Twitterで綴った我が半生

































































































我が半生 幼年時~少女時

 そうして家へ連れ帰られ、5歳か6歳か、小学校へ上がる前、私は家で一人でお絵かきをしたりして退屈な時間を潰していた。すぐ近所に住む女の子が幼稚園から帰るまでの間。私は何度も彼女が幼稚園から帰ってきたかと彼女の家のチャイムを鳴らしそのたびに、ごめんねぇまだ帰ってきてないのよという彼女の母親からの言葉を聞いてがっくりして何度も家に戻っていたことを憶えている。
 彼女とはリカちゃん人形などのお人形さんごっこなどをしていただろうか。
 たぶんそれくらいの時分である、私は夜におしっこで目が覚めたのだろう、起きると、父も兄もいなかった。家中どこを探してもいない。泣きじゃくりながら私はピンクの花の子ルンルンのパジャマとかでその近所の女の子の住む家に、みんなが寝静まる真夜中だと言うのにチャイムを連打して、おばちゃんが出てくると、泣きながら「お父さんもお兄ちゃんもおらへん」と言い、あらあらと優しいおばちゃんは私を家の中へ入れてくれて、朝になるまでそこで寝た。朝になって戻るとお父さんもお兄ちゃんもいて、責めるように訊くと、どうやら二人でこっそり夜釣りに出掛けていたらしい。なんで黙って行くんや、と相当責めて、お父さんも「すまんすまん」と謝り、もう黙って行くのはやめると言ってくれた。

 兄が中学に進学した6歳のころは父が帰ってくる夜まで中学校から帰った学ラン姿の兄に送られエホバの証人であったときの母の友人であった姉妹(エホバの証人は女性のことをみな姉妹と呼び、男性は兄弟と呼ぶ)の家に預けられた。
 その家で印象的に覚えているのは宇宙戦艦ヤマトや、銀河鉄道999に出てくる女性の絵をとても上手く描くその家のお姉さんがいたことである。
 そうした1988年の4月、6歳の私は小学校へ入学した。多分、その頃だろうか、父は長年勤めた大手ミシン会社を退職した。辞めた理由は少しでも長くまだ幼い私と一緒にいる時間を増やすためであった。そして退職金で父は一年間、働きには出ず私が小学校から帰れば、父はいつも家にいてくれた。
 私が小学校から帰ったある日、家の電化製品がいくつも、買い換えられていた。テレビ、冷蔵庫、洗濯機などが新しくなって、テレビで時代劇や洋画を観るのが好きだった父は大きなテレビを前にして嬉しそうであり私も嬉しかった。父は一年間ほど休んで、そして親戚の雇う仕事を受けて、働きに出かけるようになった。
 小学一年生のときは特に何の問題なく過ごせていた気がする。しかし二年生に上がって、私は人生初めての挫折と言っていいものを経験する。
 それは時計の時間を勉強する授業の時であった。私は先生に当てられて黒板の前に立たされ、この時計が示している時間はさて何時何十分でしょう?という問題に答えるようにと言われた。
 私はそれがまったくわからなかった。それが極簡単な問題だろうということはわかっていた。しかし授業を真面目に聞いていなかったのであろうか、私は考えに考えても解らずに、とうとうみんなの前で俯いて、悔し涙を流して泣き出した。
 それが私の憶えている限りにおいての人生最初の挫折であった。
 
 一年、二年、と私はよくおしっこを漏らしてしまう生徒であった。そのたびに保健室で代えのパンツをもらい、それを履いて帰宅していた。おしっこがしたくなると、しゃがんで、股間に足をぎゅっとつけていつも我慢すると言う癖がついていた。それほど学校のトイレは怖いものであったのである。学校ではちょうどトイレの花子さんなどの学校の怪談が流行っている時期であり私は学校のトイレに恐怖していたからである。
 トイレの花子さん以外にも四時婆、五時爺、テケテケなどの今に思えば愉快な妖怪まがいの面白い怪談が当時の私にはあまりに恐怖で、一人ではなかなかトイレにも行けなかった。いつもトイレに行きたいときは友達と一緒に行っていたのである。それでもいつもギリギリまで我慢をしていたので、とうとうたぶん4年生くらいのときであったと思うが、私は帰りのみんなで笛を吹いてさあ帰ると言うときに、我慢しきれずに教室で漏らしてしまった。私の下の床にぽたぽたと水が滴り落ちている。それを指差して見つけたアホな男子が「なにそれっ」と訊いたので、私はとぼけて、「ん?これ?ああ、お茶こぼしてもうてん」などとしれっと嘘を言い、それでも訝しく見ている男子であったがなんとか誤魔化してその場をしのいだ。
 
 小学校はだんだん私にとって過ごし辛いものとなって行った。泳ぎの苦手な私はプールの日は地獄であった。本読みの国語の時間は当てられるといつも声を震わせて読んでいた。異常な緊張性体質であったのである。一番自分にとってつらかったのは笛のテストの時間であった。前に出てみんなの前で笛を吹くとき、私は緊張のあまり手がドリフで老人の真似をしている志村ケンかというくらいにぶるぶると震え、口さえも同じく震え、「ピッッピピッピーッピピッ」というふうにいつもまともに吹くことが出来なかったのである。それを見た生徒達はみなくすくすと声を殺して私を笑っていた。
 あまりに屈辱恥辱的であった。私はその苦痛からか徐々に小学校をよくずる休みする子供となって行った。

 たぶん3年生のときである。私は父からもらった小遣いで学校から帰ると近所のニチイというデパートに行ってハムスターのオス一匹を買ってきた。ハムスターが欲しかったのである。それを、父に見つかると怒られると思い、押入れの中に隠して飼っていた。洋服を入れるケースに入れて蓋は適当なものでこしらえて飼ってたので、ハムスターは何度も脱出を試みた。ちなみにハムスターの名前は「オッサン」という名前だった。買ってきたときからもう随分大人で、見た目もおっさんっぽかったからである。体のでかい茶色と白のゴールデンハムスターであった。そのオッサンが何度目かに脱出したときに、とうとう父に見つかったのであろう。父に怒られた。でも、なんとか許してもらえた、しかし二度と逃げさせるな、もし逃がせば捨てる、という非常に厳しい戒の元であった。許してもらえたときはとても嬉しかった。そして私は調子に乗ってさっそく、ハムスターの茶色と白のメスも買ってきた。メスも既に立派な大人であったが、オッサンよりは幾分若いように見えた。メスの名前は覚えていない、名前はなかったかもしれない、小3なので名前を真剣につけるということが頭になかったようである。それらを兄の部屋に置いて飼っていた。私の部屋はなかったからである。そうして一緒に飼いだすと、一年中が繁殖期のハムスターはすぐに子供を産んだ。最初に生まれたときは確かねずみにしては少ない2匹とかだった。その一匹は真っ白のオスで、とても性格の穏やかな可愛い子で名前を「しろっち」と名付けた。そうしてねずみ算式にハムスターは増えて行き、一時は14匹くらいはいたように思う。ハムスターでつらいことはたくさん起きた。まだ生まれて目も確かに開いていない子供たちを私は小屋の外へ出して、遊ばせていた時である。一番の仲のいい友だちを部屋に呼んでいた。友達が帰ったあとであろうか、その中の一匹がダンボールの下にいて、見ると、死にかけていた。私がダンボールの下にいると知らずにその上に手を置いて体重をかけてしまったからであった。私はその子が死に絶えるまでと、死んで動かなくなった後もずっと泣いていた。
 それからハムスターは多頭飼いをすると、ストレスや何かの理由でいじめと死んだ仲間を共食いする習性があり、大きなハムスター用のケージで7匹ほど一緒に飼っていたとき、朝起きて見ると、ケージの中が阿鼻叫喚地獄と成り果てていたことがあった。何匹も死んで共食いをされており、頭を食われて、ないものが何匹もいた。そして生きている者の口の周りはみな血だらけであった。それが夏の日であったのだろう、少し時間が経っているので腐った匂いがしてくるのである。私一人ではどう手をつけてよいものかわからず、離れて暮らしていた当時26歳くらいだった姉に連絡をして、姉はなんと優しいのだろう、たった一人で一言の文句も言わずそれを片付けてくれたのである。
 しかし一番つらいハムスターの出来事は、まだ小さな子供のハムスターを逃がしたときのこと。あれから何十回と逃がしても父はなんとかこらえてくれていた。何べんも叱られ、次逃がしたら、次逃がしたら、と言われていて、私も次逃がしてもまた見逃してくれるだろうと甘く見ていたのだろう、また逃がして、洗濯機の裏とかに逃げると、そこに頬袋に詰めた餌を吐き出したり、また糞を落としながら歩く習性があるのでそれも非常に厄介で、私も父にこっぴどく怒られるのは嫌だったので、真剣に探し回り、それでもなかなか捕まえられなかった。そして、夜、私よりも先にハムスターは父に見つかって捕まえられてしまい、なんという悲劇なのだろう、かんかんに怒っている父はそのハムスターを握り締めると、窓を開けて、マンションのすぐ下にあるどぶに近い川に向けてポーイと投げたのである。私はまさか捨てると言葉では言われてたが、本当に捨てはしないだろうと思っていたので、これには相当ショックで、父という人間を疑い、父を憎く思った。そして泣きながら兄と一緒に懐中電灯を持って、下に降り、川ではなく下に落ちて、どこかにいるかもしれないと探した。しかし見つからなかった。そうしたたくさんのつらいことがあり、最後まで生き抜いたオッサンとしろっちはとても仲良く二匹一緒にカゴに入れていたが、その二匹も死んで、私はハムスターを飼うことはもうしなくなった。

 これも3年生のときである。私はクラスの友だち等数人と昼の休憩時間、下駄箱の前の傘立ての上に乗って、遊んでいた。そのとき私は何を思ったのであろう、傘立ての上に乗った女の子を思い切り押して彼女を墜落させてしまう。彼女は膝がぱっくり割れるほどの大怪我を負った。いったい何があったのかそのときのことについてそこにいたみんなで放課後先生の前で話していたときである。彼女は落ちたときその痛みにすごく泣いていた。と誰かが言った、私はそれを聞いて、そんな彼女を馬鹿にするように声を出さずに笑ったのである。するとその瞬間を見たある女の子が私を指差し「今、上田さん、笑ってたー!」と糾弾した。私はそれにカッと来て「笑ってへんわっ」と怒って返した。今思うと、このときの自分は完全サイコパスだったなぁと思うが、サイコパスというのはちょっとかっこいいのである。しかし私はこのときに負った罪を必ず返さなくてはならないと思っている。

 そうした三年生のいつの前だとかは思い出せないが、私は3年生のときに、自分の一生を決定するようなことを知った。それは、性への目覚めであった。きっと一人ではずっと知らずにいたことを、6歳上の兄の隠していた漫画や雑誌を読んでしまったことで、早くに知ってしまったのである。私は日々、貪るように読んでいたのを憶えている。そして雑誌に股間には女性の性感帯があってそれが詳細に書かれているのを読んだ私は興味に駆られ、早速それを行ってみた。最初のときはパンツの上から少し刺激するだけだったのが絶頂に達すると全身が震え上がったのを覚えている。それからは病み付きになり、学校から帰ると一人で変な体勢で耽るということが日課になって行った。指だけでは足りなかったのかちょうどあったトムとジェリーのトムの小さな針金の入った人形で刺激したりしていた。いつもパンツの上から少し刺激しているだけで絶頂に達していた。その頃くらいだろうか、思春期の兄に火燵の中で足で股間を突かれたりなどして、私はそんな兄のいたずらが限界に達しトイレに逃げ込み鍵をかけたり、一人で泣いて兄を怖れていたが、父にはそのことは言えなかった。兄からしたら思春期のひょんな性的な関心の入り混じったいたずらであったと思うが、私は真剣に嫌だった。近親相姦だから嫌と言うのではなく、ただたんに性的な部分をいたずらされるのが恐ろしかったのである。
 しかし私の性的なものへの興味は衰えることはなかった。兄の所有する漫画や雑誌だけではもの足らず、同じマンションの住人が捨てている青年雑誌を持ち帰ったり、または近所の一軒家の駐車場に入って、そこに置いてあった青年雑誌を持ち帰ったりまでした。性に飢え切った餓鬼そのものであった。それでも学校で一人で行うということはなかった。
 何故、性への目覚めが私の人生を決定するものの始まりになったか、それは私がこれから続ける半生を最後まで読むとよくわかるだろう。
 我が半生を書くにあたって、このあまりに恥ずかしく、人目にさらすべきではない事柄をなるべく具体的に書いて、それを誰でも読める場所に公開することは苦しいことであるが、この性に関することをいい加減に書くのなら、私は我が半生を書く意味がないのだと感じる。
 性への目覚めは、私を人生の快楽へ導くものなどでは決してなかった。性への目覚めは私にとって、どこに行っても逃げとおせない絶望的な場所へ向かう道の始まりだった。

我が半生 誕生~幼少時

 1981年8月4日、私はこの世に誕生した。
 死に掛けの、状態で。
 生まれてきたばっかりなのに、死にかけてた。
 無言で黙って生まれてきた。のは何故かとゆうと。
 母の臍の緒が首に巻き付いて、泣声を上げることはおろか息苦しくて息も上手くできなくて死にそうだったからである。
 そしておまけに逆子であったので、私は大変、母を苦しめてしまったのだった。
 母が陣痛を覚え分娩室に入ったのは早朝であったとゆう、しかしまだ産まれてこんわ、出てこーへん、とゆうことでまた病室に戻り、それを何度か繰り返し、産まれたのは日も暮れた夕方だったとゆう。
 それだけ母を苦しめたのだから、いやぁ、ほんま、可愛い子やなかったら、しばくわぁ、と母は思ったか思わなかったか、知らないが、そうして生まれてきた我が子、しかも末の子と決まったぁるわけです、母がもう40歳のときの子でしたから。ちなみに父は母より学年一つ下の39歳だった。
 命駆けて産んだ我が子、その顔をとくと見せて、と我が子の顔を覗いて、父、姉、兄、その家族みんなで、わぁ、どんな赤ちゃんやろなぁ、とわくわくして覗いたその顔は・・・・・・。
 うわっ、あちゃぁ・・・えぇぇ・・・当時、まだ6歳だった兄も、おわぁ・・・ぶっさいくやな・・・こりゃひどいわ・・・。と思ったか思わなかったか、生まれたばかりの私の顔はそれはそれはぶっさいくで醜く、目も当てられないような顔であったとゆう。
 目は片目つぶってて、頭はいがんどったらしい。で、ぷってぷてやったらしい。
 でもしょうがないので、うちの家族は、そんな我が子を家に連れて帰りました。
 そして、親は我が子に、こず恵、と名付けました。
 母はエホバの証人であり、クリスチャンであったので、聖書の中に160回出てきて、そのうちの128回は新約聖書に出てくる「恵み」という言葉の、この恵という字から取ったんでしょうね、たぶんクリスチャンの母親なので、恵まれる子に、というよりも、人々に恵むことが出来る人間に育って欲しいという思いが強かったのでしょう。
 しかし、生まれてからちょっとの間までの写真がたった数枚しかありませんでした。
 その頃の母の育児日記には、「私たちの子だとは信じられない・・・・・・」と書かれ、それを読んだ中学生のときの私は笑いとショックが同時に起きる複雑な感情を経験することが出来ました。
 でも育児日記を読み進めると「日に日にすごく可愛くなっていく、嬉しい」などと書かれており、そのあたりから私の写真もとても増えていきました。
 その頃の私はいもいもの、むっちむちで、私の家族はいもむし時代と呼んでいました。
 母に抱っこされている私、父に抱っこされている私、16歳離れた姉に抱っこされている私、マンションのベランダで樽に入れられて、兄にぞうさんのじょうろで水をかけられている水着姿の私、いもむし時代の私は不機嫌そうな顔も多かったものの、満たされていた感じが写真から伝わって来ました。
 母と一緒に毎日のように奉仕に出かけていたので、真夏には真っ黒だったようです。
 しかし、そんな日々が長く続くことを神は許しませんでした。
 母は私が2歳のときに乳がんに罹っていることがわかり、気付いたときはもう末期に近かったといいます。
 すぐにでも手術をするしかないと医者から言われたのですが、手術以外の方法で治そうとしました。
 何十万と出して、あらゆる癌を治すと言われる商品などを藁をも縋る思いで買い、大阪から東京まで出て有名な癌を治す治療を行っている先生に会いに行ったりしました。
 私が大きくなってからも家にはその時のさるのこしかけや、癌の治療について書かれた本が何冊もありました。
 その頃、小さい私は母が入院している病室で、よく聖子ちゃんの歌をでたらめに紐をぐるぐるまきにして作ったマイクで母に歌って聴かせていたそうです。
 約2年間の闘病を経て、癌はいろんなところに転移して、結局手術をして、最後脳にまで癌が回りモルヒネを打ち、母は意識も朦朧とした状態でした。
 最期「何か食べたいもんないか」と父が訊くと、母は朦朧としながらも「お寿司食べたい」と言ったので姉は家の近所のよくみんなで食べに行っていたお寿司屋さんまで走って行き、その戸をまだ早朝で店は閉まっていたので、どんどんどんと叩いて、何事かと出てきたご主人に涙まじりで訳を話すと、ご主人も聞いてくれて急いでお寿司を握ってくれたそうです。
 そのお寿司を食べて、母は「美味しい」と言って、そのちょっとあとに息を引き取りました。
 私は母の生きてるときの記憶が何一つありません。なんとなくこれは実際の記憶かも知れない母を見ている記憶が一つだけあります。それはこんな記憶です。
 食卓のあった部屋で、棺の中に母は寝かされていて、鼻の中には白い綿が詰め込まれていました。その母を何人もの人が囲んでいる。私は兄の部屋に一人で行って、そこの押入れの前に掛かっている母が作ってくれた鈎針で編んだ紫の可愛いワンピースを見上げています。
 押入れにはその後もそこにずっと貼っていた黒地の大きな1985年のカレンダーが貼られています。
 父からその時の話を訊くと、私は葬式だというのに派手な赤やったか緑やったかのスカートを履きたいと言って駄々をこねてめちゃめちゃ泣き喚いて、父をひどく困らせたようです。ほんま、こっちが泣きたかったで、と父は言ってました。
 葬式が終わり、父は家でたったひとりになったとき、大声を上げて泣いたそうです。
 みんなの前では声を上げて泣くことはできなかったので、思いきり声を出して泣いたそうです。
 そしたら、すっきりした。と父は言っていました。母の話をしてくれるとき、父はいつも涙ぐんでいました。
 
 姉は18歳くらいで家を出ていたのですが、私の子守をするため、家に戻ってきました。
 しかし20歳の姉は家でずっと妹の世話をするのは退屈だし辛かった、つい「友だちと遊びに行きたい」などと父に言うと、父は怒って「もうおまえには頼まん!」と返し、姉を追い出してしまうのです。
 そして5歳ほどの私は父の母であるおばあちゃんと、父の兄である伯父の家族が住んでいる箕面の古い家に預けられます。
 枚方の家からは少し離れていたし、父も残業で遅くまで大手のミシン会社の営業をしていたので、父が働いてる時間だけ、というわけには行きませんでした。
 朝から晩まで、ずっと父とも兄とも会えない日々が続きます。
 おばあちゃんの家ではみんながとても優しかったです。そこの子供であるやんちゃな男の子を除いてはですが。
 おじいちゃんは父がまだ小学生の頃に死んでしまい、それから一人でずっと三人兄弟を育て上げたおばあちゃんはその頃82歳くらいやったと思いますが、腰がそれ以上は曲がらないというほど曲がっていていつもちいさく丸まっておじいちゃんの仏壇のある部屋に一人畳の上にじっと座っていました。
 わたしはおばあちゃんと一緒にいるのが好きでした。その部屋の縁側からは庭にたくさんのインコが飼われている籠が見えました。
 おばあちゃんは線香の香るその部屋でたくさんの話を私にいつも聴かせてくれました。でも悲しいことに、何一つ思い出せないのです。
 でも私が線香のにおいが大好きで、嗅ぐととても落ち着くのはおばあちゃんといたあの時間の臭いだからだと思います。
 おばあちゃん特有の静かで、ゆっくりとしゃべる、その話をじっと聴いている五歳のわたし。
 母方のおばあちゃんは母が死んで、すぐあとにおばあちゃんも後を追うようにして死んでしまいました。尼崎に住んでいたので尼のおばあちゃんと呼ばれていました。私は何も覚えてないのですが、姉が小さいときは、とても面白いよく喋るおばあちゃんだったらしいです。小さい時分の姉とおばあちゃん二人で喋ってたとき、二人で何かの話に一緒に壷にはまってずっと何十分もげらげら、うきゃきゃきゃと笑っていたことがあるようです。
 病気で臥していた尼のおばあちゃんの枕元に、母が息を引き取るほんのちょっと前の時間、母の生霊がやってきたとおばあちゃんは言っていたようです。
 母は7人姉妹とかの末っ子で、その末っ子が一番早くに死んでしまったことがあまりにショックだったんやろなと思います。
 母方のおじいちゃんも母が若い学生の頃に死んでしまいました。かなり変わった人やったらしくて、見た目は背がちびっこくて、まんまる眼鏡をかけていて、チョビ髭をちょろっと生やしたチャップリンにそっくりな感じで、見た目からして面白くて可愛らしいのですが、よく朝方に道端で一升瓶を抱えて眠りこけているのを、近所の人に教えられて家族はそのつど連れて帰っていたそうです。
 あとは、道端で見かけた粗大ゴミとかをなんでもかんでも意味のわからないものまで持って帰ってきて、家族はそのつど困り果てたようです。ものだけでなく、犬猫などもしょっちゅう連れて帰って、近所でも変人と思われていたそうです。
 でも写真ではとっても優しそうで臆病そうでもあり何処ぞの文筆家のような風貌でもある会った事もないおじいちゃんが私は好きです。
 父方のおじいちゃんはとても厳しい人やったようです。ご飯をみんなで食べているときにお父さんがなんかちょっとでも行儀の悪いことをしたら、象牙の箸を逆さに持って、こっつーんっ、と思い切り頭を叩かれたようです。かなり痛かったようです。
 父方の祖父は百姓でしたが、趣味で舞台などもやっていたようで、その時に撮った隈取みたいな化粧をした祖父の写真はめっちゃかっこよかったと姉が言っていましたが、私は見たことがないのです。父方の祖父の写真は一枚も見たことがありません。
 
 箕面のおばあちゃんちでの暮らしはやはり寂しいものでもありました。近所の男の子と一緒にお外で遊んだりもしましたけれども、なんとなく、このままお父さん迎えにこんのとちゃうか、みたいな不安が小さい子供ながらいつもあったように思います。
 このまま、箕面の子になるんやろか、みたいな気持ちで過ごして、ある日、当時11歳くらいやった兄も箕面の家にやってきて、寝る前、二階の部屋で、その家の子供、兄と同い年くらいの次男坊と、少し上の長男坊と、4人で騒いではしゃぎまわってるとき、その年頃の男の子の自然な好奇心を抑えられなかったのでしょうが、3人にパンツを無理矢理脱がされかけて半ケツ状態になって、泣き叫んでいた記憶があります。で、なんやなんやと親が部屋に来ると、何事もなかったかのような顔で3人のクソガキ共らは誤魔化し、私は一人で泣きっ面のままでお布団に入り寝ました。
 そんな幼い子供にとって非常にショッキングな出来事を経験して何も言えない妹を残し、兄はへらへらとして別にふざけただけやんみたいな顔で帰っていきました。
 そうしてそれからも長く、たぶん長く感じられたおばあちゃんちでの暮らし、そうしたある夜。
 一本の電話が箕面から家に掛かってきます。
 電話に出たお父さん、その電話は伯父の奥さんからで、内容は、こず恵ちゃんを是非うちの養子にしたい、というものでした。
子供には珍しいほどものすごく大人しくてええ子やし、うち女の子おらへんやんか、女の子がほんまは欲しかってん、こず恵ちゃんものすごい可愛いから、是非養子にもらえんやろか。
と、そんな電話の内容を聞いた仕事から帰ったお父さん。
返事は「あほ抜かせっ、養子になんかやれるわけないやろうっ、うちの娘を、可愛い娘を誰がやるねん、絶対にやれるかっ、よおそんなこと言わ張りますなぁっ」
でも奥さんも本当に欲しかったのでしょう、そう怒鳴られても、そこをなんとか・・・・・・と引かない。
お父さんは「もうええっ、今から連れて帰る、今からそっち行って連れて帰るっ」と言って、車を飛ばして、箕面の家の前にやってきた。
お父さんはその戸の前で、ものすごい不安に駆られたようです。
もしかして、こず恵、俺のこと忘れとんちゃうか・・・・・・どないしょう、忘れとったら。
そんな思いで、戸をガラッと開け、お父さんはそこから、大声で私を呼びました。
「こず恵~っ」
 息を呑む少しの間がお父さんにはどれくらいの長さに感じたのか。
 間を置いて、ちいさい私が廊下突き当りの戸の隙間からぴょこっと顔を出してお父さんの顔を見た瞬間。
「お父さん!」と嬉しそうに叫んでお父さんに向かってたたたたたっと廊下を走ってってお父さんに抱きついたようです。
 お父さんは、あのときは、めちゃくちゃ嬉しかったでえ、と涙混じりにいつも言っていました。
 そうして、お父さんはその夜のうちにわたしを家に連れて帰りました。