![]() | カッコーの巣の上で [DVD] (2010/04/21) ジャック・ニコルソン、ルイーズ・フレッチャー 他 商品詳細を見る |
僕の大好きな映画「アマデウス」のミロス・フォアマン監督の1975年の映画
「カッコーの巣の上で」を観た。
浅野忠信が一番好きな映画だとなんかで書いてたから期待して観たが面白かった。
精神病棟に精神病のふりをして刑務所からやってきたマクマーフィー(ジャック・ニコルソン)が厳しい病院の制限に言いたいことも言えずおとなしくなっている入院患者たちに規則を怖れずに自由を求める姿を見せながら一緒に自由を取り戻そうとして生きる喜びを患者達が知り始めていくが話は思わぬ方向へと向かってしまう。
この精神病棟に拘束されている患者は数人しかおらず、それ以外は皆が自主性で入院していると知ってマクマーフィーは驚く。
好き好んで自由の利かないこの病棟に居るのかと思えばそうでもなく、患者はそれぞれしたいことを思うようにできないことで不満をつのらせているが、不満を叫ぶと激痛が走る電気ショック療法が待っているからしょうがなく我慢して面白みのない退屈な日々を暮らしている。
つまりここに居る患者達は精神病棟でしか暮らせない理由があるから仕方なく暮らしているのであって好き好んで不自由を楽しんでいるわけではないということだ。
マクマーフィー以外は犯罪者でもないのだからいつでも家に帰られるのにそれをしないのは家に帰るのは今以上に苦痛だからかもしれない。
そうでない人間なら誰があらゆる制限を我慢してまで病棟での暮らしを選ぶだろう。
飲みたくもない薬を毎日飲まされ夜は拘束具で縛られて眠る。
彼らはこの精神病棟でしか生きてはいけない人たちなのだ。
そんな彼らから安くもないお金を奪い彼らの望みを聴くこともせずに事務的に接して彼らから喜びを奪っている病院で監視する人間たちに何度も反抗を試みる自由が好きな子供のように純粋で優しいマクマーフィー。
その豪快な奔放さは規則を作ることで平穏に暮らすことを望む大人の社会には迷惑に映ることだろう。
しかしここは患者を治療するためにある精神病棟であり、患者から生きる楽しみを奪うためにある社会ではない。
自由奔放なマクマーフィーの姿はここの誰より人間としての生きる喜びを生きているように見える。
規則や制限は作るほうの人間の心をも蝕んでいくものなのだと改めて感じたのである。
世の中からキチガイと呼ばれる人も世の中からまともと言われる人も元は同じ人間同士である。
自分の嫌な規則を設けられたら嫌であるし自分の思い通りの規則が設けられれば嬉しい。
ここでは病院側だけの規則を守らねばならず、患者側の意見が通らないで患者が我慢し続けなければいけないことを病院側が問題としていないことが問題だと思われる。
何故ならどんな対人関係でも片方だけが我慢を強いられる関係は片方の重荷が重すぎていつかガタが来てもおかしくない危ない状態のまま繋げている関係だからだ。
これはどこにでも言える事であって上司と部下でも言えるし親と子でも言えるし病院と患者でも言えるのである。
つまり我慢と辛抱とは互いに分け合ってしていかなくては持たない、壊れるときを待っているような関係性の上に成り立っており、それをそのまま放っておくのでは患者は一向に快復できずむしろこれまで以上のトラウマを抱えて外に出て行くのかもしれない。
だからマクマーフィーがやらかした数々の荒い行為は病院いじめではなく素直にこのままじゃダメやんけと思ってしたことであり真剣に元気を失い果てた患者達に元気を取り戻そうと必死にやっていたことで、そんな彼らを責める病院側は自分たちの心無い厳しい制限が患者の心をどれだけ閉ざせて未来を奪おうとしてきたかを考えていけたらええなと思う。
自由とは、一方だけのものではなく、不自由もまた一方だけのものであってはならない。
自由より不自由を愛する人があるが、それは権限を持つ人間が愛するものではなく、むしろ不自由を望む者は自ら自由を奪われる者が望むものだ。
相手に不自由を与えて自分は相手を不自由にする自由を手にしながら「不自由を愛する」などと言ってはなるまい。
不自由を望むならば、相手を自由にして自分が不自由の身を選んでこそ望めるものではないのか。
自分は暴力を望むと言いながら相手に暴力を振るってはならないのと同じである。
暴力を望むと言うならば自分は暴力を振るわずに相手から暴力を振るわれることを望まなければいけない。
読んでるか知らないが、上の言葉はやまちゃんに、そしてこの映画をふりょもん部屋の権限を持つ人たちに私は観てもらいたいと思う。
自由を奪われた患者達が最後どのような行為に出たか。
自由を無理矢理に奪われる者がいなければ反乱は起きないのだ。
私はもう不良悶絶閉鎖病棟には二度と戻るつもりはない。
私をマクマーフィーのような最期にあの部屋は送らせようとしているのだ。
薄汚く醜い権限と言う極悪な権力で人々の自由を奪い取り自由発言の出来ない大人しい人間にさせようとしている社会の病巣に気付かずに今日も明日も病巣での馴れ合いをし続けていくのだろうか。
私はもうその巣を巣立つときがきたのだ。
私はもうカッコーの巣を巣立ったのである。
ちなみにカッコーとは精神に異常をきたした人間のことでカッコーの巣とは精神病棟のことだが
不良悶絶病棟はまさしくそのような巣である。
人の自由を奪い自分たちだけのユートピアを作り上げようとする精神こそが異常そのものだからである。
電気ショック療法に怯えて誰も言いたいことを言えない狭い世界。
そんな彼らも自由の部屋に居座って病棟のほうで部屋の人間の陰口をみんなで叩き合っているのだから寒気がする。
早く異常さに気づいてカッコーの病巣を巣立つ人間が増えていくことを私は望む。
病巣の側で自分が笑われてるのかもしれないことに耐えられなくなって私は遠くの誰とも喋らないこの故郷に帰ってきた。
とても苦痛な毎日だ。ニュースを見る気力も失せ社会からだんだんと孤立していくのを感じる。
しかしそれでもあの病巣に戻るほうが苦痛だから私は戻らない。
どれほど他の者にとって権限を振り回される居場所が苦痛かをあの人間たちは何も知らない。
言いたい言葉も制限されるのなら何のために真剣に人間と関わりに行くのか。
あいつらは言いたい放題で俺の胸をえぐる死ぬまで忘れない言葉を吐き続けながら何で俺だけ言いたい言葉を制限されるのか。
俺が出て行くのは当然だ。
俺が辛抱切れて巣立つのは、当然の結末だった。
おまえらにロボトミー手術をされる前にな。
俺ばっかりがあいつらを仲間だと思っててあいつらは俺を仲間だとは思ってなかったんだ。
仲間に制限を課したり、権限を振るったりしないからな。
どうしても同等にあいつらは人を置きたくないんだ。
でも一番大事なことじゃないか、自分と相手を同等に置くってことは。
一番人間として大事なことをあいつらは最初から放棄してるんだ。
どんな醜い顔で相手と向き合ってるかわかってないんだ。
どんなに卑劣な部屋か気付いてないんだ。
賢そうな文句をどれだけ並べてもあれじゃ意味がない。
自分がクソで餓鬼で頭が悪い人間だと周りに見せているようなものだ。
でも何言っても気付かないんだろう、自分らだけの居心地の良さを求めてる奴らには。
言っておくがそんな奴らはみんな大馬鹿野郎だ。
おまえはいつその病巣から巣立つんだ。
おまえだよ。
全体非公開性にしやがって。
おまえら全員、いったいいつその病巣から巣立ちするんだ。
それとももうロボトミーされちまってんのか、この病んだ社会の巣に。
何故全員の見ている場所で自分の言葉を発しないんだ。
何故隠れるんだその病巣に。
いいか、俺の日記を見に来るならおまえも俺におまえの日記を見せろ。
じゃないと不公平だ。
観に来ないなら別にいい、勝手にしたらいい。
自分は自分の本音を俺に見せもせずに俺にどうたらこうたら不満を抱くな。
同等が大事だ。
なんと言っても同等がこの世界では一番大事だ。
あ、膀胱が痛い。トイレにも行かずに俺は日記を真剣に書いてるのにおまえらは俺に何の真剣な言葉も見せようとしない。
なんでも対等にやれて一人前だ。
いつまで経っても子供でいいなら今のままで病巣にい続けたらいい。
巣立つ必要もない。
ヒナはぬくぬくな巣であったまってりゃあいい。
親と兄妹にしか聴こえない声でピイピイ鳴いてりゃあいい。
狭い世界で鳴いてるだけで安心しているんだろう。
何が「もう要らない」だ、俺はぽんちゃんの耳に心地いい鳴声を聞かせるために居る小鳥じゃねえぞ。
気に入らなければ捨てるおもちゃのように言いやがって。
どいつもこいつもなんなんだ、人をおもちゃのように扱いやがって。
俺はいつも泣き顔で絶叫してるのに何にも届かない。
俺を代わりの居ない存在のように思ってくれる人はいないってことだろう。
ことごとく社会との接点を失った俺を見て嘲笑っていればいい。
死人のように生きている。
ロボトミーされて生きるより死んだ方がいいな。
俺は死を選んだんだ。
でも望みを持って死んだ。
いつかみんなが真剣に相手と関われる日が来るという望みだ。
俺は落ちたんだ、カッコーの病巣から落ちて死んでしまった。
で、死んだから幽霊になって巣の上を漂ってるというわけだ。
っつうことで「カッコーの巣の上で」よろしく。
早くすべての病巣にカッコウ鳥の鳴く日が来ますように。