄干に腕を凭し真下のきらめく深緑のみなもを眺めた。
 マリアは来る、絶対来るんだ、約束をすっぽかして俺をほったらかしにするような女じゃないさ、そんな勝手なこと、神が許さないさ、ってことは、ここに来るのは俺を愛してるからじゃなくて神を愛してるからか?俺はマリアに神以上に愛されなくっちゃ前に進めねえ。いつも同じ道を行ったり来たりしているようだ。神を畏れているのは物心もつかないようなガキのころから聖書を学ばされてきたからだ、脳に沁み付いて取れない染みと同じさ、ちょっとやそっとの洗い粉じゃ落ちねえ、脳を洗うことができねえなら、擦っても何しても落ちないそれよりもっと濃いインキをぶちまけるしかねえんだ、それには犠牲が必要だ、神の愛する仔羊、俺の生きる粮。必要なんだよマリア、俺にはお前が。可愛い奴隷、俺を唯一救い出してくれる奴隷のヴェヌス、なぜ来ないんだ、なぜ!くそッ、もう日が暮れてきた!
 カインは憤懣やり方なく欄干を叩いて悔しがった。
 麦酒を飲んで待ちたい、くそ、ここには酒も何にもねえッ、カインは煙草を思い出してズボンのポケットから煙草を取り出し、シャツの胸ポケットからマッチ箱を取り出して唖然となった。今朝にマッチ箱を入れたまま洗っちまったッ、カインはふやけた箱からマッチを引き抜いて二本三本擦ってみた。湿気て火がつかねえ、ちきしょうッ、カインはマッチ箱を池に投げ捨てた。
 とても退屈だ、何時まで待たせるつもりなんだ。カインはじっとしていられずそこらをうろうろしだした。煩わしかった太陽が落ちていってくれることはうれしかったが、暗くなってくることに不安と孤独が押し寄せてくるのを振り払うようにカインは池の周りを走りまわった。
 のどが渇けば噴水の水を飲み、またやることがないのでとにかく走っていた。叢に小便をしてはまた走った。神と競争しているつもりで全速力で走ってみると目眩がしていちじくの木が見える場所の池のほとりに仰向けに寝転がった。
 夕靄かかるサフラン咲き乱れる平原を翔けゆく燃える羊たちの群れ。マリアはこの夕焼けを俺の何千倍も美しいと思えるんだろう、でも俺はなんとも思えない。表面で感動することは簡単だ。涙だって流せそうだ。現に泣きたい気分さ。ああそうだ、そういうことなんだ、そこに見合った感情がないと美しいものなんてどこにもないのさ、誰が見ても美しいと思えるもの、そりゃ嘘だろう、もしそうならそんな同じ感覚を持って人は殺し合いをするのかい、そのほうがよっぽどいやになるね、だって意味がないだろう、同じものを見て美しいと思っても殺し合いをするんだ、自分か他人かどちらかしか生きられない状況になると自分を優先するのさ、同じものを美しいと思った人間たちが。異星人のように暮らすべきだ、他人を優先させる自信がないなら、正しいことも美しいこともひとつにして、俺を縛りつけるのはよしてくれ、もし神が正しいというのなら、俺はすべてを敵に回すということだ。そんなことは、承知の上さ、俺が求めてるのは味方じゃない、自由だ、俺はまだ、喜びをしらない。海から出られない魚、地上から出られない人間、自由はどこだ、自由を知らずに魚は海に閉じ込められ、人はこの星に閉じ込められて死ぬのか、神に逆らうものはゲヘナで燃やされるのか、幾らなんでも恐ろしいぜ、そんな神に俺は絶望する。だってそれじゃ愚かな人間と変わらねえ。残酷だ、神も人間も。
 カインは起き上がると、ここにいたらマリアが気づかないかもしれないからいちじくの木のところに戻ろうと思い立ち上がろうとしたとき、視界に池の縁に生い茂る葦が入った。なんとなしに葉を一枚ちぎってとるとそれをくるくる巻きながらいちじくの木の下まで歩いていった。
 木にもたれて巻いた葉を煙草のように口に当て息を吹きかけると高い音が鳴った。灯りもなく月も出ていなかったが無数の星が黒い天幕一面に広がっていた。星空の下でカインは虫と蛙の賑やかな鳴き声に混じり葦笛を吹き鳴らしながらマリアを待った。
 虫たちと蛙たちとカインの演奏会にもマリアは現れなかった。
 カインは時計を見た。時計の針は午前十二時半をまわっていた。激しい睡魔がふりかかり、カインは大漁を信じて海を渡った町で獲った魚を売り新しい生活を夢見て船出をしたが、網も櫂もなくし漂流したあげく岸辺へ戻ってきた漁師のような気持ちで家路に就いた。

 翌日、昼過ぎに起きたカインは外に出る気にもなれず、一日中家で酒を飲んですごした。ただひたすらに火の消えたろうそくが火だけを待ち設けるようにマリアからの連絡を待っていた。
 明くる日の午後、机の上にまた手紙が置かれているのにカインは気づくと、中身を読んだ。カインは読み終わると手紙を握りつぶし、狂おしくやり場のない思いに駆られた。手紙にはたった三行で、どうしても避けられない大事な用ができてしまい行くことができなかった、深くお詫びする。というようなことだけ書かれていた。
 次にはいつ会うという約束事も何も書かれていなかったのである。
 カインは左の親指の爪をぎりぎり噛みながら思った。一週間待とう、それで駄目だったら、しかたねえ、俺から会いに行く、本気にさせてやる。
 カインはその晩、マリアを心の中でもっと深く犯すために売春宿へおもむき顔もはっきり見えぬ暗く澱んだ部屋で知らない女と交わった。マリアと出会ってから初めての女の肉体との交わりであった。

 三日目の朝、親に起こされても起きられなかったカインは寝過ごしたとわかると急いで身支度して教会へ向かった。
 息せき切りながら教会の戸を開け、マリアの姿を探そうとしたが、その必要がなかった。マリアは一番後ろの左端の席に座っていた。ちょうど右端も空いていたのでカインはそこに座った。マリアはカインに気づくや複雑な笑みを浮かべた。カインが聖書を持っていないことを知ると、マリアは椅子から乗り出して腕を伸ばし聖書をカインに渡そうとした。カインは手を振って必要ないことを示したが、マリアは立ってカインのもとに来ると聖書を手渡した。マリアは隣の婦人と一緒に聖書を読んでいた。
 みなは聖句の書名を聞いただけで、それが聖書のどこあたりにあるかを覚えておりすぐに見つけて開けていたが、カインはそんなものはとうに忘れてしまっているからいちいち目次を見て、書名のページ数を探してから聖句を見つけなければならなかった。司祭が静穏に聖句を読んだ。
「しかし、もし主に仕えることがあなた方の目から見てよくない事とされるなら、父祖たちが川の向こうにて仕えた神々であれ、あなた方が今居る地のアモリ人の神々であれ、あなた方の仕えるべき者を今日選びなさい。わたしとわたしの家とは共に主に仕えます」
 カインは聖句を聞き取ろうとは思っていなかったが、耳のすぐそばで囁かれたかのように聞こえ、それはおかしいだろうと思った。それじゃあまるで子供に悪いこと良いことは自分で選んで行うように諭すのに、いざ何か親に逆らうようなことをしたら怒り散らす親のようじゃないか、それじゃあ子供は何でも自分の好きなようにはできるが、けっきょく親の怒りが怖いために自分の選びたい道ではなく、親の喜ぶ道を行かざるを得ないと言う様なことになってしまうだろう。それは婉曲な威迫であって、子供を自由にしているとはいえない。うちの親もわけは違うが同じようなもんだ、俺は何をしても叱られることもないし、どこに行くにも好きにしろと言ってるつもりだろうが、過保護は一種の脅しであるとわかってないようだ、俺がさっさと自立して親からまったく離れていくより、今の親に頼っている状態に安心しているに違いない、俺がいなくなることが寂しいんだと無言で言われ続けているのと同じことだ、息が詰まるぜ、親としてはそこそこ自立して、かつ自分の傍にいてほしいんだろうが、神としてはそこそこ自立して、かつ自分をしんじてほしいんだろうが、俺は自立をしたいと思っている、それはあらゆる者の世話にはなりたくないからだ、誰かの御陰で生きられているとか、感謝するべきだとか、そんな思考に囲まれて生きるのが鬱陶しくて堪らないからだ、俺はすべての世話にならずに生きていきたい、たった一人でも生きていけるようになりたい、そうさそんな生き方がどこにもないからだ、俺が絶望しているのは、神の愛も親の愛もそうさ、愛しているから、愛で返せというんだろう。神の恩寵で、そして深い親心で生きられてます、こんな地獄の生を与えてくださりありがとうと、感謝すればいいのでしょうか。もしマリアが俺より神を選ぶなら、教会ごと燃やしてやる、恐ろしい愛に触れるのは二度とごめんだ。
 カインは熱心に聖書を見ては司祭の顔を見るマリアの横顔をじっと見つめた。マリアは視線に気づいているだろうに自分のほうへは向かないことに不満を鬱積させたカインは煙草を吸いに教会の外へ出るため立ち上がった。そのときマリアはカインを振り返ったが、カインがマリアと眼を合わす前にまた向き直った。
 教会の裏の壁にもたれて煙草を吸って煙とため息を同時に吐き出してカインは教会に戻るのがいやになり外で待つことにした。
 燃やしてやるとは言ったが、見つかったら牢獄行きだから俺はしない、今以上に縛られるなんてノーサンキューだ。しかし俺はあの女に会ってから待つことばかりしてんな、畜生、この後マリアはどうすんだろう。
 カインはもどかしい思いで待ち焦がれていると表から話し声や物音やらが聞こえてきてどうやら集会が終わった事に気づくと表の見える教会の陰に回った。そこでマリアが出てくるのを待つつもりだったが、マリアの姿が見えたと思ったら辺りをきょろきょろ見回して誰かを探している様子に見えて、きっと俺を探しているのだと思ったカインは勢い込んで出て行こうとするとマリアは急いで帰り道とは違う道を歩いていった。自分の家へ向かう道でもないから俺に謝りに来るわけじゃないのかと気勢を殺がれたカインはマリアがどこへ行くのか気になり跡を着けることにした。しかし四方がほぼ田園農地と原野である道を見つからずに着けるというのは困難で、マリアが振り返ったら忽ち見つかってしまうだろう、振り返ろうとしたらあわてて自分も後ろを向いて立ちしょんべんをしている、またはしゃがみこんで靴ひもを結びなおしている、野草を摘んでいる男などを装うこともできるが、察しの優れていそうなマリアだから俺だと見破られそうだ、それじゃ顔がぼやけて誰かわからねえくらいの距離で着けるということもできるが、道を曲がったらどこに行ったかわからなくなったなど、遠すぎて見失う可能性が高い、こうなったら潔く声をかけて何処に行くのか気さくに尋ねるほうがいいのか、どうしようか、どうしようか。カインが考えあぐねながら歩いているとマリアが立ち止まって後ろを振り向きそうになったので、すっとしゃがんで靴ひもをなおす動作をしてうつむいた。一寸の間そうして顔を上げてみるとマリアはずいぶんと離れて歩いていってしまっていた。カインは早足でマリアを追った。肥沃な野から生暖かい草花の馨の風が吹き込んでくる。隠れるところも日陰になるところもない、仮借のない茨道、呵責のない荒野、おお、風に身をゆだねた綿毛の墜ちる地獄!それまでなんと穏健に風がいざなうか、神とそっくりな悪魔の優しき声、慈愛なる神の沈黙、神はあぶくのようにねごとをはっする、灰燼になったらなんにも生みだしゃしない、愛でた花の種子が風に手向かえないなんてね、噫、なんてよわっちい種だろう。神は絶望して深く眠りこける、罪の蔓延る世を悪神に売り渡して。
 緑色の衣装を着たマリアが遠ざかってゆく一本の木に見える。甘い樹液の匂いに誘われて追いかける蜂のように跡を追っているが、いったいどこまで歩いてゆくんだ?やっぱり声をかけて一緒に歩けばよかったな、いまさら声をかけたんじゃ跡を着けてきたのがばればれじゃないか。
 隣村に入ってもだいぶと歩いて、狭い門をくぐって狭い道を行ったところ背の高い木に囲まれた庭とその中に家や家畜小屋やらが見えてきた。そこの一軒の母屋にマリアが入ってゆくのをカインは見た。
 カインは跡を着けてきたものの、ここが誰の家なのかわからないし、マリアがいつ出てくるかわからないし、俺はどうすればいいんだろうと家畜小屋の陰に隠れて家の中をうかがいつつ困り果てた。家畜小屋には年老いた黒いロバが一頭と白と茶のまだらな牡と牝の山羊と小さい子山羊が一頭つながれていた。
 ンナァー、ンナアーと子山羊が鳴く。うるさいのでカインは腹が減ってるのだろうかと側に生えていた草を摘むとこれを子山羊の前に見せた、子山羊は顎をずらして草を食べた。すると草を美味そうに食む我が子を見て牡山羊がンメェェェェッと鳴いた、カインは牡山羊にも草を与えた。牝山羊は鳴かなかったが、なんとなく物欲しそうな眼をしてあさってのほうを見ていたので、カインは牝山羊にも草を摘んでやった。ロバは体にダニがついているのだろうか、頭を何べんも振っては気だるそうな顔をしていた。
 そんな家畜に気を取られていたカインはふと母屋の窓を見ると、窓掛を引いていない窓辺にマリアが横を向いて立っているのが見えた。なんとなく自分の家みたいにしているように見えて、カインはあっと思い出した。そういやパン屋の婆がマリアが親許に泊まる日があるようなことを言ってたな、ここはもしかしてマリアの生家なんじゃねえか?なんだ、じゃあ今晩もここに泊まるってのか、せっかく帰りには偶然居合わせたようにして話をしたかったんだがな、残念だ、まぁしかたねぇ、マリアの手紙を待つか、ちきしょ、追っちゃあ意味がねえのに追ってしまうのはなんでだ、今までこんなことはなかったのにな、まあいい、今日は帰ろ。
 そう思って踵を巡らそうとしたそのときである。ロバが突如アウロロロオォォォォォッと大声で鳴き喚き自分の右袖を噛んだかと思うと頭をぶんぶんと振り回して暴れだした。カインは驚愕しておののき、思った。なんだこいつは!さっきこいつにだけ草をやらなかったからか?草が欲しいならそのときに鳴くなりなんなり意思表示してくれよ!
 カインは袖の一枚や二枚くれてやるよと自ら袖を引きちぎろうとすると、今度は親山羊が二匹ともンネエエェェェェッと喚き出し、おまえらもかッ、と焦っていると子山羊がンミャアアァァァァッと鳴き出して、カインはビリリッと袖を破いてすみやかにその場を立ち去ろうとしたその時、後ろからカインを呼び止める声がした。
「何をしてるの?!」
 カインは、あーあ、見つかっちまった、と観念して振り返ると、へへへ、と無邪気に笑って見せて応えた。
「いや、ちょっと話したいことがあって、その、考えをまとめてるうちに、ここまで来ちゃってたんだ、んで帰ろうとしたらこいつが俺の袖を食いやがって、変わったロバだね、ははは」と言うとマリアはカインの袖がないのを見て驚いて言った。
「まあどうしたこと!いつもはおとなしいロバなのに、びっくりしたでしょう」
「平気さ、噛みちぎられる前に自分で引きちぎった、ははッ」
 するとマリアは地面に落ちた袖を拾うと「ごめんなさい、私が縫うわ、ここ私の家なの、どうぞ上がって待っててちょうだい」と言い母屋に歩いていった。
 カインは涼しい顔をしてそれに着いていったが内心で歓喜の声を上げた。ひゃっほぅ!ロバも荷車引く以外に人の役に立つことがあるんだな。
 マリアの家は飾り気の一切ないこれ以上はないと思うほどの清貧な室内で、連れてかれた部屋は卓と椅子とランプ、左側に背の低い本棚の上にポットがあるだけの石の壁と天井と床すべて真っ白な部屋であった。その椅子に座って待っていると、マリアは裁縫箱を持ってきて椅子に座り、カインにシャツを脱げと言ったので、カインが脱いでマリアに渡した。マリアはカインの体を見ないようにしてこれを受け取り針と糸を出してちくちくと縫いだした。
 カインは上半身裸でおとなしくしているとマリアが俯いたまま話し出した。
「避けられない用事が何かを書いてなかったわね、ここにはうちの父と、それから従姉が住んでるのよ、父は病気なの、普段は従姉が世話をしてるんだけれども、従姉が看れないときにわたしが呼び出されて看病をしに来てるの、あの日は従姉に聞いて確認したから約束をしたんだけど、急遽呼びに来られて、本当にごめんなさいね、どれくらい待ったの?」
 カインは自分が裸でいるからか、顔を伏せて一度も顔を上げないマリアに応えた。
「それは大変な用事だ、僕のことは気にしなくていいよ、いちおう分厚い本を持ってったから時を忘れて読み終えられた」
 マリアは少しの間待って俯いたまま口を開いた。
「約束ができないの、また同じようなことになってしまうだろうから」
「ああそれなら構わない、それじゃあ僕は時たま君の家を訪ねてみるよ、ここじゃなくてパン屋の屋根裏のほうにね、いいかい?」
 するとマリアは小さく「ええ」と応えたきり黙りこんでしまった。
 西に傾いた日がカインの背に差し込み、マリアをやわらかく照らしていた。
 糸を歯でかみ切り縫い終わったマリアは「縫い目だらけになってしまったけど」と恥らいながらカインにシャツを手渡した。
 カインは「いや、最高の縫い目だ」と言ってそれを満足気に着た。
 向こうの部屋から呼ぶ声が聞こえた。マリアは「呼んでるわ、今晩、夕餉を食べてってちょうだい、少し待ってて」と言葉に詰まりながらはやくちで言って部屋を出て行った。カインはにんまりしながら、やっぱり跡を着けてきたことは正解だったと嬉しがった。
 本棚にあった本をめくりながら待っているとマリアが入ってきて少し強張った表情で言った。
「父が、あなたに会いたいと言うの」
 カインは心の中で面倒なことが起きたと舌鼓を打ったが顔には出さず快く応えた。
「それは畏れいるな、ぜひ挨拶させて欲しい」
 部屋に入ると寝台に寝ている立派な白い羊毛のような髭を生やした老人が厳めしい顔でカインを見た。
 カインが傍に行くと老人は地が唸るかのような低く重々しい声で言った。
「お前が、カインか」
 カインは身魂をざらざらの手で撫で付けられているような心地がしたが、平然と応えた。
「御目に掛かれて光栄です、友人のカインです」
 そう言うと屈んで老人の右手の甲にそっと口をつけた。
 老人はカインの右隣にいるマリアに向かって言った。
「お前の、結婚相手か」
 マリアは一瞬、間を置いて答えた。
「ちがうわ、彼は友人よ、教会で知り合ったの」
 すると老人はカインを見て言った。
「教会で、それなら安心だ」
 老人は突然激しく咳き込んで、マリアが背中をさすると、落ち着いた老人がカインに向かって言った。
「カイン、マリアをよろしく頼む」
 カインはマリアと目をあわして沈着に応えた。
「はい、マリアは僕が護るので安心してください」
 老人は深く頷くとマリアに「晩餐のしたくをしなさい」と言った。

 厨でマリアが料理をしている間カインは食卓の下にいた銀色の毛並みの猫とじゃれあいながら待った。
 マリアは「先に父に食べさせてくる」と言うと盆に載せた料理を部屋に持っていった。
 戻ってきたマリアが食卓に料理皿を並べカインも手伝った。そういえば朝も昼も食っていないので空腹であることを思い出した。
 マリアと向かい合わせで食卓に座り、御祈りをしてから料理を食べた。料理は野菜と穀物と芋と豆だけで質素であったがどれも工夫を凝らしていて素朴な味でカインは気に入った。
 カインは料理を大げさに褒めたりしていたがマリアは笑顔を作るばかりで絶えず気持ちを沈ませているように見えた。カインは気になって聞いてみた。
「ご尊父の病気は重いのかい」
 マリアは小さい声で言った。
「ええ。天に任せるしかないんですって」
 カインはマリアにうすく同情して言った。
「良くなるように祈ってるよ」
 マリアはパンを咀嚼しながら頷くと、急いで飲み込んでから「まだたくさんあるから食べてってちょうだい」と言い、食卓の真ん中にある燭台ちかくに置いてあった燐寸を擦ると蝋燭に火を灯した。
「今夜はここに泊まるのかい?」とカインが聞くとマリアはすぐ答えた。
「ええ、従姉が帰ってこなければ」
 カインは何か心に引っかかったが、事情を深く聴くのはやめにした。
 二人が食事を終えるとカインは皿を片付けようと立ち上がったマリアに言った。
「片付けは僕に任せてくれ、君は少し疲れているようだから休んでるといい」
 マリアは首を横に振り「平気よ」と言ったが、カインは「君が倒れでもしたら大変だろう、それと僕は皿洗いがとても好きなんだ、僕にさせてくれ」とマリアの肩を持って半ば強引に誘導させ寝椅子に坐らせると片づけをしだした。
 帰り際、マリアは戸の前でカインの右手の甲に口づけをして言った。
「深く感謝します」
 カインは不意の出来事に心臓をどくどくさせたが、きどって「良い夢を」と告げ、ひどく潤う目で見つめるマリアの頭を撫でようとした手を引っ込めると外へ出た。
 外はすでに真暗で、マリアに遣されたカンテラを手に提げてカインは月も星も出ていない闇夜の道を歩いて帰った。

 それから後、カインは日毎夜毎マリアの家に通いつめた。
 マリアはいつの日も留守だった。
 四日が過ぎ、カインは日毎夜毎マリアへの熱烈な欲情で興奮の坩堝と化し、さらに自分は負けるのかという自信喪失への憂虞に煩悶した。
 五日が過ぎ、酒場で酒を飲んでいるときも、賭け事をやっているときも常に魂を吸い取られたかのようにぼんやりとして、しだいにカインはマリアが自分がクリスチャンでもなく、忌まわしい名前を持ち、唆す蛇であるからと避けるようになったのではないかと考えた。そうでなければ、約束はできないにしても手紙の一通や二通送ってくるはずだと思ったのである。
 カインはマリアが自分をどう思っているのか気が気でなく、酔いの回った頭でもういっぺんマリアの家に行ってみることに決めた。時はすでに深夜であったが酩酊したカインにそれを意識することがなかった。
 マリアの家の前まで来たカインは屋根裏部屋とパン屋の明りが点っているのを見た。マリアがいる!そう心で歓呼の声を上げ、店の中に入った。
 しかし店の中には誰もいてなかった。陳列棚の上のランプだけが点いており、カインは帳場台の下に誰かいないか確認しようとした。するとそのとき階段につながるドアのほうからマリアの声と、若い男の声がして、二人は降りてくるようだった。カインはとっさに帳場台の下に隠れた。
 ドアを開けて店に入ってきたマリアと若い男が話すのをカインは耳をそばだてて聞いた。
「遅くなってしまったわね」
「大丈夫だよ、やっぱりこれは、借りるだけにするよ」
「いいのよ、わたしはすべて覚えているから」
「僕が差し上げられるのは自分で育てた仔牛の肉ばかりだ」
「とてもありがたく頂いてるわ、あなたの深い感謝がこめられているのがわかるもの、この上ない賜り物よ」
 カインは帳場台のうちっかわの左端の板目が一箇所朽ちて小さな隙間ができているのを見つけ、そこに左目を近づけて覗いた。羞じらったマリアと、そのすぐ傍に立ち、懇ろな間柄のようにマリアを見下ろす少年の顔に見覚えがあるような気がしたがなかなか思い出せなかった。しかし先ほどの会話から、いつぞやマリアの家へ向かう途中に声をかけた仔牛を連れていた少年であることを思い出した。
 少年はマリアに言った。
「君との縁は切れることがない」
 そしてうなずくマリアに「また手紙をおくれ」と言うと二人は別れの挨拶をして少年は店を出た。マリアは店から顔を出して少年の姿を長い時間見送っていた。そして戸を閉めて鍵をかけ、ランプの火を消すと階段を上って部屋へ戻った。
 カインは暗闇の中で闇を見つめて、その身体は凄まじい屈辱に震えていた。突然空から降ってきた大砲の弾に踵を打ち砕かれたかのような不条理に対する怒りに燃えさかり、また敗北の思いに打ちひしがれた。
 あいつにはそんなに手紙を書いているのか、俺への手紙はそっけない上にすっぽかされた、九時間半俺は待った。俺に見せる羞じらいの顔をほかの男にも見せている、何故だ、菜食だと言っていたのになぜ仔牛の肉をありがたく受け取る、俺の持ってきた野菜の礼は一言も聞いていない、なぜ父親に俺を会わせた、わけがわからねえ、網に掛けようとしている俺をもっと上の場所から網に掛けようとしているのか?それとも虎挟みを張り巡らした敷地内に俺はみずから踏み誤ってしまったのか。おまえだけに俺は告白をした。このまま下がってたまるか、俺はお前のすべてを奪い神に勝利するために代価をお前に払ったんだ。何もかもを奪い去るまで、俺は絶対に下がらねえ。
 カインは日を改め、より確然たる術策を弄するため店を出て道を引き返した。
 低い位置に頼りなくある膨らんだ月が人工の地に依存して立つばかりの街灯の明りと寸分違わぬものに思えた。

 あくる朝、教会に行くためカインは母屋で父親と母親と一緒に朝食を食べていた。
 卵の中にはらわたのようなひき肉やら玉葱やら芋やら茸やらチーズやらを詰め込んだ料理を食べながらカインは伸ばした足が気色の悪い物体に触れたのを感じて食卓の下を見ると濡れたままの雑巾がそのまま床に置いてあった。カインは思い切り椅子を引いて立ち上がると卓の下にかがみこんで雑巾を手に取り上げ、目の前にいる母親の顔面めがけてそれを投げつけ怒声を上げた。
「なんでこんなところにびしょぬれの雑巾が置いてあんだ!雑巾にどれほどのカビが生えるか研究してんのか?なわけねえだろ!何べん言ったら理解できる脳をあんたは持てるんだ?あと三千回か、あと五千回か?!俺の口にタコを作りたいのか!ふざけんな!今度同じことをしたら家中の布をすべて燃やす、わかったな」
 言い終わるとカインは持て余して押し黙っている両親に「今日は一人で教会に行く」と言って家を出た。
 時計を見るとまだ集会の時間までだいぶ余裕があった。カインは運よければ教会へ向かうマリアと遭遇するかもしれないとマリアの家から教会までの道の中途にある噴水の場所で時間つぶしをすることにした。
 上半身が山羊で下半身はとぐろを巻いた蛇の石像の下の石壁に背をもたせ石の段に坐り煙草をふかした。

 昨夜はほとんど寝ずに看病をしていたせいで寝過ごしてしまったマリアは早足で教会へ向かう途中、噴水の前に腕を組み、しかめっ面で頭を壁に預けていびきをかいて眠っているカインを見つけた。マリアはそっと近づいて、目の前で子供のような顔で眠るカインを起こしてしまうことを惜しく思った。目を開けてしまえば、じっと見ることはできなくなるからと、今のうちによく見ておきたいと思い、カインの黒い髪、閉じた瞼に揺れる睫毛、鼻、唇の間から見える歯、耳、汗ばんだ首筋、逞しい腕と大きな優しい手、此処に在るカインの肉体をあますことなく目に焼き付けようとした。

 花粉が鼻毛の間隙をぬって奥まで入り込み、大きなくしゃみをしてカインは目をさました。ハブッフッシャー、ああー、と声を上げて、寝ぼけまなこで目の前に誰かが立っているのに気づいたカインは顔を見上げて驚いた。
 マリアが自分を見てくすくす笑って目の真ん前に立っていたのである。マリアは寝起きで呆然としているカインに向かってたずねた。
「おはよう、教会へは行かないの?」
 カインは目ヤニをごしごしこすってから答えた。
「ヤァ、おはよう、今朝は家を出たのが早かったから、ここで時間をつぶしてたら寝てしまったようだ」
「そう、もうすぐ始まる時間だから一緒に行きましょう」
 そういわれた瞬間カインは昨晩企てた謀の一端を行動に移す絶好の機会であると気づき、立ち上がってマリアに言った。
「黙っていたんだけど、僕は教会にいると死にそうになるし、また死にたくなるんだ」
 するとマリアは驚いた顔をして「どうしてなの?」と聞いた。
「話すと長くなるかもしれない、君は教会へ行っておいでよ」
 マリアは少し考えるようにして「あなたの話を聞いてからにするわ」と応えた。カインは「それじゃ向こうの日陰の縁台に座って話そう」と言うと側に生えていたりんごの木の陰になった縁台まで歩いて、そこにマリアと座った。
 顔の前で垂れているりんごの枝先から葉をちぎって、それを弄びながらカインは思いつめたようにゆっくりと話しだした。
「やっぱり僕の罪はそうとう重い、教会に入ったとたん普段よりも近くに神を感じる、僕は教会に入ると自分の罪が押し迫ってくるのを感じるんだ、強い神の咎めを感じる、僕は許されないんだ、いくら告解をしても、気持ちの浅い部分で、許されていると思っていても、教会にいると畏れに身体が震える、だからいつもそれを紛らわすためにふざけてしまったりするんだ。それでふざけた後に、いつも酷く悔悟する、その繰り返しで、やめたいんだけどもやめられないからどうしたらいいのかわからない、教会へ行って喜びよりも恐れを感じる僕は間違ってるんだろうか。わからないけど、僕は、君が読む聖書がとても好きだ、何かこう心が洗われる感じがする、君の朗読と君の声は、誰より神に近いような気がする、だから、僕は教会へ行くよりか、君と一緒に聖書を学びたいと思うんだけど、どうかな」と真剣に悩んでいる顔を作って左に座るマリアを振り返ったカインは愕然した。
 てっきりマリアは自分の話を静かに身を入れて聴いていると思ったら、静かに身を背凭れに横たえてぐっすり寝ていた。
 むしゃぶりつきたくなるのをこらえながらマリアの顔と身体を嘗め回すようにカインは見た。襲い掛かりたくなるのを去なすため煙草を吸って自分の股間を見ていると、マリアが突然しゃべった。
「話はおわったの?」
 カインは吃驚して煙草を落として靴の裏で揉み消しながら応えた。
「起きてたのか、寝てしまったかと思ったよ」
「ごめんなさい、少し夢うつつのところで聞いていたわ、でもちゃんと覚えてるから大丈夫よ」
「とても眠たそうな顔をしてる」
「眠いわ、ほとんど寝てないの」
「僕の膝を枕にして少し寝るといいよ、教会で寝るよりはマシだろう?」
 そうカインが笑いながら言うとマリアは重そうな目蓋をしばたたかせて一瞬狼狽して見せたが「そうね、助かるわ」と言うが早いか、ぽてっと猫のようにカインの膝元に頭を横にしてのせ、足を縁台に曲げて乗せると静かになった。
 カインは激烈な性的衝動に駆られたがどうすることもできずに蛇の生殺しを味わいつつ煙草を喫してマリアが目を醒ますまで、また策略をめぐらすことにした。
 しかしマリアの肉体の柔らかみと温かい感触と性的なる欲求とに気をとられ頭がまるで働かなかった。カインはマリアが目を覚ますまで自分も眠ることにした。
 地面にゆれるこもれびの光と影をぼんやり見て目を瞑ったカインは一度はなれたように思えた勝利がまた側で揺れ動いている感覚をおぼえ眠りに入った。

 目を醒まし、カインの膝の上にいることに気づいたマリアは言い知れぬ幸せな思いに胸が詰まった。かつて存在していた恐れと不安と喜びと同等の悲しい思いが突如巻き起こった幸福の竜巻によって飛び去っていったかに思えた。マリアの心はマリアのすぐ側でゆれるこもれびのような安らかな光におおわれていた。

 カインの耳に声が響いた。
「彼が天地を創造した始まりのうち、
水面の深淵を茫漠なる闇と神の息がどこまでも抱いていた」
 カインは暗黒の空虚な水面に風がゆきわたるのをずっと見ていた。
それは果てしないように思えた。するとまた声が響いた。
「彼は言った『光が在るように』すると光が在った」
カインは気づくと、水面は光り輝き眩しくゆらいでいるのを見た。

 目を醒ましたカインに気づいたマリアは身を起こして言った。
「わたしは朗読するのがとても好きなの、あなたに聖書を読み聞かせたい」
 カインはマリアに向かって喜びの顔で言った。
「なんて嬉しいんだろう、たとえ数分だっていい、毎日きみの読む聖書が聞けたらな」
 マリアは少し考えるようにしてから、カインの気持ちを汲んで、できるだけ気持ちに応えたいことを告げると、聖書を開いて、静かに読み聴かせた。カインはおとなしくそれを聴いた。
 聖書を聞いている間、不思議とカインは退屈にはならなかった。退屈なのはマリアがいない時間であり、それは漠然な不安であり、戦のための大事の剣をなくした兵士のような恐れであった。
 しかし読み聞かせられているのが聖書であることはカインの心を快くはしなかった。マリアの聖書への愛がひしひし伝わってくるようで煩わしかったのである。だがマリアの情が自分に傾きやすい手段に思えた。何故なら読み聞かせとは本来、母親が小さな子供にすることで、母性の強そうなマリアの心は幼子のように静かに耳を傾けて聴くカインに情が移るのは時間の問題に思えたからだ。そして読み聞かせる本は神聖なる書である、神の言葉を読み聞かせる者が自分に求め聴く者にどのような想いを抱くだろうか、自分なくしてはこの者を救うことができないと思いはしないだろうか?そしてそれが色濃くなってくるとどのようになるだろうか、マリアは自分自身を神であるかのように驕る気持ちによって神に背き、俺のために生きることを選びはしないだろうか?マリアのように正義心も強い人間ならそのようになりやすいと俺は思える。
 将来に勝利は迫りつつある予感の中にいられることが、カインの煩わしさを幾分にも和らげた。
 昼過ぎに帰っていったマリアは、明日の昼過ぎに家に呼びに来るよう言い残した。
 翌日、カインはその言葉通りマリアの家へゆくと、マリアは出迎えた。そしてここらで最も憩いの場であるいちじくの木があった池の場所へ二人で赴き、そこの大きなぶどうの木の木蔭に座り、マリアはカインに聖書を読み聴かせた。
 そんな日が三日続いた。カインの心に、できるだけ勝利を掴む日まで長引いたほうがいいのではないかと言う気持ちが芽生えだしていた。勝利を手にした途端、女を抱いたあとの飢えのようなものの何百倍となった飢えがやってくるのではないかと案じるようになったのである。着々と勝利の機が織られているようなこの時間は気分がいい。
 カインはめっぽう気を良くして酒場で男たちと酒を呷り楽しむと、帰路に着いてマリアに明日も会えることを心待ちにしながらぐっすり眠った。
 翌日、マリアの家に三度カインは通ったが留守だった。
 翌々日、今度は四度赴いてみたがいずれもパン屋の主人か婆が出てくるばかりでマリアはいなかった。
 翌々々日、集会の前の日である。カインは朝起きたときから落ち着かなかった。マリアにたった二日会えなかっただけでこのような烈しい焦慮に駆られる自分に余計苛立ちも募った。何遍マリアに会いに実家のほうへ運びたくなる足を制して我慢しただろうか。
 マリアに会いてえ、この日初めてカインはそう強く熱烈に想った。
 はち切れんばかりの感情を抑えつけることができずにまだ昼前であったがカインはマリアに会いに行った。
 パン屋に入ると、ひと月ほど前に野菜を持っていったときにいた浮浪者のような男がまた帳場台に座っていた。カインは男にマリアを呼んで欲しいと頼んだ。男は「マリアはお留守だよぅ」と気味の悪い愛想笑いを浮かべて言った。カインはそれを聞いてすごすごと店を出ようとして、あッ、と思い出してまた店の中に駆け込んで男に訊ねた。
「おい、あんたこのまえの野菜ちゃんとマリアに届けてくれたんだろうな?」
 すると男はまたいっそう薄気味悪い笑いを浮かべたと思うと答えた。
「おいらはちゃんと届けてやったぜぃ、もしかしてまだ礼を言ってもらってないのかいィ?、マリアは野菜よりももっと別のものを欲しがってんじゃないかいィ?ひょひょッ」
 カインはカチンと来て男の胸倉をつかんで声を荒げた。
「あの野菜は俺が何時間も額に汗して採った野菜なんだが、それ以上にマリアが喜ぶ物っつったら、いったい何があるんだ?!そんなこと言うならてめえがそれがなんなのか俺に言ってみろ!わかんねえのか?わかんねえんだったら俺がてめえに熱いこぶしをお見舞いしてやろうか?おい、どうなんだ」
 男は大げさにぶるぶる震え上がって「わっ、わっ、わわわ悪かった、お、おおいらが悪かったよぅ、マリアはきっとあれだよぅ、あまりに嬉しくってぇお礼の言葉が見つからなかったんだろう、だから、あんたは悪くないさ、んな、そう気を悪くしないでぇ、ほら、このパンを、このパン食って機嫌良くしてくれよぅ、おいらがおごる、な」
 カインはつかんでいた胸倉を突き放すと良いことを思いついて言った。
「てめえなんざにおごってもらいたかねえよ、おい、それより俺の頼みを一つ聞いてくれたら許してやるよ」
「おおおおぅ、そ、そりゃぁいったいなんでぃ?」
「俺は今日どうしてもマリアに会いてえんだよ、だからちょっと歩いたところにあるバアル・ゼブブってカフェに俺はいるからマリアが帰ってきたら俺を呼びに来い、いいな、呼びに来なかったら取って置きの贈物をてめえの顎にくれてやる、わかったな」
 男はほっとした顔で「そんなことだったらぁお安い御用でぃ、だんなぁ」と笑う狐みたいな顔で言った。
 カインは男の終業時刻を聞いて店を出るとバアル・ゼブブへ向かった。
 そしてひたすら男が呼びに来るのを待った。
 しかし誰も呼びに来ることなく男が帰る時間を過ぎた。カインはまた店へ出向いてみた。すると主である老爺が出てきてマリアはまだ帰っていないと答えた。カインはまたバアル・ゼブブに戻って、窓辺の席に座り我慢していたビールを注文して飲んだ。店内においてあった「人為失脚」と言う本を苦し紛れにめくっているとカフェの閉店時間になってしまった。カインはしぶしぶと店を出てすでに閉まっているパン屋の戸をたたいた。出てきた老婆は申し訳なさそうな顔でまだ帰ってきてないのだと告げた。カインは悄然として店の前にへたりこんだ。酔いが体中を回って気だるくぐるぐる頭が目まぐるしく回っていた。マリアに見離されることは自分の将来すべての希望に繋ぐ川を堰き止められることと等しいように思えてカインはその体を不安で震わせた。自分を安心させる、自分の勝利を約束してくれるようなマリアの表情が欲しかった、しぐさや言葉、この漆黒の深海から浮かび上がってくるような恐れを取り除くものならなんでもよかった。その証明を今晩させなくてはならないという思いにカインは囚われた。

 虚ろな中に足音が近づいてくるのが聞こえた。その音は一足ごとに混乱を壊滅するように地を蹴って駆けつけてくる。
 膝を抱いてちいさくうずくまっているカインをマリアは呼んだ。
 カインはぼやけた視界の中でどこかふかい森の奥から自分を探しに来てくれたマリアの姿を見て、何を言ってるのかよくわからないが腕を引かれるまま着いて行った。

 部屋に入ってベッドに座らされるとマリアが自分に水を与えた。横になるように言われて体を横たえた。花の良い香りがする。
 自分は聖書を聴かせて欲しいと言った。
 マリアは子守唄代わりにカインに聖書を朗読して聴かせた。
「キリスト・イエスのりっぱな兵士として、苦しみを共にしてください。兵士として仕えている者はだれも、生活のためのもうけ仕事に煩わされません。ただひたすら自分に指令を与える指揮官を喜ばせようと努めるからです。また、競技で闘う場合でさえ、規則にしたがって闘ったのでなければ栄冠を受けることができません。 骨折って働く農夫がその実に最初にあずかる者であるべきです。 わたしの述べていることに絶えず考慮を払いなさい。確かに主はすべての事においてあなたに理解できる力を与えているからです」

 カインは何より心がやすまるマリアの優しい落ち着く声の音色を聞いているうちに眠りに落ちた。
 目が醒めるとマリアは寝台にもたれかかって床の上で眠っていた。カインは身を起こして上掛けをマリアにそっとかぶせると、机の上のランプひとつの明りだったが月明りに照らされて明るい部屋の中を眺めた。窓近くにある机と椅子、ドア近くの壁際に小さな本棚と箪笥、マリアの実家とよく似て不必要なものは何もないような少し気持ちがずれると侘しさを感じる部屋であった。カインはすっかり目がさえてしまい起き上がると部屋の中をうろうろした。本棚を見たり窓から外を眺めたりした。小便に行きたかったがマリアを起こしてしまうと思い辛抱して机の椅子に座った。机の上の本立てに小説や詩集が置いてあった、その中の一つに何の文字も書いていない水色の背表紙の本があった。カインはそれを手にとって開いてみた。それはマリアのダイアリーだった。ダイアリーにはどれも聖句と神への感謝や問いかけや小さなざんげが書かれておりおもにつまらない内容であった。カインは一番最後のページを見てみた。日付はつい昨日になっていた。ざっと読もうとして、カインは目を疑い、また始めからゆっくりと読んだ。読み終わったカインは全身が滾るような嫉妬にかられわけのわからない状態になった。かつて味わったことのないようなあまりに激しい愛憎に強く歯を食い縛った。日記にはマリアが見た夢の話が書かれてあった、マリアは昨日かおとといの夜に夢を見た。それは一人の何者かに捕らえられ身動きのできない見知らぬ美しい少年のもとにマリアが側に行って、そこでその少年とまるで生温かい光の水と光の水が混じりあうような素晴らしく恍惚で神秘的な交わりをするという話だった。カインは胸苦しい動悸にさいなまれ、ダイアリーを本立てに戻すと気を静めるために厠を探しにすやすやと眠っているあどけないおさなご子のようなマリアを残し部屋をそっと出た。
 部屋へ戻るとマリアは起きていた。不安そうな顔だったマリアの顔が一瞬でふわっと和らぐのをカインは見た。カインは厠へ行っていたと告げるとマリアは緊張しているのか少しうろたえるようにして、水を持ってくると言って部屋を出て階下に下りていった。部屋に残されたカインは寝台に座って頭を抱え、何故たかが夢ごときでここまで苦しむのかがわからず自分に対してもひどく憤った。しかしそれ以上にカインを苦しめたのはマリアがたった一夜の夢ごとにまるで心をすべて奪われた少女の恋する心が書いたかのような情熱的な日記を書き記していたことだった。自分のことは何か書いてるんだろうか?そう思ったカインは日記をもう一度よく見てみようとダイアリーに手をかけたとき、階下から上ってくる足音が聞こえてチッと舌を鳴らすと寝台に戻った。
 マリアは病人に薬を飲ますように水をカインに飲ました。
「ありがとう、おかげで二日酔いにはきっとならないで済むよ」とカインは言った。マリアは居心地悪そうにカインから少し離れてベッドの隅に座った。ふとこないだの牛飼いの少年を思い出した。夜中までマリアの部屋でいったい何をしていたんだ?そう思うと嫉妬が膨れ上がり、左にあるマリアの磨き上げた雪花石膏のようなきめ細かな手を見つめて、それに触れたい欲望がはなはだしくせり上がってくるのを感じた。カインは水を飲んだがまだ完全に酔いが抜けていなかった。それに今朝から持て余していた変に高まる性欲がとうとうそれを囲んでいた城壁が内から破壊されマリアに猛威を振るうように攻め入りたがった。カインは耐え切れずそっとマリアの右手の甲に自分の左手を重ねた。そして突然身を硬くして小刻みに震えるマリアを優しく抱き寄せて接吻しようとしたところ、マリアはそれを顔を伏せ体をねじって強く拒んだ。カインは体を離して塞ぎこむようにして俯くとマリアに問いただした。
「君は僕のことどう思ってるんだい」
 永い沈黙のあとマリアは震える声で答えた。
「自分でも驚くほどあなたに魅かれています」
 カインはそれを聞いた瞬間、無上の喜びの声を胸の内で叫んだ。そして言った。
「僕もだ、マリア、君を想うと胸が苦しくってたまらない」
 二人は見詰め合い、カインはまた接吻しようとしたらまたマリアはそれを拒んだ。
「何故拒むんだ?」カインは心底わからないという風に言うと、マリアは俯いて答えた。
「どんなに愛し合っていたとしても、神の前で誓っていない二人が男女の関係を持つことはだめよ」
「じゃあ明日教会で神の前で誓ってくれるかい、僕は誓えるよ」
「まだ知り合って間もないのに、どうしてそんなに焦っているの?」
 カインは間を置くと深刻な顔で答えた。
「とても苦しいからさ」
「何がそんなに苦しいというの?」
 カインは少し考えてから言った。
「君に拒まれることが苦しい」
「拒むのはあなたを想っていないからではないわ」
「それじゃ誓って欲しい、神は教会にいるわけじゃない、今ここで誓えるはずだ」
「わたしは、あなたをもっとよく知りたいの」
 カインはうろたえて少し高い声を上げてマリアに言った。
「ああ僕もさ、君の事を隅々まで知りたいよ、今すぐにでも。じゃあ聞くけど、牛飼いの少年とは、いったいどんな関係なんだい?」
 それを聞いたマリアの顔が一瞬とてつもなく周章狼狽するのをカインは見逃さなかった。マリアは眉あいにしわを寄せて「いったいどういうこと?」と聞いた。
 カインは口元を微かに震わしながらも笑みをたたえてへらへらして言った。
「あいつと寝たのかって聞いてるんだ」
 マリアは俯いてわなわなと震え低くうなるような声で聞いた。
「わたしがそんな人間だとあなたには映るの?」
 カインはマリアの体を自分に強引に向かせ顎をつかんで顔を上げさせて言った。
「なにもないというのなら、神の前で証明してくれないか」
 マリアはカインの手を叩いて振りほどき泣きそうな顔で言った。
「お願いだから、今日は帰って」
 カインは荒くなった息を静めて落ち着き直して言った。
「証明できないのか、神の前で」
 マリアは自分を抱きしめるように腕を組んで低く俯いた顔を背けたまま何も答えなかった。
 カインはマリアとあの少年の間には自分に言えない何かが在り、そして日記の少年は牛飼い少年の別の姿であるのだと直感した。マリアは自分よりも牛飼い少年を愛している、そう見て取ったカインは嫉妬の憎しみと憤怒が頂点に達した。
「じゃあ証明させてやるよ、俺の前で」
 静かに低く押し殺した声で言うと乱暴にマリアの体を引き寄せ、力尽くで接吻しようとしたが、ものすごい火事場の馬鹿力のような力で押し返され、カインは怒りに狂って我を失った。冷血な悪魔の形相で強く押し倒すと山吹色の衣を胸元から引き裂いた。暴れる体をおとなしくさせるためにその顔を張り倒し殴りつけ、乳房に吸い付いた、まだ暴れたおすのでその横っ腹を打ん殴り下着を引きちぎってその中に勢いよく挿し込んで激しく突いた。マリアは鼻や口から血を垂れ流し涙と血でどろどろになった顔で目をきつくつぶって苦しそうに声を殺すようにして喘いだ。絶頂に達し果てたカインは荒く苦しい息が収まる前に下着とズボンを履いてマリアの顔を振り返ることもなく無言で部屋を後にした。

 寝床に入っても心臓をにんにく潰し器で押し潰されているような圧迫感が抜けなかった。カインは布団の中で丸くなって思った。いったい、快楽ってなんだ、何が快楽だった、快楽とはなんだ、なんで快楽なんだ、何があれを快楽にするんだ、何によって、何者だ俺は、俺は快楽がわからなくなった、快楽が俺をわからなくなった、俺の快楽はわからなくなった、快楽がわからなくなって俺は、俺は何者なんだ、眠らせてくれ。

 カインは教会に行くのをやめた。男たちと酒を飲んでも気がまぎれるどころか女とどうなったかを聞かれるのが嫌になり一人で飲むようになった。神を打ち負かすことの快楽も女の肉体による快楽もそのすべての快楽がなんであるかがカインにはわからなくなった。あれほど執拗に願った勝利も女を自分の手の内に入れることもどうだってよくなった。

 そして三月半ほどが経った八月の半ば頃のことである。
 女の肉体に何を期待することもなくなったが、ただ動物的本能のゆえの性欲のあるがまま売春店の立ち並ぶ通りに頻りと足を運んでいた。
 カインはその夜、娼婦の裸体を撫で回したあと店を出て、好き好んで夜に行動するくせに灯りを必要とする自分のように街灯の灯りに群がる蛾や羽虫の下で煙草を取り出して口に銜えた。その時、暗い店の路地の陰から走って近づいてくる者に気づきカインは振り返った。顔が判別できる前にカインは逃げようとしたが、間に合わず顔を見たと同時に男はぐっと腹の前に両腕で打ち据えた刃物を力をこめて突きつけて来た。カインは瞬間、血が一気に引いて身も心も凍りついた。男は今にも倒れそうな蒼い顔をしたマリアの父親であった。凍りついた体で咄嗟にナイフをよけ、また刺してこようとする老人のナイフを持つがくがく震えている腕を両手できつく掴んで必死によけようと二人で遣り合った。老人の手からナイフが自分の手に渡ろうとした瞬間、老人がナイフを取り返そうと強く自分の腕を引っ張り、ナイフが老人の胸に深く突き刺さった。老人は生気を失った顔で涙を目に溜め口を開けたまま何かを言いたそうに動かしたが口から言葉が洩れることもなくカインに凭れ掛かるようにしてずるずると地に倒れこんだ。
 カインは体が震え上がり貧血で倒れそうになりながらも誰かに目撃される前にここを立ち去ろうと夜道を走って帰った。何度もけ躓きそうになりながら逃げ去る途中カインは思った。牢獄に入れられるのだけは御免だ、自業自得だ、俺は殺されるほどの事はやってねえ、あの女にも非があったんだ、七倍にして返される筋合いはない。

 それからカインは半月の間は監獄に繋がれる恐怖に打ち震えてすごしたが、半月を過ぎると目撃者は誰もおらなかったのだろうと胸を撫で下ろすようになった。

 九月に入ったというのに、寝苦しい暑さの昼のなか汗だくで起きたカインは、机の上に手紙が置いてあるのに気づいた。差出名は書いていなかった。カインは封を開けて中を見た。見覚えのある字だった。そこには「明日の午後五時にメシューイェ丘の頂上で待つ」とだけあった。マリアが自分に何の用だろうかとカインは恐れた。怨み言をくだくだと吐かれたり慰謝料を要求されるのは面倒だ、絶対に行くもんか。
 しかし当日の午後になってカインはマリアがいったい何を自分に言おうとしているのか気になってしかたなく、またこの先何年も怨まれるくらいなら慰謝料を親から借りて渡し早々に済ましてしまったほうがすっきりすると思い、びくびくしながらも約束の場所へ行ってみることにした。
 乾いた白い岩石の積まれた丘を上ってゆき灼熱の太陽の下、適度に湿気の混じる風を受けながら頂上までやってきた。雲ひとつない快晴の青い空に沈みかけた太陽の光が岩肌に反射して視界が眩しい。頂上の断崖の側に跪いてうな垂れ落ちる黒いヴェールを被り爪先まで真っ黒な喪服に身を包んだマリアがそこにいるのをカインはみとめた。
 カインがやってきたことに気づいたマリアはゆっくり立ち上がるとヴェールを上げてカインと向き合った。胸の下あたりまである黒く長い乱れ髪が風に靡いていた。カインは何をされるのか恐ろしかったので端の岩壁の前に立って離れたところから声を張り上げた。
「いったい俺になんのようだ」
 マリアは黙ってカインを見据えていた。カインは宥めるように穏やかに「金がほしいなら用意する、いくらほしいんだ」と言った。
 マリアはそれには答えずはっきりとした声で言った。
「あなたは私に何を求めていたのです」
 カインは考えて、そして言った。
「俺は、あんたに愛されたかったのさ、それだけだ」
 マリアは少ししてから今度は震える声で言った。
「私の愛は、あなたにありました」
 カインはそらぞらしく言った。
「それはありがてえな、しかし俺はまったくそれに気づけなかったよ」
「私の父を、何故殺したのです」
 カインは生唾をごくんと飲んだが気取られないように平然と答えた。
「俺は殺してない、何故決め付ける」
「あなたは確かに私の父と私を殺したのです」
 カインはせせら笑いながら軽い口調で言った。
「ははッ、おめえまだ生きてんじゃん」
 するとマリアは目を開けられないほどの大声で突然叫んだ。
「聴けえ!」
 カインがびくッとするとマリアは泣きながら叫んだ。
「カイン、おまえはやってはいけないことをした、私は悪魔に身を売ったのです、おまえはそれの最後をよく見るがいい」
 そう言うとマリアからすっと表情が消えうせ、後ろの絶壁に向かってじりじりと足を引きずってカインを見つめたまま下がっていった。
 カインは半笑いの顔で「おい、何をするんだ」と言ったがマリアは何も言わずそのまま後ずさりして、断崖すれすれに立ち、背中から倒れるように落ちてカインの目の前からいなくなり、少しあとに鈍い音が聞こえた。
 カインはそこに突っ立ったまま誰もいない崖のほうを見やって汗をたらたら流した。心臓があまりに早く動いて口から出そうだったが、恐るおそる崖に向かって歩くとそこから下を覗いた。
 ちょうど崖の下のほうに平らに広がった岩地の上が目の冴えるような赤に染まり、まるで深紅の絨毯の上に人形遣いに投げ出された喪服のマリオネットのように手足を不自然な方向に折れ曲がらせ天を仰いだまま動かないマリアの姿があった。
 カインは胃の内容物が急激に上がってきて目をそらし後ろに下がった。その場にいること自体がおぞましく、すぐにそこを立ち退いて忘れるために酒を飲みにいった。
 酒場に着いたカインは見たことあったことをすべてなかったことにするため酒をたんまり飲んだ。
 そして五日が経った。カインはその夜も酒場で飲んでいた。夜も更けてきて客が減ってきたころ、カウンターに坐るカインのちょうど後ろの席に坐っていた二人の知らない男たちが酒を飲んで話していたが、その会話の中に出し抜けにマリアの名前がでてきた。動転したカインは聞きたくないのに聞かずにおれない錯綜した心境になり男たちの話に聞き入った。男たちは酔っ払っているせいか明けすけに声も落とさず話した。
「マリアの葬式はクリスチャンらが大勢集まったみたいだが、身内は一人もこなかったそうだ」
「あれマリアは身内は父ちゃんたった一人だったんじゃなかったか、そりゃいねえからこねえだろう、二人で同じところにいっちまったんだもんよ」
「なんでこんなことになったのかねぇ、おれぁマリアが哀れでしょうがねえや」
「マリアの父ちゃんも恨みを買うような人間じゃあなかったのになぁ、しかも病床に臥してる者を殺めるなんざあ相当冷酷な人間だ」
「おれなァ、今日聞いちゃったんだけどよ」
「何をだよ」
「ここだけの話にしてくれよ、おれの知り合いにさ、まあちょっと闇商売やっちゃってる奴がいんだけどよ、もと医者の奴でさ、そいつのもとにちょっと前マリアが来たんだと」
「なんだい、何の仕事なんだよ」
「女の股ひらかす仕事だよ」
「なんだそりゃ、どんな仕事なんだ、女が男を買うのか」
「まあその男の技術を買いに来るのは確かだ」
「もったいぶるねぃ、で、どうなったんだ」
「マリアは妊娠してたのさ」
 それを聞いたカインは危うく酒にむせそうになって慌ててこらえた。衝撃で強くコップを持つ右手を微かに震わせた。
「なんだって?そいつァいったいどこの野郎の子だ」
「それはわからね、んで、マリアの腹ん中にいる胎児がよ、もう結構でっかくなってたんだと、んでも仕事だからしょうがねえってんで、そいつはどうにか引き摺りだそうとすんだが、まあ驚くほど元気いっぱいな赤ん坊で、こう専用の器具があってよ、その金属の棒で何回もつまんで引っ張ろうとするんだが、ひょいっ、ひょいっ、と機敏にうまくよけて逃げるんだと」
「ほう、まるで殺されちまうのがわかってるみたいだな」
「そうそう、そいつはきっとわかってたんだな、その男もありゃ胎児の離れ技だ、なんつってたがしかしそんなことをいつまでもやってらんねえんで、嫌な仕事だなってそいつ自身も嘆きながら言ってたが、そうなったらもうこうするしかないってんで、つまみ棒で思い切り握って頭をぐしゃっと潰して引っ張り出した、しかしそれでもなかなか頭も体も出てこないってんで、棒を中で捏ね繰り回して、やっと出てきた赤ん坊は、まあ、想像よりはるかな、もう、ぐっちゃぐちゃのばらばらで目も当てられぬ状態だったらしい、でもそんなズタズタになったもんに目や鼻や口や耳、腕や足はちぎれてたが完璧な人間の姿と同じにあるのはわかるほどでかい赤ん坊だった、あまりに成長した胎児が酷い状態で出て来たもんで、自分の仕事をあれほど呪ったことはない、なんてそいつは言ってたが」
「じゃあやめりゃいいじゃねえか、酷い話だ」
「でも考えてみろい、そういったことはそいつがしねえでも、誰かはやり続けなくちゃなんねえんだ、子供を堕ろしたいって女がいる限りな」
「そりゃそうだろうけどよ、あんまりひどいじゃあねえか、胎児だってただ小さく未熟だってだけでほかは何一つ変わんねえ生きた人間だろうに、殺さない方法はなかったのかねえ」
「まあそう言うねい、マリアだってなんか大きな産めねえわけがあったんだろうよ」
「何があったんだか、神のみぞ知る、ってか」
「おう、もうすぐ閉店だし帰るとするか」
「そうだな、なんか暗い気分なっちまったよ」
 二人の男が店を出た後、カインは震えて固まる手を動かして、強い酒を一気に飲み干すとまた注文した。来た酒をそうやって浴びるように飲んではまた注文して飲み、ほどなく前後不覚になるほど泥酔してカウンターの席からずり落ち床に転がった。
「お客さーん、困るよー、もう店閉める時間なん・・・・・・」
 と店員の声が遠くのほうに消えていった。
 酷い身体の痛みと悪寒の中カインは意識を醒ました。硬い地面の上に俯した自分と境をなくした地の上に天が報復のため凍る水の矢を滅多らやたらに降らせているかのようだ。カインは歯をガチガチ震わせ、凍えながら燃えるような熱い身体に気も朦朧とした。俺は死ぬのか、それともここはもう地獄なのか。雨が激しすぎて目を開けようにも目の中に雨が入って視界に何があるのか見えない、そもそもまだ夜なのか闇しか見えない。ここはどこなんだ。誰かいないか、誰でもいい、誰か助けてくれ、誰か来てくれ。カインは暗闇を見つめ声を出そうにも声を出すことができず心の中で呼び続けた。暗闇の中に誰かの助けに来る足が現れることを願った。すると暗闇の奥から何か小さな獣か何かが近づいてくるのが見えた。それは猫よりは小さく、鼠よりは大きい何かで、よろよろと奇妙な歩き方で近づいてくる。だんだん近づいてくるのを見ていると、それは獣ではない、二本足で歩いてくる。首がだらんと垂れて手足も取れかかっているようにぶら下がっている。首と手足が外れかけた螺子を巻いて動くゼンマイ仕掛けの人形のようだ。しかしその肌の色は死人のように蒼白い。それが暗い雨の翳む中だんだんと足を引き摺るようにして自分に向かって歩いてくる。カインは心の中でその小さなぐらんぐらんと近づいてくる存在に向かって呼びかけた。俺を殺しに来たのか、俺の命がおまえは欲しいのか、その執念い、さすが俺とマリアの子だ、やってくると思ったよ、俺は驚かねえ、死ぬのは怖いが、俺は生きるのも恐ろしくなった、いま俺を殺すならおまえは俺に怨まれることはないだろう。そう告げるとカインはまた意識が遠のいていった。

 目を覚ますと自分の部屋の寝台に寝ていた。熱でぼんやりしたなか右を向くと父親が散らかった部屋を黙々と片していた。カーテンの隙間から西日の光線が差し込んだ父親の背中を見ながらカインは思った。俺がどんな罪を犯そうとも親父はきっと死ぬまで俺を叱咤することなどしないんだろう。叱らない親がそんなに偉いのか、俺はほかの親がよくやってるつまらない理由で、自分を困らせたというだけで殴られたりしたかった。子供を殴ってしまうような弱い親の背中を俺は見たかった。あんたが素晴らしいと思ってやってることは俺にとってなんの素晴らしいこともない、むしろ俺を苦しめてきた、何をやっても叱られないなんて、どんな厳しく叱られ飯を抜かれたり家に入れてもらえなかったり殴られて吹っ飛ばされたりするよりも俺はむごくて重い罰をもらってきた、叱らないで心のうちで俺を嘆くのはやめてくれ、あんたらの深い愛情が俺をこのようにしたんだ、慈愛という罰を与え自由という地獄に俺を放し飼いにした。俺の苦悩がどれほどあなた達の為に凄まじいかをわかってはもらえないのだろうか。
 父親が目を覚ましたカインに気づいて声をかけた。
「起きてたのか、どうだ、具合は、まだ熱が残ってるからしんどいだろう、でもちょっとさっぱりした顔をしてるな」
 カインは涙が出そうになった、息子のしてきたことがどんな酷いことか何も知らずにこの親は息子の容体だけを心配している、なんて愚かで哀れな親なのか。熱を測ろうと伸ばしてきた手を遮る、また顔を背けるために寝返りを打ち答えた。
「だいぶいいよ、移るとよくないから帰って良いよ」
「なあに気にしなくていい、なんか食べられそうなのがあったら持ってくるから言いなさい」
 カインは少し考えて「りんごの擂ったやつが食べたい」と言うと「よしわかった、ちょっと待ってなさい」と父親は離れを出て行った。部屋で一人になった途端、自分の心臓を囲む肉と内臓と血が押し寄せ圧迫して異物を襲撃するようにカインの胸は苦しんだ。自分以外の人間が傍におられるのも煩わしければ独りでいるのも恐ろしいと感じた。自分の心を国をつぶすようにつぶされ、異邦人たちに踏襲されて自分の心に囲まれた小さな籠の中に閉じ込められた心を籠の外の心が異邦人を見る目で見ているような、心の海にいた魚や海獣がみな陸に打ち上げられ陸や空にいた獣や鳥をみな海に沈めたような心にある歯車が噛み合わず気が狂れそうになる不快な音を軋めかせ犇めきあっているような気持ち悪さに激しく懊悩した。
 父親が持ってきた摩り下ろしたりんごを食べ終わると、絶え間なく心臓に打ち続く罪悪の杭の痛みに耐え続けるうち、眠りへ入った。

 どこまでも広がる美しい黄色の花畑の真ん中で愛の告白をしたらマリアは喜びのあまり泣いてしまう。宥めていると真っ白な天から神のこしらえた白い花冠が僕の手に降りてくる。それをマリアの頭上に掲げる。神と僕の両親とマリアの父上らに囲まれて祝福されながら僕らの愛を誓い処女の道を二人手を繋いで子供のように走る。白いヴェールの冠が心地良い風にあおられ真っ青な海へ飛んでった。僕は胸元まで海に浸かりそれをひらいに行く。マリアが海辺の家から僕を呼ぶ。僕は砂がダイヤのように光る地を蹴って手の平の中に大事なものを隠してマリアのところまで走りながら叫ぶ。
「あったよ!」
 マリアは嬉しそうにゆう。
「見つけてくれたのね」
 僕はマリアを抱きしめて言う。
「絶対見つかると信じたからね」
 そしてマリアの大きくなったお腹をさすって耳を当てた。
「今、僕に呼びかけたよ!」
「なんて言ったの?」
「パパとママに早く会いたいだってさ」
 マリアが春の陽に咲いた花のように微笑む。
 嵐の晩、家を飛び出して海に膝まで浸かり真っ暗な天に向かって祈り続ける、産婆が呼びに来る。
「お産まれになりました」
 急いでマリアのもとへ駆けつける。マリアの右にちょこなんとすやすや穏やかに眠っているみどりごを見て神に心から感謝する。マリアの目に流れる涙を優しくぬぐい深く敬意をこめて頭に口づけする。愛するわが子はマリアを見て「ファーファ」と言い僕を見て「アーブ」と言う。そしてそれ以外の存在はすべて「メェメェ」と呼ばれる。幸福で笑顔が途切れることがない。愛し子は学校へ行きだす。やがてしょんぼりして帰ってくるようになる。勉強も宿題もまともにやらないから先生に怒られ友達には馬鹿にされる。僕もマリアもそんなわが子を叱ることはしない。子供が自ら勉強したくなるときまで待つことにしよう。子供は天使に近い存在だ、教えることよりも教えられるべきことがたくさんあるだろう。僕とマリアとわが子三人は決められた役目などない、時に我が子が父であり母であり、また兄弟であり、真友だ。不可能なことは何一つなく、どこまでも開かれてゆくことを神に教わる。激しく荒ぶる風がその窓を叩いても怖れることはない、だって一人ではない、荒れ狂う暴風に耐え続けるのは一人じゃないのだから、そうやって僕らは強くなってゆくんだよ、さあマリア、わが子よ、おいで。マリアとわが子が僕のところへ駆け寄る。二人を強く抱きしめて僕の目から涙が流れ落ちる。

 カインは熱い涙を開いた目からあふれ出させ目を覚ました。あまりに永い十数年間もの時間を暮らしたような夢を見ていたせいで一瞬どちらが現実であるかわからなかった。しかし今薄暗くさびしい部屋にいる自分のほうが現実であるとわかると、魂の底から噎せあがるようなとてつもない悲しみに嗚咽してシーツを握り締め、止め処なくあふれてくる涙を流してカインは泣いた。今このときようやっと自分の気持ちを知った。カインは自分はマリアを愛していたのだと気づかされ、恐ろしく激しい後悔にのたうって苦しんだ。敷布がびっしょりになるほど泣き続け、カインは今すぐマリアと自分の子供がいるところへ行きたいと強く願った。そして今すぐにゆくことを決めたカインは身を起こし、部屋の中にあるはずの縄を探した。押入れの中から縄を見つけ出したカインは、それをちょうど引っ掛けられる梁の部分に投げると輪っかを作り、椅子の上に立ち輪っかを首にはめた。一瞬ひるんだが、マリアの微笑みが浮かび、もう生きていけないと意識が麻痺するほどの底知れぬ絶望に身を任せるがままカインは椅子を蹴った。蹴った途端、縄が古かったのか千切れて床の上に投げ出された。頭を打ったカインは気を失いちょっとのま床の上でひっくり返っていた。しかしすぐに目を醒ますと地獄のような苦しみに気が狂いそうになり、外へ駆け出した。そしてメシューイェ丘の天辺まで走った。天辺に着くと、喪服を着たマリアが今もそこに坐っていると歓喜しかけたが、それは集まった三羽の鴉だった。絶望したカインはゆっくりと崖のほうへ歩いていくと、真下を見下ろした。まだそこに投げ出されたマリアがいたらどうしようと恐れながら崖の下を見下ろすと、そこにはマリアの姿はなく、ただ血のあとの滲みのついた岩地があるだけだった。カインは地に突っ伏し、空を見上げた。太陽が沈んで暗くなってくる空に向かって涙を流し心で叫んだ。
「神よ・・・・・・わたしをマリアのもとへ連れてってください。あまりに苦しくてもう生きていくことができません。マリアとわが子のところへ行って、罪を許してもらえないなら、永久にこの地獄から逃れることはできません」
 言い終わるとカインは震える体で立ち上がり崖っぷちに足を滑らしていった。そしてまた下を覗きこんでから、空を見上げ、遠くの山のほうを見て「怖い・・・・・・」と呟いた。崖から飛び降りることができなかったカインは打ち砕かれた心で次の方法が浮かび、足を絡ませながらつんのめって走った。まず家にいったん帰ってありったけの金を懐に入れるとまた外へ飛び出した。毒薬を売る店で毒薬の入った壜を買うと、マリアの住んでいたところへ向かった。パン屋の中に入ると、帳場台に坐っていた浮浪者のような男がカインの精気の抜けた顔で燃え盛っているような形相を見てぎょっとした顔をした。カインは男に突っ掛かるようにして肩をつかみ頼み込んだ。
「頼む、マリアの墓場の場所を教えて欲しいんだ」
 男は怯えながら「悪いけど知らないよぅ、おいらぁ」と言った。カインは懐にあるすべての札の束を男の手に渡しもう一度頼んだ。
「知らないならここの主人か婆に聞いてきてくれねえか、頼む、このとおりだ」
 カインは頭を台の上に打ちつけ男に切に請うた。男は札束を懐にしまうと態度を翻し権高に「しょうがねえなぁもぅ、そこまでゆうならおいらが聞いてきてやっからよぅ、おとなしく待ってろい」と言い嬉しそうに階段を上っていった。下りてきた男から墓の場所を聞くとカインは「恩に着るよ」と礼を言って店を飛び出て向かった。

 おだやかな河のほとりに斜めに傾いて生えた大きな柳の木が葉を水面に垂らし、その葉を銀色に照らす低く顔を覗かせた満月の明かりでマリアの墓を探した。若干なだらかな丘になっている墓地のいくつかの墓の中からマリアの墓と、その隣にマリアの父親の墓があるのを見つけた。カインは二人の体がこの下に埋まっていることを思い、その場に崩れ落ちるようにして跪いた。自分の犯した罪があまりに重いものであり到底背負いきれるものではないと感じた。マリアとマリアの父親とマリアの子供を殺したのは紛れもなく自分であると思った。打ちのめされる責め苦の中カインは思った。許されたいなどとよく言えたものだ、俺は自分の犯した罪に苦しみ死のうとしてるんじゃなく、愛するマリアも自分の子供も、もうこの世にいないことがつらすぎて死のうとしてるんじゃないか、許してもらえるはずはない、神もマリアも父親も赤ん坊も、俺を許さない、死んでもマリアと子供のところへはゆけない、ゆけるはずはないじゃないか、でも俺は死ぬしかない、生きてゆくのが怖い、怖いんだ、怖いよ、俺は死んだら無になってすべて忘れてしまうんだろうか、マリアは今どうしてるんだ、マリア。カインはマリアの墓の土の上に頬をすり寄せて目を瞑った。そして完全に夜になるのを待った。
 頭上の月は煌々とカインのために照らしてくれているように感じた。土を折った木の枝で掘り起こした。もうすぐマリアに会える喜びがカインの胸の奥まで突き刺さった針を幾本も取り払ってくれた。人の背の高さほど掘り進めて行くと棺の蓋に棒が当たった。気持ちを高ぶらせながら広く穴を掘り、震える手で棺の上の土を払い除けると釘で打ち止めてある蓋を力尽くで押し開けて外した。蓋の隙間から流れ込んできた腐敗臭がカインの鼻をついた。それでもマリアの姿を見られる喜びは膨らんだ。緊張しながら蓋をそっと開け、目をつぶり足元から順にゆっくりと目で追い、マリアの顔を見たカインは抜き取られた針が一本の楔となって胸に打ち込まれたような衝撃に言葉を失った。マリアの身体の腐敗は思ったよりもかなり進んでいた。マリアの目は白い布で巻かれ隠されており、白絹のように白かった肌の色は紫と緑がかった暗い褐色の色に変わり果て、その皮膚は少し膨張して水疱が裂けた痕や、蛆が食い潰した穴だろうか、いくつもの小さな穴が開いていた。カインは打ち震える手で目もとに巻かれている布をそっとはがしだした。そしてほどいたマリアの目を見た瞬間、「うわああっ」と叫びながらカインはマリアの白い衣の胸に顔をうずめて泣き叫んだ。マリアには眼球すらなかった。鴉や鳶につつかれて喰われたのか、そこには深く落ち窪んだ二つの真っ黒な穴ぼこしかなかった。目を閉じれば微笑むマリアの愛おしい顔が浮かんだ。カインはマリアの目をまた布で覆うと、その乾燥しきって棘のようにささくれだった唇に接吻をした。腐敗した匂いが自分の中に入りこんで一緒に腐敗してゆくことを願った。カインは思い起こせばマリアの口に口付けをしたのはこれが初めてだった。カインはどこにも行く場所がないと思った。マリアの死の隣に居る以外に自分はもうどこへもゆけない。マリアの死の傍らに俺の死もほしい。それ以外なにも俺は要らない。俺は自分の死を手に入れよう。そして俺の死が欲しい者がもしいるならその者に俺の死を与えよう。そして俺はすべてを失う。最初っから、生まれたときから、こうなることが決まっていたようだ、まるで。最後に欲しいものを俺は手に入れよう。カインはズボンの隠しから壜を取り出すと、蓋を開け、中身を一気に飲み干した。マリアの手に自分の手を重ね、顔を暫らく眺めてから蓋を閉めて、棺の隣の掘った穴に横たわると、目を深く閉じた。そして安らかな深い眠りへと落ちていった。

 みわたすかぎり灰と塵の地と空がつづいている。こんなにさびしいところをしらない。あまりにさびしくてたまらない、死が近い、こんなにさびしいところを通って皆死んでゆくのか、絶大な静寂と虚無がここにはある、すべての苦しみも呻きもこの汚れを知らない塵灰の空と地の上に響くことはない、音がここにはない、暗闇はここよりもっとさびしいのだろうか、死神がすぐ傍にいるのを感じる、その手は凍てついていてその中に果てしない温かみがある、こんなにくるしくさびしい地獄であるのに死神の息はどんなものよりも慈しみにみちているようだ、自分の身体は骨が歩くように軽く、またすべての血脈が根となり地の底まで深く張り巡らしているように重い、ここは今まで死んだ生物のすべての灰と塵を集めた壌土のようだ、死はもうすぐ自分に訪れるだろう、死神の微笑みに導かれ漸く、地獄を超え死を自分のものに、うすらいでゆく意識と記憶、肉体を代償に死が与えられる、罪の代償にその死を払う、滅びゆくのは自分ひとりだけでいい、その代わり自分以外の者をすべて甦らせて欲しい、まともな祈りだ、よかった俺は最後の最後にまともな祈りを祈れた、もう、死んでもいい。遠くのほうから声が聞こえる。おーい。誰だろう。おーい。誰かが引きとめようとしている。おーい。動くことができない、死とひとつになろうとしているときになぜ生の呼び声が聞こえるのか、悪夢のようだ、なにもわかっちゃいない、父親、母親、の声が何を言おうとしている。誰も引き止めることなどできない。
「カイン、父と母の思いはあえて言わない、おまえはもう十分承知しているはずであるだろうから。カインよ、よく聴きなさい。おまえは大きな心得違いをしている。おまえは忘却の果てに今いる、おまえの木の枝に這う葉はみな裏を向いている、おまえの木に生っている葉はすべて白んで裏側を向いているが、その葉をよくご覧なさい、裏表おなじ葉脈の筋がある、その中の一番小さな脈の先まですべておまえが描いた線である、おまえがどうなろうとその一番小さな脈すら消すことはできない、いったいそのすべての脈を成就して葉を表にするまでどれほどかかるだろうか、おまえの闇で泣いている脈たちをほおっておくことはおまえにできないのである。良く考えてみるがよい、彼女の悲しみと彼女の父親の悲しみと嬰児の悲しみが浅いものであったというならば、おまえは今すぐ死になさい。おまえの死は浅いからである。しかし浅い死の向こうにあるものは決して浅い苦しみではない、それを選んだおまえは浅ましさゆえに地しもの果てまで行って歯軋りをつづけるであろう。おまえの畏れはあまりに浅いのである。太陽は強烈な光ですべての生を養うがそれを侮っては炎熱に焼き尽くされる、暗黒な闇はいっときでもおまえの心を慰めるだろうか、今おまえのいる場所は薄暗く果ての果てまで塵と灰しかないが、それとは比べ物にならないほどの墨より漆よりも濃い闇がやがておまえを包み込む、そこでおまえは生きるわけだが、さておまえはそこで何をするか、いま考えなさい、太陽よりも永遠のような闇夜を選んだおまえがそこへ今向かおうとしている、良く考え、おまえの進みたい方を自由に選びとり、自分で選んだのだからどのような過酷が待ち受けていようとも悲しい顔をやめて堂々と進みなさい。恐れを懐くのをやめなさい、おまえの懼れはその怖れのとおりになるからである。おまえは自分の霊の命を犠牲にしてすべての魂を救うと言ったが、ではおまえに聴く、おまえから救われた魂の一人が滅びたおまえを救い出したいと言うなら、その者は滅びゆかなくてはならないのか、おまえが自ら滅びゆくことを決めたのでおまえを救う者も滅びなくては底無しの淵にいるおまえを救いにゆけないからである、私の言うことをよく聴きなさい、自分が生きるのにどうしても必要な身体の部位が闇の海底に落ちているなら、その者は必ず底まで潜ってでも取り戻しに行くのである。その身体にとってその一部は必要であり、その一部にとっても身体が必要ではないか、おまえは滅びることなくすべてを救い出す方法を見つけ出しなさい、行って帰ってよく苦しんで悔い改め、そして目覚めなさい」
 カインは目覚めた。誰かが自分にずっと話しかけていた気がするが、まったく思い出せなかった。凄まじいすべての内臓が口から出てきそうなほどの吐き気とすべての血が冷たい泥になっているような悪寒と気が狂いそうなほどの頭痛がする。吐いたのか口の周りが反吐まみれだ。口の中がとんでもなく苦い、もうすべて吐ききったのに嘔吐が止まらない。体が死んでるように重い、水を飲みたい。カインは川の水を飲みに動こうとしたが、動けなかった。想像していたのとぜんぜん違うとカインは思った。噂ではこの毒薬を飲めば短時間で眠るようにして死ねると聞いたはずだ。この発狂しそうな苦しさはなんなんだ。俺は安らかに死ねると思って毒薬で死ぬことにしたんだ。こんなに苦しむなんて思わなかった。飲まなければよかった。一番苦しい死に方かもしれない。これが罰なんだろうか。苦しすぎる。許してください、お願いします、お願いします、許してください、苦しい、苦しいよ、楽になりたい、お願いです、神よ、マリア、死ぬのが怖いよ、怖い、怖い、俺は死ぬことが生きるよりかはつらくないと思って死のうとしたんだ、間違っていた、死ぬことのほうがつらいなら俺は死ぬことを選ばなかった、苦しいほうへは行きたくない、楽なほうへ行きたい、楽なほうならどっちでもいい、ここまで苦しいのを通り越して死が楽なところにあると思えない。結局、不快なことが嫌なだけだ、不快よりも快がいいんだ、人なんて、俺、俺、俺は、結局。カインは土と反吐だらけのよごれた顔で啜り泣いた。何いいこと言っちゃってんの俺、俺のせいで三人も死んだのに、なんも変わってねえじゃん、何一つ、素晴らしい人間になれてねえじゃん、ただ快くて楽な方にしか行きたくねえんだ、俺も、誰も、くだらねえ、くだらなさすぎんのにそれでも楽を求めるなんて、死なずに生きたいなんて、救いねえよ、ねえじゃん、どこにも、見せて、見せてよ、それでもあるっていうなら、苦しみも悲しみも孤独も空虚も快に向かうためにあるなら、その道程が不快でも、人は快にしか向かってないよ、快楽しかほしくないんだよ、快楽が欲しくて、欲しくて、人は苦しんでるんだ、悲しんでいる、さみしがって虚無に浸ってるんだよ、馬鹿馬鹿しいよ、そんなのって、どんな苦行して禁欲しても、人のために命掛けて死んでも、快楽が欲しいがためなんて、いつか心地よさにたどり着くためになんて、覚りぶっこいてもつまらないな、死にたくないよ、こんなおろかなまま、嫌だよ、こんなに苦しいんじゃ、ただ楽になりたいとしか思えないよ、救いはどこに、あなたはもうご存知でしょう、人は不快でも長生きできる人生より、快楽を取り入れ早く死ぬほうを選んで生きている、命より快楽が大事なんだ、たとえ生きる時間が短くなっても快楽が欲しいんだ、快楽に取り憑いた餓鬼そのものだよ、俗世間の快楽では快楽を味わえなくなった人が他者を助けて死ぬ、それは人を助けないことより助けることが何より心地よいから、そんな感情も持たない人間がいるなら、それは、愛ですか、山や海、川、土、風、雨や雪、霧や虹、雲と空、光と闇、月、地球、太陽、金星、土星、水星、火星みたいな、そんな感情をぜんぜん持たない人間がいるならもう人間じゃないよ、人間のその次の形態、寒くて、冷たくて、真っ暗でさびしいとてつもなくさびしい地中に埋まって醜い身体の蛹の中はどろどろに入り混じっていて、生きててもそれじゃあ生きてる感じもしない、死んだようにいてもでも、春を待っている、翅が生えても、足が生えでても、目を開けていても、春にならなきゃそこから出られない、立派な成虫の姿になっても真っ暗な殻の中に閉じこもってる、ひたすら耐えるしかない、春が来るまでは、どこにだって行けないんだ、たったひとりぼっちで、小さく震えて。
 そのとき、夢から醒めたように地の上の草むらにいる虫がいっせいに鳴きだした。気づけばすでに日が暮れていた。少し体が軽くなったような気がして動かしてみると硬くなった身体は柔らかさを取り戻していた。カインはマリアの棺にゆっくりと土を被せていった。大切な宝物をそっと土の中に隠すように優しく被せると、土を平らに撫で、埋葬を終えて深く息を吸い込み、川の水で顔を洗い水を飲み、いま歩こうとしている道の先を泣き方を忘れた生まれたばかりの赤子がなにもない場所をじっと見つめるように見据えたカインは立ち上がって土を踏んで歩き始めた。
 マリアが微笑む夢のなかで流れていた季節の風に包まれ暗いみち虫が鳴いている。


インダとガラメ

小説 少年 先生

 何かに餓えきっている。何かに。餓えて飢えて渇くどころか潤いすぎて溢れてしまっているよ。餓えているのに。何かに。溢れて止まらないものがある。
 ここに親に捨てられた子供と親を殺した子供がいる。さて、どうしたらこの子供は自分を肯定し得るのか。観てみよう。
 わたしは親に捨てられた子供の守護霊だ。
 わたしは親を殺した子供の守護霊だ。
 二人は隣の星星から光りやわらかい雲に肘を着いて見下ろしていた、その子供たちを。
 親に捨てられた子供と親を殺した子供が学校へ通う。席が隣同士だ。ここは犯罪を犯した子供たちが通う学校。もっとも親に捨てられた子供の犯した犯罪とは犯罪と呼べないものであったものの、ほかに入れる学校がなかったためにここに入っただけのことだ。親に捨てられた子供は自分を殺そうとしたからだ。
親に捨てられた子供は名前をインダと言った。
親を殺した子供は名前をガラメと言った。
インダはガラメが嫌いだった。ガラメは心が優しいときと心が意地悪なときがあった。
ガラメはインダが好きだった。インダは心がとても純粋でいつでも綺麗なままだった。
ガラメの守護霊はインダの守護霊に言った。
「俺は最近とってもイライラとするんだ、叫びだしたくなるんだよ、これはガラメの魂が俺に伝わってきてるからにちがいない、ああガラメ、断食はどうした」
インダの守護霊はガラメの守護霊に言った。
「独り言をわたしに言うなよ。ってか言わなくても聞こえるがね。わたしの心だってそうは変わらないさ、なんてったって、二人は似ているからね、インダとガラメ、今ガメラって言いそうになっちゃった、ごめんごめん、ははははは」
「おい、守護霊がそんなことでいいと思っているのか?いいわけがないだろう、雑念が多いよ、君、インダを見習えよ、今はアイスのことしか頭にないようだ、実に純潔だ」
「なんでもいいが、ガラメは最近低級な電波に押し流されて苦しんでおるね、まあ身から出た錆ですけども、ね」
「おい、それが守護霊様の言うことか?そんなことは言われなくてもわかっている、低周波がびんびん届いてくるからね」
 ガラメは最近吸血鬼にまたまたハマッていた。吸血鬼ってかっこいいな、吸血鬼の恋人欲しいな、欲しい世欲しい世欲しい、吸血鬼なら堂々と家に引篭もっていられるのにな。吸血鬼って本当にいるのかな、暗黒組織、黒魔術、レプティリアンとかって本当にいるのかな、地下世界ってあるのかな、僕は何もわからないことばかりだ、ああ、苦しいよ、僕の脳内の干渉が悪魔を創り出しそうだ。呪いのオーロラが僕を鼓舞させる、嬉しいことだ、それは嬉しいことじゃないのかしら。
「悪魔崇拝するなよ」
 虚ろな目の青白い顔をしたインダは授業中にそうぶつぶつと喋っている黒光りする目のガラメに向ってそう言った。インダを透かして西日の眩しい、僕はきっと吸血鬼に近くなってきてるはず。
「なんだよ、そんなのおめえに言う権利あんのかよ、資格あんのかよ、親に捨てられた親に必要とされなかった子供の癖に」そう言ったあとガラメは後悔した。
 インダは気にせずという顔をして前を見て授業の続きを聞いた。
 ガラメはいたたまれなくなって「先生」と手を挙げた。先生は「どうしたガラメ」と返したのでガラメは立ち上がって言った。
「先生、レプティリアンって本当にいるんですか」
 先生は顔色一つ変えずに即答した。
「いないよ」
 ガラメは剥きになって返した。
「なんでそんなこと言えるんですか、なんでわからないことをわからないと先生はおっしゃってくださらないんですか」
 先生は表情を微塵も崩さずまた即答した。
「あのなぁ、わからないことをわからないということが偉いことじゃないぞ、偉いのは、居て欲しくない存在はきっぱりと居ないと否定できる心の強さだ、いいか、わかるか、それがおまえに」
 ガラメは歯をギリギリいわして悔しそうな顔で言った。
「そんなの強さじゃないですよ、強さってそうゆうのじゃない、そんなのちっとも偉くない先生はきっと実際レプティリアンに遭遇しても、居ないって否定するんだ、きっとそうだ、先生はこの世界を信じていないんだ、目に見える世界を信じられないんだ、それが偉いって思ってるけれど、良く考えてみてくださいよ、そんなのってレプティリアンたちに失礼じゃありませんか、自分の見たくない世界は存在させてもあげないんですか、そんなのってレプティリアンたちが可哀相だ、彼らは、彼らが居て欲しいと願う人たちによって創造されたんです、現に、創造する、創造したい人間が居る以上彼らは居るんです、彼らは願われて存在するようになったんです、これは無からの創造です、先生は無からの創造を否定するのですか」
 すると先生は右の眉をヒクと微かに動かせて言った。
「先生は否定した物事がこの世に存在していないなどとは言っていない、だが、居てほしいと願いそれらを創り上げる存在が居て、居て欲しくないと願いそれらを殲滅する存在が居るのだよ、先生はただの後者に今在る、というだけだ、つまり先生の世界にはレプティリアンは存在しないよ、ということだ」
ガラメは悲しい顔をして言った。
「そんなのって卑怯だ卑怯だ卑怯だ、逃避だ逃避だ逃避だ、先生の世界は僕の世界でも在るんだ、僕の世界を独り占めするな、僕の世界を横取りするな、僕から世界を奪うなんて許せない許せない許せないよ、先生の馬鹿馬鹿馬鹿、僕の世界から先生を居なくしてやる、居なくなれ、僕の世界から、いなくなれいなくなれいなくなれ」
 ガラメは瞳孔を全開して口から泡を蟹のようにぶくぶく吹き出し獣のように叫んだ。先生は落ち着いた顔でガラメのもとへ走り寄るとガラメを負んぶして何もいわずに教室を走って出て行った。
 ガラメは先生の頭をこつこつ叩いた。骨の音がした。きっと先生の頭は空っぽなんだ、だからあんなこと言うんだ、先生の脳みそは枯れきってしまっているんだ、きっと振ったらしゃらしゃらと砂の流れる音がするんだ、ガラメはそう思いながら先生の頭を何度も何度も叩いた。先生は黙ったままガラメを負ぶって外を走り回った。
 いつまで走り回るのかと不安になったガラメは先生にたずねた。
「先生何故僕を背負いずっと走ってるのですか、僕は疲れてしまいました」
 疲れを知らないような先生はさわやかな息切れの合間に返事した。
「ガラメの世界から先生がいなくなるまで先生は走り続けるんだ、先生がいなくなればガラメは自分の足で歩くことができるぞ、さあ先生をほんとうにガラメの世界から消してしまいなさい」
 ガラメは先生の首筋に涙を落とした。ガラメは泣きながら「ごめんなさい」と言った。
「先生がいなくなったら嫌だよ」
 先生は大回りをして走り、教室へガラメを負ぶったまま戻った。ガラメの嬉しそうなけろっとした顔を見てインダは頭の後ろ側に冷たい闇が広がっていくのを感じた。胸が痛い、ガラメ、君は僕の欲しいものすべて壊しても笑ってる、何故なんだ、耳が篭る、死人の内臓を抱えて何故僕が生きてゆかなくてはならないのか、苦しいよ、生前に棄てられたかった。インダの心が余所行きから普段着に変わったとき、突如青い闇が夢からこぼれてきてインダの指先を青く染めた。インダはほかに救いを求めることが苦手な子供だった。為す術がなくインダはガタッと席を立ち上がると先生の顔を指差して堂々と言った。
「レプティリアンがいたぞ!」教室内はざわざわとどよめきが起こった。何よりびっくりしたのはガラメだった。インダがとうとう狂っちまったぜ、ガラメはそう思っても先生ならいつものようになんとかできるに違いない、ガラメは隣に立っている先生の顔を見上げた。すると先生はいつもの先生らしくない狼狽した様子が見えた。まさか、先生がレプティリアン、そんな馬鹿な、ガラメは一瞬焦ったが気を取り直して冷静な表情を作りインダに向って言った。
「インダ、それって証拠とかあるのか、何を根拠にそう言えるんだ」
インダは自信満々の笑みをたたえて言った。
「僕、昨日の晩バンシェリ公園で見たんだ、先生が恐竜の目をして野良猫をとっつかまえて貪り食ってるところを!」
 教室内は悲鳴と歓喜の雄叫びの渦に巻き込まれ何人かは恐怖のあまり教室を出て行った。
 ガラメはびくびくとしながらもう一度先生の顔を見上げた。すると先生の顔は青ざめてまるで本当のレプティリアンのように緑がかってるようにも見えた。もともと細く吊り上った目は眼鏡の奥でもっと細められレプティリアンの赤い目を隠そうとしてるように感ぜられた。ガラメは信じられない思いで恐怖に怯えた。先生がレプティリアンだなんて、そんなこと、信じたくないよ、違うと否定してよ先生、そう思っても怖くて声が出なかった。
 そのときである、先生は突然大笑いをした、奈落の底から聞こえてくるような恐ろしい響きであった。そしていかにもレプティリアンのような爬虫類系の恐ろしいぎこちのない怪しい動きをして教卓の前までサササッと歩いてまた笑った。
「ガラメ、インダ、席に着きなさい」
そうかと思うと先生はぱっと顔を変えていつもの調子に戻ってそう言った。ガラメは血の気を引かせながらも席に戻り、立っていたインダも席に着いた。
「インダ、先生はそれを否定しない。何故なら先生は昨日の晩はひどく疲れていてずっと眠っていたんだよ、先生は自分では本当に覚えていないのだが、どうやら夢遊病らしい、昨日の晩も目が覚めると体中泥だらけでね、どこかを眠りながらさ迷い歩いていたのだろう。だから先生は否定しない。しかし記憶にないものだから肯定もしない、泥だらけではあったが、口の周りや寝巻きや手に血など付いていなかったよ、あとはみんなでよく考えて決めたらいいことだ、ははははははははっ」
 先生はとても楽観的な人なので、そう不気味にさわやかにも笑うと「さ、次の期末テストまでもう日がないから、要点だけ抑えておこうか」と言って授業にさくっと戻ってしまった。ガラメが窓際のインダを観るとその首はがくんとうな垂れ頭の頂点が机に引っ付きそうだった。誰よりも心の純粋なインダ、君の見たもの、僕は信じるよ、それに先生がレプティリアンだなんてなんだかすごいじゃないか、かっこいいよ絶対、僕は先生の言ったとおり信じたいものを信じることにするんだ、今日から、ああ、先生がどうかレプティリアンでありますように、愛情と慈悲深きレプティリアン先生であるように、ガラメは先生が黒板に何か書いてるときにそう手を組んで神に祈った。
 この様子を天におられる二人の守護霊たちはヒヤヒヤして見守っていた。
〈ぼくはいんだのいうことしんじるよ、ぼくもせんせいがれぷてぃりあんだとおもうよ、ううん、ぜったいそうさ、さっきめっちゃあおくなってみどりがかってもいたし、きみはだからうそをいってないよ〉ガラメはそうノートの端くれに書いて破ってインダの机の上にそっと置いた。インダはそれを読んで照れているのか、ガラメのほうを観ずに何か必死にノートに書き殴っていた。インダはガラメのことがますます大嫌いになった、もうぶっころしてやりたい気持ちにさえなった。ガラメはこれでインダは少し僕のこと好きになっちゃうんだろうな、と思ってにやにやとしていた。

 その晩、先生は寝る前に天におられる守護霊に祈った。まさかわたしがレプティリアンだなどと、そんなことはありませんよね、守護霊よ、わたしは恐ろしいのです、記憶にない時間、自分がどこを歩き、何をしているのか、わからないのです、皆目見当がつかない、一体どうしようか、もし、わたしがレプティリアンであったとしたらば、大変に大変です、野放しにしておけない、困ったことだな、誰かわたしを見張ってくれる人はおらないだろうかな、ああ困った、困ったぞ。天におられる先生の守護霊はそんな様子の先生を見守り、インダの守護霊に超感覚伝達法によって心の声を飛ばした。
「おい、インダの守護霊よ、ちょっといいですか」
 インダの守護霊はすぐさま返事した。
「はいはい、なんですかベルズィーの守護霊よ」
「あのさ、今日インダがあんなこと言ったじゃないですか、それでうちのベルズィーが恐ろしがってね、自分を見張ってくれる人を探してるんですよ、それでここはインダをその見張り役にしたらどうかと思うんですよ」
「いや、そんなこと言われなくともやります、ってかそうなりますよ、ご覧になってください、ほら、インダもう先生のうちへ向っている」
「あ、ほんとだ、インダはあれですね、第六感けっこう発達してますね、じゃあ見守るとしましょう」
「まあ地獄に毎日いるようなものですからね、嫌でも発達しますね、ええおとなしく見守りましょう」
 天高くから二人の守護霊が見護る中、インダは夜中にてくてくとその小さな足を運ばせ、先生の家に向って歩いていた。暗いものだから手持ちランプを持って来るべきだったのに忘れてしまい、何度も躓いて膝小僧を赤く擦り剥かせた。黒い物影に勢いよくぶつかったインダは地面に転びチカチカと瞬いているのは夜空の星たちか脳天の星たちか一瞬見紛うた。インダは起き上がり、いったい何とぶつかったのか暗闇のなか目を凝らしてじっと見た。するとそれは驚いたことに、今から会いにいこうとしていた先生その人の眠っているものだった。インダは恐ろしさを感じた。なにか得体の知れない亡霊と同じような存在に思えたからである。だって、本人は今ここを歩いているとわかっていない、では何が歩いているのか、何が先生を歩かせているのか、考えると身体は震え上がり、もう帰って寝たい気持ちに駆られた。しかし、今日の午後、インダ自身が発した言葉、あの言葉の真相を掴むまで居ても立ってもいられない。インダは何故じぶんが今日あんなことを言ったのかまるでわからなかった、思ってもいない言葉が口をつく、ということがあれのことか、とインダは思った。思っても見ないことが突然じぶんの口から発せられたのである。なんて恐ろしいのだろう。インダはそれだから余計に自分の目で見た以上に、その言葉が真実を物語っているように思えてならなかった。先生は本当にレプティリアンではないのか、そういう気持ちがふつふつうじゃうじゃと湧いて頭がレプティリアンでいっぱいになってしまった。寝ていられない、寝付けないのはいつものことだが、今夜はずっと何か違う、恐ろしくてならない、先生が寝ている僕を襲いに来るかもしれない、だからこうして寝ている先生を見張っていたほうがずっといいだろうと思ったのである。しかし実際眠ったまま闇のなかをさまよっている先生の姿をこの目で見、怖気がぞわぞわと上がって、インダは泣きそうな顔で見えない手に歩かされている先生の後を着けた。
 すると、ああ、なんてことだろう、バンシェリ公園にゆらゆらと入っていくではないか、インダは生唾をごくりと飲み恐怖を越えた好奇が芽を出し目をギラつかせて後を追った。
 先生は公園の奥深い茂みの中へと入っていった。インダも入っていき静かな月光が白く先生を照らしたときである。先生が寝巻きの懐から光るものを取り出した。インダの目にはそれが明らかに刃物であると映った。しかもその刃物で何かを跪いてガシガシとやっている、猫を殺しているのか?!やっぱりだ!先生はレプティリアンだったんだ、ここで夜な夜な野良猫を襲い食べていたんだ、なんてこった、僕たちみんな冷血残忍のレプティリアンを先生と敬っていたんだ。みんな騙されてる、僕たちもいつしか食べられてしまうぞ、えらいこっちゃ、みんなに知らせなくっちゃ、インダは一目散に走ってガラメの家に向った。
 ガラメの家はズタボロオンボロ家で、そのあまりの臭さと異様な外観から目をつぶってても匂いと低い波動でわかる。インダはガラメの家の戸を叩いた。ドンドンドンッ、ガラメッ、ガラメッ。少しして戸が気味の悪い音をたてて開いた。そこにはふやけたような顔のガラメが寝巻き姿で立っていた。
「インダ、インダじゃないか、どうしたのこんな夜更けに」
 ガラメは寝起きでよくわからなかったが、きっとインダは愛の告白を僕にしにきたんだ、と夢心地に思った。こんなに頬を恋する少女のように紅潮させている。
 インダを部屋の中に入れたガラメはそこでかくがくしかじかの話を聞いた。ガラメはそれを聞いて頭を悩ました。ってか、僕は、僕はそんな事実どうだっていいんだ、僕は事実関係なくインダのいうことを信じると言ってインダの心を僕のものにしようと企んでいるのに、どうしてわかってくれないんだインダ、真実がどうであっても僕が信じると言えば、それは真実以外の何物でもないんだ、もう先生はレプティリアンなんだよ、確実に、僕がそう決めたんだもの、誰にも口答えさせない、僕が信じるものだけが僕の世界に存在していて、あとは何一つ存在してなどいないんだ、そうゆう世界なんだよ、ここはインダ、ああなんっつったらいいんだ、これ、難しいなぁ。ガラメはじぶんが考えていることがあまりに複雑で言葉にすることの難しさをおぼえなんと説明したらよいのか困り果てた。先生にならあんなにきっちり言えたはずなのに何故インダの前だと僕は何も言えなくなるのだろう。これが愛なのか?
「なあガラメ、どうする?先生を、どうする?」
 インダはそう驚きのあまり黙りこくっていると見たガラメに向って目をきらきら耀かせて言った。
「どうするって、別にどうもしないけども、なに、インダは先生をどうにかしたいわけ?」
「あったりめえだろう、どうにかしなくっちゃ僕たち全員食べられちゃうんだぞ、いいの?食べられても」
 ガラメはうーんと唸って考えた。食べられたくはないけど、でも先生がレプティリアンなのは僕とインダの世界だけの話だからな、よその世界では先生はただの人間のはず、どうにかするってどうできると言うんだろう。
「インダはどうしたい?先生を」
インダはガラメが言い終わる前に嬉しそうに言った。
「殺すしかないよ!」
 ガラメは深刻な気持ちで思った、僕はたとえ先生が本当にレプティリアンであったとしても、殺したくないよ。愛しい人間を殺すのは、懲り懲りだよ。
「インダ、何故先生を殺すんだい」
 インダは拍子抜けした顔をして言った。
「何故って、だって先生を殺さなくては、僕たち食べられちゃうんだ、食べられたくはないよ、ガラメもそうだろう?」
 ガラメは腹の中にガスが溜まっているような顔をして「うう」と唸って言った。
「確かに食べられたくはないよ、僕だって、でも、でも先生のこと僕好きなんだ、インダは?」
 インダは悲しい顔をして言った。
「僕が好きなのは、僕を捨てたお父さんとお母さんだけ、一番大事な人が僕を好きじゃないのに、僕がほかの人を好きになれると思うかい?」
 ガラメは心の中が真っ白になった。ってことは僕のことも好きじゃないのか、なんだ、僕の早とちり馬鹿、糞野郎、僕の、この、死にぞこないめ。ガラメは自分への憎しみが募り、またイライラとしてきた。
「へえ、だったら話は早い、僕は先生を殺すものか、馬鹿、言っとくけど、先生はレプティリアンなんかじゃない、先生は歴としたヒトという生物だ、僕が証明してやるよ」
 インダはこのガラメの豹変振りには慣れっこでいたが、何度食わされても腹が立つ、そう言うならおまえらの世界に侮辱と恥辱と汚辱を御見舞いしてやる、そう思いクールな顔で言った。
「あ、そう、わかったよ、むしゃむしゃ食われてても絶対助けを呼んでやらないからね、それで全員食われて先生を僕が殺して僕だけ助かってやる、それで思う存分自分を思いっきし殺してやるんだ、いい気味だ」
 ガラメは歯軋りをギシギシしながら考えた。こうなった以上、明日から先生を見張って先生が絶対レプティリアンじゃないことをインダに見せ付けてやろう。漲る気力、ガラメはとても元気の湧いてくることに歓び、そして睡魔に襲われインダを家から追い出すと汚いベッドに倒れこんだ。
 インダは豚小屋みたいな家からそそくさと遠ざかるとがっかりしてガラメに呪いを馳せた。ガラメのすっとこどっこいを少しでも信用した僕が馬鹿だった、二度とこんな過ちは冒すものか。インダは今からでも先生のところへ戻って真偽のほどを確かめたかったが、ガラメと同様とんでもない眠りの魔に襲われ家に帰ってぐっすりと眠った。

 次の朝、目を覚ますとまたもや寝巻きがどろどろになっているのを見て先生は戦慄した。いくら楽観性を具えたわたしといえど、これはいかんともしがたい、昨夜は見張りが必要だと考えている間に気絶して眠ってしまったのか、なんたる手抜かり、今晩までに必ず見張り役を探そう。
 ガラメの守護霊はぐったりとして綿菓子状の雲に顎を乗せインダの守護霊に言った。
「ガラメの波動が突然変わったのでとてもしんどいんだ、当のガラメはあんなに元気にやっているというのに、どうしたことか、これは今までにない強烈な波動だ、バランスが悪い、しんどいなぁ」
 インダの守護霊はいつになく目を潤ませて言った。
「万事うまくゆく、ああ、わたしは嬉しいぞ、インダがあんなに生き生きと苦しんでおる、これで当分自決の心配はない」
 いつもの朝のように先生は温和で落ち着いている。インダには先生がレプティリアンにしか見えない。ガラメは今夜が待ち遠しくてならない、そわそわしすぎて貧乏揺すりが止まらない。インダは先生が本当にレプティリアンでみんな食べられちゃえばいいんだと思った。僕だけは食べられたくないけれども。先生はレプティリアン、僕がそう信じれば、先生はレプティリアンになる、僕が先生をレプティリアンにする、してみせる、そうだ、どっちが勝利するかだ、これは、僕の信じた世界が勝利するか、ガラメが信じた世界が勝利するか、どっちにしろ僕は死ぬけどな、だってどっちにしたって僕の苦しみは変わらないじゃないか。ガラメはそれをわかっちゃいないんだ、先生も。わからないことってなんて不潔で愚劣なんだ。わからないことが僕を絶望させるんだ、なんで親が僕を捨てたのかわからないことが、わかっていたなら、もうとっくに僕は死んでるのかもな、わからないことで今まで生きてたなんて、それでわからないことと一緒に死ぬって言うのか、嫌だいやだいやだ、わからないものと一緒に死ぬなんて、誰とも一緒になんて死にたくないのに、僕ひとりで死ねないのか、だから生きてるのか、なんでわからないんだ、わかってればわかってるものと一緒に死ぬだけじゃないか、どっちも反吐が出るぞ!先生がレプティリアンで僕を食い殺すにしても、なんで先生がレプティリアンなのかわからないんじゃ、わからないものに殺されるのもわからないものと一緒に死ぬのもたいして変わらないな、ああ気が狂いそうだ、いつものことだけど、わからなくもあるしわかることでもあることはないのか、気持ち悪いよそんなこと!くそっ、そうめん、くそもうしりとり終わった!頭の中にヘビがとぐろ巻いてるぞ。
「先生、インダが痙攣しています」
ガラメがそう言うと先生はインダのところに走ってきてインダを負ぶって何も言わずに教室から出て行こうとした。インダは先生の背中で痙攣しながらガラメを見て顎でくいっとやって「来い」という仕草をした。ガラメは先生に気づかれないように少し距離を置いて後を追った。
「先生、僕昨日の晩見ちゃったんだ、先生が眠りながら歩いてってバンシェリ公園に入って、そこでナイフで猫をザクザク切ってたんだよ、先生やっぱレプティリアンだよね」
 インダは痙攣が治まったのと同時にゆっくりと歩き出した先生の背中のぬくもりを感じながらそう言った。先生は少し間を置いて静かに言った。
「インダ、先生は信じたいものだけを信じると言ったのを憶えているか」
「はい、先生憶えています」
「先生は自分がレプティリアンだとは信じたくない、だから先生の世界では先生はレプティリアンではないよ、しかし大切なのはそこじゃなく、先生は別にレプティリアンでもいいんだ、人も動物も殺さないこの温和で慈悲深い優しい先生と同じ性格ならね、先生が信じたくないのは先生が猫を殺して食べているということだ、先生は菜食だから、それは断じて信じたくないことなんだ、だから先生は猫を殺していないという自分を信じる以外にない、よって先生の世界では先生は猫を殺して食べていない、どうだ、インダ」
 インダは先生のお日様のような白いシャツの匂いをくんくん嗅ぎながら言った。
「おっしゃりたいことはよくわかっています。僕もそのまま先生にお返ししたいのです。僕は先生が猫を殺す残虐なレプティリアンでなくてはならないと信じて、その世界を創ったのが僕ですから、先生はレプティリアン以外の何者でもないのです」
 すると先生は「そうだな」とあっさりと言ったっきり黙ってしまった。
 インダは先生が黙ってしまったことが寂しかった。あっさりとレプティリアンだと認めたようでつまらなかったし自分への無関心がそこにあるのではないかと疑った。
 インダは振り返るとそこにはガラメが阿呆面を下げてへこへこ歩いて着いて来ていた。インダはもっとガラメのときのようにとことん議論を続けて相手を否定し続ける姿勢を先生に望んだ。インダは自分を捨てた父親もこんな温かくて大きな背中をしていたのかと思い先生の背中に涙のしみを作った。
 先生の心はくずおれそうだった。先生は好きでこの仕事をやってはいなかった。先生は人間が苦手であり、また子供はもっと苦手だった。先生がこの仕事をやっているのは天におられる守護霊が先生にやれと言ったからにほかなかった。先生は好きな女に振り向いてもらえずヤケクソでこの仕事をやっていた。クラスの中で一番の純真なインダに自分がレプティリアンであると信じると言われ、議論好きの先生が脊髄を抜かれたような心持ちがしてその場に崩れそうになった。傷つきやすい子供と向き合うのは骨が折れる、自殺願望が強烈にある子供に言葉という自殺幇助をしかねない。そのとき先生を猛烈な逃避願望が襲った。
 インダはたくさん泣いて少しすっきりしていると先生から象のいびきみたいな音が聞こえてきて吃驚した。もしかして眠っている?そんなことってあるのだろうか、しかし頭はうな垂れて僕を支えている手も力がなくなっている。インダは振り返ってまだ阿呆面をしたままのガラメに向ってクイっと顎を動かし「近くに来い」のジェスチャーを行った。
 ガラメはハッとした表情になりキリッとした顔に戻って走ってきた。ガラメは鼾をかいている先生に驚いて、そおっと先生の顔を覗き込んだ。先生は目をつぶって歩いていた。ガラメは慌てふためいてジェスチャーで先生に指差して自分の目を瞑って、目をつむってる、というのをインダに伝えた。インダはこしょこしょ話をするように音の出ていない息だけの声でガラメに言った。
「よし、このままどこへいくのか、いっしょにいくぞ」
 ガラメは目を大きくしばたたかせ、うんうんうんっと首だけで頷いた。
 目も開いていないのによく歩けるものだ、先生はもしかして目ではない場所で見ているのだろうか、先生は普通に道路を渡るときは赤信号で止まり青信号で歩き出し、いくつもの角を曲がって先生の家の中へと入っていった。先生はインダを負ぶったまま、まず洗面所で手を洗い顔も洗い、便所へ入って用を足し、ベッドに座って煙草を一服した。それらをすべて鼾をかきながら行っているのだから恐ろしい。そしてベッドサイドテーブルに乗っかっていたノートをひらけるとペンを持って、何かを書くのかと思えば、止まったままで、少しして「インダ痙攣する、ガラメが知らせ、インダを負ぶって町の中を歩く」と書いた。その日あったことを忘れないように記してあるのだろうか、とインダとガラメは顔を見合わせて思った。先生がノートをテーブルに置くとガラメはそのノートを手にとって他のページを覗いてみた。そこには学校のことだけではなくその日帰りに何を買ったのか、とか、何を作って食べた、とか、何の映画を観て何の本を少し読んだ、など、どうでもいいような感想とともに事細かに記されていた。なんでこんなことをいちいち書き記しているのだろう、とガラメも首を伸ばして読んでいるインダも思った、すべてのページを隈なく読んで「猫を惨殺して食った、やっぱ雉猫の肉は美味い気がする」とかは何処にも書かれていなかった。先生はテーブルに肘を着いて少し止まっていると突然動き出して台所に立ち、ニンニクとピーマンとキャロットとオニオンを切って炒め、同時に湯を沸かしてパスタを放り込み、ケチャップと塩コショウと顆粒の昆布ダシで味付けしたナポリタンを作りテレビジョンをつけると目を瞑って鼾をかきながらそれを食べた。インダとガラメも横からフォークを持ってきてつまみ食いをした。先生は食べ終わって後片付けをするとまたベッドに座り、することがないなというふうにテーブルに肘を付いたりノートをまた開いては過去の日記を読んだりしていた。
「なあインダ、別にもう負ぶさってなくていいんじゃないの、先生重いだろう、降りろよ」
 そうガラメはこそこそ話をするように言った。インダは真顔で「だってこのほうが楽なんだもん」と甘えたがきんちょのように言った。インダはこの温かさをかつて味わったことがあるような気がして懐かしくて離れたくなかったのだった。
 天におられる三人の守護霊たちはこの様子を黙って観ていた。
 インダの守護霊とガラメの守護霊はベルズィーの守護霊に言った。
「夢遊病」
「夢遊病、ね」
 ベルズィーの守護霊は黙っていた。
 先生は今度は聖書を静かに鼾をかきながら読み出したりと、いつまで経っても外へ出る気配がない、とうとうインダもガラメも疲れて先生のベッドに横になり「きっと出てくのは夜になってからだよ、夜じゃないと人がいて見つかるとヤバイだろう、だから今のうちに眠っておいたほうがいいな」とインダのその提案にそのままガラメは何気なく賛成して二人とも眠ってしまった。
 すると間もなくして先生は目を覚まし、眠っている二人を眺め、二人にタオルケットをかけてやると家を出てまた学校へ戻った。
 授業を終えると帰宅途中にスーパーに寄って食材と猫缶を三つ買って家に帰った。
 家に帰るとまだ二人はすやすやと眠っていた。先生はシャワーを浴びると大量の豆腐ハンバーグを作り始めた。そして出来上がると二人を揺り起こし言った。
「ご飯ができたぞ、さあ顔を洗ってから食べなさい」二人は顔を見合し驚いた。二人は顔を洗って席に着くと「いただきます」と言って豆腐ハンバーグを食べ始めた。
「先生、今日」とインダが言いかけると先生はすかさず言った。
「今日は二人とも泊まって行きなさい、先生は地べたにマットを敷いて寝るから、明日は学校休みだしな、先生もぐっすり眠りたいよ」
 さっきぐっすり寝てたけど・・・・・・とインダは思ったが言わなかった。寝てるのに身体は行動してるって疲れるのかなと思った。
 ガラメはまたインダの横で眠れると思うとにやにやが止まらなかったが、そうだ、僕は先生がレプティリアンじゃないってことをインダに証明することをするために今日の僕がいるんだった、と思い出し、顔を引き締めて豆腐バーグを頬張った。先生はビールをたくさん飲んでご機嫌だった。
「先生は酔ったぞ、先生寝るけど、風呂に入るなりなんなり好きにしなさい、眠れないなら映画でも観るか、いろいろあるから、そこ、その戸棚の中な、15禁から20禁のやつは観るなよ、裏にちゃんと書いてあるから、んじゃおやすみ」
「おやすみなさい先生」
「それってイヤラシイ・・・あ、おやすみなさい先生」
 インダとガラメに見守られて先生はまた鼾をかいて眠った。
 二人は早速戸棚の中から20禁のものだけを選び抜き、風呂は後回しにして何を最初に見るか話し合った。
 二本立ての二本目の中盤あたりで疲労を感じた二人はベッドにごろんと横になった。先生まだ動き出さないね、今日は昼間に夢遊したから夜中は寝っぱなしかもな、そうガラメが言うとインダも「うん」と言って難しい映画の内容が頭に入ってこなくなった。
「眠いよガラメ、少し寝たい」インダがそう言うとガラメは「いいよ」と返事した。
「僕が見張ってるよ、起き上がれば起こすから寝てなよ」
 インダは甘えて「うん、僕が起きたらガラメが寝ていいから、交互に見張ろう」と言うと目を瞑った。
 ガラメはコーヒーを淹れて映画をだいぶ巻き戻して観た。
 時計の針が3時を回った頃、先生は起き出した。目をつぶって鼾をかいたままだ、夢遊状態、ガラメは急いでインダを揺さぶって起こした。
 先生は眠っているというのに銀縁眼鏡をかけ、かけた眼鏡を置いて洗面所へ行って顔を洗い出した。便所へ行ってから、寝巻きを脱いで白いシャツとカーキ色のカーゴパンツに着替えだした。そしてインダとガラメははっきりと見た。先生が折りたたみナイフと猫缶を三つカーゴパンツのでかいポケットに仕舞うのを。先生は外へ出た、その後ろをインダとガラメは着けた。
 先生は脇目も振らずにまっすぐにバンシェリ公園へと向かい、その中へと入っていった。二人は無言だった。雑木の暗がりの中を先生は頭を垂れて歩いてゆく。そして月明かりが先生の手元を明るく照らす。先生は背を丸めてその場に蹲ると折りたたみナイフをポケットから出してそれで猫缶の蓋をザクザクと切って蓋を開けた。野良猫たちがニャアと鳴いて馴れ馴れしく先生のところへ寄ってきた。先生は猫缶を猫たちに与えている。そして隙を狙って猫をナイフで一突き、フギャアと叫んだ猫の腹を切り裂き内臓から貪り食らう。ほら見ろよ、先生、レプティリアンだったろ、って世界は誰も信じなかった。誰一人その世界を信じなかったから、その世界が何処にも存在しなかった。インダの目には先生はただ猫缶を与えていた腹を空かした野良猫たちに、ガラメの目には先生は好きな女にも相手にしてもらえず一人で暮らすのが寂しいから野良猫をああしておびき寄せて隙あらば連れて帰ろうとしているとしか映らない、先生は、先生は眠っている、眠っているから何もわからないし知らないんだ、先生の目が見開いて真っ赤だとか、先生は本当はレプティリアンじゃなくて吸血鬼だったとか、そんなことも誰も信じないから、存在しないよ、誰の中にも。だって僕ら見たいものしか見えないんだ、そうだよねガラメ。
 インダ、僕の信じたいインダ、僕の信じたいインダがそう言っている。それ以外の世界が何処にも存在しない。他の世界では、インダは先生に向ってって先生に食い殺されて、でも吸血鬼となって生き返り、インダは僕を今度は食い殺し、僕も吸血鬼になったなんて世界があるかもしれないね、でも僕はそんな世界信じていないから、僕の世界じゃないよ、僕が信じるこの実在の世界では明日からも毎日僕とインダはただのヒトである先生の居る学校に通う、何故ならここは信じない以上実在しないという世界だから、幻を信じるなんて、馬鹿げているだろう?僕が創りだした世界を僕は信じない。幻を信じないなんて、馬鹿げているだろう?信じた世界しか信じないなんて、馬鹿げているさ。そうだろうインダ。
 ああほんとだ、僕は先生も自分も殺さずに済んだ、血が欲しいよ、ただ、生き血が欲しいよ、ガラメ。
 僕もだインダ、でもなんにも信じちゃいないんだ。この欲望も感触も。絶望も希望も。何一つ、ここには存在していないんだ。
 ふと光を負った闇は曇り空で、何処にも存在しない世界が三人の前にあった。












雲の憂鬱―後編―

朝になっても雨は降り続いていた

彼が外に出ると地面一面に湿原が広がっていた

胸の高さまで伸びた草の匂いがする

彼は闇雲に歩き続けた

歩きながら彼は一つずつ確実に思い出してゆく



母親が死んだ次の日に見た赤い雲

その時僕の手の上に乗ってきた赤い蜘蛛

そして幼い僕はその赤い蜘蛛を飼い始め

あの時見た怖ろしい赤い雲を心の奥に封じ込めた

蜘蛛は、あの蜘蛛はすぐに死んでしまったのだ



魚など飼った覚えはない

彼の脳内の世界に住む少年が見る夢の中にだけ魚は存在していた


その魚は静かな目をして少年に襲い掛かる

少年は飲み込まれ、魚は満足気に眠りに就く

遠くの雲が徐々に降りて来て、地面に降り立つ

魚の周りを雲が囲んで雲の壁が出来る

眠る魚の下に雲は広がり魚を持ち上げ

雲と一緒に空へ昇ってゆく




あの雲は死んだ世界を探していた

今までいつも見下ろしていた世界が死んで

雲は孤独を覚え灰色に染まって新しい世界を

拒み始めていた



一人の少年を愛することで雲はこの世界から

逃げた


その少年の脳内に死んだ世界とある言葉を

焼き付かせ、記憶させた


大人になって彼はいつも自分の脳内にある

謎の言葉と風景を自分のものとして錯覚した

彼の幼い時の記憶を消し去り

知らない少年として彼の夢に現し

彼の中にいつもその少年を住まわせた




謎は一斉に解け始めてゆく




湿原だった地面の水は涸れ果て

草は緑に光り、太陽が低い雲の切れ間に見えた

雲は段々赤く染まってゆく

太陽が沈んだ後もずっと赤く染まったままの雲から

巨大な魚が泳いで来る

虹色の鱗のその魚の目が微笑んでいる




彼の頬に一筋の水滴が流れた



彼は気付いた


世界が死んだと見せ掛けたわけを



一度死んだ世界がどれ程美しいかを

雲の憂鬱―前編―

その世界は死んだ

謎の言葉を残して



彼は一人の少年に出会った

少年はその謎の鍵を持っていた



彼の脳内に広がる鬱蒼とした草原

手を伸ばせば届きそうなほど

低く垂れ込める雲の下で

怖ろしい顔をした巨大な深海魚に

食べられる夢を毎晩その少年に見せた



「ぼく、あんしんしてもいいの」

食べられそうになる時に

少年の心はいつしか

決まってそう発するようになった


深海魚の口が迫り来る時少年は

決まって振り返って微笑む

少年はどうやらその事態に

安堵を覚えようとしているようだ



その世界が死ぬ前に

彼には確かにこう聞こえた

「クモノユウウツガアカニソマルトキ
         
 フタタビセイトナル」



少年は蜘蛛を飼っていた

魚の餌にするために

蜘蛛を捕まえて飼っているのだ

その魚は夢の中の深海魚に少し似ていた



少年と少し夢の中で話すことが出来た

蜘蛛を手の甲に乗せて微笑みながら少年は話した

「僕が蜘蛛を魚に食べさせるのは

 僕が魚に食べられるためだよ」

「だって蜘蛛は蝶を食べるよ

 僕も魚や動物を食べるよ」

「僕を食べた魚もいつか
  
 食べられてしまうんだ、あの憂鬱な・・・」

そこで少年が目を覚まして続きが聞けなかった


次の日の夜少年は私の夢に出て来た

少年が蜘蛛を飼いだしたのは

母親を亡くした次の日からだとゆう

「お母さんが死んだ次の日

 僕の側には誰もいなかった

 僕が一人で泣いてると

 一匹の蜘蛛が僕の手の上に乗って来たんだ

 そいつだけがずっと僕の側を離れなかった

 ずっと大事に育ててた 

 でもそいつが死んじゃったら僕はまた
 
 一人になる

 だから魚を捕まえてきて、そいつを食べさせたんだ

 あの魚は僕よりも大きくなる

 そして僕はあの魚に食べられる

 そしたら僕は魚に食べられた蜘蛛たちと

 一緒にいられるんだ

 ずっとね

 だってあの魚はいつか、あの憂鬱な雲に・・・」

雷が近くに落ちた音で彼は目を覚まし

また続きを聞き逃してしまった

窓の外を見ると遠く灰色の雲からたくさん光が落ちていた