「僕たちは世界を変えることができない。But, we wanna build a school in Cambodia.」
という映画を観た。
監督は深作欣二監督の息子「バトル・ロワイアルII 鎮魂歌」の深作健太監督だ。
実際にあった話を基にした映画だ。
「僕たちは探していた、ありきたりな毎日を変えてくれる何かを」
何かが足りない毎日の中、偶然目にした「あなたの150万円の寄付で、カンボジアに屋根のある小学校が建ちます」という海外支援のパンフレットを医大に通う2年生・コータこと田中甲太(向井理)が手にしたことから物語は始まってゆく。
頭の中で何かが弾けたコータは「カンボジアに小学校を建てよう!」と知り合い全員にメールを送信。
ところがコータのもとに集まったのはたったの3人。
いつもの仲間の芝山(柄本佑)と矢野(窪田正孝)、そして合コンで知り合った本田(松坂桃李)だった。
それでもコータは学生サークル“そらまめプロジェクト”を立ち上げ、チャリティーイベントを開催。
パーティを開催して収入を得たり、人集めのために慣れないナンパをしてみたり、地味にビラを配ったり。
カンボジアに小学校を建てるには実際に建設資金150万を自分たちで集めなければならない。
しかしその前に俺たちカンボジアを全く知らねえじゃんとなって4人の若者は学校で習った知識のほかは何もない状態で現地カンボジアへと向かう。
現地のガイド役ブティさんに案内され、そこで目にしたものとは、
想像を絶する言葉を失うほどの残酷な歴史と悲しい現実の数々。
4人はショックが抜けきらないまま無力感を抱えた状態で日本に帰国する。
日本へ帰ってきてから芝山が言う。
「本気であの国救えるとでも思ってんの?」
「アンコールワットでさ、小さい子供が1ドル値だってきたことあったろ、俺思わず渡しちゃったけどさ、たった1ドルであの子たちの未来変わんのかよ!」
無理だという芝山に「そうかもしれない」と弱音を吐く言い出しっぺのコータに矢野が言う。
「ねえコータ、俺たちのやりたかったことってなんなの?」
「ドキュメンタリータッチで撮りたい」という深作健太監督の意向で、カンボジアでの場面はほとんどがドキュメンタリーのようだった。
主人公のコータ演じる向井理はカンボジアでの撮影はあえて台本を読まず、またこの原作も読まないで感情が固定しないようにしたようだ。
最初にシェムリアップ州立病院へ向かい、エイズ病棟へ4人は案内される。
2005年時点では、カンボジアの15歳~49歳までのHIV感染者は2.6%、HIV総患者数は約17万人、40人に1人が感染していることになる。
そこでどんな撮影をするのかは何も知らされていない。
だからそこでのシーンはドキュメンタリーと同じだ。
次に向かったのは
トゥール・スレン虐殺博物館。
「ポル・ポト派が政権の座にあった3年8ヶ月の間、トゥール・スレンには2万人もの人々が送り込まれました。そのうち生きてここを出ることができたのはわずか7人。」
その次に訪れるのはキリング・フィールドです。
当時のカンボジアに300ヶ所あったとされる
処刑場です。
ここでカンボジアの全人口の3人に1人、総人口800万人足らずのカンボジアで、200万人から300万人近くの人が虐殺されたと言われています。
朝の6時過ぎに映画を観終わってから、いろいろ調べて、今昼前の10時55分だ、つらい。
少し休憩を取りたいと思う。
みんなも真剣に読むほどつらいだろう、少し休憩を取ってでも読みたい人は一緒に読んでほしい。
カンボジアのロケでは長回しでスタートからカットまで4時間という撮影もあり、撮影時間はトータルで200時間にも及んだという。
キリングフィールドではどのようなことが行われていたのだろう。
【大量虐殺地、キリングフィールドへ】- カンボジアここに少し詳しく書かれているようだから今から読む。
映画にも出てきたキリングツリー、残酷さを比べることなどできないが、この木は世界で最も悲しい木であるように感じる。
この映画が私たちに投げかけるものとはいったいなんだろう?
それはひとつやふたつじゃない。
この映画は観終わって、いやあほんと良い映画だったな、すごく感動した。では到底終わらせられないものが詰まっている。
何故ならこのテーマはすべての人間にとって本当に大事なことだからだ。
人は、自分に出来ることと、自分のやりたいことがわかっていないと、何もできない。
やりたいこと、多くの人間に共通することだと思うそれは、“一緒に笑いあいたい”ってことじゃないか?
気づいてても気づいてなくても、それが人間の本当の喜びのように思う。
でもそれがわかってても、どうすれば一緒に笑顔になれるのか、そのやり方がわからなくて何もできない。
これをしたらってことがわかっても行動に移すには、本当にそれがやりたいことじゃないとできない。
だから、何か思いついて行動できるってことは、自分の本当にやりたいことと自分に出来ることが合わさった時だ。
みんながそれを探してるんだと思う。
探してるけど、なかなか見つけられないから、自暴自棄になったり、人に当たったりしてしまう。
そうは見つからないし、見つけられないからだ。
主人公のコータは弱い自分を責め続けながら、自分の喜びになることを素直に問い詰めた結果、ある信念を手にする。
「
誰かのために何かをする喜びというのは、きっと自分のために何かをする喜びよりも強い」
強い。ほんとうに強いと私も言える。
自分だけのためにする喜びなんて自分だけ喜んで終わりじゃないか、または自分の家族や友人に喜んでる自分を見せることで終わりじゃないか。
言っとくけど、そんな喜びはほんとにすぐに過ぎ去って跡形も残らないぞ?
あとは過ぎ去った幸福を思い返して、あの頃は良かったな、なんて言うだけじゃないか。
この映画は、「おい!そんな喜びよりも強烈に絶対消え去ったりしない喜びがあるんだよ!」って僕らに向かって叫んでいる。
その叫びはわたし自身の叫びであり、わたしも実は同じ考えで生きているのだけれど
主人公は、その誰かの笑顔をすごく直接に求めてすぐに飛んでいけて、
私の場合は、すごっく湾曲して歪んでるように見えて酷いところを歩いてて人から見ると、おいお前後ろ向いて歩いてんぞって言われるくらいのわかりづらいやり方で、誤解を多く避けられない方法によって、誰かの笑顔を、すべての笑顔を求めて、飛ばずにものすごく違う歩き方をしている。
でも求めてるものはまったくの同じものだ。
それは誰かの笑顔であり、誰かの幸福。
そこには自分もいる。
誰かの笑顔が自分を笑顔に出来るし、誰かの幸福が自分を幸福にできるとわかってるからだ。
そして誰かの笑顔しか自分を笑顔に出来ないし、誰かの幸福しか自分を幸福にできないとわかってるからだ。
ただ僕は、今のところ僕のやり方に賛同者を見つけられていないだけだ…。
でも、現にこの映画だって、苦しいことから逃げて、自分の苦痛を避けて通っていたなら、「誰かのために何かをする喜びというのは、きっと自分のために何かをする喜びよりも強い」って考えには至ることはできなかったはずだ。
苦しいことを耐えて、他者の苦しみにしっかり向き合おうと思えたから、本物の喜びが何かに気づくことができた。
でもそれは、他者の幸福よりも自分の幸福を優先してたら、いつまで経っても気づけない。
自分の幸福と他者の幸福が別のものだって思ってるなら、幸福な自分から見た他者の苦しみはきっと邪魔になるだろう。
何故なら、他者の苦しみを見続けるってことは苦しくてたまらないことだからだ。
他者の不幸や苦痛を見続けていたら自分が幸福になれないと思って、避けてしまうだろうからだ。
多くの人は、まず、自分の幸福を追い求め、自分が幸福になった余裕で他者のことまで心が行き届くんだと信じている。
でも、まず、自分を幸福にするためには、他者の苦しみを見て見ぬふりしなければならないから、その幸福とは、他者と自分をまるで違う世界に立たせるかのようにしなくては、自分の幸福は実現することはできなくなってしまう。
それは、他者の涙を見えてはいるのに、決して拭かないということで、今は拭けないけど、ぼくが幸せになったら拭くからね、と言ってるのと同じで、なんだかおかしい。
今は君の涙は拭けないけど、未来にはきっと拭けるから、っていうのは、ただのつらいことの後回しと同じじゃないか。
でも本物の幸福はそんなところにはないんだ。
だって、本当に大事なこととは、今見えていることをしっかりと見るってことだから。
今見ることのできる誰かの涙を見なくちゃ、今泣いている誰かの涙を今拭くことができない。
それは実際拭けるかどうか、じゃなくて、今どこかで必ず流れている涙は、今の君しかその涙を今拭きたいと思うことができない。
今しかできないことがある。
それは自分と自分の周りだけが幸福になってからじゃ、もう遅い。
彼らはもうとっくに、死んでるかも知れない。
誰かの苦しみを見殺しにして手に入れた幸福が、幸福のはずはないよ。
じゃあどうすれば僕らは、やりたいことと、できることの合わさったその大切な何かを見つけだすことができるんだろうか?
既に幸福な誰かを幸福にしたいと思う人間はいない。
いつでもそう思う誰かは、今泣いている誰かだ。
泣いてるのは、苦しいからだ。
その苦しみに寄り添うには、寄り添い続けるには、共に苦しみを感じることがどうしても必要になってくる。
共に苦しみを感じて、その苦しみに一緒に耐えよう、と言えることが必要となってくる。
同じ苦しみに自らを置くこと、その同じ場所に立てば、きっと毎日泣いているだろう。
一緒に泣いているだろう。
毎日ずっと泣いても涙が枯れることのないくらいに、この世界には悲しみと苦しみがたくさんあって、減ってもくれないからだ。
増えて行ってる。
誰かの涙を拭きたいという気持ちを先延ばしにして得た幸福で、どんな喜びを感じることができるんだろう?
ほんとうにその幸福から得た余裕で、誰かの涙を拭くために、苦しみの地に一緒に立てるんだろうか?
今、なにもできないのは、自分が不幸で余裕がないからじゃない。
苦しみに目を背け続けているからじゃないか?
それは他者の苦しみだけじゃない、自分の苦しみにも目を背けている。
自分に訪れる苦しみを受け入れずに、幸せになることばかり夢見ている。
自分の苦しみは、無駄で、要らないものなのだろうか?
誰かの苦しみを見ることは自分の苦しみだ、その苦しみですら、今は、必要のないものなのだろうか?
今、必要なのは、遠い誰かの今の苦しみに目を向けることよりも、未来に幸福になった余裕で誰かを救えるために自分や自分の大切な誰かだけの幸福を追い求めることなのだろうか?
今しか拭けない涙があるのに。
今、寄り添うことができないなら、もうずっと寄り添うことのできない苦しみがどこかに必ずあるのに。
今しかできないことがあるのに、今やりたいことは未来に出来ることをやるために今やるっていうことだろう?
でも幸福になる前に死ぬかもわからないのに。
そしたらほんとに何もできない。
今できることに目をそむけたまま何もできずに死ぬのか?
いつ死ぬかわからないんだよ、いつ電車に乗っててテロに巻き込まれて死ぬかもわからない。
苦しいこと傷つくことを避けて通って自分と自分の大切な誰かだけの幸福を追及すると、今度はその幸福がない時には不安で苦痛でたまらなくなる。
自分と自分の大切な誰かだけの幸福を求めるってことは同時にその幸福がないことの苦痛と不安を求めてるのと同じってことだ。
多くの人は苦しみを求めてたくないと言いながら、苦しみを求めてしまってることに気づかない。
だから余裕がないんだ。
結局その余裕のなさは、どこから来てるのかと言えば、みんなが自分たちのことだけ考えてるからだ。
自分たちの幸福ばかり追い求めてるから余裕がないのに、他者のことまで考えられる余裕を作るために幸福にまずならないといけないって考えはやはりどう考えても僕はおかしいと思ってしまう。
余裕は、自分の苦しみを自分のためと、また誰かのためだと思って全部を受け入れることによって、苦しみを怖れない強さを持つことができるようになって、そこでようやく初めて他者の苦しみに寄り添おうとすることができる余裕ができてくるんだと僕は身を持って感じて来ている。
苦しみを怖れたら、ずっと苦しみに恐怖していかなくてはならない。
そこには他者の苦痛を自分に重ねる余裕など生まれはしない。
この苦しみは自分のためでもあるし、誰かの笑顔に繋がるために必要な苦しみなんだと信じるなら、もう苦しみを恐れなくてもいい。
どんな苦しみがあっても強く生きられる。
それこそが、誰かを救えるようになるために必要な余裕だ。
自分に訪れる様々な苦しみを受け入れることによってすぐに誰かを救う行動に移せるわけじゃない。
でも苦しみを怖れない、どんな苦しみもポジティブに受け入れようとする姿は、苦しんで生きている誰かを勇気づけることがもしかしたらできるかもしれない。
誰もが苦しみを怖れているのに、誰かは自ら苦しみの中突っ込んで行ってたら、最初は、おいあいつ何やってんだ、頭がかなりイカれてんじゃねえか、と言われることもあるだろうが、そうゆう生き方があるんだってことは見せつけることだってできる。
自ら苦しみを望む、それは自虐で自己憎悪の自己嫌悪と罪滅ぼしの贖罪の気持ちの表れだけじゃない。
誰かのためになりたい、誰かの本物の笑顔を見たいからだ。
僕がみんなに苦しんでほしいと言うのは、みんなが僕と同じ喜びを感じて生きて欲しいからだ。
少なくとも僕は、自分らだけの幸福を追い求めて生きている人よりも多くの喜びを感じているように自分で思う。
僕はそこには戻りたくない。
そこには喜びがないからだ。
本当の笑顔がないからだ。
子供たちはいいさ、ただただ純粋で無垢なんだから。
でも大人になったら、苦労を買ってでもしろっていうのは、こういうことなんだ。
お金を払ってでも自分の苦労を買いなさいよ、ね、それがあなたの幸福に繋がるのだし、誰かの幸福にも繋がるからよ。って意味があるんだ。
だから大人になったら、誰もが、自ら苦しみを追い求める生き方を選んでいく、僕はそう思っている。
僕はもう最近誰とも接してないけれど、孤独に自らなるという苦しみを選んでこの苦しみから何かを学ぼうとしている。
どんな苦しみも無駄にはならない。
ただ僕の苦しみには、自分たちだけの喜びを追い求めるところにはない喜びがある。
誰かの涙に自分の幸福を捨てることのできる喜びだってある。
全部喜びだ。
マスターベーションだって嘲笑われてもいい。
この喜びは、自分だけの喜びを捨て去った人にしかわからない。
自分が苦しくてもみんなの笑顔をいつも願うことができる人にしか、この喜びがすごいと言っても伝わらない。
僕はきっと死ぬまでこの存念を変えない。
僕が苦しみを望むのは、みんなの本当にいい笑顔を見たいからだ。
皆に苦しみを望むのは、みんなの本当にいい笑顔を望むことがみんなの本当の喜びだと信じてるからだ。
耐えきれない苦しみさえなくなれば、みんなで一緒に耐えて生きていける。
この世界から耐えきれない苦しみがなくなるように、みんなで一緒に今苦しみの中にいるすべての存在のために僕らができることとやりたいことが一致することを。
僕らすべてが本当の喜びに向かえることを。
僕は信じてる。
マジで信じてるんだ。
これ原作の本、文庫版の収入は、カンボジアに建てた小学校の維持費や、発展途上国への寄付にあてられるそうだ。
最後に一つ、“行動がすべてだ”という考えは多くの人が持ってると思う。
しかし僕はそうは思っていない。
マザーテレサも言ったように
「
大切なのは、私たちがどれだけの行動をするのではなく、それをするのに、どれだけ愛を注いでいるかです。」
ということだと僕も思うのです。
だから行動、行動と焦るのではなくて、僕らは愛を注げるように愛を求めたらいいのだと思う。
愛とは何だろう?
僕は一つだけ言える愛がある。
それは僕にとって一番の悲しみであり続ける。
私を生涯苦しみの底に居続けさせるだろう愛とは、私にとって父親です。
愛は決して喜びだけを与えるものじゃない。
愛を求めることとは、喜びと同時に苦しみを求めることだと私はわかった。
わたしたちがほんとうにやりたいことは。
わたしたちにできることは。
愛を求め、愛を注ぐこと。
だから私は願う、今苦しみのない者には愛と言う苦しみが与えられ、その苦しみから生まれた愛がすべての者の耐えがたい苦しみを和らげる日が来ることを。