ぼくは”音”と、”色”の関係、”音”と”色”と”光”の関係、そして”音”と”色”と”光”と”波(干渉)”の関係について、潜在意識でずっと熟考してきた。
そしてそれらは、”水(液体)”と関係していることに、気づいた。
”音”とは、”言葉”で在り、感情と思考というエネルギー(念)体であることにも気づいた。
それらのすべては、存在のすべてが、生まれる瞬間に生まれたものであり、ぼくらの存在とは、そのすべてであることに、ぼくは気づいた。
でも、ぼくらの本質的なものが音だとしても、ぼくたちは最初から、”音楽”であったわけではない。
言い表すなら、それは無機質な音であり、無機質な言葉であり、無機質な感情と思考であっただろう。
それらが、何を経て、音楽をみずからの内から紡ぎ出し、音楽を奏で始めるようになったのだろうか。
音楽とは、ひとつの物語である。
そのひとつの曲のなかには小さな物語が。作者が渾身を込めて創ったアルバムのなかには、壮大な物語が、隠されている。
一つのアルバムを聴き終わったあとに、言葉にすることのできない胸が苦しいほどの感動のなかで、心が打ち震えたことが、あなたにもあるのではないだろうか。
もしかしたらすべての存在が、そんな物語(生涯)を終えて死ぬのかも知れない。
でも世の中には、糞つまらないなと感じる音楽で溢れ返っている。
何故なのだろう?
何故、こんな聴き続けることが精神的拷問に感じるほどの糞つまらない音楽を沢山の人達が聴き続けて賛美したりしているのだろうか?
今までに、本物の才能を持ったアーティストたちが、ほとんど誰からの注目も浴びることなく、孤独に死んで行っただろう。
それはその作品が、あまりに先を行っていたから、ある次元を超えてしまっていたから、低次元の人々はそこに存在するものの価値が、理解できなかったからだろう。
だがゴッホやピカソやマグリットやアルチュール・ランボオや中原中也や町田康やRadioheadやラース・フォン・トリアーなどの作品の真の価値を、一体どれほどの人間が理解できているのだろうか?
ぼくらはその半分の価値も、理解できてはいないのではないだろうか。
長くなってしまったが、ぼくはぼくの最も愛し続けてきたアーティストの一人としてぼくのなかにずっと存在してきた”彼(Connor Kirby-Long)”の実に15年振りの、死の淵から蘇生した彼のニューアルバムを、言葉で表現することがやはり難しい。
ただ彼の復帰とこのアルバムを知った5日前(6月15日)からずっと、彼のニューアルバムをずっとずっと一日中聴いている。(それは聴けば聴くほどに素晴らしくなってくる!)
全体で37回ほど再生しているのにまだ、このアルバムをどう表現したら良いのか、頭を悩ませていて、そして何度とハッと気付かされる。
それは当然ではないか。
真に優れた音楽とは、真に優れたアルバムとは、”存在”が、生まれた瞬間から今までのその過程のすべての経験を、表現したものであるはずだからである。
そしてそこには、自分と他者という境界が、存在していない次元に存在している音たちの戯れが、物語を奏でているのである。
ぼくは、彼が生きて戻ってきてくれたことが、あまりに嬉しくて、彼の悲しみが、あまりに哀しくて、彼の新しい名義Cclcngの新しいアルバム「Niagara Falls」を聴きながら、すべての存在に対する存在としての根源的な悲しみと孤独を、歓喜を、みずからの内部の底の底の方で、感じつづけないではいられない。
Cclcng - Niagara Falls (QNR035)(彼のニューアルバムを無料でダウンロードすることができます。)
永いブランク期間に彼の身に起こったことについて、彼がインタビューに答えています。
最後に、ぼくから、人類に向けて言いたい。
彼は本物の天才である!
そして彼は、わたしたちと同じこの地球(次元)に、愛のうちに、生きている!