だれがまちがってるんだろう、このせかいは。
ゆめのなかではいつも、へんだ。
ゆめのなかではすべて、へんだ。
ゆめのなかではなにか、へんだ。
だれがまちがってるんだろう、あのせかいは。
おきたらなにか、へんだ。
おきたらいつも、へんだ。
おきたらすべて、へんだ。
なにがまちがってるんだろう、このせかいは。
みんないっしょうけんめいくらしてるようにみえる。
みんないっしょうけんめいくらしてるようにみえる。
みんなむちゅうになって、むちゅうになって、むちゅうになって。
だれがむちゅうになって、まちがってるんだろう、このせかいは。
だれがゆめちゅうになって、だれがゆめちゅうになって、だれがゆめちゅうになって。
だれがゆめなかで、だれがゆめなかで、だれがゆめなかで。
だれがゆめをみながら、まちがってるんだろう、このせかいは。
ゆめのなかではいつも、へんだ。
笑顔
まだ雪を見ていない。
あの日から。
夢では楽しそうに笑っていた。
ぼくとおにいちゃんとおねえちゃんが笑っていた。
笑っていた、とても楽しそうに。
あの日消えたすべてが、ぼくの夢の中で笑っている。
あの日消えたぼくの笑顔は、とても楽しそうに。
笑っていた、じかんのない場所で。
なんも考えず、なんも知らずに。
笑っていた、とても嬉しそうに。
お父さんが生きている世界にだけすべてがある。
あの日消えたすべてが、ぼくの夢の中で微笑んでいる。
あの日消えたぼくの笑顔も、とても嬉しそうに。
笑っていた、じかんのある場所で。
目覚めないように、知ることのないように。
笑っていた、悲しいぼくに気づかずに。
お父さんの生きている世界にだけ雪が降る。
あの日から。
夢では楽しそうに笑っていた。
ぼくとおにいちゃんとおねえちゃんが笑っていた。
笑っていた、とても楽しそうに。
あの日消えたすべてが、ぼくの夢の中で笑っている。
あの日消えたぼくの笑顔は、とても楽しそうに。
笑っていた、じかんのない場所で。
なんも考えず、なんも知らずに。
笑っていた、とても嬉しそうに。
お父さんが生きている世界にだけすべてがある。
あの日消えたすべてが、ぼくの夢の中で微笑んでいる。
あの日消えたぼくの笑顔も、とても嬉しそうに。
笑っていた、じかんのある場所で。
目覚めないように、知ることのないように。
笑っていた、悲しいぼくに気づかずに。
お父さんの生きている世界にだけ雪が降る。
底の底
今から元恋人への呪いの言葉をつづる。呪いをかけられたくない者は読まないほうがいい。またこれまでかつてないほどのおぞましいグロテスク極まりない表現をしようと思うので、それらが苦手な人は読まないほうがいい。私はやはり騙されていたようだ。これまでかつてこのような侮辱極まりない騙され方があっただろうか。かつてこれまでこのような長い期間ずっと騙され続けてきたことがあっただろうか。かつてこれまでこれほどまでに思いやりに欠けた男はいなかった。かつてこれほど馬鹿な男もまたいなかった。第一にあの男は決定的なことで俺をだました。あの男は会う前に最高の一枚と題された自写真を私に見せ、自分のかつてこれまでの最も良く撮れた映り映えのいい写真を私に見せたくせに、あの男はこう私に言ったのだ。「変な写真しかないけれど」そしてその写真がかなりタイプであったので私は彼に惚れたのだが、出会って5カ月ののち、彼と会った瞬間の彼に対する嫌悪と言ったら!ものすごいものであった!容姿から性格に至る、細々とした仕草まで、あらゆるすべてにいたってまで嫌悪としか言いようのない塊であったのだ。身長も167cmと言ってたのに、会ったら162cmの私と大して変りなく見えた!彼は何から何まで私に嘘を吐いていたのだ!私は彼に会った瞬間、このような嫌悪の塊であるこの男と今から一週間も一緒に過ごさねばならないのかと、ひどく嫌な気持ちになった。彼と会うまでの彼はその話し方からとても大人びて見えることが多かった。しかし会ってみると、どこぞの馬鹿な糞餓鬼かと思うほどのただの子供であったのだ。することすることすべてがまるで子供のようだった。行動だけではない、言動も、その表情も、すべて大人な私から見て、何の魅力もないどころか嫌悪の甚だしく、もう嫌になってしまうほどであった。彼はわたしの幻想する優しい男などではなかった。それはスーパーで食品を買うお金がないから「お金」と言ったときに彼が、表情全体で「はあっ?」という醜い顔をしたことで私は悟ったのである。何の魅力もない男と私は夜の酒だけを励みに一週間ともに過ごしたのである。しかし事態はそれだけに終わらなかった。この男は私を詐欺師顔負けのごとくに騙し続けて来た揚句、なんと私の地獄から紡がれた数々の宝石のごとくの輝く文章たちの結晶である私の書いた小説の感想を聞いたところ、彼はなんとこう言ったのである。訊いた瞬間彼は、ええ~っという馬鹿な顔で困り、勘弁してくれよ~と言いたげな実に嫌悪を感じるにふさわしい顔でにやけ、笑いながら誤魔化す様にして言った。「いまいちかなw」俺はそれを聞いた後、よくぞ殴り殺すことに耐えられたと自分をほめちぎりたい。もうこの一言でも俺がこれまでいかに騙されてきたかを証明できよう。何故ならば愛する女に向かって、まさか、そんなふざけた一言で、女が一生の懸命の末に書き上げた作品の評価を下すなど、断じて考えられないことであり、それはまさに夜の滞在として深く存在する無知よりも酷い馬鹿と言う名の罪でもない、人の心を心としてみていない藁人形のごとくのその男の心は燃やしても燃やしても治る見込みがある様にとても私は思いがたいからである。「馬鹿は死んでも治らない」という言葉の真実味を今ここに己の体験から学んだ実体験としてそれを信じきることを私は誓うのであった。俺は今、まさに復讐の烈火と化しすべてを燃え尽くさんとして、もうもうと滾りきっている事をここに署名し実印を押そう。いや、血印を押す。俺は悲しみのあまり、今日自分を滅多刺しにしてしまいたくなった。それだけではない、悲しみのあまりとまた報復のために私は今朝、柄本祐に容姿の似た死神に抱かれたのである。私はおのれの体験から理解した、成程、男は好きな女がいても他の女の裸に情欲し果てることが可能というが、それは男だけではなかったのである、女もまた好きな男がいようとも他の男に抱かれ情欲を充たし果てることが出来得るということを。成程成程そもそもあの男は私を愛してなどいないのだから他の女の裸を見ながらやりたい放題であろう。私が暴れ狂う怨嗟に身を任せこの身ごと燃え尽きんとしている事を誰に咎められようぞ。あの男は私を性欲と孤独の慰みにしたにすぎなったのである。あの男はこう言ったのである。去年の11月から、今の今までに他の女の裸を見て何度欲情して果てたのかと訊いたらばあの男は「憶えているのだけで5回以上」とこう言ったのである。たぶん150回くらい見てるが憶えてるのが5回なのだろう。男とは世にもバカバカしい嘘を吐くものである。大体見栄を張る男と言うのは情けないものである。可哀相な男である。多くのまともな女がこの男に愛想を尽かすこと請け合いである。柄本祐なみに格好良ければそれでもモテたかと思うが、容姿もアレなのだから致し方あるまいに。しかしこんなアレな容姿な男に容姿がアレと言われた女たちは気の毒である。私はコレと言われたが。よくもあの瞬間に冷蔵庫の下に頭を置けと命令して冷蔵庫を倒さなかったものだ。「化粧をしないでコレなんだから、多くの女は化粧をしてアレなんだから」とこの男は会った日に私に向かって言ったのである。私がどのような経緯でこの男に究極に冷めて行ったかお分かりであろう。ほんとうに、このような男は山ほどいるのであろうが、私は未だかつてこのようなここまでの馬鹿な男と付き合ったことはなかったのである。今だって話しかけても返事もよこさない。この男は猛烈な加害恐怖とやらに日々怯えているのだが、おかしいであろう!お前の数々の表現と言動がどれほど人間の胸の中を抉り込んでその心臓を握り潰しているか!何が加害恐怖だ!何が人を傷つけることは自分を傷つけるから怖いんだろうだ!お前は人だけ傷つけておいて、お前自身はちっともその傷に気づいていない最高の鈍感で平和ボケやろうじゃないか!お前はここまで言わないと人の傷に気づくことさえできないその愚鈍なまでの感性に出来ているのだ。おまえはいったい、いま、なにをしているんだ?!また女の裸を凝視してちんぽでもしごいてんのか!糞汚ねえ糞女の糞汚ねえ糞まんこを見ながら糞なお前のその糞汚ねえ糞ちんぽを糞汚ねえ糞な手で糞しごいてんのか!死根や!根の根まで死根や!おまえみたいな人間はなあ、地獄を見せてやろう。俺は今日いまだかつてないほどの最悪な憎悪に駆られたんだ。俺はたくさんの人間をさんざん怨んではきたが、これほどまでにおぞましき憎悪を胸に覚えたことはかつてなかった。俺は今日ね、お前が観てるAV女優の顔の皮を剥がしてその女の人肉をミンチにした人肉ハンバーグ(中はレア)をちんぽをしごいている最中のお前の口の中に無理やり押し込んで、女の顔の皮をお前の顔に被せてお前の顔を包丁で滅多刺しにしたくなったよ。お前は少しはわかってくれるんだろうか。俺がどのようにお前から侮辱と苦痛を受け続けてきたかを。加害恐怖だって?それは俺のほうだ。なんでこんなにおぞましい殺意と怨念を胸に抱き続けなくちゃならないのだろう。お前はただ嘘を言わなければよかっただけなのに。お前の最大の加害とはお前の嘘なのがてめえはわかんないの。嘘は加害ではないと思っているお前の精神と神経をミンチにしてハンバーグを作りたい。そのハンバーグは誰も食わない。廃棄処分だ。お前は俺を馬鹿にしすぎた。人に嘘をついたらどのようなものが帰ってくるかお前は想像しなさすぎた。このような結果がお前に帰ってくるのは当然なんだ。何故ならお前はおれを愛してなどいないのに愛していると嘘を吐いたからだ。死ねばいい、おまえなんか。何度でも何度でも何度でも俺がお前から受けた苦しみをお前は反芻したらいい。腹が痛くて汗が脇からたらたら垂れる。お前わかってんの、俺は自分の寿命を縮めてお前のこと呪ってんの。命をかけて呪詛を吐いてんの。生命をかけて俺の生命を懸けて、俺はお前に愛されたかったんだ。でもお前は逃げてばっかりだ。人肉ミンチ食わしたろか?これだけ言ってもお前の加害の残虐さにまだ太刀打ちできない。お前は人を底の底まで傷つけたんだ。消えたい?当然だ。誰が楽にさせるか。俺が苦しめられた分はきっちり払ってもらう。お前の地獄で払ってもらう。俺はそう柄本祐似の死神と今朝契約したんだ。俺の生命を払って契約したんだ。払うもんをきっちり払ってもらわんことには死んでも死にきれんっちゅうてんねん。あほんだら。腹が変に痛い。人肉烈火ハンバーグお前に食わせてやる。反芻しろ。俺はこれからも柄本祐似の死神に抱かれるから、俺の精気は死神のもんだ、お前は俺の死体を抱きに来い、お前には俺の死体しか抱かせない。俺の腐乱死体を抱きに来い。お前を苦しめるためなら、お前を苦しめるためなら、俺は命かける。柄本祐似の死神に毎晩抱かれようぞ。
盲目の牛
「霜降り肉」の牛 盲目になることも 味と飼い方 揺れる農家
信濃毎日新聞 2011年6月11日(土)
その牛は、額の先で手を振っても反応がなかった。黒目は焦点が定まっていない。ほかの牛と体をぶつけることも多い。
「盲目の牛です」。ステーキなどの高級食材になる和牛を飼う県中部の50代の男性農家が打ち明けた。「おいしい肉にしようとすれば、こうした牛が出てしまう」と男性。
飼育中の約130頭のうち、1頭が完全に目が見えず、10頭弱は視力低下が進んでいる。こうした牛も人体への影響はまったくないとされ、普通に出荷される。
盲目になるのは、肉に「サシ」と呼ばれる白い脂肪分を入れようとして、牛の栄養が偏ってしまうことが原因だ。和牛の価格は、サシの入り具合で決まる。多くの農家の目標は、高値で取引される細かなサシが入った「霜降り」の牛を育てることだ。
そのため、農家は生後約1年半から数カ月間、ビタミンを多く含む牧草などの餌を抑え、穀物が中心の飼料で太らせる。これがサシを入れるために欠かせない技術とされる。「霜降り」という日本の食文化を支える生産者の知恵だ。
しかし、ビタミンは、視力維持に必要な成分。欠乏がひどくなると盲目になりやすい。足の関節が腫れて歩行に障害が出る場合もある。農家は症状が出ないぎりぎりのラインを模索しながら給餌する。しかし、一部がこうした牛になる危険性は残る。微妙なバランスの上に和牛生産は成り立っている―。そう表現する農家は多い。
和牛を百数十頭飼育する県北部の40代の男性農家は「消費者が生産現場の現状を知れば、肉を買ってくれるか分からない」と不安を打ち明ける。
この30年間、和牛を出荷する時、牛の背中に"お神酒"を掛けて送り出してきた。自分が生計を立てられることへの「感謝」。そして、高く売るために不健康な姿にさせる「申し訳なさ」。そうした複雑な感情を、牛を出荷するたびに確かめる。
この男性は、食肉処理など多くの中間業者が流通に加わる畜産は「農業の中でも生産者と消費者の距離が遠いと感じてきた」という。
それは、同じ畜産業の酪農でも同じだ。上伊那郡南箕輪村の酪農家、小坂忠弘さん(55)は、畜舎見学に来た小学生が、乳牛から乳を搾る現場を見て以来、牛乳を飲めなくなった、という話を数年前に酪農仲間から聞いて、頭から離れなくなった。
思い当たることがあった。国内では、広い牧草地を確保しづらく、多くの時間は乳牛を畜舎内で飼育するのが一般的だ。しかし、小坂さんは「多くの人が広い牧草地だけで乳牛を飼っていると思っているかもしれない」。畜舎も小学生の予想以上に汚れていたのかも・・・。
さまざまな考えが頭を巡った。小坂さんは、畜舎の清掃を小まめにして、「恥ずかしくない飼い方」を心掛けている。
消費者が思い描く畜産のイメージと現実のギャップ。そこに農家はおびえている。
信大農学部(上伊那郡南箕輪村)の准教授竹田謙一さん(39)=家畜管理学=が2年前に一般消費者300人余を対象に行ったアンケートでは、「飼い方に配慮された畜産物は値段が高くても買いたい」と答えた人が9割近くを占めた。
竹田さんは「消費者のニーズは農産物そのものにあるだけでなく、その出来上がる過程にもある。消費者のイメージに畜産現場を近づける必要がある」と話す。
畜舎の環境などは生産者が少しずつ改善することは可能だ。しかし、和牛を飼育する農家の多くは「牛が盲目になってしまうのは、『消費者が求める最高級の霜降り』を目指すためには仕方がないこと」とも言う。消費者が望むのは、味なのか、価格なのか、生産過程なのか―。すべてを満たすことができない場合は、何を優先すればいいのか。生産者には、消費者の姿が、はっきり見えていない。
信濃毎日新聞社編集局「農再生へ-自由化時代」
『「飼い方に配慮された畜産物は値段が高くても買いたい」と答えた人が9割近くを占めた。』
「飼い方に配慮された畜産物」を望むのは、病気になるような育て方をした牛の肉は食べたくないという気持ちと、せめて屠畜されるまでのあいだは、苦しい育て方をしてほしくない、という気持ちがあるのだと思う。
どうすれば「飼い方に配慮された畜産物」が増えて行くのだろうか。
霜降り肉が病気すれすれの牛の肉であることを知って買う人は少ないだろう。
知れば、買う人はものすごく減る。と同時に農家の収入も減る。
減っては暮らしていけないから、その事実を広めることができない。
しかし消費者は飼い方に配慮された高価でも美味しい肉を食べたいと思っている。
それは当然だ、メタボな牛は病気すれすれではなく、もうすでに病気の牛だから、霜降り肉を食べて健康な人はいない。
霜降り肉をたくさん食べるほど人間は病気にかかりやすくなる。病気にかかれば医療費がかかる。
病気になりたくて霜降り肉を食べている人はいないだろう。
霜降り肉を食べている人は、食べても病気にはならないと思って食べている。だから美味しいと思える。
しかし実際は食べているのは病気の牛の肉だ。
病気の牛の肉を売っているのだから、本当なら問題になって、病気の牛の肉は売らないように、病気になるような飼い方はしないようにと規制されるはずが、それはされない。
知っている人は少なくないのに問題となって、規制されない。
病気の牛の肉を人々は食べたくないと思っている。
霜降り肉は高価だ。でもおいしいから少量で満足できる。
しかし高いから、霜降り肉を買うとお金がなくなってその分、たくさんの肉は買えなくなる。
人々がたくさんの肉を買うほど、たくさんの牛が屠畜される。
つまり、人々が高価な肉を買えば買うほど、屠畜される牛の数は減るのではないだろうか。
減りはするが、霜降りにされる牛は、他の牛よりも病気がちで苦しめてしまう。
だからこれに気づいた人は、霜降りは買わずに、安い肉をたくさん買うかもしれない。
霜降り肉が売れなくなれば、屠畜の時以外に苦しむ牛も減る。
しかしその分、安い肉がたくさん売れて、屠畜される牛の数が増える。
人々は「飼い方に配慮された畜産物を高価でも買いたい」と思っている。
でも飼い方に配慮されていても硬くて不味い肉なら誰も買わない。
飼い方に配慮された霜降り並みの美味しい肉は、今のところない。
人々が「飼い方に配慮された畜産物なら、味は落ちても、高価であっても、買いたい」となれば、飼い方に配慮された味は落ちるが高価な肉が売れるのだから、農家は皆、そのような肉を作れば良いのだが、実際のところ、飼い方に配慮された味は落ちるが高価な肉を、人々は買おうとしない。
飼い方に配慮された美味しい高価な肉は、作れない。
しかし人々は飼い方に配慮された美味しい肉を高価でも売ってほしいと思っている。
農家の人たちは、毎日どのような混濁な苦しみを抱えて牛を育て、屠畜しているのだろうか。
誰も幸せではない。
病気になる育て方をされている牛たちも、病気になる育て方をしている農家たちも、病気になる育て方をしている牛の肉を知らずに食べている人たちも。
誰も誰も、だれひとり、幸せじゃない。
苦しみの連鎖から抜け出たかったのは、わたし自身なのである。
だからわたしは、せめて牛と豚と鶏を食べるのはやめたんだ。(乳と卵も極力買わない)
そして抜け出すために知った多くの苦しみの連鎖を知って、わたし自信も幸せになったわけじゃない。
別に幸せになるために肉を断ったわけじゃない。
ただ楽になりたかったんだ。
楽とは何だろう?
出産に立ち会い、生まれた時から可愛がりながらも病気になる餌を与え病気にして苦しんでいる牛たちを出荷する農家の人たちは霜降り肉が売れるおかげで食べていける。
霜降り肉は美味しくて御馳走だから一月に一パック買えたらいいほうだけど、本当に美味しくて幸せだと、病気の牛の肉であることを知らずに食べている人たちは、今もどこかで食卓を囲んでいる。
仕事があって、美味しいものが食べられる。でも幸せではない。
彼らは、楽なんだろうか。
そうも思えない。
病気の牛を出荷して、病気であることを内緒にしておいて、人々に美味しい霜降り肉を食べさせること。
病気の牛の肉とは知らずに高価な霜降り肉を一家団欒で楽しむこと。
それのどこが幸せで、楽で、喜びか。
幸せでも楽でも喜びでもない。
本当に苦しい苦しみじゃないか。
私は苦しみの連鎖から抜け出られたのだろうか。
畜肉、鶏肉を見れば人肉にしか見えず、解体されている牛を観れば、自分の家族が解体されていく錯覚に陥る。
私は苦しみの連鎖からほんとうに抜け出られたのだろうか。
もし抜け出られているのなら、抜け出られた場所から一体なにを言えばいいんだろう。
何を訴えれば、何を叫べばいいんだろう。
現に養殖の魚は抗生物質などの薬剤漬けだがそれでも食べている私が。
「天然のマグロは本当に美味い」と叫んだところで牛は病気のほうが美味いんだから。
盲目の牛は、そのまっ暗闇の中に何を見ているのだろう。
「いのちの食べかた」 森 達也
森 達也の「いのちの食べかた」を読んだ。
わたしは牛と豚と鶏が屠畜されている映像を観てから食べなくなって3年になる。
それからさまざまな肉食に関わる本をたくさん読みたい、読まなくては、と思って何も読まずに3年が過ぎて、初めて手にとって読めた本がこれだった。
読むのがつらいから、もうきっとそこには、私の知っている事しか書かれていないだろうから、私はもう肉食をしないのだから、無理して読まなくていい、はずだ。
そんな気持ちが確かにあった。
だからどんな本も手に取らず3年が過ぎ、やっと手に取れたこの本の中には、私の知らないことばかりがたくさん書かれてあった。
私はこの3年、屠畜される家畜たちを思って何度も流した涙はあるが、屠畜する人を思って流した涙はなかった。
でもこの本を読みながら、びしびし伝わってくる森達也の強い訴えと大切な言葉と、屠畜する人のつらさを思って何度も涙があふれた。
屠場で働く人たちが差別されている事を、私は知っていた。つもりだった。
でも本を読んで何もわかってなかったんだと気づいた。
ただの知識としてしか知らなかったからだ。
それから、知ろうとも、わかろうとも、しなかったからだ。
絶対的に肉食に反対する強い気持ちを持ち続けるためにも、彼らに情を向けることを避けていたように思う。
でも、そもそも肉食をやめたのは、人間たちの苦しみに耐えきれなくなり、この世界の救いを本気で望んだからだ。
家畜たちだけを救うためじゃなかった。
でもいつしか屠畜する人たちを心の奥で差別して、憎悪するようになっていた。
どうしてもころされてほしくないから、ころしてほしくないから、ころすひとさえいなければ、いなくなれば、そう願う日さえあった。
30年間、彼らの手を血で汚したのは、まぎれもなく、肉を食べてきた私だったのに。
肉を食べなくなった途端、なぜ彼らを憎悪したか。いいや、それまでも無意識にきっと差別していたはずだ。
今だってそうだ。まだほんとうのところで彼らの痛みをわかってないから、まだ完全に差別する心は消え去っていない。
差別するつもりはないと言いながら、差別している気持ちを抱えている。
まるで、生まれてきたときから、あるように。
肉を食べなくなったって、肉食の問題から離れられるわけじゃない、誰かを差別してしまうから。
誰かを差別して憎悪する気持は、命を殺すわけじゃなくても、心を殺してしまうかもしれない。
人間にとって、とてもとても大きな問題だ。
たった一人でも誰かが誰かを差別したり、憎悪してるなら、平和な世界じゃない。
平和を心から望んで、肉を断ったのに、心の奥で彼らがいなくなれば…と望んでるなんて、恐ろしいことだ。
自分が屠畜する人の側だったら、どう思うだろう。
30年間肉を美味しいと食べてきた人に肉を食べなくなった途端、憎悪され、殺意さえ感じる目で見られたら。
みんなの嫌がる仕事をがんばってやってきたのに、どうしてそんな怖い目で見るのだろう、なぜ憎まれなくてはならないのだろう。そう思うはずだ。
自分と言う人間の身勝手さ、愚かさに、1年くらい仏教の苦行だけをして生きたくなる。
この本は肉を食べる人にも、肉を食べなくなった人にも、ほんとうにほんとうに大切で重要でずっと死ぬまで忘れちゃいけないことが書かれている。
つらいことを知らずに過ごせたら、それは確かに楽だろう。
でも大人になれば、いつの日かきっと知らないことがつらくて、怖くなると思う。
それは知ることが自分にとって大切なんだとわかるから、だから知らないことが怖い。
怖くなれば、もうそこは楽じゃなくて、苦しくなる。
つらいことを知るのは、ほんとうにつらい。
でも知ることができる喜びもそこにはちゃんとある。
だから森達也はこの本を書いた。
この本を手に取る君が手に入れるのは、喜びでもあるはずだ。
大切なことは「知ること」なんだ。
知って、思うことなんだ。
人は皆、同じなんだということを。いのちはかけがえのない存在だということを。
僕らのためだ。そして何よりも、君自身のためなんだ。
「いのちの食べかた」 森 達也
![]() | いのちの食べかた (よりみちパン!セ) (2004/11/19) 森 達也 商品詳細を見る |
わたしは牛と豚と鶏が屠畜されている映像を観てから食べなくなって3年になる。
それからさまざまな肉食に関わる本をたくさん読みたい、読まなくては、と思って何も読まずに3年が過ぎて、初めて手にとって読めた本がこれだった。
読むのがつらいから、もうきっとそこには、私の知っている事しか書かれていないだろうから、私はもう肉食をしないのだから、無理して読まなくていい、はずだ。
そんな気持ちが確かにあった。
だからどんな本も手に取らず3年が過ぎ、やっと手に取れたこの本の中には、私の知らないことばかりがたくさん書かれてあった。
私はこの3年、屠畜される家畜たちを思って何度も流した涙はあるが、屠畜する人を思って流した涙はなかった。
でもこの本を読みながら、びしびし伝わってくる森達也の強い訴えと大切な言葉と、屠畜する人のつらさを思って何度も涙があふれた。
屠場で働く人たちが差別されている事を、私は知っていた。つもりだった。
でも本を読んで何もわかってなかったんだと気づいた。
ただの知識としてしか知らなかったからだ。
それから、知ろうとも、わかろうとも、しなかったからだ。
絶対的に肉食に反対する強い気持ちを持ち続けるためにも、彼らに情を向けることを避けていたように思う。
でも、そもそも肉食をやめたのは、人間たちの苦しみに耐えきれなくなり、この世界の救いを本気で望んだからだ。
家畜たちだけを救うためじゃなかった。
でもいつしか屠畜する人たちを心の奥で差別して、憎悪するようになっていた。
どうしてもころされてほしくないから、ころしてほしくないから、ころすひとさえいなければ、いなくなれば、そう願う日さえあった。
30年間、彼らの手を血で汚したのは、まぎれもなく、肉を食べてきた私だったのに。
肉を食べなくなった途端、なぜ彼らを憎悪したか。いいや、それまでも無意識にきっと差別していたはずだ。
今だってそうだ。まだほんとうのところで彼らの痛みをわかってないから、まだ完全に差別する心は消え去っていない。
差別するつもりはないと言いながら、差別している気持ちを抱えている。
まるで、生まれてきたときから、あるように。
肉を食べなくなったって、肉食の問題から離れられるわけじゃない、誰かを差別してしまうから。
誰かを差別して憎悪する気持は、命を殺すわけじゃなくても、心を殺してしまうかもしれない。
人間にとって、とてもとても大きな問題だ。
たった一人でも誰かが誰かを差別したり、憎悪してるなら、平和な世界じゃない。
平和を心から望んで、肉を断ったのに、心の奥で彼らがいなくなれば…と望んでるなんて、恐ろしいことだ。
自分が屠畜する人の側だったら、どう思うだろう。
30年間肉を美味しいと食べてきた人に肉を食べなくなった途端、憎悪され、殺意さえ感じる目で見られたら。
みんなの嫌がる仕事をがんばってやってきたのに、どうしてそんな怖い目で見るのだろう、なぜ憎まれなくてはならないのだろう。そう思うはずだ。
自分と言う人間の身勝手さ、愚かさに、1年くらい仏教の苦行だけをして生きたくなる。
この本は肉を食べる人にも、肉を食べなくなった人にも、ほんとうにほんとうに大切で重要でずっと死ぬまで忘れちゃいけないことが書かれている。
つらいことを知らずに過ごせたら、それは確かに楽だろう。
でも大人になれば、いつの日かきっと知らないことがつらくて、怖くなると思う。
それは知ることが自分にとって大切なんだとわかるから、だから知らないことが怖い。
怖くなれば、もうそこは楽じゃなくて、苦しくなる。
つらいことを知るのは、ほんとうにつらい。
でも知ることができる喜びもそこにはちゃんとある。
だから森達也はこの本を書いた。
この本を手に取る君が手に入れるのは、喜びでもあるはずだ。
大切なことは「知ること」なんだ。
知って、思うことなんだ。
人は皆、同じなんだということを。いのちはかけがえのない存在だということを。
僕らのためだ。そして何よりも、君自身のためなんだ。
「いのちの食べかた」 森 達也
冬の夜空に
一週間前ほどに一匹の蛾が羽化した。カラスヨトウの仲間だろう。
羽化させられたのは二度目だ。
見つけた時はもうすでに大きな幼虫だった。野菜も食べずすぐに蛹になった。
本当は寒さをしのぐため、土を用意してあげたほうがよかった。
面倒でそれをしなかった。実験のつもりで、キッチンペーパーの上に置いて羽化するか私は試した。
彼は見事、羽化した。部屋の中の気温ならば冬でも無事に羽化をすることが分かった。
そして彼を狭い容器に入れてほうったらかしにして一週間ほどが経った。
その間、夜に電気を消すと、すぐに翅を羽ばたかせる音が聞こえて、すぐ諦めたかのようにその音がやんだ。
彼は一度だけ、砂糖水の染み込んだ紙を糸のような丸まった口を伸ばして吸っていた。
次の日、容器にカビが生えていた。彼は元気がなく、いつも天上に張り付いていたのに床の隅にじっとしていた。
昨日の朝に容器ごと外へ出した。
先ほど覗けば、まだ同じ場所にじっとしており、掴むと私のひとさし指に彼は小さな足でしっかと掴まり、離れようとしなかった。
夜景と冬の空の向こうに指を向け、透けるマンションの庇の向こうには欠けた月が見えていた。
虫は月の光を目途に方向を掴んで飛ぶようだ。
しかし彼に何を見せても彼は飛び立とうとしなかった。代わりに羽をすごい細かな振動で震わせていた。
今日も外はとても寒い。あまりに寒いと虫は体液が凍り死んでしまうようだ。
もう飛び立つことはできないのか、それとも諦めたのか。
彼の震わせている羽をそっと下から指で持ち上げた。
すると彼はやっと飛び立ち、すぐに闇の夜に姿は見えなくなった。
少しの間、彼の飛び立ったほうと、夜景と夜空を眺めると窓を閉めた。
飼い兎のみちたと戯れていると、悲しさが湧いた。
彼はどこへ、どこへ飛び立ったのだろう?
あんなちいさな体でひとり、どこへ飛び立っていったのだろう。
この凍てつく冬の夜空に。
羽化させられたのは二度目だ。
見つけた時はもうすでに大きな幼虫だった。野菜も食べずすぐに蛹になった。
本当は寒さをしのぐため、土を用意してあげたほうがよかった。
面倒でそれをしなかった。実験のつもりで、キッチンペーパーの上に置いて羽化するか私は試した。
彼は見事、羽化した。部屋の中の気温ならば冬でも無事に羽化をすることが分かった。
そして彼を狭い容器に入れてほうったらかしにして一週間ほどが経った。
その間、夜に電気を消すと、すぐに翅を羽ばたかせる音が聞こえて、すぐ諦めたかのようにその音がやんだ。
彼は一度だけ、砂糖水の染み込んだ紙を糸のような丸まった口を伸ばして吸っていた。
次の日、容器にカビが生えていた。彼は元気がなく、いつも天上に張り付いていたのに床の隅にじっとしていた。
昨日の朝に容器ごと外へ出した。
先ほど覗けば、まだ同じ場所にじっとしており、掴むと私のひとさし指に彼は小さな足でしっかと掴まり、離れようとしなかった。
夜景と冬の空の向こうに指を向け、透けるマンションの庇の向こうには欠けた月が見えていた。
虫は月の光を目途に方向を掴んで飛ぶようだ。
しかし彼に何を見せても彼は飛び立とうとしなかった。代わりに羽をすごい細かな振動で震わせていた。
今日も外はとても寒い。あまりに寒いと虫は体液が凍り死んでしまうようだ。
もう飛び立つことはできないのか、それとも諦めたのか。
彼の震わせている羽をそっと下から指で持ち上げた。
すると彼はやっと飛び立ち、すぐに闇の夜に姿は見えなくなった。
少しの間、彼の飛び立ったほうと、夜景と夜空を眺めると窓を閉めた。
飼い兎のみちたと戯れていると、悲しさが湧いた。
彼はどこへ、どこへ飛び立ったのだろう?
あんなちいさな体でひとり、どこへ飛び立っていったのだろう。
この凍てつく冬の夜空に。
迷い子羊
何を言っても正しくなってしまう、のは俺が何言っても俺は間違ってると思って言ってるからだ。でも俺は正しい人間に死んでもなりたくはない、だから俺は何を言ってもやはり俺が絶対的に正しいという顔ですべての発言をする必要があるわけだが、しかし俺という人間はどうしたって正しい人間にはならないと信じて正しい人間に結果的なってしまう人間で、俺はだから正しくなければならない、宇宙で一番間違った存在になりたいがために宇宙で一番正しい人間にならなければならない、誰ひとりとも何一つをも共有してはならない、それを信じてはならない、俺は普遍的な言葉を放って俺が間違っているというような顔をしてはならない、俺は誰もが到達しえない場所に行って俺が一番に間違っている事を信じなければならない、俺が誰より間違った人間になるためには俺が超人になるしかない、俺は人々がこれが正しいかもということを行ってはならない、俺は絶対的に正しいことだけをやって俺が絶対的に間違っている事を俺に向けて証明せねばならない、俺は人々がこれは間違ってるかもということを行ってはならない、普遍的な価値観で自分を間違ってると思ってはならない、超人とはすなわち、誰よりも間違っていたいと願う人間が到達し得るところである、そしてそれは誰よりも神に愛されたいという想いの裏返しである、何故なら神は間違ったところで一人迷子になった子羊を、間違ってはいないところにいる子羊たちよりも気にかけるからである。
マタイ福音書
18:11 人の子は、滅びる者を救うためにきたのである。
18:12 あなたがたはどう思うか。ある人に百匹の羊があり、その中の一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、その迷い出ている羊を捜しに出かけないであろうか。
18:13 もしそれを見つけたなら、よく聞きなさい、迷わないでいる九十九匹のためよりも、むしろその一匹のために喜ぶであろう。
18:14 そのように、これらの小さい者のひとりが滅びることは、天にいますあなたがたの父のみこころではない。
つまり俺は神の愛を誰より受けたいがために、誰よりも迷い子羊でありたいと願っているのである。
誰よりも神に愛を恵んでもらおうとする者、神の愛を独り占めしようとする者、まさしく彼は、誰よりも間違っていることにより誰より正しいと信じてやまない。
彼は本当に正しさを追い求め、たった一人で誰より迷うことを信じている。
マタイ福音書
18:11 人の子は、滅びる者を救うためにきたのである。
18:12 あなたがたはどう思うか。ある人に百匹の羊があり、その中の一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、その迷い出ている羊を捜しに出かけないであろうか。
18:13 もしそれを見つけたなら、よく聞きなさい、迷わないでいる九十九匹のためよりも、むしろその一匹のために喜ぶであろう。
18:14 そのように、これらの小さい者のひとりが滅びることは、天にいますあなたがたの父のみこころではない。
つまり俺は神の愛を誰より受けたいがために、誰よりも迷い子羊でありたいと願っているのである。
誰よりも神に愛を恵んでもらおうとする者、神の愛を独り占めしようとする者、まさしく彼は、誰よりも間違っていることにより誰より正しいと信じてやまない。
彼は本当に正しさを追い求め、たった一人で誰より迷うことを信じている。
剣を取る者たち
2015年、地球が危ない。
そして、俺が危ない。みんな、危ない。2015年というこの年を生き抜くためにはみんなが危ないということに気づくことが大事だという。俺はいち早く危ないということに気づくために年の明けた夜に「夜と霧――ドイツ強制収容所の体験記録」霜山 徳爾 (翻訳)の解説を読んだ。そして解説を読んだだけで危ないということがものすごくわかった。
2015年をいい年にしようという以前に地球が危ない。
とりあえず争いをやめよう。争いをすると地球が危ない。
争いをしている人たちに争いはやめようと言わなければならない。
争いを止めなければならない。止めなければ地球が危ない。
争いをしている人達にまたは争いを始めようとしている人達に争いはやめようと立ち向かわなければならない。
争いをすると地球が危ないから争いはやめようと重い腰も上げて立ち向かわなければならない。
争うことが間違ってると言ってるんだ絶対に俺は。何故なら争うと地球が危ないから。
争いをやめようとだから俺は叫んでるんだ。俺の心の叫びを書いているんだ。
争いたいなら他でやれよと叫びたいんだ。地球外で。
争うことで地球が危なくなるから争うことは間違ってると言ってる。
争うことで地球が危なくならないなら別に争えばいい。やりたいことを、やればいい。
争いを阻止するために、俺たちは今立ち上がらなければならない。
争いたい人たちは争いたい人たちだけで地球外で生活してくださいと。
争いをなくすために土下座してでも全財産をあげてでも借金してでも頼みこまなければならない。
争いをする人たちがそれでもやめてくれなかった場合。
争いをやめさせるために僕らは剣を持たなければならない。
争いをやめさせるために僕らは争わなければならない。
争いをすれば地球が危ない、地球を守るために、僕らを守るために。
争いだけはどうしても絶対に駄目だから僕たちは彼らと今戦わなければならない。
争うことだけは俺は絶対に許さない。
争いをする人に争いをやめさせなければならない。何をしてでも。
争いが行われている以上だれひとり幸福にはならない。すべての者が不幸である。
争いを終わらせるために、争っている人たちを終わらせなければならない。
争っている人たちが聴く耳さえもたないのなら。僕たちの剣で終わらせなければならない。
争いを争いでしか終わらせることができないのなら、ぼくたちは今剣を取らねばならない。
争いがなくなるために争いがなくなることを願って争いを争いでやめさせよう。剣を取ろう。
争っている人たちを監禁しよう。外へ出したら争うのだから。
争っている人たちを懲らしめよう。懲らしめないとわからないだろうから。
争っている人たちの首を切ろう。首を切らないとわからないのだから。
争っている人たちの家族を悲しめよう。それは、しかたないことだから。
争っている人たちを批判し、非難し、絶対的にあなたたちは間違っていると声高々に叫ぼう。
争っている人たちに絶大な憐れみを持ち、あなた方がいなければ地球は平和なのにと嘆こう。
争っている人たちの口を塞ごう。間違った言葉しか出てこないのだから。
争っている人たちを心から憎悪し、嫌悪しよう。彼らは間違っているのだから。
争っている人たちの涙を拭かずに僕らの剣を彼らに振り上げよう。その涙は嘘なのだから。
争っている人たちは間違っているのだから、あなたたちは間違っていると言おう。
争っている人たちが地球を滅びに向かわせるのだから。
「剣を取る者は、剣によって滅びる」とイエスも言ったじゃないか。
絶対に間違ってるんだから。争うことは。
そして、俺が危ない。みんな、危ない。2015年というこの年を生き抜くためにはみんなが危ないということに気づくことが大事だという。俺はいち早く危ないということに気づくために年の明けた夜に「夜と霧――ドイツ強制収容所の体験記録」霜山 徳爾 (翻訳)の解説を読んだ。そして解説を読んだだけで危ないということがものすごくわかった。
2015年をいい年にしようという以前に地球が危ない。
とりあえず争いをやめよう。争いをすると地球が危ない。
争いをしている人たちに争いはやめようと言わなければならない。
争いを止めなければならない。止めなければ地球が危ない。
争いをしている人達にまたは争いを始めようとしている人達に争いはやめようと立ち向かわなければならない。
争いをすると地球が危ないから争いはやめようと重い腰も上げて立ち向かわなければならない。
争うことが間違ってると言ってるんだ絶対に俺は。何故なら争うと地球が危ないから。
争いをやめようとだから俺は叫んでるんだ。俺の心の叫びを書いているんだ。
争いたいなら他でやれよと叫びたいんだ。地球外で。
争うことで地球が危なくなるから争うことは間違ってると言ってる。
争うことで地球が危なくならないなら別に争えばいい。やりたいことを、やればいい。
争いを阻止するために、俺たちは今立ち上がらなければならない。
争いたい人たちは争いたい人たちだけで地球外で生活してくださいと。
争いをなくすために土下座してでも全財産をあげてでも借金してでも頼みこまなければならない。
争いをする人たちがそれでもやめてくれなかった場合。
争いをやめさせるために僕らは剣を持たなければならない。
争いをやめさせるために僕らは争わなければならない。
争いをすれば地球が危ない、地球を守るために、僕らを守るために。
争いだけはどうしても絶対に駄目だから僕たちは彼らと今戦わなければならない。
争うことだけは俺は絶対に許さない。
争いをする人に争いをやめさせなければならない。何をしてでも。
争いが行われている以上だれひとり幸福にはならない。すべての者が不幸である。
争いを終わらせるために、争っている人たちを終わらせなければならない。
争っている人たちが聴く耳さえもたないのなら。僕たちの剣で終わらせなければならない。
争いを争いでしか終わらせることができないのなら、ぼくたちは今剣を取らねばならない。
争いがなくなるために争いがなくなることを願って争いを争いでやめさせよう。剣を取ろう。
争っている人たちを監禁しよう。外へ出したら争うのだから。
争っている人たちを懲らしめよう。懲らしめないとわからないだろうから。
争っている人たちの首を切ろう。首を切らないとわからないのだから。
争っている人たちの家族を悲しめよう。それは、しかたないことだから。
争っている人たちを批判し、非難し、絶対的にあなたたちは間違っていると声高々に叫ぼう。
争っている人たちに絶大な憐れみを持ち、あなた方がいなければ地球は平和なのにと嘆こう。
争っている人たちの口を塞ごう。間違った言葉しか出てこないのだから。
争っている人たちを心から憎悪し、嫌悪しよう。彼らは間違っているのだから。
争っている人たちの涙を拭かずに僕らの剣を彼らに振り上げよう。その涙は嘘なのだから。
争っている人たちは間違っているのだから、あなたたちは間違っていると言おう。
争っている人たちが地球を滅びに向かわせるのだから。
「剣を取る者は、剣によって滅びる」とイエスも言ったじゃないか。
絶対に間違ってるんだから。争うことは。