映画「ピアニスト」


ピアニスト [DVD]ピアニスト [DVD]
(2002/10/11)
イザベル・ユペール、ブノワ・マジメル 他

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ミヒャエル・ハネケ監督の2001年の映画「ピアニスト」を観た。

幼少の頃から母親の厳格な教育と過干渉を受けて育ったエリカは母親の望むピアニストにはなれなかったもののウィーンの名門音楽院でピアノ教師として働くようになったが、40歳を過ぎても一緒に暮らしている母親の執拗なまでの干渉に嫌気が差しながらも共依存の関係に陥って抜け出せないでいる。
エリカはこの年になってまだ男を知らず、仕事の帰りに男が日常的にストレス発散や性欲処理をするかのようにポルノショップへ赴き、性的倒錯的なちょめちょめなことをしては何かを発散している、または自己をギリギリのところで保っているように見える。
そんなある日、地味でシャレオツの「シャ」の字も知らないような地味な中年女エリカの前に、若く厭味たらしいまでの爽やかフェイスと健康的なガタイを持ち合わせた美青年学生ワルターが現れて。
教師で年長者であるエリカに対しての敬意が足らんという風な生意気かつ執着的かつ純真的な求愛をして来られ、エリカは最初冷たく拒絶を続けようとするんだけれどもエリカの抑えていたものが徐々に華を開きだしてゆかんとする。

これで腐った女子いわゆる腐女子的な妄想の末あんなことやこんなこともして妄想のあまりの軽薄さに自己嫌悪に陥り浅ましい欲望だけの作品に終わる、ということをしないのはハネケ監督が異常なほどひねくれているから。
ではなく現実をありのまま表現しようとしているからなんだろうけれども、私も観ていて、何度か「そうそう、わかる、わかるよ、あー来た来た、男は怖いねえ、男は怒らせるとこうなるからねえ、いやあー自分のことを見ているようで非常になんとも言えないなあ」と思ったと思っているところだ。

私と彼女の共通点をではまた挙げてみることにしよう。

・親と共依存に陥っている。(私の場合は父親です)
・異常な性癖、有り。(私の場合はスカトロジー性癖です。嘘です。ではなく末広丸尾の童貞厠之介<厠の中から現れる糞尿まみれの少年>に恋焦がれていた)
・執着的依存的恋愛を繰り広げる。嫉妬心もッパネエ。
・親に口答えすることはままあったが、逆らい切ることが出来なかった。
・親との間に激しい愛憎が結構いつもあった。
・自傷行為、有り。(私の場合は親に隠れてアムカ<腕の部分をカッターやかみそりで切る行為>を毎日やっていた)
・マゾヒズムな欲望を隠している。(私の場合、自分を見下しきった相手に手篭めにされたいという欲望がある)
・キレた男から連続で暴力を振るわれたこと、有り。(私の場合も自分の我侭に耐え切れて相手がブチギレた)
・結局のところ、男に醜悪的にも縋る恋愛しか出来ない。まともな恋愛をすることが不可能。
・男に縋るくせに、男がその気になるとこんだ嫌悪感が漲ってくる。
・男に対する依存と拒絶が同時に起きている。(肉体的なところでも起きている)
・片親の不在。(私の場合は母である)
・実のところ相手から痛めつけられたいという願望は痛めつけられることを先に自ら望むことで相手より自分が優位に立って支配したいというサディズムの倒錯したものであって、それは男性性の強い男性的な女の潜在心理である。
・しかし実際に痛めつけられたときに拒絶反応が出るのは男から出る暴力に太刀打ちできないことで否応にも自分が弱い女でしかないことを悟らされるからである。
・女はどうしたって男にはなれないのだと見せ付けられることによって男より優位に立つには男に依存的に愛される以外にないと知るからである。
・故に、女が男に依存する深層心理とは自分を優位に立たせられる男の存在がどうしても自分に必要なものだと知っているからである。
・しかしそんな歪みきった醜い感情は女が親から受け続けた愛憎の連鎖反応であり、親の愛は子の愛に受け継がれてゆくのであった。
・依存とは支配することであり、共依存は互いに支配しあうことになり、共依存で育った者は依存だけが愛であると認識しており、よって女が望むこととは、本来、男と共依存という愛の形成を行いたかっただけなのであったと思われる。

桜が花を

昨今、私はある一つの現象を人間の内部に目の当たりにして酷く嘆き悲しんでいる。
それはどのような現象化というと、簡単に言うと春の嵐は桜を吹き散らすけど、桜吹雪って綺麗だよね、こうぐっとくる何かがあるよね、そうだよね、それはなんてゆうのかなあ、ずっと桜が花をつかせている状態が長く続くより自然の激しさがより桜という木を美しく際立たせていることに成功してる、だからこの自然の中ではむしろ荒らしの来ない春のほうが不自然で桜街道をゆく人々の心の底にぬめぬめとした汚泥の如くの闇が沈溺して黒い疣蛙のような蟠りが世界中に放流されて顔面にいつも疣蛙を乗せて歩いてるような気持を払拭できない心弱さを抱えながらも今日も強く生きていかなくちゃと疣蛙にしか聴こえない声でゆぶやいて艱難辛苦をも約束された桜並木道を君と一緒に歩いていこうと誰かが泣き叫ぶ、みたいな現象なのである。

つまり、対立することを出来うる限り避ける、という人間の深層心理である。
これは実に多くの人間の心を蝕んでいると言えよう。
何故なら本来人と言う生き物は人と対立することが避けられない生き物であるからである。
それはなぜかと言うと、人はみんな違う嗜好と思考と自分なりの信念や存念または夢や目標を持って生きる生き物であり、みんな言うことも考えてることも同じと言うのは在り得ないことであり、また在っては面白くないからである。
みんなが違う考えというものを持って生きているのに、対立することを避けようとすると、一体どのようなことになるだろうか。
それは自分の考えを相手に申さないという関係を築くということである。
自分が思うことは別にあるのだけれども、言わない、何故なら人と対立してしまうから。
対立するのは、嫌だから。傷つくから、傷つけるから。議論したい相手じゃないから。議論してもしょうがない、または議論したいだけの相手を尊敬する心が自分にないから。
そうして人は人と表面的な関係を築き、それで満足をし得ようとするのである。
例えばある友人が「俺はもっと戦争が起こればいいのになって思うんだ」と真剣に言うと
「へーそっかーなるほどね」と返して、本当は自分は『なんでやねん、おまえはあほか、頭おかしいんとちゃうぅ?精神科行ってこいよ』と心の中で思っていてもこれを言わないで話をまんべんなくスルーして流すということが得意なのである。
そして「何故、戦争がもっと起こればいいと思うんだ?」とその理由すら訊かないで、『はっ、こいつは何言ってもダメダ、着いていけない』と自分の中で相手とまともに話す、向き合う姿勢をことごとく潰してしまうのである。
そうすると、もっと真剣に自分を曝け出して話したい人間にとっては『なんやこいつ、いっつもいい加減にしか話を聴かない、こいつぁだめだ、上辺だけの関係を俺と築こうとしてるんやろ、腹立つわほんま、もーいーもーいーもっと真剣に議論できるやつを俺は探す』と言ってどこかへピッと行ってしまうのであるが、逆に、相手も同じように対立することを恐れ避けている人間であった場合はこれは気の合う良い相手であり、こいつとなら俺、傷つかなくても済むかも?んなぁあんてっ思うなっいい関係を築けそうだわ、よしこいつと仲良くなりたいなってんでそこに友人友情を築いていると思っているのである。
まあそうなれる相手ならそれでいいけどおぉ?
恋人がそういう人間だった場合、これは「あ、そう」っつって他にさっさと相手を変えるなんてできることではない。
じゃあどうすればいいのかというとどうにもできないのである。
どっちかが我慢して相手と話すしかできないのである。
俺が我慢する場合、俺は自分の意見をいつでも率直に言いたくて、意見を何でも言ってもらいたい人間なのだけれども自分の意見を言った場合相手と対立する場合があり、相手は対立することが嫌なので、俺は自分の意見を言うことができなくなる。
相手が我慢する場合、相手は別に自分の意見を本当は言っても俺は構わないのだけれども相手は対立することが嫌なので自分の意見を言いたくない、俺の意見を唇噛み締めながら根気よく最後まで聴きとおさなければならない。
しかし互いにすごく嫌でしんどいことなので、互いにこれをやりたくない。互いに譲りたくない。
なので、一昨日の会話は相手が「昨日どこどこへ友達と一緒に遊びに行ってきたのです」と言って私が「そか」と言って、相手が「うん」と言ってそれからうんともすんとも互いにしゃべらずに会話が終わったのである。
それはしょうがない。私は言いたいことは山ほどあるのだが、これを言えないのだから、言ったらまた対立は避けられず、対立するのは嫌いだとぶちギレられて結局関係がますます破綻してくること請け合いなのである。
なので私はもうこれから相手には表面的かつ上辺だけの会話しかせず、本音はいつでもここ、自ブログ内で暴露せぬわけにゆかぬことになってしまったのであった。そうしないと本音をどこにも出せないで僕のぼくが体内から蛸のような軟体動物と化し、リターンマッチを後生に右翼団体と共に街宣運動に出かけなければならず千代の神がこれを制して人力とうもろこしを街角で売り捌いて鯖の味噌煮を作る日が続き軍事疎外タウンに赴けば朝鮮人とウガンダ人がきりたんぽを分けてくれるからこれを三つに割ってとんびと鷹と回虫にやらなければならず、アナスタシアの空が俺を呼んでいることに変わりはないよねと言ってオホーツク海でカンカラ踊りを踊って生を遂げなくちゃならないからな。
じつにむなしい小春日よの。
でも私は当分それでなんとかやって彼と善き関係を築いていかなくては僕の体が持ちそうにないので僕は頑張ろうと思うからみなさん見ていてください。
僕がどのように壊れていくかを見ていてくだしあ。
どこかに行きたいけどどこへも行けないっすよね。
だからこうやって自分の本心をちまちまとここに書いていくことしか僕はできないな。
彼らはいったい何処に本心を出しているのだろう。
どこにも出さないで夢精のように夢を見ながら知らず知らずに出しているのだろうか。
僕はそんな彼らにセイグッドバイと言おう。
夢で会おう。
だってまるでそんな彼らとしゃべったら僕の心は余計虚しいんだからね。
厭さ、そんな虚しいこと、ぼかぁ厭だ厭だ厭だ、人間じゃぁない、あいつらは。
あいつらは、う、宇宙人だ。
そうだうつうじん、ぅぅちゅぅじんだ。
俺は人間だから、ぁ、あいつらとは、こ、心が通じないのさ。
そういうことにしておこう。そうしておかなければ折れはじぶんをたもちことができない。
俺は自分をたもちことができないんだよ!
取り乱してすまない。
まあみんな年をとればわかることだろうからこれ以上は言わないでおこう。
人と真剣に向き合わないではいられない時代と言うもんがやってくるだろうから。
まあその面白さをわからない人は可哀相だなあと思うけども。
他にもっと楽しいことがあるみたいな顔してさ、あるわけねえのに。
分かり合おうとすることを諦めた関係は、もう終わってるんだよ。
どんな喜びもそこにない。今ここにない。
君と話したって僕は苦しいばかりだ。
笑ったって嘘の笑顔だ優しくしたって嘘の優しさだ。
君が望んだ嘘の僕だ。
嘘の僕で満足すればいい。
どうぞお好きなだけ喜んでいればいい。
僕はまるで君と話すとき、死体を生きているようだ。
桜が花を散らさないわけは下に死体が眠っているからさ。

夜亍

町田康師匠とわたしの友人らしからぬ人とわたしの三人でいる。
濃い闇の中にいる。
右手に中が暗い車があって、運転席が二つあるのか、その向こうに止まった車の中が見えているのか、手前の運転席には人が吸う位置に煙草が宙に浮いて煙が立ち昇っている。その向こうで知らない男が煙草を吸っている。
わたしはそれを見て師匠に「煙草の火を消しましたか」と訊ねる。
師匠は驚いて「ちゃんと消したはずやで」と応えた。
ならよかったよかったとものすごい喜びの中わたしたちは師匠の運転する車に乗っている。
道ががたがただ。
師匠が「地震だ」と云うまで気づかなかった。
そして変なところに下りていく。
車の幅ほどしかない細い道は生きているようにうねっていて両端は深そうな池だ。
『こら、やばいど、こら、やばいど』という師匠の焦り感が我々にも嫌と言うほど伝わってくる。
しかしなんとか切り抜けて着いた場所は埠頭のようなところだった。
従業員らしからぬ人に訊くとここからは船でしか出られないと言われる。
戻るにはまたあの危険極まりない道を行くしかない。
いったいどうしたことやろうと我々は困窮困憊にこの意味不明な場所を恨んでいる。

わたしはなにもないところでわたしの思っていることを感じている。
わたしたちはみな、物質とそうではないもので出来ている。
それはどうも最初からそのようであるらしい。
なにもない空間に一つの変な字が現れる。
左側は液という字の右側だけの部分で右側は行という字の右側だけの部分、そのふたつを合わせた字だ。
液の右側と言うたが夜と言う字ではない。ではタみたいな叉みたいな部分かと言うとそうでもない。
言い表しにくいがその字はやはり液と言う字の右側であって、それに右に行というテみたいな字の右側だけ付いている。

『液』の右側の部分がどうやら『物質』を表していて、『行』の右側の部分は『物質ではないもの』を表している。
という夢を見た。

「行」という字は左側「彳」のぎょうにんべんは「テキ」と読んで左足、少しずつ歩く、佇むという意味がある。
右側「亍」は「チョク」と読み、とまる、少し歩く、右足という意味がある。「步して止まるなり」という意味がある。

夜 ヤ <日没を中心にして月のでる方>
夜

金文が大の字に立った人の右に夕または月の形を描いていることで分かるように、「月(つき)+亦エキの略体」の会意。
亦(両わき)は大の字に立った人の両側にハの字をつけた形で、大を中心にして両側に同じものがある意。夜の字は、大の一方に月(夕)を描いた形で、両側の一方が月の出た夜であることを示す(もう一方は昼を暗示している)。
現代字は「夜」へと原形をとどめぬほど変化した。
なお、夜を音符に含む字は、ヤと発音する場合は「よる」の意。
エキと発音する場合は「亦(両わき)」の意味で用いられる。


 「エキの音(=亦。両わき)」 (液・腋・掖)
「夜」は「夕(つき)」と「亦(わきの下)」から成る文字で、「昼をはさんで両脇にある時間」を表す。
ここから「間隔をおいて同じものが続く」という意味合いが生まれたようです。


私が夢に見た『液』の右側は物質で、その右の『行』の右側は物質ではないものを表した字は一体何を意味しているのだろう。
さっぱりわからん。
しかしどうやら物質と液体の液というものは密接に関わりを持っているものであり、物質でないものとは「行う」という意味と密接に関わりを持っており、また物質は左足の役目があれば物質ではないものは右足の役目を担っているであるのだろうということだ。
そしてどうやら物質は間隔を置いて同じものが続いているようだが、物質ではないものはその右足で以って少し止まっては歩いて、少し歩いては止まっているようだ。
そして物質は月の出た夜のようだ。
そういったものがどうやらわたしたちのようだ。

落語「死神」

「死神」 三遊亭圓生







ものすごい落語を観てしまった。
観ていると気が遠くなり魂が吸い取られるかのような感覚に陥るこの空気感は死を表現できている。
さびしさの果て、人間の存在がこのさびしさの果てのいつも含有物なのだと思うと人間はなんというさびしい生き物なのだろう。
今日はなんというさびしい日だろう。
人間はなんというさびしい物だろう。
「二人」と書いて「天」と「トミノの地獄」で言っていたものの、もう一人が死神だったらば、そらぁ、あんさん、それほんまもんの天国ですわなぁ。
まぁ「一大」と書いても「天」やけど、なにが一大なのかなぁ。
「一大組織」と言うやんか、天の政府と言うとキリストが言った神の国による支配をあらわしてるけど、死神はよく笑う。
死神は果たして天の組織の遣わし者なのか、はたまた他の組織に仕えし者なのか。
そこがわからなくってものすごくさびしい。
死神が天使の微笑みで笑うなんてことをあまり聞かない。
嗚呼一人はなんてさびしいのだろう、死神でも近くにいたなら話し相手くらいになるか知れない。
「一人」と書いて「大」って何が大きいんだよ、「大人」は「一人人」と書くから大人はさびしいわけだ。
確かに一人じゃ孤独は大だ、しかしもう一人が死神だとさらに孤独は大だ、「天」は結局「一」と「一」が「大」ということだ。
孤独と孤独が合わさり孤独が凄まじく大きくなると言うことじゃないか。
だって一人に付き一人死神が付いてくる。
やあみんな生まれた瞬間から「二人」じゃないか、ああそうだね君「天」から来たんだろう、そらぁ二人だ。
いやぁ二人だ、天だよ、天国だ、死神といつも二人、しかしあれだなぁ死神こいつぁ俺が死ぬときしか笑わねえとなるとこいつを笑わせるには俺は死ぬしかないってぇのかい、難儀なことやなぁ。
だって何言っても笑わない奴と四六時二六時五十三次一緒にいねえといけないのに面被りみたいに無表情だと参ってくるねえ。
なんとかして笑わせてやれねえかと考えるわけだ、こいつは一体何が面白くて生きてるんだって。
こいつは面白くねえのに俺が面白いとなるとこいつだって面白くねえだろう、余計に、ああ面白くねえああ面白くねえと思っている奴にこんな近くに居られちゃあ居心地が良くなることがない、俺はこいつを面白くさせねえと全く面白かねえなぁ。
しかしひょっとしたら俺が寝ているときこいつはずっと笑ってるかも知れねえなぁ、ただ俺のいる前では笑わないようにしてるんじゃあないか、もしそうだとすると、お、そうだ、今夜おれは薄眼を開けてこいつをじっと見ていてやろう。
さてどんな顔をするのか、面白いじゃあねえか、なあおいお前もそう思うだろう、お前もだから起きているんだ、わかったね、だって寝ていたらお前が笑ったところでただの夢を見ながら笑ってるだけじゃねえか、俺は起きてるんだからお前だって起きているんだ、俺の死神だろう、俺は寝ない、ああ寝ない、お前の笑顔を見るまで俺は寝るもんか、しかし本当に眠くなったら俺は寝るだろうから代わりにお前は起きてろ、だってお前まで寝ちゃったら何か起きた時俺はお前をまず起こさねえといけない、その数秒の差で俺は死ぬかもしれない、俺が死んだらところでお前はどうするんだ、俺が逆にお前の死神になってやってもいいが、お前はいつ死ぬんだ、お前はいつ俺を笑わせてくれるんだ、よし、契約をしよう、お前がいついつなん時なん分なん秒に俺を笑わせてくれるのか署名して判を押せ、うんそしたら俺が死んだらこんだ俺がお前の死神になってやっからお前は安心だ、俺の死を笑って見届けられるだろう、俺は死んだあと先々までお前のことを考えてやってるんだ、だから一度くらいは、一度くらい、おまえ、笑ったらどうなんだ、だって俺が死ぬ瞬間にお前笑っても俺は見れねえかもしれねえわけだ、お前は俺の死神だろう、俺は次お前の死神になると契約したがお前が死ぬとき俺が笑うのをお前は見ないで死んだら、お前を生き返らすぞ、俺はたった一人で笑うためにお前の死神って仕事を引き受けるわけじゃない、たった一人で笑って笑いが冷めた後に我に返った瞬間のあのすんげえ恥ずかしく侘しくさびしいものをお前も人間になって経験してみたほうがいいぞ、まあ次おれが経験さしてやってもいい、俺はお前を心の底から笑わせてやるよ、お前を俺に遣わしたのは、へっへっへっ、へへ、俺だよ。

恋の唄

君はぼくにとって
汗ばむ春のあたたかいおひさまのようだ。
君はぼくにとって
月も星も出ない夜の小径のかえりみち。
君はぼくにとって
鏡のない国のアリスを追うウサギさん。
君はぼくにとって
スカートの千切れ目を陰で隠した桑の木。
君はぼくにとって
風が強い日沈むぬかるみに汚れた膝小僧。
君はぼくにとって
反対車線からやってくる列車の中の少年。
君はぼくにとって
白きよろこびが崩れ落ちる夕陽のなみだ。
君はぼくにとって
馬糞の中の微生物の糞の中の小さな殺意。
君はぼくにとって
羅針盤を落とした海を入れた瓶の朽ちたコルク栓。
君はぼくにとって
絶命の後のかすかな声も届かない蠅と烏賊と葡萄。
君はぼくにとって
チョークを忘れた先生が爪で黒板に書いた愛と言う文字。
君はぼくにとって
象と鹿の見守る檻の中で射精した失い続ける時間の刻印。
君はぼくにとって
阿弥陀籤の先は全部が死だと知った瞬間のふたつの眼孔。
君はぼくにとって
幕が下りたあと青い香りで誘う顔の見えない沈黙の紳士。

我、破壊し尽くさん

町田 康さん講演 「内面の作成」




何種類もの人生 小説で体験

「何で小説書いてるの?」と言われます。正直言うと頼まれたからです。その前に詩を書いてたのも頼まれたから。その前は歌詞です。

 これは初め、変だと思われた。ロックの歌詞と違う文法というか、ロック的な、凶悪な感じとかのイメージから外してた。そういうのがおもしろくなかったので、それから派生して小説を書くようになったんです。

 小説とは何か。一つには内面を書くことと言えますね。しかし、内面って何のことだかわからない。そこで、ウィキペディアで調べてみると、「それがあることを分かりながらもそれそのものを決して知ることが出来ないというニュアンスで用いられる事が多い」とある。

 あるのはわかってんねんけども絶対に知ることができないものは書けない。そのとき、他人の内面やからあかんので、自分の内面やったら書けるのではないかと思いました。他人から見たら、自分は他人、読んでる人からみたら他人の内面を書いてることになる。

 ただ、自分のことをまじめに書こうとすれば、だんだんその内面というのがないんだってわかってくる。生まれてからのことを順番に並べるのは内面とは違う。じゃあ、どうやっているのか。つくってるんです。書きながら内面を無理やりに。書いていると、内面みたいなものが、ないものが生まれていってるんです。

 個性も、内面の作成とちょっと似ています。自分の純粋な世界をつくるって難しいことで、時々美しかったり感動したりもするけど、逆の面もある。自分の気に入ったものしか置いてない部屋みたいで、自分はすごく居心地がいい。だけど、ノイズとか、雑の要素を拒むということはその個性のなかにとじこもって、他人を知ることとはすごく遠いところに行ってしまうおそれがあるんですよね。

 自分の中に、いろいろな雑なもの、毒がまざってくることを歓迎したい。生きてると、つねに何かにまみれます。読書というのは内面を聖域に置かないことです。そうすることで決して知ることができないというものの、感触、気配を一瞬垣間見ることができるんじゃないでしょうか。

 小説家の稲葉真弓さんが谷崎潤一郎賞のインタビューで、「小説は、登場人物に託して様々な人生を描ける。本を書くたびに、生き直している気分になります」といっています。すごく深い言葉です。読者も小説を読むとき、何種類もの人生を生きていくっていうことなんですね。

1962年大阪生まれ。19歳でパンク歌手デビュー。97年に小説「くっすん大黒」で、野間文芸新人賞、Bunkamuraドゥマゴ文学賞、2000年には「きれぎれ」で芥川賞を受賞。その後も「権現の踊り子」が川端康成文学賞、「告白」が谷崎潤一郎賞、「宿屋めぐり」は野間文芸賞を受けた。






俺はほんまに我が強い。
動物占いも我が道を行くライオンだから、当たってるんだよね。
我が強いと言うのは自己中心的で我儘で自分の考えを押しとおし、押しつけるということではない。
それはただの僕の一面やんか。
我が強いと言うのは、俺は俺を強く知っていて、がそのために、俺はこれこれこうだ、とはっきりともの申すことができるので俺は俺と言うワレをしっかりと生きてる実感にみなぎるとして生きているのかなっていうか、どうなのかな。
ここでそう生きているって断言しないと我が強いなんて言われないし思われないし俺も思えないから、俺はまあここは断言しておきたいとこかなって思う時もあったのだろうかと我は思ふ。
俺はでも俺の感情も理性も俺だと思えないのでじゃあ俺ってなんのことなのかな。
俺は確かにやりたくないことは絶対にやりたくないし我慢してやったり言ったりしないし相手が傷つこうが苦しもうが俺は絶対俺を曲げないし俺はただ自然体でいることが一番楽なのでそうしてるだけ、我を通すとはしかしそういうことだと僕は思わないけど。
たとえば赤ん坊だって糞したい時に糞して乳飲みたいときだけ乳飲んで泣きたい時に泣いて笑いたい時に笑ってて自由奔放やりたい放題だがあれはまったく我を生きているとは言い難い代物だ。
大人になったってそれは同じじゃないか。
俺はアカン坊なのか。
俺は少し吹っ切れるところがある。
何故、俺がそこまで赤子のごとくに好き放題して生きられるのか。
俺はもしかしたら我を捨て切っているからではないのか。
己れを捨てる、世捨て人というのは捨てているのは世ではなく自己のほうではないのか。
世捨て人成る者自分を捨てなくては苦しいばかりだ。
自己を捨てることがつまり世を捨てることになっているのではないのか。
俺は人から我が強いように思われがちかも知れまい。強き我を持っていて我を生きていると。
俺はしかしこんな悲しいことを言いたくもないけれど、なんだか生きるほどにどんどん自分に興味を失っていくようだ。
何故だかは分からない。でもほんとうの感情だ。俺の内にたしかに在るような感情だ。
俺は自分に興味がない。
それでも小説を書きたい。
俺はいったい何に興味があって小説を書きたいのだろうか。
悲しいことかどうかもわからなくなるが、俺はみんなが自分探しの旅に出かけてるとき自分を捨てきる旅に出て必死になっているのかもしれない。
自分を捨て切らないと書ける小説がないとどこかで思ってるのかもしれない。
自分を破壊して行く旅に、自分を破壊していく度に、破壊して破壊して破壊しても破壊できない自分がいるのかどうか、それを試すために、俺は自分をこの自己を我を己れを内面を破壊し尽くさんわけにはゆかぬ、どうしてもゆかぬ、どうしても最後の最後の最後に残るものを破壊して一体なにが残るのかをこの我が目で見届けるまで死ぬわけにゆかぬ、糠湯。

私をとりかこむのは

私をとりかこむのは
銃声と白い綿毛
私をとりかこむのは
奇形の燐と烏瓜の実
私をとりかこむのは
爆ぜる月の欠片と円筒
私をとりかこむのは
青い稲穂と猿のケツ
私をとりかこむのは
幽霊船と銀河から垂れる足
私をとりかこむのは
死んだイエスと水無し川
私をとりかこむのは
鼓膜を走る汽車と古い写真
私をとりかこむのは
燃えさかる海とさかさの地上
私をとりかこむのは
自由という牢獄と牢獄という自由
私をとりかこむのは
つめたくなった生き物と傾く日
私をとりかこむのは
私というイマジネーション

反転

もうほとんどが腐っていたんだ。
俺のベランダに在るなにもかもが。
ほぼ腐っているものばかりだった。
盥の中には3匹の腐った蛇が死んでいたし。
それをベランダにあけると腐った水が俺の足に浸って。
俺の足に腐った水がかかりよるんだよ、俺の足に腐った水が。
亀は三匹、なぜだか無事だった。
どうやって水槽から出たのだろうか。よじ登れる高さじゃないのに。
隣との境にある下の隙間には腐った皿に入ったおかずやらが。
全部腐ってるんだ、腐ったものを置く必要があって置いてるようなんだ。
横の隙間から覗いたら、隣に部屋なんてなかった。
あったのは俺の部屋の開かずのベランダ。
壁しかない。じゃあなんでこんな壁があるんだ。
狭く汚いそのベランダ。一体何のためにあるんだ。
窓がないんだから、ってなんだよこの壁は、壁の意味はなんだよ。
意味のないベランダが怖いんだよ。
死人がずっとそこにいるような、そのベランダが。
罅状に茶色くなったその床。隙間から覗けば。
そうだ、学校にいたんだ俺は。
教室の中みんな座ってた。
窓の外は景色がネガポジ効果を反転したような。
変な世界で外に出れば黄色い入道雲がもくもくと黒い空に浮かんでいた。
人に教えた瞬間もう雲は色を変えてしまうんだ。
教室に戻れば中も変だった。
みんな生きることを忘れたように見えるんだ。
授業中、先生もいない。ドアの外、誰かの声。
「爆弾がもうすぐ!わしゃわしゃわしゃわしゃ」
私はみんなに教えるより先に自分の身を守るため。
窓際の机の影、頭抱えしゃがみこんだ。
教室の中で爆発が起きるところを私は想像。
ヴィヴィッドピンクの明滅!私が観た色。最後に。
緑の入道雲、オレンジの入道雲、私がいる教室、私がいない教室、恒常。
昼間なのに黒い空。黒い人。
家族のいなくなった世界。
反転。

君の幸福

「4日間何も食べていない。よりを戻す気がないなら私をブロックしてください。お願いします。」そう何度も何度も頼んでも彼はスルーを決めていたのに、私が最終決断で彼の実名をネットにさらして「これを消してほしかったら私をブロックしてください」と言えばすぐさま聞いてくれた。私はそんな彼のために一週間彼が美味しいと微笑んでくれる手の込んだ料理を作るのにがんばっていたことを思うと悲しくなる。一体お前の愛と俺の愛とどっちが強いと言えると思ってるんだ?おまえは。所詮そこまでの愛で良くも偉そうに自分が正しいと言った顔をできたものだな。俺はこの20日くらい酒とパンとインスタントラーメンしか食っていない。お前は何食ってんだ?どうせ肉や魚を食ってるんじゃないのか。またぷくぷくと太って醜い容姿に成り下がってるんじゃないのか。可哀相だけどお前は一度家畜になってみたらどうだ?首を切り落とされる苦しみを一度は知ったらどうだ。お前は何も知ろうとしないんだから。俺がどんなに苦しいと叫んでもお前は笑っていたんだから。俺に正しい顔をしたいっていうならさ、「アースリングス」を観たらどうだ?お前はそれをしないで自分の苦しみばかりに目を向けて俺の考えを怖いと言ったじゃないか。俺はでもおまえたちのような自分本位の幸福をまず追求する考えのほうが怖いんだ。お前はほんとに小学生のようだったから今から十年後にはまだ高校生なんじゃないかと思っている。成長を望むなら自ら苦しみを望むことだ。それらはお前に真の喜びというものを与えてくれるだろう。お前だって一度や二度は聞いたことがある筈だ。賢い人格者は誰もが言っているからだ。真の喜びとは自分の幸福よりも他者の幸福を願うことにあるのだと。人格者は誰も言っていないぞ、まずは自分の幸福を追求して、幸福の内に余裕が出てきたら初めて他者の幸福を願うことができるのだ、などと。言っているのはしかし大多数だ。お前の考えは大多数の考えだ。人格者のその考えに賛同するのは少数派だ。お前は今日明日家畜になったっていいんだよ。そうだろう?だってお前は家畜の肉を食べているんだろう?お前は今日自分が家畜にならない覚悟で家畜の肉を食っているのか?違うだろう?そうだというのか?そうだと言うのならお前は本当に一度「アースリングス」を観たらどうなんだ。お前は言ったじゃないか、「ただ死ねないから生きてるだけなのかもしれない」と。生きる喜びがあれば、そんなことは思わない。いいや、生きる苦しみがあれば、もっともっと強い苦しみがあるなら。生きる苦しみとは自分の苦しみだけじゃないから、人は漠然と絶望に陥るんだ。他者の苦しみが関係しているのに、それをわかってて、見るのがつらいと言って見ることを避けているからだ。そこに絶望があるんだ。本物の絶望が。他者の苦しみに真剣に目を向け出したら、もう人はただただ打ちのめされるばかりだ、それまでの苦しみを超えるものが確かに存在しているということだ。そうなるとその時点でもう自分だけの幸福など追求することができなくなる。今すぐになんとかしなくちゃいけない!と切迫するからだ。お前の首を切り落としてやるから来い。と言ってもお前は嫌がるだろう。でもお前はそれをしているんだ。お前の嫌がることをお前はしているんだ。何故自分は嫌なのに他者にはしていいんだろうな。お前は悔しくないのか。自分に対してだよ。他者の地獄に目を背けて自分の欲望を優先している自分に対して。俺は自分に対して悔しくなったんだ。と同時にそれに気づけるための苦しみが自分に与えられてきたことに感謝した。他者の苦しみに気づくには自分の苦しみがどうしても必要なんだとわかったんだ。それも俺には30年余りの苦しみが必要だったことになる。苦しみ続けないと気づけないってことなんだ。30年も、母親が死んでからにしたら26年だ。26年苦しみ続けないと気づけない他者の苦しみだったんだ。26年苦しんでようやく気付けた。俺はその間には父親の死という地獄の経験をした、その8年後にようやく気付いたんだ。本当の地獄を経験しても8年かかったんだ。たやすく気づけることじゃないってことを言ってるんだ。これは、自分が幸福になってからようやくその余裕で気づけるというたぐいのものではないということなんだ。ざっと俺では26年間の苦しみがどうしても必要だったと思う。苦しみがほぼ占める26年間だ。26年間の絶望と言ってもいい、26年間の絶望の時間が俺にやっと、やっと他者の苦しみに目を向けさせてくれたんだ。真剣に目を向けさせ、俺という生物に自分に近い哺乳類と、鳥類の肉を食べないことをまず、やめさせてくれたんだ。そして、その5カ月後には食欲に負けて魚介類を2年半余り食べ続けたが、また菜食に戻って、戻るともう魚介類を思い浮かべるだけで生臭さを感じる。食べたいという欲望が食べたくないと言う気持ちに負けるんだ。生理的に受け付けないと言うところまで来れるんだ。人は。無理じゃないんだよ。血を流すということが平和に繋がることができないんだ。誰かの血を流すということが。誰かの血は誰かの涙だ。屠殺の前に涙を流す生き物は牛だ。うちのうさぎのみちた、3月8日で7歳になったんだ。鬱がひどくて写真一枚取れなかった。人間で言うと58歳くらいらしい。もうシニアのフードをあげている。彼は抱っこするだけでものすごく嫌がるんだ。捕まえられるということが=殺される、ということだと本能的に知っているからだと言われている。触ると温かく、柔らかい。こんな温かい生き物を毎日殺して解体して何故食べなくちゃならないんだろう?君はうちに来てみちたに触れたことがあった?僕は見なかったけど。君は動物が好きだと言っておきながら触ってくれなかったから本当は好きじゃないんじゃないかと思った。触るとふわふわしていてあたたかいんだ。僕よりずっと小さな生き物だけど、毎日懸命に餌を食べて水を飲んで排泄をして生きている。何故だろう?それは生まれてきたからなんだ。この子が2年生きて、食肉に回されたなら、もうこの子は毎日懸命に餌を食べて水を飲んで排泄をして生きることはない。生きる時間がもうないからなんだ。あと長生きすれば10年生きられたかもしれないけど、その10年が人間の味わうたった20分程度で終えられたからなんだ。たった20分の味覚のために、この子の生きる10年が消えてしまったんだ。消えてしまうんだ。たった20分と10年を引き換えに。牛なら20年以上生きるようだ。でもたった20ヶ月ほどで肉にされてしまう。20年の牛の生きる時間と20分の味覚は釣り合うものなのかな。僕は君に「一緒に今度アースリングス観ましょうか」って言ったらすかさず「はい」と言ってくれた時すごくうれしかった。でももう別れてしまったから一緒に見れないね。もう君に会えないのだと思うといつも涙が止まらなくなる。7か月恋人でいたのにたった一週間しか一緒に時間を過ごせなかったことを思うと悲しくて仕方なくなる。僕は苦しみが足りないんだ、だから人にやさしくできない。僕はもっともっと苦しみが必要なんだ。だって結局は他者にやさしくできることこそが自分の幸福なんだ。君の幸福なんだよ。

「絶望を肯定する男」

絶望

多くの方は絶望的なもの、苦しみや悲しみ、不快なものをできれば避けたい、できればそうではないものを求め、それがないところが幸福だと思われてるかも知れません。

それは人間の本能的な欲求であるので、私にも備わっています。

しかしこの世界からそれらを一切消滅せしめることができて、幸福ばかりがある状態を想像してみてください。

愛されたい人に愛され、やりたい仕事ができて、何もかも思い通りにできるわけです。

願った瞬間にすべては叶えられるので、もう夢を見ることさえありません。


つまり人間は、願うことが叶えられること、これが人間の幸福ということになります。

叶えられたくないことを願う人はいません。

今、願いが叶えられていないと感じるから人は不幸を感じるということです。

しかしどんな絶望的に生きて苦しみや悲しみを感じている人でも、自分は不幸ではないと感じる人がいます。

その人を観た人は誰もが言います。あの人はなんて不幸なのだろうか、と。

しかし本人はちっとも自分が不幸だとは思っていないのです。

絶望や悲嘆や苦痛、人々が嫌うものすべてを持って生きているのに、彼は自分が不幸だとは思わないと言います。

何故かと訊くと、彼はこう応えます。

「何故って?そりゃあ、こういうことだよ。僕は僕の苦しみのすべてを僕自身が願い、望んで、そして叶えられた宝物だと感じているからさ」

彼はそう言いながらも、今にも泣きそうな悲しい顔をして言うのです。

私は彼に言います。

「それってぇ、おかしくはないかい?願いを叶えられたのなら、もっといい顔をしたらどうだい?なんで君はそんなに悲しい顔をいつもしているのだね?」

すると彼は泣き笑いの顔を浮かべてこう応えます。

「なにもおかしいことはないさ。よく考えてごらんよ。僕が望んで手に入れたのはこの絶望と悲嘆と苦痛なんだよ?僕が悲しい顔をしてないなら、そりゃぁ、まったく叶えられていないじゃないか。僕は本当に悲しいんだよ。苦しいんだ。息をしているだけでもね。僕の顔がいい顔と思わないのは君の願いと僕の願いは違うからさ。僕だって自分の顔がいい顔だなんて言わないよ?でもそれは否定してるんじゃなく、肯定した絶望感が僕の顔は醜いと判断するだけなんだ。でも全肯定しているんだから、本当のところは醜いとは思っちゃいない。難しい話だけれど、僕自身が苦しめば苦しむほど僕の願いは叶えられているんだと僕は感じるんだよ」

私はそれを聴きながら、彼の顔をじっと見ておりましたら、彼の塞ぎこんだ顔がいい顔に見えてくるのでした。
なるほど、彼は確かに変な話だが死にそうになりながら生きることを生き生きと生きておるように見える。

だとすれば、彼が不幸になるときとは、彼が周りから見て幸福に映るときであるのだろう。

最後に私は彼に今一番欲しいものはあるか?と訊ねたら彼は涙をうっすらと浮かべた目ではにかんでこう言った。

「生涯愛し合うたった一人の恋人」

私はそれってぇ、またおかしくはないかね、と言いそうになったが、彼の二つの眼差しがもうどこをも捉えていないのを見て、私は何も言うのをやめたのだった。

今になっても彼を思い出すときには私は、彼の幸福を想う時、いつでも彼の不幸を想っていたことをここに記し、筆を置くことにする。

暗闇

絶望

「アンチクライスト」の記事を書き終わった後また鬱と吐き気がやってきて横になって、少しうたた寝をして目が覚めてもまた恐怖と吐き気に襲われ酷く苦しかった。お父さんのことを想って少しだけ涙がこぼれた。涙を流すことに罪悪感を覚えた。恐怖と苦しみのなか朦朧としていつも真っ暗にして寝るのに今夜も闇が恐ろしかったから豆球を点してたその天井を見上げていた。隣から話し声が聞こえた、酷く不快で怖かった。しかし朦朧としているとある確信めいた声が自らの内部から発せられた。それと同時にさっきまでのつらい吐き気が一瞬でやんだ。不快だった隣の声もやんでいる。静まり返った夜の空気は本当に安らかでありがたかった。私の内部にわたし自身が疑う必要性もないほどに全身から信じられる声として響いたその言葉は、その病み上がりのような安心感に満ちたわたしと意識のない狂気を以て調和していた。
これは3月2日の夜のことだけど、一日経った今でも想いは変わらない。
わたしのなかに、もう恐怖はない。悲嘆と苦痛と絶望さえ、どこかへ逃げて行った。暗い森の中を裸で駆け抜けて行った。
わたしは、さっき二度目にアンチクライストを観た。わたしはもう闇を怖れない。なぜなら、わたし自身が、もう闇に融け込み始めた。
ここには闇がある。わたしをけっして置いてけぼりにはしない闇がある。
『わたしはずっと、お父さんに殺されることだけを望んでいた。』
町田康の「告白」をぱくった「天の白滝」は意識のないまま書き連ねて何故か父親と娘の近親相姦劇になったことからも私の本望が今初めて気付いたわけではなかったことがわかる。どのような結末へ向かうか私はわかっていた。前世では既に互いに殺めあったとした。
世界で最も愛するお父さんに殺されることが私の一番の救いだと確信するからわたしはもう吐き気もしないし恐怖も感じない。
わたしはなにより信じる。
わたしを信じる闇に眠らせ頭を撫でてくれたのはお父さんしかいない。
わたしの苦痛を鎖を恐怖を解き放とうとするのはお父さんしかいない。
たとえ、それが悲しい子の親への狂気であったとしても。
愛は狂気ではないと何故言えるだろう?
わたしはたとえお父さんに赦されたとしてもわたしはわたしをけっして赦さないのだからわたしが生きている以上わたしはわたしを苦しめ人を苦しめる。
わたしを解き放つことができるのはお父さんしかいない。
お父さんだけがわたしを解き放つことができる。
わたしをあらゆる苦しみから解き放ちたいと願うのは誰よりお父さんなん
わたしはなぜまだ生きているのだろう。
なぜお父さんのいない世界で。
なぜ笑ったり怒ったり泣いたり悲しんだりしているんだろう。
どんどん忘れていくばかりなのに、生きていても。
忘れないために生きていると言えるの?
つらいから思いだすことも避けてるくせに。
死んだら楽になる、楽になれる日を待ちわびている、そうじゃないの?
お父さんを思い出すことが恐怖なんだろう?
恐怖から逃げている。
暗闇の森の中を裸で逃げて行ったのは、私だ。
そして逃げて行ったところでわたしが出会ったのはお父さんの幻。
わたしはお父さんの幻に向かって怒り狂い、泣き叫んだ「なぜ私を愛してくれないの?!」
お父さんの幻は私を知らない。わたしはそれでも叫び続ける「なぜ私を見捨てるの?!」
お父さんの幻に掴みかかって押し倒し拳を体へ何度も叩きつけて叫ぶ「なんでなんでなんでなんで!」
恐怖から逃げるということは、恐怖が逃げたそこで待ち受けているってことじゃないか。
恐怖から逃げるために恐怖に会いに行ったんだ。
恐怖から逃げるためにわたしは暗闇の森の中に走って行き、静けさが安らかに漂う夜の森で落ち着きを取り戻し今これを書いている。

アンチクライスト


アンチクライスト [DVD]アンチクライスト [DVD]
(2011/09/07)
ウィレム・デフォー、シャルロット・ゲンズブール

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「ダンサー・イン・ザ・ダーク」のラース・フォン・トリアー監督の2009年の映画
「アンチクライスト」を観た。

夫(ウィレム・デフォー)と妻(シャルロット・ゲンズブール)が愛し合っている最中に息子が事故で死んでしまう。
そして二人はある理由から深い森の中へと向かう。

今日の早朝に観終わった後なかなか吐き気がやまなかった。
昼過ぎに眠って目が覚めたら部屋が暗く、まだ18時半なのに闇の濃さが恐ろしい。
とりあえず一回目観た感想を書き留めておこうと思う。

ネタバレを避けられないので、興味のある方は先に観たほうがいい。



この「アンチクライスト」という映画は救いがないわけではない。しかし救いがあるわけでもない。
感動がないわけではない、しかし感動があるわけでもない。一滴の涙もこぼれようとしない。
“カタルシス”ではない。
この映画に“カタルシス”を求めることは、あってはならない。
私は求めていたつもりはない。
だから観終わった後がっかりもしなければ悪い評価をつけることもしない。
この映画は私の期待通りだったのかもしれない。
いや、期待以上のものだ。
ジャケットを観るのもおぞましい。
この映画を観る前までは一縷の光があり、この映画を観終わった後はそれが幻だったのだと感じる。
映画を観終わった後、私は自分の運命に泣くことすらできない。
“悲嘆”“苦痛”“絶望”にさらなる感情が合わさることから私は逃げていたのだろうか。
眠らされていた“恐怖”という感情が呼び覚まされたような感覚で、闇を怖れている。
どのようにしてこの映画に恍惚に浸りカタルシスを感じて感動できるのだろう。
感動がないわけではない。この恐怖とおぞましさは感動以外のものではない。
この映画はハッピーエンドでもなければバッドエンドでもない。
この映画を支配しているもの、それは“混沌”しかない。
どんなに苦しいものでもそこに救いを見いだせるなら救いを感じるだろう。
私は救いを見いだすこともしなければ救いを見いださないこともしない。
この映画はわたしにとって、そんなに容易く結論が出ては決してならない映画だからだ。
シャルロット・ゲンズブールが演じた妻の罪悪はわたし自身の罪悪に他ならないからだ。
彼女の罪悪は私の罪悪に似すぎている。
唯一、この映画に一つの場面で恐怖にほんの少しだけ勝る悲しみを許されるなら彼女がひとり闇深い森で自慰行為を行うシーンに自分の哀れな姿を映して観てみたい。
自分を憐れむことで一層の自分に対する憎悪を吐き気を催しながら産み出すことができたらいい。
私と彼女の共通点は、性的快楽に耽って愛する者を忘れ、その時愛する者は苦しみの中にいた、そして愛する者が死んだことを自分の最も重い罪悪にしていることだ。
彼女の場合は小さな息子で、私の場合は父親だ。
自分がたどる結末を見せられたような思いだ。
最近夢でよく父親に向かって怒り叫んでいるものを見る。
彼女が夫に向ける怒りと同じだ。
私を捨てないでほしいという切実な思いが自分を捨てるのではないかという不安から我を見失うほどの怒りに変容する。
まるでウィレム・デフォー演じる夫が父親のように見えてしまった。
観るのが耐えがたいシーンの多くはそのせいもあったのだろうか。
目が澄んで綺麗なところとか父親とよく似ている。
だからあの最後で吐き気がやまないのは当然のことだった。
これで涙を零したり、カタルシスに浸るならそれこそ狂気だ。
この映画は光以上の闇をわたしに与えてくれた。
ラース・フォン・トリアー監督に心から感謝の意を込める。

あらゆるものを消し去っていくとカオスに辿り着く。
しかしそこには消え去っていないものを人は見るだろう。
それが“悲嘆”“苦痛”“絶望”であり、そして“恐怖”だ。