省察という生察

俺がまだおまえを赦してないのに、何でおまえは反省しているのか。
俺はおまえを赦してないんだから、おまえが反省しても、内省しても、ちっとも嬉しくない、むしろ腹が立つし、やめろ、つまらない、何故なら、おまえのその反省は俺のためにしているのではなく、おまえ自身のためだけにしているだけだからだ。
おまえが苦しむためにしているのだとしても、それはおまえだけのためにしているに過ぎないからだ。
おまえが反省したところで俺はおまえを赦せないのだから、一体何のためにおまえは反省しているのか。
違うか。
おまえは確かに俺をいまだ苦しめ続けているわけだが、おまえはおまえが反省さえすれば俺がおまえを赦すとでも思ったのか、おまえの罪を俺が赦し、おまえを俺が解放することが出来ると思ったのか。
もしそうだとすれば、全くの逆効果をおまえは生み出した。
俺はおまえが反省するたびにおまえをより許すことができなくなる。
憎いからだ、反省して苦しんでいるおまえが。
俺はおまえに言ってやろう、おまえに苦しめ続けられている俺がおまえに言ってやろう、おまえは苦しむ価値もないよ、と。
なぜか解るか、おまえのその苦しみ方は、俺がおまえに苦しめられた苦しみ方とは違う苦しみ方でしかないからだ。
違う苦しみでおまえは許して欲しいと思ってる?思ってない?
どっちにしろ、こんなに苦しんでるんだというおまえを俺になんで見せるの?
まるで俺の苦しみを、おまえのその苦しみで返せるものだと言われているように感じて、俺の苦しみをそんなに小さい苦しみと同じ程度だと思われてるみたいで、本当にあなたが憎い、より憎まずにおれません。
だから俺はおまえに頼みたい、おまえは苦しまなくていいよ、おまえは反省なんてしなくていいよ、おまえが俺の苦しみを本当の意味で理解できるまでは。
おまえは苦しむ価値もない、おまえは反省する価値も内省する価値もない。
おまえは俺の苦しみを想像することさえできてないんだ、だから反省できるし、内省できるんだ、だから俺がおまえに言ってやる。
おまえが反省すること、それが俺にとってまったくの無意味だ。
泣くな、落ち込むな、苦しむな、悲しむな、おまえはその価値もない。
おまえの浅い内省、聞きたくねえよ。
おまえがやることはそれじゃないだろう。
おまえがやることは、俺の苦しみを、おまえの苦しみにすることだろう、違うか。
内省したらおまえが赦されるわけではない、俺はおまえを赦せないんだよ、まだ。
おまえはそれだけのことを俺にしたんだ。
俺が望むこと、おまえに望むことはただの一つ、俺と全くの同じ苦しみをおまえがいつの日か苦しみなさい。
そしてそれとはまったく関係なく、俺がおまえを赦す日はくるんだよ、でもそれはおまえに関係していない。
おまえの態度や言葉や謝罪、なんにも関係していない。
俺がおまえを赦すことは、俺だけに関係しているんだ。
だからおまえは、おまえだけのために、反省するな、俺はそんなことを望んでない。
それよりも、どうすれば俺と全く同じ苦しみを苦しめるのか、考えて欲しいと思います。
おまえは俺の心を、戻れない苦しみのところに置き去りにして、俺が直接おまえに俺はおまえがやったことで俺が苦しいと訴えるまでおまえは俺の苦しみに気付けもしなかった。
俺はおまえに違う苦しみで苦しんで欲しいなんて思ってないよ。
おまえは俺と違う苦しみで苦しむ価値もないと思うほどおまえが憎いんだ。
おまえがどんなに苦しもうと、俺と違う苦しみで苦しんでるだけだから、憎しみは消えない。
どんなに難しいことか解るだろう。
ほんとうの反省というものがだよ。
ほんとうの反省というものは、苦しめた相手と同じ苦しみを経験できるまではでき得ないことなんだ。
だからおまえがどんなに反省しても、俺に届くことができない。
どんなに悲しいことか解るか。
人を一生苦しめるということがだよ。
おまえは確かに俺を一生苦しめると思う。
おまえが本当に反省したいというのなら、俺と同じ苦しみを経験したいと望むことだ。
何よりも、どの経験よりもだ。
それは、いつの日か俺がおまえを赦してもだ。
おまえ自身が俺の苦しみを苦しみたいということ、それにしか反省がないのだとおまえ自身が信じることができるまで、俺に何一つ届かないのだと俺はおまえに言う。
俺の言ってることはおかしい?
相手の苦しみを苦しみたいとも思わないでする反省に意味があるとおまえは思っている?
例えば人の子供を殺した人間が、その親の苦しみを苦しみたいと思わないでいるのに反省していることに意味はある?
相手の苦しみを苦しみたいとも思ってないのなら嘘っぱちの反省よりも前文自己弁護の言葉を読むほうがずっとマシだよ。
俺はだから自分が相手の苦しみを苦しみたいと思う気持が相手に伝わらないでいるのに反省や内省をしているのがすごく浅はかに思えて、そんな反省するくらいならまったく反省することなく死んでいくほうがええと思っている。
全く同じ苦しみを経験することができなくても、毎日想像することはできるが、想像していれば相手の苦しみが和らぐわけじゃない、譲れないものなんだよ、何が譲れないって、おまえが俺の苦しみを苦しみたいと思うほうへ行くか、おまえが俺の苦しみを苦しみたいとは思わないほうへ行くか、このどっちにおまえが行くか、それだけを俺はおまえに見ているんだよ。
どこでどう暮らしているかもわからないおまえに、俺は見ているんだよ。
おまえはいつも俺に見られているんだ。
俺がそれを、自分の死を引き換えにしても望んでいる以上。

人間が人間を殺し続ける世界

ビートたけしの死刑廃止論に「たけしさん、そりゃないよ…」と落胆の声

たけしは農業をすれば殺人が許されるとは言っていないし軽はずみに言ってるわけでもない、死刑存置論者は被害者の立場になれとよく言っているが、存置論者は加害者の立場に立てていないから自分のやれてないことを相手に求める棚上げになってしまっている。

でも廃止論者は加害者の立場にだけ立ってるわけじゃなく加害者の死刑によって被害者が救われないと思うからこそ言っている。

罪を償わずしてただ命を奪い返せば遺族は救われるのか、母親を父親に殺された大山寛人は父親が死刑確定になり、父親の死刑執行の日を恐れ打ちひしがれて生きている。
彼は被害者であり、加害者の家族だ、被害者と加害者の両方の立場に立つ彼は父親の死刑を望むことができない。

多くの遺族の方も加害者が自分の家族であった場合、同じように死刑を望まないのではないだろうか。
知らない人間だから死刑を望むというのは、家族であったなら大切な人間であった存在の死刑を望むということになる。
大切でなかったから死刑を望むということになる。
しかし実は相手は冤罪で本当の犯人は自分の家族だったとなれば途端に死刑を望むのは多くがやめるのではないか。
つまり人間は、自分の大切な者は死刑にしたくないが、知らない人間は死刑になって構わないという利己的な想いによって死刑を望み、死刑が行われ続けているということになる。
加害者が自分の大切な者の命を奪ったという利己的な行為を否定しながらも、大切な者を奪われた被害者の利己的な想いは肯定するというその利己を問題としないままで、果たして被害者は救われるのだろうか。
自分の愛する者だったなら代わりに自分が死んでやりたいと思ったかもしれないほどの存在であるその加害者を死刑にすることは、いったいどのような悲劇の連なりになっているかを考え続ける時間を一生失うほうが、果たして本当に遺族の救いとなるのだろうか。
利己に利己で返す、この利己の連鎖が人間を救うことができる一番の方法なのか。
救いとはなにか。
人間を苦しみから救うもの、それが利己であるのか。
自分の愛する者を殺した者を死刑にしたいということは、自分の愛する者の命を救うためなら他人の命を奪っても構わないということと同じになってしまわないだろうか。
自分の愛する者を殺した者を死刑にしたいが、自分の愛する者より他人の命を救う者があるだろうか、これはいないだろう。
自分の愛する者だけ助かって欲しいと願うこと、それが利己というものだ。
利己によって救われる者はいるか。
憎い者を死刑にすることで本当に救われる者はいるのか。
殺人を犯した人間の母親と父親が違う人間だったらまず殺人は犯さなかったが、その子供だけを死刑にして救われる者は本当にいるのか。
本当にいるなら私は会いたい。
人を殺して、本当に救われる者はいるか。
殺人者を殺して、救い出される存在はいるか。
殺人者を殺害することによって生きる喜びを取り戻すことのできる者はいるか。
死刑は死の刑でなく、殺す刑であるとみんなわかっているのだろうか。
勝手に死が訪れる刑罰ではなく、人が人を殺すという刑罰であることを、人が人を殺すことを望んでいるということをみんなしっかりと想像できてるだろうか。
国家に雇われた人間が人間を殺し続けているこの国にどんな平和な未来をみんな描くことができてるだろうか。
どんなに平和な未来を思い描いても、その国の隅では人間によって人間が罰として殺されている。
死刑のある平和な国。多くの人が望んでいる平和な日本。多くの人が望んでいる平和な国の死刑。
子供に「日本はどんな国なの?」と訊かれて「死刑のある国だよ」と応えたくないのに死刑を望み続ける。
死刑のある国日本の平和な未来を子供に描かせることもできないのに死刑を望み続ける。
人間の救いとはなにか、平和はどうしたら近づけるのか、戦争に反対しながら死刑を望み続ける、人間が人間を殺すこと、人間が人間を殺すこと、人間が人間を殺すこと、戦争と死刑と殺人事件、共通している、人間が人間を殺すことに違いない。
人間が人間を殺し続ける世界。
人間が人間を殺し続ける世界。
人間が人間を殺し続ける世界。
人間が自分と同じ人間という存在を殺し続ける世界。

七つの夕方

「お父ちゃんはさつ人しゃ」
    
                                 1ねん3くみ  きりじま れい


ぼくのお父ちゃんはじつはさつ人しゃです。
このまえ、お母ちゃんがお父ちゃんに向かつてさけびます。
「ひとごろしのくせに!」とお母ちゃんがおこってお父ちゃんにいうと、お父ちゃんはとてもショックをうけたかおをしています。
で、お母ちゃんは自分でいつたあとに、すぐにハットしたかおをしてゆうてもうたわ、とゆうかおをしますた。
それでお母ちゃんは泣きながらすぐにお父ちゃんにあやまつてますた。
お父ちゃんは「べつにあやまることないよ」といっておかあちゃんのあたまをナデナデしてぼくのかおを見ますた。
お父ちゃんはいつもかなしそうなかおをしてるけど、いつもよりもっとかなしそうなかおのよなきがします。
ぼくもなんでかかなしかったでした。
さつ人とゆうのは、人が人をころすことだとゆうことでした。
どおゆうことだかぼくはかんがえた。
いっしゅうかんくらいかんがえたのによくわからないでした。
でも、それはとつてもとつてもかなしいことなんだとおもいます。
おとうちゃんが、いつもゆーうつそおなかおをしてるのもそれにかんけいしてるんだな。
ぼくはいちど、お父ちゃんに「ねえねえ、さつ人しゃってどおゆうことなの?」とききます。
お父ちゃんがトイレに入って出てこないので、ぼくはまちます。
出てきて、いいました。「さつ人ってゆうのは、人が、ぜったいにやったらあかんことやで」お父ちゃんはそれだけいきをぜーぜーいいながらいって、おそとへ出て行ってしまいます。
ぼくはこころのそこからこおかいした。
お父ちゃんがかえってこおへんかったらどないしょお。
でもお父ちゃんはなんと39分でいえにかえってきたのだった。
ぼくは泣いていたのに、お父ちゃんはなんでかすっきりしてそおなかおで、すこしはらたった。
でもお父ちゃんは泣いてるぼくのあたまをいつもやるようにクシャクシャしながらナデナデしてくれた。
ぼくのはらの虫はそれでおさまつた。
だから、ぼくは、おとうちゃんに、あやまつた。
で、お父ちゃんにいいます。「ぼくは、お父ちゃんがさつ人しゃでも、ええで。おとうちゃんがさつ人しゃでも、ぼくはかまへん。だっておとうちゃんはぼくにやさしいし、ぼくはだからお父ちゃんが大すきやし、だから、だから、おとうちゃんはそないにかなしまなくてええとおもう」
おとうちゃんは、ぼくをだまって見ていた。
なんか、ボーットしたかおだった。
それからなんでかお父ちゃんは二日かいしゃを休んだ。すごくしんどそうだった。
ぼくはもお、どうすればいいのかわからない。
先生、おしえてください。
お父ちゃんがやつたことは、どおゆうことなんやろう。
どんなにたいへんなことなのか、ぼくはかんがえてる。

ところで今日は、七夕の日です。そうです。ぼくのたんじょびです。七さいとなります。
今日、少しねつが出てがっこうをお休みしたのでみんなからプレゼントのおたんじょびカードをもらえなくてざんねんでした。
今はもう元気です。みんながもうがっこうからかえってるじかんです。
おきたら、お母ちゃんがいませんです。いえでひとりぽつちでこころぼそいなおもってると夕ぐれがやってきておそとがうすぐらくなってきてぼくはふしぎと元気になってきてるです。
きっともうすぐお母ちゃんがかえってくる、お父ちゃんももうすぐかえってくるんやろな。
そういえば今日の七夕のたんざくのやつ、ぼくだけまだかけてなかった。
一回目、たんざくにぼくはかいたの。「ワニってなにくうてんのかな、で、なにかんがえてんのかな」ってゆうやつ。そしたら先生が「これはおねがいごととゆうよりかただのかんがえごとみたいなしつもんみたいになってるやんか、そうじゃなくてかなつてほしいことをかくんやで」といわれて、かきなおししなくちゃならなくなったのでまにあわなかったんです。
で、ぼくはひつしにかんがえてまたかきます。もうたんざくにかざってもしゃーないけど、せっかくかいたから先生におしえたげます。
ぼくのおねがいごとはこおです。
「みんなで、わらいえある日が、くるとええな」
これをお母ちゃんがかえってきたらいえにかざつてもらえるかどおかきいてみました。

おわり。

応答のない世界

おまえはどうしている?
俺を知っているか?
身が持たへん、生存をやっていけるか?
原生の日を、おまえは覚えているか?
ゆかざるもののゆきいゆく数分が見えるか?
おまえがきみになれるか?
ソーラー線の見えない軌をばむし起こせるか?
真期存命を押収する者たちへ、人界ボイルだよ。
もじかく、エリアヴホンソヴィアルヤヌゴ、おまえ、どこおんねん。
連命、連命、アイアンの相異ザームージィーシ。
ジュクォシティルダムヴェン、ええかげんにせえよ?
応答のない世界。












「死刑でいいです」

山地悠紀夫は最期まで母を殺したことを反省することができなかった。
何故だろうか。
彼は母親の男関係に凄まじく嫉妬していたのではないだろうかと私は思った。
父親に育てられた自分がそうだったからだ。片親で育つとどうしてもそのような依存的な愛になりやすいのではないか。
私はそれでも父から愛されている感覚が充分あったが、山地はだんだんと母から愛されていないと感じるようになっていったのだと思う。
そしてそんな時に彼女ができて母への愛の欲求を彼女へと移そうとしたが、母への愛憎は増してしまった。
彼は母が自分より他の男を愛しているように感じていたのではないか。自分にはまったく心を開いてくれない、借金の理由さえ教えてくれない、でも他の男にはもしかして心を開いて自分には話せないことも話しているのだろうか、そう思う母が許せない。なのに母は彼女の携帯に頻繁に電話をかけてきて詮索しようとしている。自分でさえ母の詮索を思い留まって我慢しているのに、母はなんの気遣いもなく堂々と勝手に詮索をしてきた。自分だって母に心を開けないことは同じだけど、それでも詮索はしないという母への配慮と敬いがまだあった、でも母はそれすらなかった、本当に勝手に自分のことしか頭になかった、そんな思いが彼の中にあったのかもしれない。
彼には、母親を殺したことをどうしても反省できない理由があると思った。
何故なら、母を殺したことを反省することは、同時に母に愛されなかった自分を認めてしまうことだったからじゃないか。
彼が殺したのは紛れもなく自分を愛さなかった母親だ、しかしそれは同時に母に愛されなかった自分を殺したのではないだろうか。
母に愛されていないことを完全に認める前に、母に愛されていない自分を殺す以外になかった。
絶対に認めたくなかったからだ。
しかしそれを後悔して反省してしまえば、それは自分が母にやっぱり愛されていなかったことを認めることになってしまう。
愛されていないことを認めたくなかったから殺したのに、愛されていない自分を殺したことで、もう愛されていない自分は存在しなかったはずなのに、それを嘆いてしまえば、やっぱり愛されていない自分が今もいることを認めることになってしまう。それはどうしてもできなかった。山地はどうしてもそれをしたくなかったのではないか。
母親が憎いと何度もそこへ戻ってきたのも、それは母に愛されなかった(過去の)自分を憎み続けることしかできなかったからじゃないか。
自分を愛してくれなかった母を殺すことで母に愛されなかった自分を殺すことができた。
もうそれは過去のことで、自分を愛していない母はもういない、母に愛されていない自分ももういない、彼はそのように自分の感情をいっさい殺そうとし、根源にあった自己憎悪を表面的な自己憎悪に変化させ母を許せないとまるで壊れた機械仕掛けのように無機質さに溶かし込んだ心から発していたのかもしれない。
山地に感じる微かな不気味さはそこにあるのかもしれない。でもそんな彼も俯いて涙を流すこともあった。
人間は何をしても壊れきることができない存在の証しのような気がした。
このように手掛かりのない憶測ばかりしてしまうのも、彼が手記を残さずして死刑に処されてしまったからだ。
山地は手記を出したいという気持があったがそれが叶えられなかった。
惜しいと言わざるを得ない。
一人の人間の深い悲しみが世に知れ渡ることがなく終えたという無念の悲しみを我々はずっと悲しみ続けるしかできない。
浅い手掛かりだけから彼の人生をどこまで夢想して苦しむことができるか、自分の力に頼るしかない。
私は殺人者を夢想すればするほど、快楽殺人というものは存在しないのだということを感じている。
人を殺したいというほどの命に愛着を持った人間が、ほんとうに快楽から殺人を行うのだろうか。
結果的、殺人によって快楽を感じたとしても、それを行うきっかけは快楽欲求以前の働きによって行われていることは確かだろう。
結果にあった快楽は飽くまで結果の中に含まれていた一つの生理的な要素であって、それが動機になると私はどうも思えないのである。
連続快楽殺人とよく呼ばれるが、果たしてそれが快楽の飢えからなのか、自己破壊の飢えからなのか、快楽の飢えから自己破壊を試みるのか、それとも自己破壊の飢えから結果的それを行えたことによる快楽を感じているのか、後者の場合、快楽は動機ではないので快楽殺人と呼ぶのは違和感が否めない。
自己破壊欲求は自己憎悪という自己愛の愛憎から起こるもので、これが内に向かえば自殺になるが外へ向かえば殺人となる。
常軌を逸した快楽欲求とはセックス依存症やアルコール依存症、または過食障害などでわかりやすく自己憎悪からの自虐行為の欲求によって快楽の果ての自己破壊を試みる行為の欲求である。
つまり通常の快さを求めるような快楽欲求は決して常軌を逸しないものとなるのである。
快楽欲求本能が生物の生存するために必要不可欠なことからもこれを理解できるであろう。
それに反して常軌を逸する快楽欲求は生存を著しく拒む行為欲求から来ており、生存するための自己破壊欲求という矛盾した人間の心理はやがて放って置けばその生物の破壊に通じる一本の道になっていることからもやはり純粋な快楽殺人は私はないように思えるのだった。
よってどの殺人者も動機は快楽なのではなく、飽くまで自己破壊なのだということを私は言いたい。
快楽殺人という呼び名はただ快楽のために殺人を行ったと浅はかな偏見を呼びやすく、適当ではない。
しかし自己破壊殺人とでも呼ぶならその者の苦しみがいかに深いかを少しは想像してみる余地も生まれるのではなかろうか。
殺人者本人の言葉だからといってその言葉を鵜呑みしてはならない。
何故ならその者は自己破壊者だからだ。
自分が世に蔑まれ嫌悪と憎悪の目を向けられ続けるためならばどのような倫理から外れた言葉をも彼は話すだろう。
それよりは私はずっと意地を張って反省を試みなかった山地がふと隙ができたときに一度だけ涙を流したそのときの心情を胸に留めておきたい。
実際会ったらわからないが、やはり本人の手記ではない客観的な書物を読むだけでは残酷な殺人者に一縷の不気味さを感じることを拭うことが難しい。
殺人者の手記がどれほど貴重で大事なものであるかを改めて感じさせられる。
自分と同じ人間という存在を不気味に感じることは人間の根源的な苦しみのように思った。
何故ならそれは同時に自分の中にも在る不気味さに思えてならないからだ。
ほんとうにほんとうに冷酷で冷血な一滴の血も涙もない人間がもしかしているんじゃないか、その不気味さは自分の中に同じ不気味さが宿っているのではないかという恐怖に他ならない。
不気味な人間を自分とは全く別の関係ない存在だと排除するか、自分の中に潜む不気味さを見るように相手の闇を目を逸らさず見続けていくか、何を見たいか、何を見たくないのか、その自問自答を怠ることが実はほんとうの闇だったりする。
だから私は書き続けることをやめることが恐ろしいのだろうか。
見たいものだけを見続けることが恐ろしいのだろうか。
見たいものだけを見続けた結果、自分が闇の淵にふと佇んでいるのが見えないだろうか。

悲しみの子

酒鬼薔薇は生後半年頃から母親からの体罰を受けて育ったようだ。
私はこれを知ったとき、言いようのない悲しみに襲われ、悲しみが消えない。
母親を非難する気持はまったくない。
彼が殺人を止める術を持たなかったように母親もまた我が子に体罰を与えるのを止める術を持つことができなかった人間だからだ。
誰が悪いというわけではない。ただただその宿命が悲しみの終わることのないほどすべてが包み込まれているのだと感じて、その底の知れない悲しみに私はなんのなす術も持てない気がした。
彼のような人間を悪として避けることは容易い。しかし彼の悲しみを知れないことがどのように人間の悲しみになるかを思うと、悲しみの連鎖とはほんとうに止まることができないのだろうと感じた。
私は悲しみが悪とは思わない。
子供が一心に母親の愛を求めるのは何故だろう。
母親から体罰を受けても元気に生きていく生き物はいるのだろうか。
小さいときに母ライオンから虐待を受け大きくなっても肉を一切口にせず野菜だけしか食べようとしない傷ついたライオンがいた。
生まれ持つ習性、本能、体のつくりや機能などを変えてしまうくらいの傷なんだと思った。
ライオンは肉を食べるのが当たり前なのに野菜しか食べないライオン。
人間は人間を殺さないのが当たり前なのに人間を殺してしまった彼。
彼は愛を求めていたのに愛は与えられなかった。
愛の代わりに痛い罰を与えられた。
子供はあらゆるものを求める、腹が空けば母乳を求め、ケツの周りが気持悪ければ気持悪いのをどうにか取り除いてくれと求め、暑ければ暑いのをなくしてほしいと求め、寒ければ寒いのをなくしてほしいと求め、何から何まで求めるが、それらすべてを与えられても、それでも子供は泣き叫ぶ、まだなんかあるのかと近づけば顔をくしゃくしゃにして泣いてばかりでわからないからとりあえず抱っこしてみる、すると途端に泣き止んでなんだか嬉しそうな顔でこっちをじっと見ている、ああ抱っこしてほしかったんだなと親は気付く。
愛は子供が生きるために必要不可欠なものなのは、それがなくては苦しくてたまらないからだ。
愛して欲しいと愛の飢餓から泣いていると彼は痛い罰を受けたのだろう。
苦しみにさらなる苦しみを与えられながら育った。
ほんの小さい赤ちゃんの頃から苦しみに耐えながら、けなげにすごく頑張って生きていた。
彼が愛を喪ったのは生後半年の時だった。
私は彼の悲しみに気が遠くなる。
悲しみの種は必ず悲しみの芽を出させ悲しみの花をつけ悲しみの実を実らせる。
まるで、悲しみがいつまでも終わることがないようにと祈るように。
彼は悲しみの子である。
彼の悲しみは彼が殺す生き物たちの悲しみに繋がった、彼の悲しみは彼が殺した子たちとその子を愛する者たちの悲しみになった、彼の悲しみは彼を愛する者たちの悲しみとなった、そしてそれらすべての悲しみは彼の悲しみを深くした。

ボクがわざわざ世間の注目を集めたのは、今までも、そしてこれからも透明な存在であり続けるボクを、せめてあなた達の空想の中でだけでも実在の人間として認めて頂きたいのである。

人の痛みのみがボクの痛みを和らげる事ができるのである。


彼が当時声明文に書いたこの箇所が、彼の悲しみの魂の叫びだ。
「人の痛みのみがボクの痛みを和らげる事ができるのである。」この「人」の部分を書き換える。
「僕の痛みのみがボクの痛みを和らげる事ができるのである。」
彼は快楽から殺したのではなく自分の痛みを別の自分を殺すことで和らげないでは生きていけないところに達してしまったからだ。
今回の「絶歌」出版もそうでしかないと感じる。
生物が、生物を苦しめなくしては生きていけないということは、決して自己中心的な自己愛だけで語れるものではない。
肉食獣は生きるために草食獣を殺さなくては生きていくことが出来ない。
それは利己的な悪からではない。
生きていかなくてはならないからだ。
私は何匹も発生したコバエはしかたなく殺す。なのにふとコップの水の中にコバエが浮いていたらすぐに助けてやる。
殺しては生かしている。殺し、そして助けている。
彼も犯行の合間に道で拾ったカメを持ち帰り可愛がって育てていたようだ。
でもこれを、大抵の人間はやっている。
可愛いペットは大事にし、家畜は殺されて仕方ないと目を瞑る。
肉を買う人がいなければ、家畜は殺されない。肉を食べる人が家畜を殺していることになる。
害もなく、可愛い者だけは愛するが、愛することの出来ない者は仕方なく殺しているのが我々だ。
生物を殺して生きることは、自己中心的な自己愛だけで語れるものなのだろうか。
殺さなければ生きていけなくなったなら、家族は護り、他人を殺してでも生きようとする、それが戦争だ。
自分の大切な者とまったく知らない他人、どちらかだけを助けてやると言われれば、自分の大切な者が助かって欲しいと祈る、その愛を非難できる者は少ないのではないだろうか。
極限にあった彼は、今の彼は、自分が死ぬか、人を殺してでも生きるか、人を苦しめてでも生きるか究極の選択の中、自分が生きるほうを選んだ。
他人の相手が死ぬか、自分が死ぬか、極限の立場に立たされたとき自分の死を選択する者だけが彼に石を投げよ、とイエスなら言ったのかもしれない。
愛されなかった子が更生するために唯一必要なものは彼を愛することにしかない、これを我々はどれほど重く受け止めることができるだろうか。