橋が架かる
父は肺の病気で2003年の9月ごろから発病して12月ごろに入院して、死ぬような病気ではないと医者からは言われていたのだが、症状は一向に良くならず12月23日に病状が急変して悪化し、その日に麻酔で眠らされ一週間後の2003年12月30日の夕方に意識の戻らぬまま息を引き取った。
父が62歳、私は22歳だった。
12年前の今日の夜ほど悲しかった日がない。
その夜ほど本気で死んだほうが楽だと思えた日がない。
あの夜ほどどんなに泣き続けてのた打ち回ってもほんの少しすら悲しみが和らぐことのなかった日がない。
とにかく人生中で一番悲しい日で本気で自殺をしようと思ったが姉兄のことを思うとそれはしないことにした。
そして時が経っていくほど確かに悲しみは薄れてゆくかと思えば、確かに薄れてはいる。
しかし薄れるというのがなんとなく違和感を感じる表現に思う。
何故なら父が死んで数年の間は父のことはよく想い出して父のことを書くことも結構できてたが、それが時が経つほどできなくなってきた。
数年は喪失と悲しみであったのが、それがだんだんと喪失の深さの深まってゆく恐怖のような感覚になっているように、想い出すことが怖くなって来た。
悲しみは薄れているというよりも、奥へ奥へと押し込んでいるのかもしれない。
それはもしかしたら、奥へ奥へ、底へ底へと押し込まなければ耐え切れないような悲しみに膨れ上がってきているからなのかもしれない。
どうしてかは、わからない。
それは自分がその悲しみから逃げているからだと思うこともできる。
でも逃げるのもまた、耐えきれないからだから、やはり悲しみが深まって来てるように思う。
自分の悲しみを受け入れる皿が弱くなったと考えることもできる。
父を喪って数年間は強くなければ生きていけないという心の強さを持っていたのが、その強さがなくても生きていけるようになった、しかしおかしなことにそれと同時に、その弱さでは受け入れられない悲しみを封じ込めようとして、封じたのはそれは、まだ強くないと耐えきれないのにもう弱くても大丈夫だろうと甘く見て勘違いした自分の心であるかもしれない。
もうずいぶん悲しみは薄まって癒えたに違いない、もう弱い心でも十分耐え得るだろうと自分の心は自分の悲しみを侮った。
ふぅと息をついて、過去の悲しみを、喪失を乗り越えようとした。
しかし、見くびっていた。
自分の喪失は、自分の思ってたより遥かに大きなものであるようだった。
自分はもう十分苦しんだ、もう楽になりたいと思って自分は、この喪失を手放そうとしたのかもしれない。
自分でもわからない。
しかし今急に涙が溢れてきたのは、そういうことなんだろうか。
私はもうお父さんを忘れかけている、これが手放してしまったことの証だと、今わたしは何の違和感もなく感じることができる。
悲しみが薄れたわけではなかった。
悲しみを封じ込めたわけではなかった。
悲しみをわたしは手放してしまったんだと自分の流れた涙がまるで証のようだ。
しかしこんなことを言うと、お父さんはどんなに悲しいんだろう。
娘の私が生きるためだとしても、どこかでいま泣いてなければいいが。
12年目の一つの考え方であるから、これが本当のわけじゃない。
ただこうやって一年ごとにひとつひとつ考えを出してって、自分がどう変わっていくかは楽しみであるし、自分が他人になっていく感覚を感じながら虚しさも同時に膨れていくようだ。
最近こんなことを思った。
地球から一光年離れるたびに、地球の一年前の姿を見ることができるという。
十三光年離れて、地球の地上に暮らす自分の家の中を覗けるなら、そこには元気なお父さんが今も生きていることだろう。
さらに二十光年離れて覗いてみたら、そこにはお母さんも微笑んでいて、小さな私と幼い兄、その傍らには若い父が暮らしている。
不思議なことに自分が幼い頃の自分の姿を眺めることもできる。
三十四光年離れれば私はまだ母の胎内で眠っていることだろう。父も母も兄も姉も私のことをまだ知らない。
もう少し近づいて、私の誕生した夜を覗いてみる。
ぷってぷてのあかてゃんの私は母の隣で眠りこけている。
ふと気づくと私の手は一つのボタン装置を持っていた。
いつ手に入れたか覚えていないが、どうやらこのボタンを押すと、今見ているあかてゃんの自分をこの世界から消滅させることができるらしい。
普通に考えたら見ているこの自分も瞬間に消滅するだろう。
っていうか、どうやったら元の地球へ帰られるか方法を思い出せんが。
とにかく自分を消すか消さないかという選択肢を何故か神はわたしにいま与え賜った。
わたしを消すことができるとすると、わたしが存在したことでのみんなの喜びもなくなってしまうが、同時にわたしが存在したことでの苦しみや悲しみを消すことができうる。
わたしが存在したことでの家族の苦しみ悲しみは、わたしがどうにかできるものではないと感じる。
しかしそれがどうにかできるようになった。
可愛いあかてゃんの私が消えたらば、そりゃみんな悲しむことだろう。
しかしそれ以上の悲しみ苦しみを私はみんなに与えてしまったと思っている。いや、これからも与え続けることになるだろう。
ならば、いっそのこと、このボタンを押して自分を消してしまったほうがいいのではないか。
未来のことを何も知らぬような顔をして眠っておる自分は、じきに悪魔の子のように育つのである。
いったいどれだけの人を悲しませ、苦しめたことだろう。
その感情は、与えた喜びよりも遥かに大きいものだ。
自分の選択に架かっている。一本の橋が架かっている、その橋を渡る渡らないを自分が決められるわけだ。
なんという自由!
橋を渡ればすべては始まる。止まることのない歯車は回りだす。
しかし橋を渡らなければ、なにも始まることもない。私は死ぬのだ。本当の意味で。
私をこの世界から除き、あとのすべての歯車が回りだす。
秩序よく、なんの欠陥もなく、止まることはなく。
いつのまにか母の隣で眠っていたあかてゃんの私は目を覚ましてきょとんとした顔で虚空を何故か見つめていた。
わたしはほんとうにふしぎでならなかった。
あの赤ん坊は確かに自分なのに、まるで自分ではないようだ。
だがその瞬間、言い知れぬ憎悪が自分の世界を真っ暗な闇で覆った。
そしてこの赤ん坊は確かに自分なのだと実感することができた。
わたしはやっと決意した。私の全身の血は私の決意に賛成し、これを神の選択と疑うことなく肯定した。
あんなに強いしがらみも未練も死の腕が伸びてきて一瞬で断ち切らせたようだ。
わたしは宇宙の虚空にふわふわ浮かびながら目を見開いて無心で手の中のボタンを押し込んだ。
その瞬間に、小さな赤ん坊の自分の意識に移ったわたしは目の前の暗く寂しい橋の上を這うようにして渡り始めた。