カッコーの巣の上で


カッコーの巣の上で [DVD]カッコーの巣の上で [DVD]
(2010/04/21)
ジャック・ニコルソン、ルイーズ・フレッチャー 他

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僕の大好きな映画「アマデウス」のミロス・フォアマン監督の1975年の映画
「カッコーの巣の上で」を観た。

浅野忠信が一番好きな映画だとなんかで書いてたから期待して観たが面白かった。
精神病棟に精神病のふりをして刑務所からやってきたマクマーフィー(ジャック・ニコルソン)が厳しい病院の制限に言いたいことも言えずおとなしくなっている入院患者たちに規則を怖れずに自由を求める姿を見せながら一緒に自由を取り戻そうとして生きる喜びを患者達が知り始めていくが話は思わぬ方向へと向かってしまう。

この精神病棟に拘束されている患者は数人しかおらず、それ以外は皆が自主性で入院していると知ってマクマーフィーは驚く。
好き好んで自由の利かないこの病棟に居るのかと思えばそうでもなく、患者はそれぞれしたいことを思うようにできないことで不満をつのらせているが、不満を叫ぶと激痛が走る電気ショック療法が待っているからしょうがなく我慢して面白みのない退屈な日々を暮らしている。
つまりここに居る患者達は精神病棟でしか暮らせない理由があるから仕方なく暮らしているのであって好き好んで不自由を楽しんでいるわけではないということだ。
マクマーフィー以外は犯罪者でもないのだからいつでも家に帰られるのにそれをしないのは家に帰るのは今以上に苦痛だからかもしれない。
そうでない人間なら誰があらゆる制限を我慢してまで病棟での暮らしを選ぶだろう。
飲みたくもない薬を毎日飲まされ夜は拘束具で縛られて眠る。
彼らはこの精神病棟でしか生きてはいけない人たちなのだ。
そんな彼らから安くもないお金を奪い彼らの望みを聴くこともせずに事務的に接して彼らから喜びを奪っている病院で監視する人間たちに何度も反抗を試みる自由が好きな子供のように純粋で優しいマクマーフィー。

その豪快な奔放さは規則を作ることで平穏に暮らすことを望む大人の社会には迷惑に映ることだろう。
しかしここは患者を治療するためにある精神病棟であり、患者から生きる楽しみを奪うためにある社会ではない。
自由奔放なマクマーフィーの姿はここの誰より人間としての生きる喜びを生きているように見える。
規則や制限は作るほうの人間の心をも蝕んでいくものなのだと改めて感じたのである。
世の中からキチガイと呼ばれる人も世の中からまともと言われる人も元は同じ人間同士である。
自分の嫌な規則を設けられたら嫌であるし自分の思い通りの規則が設けられれば嬉しい。
ここでは病院側だけの規則を守らねばならず、患者側の意見が通らないで患者が我慢し続けなければいけないことを病院側が問題としていないことが問題だと思われる。
何故ならどんな対人関係でも片方だけが我慢を強いられる関係は片方の重荷が重すぎていつかガタが来てもおかしくない危ない状態のまま繋げている関係だからだ。
これはどこにでも言える事であって上司と部下でも言えるし親と子でも言えるし病院と患者でも言えるのである。
つまり我慢と辛抱とは互いに分け合ってしていかなくては持たない、壊れるときを待っているような関係性の上に成り立っており、それをそのまま放っておくのでは患者は一向に快復できずむしろこれまで以上のトラウマを抱えて外に出て行くのかもしれない。
だからマクマーフィーがやらかした数々の荒い行為は病院いじめではなく素直にこのままじゃダメやんけと思ってしたことであり真剣に元気を失い果てた患者達に元気を取り戻そうと必死にやっていたことで、そんな彼らを責める病院側は自分たちの心無い厳しい制限が患者の心をどれだけ閉ざせて未来を奪おうとしてきたかを考えていけたらええなと思う。

自由とは、一方だけのものではなく、不自由もまた一方だけのものであってはならない。
自由より不自由を愛する人があるが、それは権限を持つ人間が愛するものではなく、むしろ不自由を望む者は自ら自由を奪われる者が望むものだ。
相手に不自由を与えて自分は相手を不自由にする自由を手にしながら「不自由を愛する」などと言ってはなるまい。
不自由を望むならば、相手を自由にして自分が不自由の身を選んでこそ望めるものではないのか。
自分は暴力を望むと言いながら相手に暴力を振るってはならないのと同じである。
暴力を望むと言うならば自分は暴力を振るわずに相手から暴力を振るわれることを望まなければいけない。

読んでるか知らないが、上の言葉はやまちゃんに、そしてこの映画をふりょもん部屋の権限を持つ人たちに私は観てもらいたいと思う。
自由を奪われた患者達が最後どのような行為に出たか。
自由を無理矢理に奪われる者がいなければ反乱は起きないのだ。

私はもう不良悶絶閉鎖病棟には二度と戻るつもりはない。
私をマクマーフィーのような最期にあの部屋は送らせようとしているのだ。
薄汚く醜い権限と言う極悪な権力で人々の自由を奪い取り自由発言の出来ない大人しい人間にさせようとしている社会の病巣に気付かずに今日も明日も病巣での馴れ合いをし続けていくのだろうか。
私はもうその巣を巣立つときがきたのだ。
私はもうカッコーの巣を巣立ったのである。
ちなみにカッコーとは精神に異常をきたした人間のことでカッコーの巣とは精神病棟のことだが
不良悶絶病棟はまさしくそのような巣である。
人の自由を奪い自分たちだけのユートピアを作り上げようとする精神こそが異常そのものだからである。
電気ショック療法に怯えて誰も言いたいことを言えない狭い世界。
そんな彼らも自由の部屋に居座って病棟のほうで部屋の人間の陰口をみんなで叩き合っているのだから寒気がする。
早く異常さに気づいてカッコーの病巣を巣立つ人間が増えていくことを私は望む。

病巣の側で自分が笑われてるのかもしれないことに耐えられなくなって私は遠くの誰とも喋らないこの故郷に帰ってきた。
とても苦痛な毎日だ。ニュースを見る気力も失せ社会からだんだんと孤立していくのを感じる。
しかしそれでもあの病巣に戻るほうが苦痛だから私は戻らない。
どれほど他の者にとって権限を振り回される居場所が苦痛かをあの人間たちは何も知らない。
言いたい言葉も制限されるのなら何のために真剣に人間と関わりに行くのか。
あいつらは言いたい放題で俺の胸をえぐる死ぬまで忘れない言葉を吐き続けながら何で俺だけ言いたい言葉を制限されるのか。
俺が出て行くのは当然だ。
俺が辛抱切れて巣立つのは、当然の結末だった。
おまえらにロボトミー手術をされる前にな。
俺ばっかりがあいつらを仲間だと思っててあいつらは俺を仲間だとは思ってなかったんだ。
仲間に制限を課したり、権限を振るったりしないからな。
どうしても同等にあいつらは人を置きたくないんだ。
でも一番大事なことじゃないか、自分と相手を同等に置くってことは。
一番人間として大事なことをあいつらは最初から放棄してるんだ。
どんな醜い顔で相手と向き合ってるかわかってないんだ。
どんなに卑劣な部屋か気付いてないんだ。
賢そうな文句をどれだけ並べてもあれじゃ意味がない。
自分がクソで餓鬼で頭が悪い人間だと周りに見せているようなものだ。
でも何言っても気付かないんだろう、自分らだけの居心地の良さを求めてる奴らには。
言っておくがそんな奴らはみんな大馬鹿野郎だ。
おまえはいつその病巣から巣立つんだ。
おまえだよ。
全体非公開性にしやがって。
おまえら全員、いったいいつその病巣から巣立ちするんだ。
それとももうロボトミーされちまってんのか、この病んだ社会の巣に。
何故全員の見ている場所で自分の言葉を発しないんだ。
何故隠れるんだその病巣に。
いいか、俺の日記を見に来るならおまえも俺におまえの日記を見せろ。
じゃないと不公平だ。
観に来ないなら別にいい、勝手にしたらいい。
自分は自分の本音を俺に見せもせずに俺にどうたらこうたら不満を抱くな。
同等が大事だ。
なんと言っても同等がこの世界では一番大事だ。
あ、膀胱が痛い。トイレにも行かずに俺は日記を真剣に書いてるのにおまえらは俺に何の真剣な言葉も見せようとしない。
なんでも対等にやれて一人前だ。
いつまで経っても子供でいいなら今のままで病巣にい続けたらいい。
巣立つ必要もない。
ヒナはぬくぬくな巣であったまってりゃあいい。
親と兄妹にしか聴こえない声でピイピイ鳴いてりゃあいい。
狭い世界で鳴いてるだけで安心しているんだろう。

何が「もう要らない」だ、俺はぽんちゃんの耳に心地いい鳴声を聞かせるために居る小鳥じゃねえぞ。
気に入らなければ捨てるおもちゃのように言いやがって。

どいつもこいつもなんなんだ、人をおもちゃのように扱いやがって。
俺はいつも泣き顔で絶叫してるのに何にも届かない。
俺を代わりの居ない存在のように思ってくれる人はいないってことだろう。
ことごとく社会との接点を失った俺を見て嘲笑っていればいい。
死人のように生きている。
ロボトミーされて生きるより死んだ方がいいな。
俺は死を選んだんだ。
でも望みを持って死んだ。
いつかみんなが真剣に相手と関われる日が来るという望みだ。
俺は落ちたんだ、カッコーの病巣から落ちて死んでしまった。
で、死んだから幽霊になって巣の上を漂ってるというわけだ。
っつうことで「カッコーの巣の上で」よろしく。
早くすべての病巣にカッコウ鳥の鳴く日が来ますように。

映画「ピアニスト」


ピアニスト [DVD]ピアニスト [DVD]
(2002/10/11)
イザベル・ユペール、ブノワ・マジメル 他

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ミヒャエル・ハネケ監督の2001年の映画「ピアニスト」を観た。

幼少の頃から母親の厳格な教育と過干渉を受けて育ったエリカは母親の望むピアニストにはなれなかったもののウィーンの名門音楽院でピアノ教師として働くようになったが、40歳を過ぎても一緒に暮らしている母親の執拗なまでの干渉に嫌気が差しながらも共依存の関係に陥って抜け出せないでいる。
エリカはこの年になってまだ男を知らず、仕事の帰りに男が日常的にストレス発散や性欲処理をするかのようにポルノショップへ赴き、性的倒錯的なちょめちょめなことをしては何かを発散している、または自己をギリギリのところで保っているように見える。
そんなある日、地味でシャレオツの「シャ」の字も知らないような地味な中年女エリカの前に、若く厭味たらしいまでの爽やかフェイスと健康的なガタイを持ち合わせた美青年学生ワルターが現れて。
教師で年長者であるエリカに対しての敬意が足らんという風な生意気かつ執着的かつ純真的な求愛をして来られ、エリカは最初冷たく拒絶を続けようとするんだけれどもエリカの抑えていたものが徐々に華を開きだしてゆかんとする。

これで腐った女子いわゆる腐女子的な妄想の末あんなことやこんなこともして妄想のあまりの軽薄さに自己嫌悪に陥り浅ましい欲望だけの作品に終わる、ということをしないのはハネケ監督が異常なほどひねくれているから。
ではなく現実をありのまま表現しようとしているからなんだろうけれども、私も観ていて、何度か「そうそう、わかる、わかるよ、あー来た来た、男は怖いねえ、男は怒らせるとこうなるからねえ、いやあー自分のことを見ているようで非常になんとも言えないなあ」と思ったと思っているところだ。

私と彼女の共通点をではまた挙げてみることにしよう。

・親と共依存に陥っている。(私の場合は父親です)
・異常な性癖、有り。(私の場合はスカトロジー性癖です。嘘です。ではなく末広丸尾の童貞厠之介<厠の中から現れる糞尿まみれの少年>に恋焦がれていた)
・執着的依存的恋愛を繰り広げる。嫉妬心もッパネエ。
・親に口答えすることはままあったが、逆らい切ることが出来なかった。
・親との間に激しい愛憎が結構いつもあった。
・自傷行為、有り。(私の場合は親に隠れてアムカ<腕の部分をカッターやかみそりで切る行為>を毎日やっていた)
・マゾヒズムな欲望を隠している。(私の場合、自分を見下しきった相手に手篭めにされたいという欲望がある)
・キレた男から連続で暴力を振るわれたこと、有り。(私の場合も自分の我侭に耐え切れて相手がブチギレた)
・結局のところ、男に醜悪的にも縋る恋愛しか出来ない。まともな恋愛をすることが不可能。
・男に縋るくせに、男がその気になるとこんだ嫌悪感が漲ってくる。
・男に対する依存と拒絶が同時に起きている。(肉体的なところでも起きている)
・片親の不在。(私の場合は母である)
・実のところ相手から痛めつけられたいという願望は痛めつけられることを先に自ら望むことで相手より自分が優位に立って支配したいというサディズムの倒錯したものであって、それは男性性の強い男性的な女の潜在心理である。
・しかし実際に痛めつけられたときに拒絶反応が出るのは男から出る暴力に太刀打ちできないことで否応にも自分が弱い女でしかないことを悟らされるからである。
・女はどうしたって男にはなれないのだと見せ付けられることによって男より優位に立つには男に依存的に愛される以外にないと知るからである。
・故に、女が男に依存する深層心理とは自分を優位に立たせられる男の存在がどうしても自分に必要なものだと知っているからである。
・しかしそんな歪みきった醜い感情は女が親から受け続けた愛憎の連鎖反応であり、親の愛は子の愛に受け継がれてゆくのであった。
・依存とは支配することであり、共依存は互いに支配しあうことになり、共依存で育った者は依存だけが愛であると認識しており、よって女が望むこととは、本来、男と共依存という愛の形成を行いたかっただけなのであったと思われる。

アンチクライスト


アンチクライスト [DVD]アンチクライスト [DVD]
(2011/09/07)
ウィレム・デフォー、シャルロット・ゲンズブール

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「ダンサー・イン・ザ・ダーク」のラース・フォン・トリアー監督の2009年の映画
「アンチクライスト」を観た。

夫(ウィレム・デフォー)と妻(シャルロット・ゲンズブール)が愛し合っている最中に息子が事故で死んでしまう。
そして二人はある理由から深い森の中へと向かう。

今日の早朝に観終わった後なかなか吐き気がやまなかった。
昼過ぎに眠って目が覚めたら部屋が暗く、まだ18時半なのに闇の濃さが恐ろしい。
とりあえず一回目観た感想を書き留めておこうと思う。

ネタバレを避けられないので、興味のある方は先に観たほうがいい。



この「アンチクライスト」という映画は救いがないわけではない。しかし救いがあるわけでもない。
感動がないわけではない、しかし感動があるわけでもない。一滴の涙もこぼれようとしない。
“カタルシス”ではない。
この映画に“カタルシス”を求めることは、あってはならない。
私は求めていたつもりはない。
だから観終わった後がっかりもしなければ悪い評価をつけることもしない。
この映画は私の期待通りだったのかもしれない。
いや、期待以上のものだ。
ジャケットを観るのもおぞましい。
この映画を観る前までは一縷の光があり、この映画を観終わった後はそれが幻だったのだと感じる。
映画を観終わった後、私は自分の運命に泣くことすらできない。
“悲嘆”“苦痛”“絶望”にさらなる感情が合わさることから私は逃げていたのだろうか。
眠らされていた“恐怖”という感情が呼び覚まされたような感覚で、闇を怖れている。
どのようにしてこの映画に恍惚に浸りカタルシスを感じて感動できるのだろう。
感動がないわけではない。この恐怖とおぞましさは感動以外のものではない。
この映画はハッピーエンドでもなければバッドエンドでもない。
この映画を支配しているもの、それは“混沌”しかない。
どんなに苦しいものでもそこに救いを見いだせるなら救いを感じるだろう。
私は救いを見いだすこともしなければ救いを見いださないこともしない。
この映画はわたしにとって、そんなに容易く結論が出ては決してならない映画だからだ。
シャルロット・ゲンズブールが演じた妻の罪悪はわたし自身の罪悪に他ならないからだ。
彼女の罪悪は私の罪悪に似すぎている。
唯一、この映画に一つの場面で恐怖にほんの少しだけ勝る悲しみを許されるなら彼女がひとり闇深い森で自慰行為を行うシーンに自分の哀れな姿を映して観てみたい。
自分を憐れむことで一層の自分に対する憎悪を吐き気を催しながら産み出すことができたらいい。
私と彼女の共通点は、性的快楽に耽って愛する者を忘れ、その時愛する者は苦しみの中にいた、そして愛する者が死んだことを自分の最も重い罪悪にしていることだ。
彼女の場合は小さな息子で、私の場合は父親だ。
自分がたどる結末を見せられたような思いだ。
最近夢でよく父親に向かって怒り叫んでいるものを見る。
彼女が夫に向ける怒りと同じだ。
私を捨てないでほしいという切実な思いが自分を捨てるのではないかという不安から我を見失うほどの怒りに変容する。
まるでウィレム・デフォー演じる夫が父親のように見えてしまった。
観るのが耐えがたいシーンの多くはそのせいもあったのだろうか。
目が澄んで綺麗なところとか父親とよく似ている。
だからあの最後で吐き気がやまないのは当然のことだった。
これで涙を零したり、カタルシスに浸るならそれこそ狂気だ。
この映画は光以上の闇をわたしに与えてくれた。
ラース・フォン・トリアー監督に心から感謝の意を込める。

あらゆるものを消し去っていくとカオスに辿り着く。
しかしそこには消え去っていないものを人は見るだろう。
それが“悲嘆”“苦痛”“絶望”であり、そして“恐怖”だ。

大河の一滴

邦画「大河の一滴」を観た。
なんでこれが酷評なのかさっぱり私にはわからない。
なんか自分の評価と世間の評価がまるで違うと苦しいものだな。
なんだこれはと思ったものがとても評価がよくても絶望してしまうこともあったし。
まず何を訴えたいのかわからないというコメントが多かったが、その人たちはちゃんと観てないのではないかと思う。
三國連太郎が演じた父親の言葉はとても深い言葉だった。

「雪子、泣いたらいかん、自分の信念で生きるんや」

余命わずかの父親が泣きそうになった娘の雪子にそう語るシーン。

確かにこの言葉がわからない人は多いのかもしれない。
この言葉以上の生き方がないというところに立たされた人には、これ以上はないという深く重い言葉で、死ぬまで響き続ける言葉だと私は思う。

それから雪子のわがまま度はよく私と似ていた。でも私が思うに雪子は決してただの鈍感な馬鹿な女ではないように思う。昌治のつらさもわかった上であえてあれを頼んだのだと思う。
二股愛というのは、嫌な言い方だが、それは二つとも恋愛を超えたところにある感情だったからこそ、そこに成立した愛情だったのではないかと私は思うのです。
だから雪子はあれを昌治に頼めたし、また昌治の家にニコライを泊めた。

わがままにしかなれない人の苦しみがわかる人ならこの映画の良さがわかるんじゃないかと思う。
人間は弱い、誰もが、相手をどんなに傷つけてもそうすることしかできなかった人間の弱さとか愚かさとか、それがヒューマンでドラマだ、その一滴がどんな人生であろうとそれが現実的であるなら共鳴できるのが人間ではないだろうか。

Boys Don't Cry

http://vimeo.com/12884758">食肉、ペット、革、毛皮製品、動物実験、娯楽産業、狩猟、人間たちはあらゆる動物たちを利用し、利益のために虐待、殺戮を繰り返しています。彼らは私たちの知らないところでどのように虐げられ、殺されているのか。真実を撮ったドキュメンタリー映画「アースリングス」をご覧いただけます。http://vimeo.com/12884758




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映画「ボーイズ・ドント・クライ」を観た。
ずっと気になっていた映画だったので借りて観た。
内容は、体は女であるが心は男である性同一性障害を持った主人公の映画としか知らずに観たが、観た後に後悔している。
これは実話であったのである。
実話だと知ってから観るべきであった。
主人公のブランドン・ティーナがあまりに誠実で優しい青年で、そんな彼のがんばる姿をもっと観ていたいと思う間に、事は観る側を尽く悲しみの中へと突き落としてゆく。







自分の話になるが、私自身若干、自分の性に違和感を感じるようになってきたのはいつからかよくわからないのだが、自分の体が女であることや、女の格好をするにも化粧なんかするにも、あと自分の声が高い声であるのにも違和感を持つようになってきて、そういったことは結構苦しいことであったりする。
しかし恋愛対象は普通に男性であるので、そこでは苦労はそれほどはないかもしれない。
ただ、好きな人からでも、もっと女らしくしたらどうか、のようなことを言われるとムカッと来る。
所詮、お前は俺が女だから好きなだけで、俺が男なら好きにはならないんだろうよ、と思って冷めてしまうのである。
そういった女として男に尽くす自分がまったくいないので恋愛もうまく行った例がない。
もし、男に生まれてきていたならどうだったんだろう。
人生は全然違ったかもしれない?

姉の古くからの友人がブランドンと同じなんだ。彼と最初に会ったのはまだ9歳ごろだったんじゃないか。姉に紹介されて、一緒にどこかへ行ったんだ。私はそれがショックでならなかった。何故なら大好きな姉を彼に取られてしまった。そう思ったからだ。彼が車を降りて帰った後、私は嫉妬のあまり泣いていた。姉がそれに感づいたのか「○ー君は女の子やで?」って言ったんだ。私はどうしても信じられなかった。だって身のこなし、服装、喋り方、どこからどう見ても私には男にしか思えなかったからである。そんな嘘を私に言って私を慰めようとしても無駄だ!と心ではそう思っていた。しかし成長するにつれて、それは本当なのだと言うことがだんだんわかってきた。いつしか私はそんな彼にほのかな恋心のようなものを持つようになった。何故なら彼はとっても優しくってかっこよかったし男が持つ不潔な下心のようなものを持ち合わせているように見えなかったからである。中学生になった私は彼に会うと頬が赤くなっていた。ヴェルサイユのばらのオスカル様に恋する乙女時代である、彼を見ていると、彼以外の男はみな汚らしくて野蛮でガサツにしか見えなくなるのであった。そんな淡い少女のような片想いをずっと彼に抱き続けて時は過ぎ、家族みんなで彼と親しかったが、お父さんがいなくなって、それから三年後くらいだろうか、わたしが25歳くらいのとき、たまたま姉の違う友人宅でうちの兄も一緒に、みんなでご馳走になって、みんなで楽しくお酒も飲んで、私と彼以外はベランダに煙草を吸いに行ったときである。残された彼と二人きりなって、かなり酔っ払ってしまっていた私は吃驚するようなことを彼に言ったのである・・・・。なんかそんなお互いふざけあった雰囲気だったからか、私は彼に「抱っこして」とせがんだのである。彼はすぐに快く「よっしゃ」と言うと私の体をひょいと軽々と持ち上げて立ち上がり、お姫様抱っこされた私は感激と恥ずかしさのあまり顔を真っ赤にして彼の肩に顔を隠した。ベランダから姉と兄と姉の友人が見て笑ってた。なんてたくましいんだろう・・・・。ドキドキしながら抱っこされてると彼は「このままベッド連れてってまうで」とかなんとか言って、できるなら・・・・と思ったが、まさか姉兄のいる前でベッドへ運んでもらう訳にも行かず、それだけに終わったのが、今思い出しても、いい思い出である・・・・。彼がどれほど社会で苦労しきたか、私は姉から少し聞いたことがある。仕事は男でもつらいようなきつい仕事を長年続けていた、仕事場での差別、嘲りは本当に酷いものだったらしい。華奢な体格である彼がそんなきつい仕事をして、周りから差別されながらもがんばっている、彼は本当にかっこいい男以上の男であると思うんだ。

って、ぅわっ、結構語ったなァ、ぼく・・・。映画の感想の記事で映画以外の話で滅茶苦茶語ってしまったが・・・。
だからブランドンの体は女と知ってからも愛するラナの気持も結構わかったんだなぁ・・・・ってね。
実際、そういえば大好きな女の子の友だちと結婚したいって思ったことがあったな。
あまりに好きになると、性別なんてどうでもよくなってしまうんだね。

なんとなくハッピーエンドになると思って観ていたものだから、余計に悲しく、あっけなすぎて、なんてあっけなく事は起きてしまうのだろうと思って、ブランドンとラナの幸せな時間がいつまでも心に残る映画であった。

The Virgin Suicides

http://vimeo.com/12884758">食肉、ペット、革、毛皮製品、動物実験、娯楽産業、狩猟、人間たちはあらゆる動物たちを利用し、利益のために虐待、殺戮を繰り返しています。彼らは私たちの知らないところでどのように虐げられ、殺されているのか。真実を撮ったドキュメンタリー映画「アースリングス」をご覧いただけます。http://vimeo.com/12884758




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「ヴァージンスーサイズ」を観た。
これのAirのサントラを多分10年前くらいに私は愛聴していて、ずっと観たいな観たいなと思ってたが観る機会が今日までなかったから観なかった。
やっと観れた、そんな感じだ。
冒頭からAIRの音楽、鳥肌立ち、ヤヴァイ、ヤヴァイで?だってだってサントラを聴きまくっていたので、耳に残っているからであーる。
サントラから先に聴くのが好きだったんだな。サントラを聴き倒してから映画を観るのね。
で10年ほど経って観れました、と。
大まかな内容を知ったつもりで観たが、想像していたのと、少し展開は違ったな、しかし想像していた通りのこの後味感である。




これは、そのサントラを手掛けたAIRの映画シーンを入れたPVだ。
映画ではガムが歌うシーンはない。そういったアレなエイガではない。ドレか知らないが。

題名通りスーサイド(自殺)に絡む映画だが、淡々としているから涼しさ心地好さがあり、そこに哀愁悲劇的な撮り方を一切省いたところから漂うのは、彼女たち姉妹の美しさである。

中でも際立って美しいのはマリー・アントワネット役もしていたキルスティン・ダンストである。
私も大好きになっちゃった。
こういった涼しさと奥に秘められた強さを感じる女性がタイプなようだ。

"suicide"の"sui"は、ラテン語の"sui"(自ら)"suus"(自分自身の)から来ているという。そしてこれらは"self"の語源となっているらしい。
CIDEはサイド、側、傍ら、の意味であるサイドSIDEと同じ発音である。

自分自身の側に死がある。それがスーサイドである。

君の側で、死は本当に君自身にするのかい?

野ばら

http://vimeo.com/12884758">食肉、ペット、革、毛皮製品、動物実験、娯楽産業、狩猟、人間たちはあらゆる動物たちを利用し、利益のために虐待、殺戮を繰り返しています。彼らは私たちの知らないところでどのように虐げられ、殺されているのか。真実を撮ったドキュメンタリー映画「アースリングス」をご覧いただけます。http://vimeo.com/12884758





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1957年のドイツ映画「野ばら」を観た。

1956年のハンガリー動乱で孤児となりオーストリアへ難民としてやってきた少年トーニ(ミハエル・アンデ)と愛犬のフロッキ。
トーニは収容所行きのバスに乗り遅れてしまった。
そこに、昔ドナウ川汽船の船長だったブリュメル老人(ヨゼフ・エッガー)に声をかけられ、ブリュメル老人はトーニを養子にすることを決める。
ある日曜日、教会のミサでウィーン少年合唱団の歌うミサ曲の調べを聞いたトーニは、合唱団入りを夢見るようになった。トーニに音楽の天分があることを知ったブリュメル老人は、トーニの幸福のためにも、彼をウィーン少年合唱団に入れる決心を固め、ウィーン合唱団の全寮制学校に入れてもらうために一緒に向いブリュメル老人は頼み込むのだが・・・・。

1960年代に日本でもウィーン少年合唱団ブームが起き、当時の全国の少女たちは少年たちの天使の歌声に酔いしれ、
この映画「野ばら」は、日本で初めて公開された世界一古い少年合唱団を扱った作品でおそらく合唱団ブームの火付け役になったであろう映画であるらしい。ウィンー少年合唱団の歌う「野ばら」はこの映画で国民の間に、広く定着した。




心優しい校長先生から「この坊やの声を聞かせてください」と言われ、緊張の中みんなと一緒に「野ばら」を歌うトーニの心温まってならない名シーンである。

こういう映画も本当に感動する。
少年トーニの想いや、またブリュメル老人の気持が伝わってきては心はものすごく揺さぶられ号泣しながら観た。
実は私はボーイソプラノが本当に好きである。
天使でしょう、彼らの声は、まさに、歌ってる時。
しかし歌い終わるとふっつーうのそこらへんのはしゃぎ倒すガキとなるところがなんとも微笑ましいではないか。
モーツァルトをジャズに替え曲してみんなで歌ったりしちゃったりなんかして、遊びがしゃれてるなぁおいと思ったが。
そう何を隠そう私はそうです、実はショタコンです。
生粋のショタコンです。ってゆうのもまあ昔の少女時代の話っすがね。
中学生の時から愛読していた長野まゆみの本「野ばら」ってあったんだね、だからこれ借りてみたのだが。
特に長野まゆみワールドの中期にある少年同性愛、退廃的、エログロ的なものは、実はありません。
兎に角、純粋です。兎にも角にも純粋でならんのです、ならんばいなのです。
そしてそこに私はいたく感動したんです、心から。
古い名作は理屈ぬきで感動できるのである。
天使の歌声に耳を傾けなさい、人生に疲れ切ったそこのあなた、そうです、あなたです、あなたこれご覧なさいよ、いいから、いいから。


そしてこの題にもなっている「野ばら」というのはウェルナー作曲でゲーテ作詞の曲であるのだが、この詩は実は思ったよりも深いのであった。


『Heidenröslein』
歌詞(ドイツ語)・日本語訳(意訳)

Sah ein Knab' ein Röslein stehn,
Röslein auf der Heiden,
war so jung und morgenschön,
lief er schnell, es nah zu sehn,
sah's mit vielen Freuden.
Röslein, Röslein, Röslein rot,
Röslein auf der Heiden.

少年が見つけた小さな野ばら
とても若々しく美しい
すぐに駆け寄り間近で見れば
喜びに満ち溢れる
ばらよ 赤いばらよ 野中のばら

Knabe sprach: "Ich breche dich,
Röslein auf der Heiden!"
Röslein sprach: "Ich steche dich,
dass du ewig denkst an mich,
und ich will's nicht leiden."
Röslein, Röslein, Röslein rot,
Röslein auf der Heiden.

少年は言った 「君を折るよ」
野ばらは言った 「ならば貴方を刺します
いつも私を思い出してくれるように
私は苦しんだりはしません」
ばらよ 赤いばらよ 野中のばら

Und der wilde Knabe brach
's Röslein auf der Heiden;
Röslein wehrte sich und stach,
half ihm doch kein Weh und Ach,
musst' es eben leiden.
Röslein, Röslein, Röslein rot,
Röslein auf der Heiden.

少年は野ばらを折った
野ばらは抵抗して彼を刺した
傷みや嘆きも彼には効かず
野ばらはただ耐えるばかり
ばらよ 赤いばらよ 野中のばら




そう、この野ばらとは、ゲーテが若い時分に恋をした娘フリーデリーケのことを歌った詩なのである。

ドイツに生まれた恋の詩人『ゲーテ』
彼は1770年春、21歳の時にストラスブールでの留学生活をはじめた。
この以前にライプチヒ大学に入学してたが、不摂生で病に倒れ、法学士の学位は取れなかったのである。
彼は老後、回想録「詩と真実」のなかで、このストラスブール時代の回想にかなりのページを割いている。
「細かな記憶は残っていないが、苦しい日々であった。別れにあたって馬上から手を差し伸べた時、彼女の目には涙が浮かんでいた。私は胸が痛んだ。」
恋の詩人ゲーテの才能を開花させたのが彼女だとされている。
ゲーテは留学していたストラスブールから、彼女がいるゼーゼンハイムまで馬車で6時間もの時間をかけて通った。
しかし、念願の法学士の学位を取り、フリーデリーケの親も結婚を期待していたようなのだが、ゲーテはあっさりとフリーデリーケと別れて故郷に帰った。
ゲーテがフリーデリーケと別れた理由は、彼女が牧師の娘で少し田舎臭かった事もあるが、束縛を嫌ったようだ。
婚約はしていたらしいのだが。
彼が彼女との恋愛の最中に書いた作品としては「5月の歌」「歓迎と別離」「フリーデリーケに」「野ばら」などがあげられる。ゼーゼンハイムにあるゲーテ記念館の横道は「フリーデリーケ・ブリオン通り」と呼ばれているそうだ。
彼女は別れた後もゲーテの事が忘れられなかったのか、リボン作りの仕事で生計を立てながら結婚もせず、1813年8月3日に61歳の生涯を終えた。

ゲーテがフランクフルトへ帰る時、フリーデリーケはゲーテとの永遠の別れになるとは知らずに「さよなら」と挨拶、いつまでも見送っていた。その彼女の姿がゲーテの心に、いつまでも消えないで罪の意識として残されたという。

身分の違いで別れたと言われているそうだが、真相はわからないものである。
何故なら、恋ってェのは簡単じゃァねェ、恋ってェのはなァ難しいんだよ、うまく行くほうがおかしいんだよ。
もし、あれだよ、ゲーテとフリーデリーケが一緒になっていたらば、ゲーテがちょうどおっさんになった頃、フリーデリーケは「てめえいい加減ウゼェんだよ」つって二人は別れ、両人いやぁな思いを抱きつつ死んで行ったかもしれないじゃあないか。

だから何が悲運で何が幸運なんてェのは、わからないでやんす、人生。
ね、この映画には「ほがらかに鐘は鳴る」という続編があるらしいわよ?わぁい観ましょうよぅ。

Marie Antoinette

http://vimeo.com/12884758">食肉、ペット、革、毛皮製品、動物実験、娯楽産業、狩猟、人間たちはあらゆる動物たちを利用し、利益のために虐待、殺戮を繰り返しています。彼らは私たちの知らないところでどのように虐げられ、殺されているのか。真実を撮ったドキュメンタリー映画「アースリングス」をご覧いただけます。http://vimeo.com/12884758



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ソフィア・コッポラ監督の映画「マリー・アントワネット」を観た。

わずか14歳にしてオーストリアとフランス二国同盟を結ぶ為の責任を背負い、フランス王国の王大使妃となり、そして18歳で王妃となり、37歳でフランス革命の中にギロチンの刑に散ったマリー・アントワネットの生涯、それはどんなものだったのだろうか。

私はほとんどおぼえていない頃にベルサイユのばらをテレビで見ていて、後に漫画で読了した、そして私は悲劇の王妃マリー・アントワネットを知った。
どんなに無知で貧しい民の苦労を知らなくとも王は王であり、それは日本では天皇の存在、神に近いと思える存在であり、その王と王妃が無残なギロチンの刑に処せられた。
処刑の前日、アントワネットはルイ16世の妹エリザベート王女宛ての遺書を書き残している。
内容は「犯罪者にとって死刑は恥ずべきものだが、無実の罪で断頭台に送られるなら恥ずべきものではない」というものであった。
これはまるでイエス・キリストの処刑に繋がるところがあるように思えないだろうか。

実際、私達は貧しい民の方であり、王国に住む人たちの苦労は想像には及ばない、反対に王族も民の苦労は知りえない。
すべてが無知から起こった悲劇であった。

私は最近偶然に、マリー・アントワネットの次男であるルイ・シャルル、後に国王ルイ16世が処刑された後に8歳でフランス国王ルイ717世となり、2年余り監獄に入れられ10歳で天に召された彼の凄絶な生涯を知った。

息子・ルイ17世(ルイ・シャルル)

言葉にすらできない、想像にも及ばない、彼の生涯を知って、この世の救いを信じる以外できなかった。

ここにおいて、いったい誰が悪かったのか、それを問うことが無意味だ。
運命とは、そういう中に起こる。

それは、どんな、どんな人生だったのだろうか?
人は、知りたいと、そう思うだろう。
どんな人生だったのか。
それを知りたいと思う気持、それが私たちにはある。
だから人は映画を観たり、小説を読んだり、人に寄り添いたいと思うのよ。

そうでしょう、主よ。

そして、それは、私たちにとってとても素晴らしい・・・・・!ことなの。




Passion

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映画「パッション」を観た。
この映画を家族全員で観たかった。

もし、忠節なクリスチャンであった母が生きていたなら私は母と対立してしまっていた。
それは私は苦しかっただろうし、母も苦しかっただろう。
しかし私はイエスを心から愛している。
イエスが払った犠牲は何より素晴らしく何より尊いと、そう思うよ、お母さん。

イエスは私たちの本来の姿だろう。
イエスは本当の姿を私たちに見せてくれた。
私たちが何故イエスのように生きられないのか、それはまだ幼いからではないだろうか。
私達は皆、イエスへ向っている。
本来の自分に対してイエス、はい、と応える自分は皆イエスと同じなんだ。
イエスのようにならなければならないと、他の誰かに決め付けられたりはしない。
イエスのようになりたいと人は皆、自ら願うだろう。
それは、自分の中の悪、サタンと戦って戦って欲望に耐えて勝ち取るものではなく
自然と、そこへ向おうとするだろう。
自然と私達はそこへ、そしてその向こうへと向おうとするだろう。

一番好きなシーンは1:29過ぎたところのイエスがゴルゴダの丘でみんなに教えを説いているシーンで、イエスがまるで、子供たちに優しくわかりやすく言葉を選んで教えているような感じでみんなにしゃべってるんだね。
「敵を愛し、迫害する者のために祈れ、愛してくれる人を愛したとて、どんな報いがあろうか?」
そうイエスは言うんだけれども、最後の「どんな報いがあろうか?」と言う時の笑顔がなんて優しいんだろう。
本当に感動する。
本当のイエスもこんな感じでみんなに話を聞かせていたのだろうなと思える。

回想シーンがいくつか入るのだが、もっとたくさん観たかったなと思う。
それ以外はとっても観るのが苦しくたまらないが、クリスチャン以外の方々がたくさん観て、イエスを愛するようになってほしいと思う。




エレミヤ書29章13節、14節

もし、あなたがたが心を尽くしてわたしを捜し求めるなら、
わたしを見つけるだろう。

わたしはあなたがたに見つけられる。






ノルウェイの森

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「ノルウェイの森」の映画を見たのだが、なんか観終わったすぐはそうでもなかったのだが
じわじわとつらくなってくる映画だな、じわじわと欝になっていく。
なんでかというと、やはり私の愛する女優、菊池凛子が演ずる直子のことを思い出すと、なんだね。
まあ関係なく俺はなんもなくてもしょっちゅう欝に入るのだが。
まあ感想が大の苦手な俺に何期待しても無駄だが、つらい映画だなぁ。
まあ悲しい、本当に悲しい映画であるとそこに救いというものがあるのだが
なんでこの映画はつらいばっかりで救いがないのか、というと
ちょっと中途半端過ぎるんだね、直子の悲しみがほんの少ししか描けていない、直子を主人公にしてほしかった俺は。
松ケン演ずるワタナベは脇役でよかった。
ワタナベはどうでもよかった、その脇役を主人公にしたのが駄目だった。
菊池凛子は主役級だぞ、コノヤローちゅうてね。
まあ、そこがもったいなき映画であったな。
直子を主人公にさえしていれば、もっと悲しく、もっともっと深い絶望を描けただろうし
映画を見終わった後に、ただつらいだけのものでない、ただ空虚的な鈍痛のようなものでない、何か大切な何かに気付けるものがそこにあったと思うんだね。
やっぱりそれに気付くには、中途半端な悲しみ絶望を描いても無理なんだね。
もし、ワタナベが最後一人を選んだら、もう少しはいいエンドではあった、しかしワタナベが全てを駄目にしてしまった。
この映画を駄目にしてしまった男、ワタナベ、彼のせいで直子の苦しみを無駄にされたようなものすごい腹立ってくる。
腹立ってきた、ワタナベ、なんなんだあいつは。
ワタナベもものすごい苦しんだのはわかるのだが、しかしあいつ立ち直り早いなあ。
その性格、憎いよ、ちょっと、むかむかとしてきたが。
俺はワタナベはどん底に落ちて良いが、直子には立ち直ってほしかった。
それはワタナベ=村上春樹に思えてくるからかも知れないが、まあそれを言うと個人的な恨みが入ってて駄目だが。
まあ村上春樹を読むことはますます苦行だということがわかったが、まあちゃんと最後まで読みたいね。
直子は好きだから、俺。
ワタナベはもっともっと苦労しろ、苦行をしろ、おまえに幸せは似合わない、そういう気持ちだね。
そして、そして、ワタナベがさあ死ぬときに、まあ死ぬまでどう生きるか、死んだあとまで俺は見たいのよ、その途中でやめた春樹がやっぱり一番憎い。そこで諦めたあんたが憎い。
まあそういった読者を置いてけぼりにするような本も多いだろうが、やっぱり親切でないね、最後まで書ききらないと言うのは。
俺はだからやっぱり春樹が嫌い。
やっぱり猫が好き、みたいな感じでね言い続けるだろうけれども。
やっぱり俺は直子が好き。直子は一番純粋なんだね。
キヅキの存在はまるで双子のような、もう一人の自分のような存在だったのだろう。
なんかね、わかるんだが、恋人でもなんかこの人自分に近すぎるなあと思うと
恋人以上の存在になって、家族、兄弟みたいな感覚になって、その男女の行いが不自然に思えて、違和感を感じるんだね。直子もそうだったんじゃないか。だからまったくの他人のワタナベに対しては、性欲も普通にそこにあったと。
その気持わかるんだね、よく。それってすごい複雑な気持なんだね。
好きなのに、なんか恋人として、じゃないのかなぁ、恋人としては駄目なのかなぁ、って不安になる、相手にもさせてしまうんだね。
直子はそこに気付けなかったか、気付いてても苦しくてならなかったし、気付いたところでキヅキがいないからね。
そういった自分、もう一人の自分を失った感覚の人にしかこれはなかなかわからないんだね。
その苦しみ、空虚、悲しみはどんなものか。
私にとって、それは父親であっただろうし、また母親でもあったように思うんだね。
まあ見ての通り、普通には生きていけない。
もういい年なんだけれども、まったく働きたいとも思えない、あったかくなっても外にぶらっと散歩に行きたいとも思えない。
さっきも何週間か振りに外へ出て、うわもう桜咲いてんのかてびっくりしたが。夜桜ね、いいね。
ひとり、ではね何もできないし、したいと思えない。まあレンタル屋さんくらいは今日も行けたが。
まあ俺は生きているし、死ぬまで生きようと思ってるから、生きる気むんむんだから直子ではないのだが、だからといってワタナベにされるとすげえ嫌だが、俺はどっちかてとワタナベなのか、ってことは俺は春樹なのか、嫌だなァ、なんか屈辱だなぁ。
俺は春樹に向かうのか、嫌だなァ。
俺は俺だよ、うん。
俺は、ここに、お、れ。て自分にゆうてるんですけれども。
つまり俺の友だちも俺の恋人も俺ただ一人ってことなんですよ、ね。
孤独、そう、それは人を苦しめるもの、なくてはならんもんなんだね。
僕よく生きているよね。何故なら今は僕ひとりじゃない、いつも側にみちたくんがいるからだ。