光るみなも白い空 | Category : 世界平和へ向けて

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来世、食肉の家畜になっても…?




この世界がどのような仕組みで、どのような摂理のもとにできているかを私たちは本当のところ、何も知らない。
だからこそ、私が出したこの設問は、非常に恐ろしく、また残酷なものであると実感しています。

何故なら、私たちが今の生を終えた後、どのようなことが待ち受けているか、何もわかるすべを持たないからです。
このおぞましい設問は、ある一つの可能性として、今ここに存在しています。
どのような可能性も否定し得ることはできない世界だからです。

しかし間違いなく言えることは、肉を食べるあなたが来世、食肉の家畜になるのならば、間違いなく私も、そして私の大切な家族もなる、ということです。
それは肉を食べていたからです。

肉を食べていた期間、私は彼らの苦しみを無視していました。
そして都合のいいことに、きっとそれほど苦しいものではないのではないかとどこかで思っていました。
一瞬の痛みだけで素早く屠殺されてるのだろうと何の根拠もなく、何も調べずにただ漠然とどこかで思っているだけでした。

前にも一度同じようなことを訊いたことがあります。
「来世は自分が食肉になっても、食べるのか」と。
その人は「それでも食べる」と言いました。
でもその人は見たら食べられなくなるからと、屠殺の映像を見たことがない人でした。

私は、それはおかしいと思いました。
どうして映像さえも見たことがないのに、そんなことが言えるのだろうと。

来世だろうと前世だろうと、自分が食肉の家畜の場合、今食べている肉は自分の肉なのではないか?
他者の肉であると言えるのだろうか。

それとも、そんな来世などきっとないだろうと思うのだろうか?
でもそんなことは誰もわからないのである。

拷問に合って死んだ人を知り、あのような拷問はきっと自分の身には起きないだろうと言えるだろうか?
そんなことは言わないとしても、どこかできっと自分は大丈夫だろうと思ってはいないだろうか?
だから酷い事件や災害に合ったとき、人間は「何故私がこんな目に」ということを思ってしまうのではないか。
それは他者には起きても自分にはまあ起きないだろうと何故か思っている証拠だ。

しかしこの世界を見渡せば、まるで終わりのない地獄のように悲劇は必ずどこかで起きている。
NPO法人国連WFP協会HP 
「現在、栄養不良の人々は世界で約7億9500万人います。
すなわち、世界の9人に1人は健康で活動的な暮らしを営むための十分な食糧を得られないのです。」
「数字が語る世界の飢餓」に、「世界では、5秒に1人の子どもが飢えに関連する病気で命を落としています。」


日本人の自殺者は年間三万人弱としても一日に70人近い人が自殺しているという計算になる。
このような世界で「どうして自分がこのような目にあったのだろう」と思うことは、それは無知だろうか?平和ボケだろうか?それは人間に巣食う重篤な伝染病だろうか?

1秒間に 米俵1,000俵に相当する58.4トンの穀物が生産され…
世界の漁港で、カツオ1,850匹分、3,700kgの魚が水揚げされ…
牛3頭、豚7頭、鶏1,100羽分、計6.9トンが食肉として生産されています。


5分でわかる食糧問題

飢餓が原因で1日に4~5万人(1年間に1500万人以上)の人が亡くなっており(FAOより)、そのうち7割以上が子どもたちです。

世界中には食べ物が足りないの?

「飢餓」になるのは、食糧が十分につくられていないからではありません。穀物は年間 24億トン生産されています。これは世界中の人が生きていくのに必要な量のおよそ2倍になります。

24億トン (年間穀物生産量) ÷ 71億人 (世界の人口)
⇒  338kg (1人当たり)
※1人当たり1年間の標準量は  180kg

それでも食べ物の不足している人がいるのは、どうしてでしょうか?

たくさんの穀物はどこへ

1人当たりの食糧供給量を比較すると、日本では必要なカロリーより 31%も多く、ソマリアでは16%不足しています。
私たちのように食べるものがいつでも十分手にはいるのは、世界のおよそ2割の人だけなのです。

穀物は人間が食べるだけではなく、先進国では穀物の 6割(約4億トン)が、ウシ、ブタ、ニワトリなどの家畜のえさになっています。
牛肉1キロ作るために穀物11キロ、豚肉1キロ作るために穀物7キロ、鶏肉1キロ作るために穀物4キロを消費しています。
結果として、世界の 2割足らずの先進国にすむ私たちが世界の穀物の半分以上消費しているのです。



肉を食べるということは、家畜たちだけでなく、飢餓で死んで行く人たちの命をも奪い取ることだという情報は、なかなか広がっては行かない。

肉を食べるということは、来世、自分が食肉の家畜となり地獄のような拷問を受け、首元を掻っ切られて意識あるうちからから解体され死ぬことを覚悟の上で食べていたならば良い、という問題ではないことを言います。

それらはあらゆる地獄のような死の苦しみに関わっていることだからです。
一秒間の数えきれないほどの断末魔を私たちはこの耳で聞くこともできないし、想像することさえあまりに難しいだろう。

だって一秒なんて、ほんとうにあっというまに過ぎるじゃないか。
この1秒間に牛3頭、豚7頭、鶏1,100羽とカツオ1,850匹分、3,700kgの魚の絶叫と5秒に1人の子供の苦痛の心の叫びがどこかで聞こえてる。

これはたった一度だけ、来世で食肉用の家畜の拷問のような苦しみを経験すればチャラになって返せるという犠牲ではない。
一体どれだけの拷問のような犠牲を自分が肉を食べたいがためだけに彼らに払ってこさしたのだろう。
自分はどれだけの犠牲を、同じほどの拷問のような苦しみで以って彼らに返すことができるだろうか?

自分はそのような数えきれない想像することも難しいほどの苦痛を観て見ぬふりしてきた。
これからは自分のこの体で彼らに返す番だと思っている。
それは来世家畜となって自分の死体を彼らに美味しく食べてもらうという地獄の連鎖の返し方より、同じほどの苦痛でもっといい方法で返すことはできないのだろうかと考える。

しかし彼らが死体を食べ続ける苦痛を味わいたいなら、どうしてそれを自分が断ることができるだろう。
断る方法も選択も、私にはない。

屠殺の映像をまだ観てないで、来世は食肉の家畜になってでも食べると誓った君は、映像を観ないよりは、観たほうがいいと私は想う。

屠殺場の現場を隠し撮りした「アースリングス」というドキュメンタリー映画の屠殺の場面だけでも、もし観る気になったなら是非ご覧になってください。




そしてこの映像に耐えられた君は、これをはるかに超えるおぞましく恐ろしい映像を良かったらほんの少しでも観てみてほしい。
レンダリングプラントという、動物性脂肪精製工場の巨大攪拌機の機械に入れられる牛や馬の映像です。
「レンダリング・プラント」(動物性脂肪精製工場)って知っていますか?
食用にできない部分をそのままミンチにできる機械ですが、ここには死んだ牛や馬が丸まま放り込まれることもあります。
そして映像で見る限り、動いているように見える子もいました。
瀕死の状態であるのかもしれませんが、観るに堪えない映像です。
観ようと思う君は、トラウマになる覚悟で観てください。
閲覧厳重注意の動画です。
無理をして観るのは大変危険です。それはやめてください。




家畜たちは、牛も豚も鶏もみな、殺して屠る前に首元を掻っ切って、血を抜きます。
死んでからでは上手く血が抜けず生臭くてまずくなるからです。
牛や豚はその前に意識を失わせるノッキングガンという額に撃って頭蓋骨に直径一センチほどの穴を開ける方法や、電気ショック法や二酸化炭素で気を失わせるという方法などが使われているようです。
しかし一番手っ取り早い方法だからと言ってそれらを行わずに鶏と同じように豚も喉元を切り裂いてそのまま次の段階へと運ぶところもあります。

『いのちの食べかた』 森達也 (理論社)

体をあらわれた牛は、一頭がやっと通れるだけの幅の通路に追い込まれ、先頭の牛から順番にノッキングを受ける。
 この光景は、まるで一頭ずつ、押し当てられたピストルを額で打ち抜かれているように見えるが、額に当てられた銃口から出るのは弾丸ではなく、「ノッキングペン」と呼ばれる細い針だ。
 銃口から飛び出す針の長さは3センチほど。眉間を撃たれると同時に脳震盪を起こした牛は硬直し、つぎの瞬間、通路の側面の鉄板が開かれ、段差にすれば1.5mほど下の床まで、牛は四肢をこわばらせたまま傾斜を滑り落ちる。
 この時点で、眉間を撃たれた牛は、すでに意識を失っているといわれている。
 牛が、斜面を滑り落ちてくると同時に、待ち構えていた数人の男たちが牛を取り囲む。頭に回った一人が、眉間に開けられた穴から金属製のワイヤーを素早く差し込む。
 1mほどの長さのワイヤーが、あっというまに牛の身体に吸い込まれて見えなくなる。
 差し込まれたワイヤーは脊髄を破壊する。つまり全身が麻痺するわけだ。
 牛によってはこの瞬間に、片足を痙攣させるなどの反応を示す場合もあるが、ほとんどの場合は無反応だ。
 このとき、ほぼ同じタイミングでもう一人が、首の下をナイフでざっくりと切る。
 切断された頸動脈から大量に血がほとばしる。
 天上の取り付けられたトロリーコンベア(吊り下げ式のベルトコンベアと考えればよい)から下がる鎖に片足をひっかけて、牛は逆さまに吊りあげられる。(p.51-53)


このような方法で意識のないうちに素早く解体していくと言われていますが、隠し撮りの映像では明らかに逆さに釣り上げられているときに悲痛な鳴き声で鳴いている子も多くいました。
しかしそのような子も皆と同じように意識を持った状態のままで解体されていきます。

大量生産で素早く作業しなくてはいけないので、そのように意識のある状態でも豚は熱湯に入れられる子がたくさんいます。
鶏は吊るされて流れるコンベアベルトの機械の隙間に挟まってもそのままにされ身体の千切れるような痛みにも耐えねばなりません。


家畜たちの苦しみ、飢餓で死んで行く人たちの苦しみ、その短くはない地獄のような時間。
どうしてもっと早く彼らの痛みに向き合って肉食を断てなかったか。
それが私の一番の後悔の苦しみとして、それはずっと死ぬまで消えることはないと思います。
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「にんげんっていいな」










[14:41:27] : なにかきっかけがあって、考えが変わったとかあるんですか
[14:42:01] kozue ueda: 肉を食べる人も好きで食べてるわけじゃないんだって気づいたからですね
[14:42:09] : なるほど
[14:42:33] kozue ueda: それが人間の苦しみであって、必要な苦しみだから存在してると思ったんですよ
[14:42:45] : うん
[14:43:29] kozue ueda: だから悪ではないんですね、肉食は
[14:43:42] : そうですね
[14:43:45] kozue ueda: うん
[14:44:06] kozue ueda: みんな本当は菜食になりたいんだってわかったんですよ
[14:44:14] : うんうん
[14:44:26] kozue ueda: でもまだなれなくてみんな苦しんでる
[14:44:31] : うん
[14:45:28] kozue ueda: いっとき、ほんと傷つけるのが怖くなって、まったく話をしなくなったときもある
[14:45:35] kozue ueda: 肉食の話を
[14:45:41] : そうなんだ
[14:45:45] kozue ueda: うん
[14:46:17] : そういう話はデリケートな部分もありますからね
[14:46:21] kozue ueda: うん
[14:46:48] kozue ueda: で、チャット部屋でさ、まだ言われるわけ、植物はいいの?って
[14:46:58] : そうなのか
[14:46:59] kozue ueda: でも私は黙り込んでたら
[14:47:21] kozue ueda: 肉を食べてるけど、私を応援してくれてた仲間がさ
[14:48:02] kozue ueda: 菜食は植物も最低限の殺生(肉生産に必要な穀物参照)でいいんだよって、私の代わりに言ってくれたんだ
[14:48:14] kozue ueda: その時すごい嬉しかった
[14:48:18] : うんうん
[14:49:01] kozue ueda: だから肉食の人でも、傷つけるばかりじゃないんだとわかった
[14:49:13] kozue ueda: 問題は訴え方なんだよね
[14:49:18] : そうですね
[14:49:22] kozue ueda: うん
[14:49:50] kozue ueda: 昨日さ、すごい皮肉の歌を載せたじゃん
[14:49:55] : ありましたね
[14:50:21] kozue ueda: あれ二つとも、少し反響があって
[14:51:37] kozue ueda: 何か響いたのかも知れない
[14:51:40] : うん
[14:52:24] kozue ueda: 皮肉って好きじゃないけど、あれ強烈なんだなと思った
[14:52:29] : そうですね
[14:52:33] kozue ueda: うん
[14:53:10] kozue ueda: 家畜の目線になってるから悲しいよね
[14:53:18] : うん、そうですね
[14:53:24] kozue ueda: うん
[14:54:04] kozue ueda: でもほんとあの歌って家畜の歌だなと思って
[14:54:12] : そうなんだ
[14:54:16] kozue ueda: うん
[14:54:39] kozue ueda: 家畜こそが、人間はいいなと思うんじゃないかって
[14:54:46] : なるほどなぁ
[14:55:26] kozue ueda: 家畜だけじゃないけど、人間に虐げられてる動物の歌って気がした
[14:55:33] : そうかぁ
[14:55:39] kozue ueda: うん
[14:56:13] : 歴代のエンディング何曲かあるみたいだけど、再放送のときはあの歌がずっとエンディングなんですね
[14:56:22] kozue ueda: うん
[14:56:59] kozue ueda: つらいですよ、あの歌は
[14:57:04] : うん
[14:58:09] kozue ueda: 動物の住処を奪って、命さえ奪ってあったかいご飯食べてあったかい布団で寝るわけです
[14:58:16] : うん
[14:59:22] kozue ueda: で、家畜とかの場合は、ぼくも帰ろっていって帰る場所は屠殺場しかないわけなんですね
[14:59:29] : うん
[15:00:34] kozue ueda: 熊の子見ていたかくれんぼ、で始まりますよね
[15:00:38] : うん
[15:00:49] kozue ueda: クマもすごい虐待されてるようですね
[15:00:58] : 昨日のツイートでありましたね
[15:01:02] kozue ueda: うん
[15:01:09] : 胆汁抜かれてるってやつ
[15:01:13] kozue ueda: うん
[15:01:42] kozue ueda: 苦し過ぎて自殺する子がいるみたい
[15:01:54] : そうか…
[15:02:31] kozue ueda: それで、胆嚢の効き目はイマイチよくわかってないとか言わられてるんですよ
[15:02:38] : うん
[15:03:32] : カブトガニも体液抜かれてるってのがあったな
[15:03:37] kozue ueda: うん
[15:04:02] : ほかの生物もあるんだろうか
[15:04:10] kozue ueda: わかんない

食べ物があるのに飢えるのはなぜ?

クリックすると、でっかくなります!

飢餓問題png



ソースはこちらです。
飢餓対策NEWS296号:【ニジェール】食べ物があるのに飢えるのはなぜ?
http://www.jifh.org/pdf/joinus_news/news_no_296.pdf


飢餓 - Wikipedia

世界の食料生産総量は、世界中の人々を養うに十分な量がある。

貧しい国の貧しい生産者は、家族がもはや生活できないほどの低価格を、商社(値段を決める権限を持つ)から強制されている。

貧しい国の貧しい生産者は、家族の生活を維持するために必要な穀物は、商社に売り渡され、豊かな国の人々の肉類生産用家畜飼料にされている。

「僕たちは世界を変えることができない。でも、僕たちは世界を変えたい。」

「僕たちは世界を変えることができない。But, we wanna build a school in Cambodia.」


僕たちは世界を変えることができない。 [DVD]僕たちは世界を変えることができない。 [DVD]
(2012/03/09)
向井理、松坂桃李 他

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という映画を観た。
監督は深作欣二監督の息子「バトル・ロワイアルII 鎮魂歌」の深作健太監督だ。

実際にあった話を基にした映画だ。
「僕たちは探していた、ありきたりな毎日を変えてくれる何かを」
何かが足りない毎日の中、偶然目にした「あなたの150万円の寄付で、カンボジアに屋根のある小学校が建ちます」という海外支援のパンフレットを医大に通う2年生・コータこと田中甲太(向井理)が手にしたことから物語は始まってゆく。
頭の中で何かが弾けたコータは「カンボジアに小学校を建てよう!」と知り合い全員にメールを送信。
ところがコータのもとに集まったのはたったの3人。
いつもの仲間の芝山(柄本佑)と矢野(窪田正孝)、そして合コンで知り合った本田(松坂桃李)だった。
それでもコータは学生サークル“そらまめプロジェクト”を立ち上げ、チャリティーイベントを開催。
パーティを開催して収入を得たり、人集めのために慣れないナンパをしてみたり、地味にビラを配ったり。
カンボジアに小学校を建てるには実際に建設資金150万を自分たちで集めなければならない。

しかしその前に俺たちカンボジアを全く知らねえじゃんとなって4人の若者は学校で習った知識のほかは何もない状態で現地カンボジアへと向かう。
現地のガイド役ブティさんに案内され、そこで目にしたものとは、
想像を絶する言葉を失うほどの残酷な歴史と悲しい現実の数々。
4人はショックが抜けきらないまま無力感を抱えた状態で日本に帰国する。
日本へ帰ってきてから芝山が言う。
「本気であの国救えるとでも思ってんの?」
「アンコールワットでさ、小さい子供が1ドル値だってきたことあったろ、俺思わず渡しちゃったけどさ、たった1ドルであの子たちの未来変わんのかよ!」
無理だという芝山に「そうかもしれない」と弱音を吐く言い出しっぺのコータに矢野が言う。
「ねえコータ、俺たちのやりたかったことってなんなの?」



「ドキュメンタリータッチで撮りたい」という深作健太監督の意向で、カンボジアでの場面はほとんどがドキュメンタリーのようだった。
主人公のコータ演じる向井理はカンボジアでの撮影はあえて台本を読まず、またこの原作も読まないで感情が固定しないようにしたようだ。

最初にシェムリアップ州立病院へ向かい、エイズ病棟へ4人は案内される。
2005年時点では、カンボジアの15歳~49歳までのHIV感染者は2.6%、HIV総患者数は約17万人、40人に1人が感染していることになる。
そこでどんな撮影をするのかは何も知らされていない。
だからそこでのシーンはドキュメンタリーと同じだ。

次に向かったのはトゥール・スレン虐殺博物館
「ポル・ポト派が政権の座にあった3年8ヶ月の間、トゥール・スレンには2万人もの人々が送り込まれました。そのうち生きてここを出ることができたのはわずか7人。」

その次に訪れるのはキリング・フィールドです。
当時のカンボジアに300ヶ所あったとされる処刑場です。
ここでカンボジアの全人口の3人に1人、総人口800万人足らずのカンボジアで、200万人から300万人近くの人が虐殺されたと言われています。

朝の6時過ぎに映画を観終わってから、いろいろ調べて、今昼前の10時55分だ、つらい。
少し休憩を取りたいと思う。
みんなも真剣に読むほどつらいだろう、少し休憩を取ってでも読みたい人は一緒に読んでほしい。

カンボジアのロケでは長回しでスタートからカットまで4時間という撮影もあり、撮影時間はトータルで200時間にも及んだという。
キリングフィールドではどのようなことが行われていたのだろう。
【大量虐殺地、キリングフィールドへ】- カンボジア
ここに少し詳しく書かれているようだから今から読む。

映画にも出てきたキリングツリー、残酷さを比べることなどできないが、この木は世界で最も悲しい木であるように感じる。

この映画が私たちに投げかけるものとはいったいなんだろう?
それはひとつやふたつじゃない。

この映画は観終わって、いやあほんと良い映画だったな、すごく感動した。では到底終わらせられないものが詰まっている。
何故ならこのテーマはすべての人間にとって本当に大事なことだからだ。
人は、自分に出来ることと、自分のやりたいことがわかっていないと、何もできない。
やりたいこと、多くの人間に共通することだと思うそれは、“一緒に笑いあいたい”ってことじゃないか?
気づいてても気づいてなくても、それが人間の本当の喜びのように思う。
でもそれがわかってても、どうすれば一緒に笑顔になれるのか、そのやり方がわからなくて何もできない。
これをしたらってことがわかっても行動に移すには、本当にそれがやりたいことじゃないとできない。
だから、何か思いついて行動できるってことは、自分の本当にやりたいことと自分に出来ることが合わさった時だ。

みんながそれを探してるんだと思う。
探してるけど、なかなか見つけられないから、自暴自棄になったり、人に当たったりしてしまう。
そうは見つからないし、見つけられないからだ。

主人公のコータは弱い自分を責め続けながら、自分の喜びになることを素直に問い詰めた結果、ある信念を手にする。
誰かのために何かをする喜びというのは、きっと自分のために何かをする喜びよりも強い

強い。ほんとうに強いと私も言える。
自分だけのためにする喜びなんて自分だけ喜んで終わりじゃないか、または自分の家族や友人に喜んでる自分を見せることで終わりじゃないか。
言っとくけど、そんな喜びはほんとにすぐに過ぎ去って跡形も残らないぞ?
あとは過ぎ去った幸福を思い返して、あの頃は良かったな、なんて言うだけじゃないか。

この映画は、「おい!そんな喜びよりも強烈に絶対消え去ったりしない喜びがあるんだよ!」って僕らに向かって叫んでいる。
その叫びはわたし自身の叫びであり、わたしも実は同じ考えで生きているのだけれど
主人公は、その誰かの笑顔をすごく直接に求めてすぐに飛んでいけて、
私の場合は、すごっく湾曲して歪んでるように見えて酷いところを歩いてて人から見ると、おいお前後ろ向いて歩いてんぞって言われるくらいのわかりづらいやり方で、誤解を多く避けられない方法によって、誰かの笑顔を、すべての笑顔を求めて、飛ばずにものすごく違う歩き方をしている。
でも求めてるものはまったくの同じものだ。
それは誰かの笑顔であり、誰かの幸福。
そこには自分もいる。
誰かの笑顔が自分を笑顔に出来るし、誰かの幸福が自分を幸福にできるとわかってるからだ。
そして誰かの笑顔しか自分を笑顔に出来ないし、誰かの幸福しか自分を幸福にできないとわかってるからだ。
ただ僕は、今のところ僕のやり方に賛同者を見つけられていないだけだ…。
でも、現にこの映画だって、苦しいことから逃げて、自分の苦痛を避けて通っていたなら、「誰かのために何かをする喜びというのは、きっと自分のために何かをする喜びよりも強い」って考えには至ることはできなかったはずだ。
苦しいことを耐えて、他者の苦しみにしっかり向き合おうと思えたから、本物の喜びが何かに気づくことができた。
でもそれは、他者の幸福よりも自分の幸福を優先してたら、いつまで経っても気づけない。
自分の幸福と他者の幸福が別のものだって思ってるなら、幸福な自分から見た他者の苦しみはきっと邪魔になるだろう。
何故なら、他者の苦しみを見続けるってことは苦しくてたまらないことだからだ。
他者の不幸や苦痛を見続けていたら自分が幸福になれないと思って、避けてしまうだろうからだ。
多くの人は、まず、自分の幸福を追い求め、自分が幸福になった余裕で他者のことまで心が行き届くんだと信じている。
でも、まず、自分を幸福にするためには、他者の苦しみを見て見ぬふりしなければならないから、その幸福とは、他者と自分をまるで違う世界に立たせるかのようにしなくては、自分の幸福は実現することはできなくなってしまう。
それは、他者の涙を見えてはいるのに、決して拭かないということで、今は拭けないけど、ぼくが幸せになったら拭くからね、と言ってるのと同じで、なんだかおかしい。
今は君の涙は拭けないけど、未来にはきっと拭けるから、っていうのは、ただのつらいことの後回しと同じじゃないか。
でも本物の幸福はそんなところにはないんだ。
だって、本当に大事なこととは、今見えていることをしっかりと見るってことだから。
今見ることのできる誰かの涙を見なくちゃ、今泣いている誰かの涙を今拭くことができない。
それは実際拭けるかどうか、じゃなくて、今どこかで必ず流れている涙は、今の君しかその涙を今拭きたいと思うことができない。
今しかできないことがある。
それは自分と自分の周りだけが幸福になってからじゃ、もう遅い。
彼らはもうとっくに、死んでるかも知れない。
誰かの苦しみを見殺しにして手に入れた幸福が、幸福のはずはないよ。

じゃあどうすれば僕らは、やりたいことと、できることの合わさったその大切な何かを見つけだすことができるんだろうか?
既に幸福な誰かを幸福にしたいと思う人間はいない。
いつでもそう思う誰かは、今泣いている誰かだ。
泣いてるのは、苦しいからだ。
その苦しみに寄り添うには、寄り添い続けるには、共に苦しみを感じることがどうしても必要になってくる。
共に苦しみを感じて、その苦しみに一緒に耐えよう、と言えることが必要となってくる。
同じ苦しみに自らを置くこと、その同じ場所に立てば、きっと毎日泣いているだろう。
一緒に泣いているだろう。
毎日ずっと泣いても涙が枯れることのないくらいに、この世界には悲しみと苦しみがたくさんあって、減ってもくれないからだ。
増えて行ってる。
誰かの涙を拭きたいという気持ちを先延ばしにして得た幸福で、どんな喜びを感じることができるんだろう?
ほんとうにその幸福から得た余裕で、誰かの涙を拭くために、苦しみの地に一緒に立てるんだろうか?
今、なにもできないのは、自分が不幸で余裕がないからじゃない。
苦しみに目を背け続けているからじゃないか?
それは他者の苦しみだけじゃない、自分の苦しみにも目を背けている。
自分に訪れる苦しみを受け入れずに、幸せになることばかり夢見ている。
自分の苦しみは、無駄で、要らないものなのだろうか?
誰かの苦しみを見ることは自分の苦しみだ、その苦しみですら、今は、必要のないものなのだろうか?
今、必要なのは、遠い誰かの今の苦しみに目を向けることよりも、未来に幸福になった余裕で誰かを救えるために自分や自分の大切な誰かだけの幸福を追い求めることなのだろうか?
今しか拭けない涙があるのに。
今、寄り添うことができないなら、もうずっと寄り添うことのできない苦しみがどこかに必ずあるのに。
今しかできないことがあるのに、今やりたいことは未来に出来ることをやるために今やるっていうことだろう?
でも幸福になる前に死ぬかもわからないのに。
そしたらほんとに何もできない。
今できることに目をそむけたまま何もできずに死ぬのか?
いつ死ぬかわからないんだよ、いつ電車に乗っててテロに巻き込まれて死ぬかもわからない。
苦しいこと傷つくことを避けて通って自分と自分の大切な誰かだけの幸福を追及すると、今度はその幸福がない時には不安で苦痛でたまらなくなる。
自分と自分の大切な誰かだけの幸福を求めるってことは同時にその幸福がないことの苦痛と不安を求めてるのと同じってことだ。
多くの人は苦しみを求めてたくないと言いながら、苦しみを求めてしまってることに気づかない。
だから余裕がないんだ。
結局その余裕のなさは、どこから来てるのかと言えば、みんなが自分たちのことだけ考えてるからだ。
自分たちの幸福ばかり追い求めてるから余裕がないのに、他者のことまで考えられる余裕を作るために幸福にまずならないといけないって考えはやはりどう考えても僕はおかしいと思ってしまう。
余裕は、自分の苦しみを自分のためと、また誰かのためだと思って全部を受け入れることによって、苦しみを怖れない強さを持つことができるようになって、そこでようやく初めて他者の苦しみに寄り添おうとすることができる余裕ができてくるんだと僕は身を持って感じて来ている。
苦しみを怖れたら、ずっと苦しみに恐怖していかなくてはならない。
そこには他者の苦痛を自分に重ねる余裕など生まれはしない。
この苦しみは自分のためでもあるし、誰かの笑顔に繋がるために必要な苦しみなんだと信じるなら、もう苦しみを恐れなくてもいい。
どんな苦しみがあっても強く生きられる。
それこそが、誰かを救えるようになるために必要な余裕だ。
自分に訪れる様々な苦しみを受け入れることによってすぐに誰かを救う行動に移せるわけじゃない。
でも苦しみを怖れない、どんな苦しみもポジティブに受け入れようとする姿は、苦しんで生きている誰かを勇気づけることがもしかしたらできるかもしれない。
誰もが苦しみを怖れているのに、誰かは自ら苦しみの中突っ込んで行ってたら、最初は、おいあいつ何やってんだ、頭がかなりイカれてんじゃねえか、と言われることもあるだろうが、そうゆう生き方があるんだってことは見せつけることだってできる。
自ら苦しみを望む、それは自虐で自己憎悪の自己嫌悪と罪滅ぼしの贖罪の気持ちの表れだけじゃない。
誰かのためになりたい、誰かの本物の笑顔を見たいからだ。
僕がみんなに苦しんでほしいと言うのは、みんなが僕と同じ喜びを感じて生きて欲しいからだ。
少なくとも僕は、自分らだけの幸福を追い求めて生きている人よりも多くの喜びを感じているように自分で思う。
僕はそこには戻りたくない。
そこには喜びがないからだ。
本当の笑顔がないからだ。
子供たちはいいさ、ただただ純粋で無垢なんだから。
でも大人になったら、苦労を買ってでもしろっていうのは、こういうことなんだ。
お金を払ってでも自分の苦労を買いなさいよ、ね、それがあなたの幸福に繋がるのだし、誰かの幸福にも繋がるからよ。って意味があるんだ。
だから大人になったら、誰もが、自ら苦しみを追い求める生き方を選んでいく、僕はそう思っている。
僕はもう最近誰とも接してないけれど、孤独に自らなるという苦しみを選んでこの苦しみから何かを学ぼうとしている。
どんな苦しみも無駄にはならない。
ただ僕の苦しみには、自分たちだけの喜びを追い求めるところにはない喜びがある。
誰かの涙に自分の幸福を捨てることのできる喜びだってある。
全部喜びだ。
マスターベーションだって嘲笑われてもいい。
この喜びは、自分だけの喜びを捨て去った人にしかわからない。
自分が苦しくてもみんなの笑顔をいつも願うことができる人にしか、この喜びがすごいと言っても伝わらない。
僕はきっと死ぬまでこの存念を変えない。
僕が苦しみを望むのは、みんなの本当にいい笑顔を見たいからだ。
皆に苦しみを望むのは、みんなの本当にいい笑顔を望むことがみんなの本当の喜びだと信じてるからだ。
耐えきれない苦しみさえなくなれば、みんなで一緒に耐えて生きていける。
この世界から耐えきれない苦しみがなくなるように、みんなで一緒に今苦しみの中にいるすべての存在のために僕らができることとやりたいことが一致することを。
僕らすべてが本当の喜びに向かえることを。

僕は信じてる。
マジで信じてるんだ。





僕たちは世界を変えることができない。But, we wanna build a school in Cambodia. (小学館文庫)僕たちは世界を変えることができない。But, we wanna build a school in Cambodia. (小学館文庫)
(2011/07/06)
葉田 甲太

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これ原作の本、文庫版の収入は、カンボジアに建てた小学校の維持費や、発展途上国への寄付にあてられるそうだ。

最後に一つ、“行動がすべてだ”という考えは多くの人が持ってると思う。
しかし僕はそうは思っていない。
マザーテレサも言ったように
大切なのは、私たちがどれだけの行動をするのではなく、それをするのに、どれだけ愛を注いでいるかです。
ということだと僕も思うのです。

だから行動、行動と焦るのではなくて、僕らは愛を注げるように愛を求めたらいいのだと思う。
愛とは何だろう?
僕は一つだけ言える愛がある。
それは僕にとって一番の悲しみであり続ける。
私を生涯苦しみの底に居続けさせるだろう愛とは、私にとって父親です。
愛は決して喜びだけを与えるものじゃない。
愛を求めることとは、喜びと同時に苦しみを求めることだと私はわかった。
わたしたちがほんとうにやりたいことは。
わたしたちにできることは。

愛を求め、愛を注ぐこと。

だから私は願う、今苦しみのない者には愛と言う苦しみが与えられ、その苦しみから生まれた愛がすべての者の耐えがたい苦しみを和らげる日が来ることを。

盲目の牛




「霜降り肉」の牛 盲目になることも 味と飼い方 揺れる農家 
信濃毎日新聞 2011年6月11日(土)

その牛は、額の先で手を振っても反応がなかった。黒目は焦点が定まっていない。ほかの牛と体をぶつけることも多い。
「盲目の牛です」。ステーキなどの高級食材になる和牛を飼う県中部の50代の男性農家が打ち明けた。「おいしい肉にしようとすれば、こうした牛が出てしまう」と男性。
飼育中の約130頭のうち、1頭が完全に目が見えず、10頭弱は視力低下が進んでいる。こうした牛も人体への影響はまったくないとされ、普通に出荷される。

盲目になるのは、肉に「サシ」と呼ばれる白い脂肪分を入れようとして、牛の栄養が偏ってしまうことが原因だ。和牛の価格は、サシの入り具合で決まる。多くの農家の目標は、高値で取引される細かなサシが入った「霜降り」の牛を育てることだ。
そのため、農家は生後約1年半から数カ月間、ビタミンを多く含む牧草などの餌を抑え、穀物が中心の飼料で太らせる。これがサシを入れるために欠かせない技術とされる。「霜降り」という日本の食文化を支える生産者の知恵だ。
しかし、ビタミンは、視力維持に必要な成分。欠乏がひどくなると盲目になりやすい。足の関節が腫れて歩行に障害が出る場合もある。農家は症状が出ないぎりぎりのラインを模索しながら給餌する。しかし、一部がこうした牛になる危険性は残る。微妙なバランスの上に和牛生産は成り立っている―。そう表現する農家は多い。

和牛を百数十頭飼育する県北部の40代の男性農家は「消費者が生産現場の現状を知れば、肉を買ってくれるか分からない」と不安を打ち明ける。
この30年間、和牛を出荷する時、牛の背中に"お神酒"を掛けて送り出してきた。自分が生計を立てられることへの「感謝」。そして、高く売るために不健康な姿にさせる「申し訳なさ」。そうした複雑な感情を、牛を出荷するたびに確かめる。
この男性は、食肉処理など多くの中間業者が流通に加わる畜産は「農業の中でも生産者と消費者の距離が遠いと感じてきた」という。

それは、同じ畜産業の酪農でも同じだ。上伊那郡南箕輪村の酪農家、小坂忠弘さん(55)は、畜舎見学に来た小学生が、乳牛から乳を搾る現場を見て以来、牛乳を飲めなくなった、という話を数年前に酪農仲間から聞いて、頭から離れなくなった。
思い当たることがあった。国内では、広い牧草地を確保しづらく、多くの時間は乳牛を畜舎内で飼育するのが一般的だ。しかし、小坂さんは「多くの人が広い牧草地だけで乳牛を飼っていると思っているかもしれない」。畜舎も小学生の予想以上に汚れていたのかも・・・。
さまざまな考えが頭を巡った。小坂さんは、畜舎の清掃を小まめにして、「恥ずかしくない飼い方」を心掛けている。
消費者が思い描く畜産のイメージと現実のギャップ。そこに農家はおびえている。

信大農学部(上伊那郡南箕輪村)の准教授竹田謙一さん(39)=家畜管理学=が2年前に一般消費者300人余を対象に行ったアンケートでは、「飼い方に配慮された畜産物は値段が高くても買いたい」と答えた人が9割近くを占めた。
竹田さんは「消費者のニーズは農産物そのものにあるだけでなく、その出来上がる過程にもある。消費者のイメージに畜産現場を近づける必要がある」と話す。
畜舎の環境などは生産者が少しずつ改善することは可能だ。しかし、和牛を飼育する農家の多くは「牛が盲目になってしまうのは、『消費者が求める最高級の霜降り』を目指すためには仕方がないこと」とも言う。消費者が望むのは、味なのか、価格なのか、生産過程なのか―。すべてを満たすことができない場合は、何を優先すればいいのか。生産者には、消費者の姿が、はっきり見えていない。

信濃毎日新聞社編集局「農再生へ-自由化時代」





『「飼い方に配慮された畜産物は値段が高くても買いたい」と答えた人が9割近くを占めた。』

「飼い方に配慮された畜産物」を望むのは、病気になるような育て方をした牛の肉は食べたくないという気持ちと、せめて屠畜されるまでのあいだは、苦しい育て方をしてほしくない、という気持ちがあるのだと思う。
どうすれば「飼い方に配慮された畜産物」が増えて行くのだろうか。
霜降り肉が病気すれすれの牛の肉であることを知って買う人は少ないだろう。
知れば、買う人はものすごく減る。と同時に農家の収入も減る。
減っては暮らしていけないから、その事実を広めることができない。
しかし消費者は飼い方に配慮された高価でも美味しい肉を食べたいと思っている。
それは当然だ、メタボな牛は病気すれすれではなく、もうすでに病気の牛だから、霜降り肉を食べて健康な人はいない。
霜降り肉をたくさん食べるほど人間は病気にかかりやすくなる。病気にかかれば医療費がかかる。
病気になりたくて霜降り肉を食べている人はいないだろう。
霜降り肉を食べている人は、食べても病気にはならないと思って食べている。だから美味しいと思える。
しかし実際は食べているのは病気の牛の肉だ。
病気の牛の肉を売っているのだから、本当なら問題になって、病気の牛の肉は売らないように、病気になるような飼い方はしないようにと規制されるはずが、それはされない。
知っている人は少なくないのに問題となって、規制されない。

病気の牛の肉を人々は食べたくないと思っている。
霜降り肉は高価だ。でもおいしいから少量で満足できる。
しかし高いから、霜降り肉を買うとお金がなくなってその分、たくさんの肉は買えなくなる。
人々がたくさんの肉を買うほど、たくさんの牛が屠畜される。
つまり、人々が高価な肉を買えば買うほど、屠畜される牛の数は減るのではないだろうか。
減りはするが、霜降りにされる牛は、他の牛よりも病気がちで苦しめてしまう。
だからこれに気づいた人は、霜降りは買わずに、安い肉をたくさん買うかもしれない。
霜降り肉が売れなくなれば、屠畜の時以外に苦しむ牛も減る。
しかしその分、安い肉がたくさん売れて、屠畜される牛の数が増える。

人々は「飼い方に配慮された畜産物を高価でも買いたい」と思っている。
でも飼い方に配慮されていても硬くて不味い肉なら誰も買わない。
飼い方に配慮された霜降り並みの美味しい肉は、今のところない。

人々が「飼い方に配慮された畜産物なら、味は落ちても、高価であっても、買いたい」となれば、飼い方に配慮された味は落ちるが高価な肉が売れるのだから、農家は皆、そのような肉を作れば良いのだが、実際のところ、飼い方に配慮された味は落ちるが高価な肉を、人々は買おうとしない。

飼い方に配慮された美味しい高価な肉は、作れない。
しかし人々は飼い方に配慮された美味しい肉を高価でも売ってほしいと思っている。

農家の人たちは、毎日どのような混濁な苦しみを抱えて牛を育て、屠畜しているのだろうか。
誰も幸せではない。
病気になる育て方をされている牛たちも、病気になる育て方をしている農家たちも、病気になる育て方をしている牛の肉を知らずに食べている人たちも。
誰も誰も、だれひとり、幸せじゃない。

苦しみの連鎖から抜け出たかったのは、わたし自身なのである。
だからわたしは、せめて牛と豚と鶏を食べるのはやめたんだ。(乳と卵も極力買わない)
そして抜け出すために知った多くの苦しみの連鎖を知って、わたし自信も幸せになったわけじゃない。
別に幸せになるために肉を断ったわけじゃない。
ただ楽になりたかったんだ。

楽とは何だろう?
出産に立ち会い、生まれた時から可愛がりながらも病気になる餌を与え病気にして苦しんでいる牛たちを出荷する農家の人たちは霜降り肉が売れるおかげで食べていける。
霜降り肉は美味しくて御馳走だから一月に一パック買えたらいいほうだけど、本当に美味しくて幸せだと、病気の牛の肉であることを知らずに食べている人たちは、今もどこかで食卓を囲んでいる。
仕事があって、美味しいものが食べられる。でも幸せではない。
彼らは、楽なんだろうか。
そうも思えない。
病気の牛を出荷して、病気であることを内緒にしておいて、人々に美味しい霜降り肉を食べさせること。
病気の牛の肉とは知らずに高価な霜降り肉を一家団欒で楽しむこと。
それのどこが幸せで、楽で、喜びか。
幸せでも楽でも喜びでもない。
本当に苦しい苦しみじゃないか。

私は苦しみの連鎖から抜け出られたのだろうか。
畜肉、鶏肉を見れば人肉にしか見えず、解体されている牛を観れば、自分の家族が解体されていく錯覚に陥る。
私は苦しみの連鎖からほんとうに抜け出られたのだろうか。
もし抜け出られているのなら、抜け出られた場所から一体なにを言えばいいんだろう。
何を訴えれば、何を叫べばいいんだろう。
現に養殖の魚は抗生物質などの薬剤漬けだがそれでも食べている私が。
「天然のマグロは本当に美味い」と叫んだところで牛は病気のほうが美味いんだから。

盲目の牛は、そのまっ暗闇の中に何を見ているのだろう。
プロフィール

白空

Author:白空
1981年8月4日生

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