「人が仕事をするのは、それが人の欲求だからだよ」
今日の夢の中で、いや今日のドリームの中で俺か誰かがそんなこと、言うとった、言っとった。
目を覚ました俺は、目を覚まして、なるほどなぁ、と思うた、思った、ったっ。
そうだよなあと俺は思った。ちなみに今こーひをー飲んでーツインのサイロを聴いているーが。ルーガ、ガルルル・
ほんとそうだよなっって。夢の中は時に馬鹿で時に賢い。きらめく西日がね。綺麗だよね。
仕事とは人間の喜びのはずなんだ本来はね。
仕事をするとゆうのは人間の本能であって、本能から来る欲望であったのだなっ。腹痛くなってきたわ。下痢みたい。慣れないこーひーをのんだから。
下痢にも負けず、腹痛にも負けず、俺は書くよ、それが俺の仕事だから、なんつうてなぁ。屁がとまらない。
まあ言い換えたら、なんで人は仕事をするのかといえば、それが人の欲求だからなんだ。同じことゆうてんのか?
俺が言いたいのは、人は仕事が生きてゆくために必要だから仕事をするのだけれども
それは飯を食うためじゃない、自立するためじゃない、それが、人間の潜在的な欲求だからなんだ、ってことだな。ぷぅ。
あ、屁ぇ出たけども、気にしないで読んでいただきたい。
欲望とは、本来、人間を生き物達を喜ばせる為にあるものでもあるのだな。スゥ。
あ、今のすかしっぺとちゃうよ?ちょっと息をついただぁけぇ。失敬だな。
人間の最大三大欲望とは、食欲、性欲、民欲、といわれていたっけの?
民欲とは、人々が自分たちは民であると誇りを持つことで喜びを感じる欲望のことだな。
国家と社会は俺たちが構成してるんだ!という信念を人間が持ちたがるのはこの民欲という本能があるからだな。
国家と社会を構成したいという欲望だ。
そしてここに、ぼくは今日人間の一大欲望として、働欲(どうよく)というのを入れようと思う。
働きたいという欲望があるから、人間は働くんだ、とゆうことだ。
欲望とは、人間を苦しめることもあるし、喜ばせることもある。
欲というものは人間が生まれたときから持ち合わせているもんで、これを完全になくすということは、なかなかできない。
なぜ人は働くのか、と考えたとき、働かなければ生きて行けないから、自分で稼いだ金で生きていかなくてはならないから、と人は漠然と思う。
それが人間として当たり前、当然だという考えを人は持っていると思う。
俺はもう27から働いたことがないので、6年近く働いてない人間だが、そんな俺もそういう精神の縛りのような考えから抜け出すことができないでいる。
漠然とした人間としての義務感から離れることはなかなかできない。
そんな義務感とは、先天的よりも後天的に社会によって作り出されているのではないかと考え続けてきた。
しかし今日のマイドリームの中でそんな観念を覆すことをさらっと言われた、または潜在意識の俺が自分でゆうた。
人間が働くことのは、社会に暮らす一員としての義務からではなく、ただ、欲求から来てるんだということは。
それは後天的ではなく、先天的にあるものってことだ。
人間は働かねばならないから働いているのではない、働きたいという欲求があるから働いてるんだ、とゆうわけだな。
だから人間は仕事から多くの喜びを感じながら生きることが多い。
しかし人間は仕事から多くの苦しみを感じながら生きることも多い。
欲望とは喜びだけが与えられないような仕組みとなっている。
食欲は食べ過ぎれば不快を催すし、性欲も精力を使いすぎると廃人のように虚脱に陥るし、眠欲も寝すぎたらかえって疲れて頭も痛くなる、そして何より欲求が満たされないという欲求不満から人は大いに苦しむ。
逆にゆうとその欲求不満の苦しみがあるからこそ、それが満たされたときに快楽を生じる。
欲望とは苦しみと喜びを行ったり来たりするものである。
コーヒーを飲みたいという欲望からコーヒーを飲んで美味しくてテンションも上がったが、それもつかの間、早くもカフェイン摂取による虚脱と胃のもたれによる不快感が押し寄せて、その上、下痢気味になって屁をたくさんこきながら文字を打ち込むという恥ずかしいことをしている自分を客観的に見て打ち込むという欲望を満たしたがゆえの苦しみを俺は私は今味わっていることから見てもよくお分かりかね。
早く続きを書きたいからトイレ行くのも我慢してるんよ。しとるんよ、わしはな。
これが、人間の欲望とゆうものである。人間の欲求である。
やはりわしはトイレに行ってくるぞ。しばし待たれ。よ。
ふぅ、約10分で帰ってこれた。あーびっくりした、下痢の痛みで駆け込めば便秘だった。
俺の体は、宇宙だよな。な?
排泄したいという欲求から排泄したけれども、糞が便器に落ちて跳ね返る水をケツに受けたときのあの苦しみ、ここにも欲求の相対性というものがあるというのをお分かりかね?
できれば快便を排泄したいという欲求が本能的に人間に潜在している。
それが人間の快楽であり、喜びであり、幸福であるからである。
快便を排泄できない事は不満であり、苦痛であり、不幸である。
これを仕事に置き換えれば快き仕事に就くことは人間の快楽であり喜びであり幸福である。
一方、快くない嫌な仕事、やりたくない仕事に就くことは不満であり苦痛であり不幸である。
人間は本能的に働きたいという欲求があるが、それはどんな仕事でもいいのではなく、やりたい仕事に就きたいという欲求があるとゆうわけだな。
しかし世界を見渡せば、ほんとうにやりたい仕事に就けてる人たちはどれほどいるのだろう。
仕事をすることに日々喜びを持って遣り甲斐を感じて輝きながら仕事をしている人たちはいかにも幸福そうに見える。
僕はそんな仕事をしたことがない。
それらの仕事はやりたい仕事ではなく、やらなければならないと思って無理にやっている仕事ばかりだった。
仕事中は地獄のようにしか思えなくて涙をぽたぽた垂れ流しながらしていたこともあった。
やりたくない仕事に喜びを見出すことは難しかった。
つらいことと同じ分だけ喜びを感じられることがあったなら、仕事はやっていけたかもしれない。
でもあのまま地獄のような仕事をどうしても続けなくてはならないのなら、僕に残された道は自殺しかなかったかもしれない。
それほどやりたくない仕事を続けることがどれほど苦しくて絶望的になるか僕はよくわかっている。
そして今の僕は、やりたくない仕事をやらなくても暮らして行けるから希望を持って生きているかといえば
そうではなく、やりたい仕事をやって生きて行けないという絶望を感じて生きている。
やりたい仕事をやって生きるというのは、人間にとって不可欠な生きるためにどうしても必要なことだからだ。必要な欲求だな。
人間は仕事をやるべきなのではなく、やりたい仕事をやるべきなんだと僕は思う。
一流大学を卒業して一流企業には入れても、それがやりたい仕事でなければ、空虚を感じるのは当然だろう。
一方、稼ぎが半分以下の肉体労働者の額に流れ落ちる汗がきらめいて見えるのは、彼らが仕事に遣り甲斐を感じて生きているからだろう。
人間の幸福とは、給与の量でも安定した暮らしにあるのでもない。やりたい仕事に就くことにあるのではないか。
それは稼ぎがある、ないというのではなく、やりたいことをやって生きていくことが人間の幸福なのではあるまいか。
遣り甲斐を感じられることをやって生きていくことを人間は欲求している。
何人もでやる仕事となると、もっとこれは重要になってくる。
遣り甲斐を感じて仕事をしている人間の中に、一人でも遣り甲斐を感じられずにいつも暗い顔をして仕事をしている人間がいれば、周りの人間もつらくなってくるだろう。
遣り甲斐を感じてするほうが仕事はうまくいくものだ。
嫌々やっているレジのねえちゃんやあんちゃんの冷めた接客で客は気分が落ち込んでしまったりするものだ。
遣り甲斐を感じずに無理に仕事をやっている人間は、人を幸福にするのはおろか、人を嫌な気持ちにさせたり悲しませることになる。
一方、遣り甲斐を感じてやってる人間の笑顔は本物だから、それを見て良い気分になるのが人間だろう。
やりたくない仕事を無理にやっていれば人間たちが幸福になると僕は思えない。
やりたくない仕事をやっている人間のおかげで誰かが幸福になるのだろうか?
たとえば、下水工事の仕事をやりたくないけどやっている人のおかげで僕らは快適に過ごせるのだろうか?
彼らの毎日が地獄でも?
人々の苦痛の上に人々の幸福が成り立つのだろうか。
僕はどうしてもそう感じられない。
下水工事が誰もがやりたくないのなら、人間は糞がしたくなればバケツに糞をして、それを毎日野原へ埋めに行けばいいのではないか?
誰かの幸福のために誰かが嫌々地獄を味わっているのはおかしい。
人間は確かに働くためにも生まれてきた。しかしそれは喜びを働くことから感じ取るためだ。
ただただ苦痛なだけの仕事をするために人は生まれてくるわけじゃない。
苦痛なだけであっても働けという世界は、やりたい仕事をやれている人の心にも影を落とす。
つまり、その考えがすべての希望を奪っているのだな。
何故ならやりたい仕事に就けている人も、多くのやりたい仕事に就けないで苦痛な毎日を過ごしている人を目にして、気分が落ち込んでつらくなるからだ。
このままでは世界を覆う影は薄まらず、過労死や自殺がなくなることがない。
嫌な仕事をがんばることは、美徳でもなんでもない、僕は嫌なことを嫌々やっている人間を見ると落ち込んでしまうからだ。
無理をし続けて絶望して自殺してなんになるだろう?
とにかくなんでもいいから働けという考えは、自殺者を増やしていく考えなんだ。
みんな生きていくために嫌な仕事をやっているんだという考えが人を自殺に追い込んでる考えだと気づいてほしいんだ。
生きていくためにどうしても仕事をしなくてはならないという考えから自殺をしてしまう人が多いんだよ。
仕事をしていないだけで人間として見てもらえないことも多いからね。
仕事は義務ではない、人間を幸福にするものなんだ。
そこに遣り甲斐を少しも感じることができないのならそれは強制労働であり、強迫観念労働で、自ら入る家畜小屋のようであり、美徳を感じるのならいいが、感じられないなら、それは地獄以外の何ものでもない。
働かねばならない生き物ではなく、働きたい生き物が人間だ、自分に合った仕事をする、みんながそうなるまで個人の幸福はないぞ。マジで。
自分が嫌な仕事を無理にがんばってるからといって、働いてない人間を悪く言うのはやめなさい。
俺だって、働きたいんだよ、やりたい仕事をね。
本能に逆らうことはできないさ。
俺の喜びだって、働くことにあるんだ。働かずにぐうたらやってるこの生活にあるわけないだろう。
誰の幸せもないさ、働かない暮らしになんて。みんな働きたいんだ。生き生きと、輝いて。
誰かを喜ばしたいんだ。誰かのためになりたい、誰かの役に立ちたい、それが人間の生まれたときからの、いや生まれる前からの欲求だ。
母親のお腹で眠る胎児も母親を喜ばせていることを解るからあんなにすやすやと安心して眠れるんだ。
みんながやりたい仕事に就くという世界はみんなが幸福になる世界だ、君がほんとうに幸福になりたいとゆうなら仕事をしていない人間を受け入れないとな。な。
じゃないと君はいつまでたっても働いてない俺を見てイライラしてしまうんだからね。
今はみんな働くべきって世界だけど、俺はやりたい仕事をやってる人がやりたい仕事がまだ見つからない人たちを食わしていく世界になればいいなと思うよ。
それも嫌々じゃなく、自らそう思って、やりたい仕事の見つからない人たちを養ってゆくんだ。
僕がやりたい仕事ができたら喜んでやりたい仕事の見つからない人たちを養っていきたい。
みんな一緒に住めば家族なんだから一緒に暮らしたことのない家族を養ってるようなものさ。
生きてる人間全員に同じだけの十分な生活費が与えられる世界ならいいんだろうけど。
俺の鬱もこれは病気なんだと思うと暗く沈んでしまうけど、これは俺の仕事なんだと思えば俺の仕事をがんばってるとも思えるし、ぼくは嫌々鬱をやってはいないんだ、ぼくは鬱をやりたくてやってると感じるんだよ。
苦しいときも多いけど、欝のおかげで鬱じゃないとできない何かをやれる気がしてる。
鬱だって何かの役に立つんだ。
人工的な薬で鬱を抑えようとはしない、鬱をできるだけのびのびとさせてやりたい。
のびのびと鬱でいたいよ。
これは俺の生き方なんだ。それを否定されることはほんとうにつらい。
ぼくは確かに絶望的でもあるけど、同時にきっと普通に働ける人間であったら見えなかっただろう希望を世界に感じてるんだ。
ものすごく大きな希望を願うからこそ、同時にとてつもない底のない絶望を欲してしまうんだ。
これは「チベット永遠の書」を読んでもらえばわかると思うんだけど、世界のあまりのディープさに感動するんだ。
鬱はとても深い闇だ、深い闇の中にずっといるからこそ切実にこの世のほんとうの光を欲求するのさ。
君も鬱になってごらんよ、ゆっくりだけれど価値観は大きく変わってくるはずだ。
一緒に絶望しよう。
闇の中で待ってるよ。
アデュウ。
またね。
最後のエデン
おちこんだときにわたしはたまに思うことがあるのですが
うん
ふたりで無人島に行って暮らしたいなって
彼はおちこんだときぼくをつれてふたりで無人島へ行きたいとたまに思うと言った。(彼は僕に恋愛感情を持っていない)
すごくうれしいです、わたしも行きたいです、あ、でもみちたもつれて
みちたもつれてふたりと一匹で行きましょう。三人で
みちたはわたしがいなくなると路頭に迷ってしまうので
ではわたしもなんか連れて行きます。ラッコかマナティでも
水族館から盗ってくるんですか?
いや、島にいるラッコかマナティでも。一緒に泳ぐんです
おなかの上に貝を乗せて石でカンっカンっってするんですね
そうそう、それでムシャムシャって食べるんです
家は造るんですか?
そうですね、造るなんかがあれば。洞窟でもあればそこに住みたいですね
いいですね
なんて嬉しいことなんだろう彼はおちこんだときにはぼくさえいればそれでいいと思うと言ってくれた。(彼は僕に特別な感情を持たない)
その島でわたしたちはアダムとエバになりましょう
リンゴを食べてはいけませんね
リンゴを食べないと自由になれませんよ
でもリンゴを食べたら島から追い出されてしまう
ではリンゴを食べずにその島の神の支配下で暮らしましょう
はい
実はその島の神は蛇で神はわたしたちの目が開けるようにとリンゴを食べるようにぼくに言った。
ぼくはそれをわかっていたけれど、彼とぼくとみちたの楽園から追い出されるのは嫌だったからぼくは食べなかった。
彼もきっとそれを知ってもリンゴを食べようとしないだろう。
ぼくらは眠るようにしてこの偽者の神が支配するエデンで暮らすことを決めた。
そこは終わりの島で最後のエデンだった。
ぼくが死んだように眠るようにして目を覚ますのはそのためだろう。
ぼくの愛するきみはぼくを愛していない、そんなきみはぼくを無人島へ誘い、ぼくは彼の手をとってみちたを抱いて何も見えない闇の中、小さな船を出した。
うん
ふたりで無人島に行って暮らしたいなって
彼はおちこんだときぼくをつれてふたりで無人島へ行きたいとたまに思うと言った。(彼は僕に恋愛感情を持っていない)
すごくうれしいです、わたしも行きたいです、あ、でもみちたもつれて
みちたもつれてふたりと一匹で行きましょう。三人で
みちたはわたしがいなくなると路頭に迷ってしまうので
ではわたしもなんか連れて行きます。ラッコかマナティでも
水族館から盗ってくるんですか?
いや、島にいるラッコかマナティでも。一緒に泳ぐんです
おなかの上に貝を乗せて石でカンっカンっってするんですね
そうそう、それでムシャムシャって食べるんです
家は造るんですか?
そうですね、造るなんかがあれば。洞窟でもあればそこに住みたいですね
いいですね
なんて嬉しいことなんだろう彼はおちこんだときにはぼくさえいればそれでいいと思うと言ってくれた。(彼は僕に特別な感情を持たない)
その島でわたしたちはアダムとエバになりましょう
リンゴを食べてはいけませんね
リンゴを食べないと自由になれませんよ
でもリンゴを食べたら島から追い出されてしまう
ではリンゴを食べずにその島の神の支配下で暮らしましょう
はい
実はその島の神は蛇で神はわたしたちの目が開けるようにとリンゴを食べるようにぼくに言った。
ぼくはそれをわかっていたけれど、彼とぼくとみちたの楽園から追い出されるのは嫌だったからぼくは食べなかった。
彼もきっとそれを知ってもリンゴを食べようとしないだろう。
ぼくらは眠るようにしてこの偽者の神が支配するエデンで暮らすことを決めた。
そこは終わりの島で最後のエデンだった。
ぼくが死んだように眠るようにして目を覚ますのはそのためだろう。
ぼくの愛するきみはぼくを愛していない、そんなきみはぼくを無人島へ誘い、ぼくは彼の手をとってみちたを抱いて何も見えない闇の中、小さな船を出した。
Aphex Twin ~ ぼくのドラックス~
んでなんでこんなに美しいんだろうAphex Twinは。
俺の汚れた小さく透明な心臓がなんと癒されることだろ。だろっ。
もし君がまだAphex Twinの美しさに気づけないならちゃんと聴いてないからだと思うんだ。ただ。
でももし良かったら君はAphex Twinの「Drukqs」という二枚組みのアルバムを一日中流して。流して?
まぁ無理、言わないけどさァ、なんて素晴らしいんだろうって今素晴らしいって言ったけど、ほんとにこのアルバムって言葉に表現できない美しさがあるんぢょ。あるんだぢょ。誰なんだ俺は?
ほんとうに俺って誰なんだ?教えてくれよ俺、誰なんだ?
思えば俺の記憶にない喪失は母親だった。
エイフェックス・ツインはそれが自分の双子の兄なんだ。
僕は母の記憶はない、でも僕は覚えている、僕が覚えていないところの僕が絶対覚えてるんだお母さんのことをちゃんと。それがわかるんだ。
僕はそれが僕をあたたかい胎内で十月十日ほど育て一緒にすごした母親だった。
ツインはその同じ間に母親の胎内で一番近くで一緒にすごした兄だった。
いつ死んでしまったのかはわからないけど、もしかしたら母親の胎内でツインは兄の喪失を経験したのかもしれない。
どっちにしたって僕より早い喪失を経験している。
生まれる前にとても大事な存在の喪失を経験してしまったら、もしくは、ずっと一緒だった存在が生まれてきたら消えて居なくなってたら、いったいどんな悲しみがそこにあるんだろう?
いったいどんな気持ちなんだろう?いったいどんな気持ちで生きて来たんだろう、どんな気持ちで生きてるんだろう。
ツインの音楽を聴いてると、そんな思いにならずにはいられない。
僕がツインの何枚かのアルバムを聴いて率直に感じたのは本当に深い悲しみと愛情の深さだ。
最初に聴いたのはAFX名義の「Chosen Lords」というアルバムで最初に聴いたときはなかなか良いと思ったもののそこにあるとんでもなく深い感情を僕は読み取ることができなかった。
でも二回目に聴くとそれはわかった。そして三回目に聴くと、もっとそれはわかった。
それを伝えるだけでこの世界のどこにも希望を見出せない人々が癒される。
それは多くの人じゃなくてたった一人でもいいと思うんだ、そのたった一人からありがとうって気持ちが返ってくる。
自由な表現ほど人を不快にさせることも多いかもしれないが、でも何かに縛られてる場所での表現にきっと人は心から感動できない。
もしかしたら人を強烈に不快にさせる人ほど強烈に人を感動させる人かも知れない。
いや、きっとそうなんだ。
いや、まさしく、そうだ。
それは人間の本能的にあるような理性に向かって、そんなもん、超えてゆこうよって言ってるようなものだ。
それはつまり神のような存在に向かって、ぼくはあなたを超えるために生まれてきたよ、って言ってるようなもんだ。
理性さえ人間の作り出した縛りなのかもしれないと感じるなら、それはきっと縛りなんだろう。
人を不快にさせずに人を感動させることはできないと言えると思うんだ。
縛りがあることは悲しいことだよな。憧れるよ、自由な人。
そりゃ俺だって自由になりたいさ。
奇形児を使って芸術作品を作り世界中の多くの人から大非難されたりとかね。
なんだろな、生理的嫌悪ってのは。
妬みを含む嫌悪とかね。人間って面白いよな。
僕はツインがそんな人だった気がする。
僕は彼の変態性に嫌悪しながら妬んでいたんだ。
なんて自由なやつなんだ!ってどこかで憧れてた。
彼を知ることは、彼を良いと認めてしまうことは僕は不快だったはずだ、悔しかったはずだ。
僕はそうやっておそらく10年近い時を彼を認めようとせず彼を妬み続けて避けてきた。
でもなんということなんだろう、彼の音楽は彼の人間性はこれほど美しかったなんて。
ぼくはほんとに一面しか見ていなかった。
何曲かを視聴しただけで好きではないと遮断していた。
彼の音楽はアルバムで通して聴かなければならない。
それに大体の曲が一度聴いただけではそのよさをわかれない。奥の深い曲ばかりなんだ。
「Drukqs」はまさに全体的にそういうアルバムだと思う。
最初聴いたときはなんてカオスなアルバムなんだって思った。
でも何度も一日中聴いていくほど、なんと味の深いアルバムなんだと感じるようになった。
僕の愛するKhonnorからThe Flashbulbに至るまで、ああそれとnikakoiやrobokonekoに至るまでああみんなツインが大好きなんじゃんってわかった。
僕は本当にAphex Twinを愛しちゃった・・・・・・。
もう悔しいという気持ちはない。妬みは確かにあるが。
俺の今特に一番好きな「ドラックス」のくだりは、一枚目の6曲目のGwely Mernansから7曲目Bbydhyonchordに入るところが一番好きです。
彼の音楽は宇宙でありぼくらすべてにそんざいしているせつなすぎる遠い記憶だ。
どんな奇人天才も影響しあわずには生きて行けないということもわかったよ。
愛情の深さは、絶望の深さでもあるってことなんだ。
君が深い愛情を求めるなら、同時に深い絶望も知ることになる。
求めずにはいられない世界だと僕は思うよ。
だから絶望を避けて生きることはできないけれど、そのかわり誰のもとにも優しい時間が与えられてほしいと思う。
Drukqsは感情を越えた感情のようなものを感じるアルバムかもしれない。
このアルバムで重要な曲であることがわかる何度聴いてもカオスさの残る奥深い曲を今日は貼って記事を終えようと思う。
でもできればみんなには是非アルバムを通して何度も聴いていただきたい。
だからやっぱ貼るのはやめようかなって思ってる。
重要な曲とは二枚目の13曲目だけどね。
じゃあやっぱあえて、始まりのほうの好きな曲にしようかな。
んじゃ、そうしよう。ああ、でもなぁ・・・。難しいところだ。
もろに感情が伝わってくる曲も多いが、そうじゃない曲も多い。
今日はそうじゃないカオスなほうの曲を貼りたいと思うんだ。
だからじゃあやっぱ、う~ん、でもなぁ・・・重要な曲を先に聴かせるっていうのはどうなんだろう・・・。
う~んでもやっぱり聴かせたいっていうのもあるし・・・あ~でもなぁ~どうしようっかな~。
まぁいいっかぁ~俺この曲やっぱ好きだな。
じゃあそのやっぱ重要だと思われる二枚目の13曲目を貼って記事を終えようと思う。
最後に僕は言っちゃいけないようなことを言っちゃうと僕は小説家をまだ今でも目指している人間だが、小説を読めない、書けないほど落ち込んでしまっているときに救ってくれたのは、音楽だった。だから僕は音楽に本当に感謝している。ありがとう。僕の愛する音楽たち。
Aphex Twin - Ziggomatic 17
「やっと再会できたね。おかえり」
俺の汚れた小さく透明な心臓がなんと癒されることだろ。だろっ。
もし君がまだAphex Twinの美しさに気づけないならちゃんと聴いてないからだと思うんだ。ただ。
でももし良かったら君はAphex Twinの「Drukqs」という二枚組みのアルバムを一日中流して。流して?
まぁ無理、言わないけどさァ、なんて素晴らしいんだろうって今素晴らしいって言ったけど、ほんとにこのアルバムって言葉に表現できない美しさがあるんぢょ。あるんだぢょ。誰なんだ俺は?
ほんとうに俺って誰なんだ?教えてくれよ俺、誰なんだ?
思えば俺の記憶にない喪失は母親だった。
エイフェックス・ツインはそれが自分の双子の兄なんだ。
僕は母の記憶はない、でも僕は覚えている、僕が覚えていないところの僕が絶対覚えてるんだお母さんのことをちゃんと。それがわかるんだ。
僕はそれが僕をあたたかい胎内で十月十日ほど育て一緒にすごした母親だった。
ツインはその同じ間に母親の胎内で一番近くで一緒にすごした兄だった。
いつ死んでしまったのかはわからないけど、もしかしたら母親の胎内でツインは兄の喪失を経験したのかもしれない。
どっちにしたって僕より早い喪失を経験している。
生まれる前にとても大事な存在の喪失を経験してしまったら、もしくは、ずっと一緒だった存在が生まれてきたら消えて居なくなってたら、いったいどんな悲しみがそこにあるんだろう?
いったいどんな気持ちなんだろう?いったいどんな気持ちで生きて来たんだろう、どんな気持ちで生きてるんだろう。
ツインの音楽を聴いてると、そんな思いにならずにはいられない。
僕がツインの何枚かのアルバムを聴いて率直に感じたのは本当に深い悲しみと愛情の深さだ。
最初に聴いたのはAFX名義の「Chosen Lords」というアルバムで最初に聴いたときはなかなか良いと思ったもののそこにあるとんでもなく深い感情を僕は読み取ることができなかった。
でも二回目に聴くとそれはわかった。そして三回目に聴くと、もっとそれはわかった。
それを伝えるだけでこの世界のどこにも希望を見出せない人々が癒される。
それは多くの人じゃなくてたった一人でもいいと思うんだ、そのたった一人からありがとうって気持ちが返ってくる。
自由な表現ほど人を不快にさせることも多いかもしれないが、でも何かに縛られてる場所での表現にきっと人は心から感動できない。
もしかしたら人を強烈に不快にさせる人ほど強烈に人を感動させる人かも知れない。
いや、きっとそうなんだ。
いや、まさしく、そうだ。
それは人間の本能的にあるような理性に向かって、そんなもん、超えてゆこうよって言ってるようなものだ。
それはつまり神のような存在に向かって、ぼくはあなたを超えるために生まれてきたよ、って言ってるようなもんだ。
理性さえ人間の作り出した縛りなのかもしれないと感じるなら、それはきっと縛りなんだろう。
人を不快にさせずに人を感動させることはできないと言えると思うんだ。
縛りがあることは悲しいことだよな。憧れるよ、自由な人。
そりゃ俺だって自由になりたいさ。
奇形児を使って芸術作品を作り世界中の多くの人から大非難されたりとかね。
なんだろな、生理的嫌悪ってのは。
妬みを含む嫌悪とかね。人間って面白いよな。
僕はツインがそんな人だった気がする。
僕は彼の変態性に嫌悪しながら妬んでいたんだ。
なんて自由なやつなんだ!ってどこかで憧れてた。
彼を知ることは、彼を良いと認めてしまうことは僕は不快だったはずだ、悔しかったはずだ。
僕はそうやっておそらく10年近い時を彼を認めようとせず彼を妬み続けて避けてきた。
でもなんということなんだろう、彼の音楽は彼の人間性はこれほど美しかったなんて。
ぼくはほんとに一面しか見ていなかった。
何曲かを視聴しただけで好きではないと遮断していた。
彼の音楽はアルバムで通して聴かなければならない。
それに大体の曲が一度聴いただけではそのよさをわかれない。奥の深い曲ばかりなんだ。
「Drukqs」はまさに全体的にそういうアルバムだと思う。
最初聴いたときはなんてカオスなアルバムなんだって思った。
でも何度も一日中聴いていくほど、なんと味の深いアルバムなんだと感じるようになった。
僕の愛するKhonnorからThe Flashbulbに至るまで、ああそれとnikakoiやrobokonekoに至るまでああみんなツインが大好きなんじゃんってわかった。
僕は本当にAphex Twinを愛しちゃった・・・・・・。
もう悔しいという気持ちはない。妬みは確かにあるが。
俺の今特に一番好きな「ドラックス」のくだりは、一枚目の6曲目のGwely Mernansから7曲目Bbydhyonchordに入るところが一番好きです。
彼の音楽は宇宙でありぼくらすべてにそんざいしているせつなすぎる遠い記憶だ。
どんな奇人天才も影響しあわずには生きて行けないということもわかったよ。
愛情の深さは、絶望の深さでもあるってことなんだ。
君が深い愛情を求めるなら、同時に深い絶望も知ることになる。
求めずにはいられない世界だと僕は思うよ。
だから絶望を避けて生きることはできないけれど、そのかわり誰のもとにも優しい時間が与えられてほしいと思う。
Drukqsは感情を越えた感情のようなものを感じるアルバムかもしれない。
このアルバムで重要な曲であることがわかる何度聴いてもカオスさの残る奥深い曲を今日は貼って記事を終えようと思う。
でもできればみんなには是非アルバムを通して何度も聴いていただきたい。
だからやっぱ貼るのはやめようかなって思ってる。
重要な曲とは二枚目の13曲目だけどね。
じゃあやっぱあえて、始まりのほうの好きな曲にしようかな。
んじゃ、そうしよう。ああ、でもなぁ・・・。難しいところだ。
もろに感情が伝わってくる曲も多いが、そうじゃない曲も多い。
今日はそうじゃないカオスなほうの曲を貼りたいと思うんだ。
だからじゃあやっぱ、う~ん、でもなぁ・・・重要な曲を先に聴かせるっていうのはどうなんだろう・・・。
う~んでもやっぱり聴かせたいっていうのもあるし・・・あ~でもなぁ~どうしようっかな~。
まぁいいっかぁ~俺この曲やっぱ好きだな。
じゃあそのやっぱ重要だと思われる二枚目の13曲目を貼って記事を終えようと思う。
最後に僕は言っちゃいけないようなことを言っちゃうと僕は小説家をまだ今でも目指している人間だが、小説を読めない、書けないほど落ち込んでしまっているときに救ってくれたのは、音楽だった。だから僕は音楽に本当に感謝している。ありがとう。僕の愛する音楽たち。
Aphex Twin - Ziggomatic 17
「やっと再会できたね。おかえり」
きおく
わたしの顔は醜いので俺は絶望的になった。なんとかして禿げたいとわたしは思わなかった俺も。泣きながら死んだ夢を見た日もあったかもしれない。それはあなたであった。どこからやってきたのかカモメがわたしの頭の上に載っていたと思う。そしてわたしはこう言ったあなたも。どうしてもこのカモメはわたしなんだ、と。蔓が巻かれた体であなたは言ったわたしも。今これから言おうとしている。誰からの声が聞こえなかった日が来なかった。庭には海辺があって小さなプランターの中には今日の晩御飯が入っていた気がしてるが本当なそんなことはなく横にあった杉の木は木のくずを枝で削っていたという記憶だけが記憶としてない場所に寝ていてそれはあなたが聞いている夜に聞こえている。なけなしの金を握ってあなたは会いに来てくれた俺も。嬉しかったけれども、思い出してカモメなんだと俺も。ここにはわたしとあなたしかいなかったと覚えている俺も。小さな庭には大きなプランターがあってそこにあなたは寝ていた俺も。あなたは言おうとしている、ここにいなかった日はなかったよ俺も。あなたの顔は美しいのでわたしは絶望的になった俺も。禿げたらいいんじゃないだろうかと俺は思わなかったわたしは。山を海に投げたらもう山は山ではないけれど海ももう海じゃない。じゃあそれがなんだと言うと、禿げたらいいんじゃないだろうか、あなたも、俺、も、わたしは。大きな庭には小さなプランターがあって小さなあなたはそこに入った小さなわたしを見ている俺は。小さな海と小さな山がある、小さなあなたは小さなわたしに向かって微笑んでいる俺は、何か言おうとしているきおくではないきおくだけがきおくに感じるきおくを胸に抱いている俺というきおくはちいさなわたしに向かって微笑んでいるちいさなあなたにきおくを持ってきたことを今忘れようとしているきおくがとおくなってゆかないままわたしは離れてゆく俺はなにかを言おうとしているちいさなあなたとちいさなわたしがいるきおくを胸に抱いている俺に何か言おうとしているちいさなわたしとちいさなあなた。
Aphex Twin- Nanou 2
Aphex Twin- Nanou 2
LightgreenDreams
起きるのがひどく億劫で起きてすぐにお姉ちゃんといっしょに向かったけれど、取れた席は前から7番目くらいだった。
新作のジャケットに合わせて黄緑色の綺麗なライトが照らしている。
ツインが出てきた!
でも少し遠い。目の悪いわたしはツインがぼやけて見える。「一番前で見たかった・・・」そうわたしが言うとお姉ちゃんは「え~それやったらもっとはよ起きたらよかったのに」って。「ううぅ・・・」そう思って一番前の席を羨ましげに見つめた。
すると驚いたことに、一番前の真ん中の席にはお父さんとお兄ちゃんが座っていた。
お父さんもお兄ちゃんもエイフェックス・ツインが好きだったのか!(笑)とびっくりした。
もうライブが始まりそうだ。
よく見てみるとお父さんはセッティングで鳴らす機材の音のでかさに混乱して後ろの席に行きたそうに何度も後ろを振り返ったりしていた。
あっとわたしは思い、それならと立ち上がってお父さんに向かって「お父さん!」と呼んだ。
振り返ったお父さんに「席代わる?!」と言った。
お父さんは喜んで代わってくれた。
やった~という思いで一番前の席へ行き、兄の左となりの席へ着こうとしたら、なんとその席の左となりにはツインが座っていた。
ツインは腕をだらんとわたしの座る席にもたせ掛けていて、邪魔だ。わたしはなんと言ってよいかわからず無言でその手を押しのけて座った。
すると「ん?」という顔のツインはこちらを伺っている。わたしが恥ずかしそうにしていると兄が右から何故か挑戦的な顔でツインに向かってなんか言っている。ツインが好きなくせにそういったひねくれた態度を取るのは兄に良くありがちなことだ。
しかしツインは特に気にも障らずといった顔でこれから始まるライブの事で頭がいっぱいの様子。
気づくとわたしは差し出されたツインの右手の人差し指を握っていた。とても嬉しかった。ツインとは何か深い縁を感じる。
ツインは思ったより優しかった。黄緑色の優しいライトに照らされながら家族みんなでツインのライブを見た。
新作のジャケットに合わせて黄緑色の綺麗なライトが照らしている。
ツインが出てきた!
でも少し遠い。目の悪いわたしはツインがぼやけて見える。「一番前で見たかった・・・」そうわたしが言うとお姉ちゃんは「え~それやったらもっとはよ起きたらよかったのに」って。「ううぅ・・・」そう思って一番前の席を羨ましげに見つめた。
すると驚いたことに、一番前の真ん中の席にはお父さんとお兄ちゃんが座っていた。
お父さんもお兄ちゃんもエイフェックス・ツインが好きだったのか!(笑)とびっくりした。
もうライブが始まりそうだ。
よく見てみるとお父さんはセッティングで鳴らす機材の音のでかさに混乱して後ろの席に行きたそうに何度も後ろを振り返ったりしていた。
あっとわたしは思い、それならと立ち上がってお父さんに向かって「お父さん!」と呼んだ。
振り返ったお父さんに「席代わる?!」と言った。
お父さんは喜んで代わってくれた。
やった~という思いで一番前の席へ行き、兄の左となりの席へ着こうとしたら、なんとその席の左となりにはツインが座っていた。
ツインは腕をだらんとわたしの座る席にもたせ掛けていて、邪魔だ。わたしはなんと言ってよいかわからず無言でその手を押しのけて座った。
すると「ん?」という顔のツインはこちらを伺っている。わたしが恥ずかしそうにしていると兄が右から何故か挑戦的な顔でツインに向かってなんか言っている。ツインが好きなくせにそういったひねくれた態度を取るのは兄に良くありがちなことだ。
しかしツインは特に気にも障らずといった顔でこれから始まるライブの事で頭がいっぱいの様子。
気づくとわたしは差し出されたツインの右手の人差し指を握っていた。とても嬉しかった。ツインとは何か深い縁を感じる。
ツインは思ったより優しかった。黄緑色の優しいライトに照らされながら家族みんなでツインのライブを見た。
Come to Daddy
昨日はとても絶望的な気持ちになった。今も絶望的だ。僕の好きな人は僕を好きだと言ってくれる。問いかければ毎日でも言ってくれるとても優しい人だ。彼は僕に子供ができたら結婚すると言ってくれた。それはなぜかと訊いたら彼は子供のことが気がかりだし、子供一人に責任を押し付けたくない、と応えた。僕はそれを聞いてからずっと絶望的な気持ちでいる。彼が僕と結婚する理由の中にはただのひとつも僕に関しての理由はなかった。僕が心配だからとか、僕が好きだからとかいった理由はどこにもなかった。彼が僕と結婚する理由は子供に対しての想いだけだった。僕は決して幸せになりたいとは思ってないけれど僕の将来に待ち受けているかもしれない奇妙な苦しみを思うとひどく沈んだ。僕はきっと彼の子供を愛することはできないだろう。僕の愛する彼は僕よりも子供を愛しているのだから。僕はきっと子供に嫉妬して虐待をするだろう。そして彼を恨み続けるだろう。僕の子供への僕の愛を奪った彼を。そして彼への愛を奪った僕と彼の子供を。僕は決心をした。もし、僕に子供ができたら、僕はこの子供はほかの男の子供だと言おう。それは彼が僕の子供に関心を持たないためだ。僕と彼の子供が僕だけの子供になるためだ。そして子供にこっそり僕は言う、おまえの父親はほかにいるのだと。でもパパには内緒ね、パパはそのことを知らないの、ママはパパを傷つけたくないの。すると子供はそれからは彼を哀れみの想いで眺めることだろう。これは僕の数十年かけてやり遂げる報復である。そして子供が30歳を過ぎれば僕は本当のことを教えるんだ、お前の父親は実はパパだったの、ってね。子供は僕を恨むだろう、そして何十年と父親を哀れみの顔で見続けた自分に対し言いようのない悲しみと憎しみに泣くだろう。僕は彼と、彼の子供に報復するために今、やっと、生きてゆく意味を実感し、希望に充ち満ちている。
僕はそんな君と青空へ延びて行く階段を上ってゆく夢を見る。
僕はそんな君と青空へ延びて行く階段を上ってゆく夢を見る。
希望
どいつのせいか知らないが不整脈が酷くなってきてしまった。
お前は多くの人間がやりたくないことをやって生きているから俺にもやりたくないことをやって生きろと言いたいんだろうが、何で俺は多くの人間がやっているからって同じことをやらないといけないんだ?
やりたくないことをやって生きている人間とやりたくないことはやらずに生きてる人間の数の統計を取ったのか?
実際わからないだろう、やりたくないことをやらずに生きてる人間のほうが一人多いかもしれないじゃないか。
やりたくないことをやって、やりたいこともやって生きている人間とやりたくないことをやらず、やりたいこともやらないで生きている人間とやりたくないことをやらずに、やりたいことはないから何もやらないで生きている人間がいる、俺は三番目に近い。
お前は俺に非難するということはきっと、やりたくないことをやってるがために、やりたいことをすることができないで日々悶々としている人間なのか?
だったら俺はお前に言いたい、やりたいことがあるだけ、まだいいじゃないか。
いつかやりたいことをやれる日が来るかもしれないという楽しみが人生にあるじゃないか。
俺はやりたいことなんてなんにもないんだよ。
死にたくもないし、だから息をして飯を食って死までの時間をただつぶしているだけだよ。
もし俺の生き方がお前の生き方より楽に映って腹が立つというなら、お前は楽を手に入れるために、俺と同じ人生を歩む気はあるか?
ただ息をして死がやってくるまで人の税金で飯を食って何もしないで生きる人生を歩む気はあるか。
歩む気があるなら、お前はまず働く気力を失うほどの絶望を味わわなくてはならない、そのためには今かろうじて働く気力があるから働いてるおまえはさらに苦しむことになるだろうがそれはお前が楽になるためだ。
お前は俺のように楽に生きるために、今以上の苦しみを待ち受けていれば良いんだ。
お前も楽に生きられるよ、俺のようにね、やりたくないことはやらないで人の金で生きることができる。
俺は別に人の金で生きていくことをやりたいわけじゃないからね、でも別にやりたくないことでもないからこうしてこの生き方で生きてるんだ。
でも人の金で生きてると、人の金で生きてはいない人間にはない苦しみがある。
こうしてお前に非難されることもひとつの苦しみだ。
人の金で生きていくことの罪悪感やみじめさはもうずっと消えることも薄れることもないだろう。
でもその苦しみよりも俺は働くことが苦しいからこっちを選んでるんだ。
お前はそんな苦しみよりもやりたくない仕事をして生きるほうが苦しいと思ってるからそんな非難をするんだろうが、それはお前がこの俺の生き方を経験してから言え。
そして本当にこっちが楽だと思うならお前は俺を非難したらいい、けど俺はそんなお前を見下すけどな。
お前は何か将来にやりたいことでもあるのか。
たとえば将来愛する人と結婚して幸せな生活を送りたい、などあるのか。
俺にはないんだよ、なにも。
俺は幸せになりたいなんてまったく思わない。
俺は不幸になりたいんだよ。
やりたいことは言うなれば、不幸を生きる、死ぬまで苦しみぬいて生きることだ。
そしてその苦しみは俺自身が選びたいと思ってる。
やりたくない仕事をやって生きる生き方と、やりたくない仕事はやらず人の金で生きる生き方の、どちらも俺は苦しいと思うが、俺はただ後者を選んでるってだけだ。
それは楽に生きたいからでもある、やりたくない仕事をやらなくていい生活はやりたくない仕事をやらなくてはならない生活よりは楽だ、でもその生活には同時に、やりたくない仕事をやっているならそこにはないであろう苦しい生活が待っている。
やりたくない仕事をやっていたなら、やりたくない仕事をやってないから在る苦しみがそこにない分、楽とも言えるだろう。
どっちの楽を取って、どっちの苦しみを取るか、でしかないってことだ。
でも俺の場合、やりたくない仕事をやっていたとしても、俺は死ぬまで絶望してるし俺にもとからある苦しみが変わることはない。
人の苦しみとはみな違うものなのに、みんなが同じやりたくないこともして生きなくてはならないという考えには納得できない。
俺はただ俺の今の苦しみは俺のやりたいことなので俺はやりたくないことはやってないと言い張ってるだけだ。
でも俺の苦しみは誰かはやりたくない苦しみで、誰かの場合はやりたくないことをやって生きているとも言えるだろう。
俺はやりたい苦しみをやってる。
お前はやりたい苦しみをやってない。
だから俺が羨ましくなって非難するのか?
でも苦しみはやりたくない苦しみもやりたい苦しみも苦しみには違いない。
俺はやりたい苦しみをやるために、決してやりたくない苦しみをいくつも経験してきた。
あらゆる大切なものを失ってきた。
俺の希望に繋がるすべてを俺は失った。
俺はそして今の苦しみはやっと俺の望んでいた苦しみなんだと思うようになった。
そこは光り輝いている。
俺は今、俺以外のすべてに希望が満ち溢れているのが見える。
でもそれを見ている俺は確かに、死なのだと感じる。
俺だけが、その光の輪の中に入ることはできない。
俺は自ら入らない。
誰が呼んでも、僕の愛するお父さんやお母さんがそこから呼んでも。
僕はもうずっと、ひとりでいたい。
これが俺のやりたい苦しみだ、望む絶望だ。
お前がやりたくない苦しみをやりたくないなら、やりたい苦しみを見つけ出すしかない。
お前は多くの人間がやりたくないことをやって生きているから俺にもやりたくないことをやって生きろと言いたいんだろうが、何で俺は多くの人間がやっているからって同じことをやらないといけないんだ?
やりたくないことをやって生きている人間とやりたくないことはやらずに生きてる人間の数の統計を取ったのか?
実際わからないだろう、やりたくないことをやらずに生きてる人間のほうが一人多いかもしれないじゃないか。
やりたくないことをやって、やりたいこともやって生きている人間とやりたくないことをやらず、やりたいこともやらないで生きている人間とやりたくないことをやらずに、やりたいことはないから何もやらないで生きている人間がいる、俺は三番目に近い。
お前は俺に非難するということはきっと、やりたくないことをやってるがために、やりたいことをすることができないで日々悶々としている人間なのか?
だったら俺はお前に言いたい、やりたいことがあるだけ、まだいいじゃないか。
いつかやりたいことをやれる日が来るかもしれないという楽しみが人生にあるじゃないか。
俺はやりたいことなんてなんにもないんだよ。
死にたくもないし、だから息をして飯を食って死までの時間をただつぶしているだけだよ。
もし俺の生き方がお前の生き方より楽に映って腹が立つというなら、お前は楽を手に入れるために、俺と同じ人生を歩む気はあるか?
ただ息をして死がやってくるまで人の税金で飯を食って何もしないで生きる人生を歩む気はあるか。
歩む気があるなら、お前はまず働く気力を失うほどの絶望を味わわなくてはならない、そのためには今かろうじて働く気力があるから働いてるおまえはさらに苦しむことになるだろうがそれはお前が楽になるためだ。
お前は俺のように楽に生きるために、今以上の苦しみを待ち受けていれば良いんだ。
お前も楽に生きられるよ、俺のようにね、やりたくないことはやらないで人の金で生きることができる。
俺は別に人の金で生きていくことをやりたいわけじゃないからね、でも別にやりたくないことでもないからこうしてこの生き方で生きてるんだ。
でも人の金で生きてると、人の金で生きてはいない人間にはない苦しみがある。
こうしてお前に非難されることもひとつの苦しみだ。
人の金で生きていくことの罪悪感やみじめさはもうずっと消えることも薄れることもないだろう。
でもその苦しみよりも俺は働くことが苦しいからこっちを選んでるんだ。
お前はそんな苦しみよりもやりたくない仕事をして生きるほうが苦しいと思ってるからそんな非難をするんだろうが、それはお前がこの俺の生き方を経験してから言え。
そして本当にこっちが楽だと思うならお前は俺を非難したらいい、けど俺はそんなお前を見下すけどな。
お前は何か将来にやりたいことでもあるのか。
たとえば将来愛する人と結婚して幸せな生活を送りたい、などあるのか。
俺にはないんだよ、なにも。
俺は幸せになりたいなんてまったく思わない。
俺は不幸になりたいんだよ。
やりたいことは言うなれば、不幸を生きる、死ぬまで苦しみぬいて生きることだ。
そしてその苦しみは俺自身が選びたいと思ってる。
やりたくない仕事をやって生きる生き方と、やりたくない仕事はやらず人の金で生きる生き方の、どちらも俺は苦しいと思うが、俺はただ後者を選んでるってだけだ。
それは楽に生きたいからでもある、やりたくない仕事をやらなくていい生活はやりたくない仕事をやらなくてはならない生活よりは楽だ、でもその生活には同時に、やりたくない仕事をやっているならそこにはないであろう苦しい生活が待っている。
やりたくない仕事をやっていたなら、やりたくない仕事をやってないから在る苦しみがそこにない分、楽とも言えるだろう。
どっちの楽を取って、どっちの苦しみを取るか、でしかないってことだ。
でも俺の場合、やりたくない仕事をやっていたとしても、俺は死ぬまで絶望してるし俺にもとからある苦しみが変わることはない。
人の苦しみとはみな違うものなのに、みんなが同じやりたくないこともして生きなくてはならないという考えには納得できない。
俺はただ俺の今の苦しみは俺のやりたいことなので俺はやりたくないことはやってないと言い張ってるだけだ。
でも俺の苦しみは誰かはやりたくない苦しみで、誰かの場合はやりたくないことをやって生きているとも言えるだろう。
俺はやりたい苦しみをやってる。
お前はやりたい苦しみをやってない。
だから俺が羨ましくなって非難するのか?
でも苦しみはやりたくない苦しみもやりたい苦しみも苦しみには違いない。
俺はやりたい苦しみをやるために、決してやりたくない苦しみをいくつも経験してきた。
あらゆる大切なものを失ってきた。
俺の希望に繋がるすべてを俺は失った。
俺はそして今の苦しみはやっと俺の望んでいた苦しみなんだと思うようになった。
そこは光り輝いている。
俺は今、俺以外のすべてに希望が満ち溢れているのが見える。
でもそれを見ている俺は確かに、死なのだと感じる。
俺だけが、その光の輪の中に入ることはできない。
俺は自ら入らない。
誰が呼んでも、僕の愛するお父さんやお母さんがそこから呼んでも。
僕はもうずっと、ひとりでいたい。
これが俺のやりたい苦しみだ、望む絶望だ。
お前がやりたくない苦しみをやりたくないなら、やりたい苦しみを見つけ出すしかない。
人生という責任
責任とゆうのはなんやろね。
人間としての責任、社会人としての責任、親としての責任、子としての責任、成人としての責任、性交渉を行った男としての責任、いろんな責任感というのが気づけば芽生えていてそれに毎日苦しめられて生きている人間は多いだろう。
「子供ができたときに結婚をして育てるという責任を取れないならセックスをするな」という考えの人は多いのか少ないのか俺はよくわからないが、俺はその責任を相手に持たせようとする人間だと思う。
その責任があるから子供ができたとき、たいして好きではない人とでも夫婦となり、子供は育てられて、堕胎で殺される子供はまだ減っているのではないか。
責任、というものがなかったら、この世界はどうなるんだろう。そして責任と、理性、というものの関係性について誰か一緒に考えてください。
もし、人間に理性というものがなかったら?よく引き合いに出されるのは人間とサル、人間と犬、といった人間とほかの生物の違いについてである。
理性がある生物、これが人間である。または責任のある生物、これが人間である。
すっぽんぽんで路上で居酒屋のゴミ箱に顔を突っ込んで、ゴミ箱を倒し、そのゴミを漁って食い散らかしている人間がいたら人は思うだろう、嗚呼あいつは理性をなくしちまった、あれじゃ犬や猿と変わらねえなァ。
付き合ってる女が妊娠した、俺は育てる自信もないし、第一おれはもっと自分の好きなことをやりたいから子供なんて育てたくないと即、中絶するように言って彼女は堕胎した。それを聞くとこう思う人もいるだろう。お前は責任というものがないのか?WHY?
それじゃあ交尾だけしてすぐにほかの雌のところに行って子供を育てることのない動物と同じだ。お前は動物だ、いいか、お前は理性も責任も失った動物だ、鬼畜だ、ファッキュー、ファックオフ、クレイジー、クソバカやろう。と言われて、その男が発した言葉とはこうだった。
「おれには何ひとつ責任は負わされておらず、おれ自身がその責任そのものにほかならぬ」
さて、これはいったい誰の言葉でしょう?
はい、そこの涎と鼻水と涙を同時に垂れ流した君、うん、そう君よく知ってるね、アホみたいな顔して。
そうです、これはあの二十世紀最大の作家といわれたフランツ・カフカが生前に書き残した言葉でした。
まあ死後に書くのは難しそうだから生前なのは当たり前だよね、細かいところつっこむな君、アホみたいな顔して。
あ、ごめんごめん言い過ぎたね先生、帰りにチョコミントアイス買ってあげるから黙っとけ。
カフカが女を妊娠させてすぐに堕胎させたと言う話はないけれどもカフカは生前、八つ折り判ノートにこう記しました。
一切の責任を負わされると、
お前はすかさずその機会を利用して、
責任の重さのせいでつぶれたということにしてやろうと思うかもしれない。
しかし、いざそうしてみると、気づくだろう。
おまえには何ひとつ負わされておらず、
お前自身がその責任そのものにほかならぬことに。
俺はこれを読んでぐっと来ました。
カフカは責任というものは自分が負うものではなく、また誰かに負わされるものでもなく、自分を生きるということそのものが責任なんだ、と言ったのです。
これはつまり、責任を負う以前負わされる以前にもうすでに絶対に逃れることのできない責任そのものとして自分が生きている、ということでカフカはそうして絶大で重苦しい責任を誰以上に自分が自分に与えているということだろう。
それは自分の価値観や概念やおよそ自分の理解できる範囲のところに責任があるのではなく、責任とはそれ以上のもっともっと重く大きなものとして自分のわからないところに生まれたときから存在していて死ぬまで自分に付随して離れることはないのだということです。
これはおれ自身を俺が知らない以上、俺の責任というものは俺の想像しているよりずっと大きいだろうというものすごい責任を自分に科しているということだと思ったのです。
そこに在る責任とは愚かな人間の理解する責任というものを遥かに超えた、あまりに苦しい責任であるだろう。
そのあまりに苦しい責任を自ら自分に与えたカフカという人間がいます。
責任というのは決して誰かが自分に与えるものではない。
存在しているというだけで、それが責任というものだと僕も思うのです。
そうすると、彼女の子供を堕胎させた男は確かに酷い行動をしたが、その行動の責任というのを彼自身がしっかりと負っているということになるわけさね。
すでにその責任を背負って生きている人間に対して、どう他人が責めても責めなくても彼のその人生自体が責任を取る人生であるのである。
自分だけが自分を責めることを自分に任せる、これが責任である。
なので俺が嫌なことをして生きていないといって僕を責めるのはやめてください。
僕は僕の嫌なことをしていない人生の責任の人生を歩んでいるのです。
僕には希望はありません。
これは死ぬまでです。
絶望的な人生を歩む人生という責任が、僕自身だからなのです。
人間としての責任、社会人としての責任、親としての責任、子としての責任、成人としての責任、性交渉を行った男としての責任、いろんな責任感というのが気づけば芽生えていてそれに毎日苦しめられて生きている人間は多いだろう。
「子供ができたときに結婚をして育てるという責任を取れないならセックスをするな」という考えの人は多いのか少ないのか俺はよくわからないが、俺はその責任を相手に持たせようとする人間だと思う。
その責任があるから子供ができたとき、たいして好きではない人とでも夫婦となり、子供は育てられて、堕胎で殺される子供はまだ減っているのではないか。
責任、というものがなかったら、この世界はどうなるんだろう。そして責任と、理性、というものの関係性について誰か一緒に考えてください。
もし、人間に理性というものがなかったら?よく引き合いに出されるのは人間とサル、人間と犬、といった人間とほかの生物の違いについてである。
理性がある生物、これが人間である。または責任のある生物、これが人間である。
すっぽんぽんで路上で居酒屋のゴミ箱に顔を突っ込んで、ゴミ箱を倒し、そのゴミを漁って食い散らかしている人間がいたら人は思うだろう、嗚呼あいつは理性をなくしちまった、あれじゃ犬や猿と変わらねえなァ。
付き合ってる女が妊娠した、俺は育てる自信もないし、第一おれはもっと自分の好きなことをやりたいから子供なんて育てたくないと即、中絶するように言って彼女は堕胎した。それを聞くとこう思う人もいるだろう。お前は責任というものがないのか?WHY?
それじゃあ交尾だけしてすぐにほかの雌のところに行って子供を育てることのない動物と同じだ。お前は動物だ、いいか、お前は理性も責任も失った動物だ、鬼畜だ、ファッキュー、ファックオフ、クレイジー、クソバカやろう。と言われて、その男が発した言葉とはこうだった。
「おれには何ひとつ責任は負わされておらず、おれ自身がその責任そのものにほかならぬ」
さて、これはいったい誰の言葉でしょう?
はい、そこの涎と鼻水と涙を同時に垂れ流した君、うん、そう君よく知ってるね、アホみたいな顔して。
そうです、これはあの二十世紀最大の作家といわれたフランツ・カフカが生前に書き残した言葉でした。
まあ死後に書くのは難しそうだから生前なのは当たり前だよね、細かいところつっこむな君、アホみたいな顔して。
あ、ごめんごめん言い過ぎたね先生、帰りにチョコミントアイス買ってあげるから黙っとけ。
カフカが女を妊娠させてすぐに堕胎させたと言う話はないけれどもカフカは生前、八つ折り判ノートにこう記しました。
一切の責任を負わされると、
お前はすかさずその機会を利用して、
責任の重さのせいでつぶれたということにしてやろうと思うかもしれない。
しかし、いざそうしてみると、気づくだろう。
おまえには何ひとつ負わされておらず、
お前自身がその責任そのものにほかならぬことに。
俺はこれを読んでぐっと来ました。
カフカは責任というものは自分が負うものではなく、また誰かに負わされるものでもなく、自分を生きるということそのものが責任なんだ、と言ったのです。
これはつまり、責任を負う以前負わされる以前にもうすでに絶対に逃れることのできない責任そのものとして自分が生きている、ということでカフカはそうして絶大で重苦しい責任を誰以上に自分が自分に与えているということだろう。
それは自分の価値観や概念やおよそ自分の理解できる範囲のところに責任があるのではなく、責任とはそれ以上のもっともっと重く大きなものとして自分のわからないところに生まれたときから存在していて死ぬまで自分に付随して離れることはないのだということです。
これはおれ自身を俺が知らない以上、俺の責任というものは俺の想像しているよりずっと大きいだろうというものすごい責任を自分に科しているということだと思ったのです。
そこに在る責任とは愚かな人間の理解する責任というものを遥かに超えた、あまりに苦しい責任であるだろう。
そのあまりに苦しい責任を自ら自分に与えたカフカという人間がいます。
責任というのは決して誰かが自分に与えるものではない。
存在しているというだけで、それが責任というものだと僕も思うのです。
そうすると、彼女の子供を堕胎させた男は確かに酷い行動をしたが、その行動の責任というのを彼自身がしっかりと負っているということになるわけさね。
すでにその責任を背負って生きている人間に対して、どう他人が責めても責めなくても彼のその人生自体が責任を取る人生であるのである。
自分だけが自分を責めることを自分に任せる、これが責任である。
なので俺が嫌なことをして生きていないといって僕を責めるのはやめてください。
僕は僕の嫌なことをしていない人生の責任の人生を歩んでいるのです。
僕には希望はありません。
これは死ぬまでです。
絶望的な人生を歩む人生という責任が、僕自身だからなのです。