著者テオドール・イリオンの『チベット永遠の書』である。
ドイツ人探検家であるテオドール・イリオンはチベット領内に外国人がいることは違法とされていた1930年代初頭、この“神秘なる地”に初めて足を踏み入れた数少ない西洋人の一人として、広くその名を知られる。
32年、チベット踏査計画に着手し、34年、チベット人行脚僧を装い単身入国。そして36年、生死を賭けた幾多の困難を乗り越えて、奇跡的生還を果たした。
その衝撃的な体験記録は各国のラジオ・新聞等で大々的に報じられ、また同年、本書の原典となる『Ratfelhaftes Tibet』が、ドイツのウラヲス社より出版(さらに各国語で翻訳出版)されるに至って、その反響の大きさは極に達した、と伝えられている。
チベット仏教の深遠なる宇宙観(輪廻天性など)に留まらず、チベットを覆う闇の霊性(死者蘇生の秘術、地底世界の実在など)を克明に綴ったことで、当時、ドイツで政権を掌握していたアドルフ・ヒットラーにも多大な影響を及ぼしたといわれる。
その後、大戦の動乱で版が絶え、闇に葬り去られていたが、50年ぶりに大英博物館より掘り起こされ、遂に日の目を見ることになった。本書は、その完訳である。―本書より
1934年4月16日旅に出る前にロンドンにて二人の仲間と一緒に撮影(中央がイリオン)

1934年4月12日ロンドンでのデモ中に小さなゴムボートでパドリング中のイリオン。
1930年代初頭に、Illionはチベットで地下都市を訪問した最初の西洋人となった。

テオドール・イリオン
Theodore Illion(s. 1898 - k. 1984 ザルツブルク)
私はこの「チベット永遠の書」を、去年の三月にネットで知り、そこに書かれた聖なる賢者の言葉に心ふるえるほどの感動をおぼえ、その言葉と一緒に以前自身のブログに載せたのであるが、いったいなんとしたことだろう、これまで読むことができなかったのである。言いわけであるが、間違えて「チベットの死者の書」を買ってしまったからである。そしてまた買わなければという思いを抱えながら今日まで来てしまったわけである。
「チベット永遠の書」を読み進めるにつれて、私は徐々にこの著者であるイリオンとの旅を終えたくないという思いに駆られ最後のほうはとてもゆっくりとページをめくり三行読んでは一時間ほど思いにふける、ということをしながら読んだ。それほどイリオンと共に旅をしているかのような時間は私にとって素晴らしい時間だったのである。読み終えるのがさびしくてたまらないほどの本には滅多に出会えるものでない。二年半前に読んだ町田康の「告白」以来であろう。
この書に書かれたイリオンが出会った真の隠者である賢者たちの言葉は私にとって、聖書とシルバーバーチの霊訓に並ぶほど深い言葉である。
だから、賢者の言葉のいくつかをもう一度載せようと思う。
「みなさい。
世界は人間の無明によって、おぞましい喜劇と受難の場と化している。
誰もが自分本位に生きている。
それは、利己主義が自分の幸福にとって必要だ、と誤って考えているためだ。
他人の苦しみを犠牲にして幸福を追い求めることが、この世のすべての苦しみをつくり出しているのだ。
この瞬間にも世界のあちこちから響いてくる苦悩の叫びをすべてきくことができれば、あなたは決してそれに耐えることはできまい。
それほど悲痛な叫びなのだ。
友よ、あなたがこのようなことを知っていれば、何もせずにいられるだろうか?
症状を和らげるのではなく、原因に直接向かうことだ。
あなたの心を変えることだ。
心が変われば、あなたは自分の教えに生き、その生きた実例によって世界に影響を与えることだろう。」
「あなたは幸せですか?」とわたしはたずねた。
これに答えている間、涙が彼の頬を伝い落ちた。
「いや、幸せではない。
純人間的な観点からすれば、わたしのような人間は胸が張り裂けるほど孤独になることが多いものだ。
わたしは人々を愛しているが、それでも彼らにしてあげられることがいかに小さいかがわかるのだ。
深い悲しみがここにある。
全世界が幸せになるまでわたしは幸せにはなれないのだ。
その目標に達するまでには長い苦難が、限りなく長い苦難が前途に横たわっているのだよ」
「人生は生きるに値するものなのですか?」とわたしは隠者にたずねた。
「むろんある」と彼は答えた。
「人生は素晴らしい。人生は輝かしいものだ。
目まいを起こすほどの高みとおぞましい奈落の底との間を人は常に選べる。
何事も相対的であり、確定したものは何もない。
これを悟るなら、あなたは少年のような心で生きることができるだろう。
子どものような心を持って生きるときのみ、人は生きるに値するものとなるのだ。
そうすれば、多くの事柄を知っても優越感を感じなくなる。
わたしは、自分が例外的な人間だとは思ってはいないのだよ。
人類にただ仕えているにすぎないのだ。
わたしは生き、愛している。」
「物質と霊性の両方をもつ新しいタイプの人間性が必要なのだ。
そのような人間のみが、真に人と呼ぶに値するものではないかね。
物質を捨て去る人間も、霊性を放棄する人間も、決して人たりえないのだ」
「友よ、自分が善人だと考えている人間には注意することだ。
自分が善いと思い込んでいるときこそ最悪なことが多いものなのだ」
「あなたは真の実在(リアリティー)を発見なさったのですか?」とわたしはきいた。
「実在、真理、生命、神、永遠、すべてを包み覆う愛―これらはみな、同じ一つのものなのだよ。
真理をみつけることは君にはできまい。
なぜなら、私的真理を掴んだ瞬間に、それはすでに真理ではなくなっているからだ。
われわれは、生きている限り探究し続けなくてはならないのだ。
人生が決まりきったものであれば、そこに何の意味があろうか?
人は人生に揺すぶられれば揺すぶられるほどよいのだ。決して満足に陥ってはならない。
特に、自分自身に対して」
「世界全体が幸福にならない限り、個人の幸福は在り得ない」と言ったのは宮沢賢治である。
チベットの賢者と同じことを言っているね。
この世界に人々や生物たちの苦しみが絶えない限り、人は他者を自分のように思えば思うほど苦しみも大きくなるだろう。
そんな凄まじい苦しみと悲しみの中に生きて、何故彼らは悪をなす人たちを批判、非難し、抗議しないのだろうか。
私の親愛なる心の友、テオドール・イリオンは言った。
「この人たちは、他人の自由意志に働きかけようとは決してしない。
相手がどれほど賢く力ある人間であったにせよ、われわれが霊的指導の命じるままに自動的に動くような操り人形と化すようであれば、人生は何の意味ももたないのだ。
人は、もっとも優れた善と、もっとも恐るべき悪との間を選ぶ権利を持っている。
人の運命は自らの手の中にある。
人間に与えられた栄光はまさにそこにあるのだ。
いつの日か、人は自らの努力によって自らを救い、チベットの賢人たちのようになるだろう。
彼らは道標のようなものである。
彼ら自らそう語っている。
人は自ら制限を作り出す。
自ら作り出したものをこわさなければならないのも本人だ。
隠者たちは、自らの歩く姿を披露することはできる。
だが、自分の腕に抱きかかえて子供を運ぶなら、子供は歩き方を覚えられずに終わってしまうだろう。」
「多かれ少なかれ、われわれの誰もが世界の動きに加担している。
自らの責任を自覚しようではないか。
チベットの賢人たちは世の出来事を見つめはするが、彼らもいうように、道標としての役目を果たしているにすぎない。
彼らは他人の自由意志に決して干渉しない。
光の道をとるか闇の道をとるかは、人間の自由なのである。
そこにこそ人間の栄光がある。」
見るからに悪をなしている人がいる、人を見るに耐えないほどに苦しめ、殺している人たちがいる。
だから人はいうだろう、そんなひどいことをするのはやめろ!彼らを苦しめるな!
これは一見、正しく、正義であるかのようだ。
彼らはそうされるべきではない自由なる権利があるからだ。彼らに自由を!そう叫ぶのである。
そして悪をなしている人たちから自由の権利を奪い取り、代わりに彼らに自由を与える。
これは目を細めていると正しいように見える。
しかし悪をなす人たちは、何故、自分たちが悪をなさなければならなかったのか、わかっていない。
彼らは自然と、そうなったからだ。
何故、彼らは悪をなさなければならなかったのだろうか。
悪をなす人たちは幸福なのだろうか。
わたしは、とてもそうは思えないのだよ。
悪をなしている人と、悪をなされている人がいるなら、どちらがそのとき不幸かと言えば、それは悪を成している人ではないだろうか。
哀れなのは、いつでも悪をなすほうなのである。
光の道をとるか闇の道をとるかは、人間の自由だとイリオンは言ったが、僕はここに異議アリと言いたい。(イリオンは悪事はほとんどが無知によるものであり、真の悪意によるものではないと言っている)
何故ならそれは、光を知る人だからこその自由だからではないだろうか?イリオン、どう思うかね、君は。
光を知らないならば、彼らは闇しか選び取れないのではないか。
過ちを犯して、苦しみぬき、そして良心に気づいてゆく、彼らはその段階にあるのではないか。
これはほぼすべての人に言えることだが。
成長段階にある、ということである。
だからってそんな奴らの自由は許されないよ、と正義のもとに彼らから自由を奪い取る権利を私たちは果たして持っているのは何故か。
いったい、その不公平な権利とは、何か。
わたしたちだけが自由であるべきで、悪を成す人たちは自由であるべきではないということであろうか。
苦しめられている者たちに自由を!と願うことは人間の自然な人情だ。
私もそう願い続けている、祈り続けている。
しかし、悪人から自由を奪い取り、彼らに自由を!とは願えない。
わたしは誰かが自由であるべきである存在なら、誰かが縛られる存在であってはならないと同時に思う。
誰かの自由を奪い取る者から自由を奪い取ろうとするとき、わたしたちは彼らと同じ事をしていることに気づかねばならない。
不幸を終わらせるために、新たなる不幸の種を蒔いてはならない。
これは自分自身の経験を通して学んだことだが、わたしは以前家畜の殺され方があまりに酷いものである映像をこの目で見て肉食を断ち、そして肉食を続ける人たちへそれは正しいことではないと叫んできた。
自分ではそれを強要するつもりはなかったのだが、感情があまりに激しいために何度も心の中で争いを続けた。
挙句の果てには、家畜たちの地獄のような苦しみを考えると耐えられないほどの苦しみにのた打ち回り、彼らを殺す人たちは皆死んで、そして気づくことのできる人間に生まれ変わればよい。というとても利己的で恐ろしい願いさえ叫んだ。わたしはあのとき、家畜への愛が強い正義のゆえに盲目となった鬼のようであった。
肉を食べる人の中には、それが良くないことであると感じながらもやめたくてもやめられない人もいる。そんな人々の中にわたしは剣を振り回して切り裂かんばかりの勢いで正義を訴えたのである。
結果どうなったかというと、それは傷しか残さなかったようだ。やめたいと思っているのにやめられないところにそれを責められるのだから、悲しい以外にないだろう。わたしはたくさんの人たちを傷付けただけで終わったのだ。それに気づいてからは、わたしは直接批判や非難的なことをするのはやめるようになった。情報だけは提供するようにしたいと思うが、見る人はその情報提供だけでも非難を受けていると感じる人もいるかもしれない。誰かを少しでも傷つけてしまうことが悪いと言っているのではなく、問題なのは、その問題を提起する側の気持ちの問題であり、そこに牙が少しでも見えるならば、それはもはや心の戦争である。正義を訴えるために争うとは、それは賢者の言った言葉、おぞましい喜劇であり、言い換えれば滑稽な悲劇である。
私が願うのは、ただすべてが自由であってほしいと思うことだが、そこで光を知らない彼らの自由とは、闇の自由になってしまう。
そんな彼らに光を見せることを、彼らの自由を奪い取ろうとする我々が果たしてできるのか、と思うのである。
彼らの自由を奪い、それを善なる人に与えようとする我々の光はあまりに貧弱ではないのか。
人は闇をとるか光をとるか自由なのである。
それはつまり、誰の自由をも奪えるものではないということだろう。
この終わらない地獄のような受難の場を、本当に変えたいと思うのであれば、わたしたちがその闇を覆い包むほどの強烈な光を持たなくては、変えられないのではないだろうか。
それは決して彼らの自由を奪うだけの偽の平和を求める切れかけの蛍光灯のような不気味な青白い光では到底、暗黒の闇を照らすことなどできないであろう。
と、わたしはここまでじっくり考えて真剣に書いて、この文章自体が薄暗い蛍光でしかない批判する人たちの批判するという自由を奪おうとする批判を打ち付けるものなのだろうかということを思い、唖然としているわけだが。
「矛盾こそが神秘なのだよ」とは誰が言ったであろうか。
わたしか。
最近よくそう思うのだよ、イリオン、君はどうかね。
すべては自分に対して言っているようなものだよ。
少し休憩しよう。お皿を洗ってくるよ。
僕が何故、イリオンに不思議なほど親しみを感じるのか、それはイリオンはもの凄い人ではあるけれども、それと同時に、それちょっとおかしいんちゃうかイリオン、と思うイリオンの極端で純粋な思想が関係しているのかもしれない。
イリオンがこの本の中で言ったことで印象的だったのが、1が神の数で、2は真っ向から対立しあう二つのまったく異なる霊性があるはずで、それが2の数霊学的意味なのです、という言葉だ。
イリオンはそれが何かということは言わなかった。しかしこれはどう見ても、光と闇、陰と陽、善と悪、というものではないか、と僕は思ったのである。
つまりこれはどういうことかと言うと、神が光と闇を創った、ということではないだろうか。
もしくは、神のあとに、光と闇が生まれた。
これは僕には少しく驚きであった。
何故なら僕は、最近、神と光は同じものであると思っていたからである。
これを覆したのがイリオンの神の次に光と闇が来るという、数の神秘であった。
確かに神と光が同一のものであるというなら、次に光と闇になるのは、なんだかおかしいと思える。
神は光でもなく、闇でもないということであろうか。
聖書の創世記の最初は、まず闇が地上を覆い尽くしていた。
そして神が「光が生じるように」と言うと、光が在った。と来る。
これで考えると、1は神、2は闇、となるか、1は神(闇)、2は光、という変なことになってしまう。
2という二つの数なのに、一つとなってしまうのである。
神は光を良いとご覧になった。
これをそのままにすると
①は神、②は闇、③は光、④は光を良いと思う神の想い、か
①は神(闇)、②は光、③は光を良いと思う神の想い、ということになる。
イリオンは3という数字は、動的な数としている。(動的とは、状態や構成が状況に応じて変化したり、状況に合わせて選択できたりする柔軟性を持っていること。)
これは、想いのことであるとすると、納得が行く。
だからやはり、①が神で、②が光と闇、③は想い、であるとすると、とても数にぴったしとなってすっきりする。
何故三つのものが想いとなるのか、というのは、難しすぎるので人間の理解を超えているのかもしれない。
しかし、想いとは、そこに思考する、考える、意識を持つという存在なくして起こらないわけだから、その“想う″ということはなんらかの三つのもので成り立っているのかもしれない。
これで不思議なのは、何故、創世記では我々の住む地上は最初闇で覆われていたのであろうか、ということになるが、これは地上が最初、闇に支配されていたということなのだろうか。
イリオンは4は物質の数であるとした。地上とは物質の世界である。これは物質の面がすべて闇で覆われているということを示しているのであろうか。
そして物質の闇の広がる水面に向かって神は光が生じるように願うと、そこには光が在った。
神は光を見て良いと想った。神は闇の中に光を生みだし、闇だけであった地上を闇と光に分けたのである。
そして闇がなければ生まれることのなかった光を見て、良いではないか、と想ったのである。
闇がなければ、光が生じることもない、そこに闇があったので、光が生まれた。
悪がなければ、善が生きることもない、そこに悪があったので、善が生まれた。
光と闇、悪と善は対立するもの、相対するもの、「何事も相対的である」と賢者は言ったね。
相対とは、差し向かいで事を成す、対等である、対等で事を行うこと。
これは、悪より光が優れたものであるということではないということを示していないだろうか。
光と闇は等しい価値として対等であり、必ず互いに差し向かわなければ何事も成せないということではないだろうか。
ならば、この世から悪が消え去るとき、また善も同じに消え去ってゆくものである。
人はそれに悲しむであろうか?
悪の無い世界に、わたしたちが生きてゆく意味が無いのだとすれば、悪を成す人はもはや悪を通り越して果てしない悲しみがそこにあることに気づかないであろうか。
戦い合うということ以上に悲惨なことがあるだろうか。悲惨なことは殺されること以上に、人を殺すということだ。何があろうと戦争を肯定してはならない。戦争をするか属国になるかという時、属国になった場合、我々はただひたすらに解放を望み、その精神は“生きる”ことができるが、戦争で多くの人を殺したこの国で生きていくことは、人を殺したことの絶望と自責に自分も死んだようになっても生きなければならないという業苦が死ぬまで続くということだ。過去の教訓が生かされないなら、何のために戦争で多くの人が亡くなり、戦争から帰ってきた人たちが残りの人生を苦しみぬいて生きてきたか。
戦争を繰り返せば、平和ができるのだろうか。
血溜まりの上の自由と平和と幸福の上に我々は立ちたいのか。
人を殺して手に入れた自由と幸福が殺された人たちの絶望と絶叫で出来ているのだ。
誰とも戦ってはならない。
「チベット永遠の書」にはこの上ないと思えるほどの光があり、そしてその光と同じ深さと思えるほどのおぞましい闇が書かれている。
今、この瞬間にも恐ろしい地獄のような苦しみの中にいる者が絶えない世界に生きて、わたしたちはどうすればいいのか。
愛は不義を決して喜ばず、愛はすべてを許す。
わたしたちが、誰かを許さないとき、闇は大きくなるのではないか。
誰かを守るために心に剣を持つとき、わたしたちはその剣によってその光は滅びゆくのではないか。
ほんの少しでも優越感を持つとき、わたしたちは闇の水面を彷徨っている。
わたしたちの闇は深い。
闇の中に光を生じさせることができるのは、わたしたち自身である。