僕からの〖人類への警告〗

Wes(WestleyAllanDodd) Wes ヴィーガン 人類への警告 作用反作用の法則 因果応報 屠殺場 弱肉強食

yuzae1981

@atsushilonboo 僕はその言葉を聴いて"自分自身"をこの真の地獄から救う人が増えてきてほしいだけなんだ。https://t.co/qejHzurhqG
12-16 19:17

@atsushilonboo 命乞いする為に言った事と同じ言葉を、人々に対し、叫んでいる。人に殺されるとき、動物たちは切実に叫ぶんだ。「ごめんなさい!ごめんなさい!」と。僕は2012年に初めて屠殺場の映像を観た瞬間、彼らの切実なその言葉を聴いた。
12-16 19:17

@atsushilonboo https://t.co/7jn2GCbTGj僕の訴えは人々を根源的に傷つけるものだろう。人びとが傷つくのは、《因果応報》を恐れる意識からではなく、そこに《良心》が存在しているからである。動物たちは苦しみ続け、人々に助けを請うている。そして"彼ら"は、何故か、WesWestley Allan Dodd)が殺した子が
12-16 19:16

重要なのは、《殺している》という自分自身の潜在意識です。《殺している》人は、《なにか(だれか)》によって、殺される(自分の蒔いた種を刈り取る)ことになります。
12-16 12:09


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"Blue Blood(青い血の人種)"によるヴィーガンに対する切実な主張|ロバト #note https://t.co/yGZkVmjzy2ちょっと加筆しました。これは、僕からの〖人類への警告〗です。《作用反作用の法則(因果律の法則)》に逆らうことのできる人は、だれひとり、いないからです。
12-16 12:09

あなたがたの極端な主張など、いつまでも"彼ら"に届く日など来ないだろう。」《To live is the rarest thing in the world. Most people exist, that is all.生きるということは、この世で最も希有なことである。ほとんどの人は、存在する、ただそれだけだ。》Oscar Wilde
12-16 10:50

人々が、〈家畜〉に対して行い続けて来た事と何ら変わりはない。僕はあなたがたが何を僕に強要しようとしても、僕は自分を変化させる気はない。もし暴力的行為でもするならば、法に訴えるからそのつもりでいてくれ給え。最後に言っておく。
12-16 10:50

流れている。あなたがたに、非難されたくなどない。僕は子どもたちを差別している。〈種〉が違う為、僕に殺されても仕方のない存在だ。彼らは僕の快楽を満たす為だけに存在し、生きているのも同様だ。僕は断言するよ。"彼らには生きてゆく価値などない"僕の考え、そして行為は此の世で多くの
12-16 10:50

肉食動物だって同じことをしているんだ。この世界は弱肉強食でしかない。強い者が弱い者を殺して食べるのは当たり前の事であり、この世界は昔から強い種が弱い種を奴隷にして家畜と同等に扱ってきたんだ。僕は厳密には、あなたがたとは〈種〉が違う。広義では〈人間〉であるが、僕には〈blue blood〉が
12-16 10:50

この世界の多くの人たちも、僕に同意してくれているんだ。何故、やめなければならないんだ?子どもたちを苦しめて殺す事は深い快楽で在り、僕の娯楽の一つでもある。それを奪われたくなんかないんだ。子どもたちが僕という〈捕食者〉に狙われて無残に殺され続けることはこの世界では仕方のないことだよ
12-16 10:50

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来世、食肉の家畜になっても…?

屠殺 家畜 残酷 食肉 彼らの苦しみ 拷問 地獄 悲劇 食料飢餓 断末魔




この世界がどのような仕組みで、どのような摂理のもとにできているかを私たちは本当のところ、何も知らない。
だからこそ、私が出したこの設問は、非常に恐ろしく、また残酷なものであると実感しています。

何故なら、私たちが今の生を終えた後、どのようなことが待ち受けているか、何もわかるすべを持たないからです。
このおぞましい設問は、ある一つの可能性として、今ここに存在しています。
どのような可能性も否定し得ることはできない世界だからです。

しかし間違いなく言えることは、肉を食べるあなたが来世、食肉家畜になるのならば、間違いなく私も、そして私の大切な家族もなる、ということです。
それは肉を食べていたからです。

肉を食べていた期間、私は彼らの苦しみを無視していました。
そして都合のいいことに、きっとそれほど苦しいものではないのではないかとどこかで思っていました。
一瞬の痛みだけで素早く屠殺されてるのだろうと何の根拠もなく、何も調べずにただ漠然とどこかで思っているだけでした。

前にも一度同じようなことを訊いたことがあります。
「来世は自分が食肉になっても、食べるのか」と。
その人は「それでも食べる」と言いました。
でもその人は見たら食べられなくなるからと、屠殺の映像を見たことがない人でした。

私は、それはおかしいと思いました。
どうして映像さえも見たことがないのに、そんなことが言えるのだろうと。

来世だろうと前世だろうと、自分が食肉家畜の場合、今食べている肉は自分の肉なのではないか?
他者の肉であると言えるのだろうか。

それとも、そんな来世などきっとないだろうと思うのだろうか?
でもそんなことは誰もわからないのである。

拷問に合って死んだ人を知り、あのような拷問はきっと自分の身には起きないだろうと言えるだろうか?
そんなことは言わないとしても、どこかできっと自分は大丈夫だろうと思ってはいないだろうか?
だから酷い事件や災害に合ったとき、人間は「何故私がこんな目に」ということを思ってしまうのではないか。
それは他者には起きても自分にはまあ起きないだろうと何故か思っている証拠だ。

しかしこの世界を見渡せば、まるで終わりのない地獄のように悲劇は必ずどこかで起きている。
NPO法人国連WFP協会HP 
「現在、栄養不良の人々は世界で約7億9500万人います。
すなわち、世界の9人に1人は健康で活動的な暮らしを営むための十分な食糧を得られないのです。」
「数字が語る世界の飢餓」に、「世界では、5秒に1人の子どもが飢えに関連する病気で命を落としています。」


日本人の自殺者は年間三万人弱としても一日に70人近い人が自殺しているという計算になる。
このような世界で「どうして自分がこのような目にあったのだろう」と思うことは、それは無知だろうか?平和ボケだろうか?それは人間に巣食う重篤な伝染病だろうか?

1秒間に 米俵1,000俵に相当する58.4トンの穀物が生産され…
世界の漁港で、カツオ1,850匹分、3,700kgの魚が水揚げされ…
牛3頭、豚7頭、鶏1,100羽分、計6.9トンが食肉として生産されています。


5分でわかる食糧問題

飢餓が原因で1日に4~5万人(1年間に1500万人以上)の人が亡くなっており(FAOより)、そのうち7割以上が子どもたちです。

世界中には食べ物が足りないの?

「飢餓」になるのは、食糧が十分につくられていないからではありません。穀物は年間 24億トン生産されています。これは世界中の人が生きていくのに必要な量のおよそ2倍になります。

24億トン (年間穀物生産量) ÷ 71億人 (世界の人口)
⇒  338kg (1人当たり)
※1人当たり1年間の標準量は  180kg

それでも食べ物の不足している人がいるのは、どうしてでしょうか?

たくさんの穀物はどこへ

1人当たりの食糧供給量を比較すると、日本では必要なカロリーより 31%も多く、ソマリアでは16%不足しています。
私たちのように食べるものがいつでも十分手にはいるのは、世界のおよそ2割の人だけなのです。

穀物は人間が食べるだけではなく、先進国では穀物の 6割(約4億トン)が、ウシ、ブタ、ニワトリなどの家畜のえさになっています。
牛肉1キロ作るために穀物11キロ、豚肉1キロ作るために穀物7キロ、鶏肉1キロ作るために穀物4キロを消費しています。
結果として、世界の 2割足らずの先進国にすむ私たちが世界の穀物の半分以上消費しているのです。



肉を食べるということは、家畜たちだけでなく、飢餓で死んで行く人たちの命をも奪い取ることだという情報は、なかなか広がっては行かない。

肉を食べるということは、来世、自分が食肉の家畜となり地獄のような拷問を受け、首元を掻っ切られて意識あるうちからから解体され死ぬことを覚悟の上で食べていたならば良い、という問題ではないことを言います。

それらはあらゆる地獄のような死の苦しみに関わっていることだからです。
一秒間の数えきれないほどの断末魔を私たちはこの耳で聞くこともできないし、想像することさえあまりに難しいだろう。

だって一秒なんて、ほんとうにあっというまに過ぎるじゃないか。
この1秒間に牛3頭、豚7頭、鶏1,100羽とカツオ1,850匹分、3,700kgの魚の絶叫と5秒に1人の子供の苦痛の心の叫びがどこかで聞こえてる。

これはたった一度だけ、来世で食肉用の家畜の拷問のような苦しみを経験すればチャラになって返せるという犠牲ではない。
一体どれだけの拷問のような犠牲を自分が肉を食べたいがためだけに彼らに払ってこさしたのだろう。
自分はどれだけの犠牲を、同じほどの拷問のような苦しみで以って彼らに返すことができるだろうか?

自分はそのような数えきれない想像することも難しいほどの苦痛を観て見ぬふりしてきた。
これからは自分のこの体で彼らに返す番だと思っている。
それは来世家畜となって自分の死体を彼らに美味しく食べてもらうという地獄の連鎖の返し方より、同じほどの苦痛でもっといい方法で返すことはできないのだろうかと考える。

しかし彼らが死体を食べ続ける苦痛を味わいたいなら、どうしてそれを自分が断ることができるだろう。
断る方法も選択も、私にはない。

屠殺の映像をまだ観てないで、来世は食肉の家畜になってでも食べると誓った君は、映像を観ないよりは、観たほうがいいと私は想う。

屠殺場の現場を隠し撮りした「アースリングス」というドキュメンタリー映画の屠殺の場面だけでも、もし観る気になったなら是非ご覧になってください。




そしてこの映像に耐えられた君は、これをはるかに超えるおぞましく恐ろしい映像を良かったらほんの少しでも観てみてほしい。
レンダリングプラントという、動物性脂肪精製工場の巨大攪拌機の機械に入れられる牛や馬の映像です。
「レンダリング・プラント」(動物性脂肪精製工場)って知っていますか?
食用にできない部分をそのままミンチにできる機械ですが、ここには死んだ牛や馬が丸まま放り込まれることもあります。
そして映像で見る限り、動いているように見える子もいました。
瀕死の状態であるのかもしれませんが、観るに堪えない映像です。
観ようと思う君は、トラウマになる覚悟で観てください。
閲覧厳重注意の動画です。
無理をして観るのは大変危険です。それはやめてください。




家畜たちは、牛も豚も鶏もみな、殺して屠る前に首元を掻っ切って、血を抜きます。
死んでからでは上手く血が抜けず生臭くてまずくなるからです。
牛や豚はその前に意識を失わせるノッキングガンという額に撃って頭蓋骨に直径一センチほどの穴を開ける方法や、電気ショック法や二酸化炭素で気を失わせるという方法などが使われているようです。
しかし一番手っ取り早い方法だからと言ってそれらを行わずに鶏と同じように豚も喉元を切り裂いてそのまま次の段階へと運ぶところもあります。

『いのちの食べかた』 森達也 (理論社)

体をあらわれた牛は、一頭がやっと通れるだけの幅の通路に追い込まれ、先頭の牛から順番にノッキングを受ける。
 この光景は、まるで一頭ずつ、押し当てられたピストルを額で打ち抜かれているように見えるが、額に当てられた銃口から出るのは弾丸ではなく、「ノッキングペン」と呼ばれる細い針だ。
 銃口から飛び出す針の長さは3センチほど。眉間を撃たれると同時に脳震盪を起こした牛は硬直し、つぎの瞬間、通路の側面の鉄板が開かれ、段差にすれば1.5mほど下の床まで、牛は四肢をこわばらせたまま傾斜を滑り落ちる。
 この時点で、眉間を撃たれた牛は、すでに意識を失っているといわれている。
 牛が、斜面を滑り落ちてくると同時に、待ち構えていた数人の男たちが牛を取り囲む。頭に回った一人が、眉間に開けられた穴から金属製のワイヤーを素早く差し込む。
 1mほどの長さのワイヤーが、あっというまに牛の身体に吸い込まれて見えなくなる。
 差し込まれたワイヤーは脊髄を破壊する。つまり全身が麻痺するわけだ。
 牛によってはこの瞬間に、片足を痙攣させるなどの反応を示す場合もあるが、ほとんどの場合は無反応だ。
 このとき、ほぼ同じタイミングでもう一人が、首の下をナイフでざっくりと切る。
 切断された頸動脈から大量に血がほとばしる。
 天上の取り付けられたトロリーコンベア(吊り下げ式のベルトコンベアと考えればよい)から下がる鎖に片足をひっかけて、牛は逆さまに吊りあげられる。(p.51-53)


このような方法で意識のないうちに素早く解体していくと言われていますが、隠し撮りの映像では明らかに逆さに釣り上げられているときに悲痛な鳴き声で鳴いている子も多くいました。
しかしそのような子も皆と同じように意識を持った状態のままで解体されていきます。

大量生産で素早く作業しなくてはいけないので、そのように意識のある状態でも豚は熱湯に入れられる子がたくさんいます。
鶏は吊るされて流れるコンベアベルトの機械の隙間に挟まってもそのままにされ身体の千切れるような痛みにも耐えねばなりません。


家畜たちの苦しみ、飢餓で死んで行く人たちの苦しみ、その短くはない地獄のような時間。
どうしてもっと早く彼らの痛みに向き合って肉食を断てなかったか。
それが私の一番の後悔の苦しみとして、それはずっと死ぬまで消えることはないと思います。

「にんげんっていいな」










[14:41:27] : なにかきっかけがあって、考えが変わったとかあるんですか
[14:42:01] kozue ueda: 肉を食べる人も好きで食べてるわけじゃないんだって気づいたからですね
[14:42:09] : なるほど
[14:42:33] kozue ueda: それが人間の苦しみであって、必要な苦しみだから存在してると思ったんですよ
[14:42:45] : うん
[14:43:29] kozue ueda: だから悪ではないんですね、肉食は
[14:43:42] : そうですね
[14:43:45] kozue ueda: うん
[14:44:06] kozue ueda: みんな本当は菜食になりたいんだってわかったんですよ
[14:44:14] : うんうん
[14:44:26] kozue ueda: でもまだなれなくてみんな苦しんでる
[14:44:31] : うん
[14:45:28] kozue ueda: いっとき、ほんと傷つけるのが怖くなって、まったく話をしなくなったときもある
[14:45:35] kozue ueda: 肉食の話を
[14:45:41] : そうなんだ
[14:45:45] kozue ueda: うん
[14:46:17] : そういう話はデリケートな部分もありますからね
[14:46:21] kozue ueda: うん
[14:46:48] kozue ueda: で、チャット部屋でさ、まだ言われるわけ、植物はいいの?って
[14:46:58] : そうなのか
[14:46:59] kozue ueda: でも私は黙り込んでたら
[14:47:21] kozue ueda: 肉を食べてるけど、私を応援してくれてた仲間がさ
[14:48:02] kozue ueda: 菜食は植物も最低限の殺生(肉生産に必要な穀物参照)でいいんだよって、私の代わりに言ってくれたんだ
[14:48:14] kozue ueda: その時すごい嬉しかった
[14:48:18] : うんうん
[14:49:01] kozue ueda: だから肉食の人でも、傷つけるばかりじゃないんだとわかった
[14:49:13] kozue ueda: 問題は訴え方なんだよね
[14:49:18] : そうですね
[14:49:22] kozue ueda: うん
[14:49:50] kozue ueda: 昨日さ、すごい皮肉の歌を載せたじゃん
[14:49:55] : ありましたね
[14:50:21] kozue ueda: あれ二つとも、少し反響があって
[14:51:37] kozue ueda: 何か響いたのかも知れない
[14:51:40] : うん
[14:52:24] kozue ueda: 皮肉って好きじゃないけど、あれ強烈なんだなと思った
[14:52:29] : そうですね
[14:52:33] kozue ueda: うん
[14:53:10] kozue ueda: 家畜の目線になってるから悲しいよね
[14:53:18] : うん、そうですね
[14:53:24] kozue ueda: うん
[14:54:04] kozue ueda: でもほんとあの歌って家畜の歌だなと思って
[14:54:12] : そうなんだ
[14:54:16] kozue ueda: うん
[14:54:39] kozue ueda: 家畜こそが、人間はいいなと思うんじゃないかって
[14:54:46] : なるほどなぁ
[14:55:26] kozue ueda: 家畜だけじゃないけど、人間に虐げられてる動物の歌って気がした
[14:55:33] : そうかぁ
[14:55:39] kozue ueda: うん
[14:56:13] : 歴代のエンディング何曲かあるみたいだけど、再放送のときはあの歌がずっとエンディングなんですね
[14:56:22] kozue ueda: うん
[14:56:59] kozue ueda: つらいですよ、あの歌は
[14:57:04] : うん
[14:58:09] kozue ueda: 動物の住処を奪って、命さえ奪ってあったかいご飯食べてあったかい布団で寝るわけです
[14:58:16] : うん
[14:59:22] kozue ueda: で、家畜とかの場合は、ぼくも帰ろっていって帰る場所は屠殺場しかないわけなんですね
[14:59:29] : うん
[15:00:34] kozue ueda: 熊の子見ていたかくれんぼ、で始まりますよね
[15:00:38] : うん
[15:00:49] kozue ueda: クマもすごい虐待されてるようですね
[15:00:58] : 昨日のツイートでありましたね
[15:01:02] kozue ueda: うん
[15:01:09] : 胆汁抜かれてるってやつ
[15:01:13] kozue ueda: うん
[15:01:42] kozue ueda: 苦し過ぎて自殺する子がいるみたい
[15:01:54] : そうか…
[15:02:31] kozue ueda: それで、胆嚢の効き目はイマイチよくわかってないとか言わられてるんですよ
[15:02:38] : うん
[15:03:32] : カブトガニも体液抜かれてるってのがあったな
[15:03:37] kozue ueda: うん
[15:04:02] : ほかの生物もあるんだろうか
[15:04:10] kozue ueda: わかんない

食べ物があるのに飢えるのはなぜ?

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飢餓問題png



ソースはこちらです。
飢餓対策NEWS296号:【ニジェール】食べ物があるのに飢えるのはなぜ?
http://www.jifh.org/pdf/joinus_news/news_no_296.pdf


飢餓 - Wikipedia

世界の食料生産総量は、世界中の人々を養うに十分な量がある。

貧しい国の貧しい生産者は、家族がもはや生活できないほどの低価格を、商社(値段を決める権限を持つ)から強制されている。

貧しい国の貧しい生産者は、家族の生活を維持するために必要な穀物は、商社に売り渡され、豊かな国の人々の肉類生産用家畜飼料にされている。

「僕たちは世界を変えることができない。でも、僕たちは世界を変えたい。」

処刑

「僕たちは世界を変えることができない。But, we wanna build a school in Cambodia.」


僕たちは世界を変えることができない。 [DVD]僕たちは世界を変えることができない。 [DVD]
(2012/03/09)
向井理、松坂桃李 他

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という映画を観た。
監督は深作欣二監督の息子「バトル・ロワイアルII 鎮魂歌」の深作健太監督だ。

実際にあった話を基にした映画だ。
「僕たちは探していた、ありきたりな毎日を変えてくれる何かを」
何かが足りない毎日の中、偶然目にした「あなたの150万円の寄付で、カンボジアに屋根のある小学校が建ちます」という海外支援のパンフレットを医大に通う2年生・コータこと田中甲太(向井理)が手にしたことから物語は始まってゆく。
頭の中で何かが弾けたコータは「カンボジアに小学校を建てよう!」と知り合い全員にメールを送信。
ところがコータのもとに集まったのはたったの3人。
いつもの仲間の芝山(柄本佑)と矢野(窪田正孝)、そして合コンで知り合った本田(松坂桃李)だった。
それでもコータは学生サークル“そらまめプロジェクト”を立ち上げ、チャリティーイベントを開催。
パーティを開催して収入を得たり、人集めのために慣れないナンパをしてみたり、地味にビラを配ったり。
カンボジアに小学校を建てるには実際に建設資金150万を自分たちで集めなければならない。

しかしその前に俺たちカンボジアを全く知らねえじゃんとなって4人の若者は学校で習った知識のほかは何もない状態で現地カンボジアへと向かう。
現地のガイド役ブティさんに案内され、そこで目にしたものとは、
想像を絶する言葉を失うほどの残酷な歴史と悲しい現実の数々。
4人はショックが抜けきらないまま無力感を抱えた状態で日本に帰国する。
日本へ帰ってきてから芝山が言う。
「本気であの国救えるとでも思ってんの?」
「アンコールワットでさ、小さい子供が1ドル値だってきたことあったろ、俺思わず渡しちゃったけどさ、たった1ドルであの子たちの未来変わんのかよ!」
無理だという芝山に「そうかもしれない」と弱音を吐く言い出しっぺのコータに矢野が言う。
「ねえコータ、俺たちのやりたかったことってなんなの?」



「ドキュメンタリータッチで撮りたい」という深作健太監督の意向で、カンボジアでの場面はほとんどがドキュメンタリーのようだった。
主人公のコータ演じる向井理はカンボジアでの撮影はあえて台本を読まず、またこの原作も読まないで感情が固定しないようにしたようだ。

最初にシェムリアップ州立病院へ向かい、エイズ病棟へ4人は案内される。
2005年時点では、カンボジアの15歳~49歳までのHIV感染者は2.6%、HIV総患者数は約17万人、40人に1人が感染していることになる。
そこでどんな撮影をするのかは何も知らされていない。
だからそこでのシーンはドキュメンタリーと同じだ。

次に向かったのはトゥール・スレン虐殺博物館
「ポル・ポト派が政権の座にあった3年8ヶ月の間、トゥール・スレンには2万人もの人々が送り込まれました。そのうち生きてここを出ることができたのはわずか7人。」

その次に訪れるのはキリング・フィールドです。
当時のカンボジアに300ヶ所あったとされる処刑場です。
ここでカンボジアの全人口の3人に1人、総人口800万人足らずのカンボジアで、200万人から300万人近くの人が虐殺されたと言われています。

朝の6時過ぎに映画を観終わってから、いろいろ調べて、今昼前の10時55分だ、つらい。
少し休憩を取りたいと思う。
みんなも真剣に読むほどつらいだろう、少し休憩を取ってでも読みたい人は一緒に読んでほしい。

カンボジアのロケでは長回しでスタートからカットまで4時間という撮影もあり、撮影時間はトータルで200時間にも及んだという。
キリングフィールドではどのようなことが行われていたのだろう。
【大量虐殺地、キリングフィールドへ】- カンボジア
ここに少し詳しく書かれているようだから今から読む。

映画にも出てきたキリングツリー、残酷さを比べることなどできないが、この木は世界で最も悲しい木であるように感じる。

この映画が私たちに投げかけるものとはいったいなんだろう?
それはひとつやふたつじゃない。

この映画は観終わって、いやあほんと良い映画だったな、すごく感動した。では到底終わらせられないものが詰まっている。
何故ならこのテーマはすべての人間にとって本当に大事なことだからだ。
人は、自分に出来ることと、自分のやりたいことがわかっていないと、何もできない。
やりたいこと、多くの人間に共通することだと思うそれは、“一緒に笑いあいたい”ってことじゃないか?
気づいてても気づいてなくても、それが人間の本当の喜びのように思う。
でもそれがわかってても、どうすれば一緒に笑顔になれるのか、そのやり方がわからなくて何もできない。
これをしたらってことがわかっても行動に移すには、本当にそれがやりたいことじゃないとできない。
だから、何か思いついて行動できるってことは、自分の本当にやりたいことと自分に出来ることが合わさった時だ。

みんながそれを探してるんだと思う。
探してるけど、なかなか見つけられないから、自暴自棄になったり、人に当たったりしてしまう。
そうは見つからないし、見つけられないからだ。

主人公のコータは弱い自分を責め続けながら、自分の喜びになることを素直に問い詰めた結果、ある信念を手にする。
誰かのために何かをする喜びというのは、きっと自分のために何かをする喜びよりも強い

強い。ほんとうに強いと私も言える。
自分だけのためにする喜びなんて自分だけ喜んで終わりじゃないか、または自分の家族や友人に喜んでる自分を見せることで終わりじゃないか。
言っとくけど、そんな喜びはほんとにすぐに過ぎ去って跡形も残らないぞ?
あとは過ぎ去った幸福を思い返して、あの頃は良かったな、なんて言うだけじゃないか。

この映画は、「おい!そんな喜びよりも強烈に絶対消え去ったりしない喜びがあるんだよ!」って僕らに向かって叫んでいる。
その叫びはわたし自身の叫びであり、わたしも実は同じ考えで生きているのだけれど
主人公は、その誰かの笑顔をすごく直接に求めてすぐに飛んでいけて、
私の場合は、すごっく湾曲して歪んでるように見えて酷いところを歩いてて人から見ると、おいお前後ろ向いて歩いてんぞって言われるくらいのわかりづらいやり方で、誤解を多く避けられない方法によって、誰かの笑顔を、すべての笑顔を求めて、飛ばずにものすごく違う歩き方をしている。
でも求めてるものはまったくの同じものだ。
それは誰かの笑顔であり、誰かの幸福。
そこには自分もいる。
誰かの笑顔が自分を笑顔に出来るし、誰かの幸福が自分を幸福にできるとわかってるからだ。
そして誰かの笑顔しか自分を笑顔に出来ないし、誰かの幸福しか自分を幸福にできないとわかってるからだ。
ただ僕は、今のところ僕のやり方に賛同者を見つけられていないだけだ…。
でも、現にこの映画だって、苦しいことから逃げて、自分の苦痛を避けて通っていたなら、「誰かのために何かをする喜びというのは、きっと自分のために何かをする喜びよりも強い」って考えには至ることはできなかったはずだ。
苦しいことを耐えて、他者の苦しみにしっかり向き合おうと思えたから、本物の喜びが何かに気づくことができた。
でもそれは、他者の幸福よりも自分の幸福を優先してたら、いつまで経っても気づけない。
自分の幸福と他者の幸福が別のものだって思ってるなら、幸福な自分から見た他者の苦しみはきっと邪魔になるだろう。
何故なら、他者の苦しみを見続けるってことは苦しくてたまらないことだからだ。
他者の不幸や苦痛を見続けていたら自分が幸福になれないと思って、避けてしまうだろうからだ。
多くの人は、まず、自分の幸福を追い求め、自分が幸福になった余裕で他者のことまで心が行き届くんだと信じている。
でも、まず、自分を幸福にするためには、他者の苦しみを見て見ぬふりしなければならないから、その幸福とは、他者と自分をまるで違う世界に立たせるかのようにしなくては、自分の幸福は実現することはできなくなってしまう。
それは、他者の涙を見えてはいるのに、決して拭かないということで、今は拭けないけど、ぼくが幸せになったら拭くからね、と言ってるのと同じで、なんだかおかしい。
今は君の涙は拭けないけど、未来にはきっと拭けるから、っていうのは、ただのつらいことの後回しと同じじゃないか。
でも本物の幸福はそんなところにはないんだ。
だって、本当に大事なこととは、今見えていることをしっかりと見るってことだから。
今見ることのできる誰かの涙を見なくちゃ、今泣いている誰かの涙を今拭くことができない。
それは実際拭けるかどうか、じゃなくて、今どこかで必ず流れている涙は、今の君しかその涙を今拭きたいと思うことができない。
今しかできないことがある。
それは自分と自分の周りだけが幸福になってからじゃ、もう遅い。
彼らはもうとっくに、死んでるかも知れない。
誰かの苦しみを見殺しにして手に入れた幸福が、幸福のはずはないよ。

じゃあどうすれば僕らは、やりたいことと、できることの合わさったその大切な何かを見つけだすことができるんだろうか?
既に幸福な誰かを幸福にしたいと思う人間はいない。
いつでもそう思う誰かは、今泣いている誰かだ。
泣いてるのは、苦しいからだ。
その苦しみに寄り添うには、寄り添い続けるには、共に苦しみを感じることがどうしても必要になってくる。
共に苦しみを感じて、その苦しみに一緒に耐えよう、と言えることが必要となってくる。
同じ苦しみに自らを置くこと、その同じ場所に立てば、きっと毎日泣いているだろう。
一緒に泣いているだろう。
毎日ずっと泣いても涙が枯れることのないくらいに、この世界には悲しみと苦しみがたくさんあって、減ってもくれないからだ。
増えて行ってる。
誰かの涙を拭きたいという気持ちを先延ばしにして得た幸福で、どんな喜びを感じることができるんだろう?
ほんとうにその幸福から得た余裕で、誰かの涙を拭くために、苦しみの地に一緒に立てるんだろうか?
今、なにもできないのは、自分が不幸で余裕がないからじゃない。
苦しみに目を背け続けているからじゃないか?
それは他者の苦しみだけじゃない、自分の苦しみにも目を背けている。
自分に訪れる苦しみを受け入れずに、幸せになることばかり夢見ている。
自分の苦しみは、無駄で、要らないものなのだろうか?
誰かの苦しみを見ることは自分の苦しみだ、その苦しみですら、今は、必要のないものなのだろうか?
今、必要なのは、遠い誰かの今の苦しみに目を向けることよりも、未来に幸福になった余裕で誰かを救えるために自分や自分の大切な誰かだけの幸福を追い求めることなのだろうか?
今しか拭けない涙があるのに。
今、寄り添うことができないなら、もうずっと寄り添うことのできない苦しみがどこかに必ずあるのに。
今しかできないことがあるのに、今やりたいことは未来に出来ることをやるために今やるっていうことだろう?
でも幸福になる前に死ぬかもわからないのに。
そしたらほんとに何もできない。
今できることに目をそむけたまま何もできずに死ぬのか?
いつ死ぬかわからないんだよ、いつ電車に乗っててテロに巻き込まれて死ぬかもわからない。
苦しいこと傷つくことを避けて通って自分と自分の大切な誰かだけの幸福を追及すると、今度はその幸福がない時には不安で苦痛でたまらなくなる。
自分と自分の大切な誰かだけの幸福を求めるってことは同時にその幸福がないことの苦痛と不安を求めてるのと同じってことだ。
多くの人は苦しみを求めてたくないと言いながら、苦しみを求めてしまってることに気づかない。
だから余裕がないんだ。
結局その余裕のなさは、どこから来てるのかと言えば、みんなが自分たちのことだけ考えてるからだ。
自分たちの幸福ばかり追い求めてるから余裕がないのに、他者のことまで考えられる余裕を作るために幸福にまずならないといけないって考えはやはりどう考えても僕はおかしいと思ってしまう。
余裕は、自分の苦しみを自分のためと、また誰かのためだと思って全部を受け入れることによって、苦しみを怖れない強さを持つことができるようになって、そこでようやく初めて他者の苦しみに寄り添おうとすることができる余裕ができてくるんだと僕は身を持って感じて来ている。
苦しみを怖れたら、ずっと苦しみに恐怖していかなくてはならない。
そこには他者の苦痛を自分に重ねる余裕など生まれはしない。
この苦しみは自分のためでもあるし、誰かの笑顔に繋がるために必要な苦しみなんだと信じるなら、もう苦しみを恐れなくてもいい。
どんな苦しみがあっても強く生きられる。
それこそが、誰かを救えるようになるために必要な余裕だ。
自分に訪れる様々な苦しみを受け入れることによってすぐに誰かを救う行動に移せるわけじゃない。
でも苦しみを怖れない、どんな苦しみもポジティブに受け入れようとする姿は、苦しんで生きている誰かを勇気づけることがもしかしたらできるかもしれない。
誰もが苦しみを怖れているのに、誰かは自ら苦しみの中突っ込んで行ってたら、最初は、おいあいつ何やってんだ、頭がかなりイカれてんじゃねえか、と言われることもあるだろうが、そうゆう生き方があるんだってことは見せつけることだってできる。
自ら苦しみを望む、それは自虐で自己憎悪の自己嫌悪と罪滅ぼしの贖罪の気持ちの表れだけじゃない。
誰かのためになりたい、誰かの本物の笑顔を見たいからだ。
僕がみんなに苦しんでほしいと言うのは、みんなが僕と同じ喜びを感じて生きて欲しいからだ。
少なくとも僕は、自分らだけの幸福を追い求めて生きている人よりも多くの喜びを感じているように自分で思う。
僕はそこには戻りたくない。
そこには喜びがないからだ。
本当の笑顔がないからだ。
子供たちはいいさ、ただただ純粋で無垢なんだから。
でも大人になったら、苦労を買ってでもしろっていうのは、こういうことなんだ。
お金を払ってでも自分の苦労を買いなさいよ、ね、それがあなたの幸福に繋がるのだし、誰かの幸福にも繋がるからよ。って意味があるんだ。
だから大人になったら、誰もが、自ら苦しみを追い求める生き方を選んでいく、僕はそう思っている。
僕はもう最近誰とも接してないけれど、孤独に自らなるという苦しみを選んでこの苦しみから何かを学ぼうとしている。
どんな苦しみも無駄にはならない。
ただ僕の苦しみには、自分たちだけの喜びを追い求めるところにはない喜びがある。
誰かの涙に自分の幸福を捨てることのできる喜びだってある。
全部喜びだ。
マスターベーションだって嘲笑われてもいい。
この喜びは、自分だけの喜びを捨て去った人にしかわからない。
自分が苦しくてもみんなの笑顔をいつも願うことができる人にしか、この喜びがすごいと言っても伝わらない。
僕はきっと死ぬまでこの存念を変えない。
僕が苦しみを望むのは、みんなの本当にいい笑顔を見たいからだ。
皆に苦しみを望むのは、みんなの本当にいい笑顔を望むことがみんなの本当の喜びだと信じてるからだ。
耐えきれない苦しみさえなくなれば、みんなで一緒に耐えて生きていける。
この世界から耐えきれない苦しみがなくなるように、みんなで一緒に今苦しみの中にいるすべての存在のために僕らができることとやりたいことが一致することを。
僕らすべてが本当の喜びに向かえることを。

僕は信じてる。
マジで信じてるんだ。





僕たちは世界を変えることができない。But, we wanna build a school in Cambodia. (小学館文庫)僕たちは世界を変えることができない。But, we wanna build a school in Cambodia. (小学館文庫)
(2011/07/06)
葉田 甲太

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これ原作の本、文庫版の収入は、カンボジアに建てた小学校の維持費や、発展途上国への寄付にあてられるそうだ。

最後に一つ、“行動がすべてだ”という考えは多くの人が持ってると思う。
しかし僕はそうは思っていない。
マザーテレサも言ったように
大切なのは、私たちがどれだけの行動をするのではなく、それをするのに、どれだけ愛を注いでいるかです。
ということだと僕も思うのです。

だから行動、行動と焦るのではなくて、僕らは愛を注げるように愛を求めたらいいのだと思う。
愛とは何だろう?
僕は一つだけ言える愛がある。
それは僕にとって一番の悲しみであり続ける。
私を生涯苦しみの底に居続けさせるだろう愛とは、私にとって父親です。
愛は決して喜びだけを与えるものじゃない。
愛を求めることとは、喜びと同時に苦しみを求めることだと私はわかった。
わたしたちがほんとうにやりたいことは。
わたしたちにできることは。

愛を求め、愛を注ぐこと。

だから私は願う、今苦しみのない者には愛と言う苦しみが与えられ、その苦しみから生まれた愛がすべての者の耐えがたい苦しみを和らげる日が来ることを。

盲目の牛




「霜降り肉」の牛 盲目になることも 味と飼い方 揺れる農家 
信濃毎日新聞 2011年6月11日(土)

その牛は、額の先で手を振っても反応がなかった。黒目は焦点が定まっていない。ほかの牛と体をぶつけることも多い。
「盲目の牛です」。ステーキなどの高級食材になる和牛を飼う県中部の50代の男性農家が打ち明けた。「おいしい肉にしようとすれば、こうした牛が出てしまう」と男性。
飼育中の約130頭のうち、1頭が完全に目が見えず、10頭弱は視力低下が進んでいる。こうした牛も人体への影響はまったくないとされ、普通に出荷される。

盲目になるのは、肉に「サシ」と呼ばれる白い脂肪分を入れようとして、牛の栄養が偏ってしまうことが原因だ。和牛の価格は、サシの入り具合で決まる。多くの農家の目標は、高値で取引される細かなサシが入った「霜降り」の牛を育てることだ。
そのため、農家は生後約1年半から数カ月間、ビタミンを多く含む牧草などの餌を抑え、穀物が中心の飼料で太らせる。これがサシを入れるために欠かせない技術とされる。「霜降り」という日本の食文化を支える生産者の知恵だ。
しかし、ビタミンは、視力維持に必要な成分。欠乏がひどくなると盲目になりやすい。足の関節が腫れて歩行に障害が出る場合もある。農家は症状が出ないぎりぎりのラインを模索しながら給餌する。しかし、一部がこうした牛になる危険性は残る。微妙なバランスの上に和牛生産は成り立っている―。そう表現する農家は多い。

和牛を百数十頭飼育する県北部の40代の男性農家は「消費者が生産現場の現状を知れば、肉を買ってくれるか分からない」と不安を打ち明ける。
この30年間、和牛を出荷する時、牛の背中に"お神酒"を掛けて送り出してきた。自分が生計を立てられることへの「感謝」。そして、高く売るために不健康な姿にさせる「申し訳なさ」。そうした複雑な感情を、牛を出荷するたびに確かめる。
この男性は、食肉処理など多くの中間業者が流通に加わる畜産は「農業の中でも生産者と消費者の距離が遠いと感じてきた」という。

それは、同じ畜産業の酪農でも同じだ。上伊那郡南箕輪村の酪農家、小坂忠弘さん(55)は、畜舎見学に来た小学生が、乳牛から乳を搾る現場を見て以来、牛乳を飲めなくなった、という話を数年前に酪農仲間から聞いて、頭から離れなくなった。
思い当たることがあった。国内では、広い牧草地を確保しづらく、多くの時間は乳牛を畜舎内で飼育するのが一般的だ。しかし、小坂さんは「多くの人が広い牧草地だけで乳牛を飼っていると思っているかもしれない」。畜舎も小学生の予想以上に汚れていたのかも・・・。
さまざまな考えが頭を巡った。小坂さんは、畜舎の清掃を小まめにして、「恥ずかしくない飼い方」を心掛けている。
消費者が思い描く畜産のイメージと現実のギャップ。そこに農家はおびえている。

信大農学部(上伊那郡南箕輪村)の准教授竹田謙一さん(39)=家畜管理学=が2年前に一般消費者300人余を対象に行ったアンケートでは、「飼い方に配慮された畜産物は値段が高くても買いたい」と答えた人が9割近くを占めた。
竹田さんは「消費者のニーズは農産物そのものにあるだけでなく、その出来上がる過程にもある。消費者のイメージに畜産現場を近づける必要がある」と話す。
畜舎の環境などは生産者が少しずつ改善することは可能だ。しかし、和牛を飼育する農家の多くは「牛が盲目になってしまうのは、『消費者が求める最高級の霜降り』を目指すためには仕方がないこと」とも言う。消費者が望むのは、味なのか、価格なのか、生産過程なのか―。すべてを満たすことができない場合は、何を優先すればいいのか。生産者には、消費者の姿が、はっきり見えていない。

信濃毎日新聞社編集局「農再生へ-自由化時代」





『「飼い方に配慮された畜産物は値段が高くても買いたい」と答えた人が9割近くを占めた。』

「飼い方に配慮された畜産物」を望むのは、病気になるような育て方をした牛の肉は食べたくないという気持ちと、せめて屠畜されるまでのあいだは、苦しい育て方をしてほしくない、という気持ちがあるのだと思う。
どうすれば「飼い方に配慮された畜産物」が増えて行くのだろうか。
霜降り肉が病気すれすれの牛の肉であることを知って買う人は少ないだろう。
知れば、買う人はものすごく減る。と同時に農家の収入も減る。
減っては暮らしていけないから、その事実を広めることができない。
しかし消費者は飼い方に配慮された高価でも美味しい肉を食べたいと思っている。
それは当然だ、メタボな牛は病気すれすれではなく、もうすでに病気の牛だから、霜降り肉を食べて健康な人はいない。
霜降り肉をたくさん食べるほど人間は病気にかかりやすくなる。病気にかかれば医療費がかかる。
病気になりたくて霜降り肉を食べている人はいないだろう。
霜降り肉を食べている人は、食べても病気にはならないと思って食べている。だから美味しいと思える。
しかし実際は食べているのは病気の牛の肉だ。
病気の牛の肉を売っているのだから、本当なら問題になって、病気の牛の肉は売らないように、病気になるような飼い方はしないようにと規制されるはずが、それはされない。
知っている人は少なくないのに問題となって、規制されない。

病気の牛の肉を人々は食べたくないと思っている。
霜降り肉は高価だ。でもおいしいから少量で満足できる。
しかし高いから、霜降り肉を買うとお金がなくなってその分、たくさんの肉は買えなくなる。
人々がたくさんの肉を買うほど、たくさんの牛が屠畜される。
つまり、人々が高価な肉を買えば買うほど、屠畜される牛の数は減るのではないだろうか。
減りはするが、霜降りにされる牛は、他の牛よりも病気がちで苦しめてしまう。
だからこれに気づいた人は、霜降りは買わずに、安い肉をたくさん買うかもしれない。
霜降り肉が売れなくなれば、屠畜の時以外に苦しむ牛も減る。
しかしその分、安い肉がたくさん売れて、屠畜される牛の数が増える。

人々は「飼い方に配慮された畜産物を高価でも買いたい」と思っている。
でも飼い方に配慮されていても硬くて不味い肉なら誰も買わない。
飼い方に配慮された霜降り並みの美味しい肉は、今のところない。

人々が「飼い方に配慮された畜産物なら、味は落ちても、高価であっても、買いたい」となれば、飼い方に配慮された味は落ちるが高価な肉が売れるのだから、農家は皆、そのような肉を作れば良いのだが、実際のところ、飼い方に配慮された味は落ちるが高価な肉を、人々は買おうとしない。

飼い方に配慮された美味しい高価な肉は、作れない。
しかし人々は飼い方に配慮された美味しい肉を高価でも売ってほしいと思っている。

農家の人たちは、毎日どのような混濁な苦しみを抱えて牛を育て、屠畜しているのだろうか。
誰も幸せではない。
病気になる育て方をされている牛たちも、病気になる育て方をしている農家たちも、病気になる育て方をしている牛の肉を知らずに食べている人たちも。
誰も誰も、だれひとり、幸せじゃない。

苦しみの連鎖から抜け出たかったのは、わたし自身なのである。
だからわたしは、せめて牛と豚と鶏を食べるのはやめたんだ。(乳と卵も極力買わない)
そして抜け出すために知った多くの苦しみの連鎖を知って、わたし自信も幸せになったわけじゃない。
別に幸せになるために肉を断ったわけじゃない。
ただ楽になりたかったんだ。

楽とは何だろう?
出産に立ち会い、生まれた時から可愛がりながらも病気になる餌を与え病気にして苦しんでいる牛たちを出荷する農家の人たちは霜降り肉が売れるおかげで食べていける。
霜降り肉は美味しくて御馳走だから一月に一パック買えたらいいほうだけど、本当に美味しくて幸せだと、病気の牛の肉であることを知らずに食べている人たちは、今もどこかで食卓を囲んでいる。
仕事があって、美味しいものが食べられる。でも幸せではない。
彼らは、楽なんだろうか。
そうも思えない。
病気の牛を出荷して、病気であることを内緒にしておいて、人々に美味しい霜降り肉を食べさせること。
病気の牛の肉とは知らずに高価な霜降り肉を一家団欒で楽しむこと。
それのどこが幸せで、楽で、喜びか。
幸せでも楽でも喜びでもない。
本当に苦しい苦しみじゃないか。

私は苦しみの連鎖から抜け出られたのだろうか。
畜肉、鶏肉を見れば人肉にしか見えず、解体されている牛を観れば、自分の家族が解体されていく錯覚に陥る。
私は苦しみの連鎖からほんとうに抜け出られたのだろうか。
もし抜け出られているのなら、抜け出られた場所から一体なにを言えばいいんだろう。
何を訴えれば、何を叫べばいいんだろう。
現に養殖の魚は抗生物質などの薬剤漬けだがそれでも食べている私が。
「天然のマグロは本当に美味い」と叫んだところで牛は病気のほうが美味いんだから。

盲目の牛は、そのまっ暗闇の中に何を見ているのだろう。

「いのちの食べかた」 森 達也

森 達也の「いのちの食べかた」を読んだ。


いのちの食べかた (よりみちパン!セ)いのちの食べかた (よりみちパン!セ)
(2004/11/19)
森 達也

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わたしは牛と豚と鶏が屠畜されている映像を観てから食べなくなって3年になる。
それからさまざまな肉食に関わる本をたくさん読みたい、読まなくては、と思って何も読まずに3年が過ぎて、初めて手にとって読めた本がこれだった。

読むのがつらいから、もうきっとそこには、私の知っている事しか書かれていないだろうから、私はもう肉食をしないのだから、無理して読まなくていい、はずだ。
そんな気持ちが確かにあった。
だからどんな本も手に取らず3年が過ぎ、やっと手に取れたこの本の中には、私の知らないことばかりがたくさん書かれてあった。

私はこの3年、屠畜される家畜たちを思って何度も流した涙はあるが、屠畜する人を思って流した涙はなかった。
でもこの本を読みながら、びしびし伝わってくる森達也の強い訴えと大切な言葉と、屠畜する人のつらさを思って何度も涙があふれた。

屠場で働く人たちが差別されている事を、私は知っていた。つもりだった。
でも本を読んで何もわかってなかったんだと気づいた。
ただの知識としてしか知らなかったからだ。
それから、知ろうとも、わかろうとも、しなかったからだ。
絶対的に肉食に反対する強い気持ちを持ち続けるためにも、彼らに情を向けることを避けていたように思う。

でも、そもそも肉食をやめたのは、人間たちの苦しみに耐えきれなくなり、この世界の救いを本気で望んだからだ。
家畜たちだけを救うためじゃなかった。
でもいつしか屠畜する人たちを心の奥で差別して、憎悪するようになっていた。
どうしてもころされてほしくないから、ころしてほしくないから、ころすひとさえいなければ、いなくなれば、そう願う日さえあった。

30年間、彼らの手を血で汚したのは、まぎれもなく、肉を食べてきた私だったのに。
肉を食べなくなった途端、なぜ彼らを憎悪したか。いいや、それまでも無意識にきっと差別していたはずだ。
今だってそうだ。まだほんとうのところで彼らの痛みをわかってないから、まだ完全に差別する心は消え去っていない。
差別するつもりはないと言いながら、差別している気持ちを抱えている。
まるで、生まれてきたときから、あるように。

肉を食べなくなったって、肉食の問題から離れられるわけじゃない、誰かを差別してしまうから。
誰かを差別して憎悪する気持は、命を殺すわけじゃなくても、心を殺してしまうかもしれない。
人間にとって、とてもとても大きな問題だ。
たった一人でも誰かが誰かを差別したり、憎悪してるなら、平和な世界じゃない。
平和を心から望んで、肉を断ったのに、心の奥で彼らがいなくなれば…と望んでるなんて、恐ろしいことだ。
自分が屠畜する人の側だったら、どう思うだろう。
30年間肉を美味しいと食べてきた人に肉を食べなくなった途端、憎悪され、殺意さえ感じる目で見られたら。
みんなの嫌がる仕事をがんばってやってきたのに、どうしてそんな怖い目で見るのだろう、なぜ憎まれなくてはならないのだろう。そう思うはずだ。
自分と言う人間の身勝手さ、愚かさに、1年くらい仏教の苦行だけをして生きたくなる。

この本は肉を食べる人にも、肉を食べなくなった人にも、ほんとうにほんとうに大切で重要でずっと死ぬまで忘れちゃいけないことが書かれている。
つらいことを知らずに過ごせたら、それは確かに楽だろう。
でも大人になれば、いつの日かきっと知らないことがつらくて、怖くなると思う。
それは知ることが自分にとって大切なんだとわかるから、だから知らないことが怖い。
怖くなれば、もうそこは楽じゃなくて、苦しくなる。
つらいことを知るのは、ほんとうにつらい。
でも知ることができる喜びもそこにはちゃんとある。
だから森達也はこの本を書いた。

この本を手に取る君が手に入れるのは、喜びでもあるはずだ。



大切なことは「知ること」なんだ。
知って、思うことなんだ。
人は皆、同じなんだということを。いのちはかけがえのない存在だということを。

僕らのためだ。そして何よりも、君自身のためなんだ。


「いのちの食べかた」 森 達也




肉を食べなくなったいきさつ

kozue ueda
[2014/05/24 22:28:50] kozue ueda: 肉をやめるきっかけになったのは、話すとちょっと長くなるんやけども
[2014/05/24 22:32:04] kozue ueda: まず2012年の1月にとても怖い夢を見たんだ。それはhttp://madaminuharu.blog31.fc2.com/blog-entry-617.html このページのちょっと下のほうにある1月27日の「荒れ果てた罪」って題名の記事に書いてるんだけども
[2014/05/24 22:32:37] kozue ueda: それは人々が、僕の目の前で斬首刑に合ってる夢だった。
[2014/05/24 22:33:56] kozue ueda: で、1月28日にあほな詩をブログに書いて、たまたま頭にカナリヤ サウジアラビアとかって浮かんだからそれを書いたのね。
[2014/05/24 22:34:48] kozue ueda: で、次の日にカナリヤについてなんでか検索して調べてて、どんな鳥やったかなとか思って
[2014/05/24 22:35:53] kozue ueda: ふんだら、サウジアラビアの童謡「カナリヤ」って出てきたのね、うわ、昨日もふと浮かんだこの二つのワードが関係してる、すげえーとか思って、次にはサウジアラビアで検索して色々見てたのね。
[2014/05/24 22:36:49] kozue ueda: それが http://madaminuharu.blog31.fc2.com/blog-entry-600.html この記事なんだけれども。
[2014/05/24 22:39:21] kozue ueda: そこでね、偶然一枚の写真を見たんだ。サウジアラビアで少女が公開斬首刑を執行される直前の写真で。それを見てあまりにショックだったのね。その夜も起きたときも自分の首が落とされるような痛みを感じたし、つい最近見た夢とかぶって、とてもリアルに感じられたんだ。
[2014/05/24 22:40:33] kozue ueda: 僕はそれで本当に苦しくて、この世界の救いを心から望んで、とにかく救いを求めたんだ。
[2014/05/24 22:42:40] kozue ueda: それで以前にテレビで「オーラの泉」って番組でさ、スピリチュアルの世界観にすごく感動した覚えがあって、でもそれから離れてたんだけど、やっぱりスピリチュアル以外この世の救いはないんじゃないかと思えたんだ。
[2014/05/24 22:44:06] kozue ueda: だからネットでスピリチュアルについて調べだした。そしたら、初めて聞く名前でスピリチュアルでは有名な「シルバーバーチ」という聖霊の言い残した霊訓があることを知って、ネットで全部読めるようになってて、それを少し読んだんだ。
[2014/05/24 22:49:40] kozue ueda: 僕が4歳のときに死んでしまった母親がエホバの証人だったから、小さいころ聖書を学んでたのね、イエスの教えは今でもとても尊いものだと思ってる。でも宗教に入る気はなくて、で、そのシルバーバーチという聖霊がね、キリスト教を批判しながら、イエスを肯定していたんだ。それでいて、言う言葉がイエスのような美しさがあって、これはこの世の人間が言った言葉じゃないと感じたんだ。ものすごい感動だった。これは本物だなと直感したんだ。
[2014/05/24 22:49:57] kozue ueda: それは http://www5e.biglobe.ne.jp/~spbook/sb-teachings/sb-teachings-09.htm この文章だけどね。
[2014/05/24 22:50:40] kozue ueda: 僕の記事の2012年の1月の終わりから2月にかけて、そういう記事が多いから興味があれば読んでください。
[2014/05/24 22:51:31] kozue ueda: で、そのシルバーバーチがね、「肉は、できれば、食べないほうが良い」と言ってたのね。
[2014/05/24 22:54:34] kozue ueda: なんで、そうあいまいな言い方かと言うと、シルバーバーチはわたしがだめだと言うからそれを信じて自分で考えないで物事を決めるのではなく、そのつど自分で考えて決めて欲しいと思ってるからなんだ。だから、人々が肉は食べないほうが良いのかと訊いたときに、そういう少しあいまいな言い方で返したんだ。
[2014/05/24 22:55:13] kozue ueda: 僕はでも、それを知ったとき、やっぱり肉を食べるのは良くないんだ・・・という気持ちだった。
[2014/05/24 22:56:21] kozue ueda: ずっと罪悪感を持って肉を食べてきたんだ。できれば、食べないようになりたいと思ってた。
[2014/05/24 22:57:55] kozue ueda: だから、もう、これはやめるしかない、と思った。この世の救いは向こうからやってくるものではなく、自分が変わることによって、作り出していくしかないんだと思ったんだ。
[2014/05/24 22:58:39] kozue ueda: でも、そう思っても、その意識だけじゃ、到底肉はやめられないと感じた。だから、無理にでも、屠殺の映像をネットで見たのね。
[2014/05/24 22:59:02] kozue ueda: 見たらやめられると思ったんだ。観ないとやめられないと思った。
[2014/05/24 23:00:37] kozue ueda: それで、意を決して見た。外国の映像で、ベジタリアンの活動をしてるポール・マッカートニーが出てて、最初の数分で、僕は体の全身が震えた。あまりに残酷だったんだ。
[2014/05/24 23:01:25] kozue ueda: 僕はそれまで本当に何も知らなくて、一瞬で頭を落とすのだろうか・・・と思ってたんだ。
[2014/05/24 23:07:22] kozue ueda: でも実際は、死んでからじゃ血が上手く抜けないから、気絶をさせて、牛は逆さに吊るし上げた状態で、喉を切り裂いて、その時に意識が戻って、牛が苦しそうに鳴きながら動いてる映像だったり、またはユダヤ教の国のやりかたで素早く血を抜く方法で、生きたまま牛は大きな機械の中に入れられて手足を切断されて、転がって出てくる映像や、どの映像も体の震えなしでは見られないほど残酷で、見た後も涙が止まらなかった。
[2014/05/24 23:07:57] kozue ueda: それで、もう肉を食べるのはやめようと決心できて、それからは肉は食べてないんだ。
[2014/05/24 23:12:13] kozue ueda: それから5ヶ月間ほどは、魚介類も卵も乳製品も蜂蜜も食さなかったのだけれども、5ヵ月後から、無性にホタテとか食べたくなって魚介類を食べるようになってしまった。卵や乳製品も鶏や牛を虐待したり、オスは肉食に回されたりするから、極力食べないようにしてるんだけれども、つい食欲に負けて、たまに食べちゃってる・・・。
[2014/05/24 23:12:37] kozue ueda: かなり長くなってしまったけれども、肉を食べなくなったいきさつはこんな感じです。

食肉と飢餓

屠殺 食料飢餓 畜産業

http://vimeo.com/12884758" target="_blank">ペット、食肉、革製品、動物実験、娯楽産業、狩猟、人間たちはあらゆる動物たちを利用し、利益のために虐待、殺戮を繰り返しています。彼らは私たちの知らないところでどのように虐げられ、殺されているのか。真実を撮ったドキュメンタリー映画「アースリングス」をご覧いただけます。
 


畜 産 と 飢 餓
http://homepage3.nifty.com/kojirotoyuki/kiga1.htmこちらから全文抜粋させていただきました。


 (ピーター・シンガーの『動物の解放』 の中で,現代畜産と飢餓の問題について示唆的な内容が記されておりましたので,以下に一部を引用します。原著は1975年刊行のため少し前のものになりますが,基本的な趣旨は現代にも通じるものと言えるでしょう。)
    

 この瞬間に,世界の多くの地域で,何百万人もの人々が十分に食べ物を得られない状況におかれている。さらにまた何百万人もの人々が,量的には十分な食べ物を得られるが,適正な種類の食べ物を得ることができない。たいていの場合,彼らは十分な蛋白質が得られないのである。問題は豊かな国々で行われている方法による食料の生産が,飢餓の問題の解決に寄与するかどうかということである。

 あらゆる動物は,人間の食用に適すると考えれる大きさ及び体重になるまで成長するために,エサを食べなければならない。例えば,もし仔牛が牧草だけで生育できて,とうもろこしやその他の人間が食べられる穀物を植えることのできない荒れた草地で草を食べるならば,その結果は,人間にとっては蛋白質の正味の獲得であろう。なぜなら成長した仔牛は我々に,少なくとも経済的な形では草から抽出できない蛋白質を提供するからである。しかし,もし我々がその同じ仔牛を放牧するのをやめて,フィードロットやその他の監禁システムの中に入れたならば,事情は違ってくる。今度は仔牛にエサを与えなければならない。この仔牛やその仲間たちがどんなに小さなスペースにおしこまれようとも,とうもろこし,ソルガム(もろこし),大豆あるいは何であれ,仔牛が食べる作物を育てるために土地を使わなければならない。つまり,我々は人間の食物にもなりうるようなエサを,仔牛に食べさせていることになるのである。仔牛はこのエサの大部分を,生きていくうえでの通常の生理的プロセスのために必要とする。仔牛の運動がどんなに厳しく制限されていても,彼の体は生命を維持するためだけにも,食物を体内で燃焼させなければならない。エサはまた仔牛の体の中の食用とならない部分,例えば骨をつくるためにも使われる。これらの必要を満たされた後に残ったエサだけが,牛の肉に変えることができ,従って,人が食べるlことができるのである。

 エサに含まれる蛋白質のどれだけを仔牛が消費し,どれだけを人間が利用できるのであろうか?その答えは驚くべきものである。人間が食べる1ポンドの動物蛋白質を生産するために,21ポンドの蛋白質を仔牛に与える必要があるのだ。我々は投入したもののうち5%以下しか回収できないのである。

 我々はこの問題を別の方面から検討することもできる。我々が1エーカー(約4047㎡)の肥沃な土地をもっていると仮定してみよう。我々はこの土地を,えんどう豆やその他の豆類などの高蛋白の作物を栽培するために使うことができる。もしそうすれば,我々は1エーカーの土地から300ないし500ポンド(135.9~226.5kg)の蛋白質を得ることができるであろう。あるいはまたその1エーカーを使って飼料作物を栽培して家畜に食わせ,それを殺して肉を食べることもできる。その場合は結局1エーカーから40ないし45ポンド(18.1~20.4kg)の蛋白質しか得られないであろう。(中略)

 以上の事実が世界の食料生産にとって意味するところを知れば,人は呆然とするであろう。1974年の終わり頃,インドとバングラデシュに飢餓が拡がりつつあったときに,海外開発審議会のレスター・ブラウンが試算したところでは,もしアメリカ人が年間の肉の消費をわずか10%だけ減らすとしたら,少なくとも1200万トンの穀物を人間の食用として余分に放出できるであろうということである。この量は6000万人分の食事に相当するものであって,ゆうにインドとバングラデシュにおける飢餓を解消するに足るものである。実際,もしアメリカ人が,穀物で飼育した牛の肉を食べるのを全面的にやめたとしたら,そこで浮いてくる穀物の量は6億人のインド全人口を養うのに十分な量なのである。また別の人の試算によると,主として人間の食用にもなる資源から得られる2000万トンの蛋白質が,1968年だけで米国の家畜(乳牛を除く)に与えれているということである。これだけの量を与えられた家畜が生産する蛋白質は,わずか200万トンである。このプロセスで浪費された1800万トンの蛋白質は,世界の蛋白質の不足量の90%に相当する。もし我々がこの数字に他の先進国における同様な浪費の量を加算するとしたら,その量は全世界における蛋白質の不足分の総量を優に超えるであろう。

 蛋白質だけでなくあらゆる種類の食物を考慮して,アメリカ合衆国の前農務長官ドン・パールバーグは,米国における家畜の頭数を半分に減らすだけで,それによって得られる余分の食物のカロリーは,非社会主義発展途上国におけるカロリー不足の総計のほとんど4倍以上に達するであろうと述べた。これらの事実を合わせて考えるならば,我々は,先進諸国で肉の生産によって浪費される食物の量は,もし適正に配分されるならば,世界の飢えあるいは栄養不良にさらされている全人口の必要を満たすに十分なものであるということがわかる。(中略)穀物や豆類の需給が逼迫してインドやバングラデシュやサハラ砂漠以南のアフリカ諸国,あるいはその他の飢餓によくさらされる国々が買えないほど価格が高騰することがあるのは,ひとえに我々がこれらの貴重な食物を家畜に食わせたために供給量が少なくなったということによるのである。

 だから,アニマル・リべレーション(動物解放)の見地からベジタリアンになるべきだとする主張は,世界の食料問題をめぐる事実によって強力に支持される。人間のための配慮と他の動物のための配慮は,まさに同じ方向を指し示しているのである。
    
       
                 






肉は本来、人間の食料として必要不可欠なものではなく、なくても穀物、野菜、豆類、海草、果物などの植物をバランスよく摂っていたなら人は健康に生きることができる。
つまり肉は、酒や煙草のようにただの嗜好品として人々はそれを食べている。
本来人間には不必要なものの為に膨大な数の命は毎日奪い続けられている。
人間が食べる量以上の穀物を屠殺する日まで家畜に与え続け、そして日がきたら殺し、肉は消耗品となる。
食べて美味しいと感じるその快楽の時間は日に長く味わっても約ものの20分かそこらだろう。
命であったものはそのようにして一日の約20分の快楽の為に育て上げられ、殺され続けている。
貧しい国の人たちよりも先進国の飼われているペットの方が良い物を食べているのは薄々みな気付いていることと思うが、貧しい人が食べることのできない、餓死していく人たちに与えられない穀物を一日20分間の味覚を楽しむために育てられる家畜たちにやっているっつうことである。

動物チャリティー団体が一変、牛を貧しい国へ送ったが・・・

動物愛護をしていた団体が一変して寄付されたお金で動物を貧しい国へそのまま資源として贈ったが、動物を育て上げるのに人間以上の穀物、水が必要なのにそんなものはない、自分たちの食べるものがないというのに、どうしたらいいのかと困り果て、牛を返したくて仕方ないと言っている。
押し売り、というものがあるが、これは押し贈り、牛送り、みたいなことになっている。迷惑な贈り物である。
何故、それよりも穀物を贈れないのか?
yes、それは穀物よりも家畜の方が安いからである。
穀物などは高くて贈れないが、今家畜はあまるほどにいる、だから家畜を送る、喜んでいただけただろうか。
NO、必要なのは肉じゃない、胃に体に優しい植物を送るべきだ。
腐ってすぐに虫が湧く様な肉ではなくて、保存もできる穀物を。
穀物が、足りないんだ。
貧しくもない人たちが肉を喰うてるから。
餓死と殺戮の世界から、共存と調和の世界を有望し、一歩前へ踏み出す。
それは、誰がか。
それは、僕たちだ。

荒れ果てた罪 

悪夢 第三次世界大戦 夜と霧 ホロコースト 強制収容所 斬首刑 絶望 屠殺 地獄 ヴィーガン

まったくもって、恐ろしい夢を見た。

かなり大きくて広い家に住んでいる。
洋館であった。
何人かで一緒に住んでいる、中でも仲の良いと思われる二人は、中学生時の友だち、そして何故か芥川賞作家の円城塔氏であったが、まあ顔が似てるだけで別人かもしれない。
いろいろわけがあってここに暮らしているという風であったが、ある日、それは突如起こる。
私はドアを開けて外に出ようと思ったら、ドアの外に誰かいる気配がする。
気持ち悪い、誰だろう。
私は覗き穴から外を窺う。
すると明らかに怪しい人物がこちらを見ている。
よく銀行強盗をする人たちがこぞって気に入り被る帽子、あれは目出し帽というのだが、あれをかぶっているのであるが、その色が真っ赤な目出し帽であって、気持ちが悪い人物である。
それではあまりに目立ち過ぎるのである。
その男はこのドアを何かで破壊せしめて室内に入り込むのが目的という感じで何かを操作している、銃のようなものか、それとも爆発物を取り付けているのか。
私はどくどくと打つ鼓動の中で一瞬にして思い浮かんだことを実践する。
私は震える声でドアの向こう側にいる男に向かって叫んだ。
「警察を呼びました!」何故敬語なのかと自分で思いながらも何度も叫ぶ。
すると表の男はそれに驚いて応える。
「本当か、本当に呼んだのか、クソっ」とか言いながら慌ててならば仕方ないという風にその場を去る。
しかし男は一度は去ったが必ずまたやってくる、それも極短い時間の間にだ。
その時私たちの命はないだろう、それを確信していた、のは、そう、これはその時がやって来てしまったからであり、いつ来るか、来るか、と怯えていた時が起き始めた、そう私は恐怖に慄き、青褪めた顔で部屋にいるであろう仲間にそれを知らせた。
彼女はそれを知り、震えながらも冷静に、しかし信じられないという顔で即ここを逃げ出す準備に取り掛かった。
私はもう一人の仲間にもそれを知らせた。
彼は妻と子と離れここで暮らしている男だったが、彼は仲間である私たちよりも当然妻と子の身を真っ先に案じ慌てて準備をし出した。
普通、そういう事態なら警察に連絡すれば良いがしかし、それは無駄なことであった。
私が先程確かに警察を呼んだと言えば男は逃げた、しかし彼らは警察の一部と繋がっている組織であり、彼が逃げた後にそれがわかったので、今はもう誰の助けも呼ぶことさえできないのである。
それがどのような事態であるか、あなたはもうおわかりであろう。
ついに現代の日本に、前代未聞の恐ろしい戦争が起きたのである。
それをこの目で実際見たのは、その数分後である。
穏やかな、しかし寂しげでもある農園の中にこの洋館は建っていて、緊迫しながら私は窓の外を見た。
枯れた田畑が広がっていて、その奥にはビニールハウス式の小屋も建っているようなのどかな冬の風景である。
しかしその光景はいつも私たちが見ていたものではなかった。
私の目が見たものは、確かに現実であった。
あなたは夜と霧というナチスによる強制収容所で行われていたことのドキュメンタリィ映画を見たことがあるだろうか。
ちょうどあれがこの現実に起きた実際のことであるのと同じに、その私の目の前の光景もまた現実であった。
その広い風景の中の何箇所かでそれは行われていただろう。
私が見たのはその一つであって、私は最初奇妙な感覚でそれを見ていた。
何故奇妙な感覚だったのか、それは今の日本にこのようなことが本当に起きるとは思えないという気持から、私は奇妙な物事を私は見ているという感覚に落ちながらその一部始終を見ていた。
彼らは、次から次へと並ばされていた、皆は白装束を着せられ並ばされてそして座らされる、膝をついて手は後ろで縛られそして顔は、顔も白い袋を被らされており異様で気味の悪い格好をさせられて順番に座らされている、彼らは皆おとなしい、何が今から始まるのかまったくわかっていないのだろう、彼らはとても従順である。
彼らを並ばせてそして座らせる男たちも数人彼らの後ろに立っていて、それまで私も静かな気持でなんだろうと思って見ている中、一番前に座らされ前屈みになるように男は押さえられている、その左に立っていた男が突然長い柄の鎌を男の頭の部分に振り下ろした。
瞬間に男の首からこれが飛んで頭が落ちて座らされていた男には頭がなかった。
見ていた私の体は震え上がった。はい、次、はい、次、という形で何か黙々と行う流れ作業のような事務的な仕事のよう(システマティック)に、次に並ばされていた男の頭が次には切り落とされるのである。
次、その次の何番目かの人間は私ではないのか、そう思った私は絶望して、部屋中探して見つけた彼女に震える声で「あ、あ、あ、頭、頭がき、切り落とされてた・・・・」と言って、こうしちゃいられない、一刻を争う、私もここを出る準備に取り掛かりだす、しかしそれより先に兄と姉たちに連絡をしてこれを知らせて早く安全な場所へ避難してほしい、そう思うが気が焦りすぎてテンパり過ぎてもう自分で何をやっているのかわからない、部屋をうろうろうろうろして、そしてはっと部屋中見回すと、彼女も彼もいてない、シーンと静まった広い屋敷に私は一人残されていたのであった。
つまり仲間と思っていた彼も彼女も私に一言も告げることはなく我先よとこの屋敷から避難したのである。
ものすごい恐怖であった、一緒に避難できると思っていたのであったから少しは心強かったのが、この絶望と恐怖で恐ろしい世と一変した地に私一人残されたのである。
しかしそうやっていつまでも絶望したまま突っ立っていられない、私は逃げられうる場所を探し出した、まず頭を打ち落としていた場所の方角からは逃げられない、ドアのところからも無理である、私は今にも恐ろしい組織の男たちに窓から侵入されて殺されるのではないか、覗いた窓にはもうそこに男たちが鎌を持って居るのではないかと戦慄しながら赤茶色のカーテンをそっと引いて外を見たら黒い柵の中は長い雑草たちでよく見えない、向こうの方に抜けられる道が覗いている、ここだ!ここからなら見つからず逃げられるかもしれない!そう思い立った私はばたばたばたと階段を駆け上がり、今自分が何故だかズボンを履いておらずレッグウォーマーとパンツ姿であったので、いくらなんでもこの姿で外に行きたくないと二階の洋服ダンスから自分のジーンズを急いでハンガーから外しながら、ボタンをつけていてなかなかすぐに外れてくれない、こんなことなら丁寧にボタンをかけてハンガーに吊るすんじゃなかったと心底後悔した。
そしてその次には私の愛する家族のみちた君である、みちたはもうすでにキャリィバッグに入っていた、そして大切なもの、かばんにいくらかもう詰め込んである、その鞄がやけに重たい、要らないもの、いらないものと焦る手で探す、大切にしていた、CD、本、それらをすべて鞄から出した、こんなもんより命が一番大事や、そう思いながらすべて出して、こんなことしている間に殺されるのではないかと恐れ、みちたの餌も詰めて、ああでも水が、水がないわ・・・・と思いながら、もう出る!はよ出ないかん!と私はもうつんのめりながら足がからまりながら、うわあーと走ってさっきの安全だと踏んでおいた窓から身を乗り出して屋敷を出た。

そして、世界は広かった、外の世界は、眩しかった、この方角の後ろでは人が無残に物のように殺されていってるのに、こっちの方角はなんて平和なように見えるのか、まだこっちの人たちは知らないのだろうか、とにかく私は私の目に映った良いと見える方へ走った。
街路樹が光ったように見える公園のような場所がある道に向かって私は走ったのである。
何も知らない場所、行き交う何も知らない人たち、美しく見えた、私には、普段はそんな風に見えることはなかったはずである。
何も知らずにのほほんと暮らす人々と場所は穢れて見えたのではありませんか、しかし絶望な場所から脱出できた私にはそれはそれは美しい景色に見えた。
助かる、助かる、殺されずにすむのだ、私は、私は、私は、殺されたくない。
神よ。
神よ。
神よ!

殺されて行く人たちと私は何が違うのか。
彼らは、殺され続けている。







追記:わたしはまさしく、この夢を切っ掛けに、屠殺場の映像を観て、
其処に存在する《地獄》と人類の《地獄》が
完全に繋がっているのだということを覚り、
後にヴィーガン(vegan)となる。