たくさん話してくれて、本当にありがとうね。
私が書いたことで大切なことを思い出されたのはとても嬉しいです。
私にも同じ喜びを味わって欲しいと思うお気持ちとてもよくわかります。
私はもうだいぶ前からエホバの研究はしてないし聖書も
ほんのたまにしか読もうとは思えませんが
それでもエホバはいつでも私の中にいて、大切な存在で
エホバのことを思うと本当に不思議なほど安心に満ちます。
今からでもエホバの証人になれたなら、死んだお母さんも喜ぶだろうし
孤独な私は友達もたくさんできて毎日がとても充実した幸せなものになると思います。
でも今の私には、まだなれないのが自分で解ってます。
久しぶりに行かれた集会はどうでしたか?
エホバの証人の人たちの気さくさ温かさに癒される反面
最初のうちは少し気疲れもあるかも知れませんが
集会に行くだけで姉妹、兄弟たちは本当に心から喜んでくださりますよね。
大きな大会は出た覚えがありますが、全国大会は記憶の中ではないですね。
私が頻繁に行ってたのは母の生きてた4歳までなので。
国も何もかも違うたくさんの人たちと同じ存在を信じている
同じことを勉強していることは、ものすごく喜びですよね。
最近はあまりチャイムが鳴っても出ないので
もしかしたらここにもエホバの証人が来ていたかもしれません。
またいつかいい出会いがあれば、本気で勉強しようと思える日が
来れば本当にいいなと思います。
a_kungaさんが疲れることなく、無理もなく、ただ良い方向へ
向かえることを願っています。
全ての夜明けよ
夜と霧 ホロコースト 強制収容所 ガス室 救い ヴィクトール・フランクル
昨日ナチスによるホロコーストのドキュメンタリー映画「夜と霧」を見て
そこから、どうにか救いはないのかと探しましたが
何も見つけ出せそうにありませんでした
ただ、怖く、恐ろし過ぎて、
何をしていても殺された人たちのことが浮かび、つらかった
ベッドに横になれば、あの狭いベッドに寝ているような感覚になり
しかし、ここは温かく、とてつもない疲労などない、恐怖はない
鏡に自分が映ると、自分も死んでいる体なのではないかという感覚になった
恐ろしかった、あの映画を観ている間にも、何故これを私は観なくては
いけないのか、と、もう、観たくない、観たくない、と、
ただその場から動けない自分がいるだけだった
殺された人たち全員がまるで、自分の家族のような感覚を覚えた
だから、もう観るのが本当につらく、やり場のない思いに
ひたすら逃げたくなった
少し落ち着くと、彼らには一瞬でも、強制収容所に入れられてから
幸せを感じる瞬間はあったのだろうか、と思った
愛する家族と離され、労働能力のあるものはひどい強制労働をさせられ
労働能力のないと見なされた老人、妊婦、子供、女性たちは
すぐにガス室で殺されたのです
他の人のブログの中で、ガス室に向かう人たちの顔が、それほど恐怖に
満ちていない、それは何故かは、彼等は、これからシャワーに行くと
騙されて、それを信じて待っていた顔だからだ、と言うのを読み
もう苦しくてたまらない、何も考えることもできなくなる
ずっとずっと苦しかった、時には涙も流したが、救いがどこにも見当たらなかった
しかし、そこから生き残った心理学者ヴィクトール・フランクルの
収容所での生活が書かれた「夜と霧」の中身をネットで少し読んで、知り
私は心から感涙して、救われた
彼はそんなあまりに苦しい毎日の中で、自分が導き出した答えによって
救われ、また、それを話したことで同じ仲間の心を救ったのです
愛する妻と心の中で対話をし、どんな苦しみをも光に変えたのです
私が特に救われた、美しくて愛おしくてたまらない場面があります、下引用文
“ある時など、過酷な労働で疲れ果てバラックの土間に死んだように横たわっていた時、
一人の仲間が飛び込んで来て、極度の疲労と寒さにもかかわらずに、
ちょうど、彼の目に映った美しい日没の景色を見逃させまいと
急いで出て来るように催促してきたこともあった。
外に出てみると、そこにはバイエルンの美しい夕暮れの光景が広がっていた。
燃えるような雲が青銅色から真紅の色に変化していく様は、
まさにこの世のものとも思えぬ幻想的な芸術であった。
感動の数分後、誰言うともなく「世界ってどうしてこんなに綺麗なんだろう」と
タメ息まじりの声でつぶやくのである。
自分たちの背後には、荒涼として灰色で泥だらけで
殺風景きわまる収容所があるだけなのに。”
嗚呼、なんて生物だろう!人は
本当にそうなのだな、人は苦しみを知るほど世界は美しく観えるのだな
それは、本当に普通の暮らしでは絶対にわからない美しさであるだろう、と思いました
そして、もう一つの感極まり涙が溢れた文が、停電の夜に起きたことです
少し長いのでホームページのほうで、ぜひ全部読んで頂きたい
これを機にまだ「夜と霧」を読んでいない方には読んで頂きたい
私も必ず読みます
それと心温かい監視兵がいたということが、どれほど彼らにとって
救いであったのでしょう
しかし、実際そのような救いを知ることなく死んでいった人たちに対して
私たちは、何ができるでしょうか
それは私は、いつもこう思うのです
死は終わりである、という人がたくさんいます
私はそれを絶対に信じたくない
死が終わりなら、無念を残し無残に死んでいった人たちの夜明けは
一体いつ来るのですか?
永遠に安らかに眠っているだろうから、それが救いである、とは
思えないです
彼らには生きていたならあとどれほど喜びを感じられたのでしょうか
安らかに眠ることは、喜びではない、また、苦しみでもない
彼らが、また生となり、彼らの生活する時間が再び来ることを
私は心から願い、信じます
それはすべての再生であり、私自身の再生でもある
光導いて
何度繰り返そうが、大人になれない部分がある
好きになった人には無意識に依存の果てとなり苦しめる
「なんで、俺のこと、苦しめるの?」と言われた
好きだった、彼の苦しみを知り好きになった
妄想の果てに、彼と結婚をし、死ぬまで続くだろう生活を夢見た
しかし、現実はたった数日で終わったのだ
思いやり、私に著しくないもののことだ
依存は狂気であり、愛などとは程離れたもの
苦しめて全て終わる
相手からも最後は苦しみだけもらったように終わり得る
思いやりを持てるはずはないであろう?
苦しい人達に
何故、求めるしか脳はないのか?
与えられた名前、境界性人格障害、という名前に甘えるな
人は、甘えて得るものは何もあらず
苦しみは耐えきれないものである、私が知っている
しかし、甘えてはならず
甘えて、治るものではあらず
太宰は心中した、尾崎は酒に溺れ死んだ、マリリン・モンローは薬物多量摂取か
しかし、そこに甘んじるな、破滅の美しさなどに捕らわれるな
光をただ、導け、君よ
愛する苦しむ孤独な人達よ
閉じこもる僕ら
「今、僕は」
http://www.ima-bokuwa.com/
若者の引きこもり、ニートをテーマにした映画が公開されるんですね
予告を見るだけでとても胸が苦しくなった、リアルなドキュメントのようだ
ぜひ観たい
http://www.ima-bokuwa.com/trailer.html
エンディングは敬愛している新居昭乃だ、素晴らしい
自分自身本格的な完全引きこもりを経験してみて
引きこもる人たちの気持ちが少しわかった気がする
外に出るのは溜まったゴミを出す時だけ
知らない人に会うのは宅配を受け取る時だけだ
外の世界が本当に別世界のように見えるんだ
空があまりに美しく見える
外に久しぶりに出るたび感動の嵐だ
そういやもう3ヶ月近くゴミ捨て以外に外に出てない
引っ越しの日には、さぞかしまた外の景色に感動するんだろうな
今年こそは仕事復帰したいのだが
まだ鬱が相当きつい
薬を飲んだほうが仕事に行けるのだろうか
でも保険証がない
このまま死ぬべきにはいかない
今、僕は 何をすべきなのか
今、考えなくては
仕事を始めたら何も考えられなくなる
私は偽りである
エホバ、私はあなたの名前を思い浮かべるだけで涙が出ます
私の中にあなたはいる
私は何度もあなたを裏切り続けてきました
あなたの愛がどこまでも深いのに
あなたを裏切り続ける私は悲しみに暮れ
愛するあなたを都合のよい糧とした
私のあなたに対する愛は偽りである
私の罪はどこまでも重い
この世に言われているどの真実よりも、私はあなたを信じたい
この世の占いや、スピリチュアルなどの言葉でなく
目には見えないあなたの存在を信じたい
エホバ、あなたの名前を思い浮かべるとき、私の中に温かさと安心が満ち満ちるのは何故か
あなたを裏切り続ける私たちの為にも、あなたはいつかサタンと戦われるのか
戦うのはイエスや聖霊たちであるだろうか
最後にはあなたが必ず勝つと信じています
あなたのいない世界が考えられない
あなたのいない淋しさを私はまだ知らない
あなたのいない世界は私のいない世界と似ている気がする
あなたが消えるのならば私も消えるだろう
私の中にいるサタンも共に消えるだろう
愛がなければ価値がない
みなさんの中に今、絶対に傷をつけられたくないもの、存在があるでしょうか
もし、傷つけられたなら、それはまるで自分のことのように苦しく、
いたたまれない思いになるようなことが、あるでしょうか
私は自分の家族のことに対して侮辱されると、そのような思いになります
しかし、時には家族の悪口も書いたりはしました
しかし、心の中には愛で溢れているのです
先日、私の母はクリスチャンだと告白しました
宗教に対する偏見を持つ人の多い中、あえて書きました
しかし、私はそこで濁してしまったのです
それは愛する母を、母が信じてきたものを侮辱されはしないか
そのような思いで読む人がいないかと、いう不安から濁したのです
私はそこで濁すべきではなかったのです
初めから堂々と言うべきでした
母が入っていた、私の家族が勉強していた宗教とは、
悪い偏見を持っている人がとても多い、世界中で最も活動的、熱心であろう
エホバの証人という団体、宗教です
今小さな地震が起きました
神がイエスが怒っているのだろうかと、冷や冷やしました・・・
しかし、本当に怒るべきことは私がその名を濁して言ったことに対してでしょう
聖書など少しも重んじない人からしてみれば、
聖書は破り捨て踏みつぶせるものでしょう
しかし、私には聖書に書かれた事柄、神、イエス・キリストなどの存在は
とてつもなく神聖なものであり、それは幼い頃からの無意識に
そう学ばされたことからも来ているとは思います
それと同時に母の記憶を持たない私にとっての母は
まさにマリアのような聖母と同じ存在なのです
だから、その母が心から信じて敬い続けてきたエホバやキリストに対して
少しでも悪い思いを持たれることが、とてもやりきれない気持なのです
しかし、何の知識もない人たちは、世間からカルト宗教などと言われているもの
に偏見があって当たり前であると思います
カルトと言われる理由は、エホバの証人の人たちのあまりに純粋な忠実さです
一番には、きっと輸血を拒否することが上げられているでしょう
私も一時期、なぜ愛する家族の命よりも神が大事なのか、などと
疑問に思い続けていました
輸血をして、確かに助かる人はいるでしょう
しかし、輸血をしたことで亡くなった人もまた、多いという事実です
聖書にはほとんどが暗号的な言葉で語られているために
それを、これはこうなのだと解釈するのは、確かに危険だとは思っています
でも、輸血に関して、輸血することが正しいと思って輸血をして
亡くなった人が多いと言う事実を知らずに、ただ輸血を拒否する宗教は
カルトだとか、悪い偏見を持ってほしくはないです
私の思いでは、血はただ血という液体だけなのではなく
血の中には個人の全てが含まれているように思えます
その血が他人の中に入ると言うのは、それで変異に耐え切れずに
亡くなると言うこともあるんじゃないかと
そうでなくとも、輸血で病気に感染するのもまた多いのが事実です
エホバの証人も人口の血液に関しては個人の判断に委ねられています
自分が神に認められるために家族を救わない人はいません
実際、輸血をしなかったことで息子を亡くされた方の話など聞かされて
とても深い悲しみの中、自分のしたことは正しかったのだろうかと悩み続け
その苦しみは、私達には計り知れないものなのです
ほかに偏見の一つに、幼い子供のしつけに鞭を打つのは虐待だというのがあります
実際悪いことをすると私も兄もお尻が真っ赤に腫れるまで鞭で打たれましたよ(笑)
確かに幼い私にはものすごい恐怖でありましたが
打たれてきた本人の口から言わせてもらいますが、あれは
虐待や体罰などというものでは決してないです
叩いても大丈夫なお尻しか打ちませんし、むしろ
あの教育はよいものだと思いますよ
悪いことをすれば痛い目に合うというのが幼い頃から嫌でも
覚えさせられたわけですし(笑)
親の愛情はとても感じます、逆にそれほど怒られないことのほうが
子供にはよくない気がします
私自身は今は無信仰であり、生活のすべてを聖書の神に委ねてなどいません
しかし、神はいつでも私の中にいるのです
人が何か悪いことをして、悪いことをした、と思うとき
その人の中には神がいるのだと思います
愛のないことをした、これが愛かも知れない、と思うとき
その人の中には神がいる証拠ではないでしょうか
神を敬って生活してるわけでなくても、神はいつも私たちの中に存在しているはずです
神とは、良心であり、光、希望であり、愛だと思います
そして、聖書には神のみ使いの一人のサタンが悪魔だと書かれています
サタンは目に見えるものでなく、私たちの心の中に潜むのです
サタンとはネガティブなものを全て背負込んだ悲しく孤独な哀れな地上の神です
この地上はサタンによって支配されたも同然でしょう
毎日毎日どこかで人は憎しみ合い、殺し合っている現状です
そして、それだけでなく、この世のすべての愛のない事柄、
それも全てサタンの支配下に置けるものでしょう
私が今いる部屋に強い光が差し込んでいます
私はそれだけでとても深い感謝を覚えるのです
無信仰の人たちは、感謝する気持ちのないことが当たり前になっている人が多い気がします
太陽は上って当たり前だ、雨は降って当たり前だ、生きられて当然だなど
敬うことは人に愛を覚えさせてくれるはずです
太陽に、雨に、命に全てに愛を注げば、人は無意識に幸せな気持ちになり得ます
それは私は思うのです、神が聖書を通して私たちに言いたい全てではないでしょうか
愛を知ることは神を知ることに通じているのです
愛を知る人間は滅ぼされないと、神は決して脅しているのではなく
ただ私たちに愛の幸せを知ってほしいだけなのではないでしょうか
聖書にはどうしたら私たちが救われるかが書かれています
神が私たちを救うのではなく、私たちは自分で自分を救うのです
それ以外にこの世界の救いはあり得ないのです
ただ悪いことは犯さずに生きていればいいというわけじゃないということ
そこに愛がないのなら何の価値もない、と聖書でパウロも言っています
無関心である、傍観者である、愛のない全てが価値のないことであると
私も思います
愛は苦しみを賄うものであるゆえ
苦しみ嘆き悲しむ人は幸いであると聖書にあります
神の救いとは、神が自ら行う目に見える救いではなく
私たちの中にある愛の深さが救いであると言うことだと思います
前に載せたネットの聖書の文はエホバの証人が読んでいる新世界訳の聖書とは
違う新約聖書の文でした・・・
新世界訳には十字架の記載は一切ないです
キリストが打たれたのは一本の杭となっています
真理はともかくキリスト=十字架というような偶像的安易な
イメージに囚われずに済むこの訳は好きです
新世界訳は新しく訳された聖書です
新世界訳がネットで読めますhttp://www.watchtower.org/j/bible/index.htm
さて、世界の終りはたぶんきっともうすぐですよ、みなさん・・・
戦争、飢饉、地震、がいつ世界全てで起こってもおかしくないです
逃げ場などありません
そんな時こそ、嫌でも本当に自分の中に救いを見出さなくていけなくなるでしょう
救いは私たちの中にあります
もはや恐れることはやめ、悪の意味はなくなり果て、
何をすべきか、きっとわかるはずでしょう