我が半生 誕生~幼少時

 1981年8月4日、私はこの世に誕生した。
 死に掛けの、状態で。
 生まれてきたばっかりなのに、死にかけてた。
 無言で黙って生まれてきた。のは何故かとゆうと。
 母の臍の緒が首に巻き付いて、泣声を上げることはおろか息苦しくて息も上手くできなくて死にそうだったからである。
 そしておまけに逆子であったので、私は大変、母を苦しめてしまったのだった。
 母が陣痛を覚え分娩室に入ったのは早朝であったとゆう、しかしまだ産まれてこんわ、出てこーへん、とゆうことでまた病室に戻り、それを何度か繰り返し、産まれたのは日も暮れた夕方だったとゆう。
 それだけ母を苦しめたのだから、いやぁ、ほんま、可愛い子やなかったら、しばくわぁ、と母は思ったか思わなかったか、知らないが、そうして生まれてきた我が子、しかも末の子と決まったぁるわけです、母がもう40歳のときの子でしたから。ちなみに父は母より学年一つ下の39歳だった。
 命駆けて産んだ我が子、その顔をとくと見せて、と我が子の顔を覗いて、父、姉、兄、その家族みんなで、わぁ、どんな赤ちゃんやろなぁ、とわくわくして覗いたその顔は・・・・・・。
 うわっ、あちゃぁ・・・えぇぇ・・・当時、まだ6歳だった兄も、おわぁ・・・ぶっさいくやな・・・こりゃひどいわ・・・。と思ったか思わなかったか、生まれたばかりの私の顔はそれはそれはぶっさいくで醜く、目も当てられないような顔であったとゆう。
 目は片目つぶってて、頭はいがんどったらしい。で、ぷってぷてやったらしい。
 でもしょうがないので、うちの家族は、そんな我が子を家に連れて帰りました。
 そして、親は我が子に、こず恵、と名付けました。
 母はエホバの証人であり、クリスチャンであったので、聖書の中に160回出てきて、そのうちの128回は新約聖書に出てくる「恵み」という言葉の、この恵という字から取ったんでしょうね、たぶんクリスチャンの母親なので、恵まれる子に、というよりも、人々に恵むことが出来る人間に育って欲しいという思いが強かったのでしょう。
 しかし、生まれてからちょっとの間までの写真がたった数枚しかありませんでした。
 その頃の母の育児日記には、「私たちの子だとは信じられない・・・・・・」と書かれ、それを読んだ中学生のときの私は笑いとショックが同時に起きる複雑な感情を経験することが出来ました。
 でも育児日記を読み進めると「日に日にすごく可愛くなっていく、嬉しい」などと書かれており、そのあたりから私の写真もとても増えていきました。
 その頃の私はいもいもの、むっちむちで、私の家族はいもむし時代と呼んでいました。
 母に抱っこされている私、父に抱っこされている私、16歳離れた姉に抱っこされている私、マンションのベランダで樽に入れられて、兄にぞうさんのじょうろで水をかけられている水着姿の私、いもむし時代の私は不機嫌そうな顔も多かったものの、満たされていた感じが写真から伝わって来ました。
 母と一緒に毎日のように奉仕に出かけていたので、真夏には真っ黒だったようです。
 しかし、そんな日々が長く続くことを神は許しませんでした。
 母は私が2歳のときに乳がんに罹っていることがわかり、気付いたときはもう末期に近かったといいます。
 すぐにでも手術をするしかないと医者から言われたのですが、手術以外の方法で治そうとしました。
 何十万と出して、あらゆる癌を治すと言われる商品などを藁をも縋る思いで買い、大阪から東京まで出て有名な癌を治す治療を行っている先生に会いに行ったりしました。
 私が大きくなってからも家にはその時のさるのこしかけや、癌の治療について書かれた本が何冊もありました。
 その頃、小さい私は母が入院している病室で、よく聖子ちゃんの歌をでたらめに紐をぐるぐるまきにして作ったマイクで母に歌って聴かせていたそうです。
 約2年間の闘病を経て、癌はいろんなところに転移して、結局手術をして、最後脳にまで癌が回りモルヒネを打ち、母は意識も朦朧とした状態でした。
 最期「何か食べたいもんないか」と父が訊くと、母は朦朧としながらも「お寿司食べたい」と言ったので姉は家の近所のよくみんなで食べに行っていたお寿司屋さんまで走って行き、その戸をまだ早朝で店は閉まっていたので、どんどんどんと叩いて、何事かと出てきたご主人に涙まじりで訳を話すと、ご主人も聞いてくれて急いでお寿司を握ってくれたそうです。
 そのお寿司を食べて、母は「美味しい」と言って、そのちょっとあとに息を引き取りました。
 私は母の生きてるときの記憶が何一つありません。なんとなくこれは実際の記憶かも知れない母を見ている記憶が一つだけあります。それはこんな記憶です。
 食卓のあった部屋で、棺の中に母は寝かされていて、鼻の中には白い綿が詰め込まれていました。その母を何人もの人が囲んでいる。私は兄の部屋に一人で行って、そこの押入れの前に掛かっている母が作ってくれた鈎針で編んだ紫の可愛いワンピースを見上げています。
 押入れにはその後もそこにずっと貼っていた黒地の大きな1985年のカレンダーが貼られています。
 父からその時の話を訊くと、私は葬式だというのに派手な赤やったか緑やったかのスカートを履きたいと言って駄々をこねてめちゃめちゃ泣き喚いて、父をひどく困らせたようです。ほんま、こっちが泣きたかったで、と父は言ってました。
 葬式が終わり、父は家でたったひとりになったとき、大声を上げて泣いたそうです。
 みんなの前では声を上げて泣くことはできなかったので、思いきり声を出して泣いたそうです。
 そしたら、すっきりした。と父は言っていました。母の話をしてくれるとき、父はいつも涙ぐんでいました。
 
 姉は18歳くらいで家を出ていたのですが、私の子守をするため、家に戻ってきました。
 しかし20歳の姉は家でずっと妹の世話をするのは退屈だし辛かった、つい「友だちと遊びに行きたい」などと父に言うと、父は怒って「もうおまえには頼まん!」と返し、姉を追い出してしまうのです。
 そして5歳ほどの私は父の母であるおばあちゃんと、父の兄である伯父の家族が住んでいる箕面の古い家に預けられます。
 枚方の家からは少し離れていたし、父も残業で遅くまで大手のミシン会社の営業をしていたので、父が働いてる時間だけ、というわけには行きませんでした。
 朝から晩まで、ずっと父とも兄とも会えない日々が続きます。
 おばあちゃんの家ではみんながとても優しかったです。そこの子供であるやんちゃな男の子を除いてはですが。
 おじいちゃんは父がまだ小学生の頃に死んでしまい、それから一人でずっと三人兄弟を育て上げたおばあちゃんはその頃82歳くらいやったと思いますが、腰がそれ以上は曲がらないというほど曲がっていていつもちいさく丸まっておじいちゃんの仏壇のある部屋に一人畳の上にじっと座っていました。
 わたしはおばあちゃんと一緒にいるのが好きでした。その部屋の縁側からは庭にたくさんのインコが飼われている籠が見えました。
 おばあちゃんは線香の香るその部屋でたくさんの話を私にいつも聴かせてくれました。でも悲しいことに、何一つ思い出せないのです。
 でも私が線香のにおいが大好きで、嗅ぐととても落ち着くのはおばあちゃんといたあの時間の臭いだからだと思います。
 おばあちゃん特有の静かで、ゆっくりとしゃべる、その話をじっと聴いている五歳のわたし。
 母方のおばあちゃんは母が死んで、すぐあとにおばあちゃんも後を追うようにして死んでしまいました。尼崎に住んでいたので尼のおばあちゃんと呼ばれていました。私は何も覚えてないのですが、姉が小さいときは、とても面白いよく喋るおばあちゃんだったらしいです。小さい時分の姉とおばあちゃん二人で喋ってたとき、二人で何かの話に一緒に壷にはまってずっと何十分もげらげら、うきゃきゃきゃと笑っていたことがあるようです。
 病気で臥していた尼のおばあちゃんの枕元に、母が息を引き取るほんのちょっと前の時間、母の生霊がやってきたとおばあちゃんは言っていたようです。
 母は7人姉妹とかの末っ子で、その末っ子が一番早くに死んでしまったことがあまりにショックだったんやろなと思います。
 母方のおじいちゃんも母が若い学生の頃に死んでしまいました。かなり変わった人やったらしくて、見た目は背がちびっこくて、まんまる眼鏡をかけていて、チョビ髭をちょろっと生やしたチャップリンにそっくりな感じで、見た目からして面白くて可愛らしいのですが、よく朝方に道端で一升瓶を抱えて眠りこけているのを、近所の人に教えられて家族はそのつど連れて帰っていたそうです。
 あとは、道端で見かけた粗大ゴミとかをなんでもかんでも意味のわからないものまで持って帰ってきて、家族はそのつど困り果てたようです。ものだけでなく、犬猫などもしょっちゅう連れて帰って、近所でも変人と思われていたそうです。
 でも写真ではとっても優しそうで臆病そうでもあり何処ぞの文筆家のような風貌でもある会った事もないおじいちゃんが私は好きです。
 父方のおじいちゃんはとても厳しい人やったようです。ご飯をみんなで食べているときにお父さんがなんかちょっとでも行儀の悪いことをしたら、象牙の箸を逆さに持って、こっつーんっ、と思い切り頭を叩かれたようです。かなり痛かったようです。
 父方の祖父は百姓でしたが、趣味で舞台などもやっていたようで、その時に撮った隈取みたいな化粧をした祖父の写真はめっちゃかっこよかったと姉が言っていましたが、私は見たことがないのです。父方の祖父の写真は一枚も見たことがありません。
 
 箕面のおばあちゃんちでの暮らしはやはり寂しいものでもありました。近所の男の子と一緒にお外で遊んだりもしましたけれども、なんとなく、このままお父さん迎えにこんのとちゃうか、みたいな不安が小さい子供ながらいつもあったように思います。
 このまま、箕面の子になるんやろか、みたいな気持ちで過ごして、ある日、当時11歳くらいやった兄も箕面の家にやってきて、寝る前、二階の部屋で、その家の子供、兄と同い年くらいの次男坊と、少し上の長男坊と、4人で騒いではしゃぎまわってるとき、その年頃の男の子の自然な好奇心を抑えられなかったのでしょうが、3人にパンツを無理矢理脱がされかけて半ケツ状態になって、泣き叫んでいた記憶があります。で、なんやなんやと親が部屋に来ると、何事もなかったかのような顔で3人のクソガキ共らは誤魔化し、私は一人で泣きっ面のままでお布団に入り寝ました。
 そんな幼い子供にとって非常にショッキングな出来事を経験して何も言えない妹を残し、兄はへらへらとして別にふざけただけやんみたいな顔で帰っていきました。
 そうしてそれからも長く、たぶん長く感じられたおばあちゃんちでの暮らし、そうしたある夜。
 一本の電話が箕面から家に掛かってきます。
 電話に出たお父さん、その電話は伯父の奥さんからで、内容は、こず恵ちゃんを是非うちの養子にしたい、というものでした。
子供には珍しいほどものすごく大人しくてええ子やし、うち女の子おらへんやんか、女の子がほんまは欲しかってん、こず恵ちゃんものすごい可愛いから、是非養子にもらえんやろか。
と、そんな電話の内容を聞いた仕事から帰ったお父さん。
返事は「あほ抜かせっ、養子になんかやれるわけないやろうっ、うちの娘を、可愛い娘を誰がやるねん、絶対にやれるかっ、よおそんなこと言わ張りますなぁっ」
でも奥さんも本当に欲しかったのでしょう、そう怒鳴られても、そこをなんとか・・・・・・と引かない。
お父さんは「もうええっ、今から連れて帰る、今からそっち行って連れて帰るっ」と言って、車を飛ばして、箕面の家の前にやってきた。
お父さんはその戸の前で、ものすごい不安に駆られたようです。
もしかして、こず恵、俺のこと忘れとんちゃうか・・・・・・どないしょう、忘れとったら。
そんな思いで、戸をガラッと開け、お父さんはそこから、大声で私を呼びました。
「こず恵~っ」
 息を呑む少しの間がお父さんにはどれくらいの長さに感じたのか。
 間を置いて、ちいさい私が廊下突き当りの戸の隙間からぴょこっと顔を出してお父さんの顔を見た瞬間。
「お父さん!」と嬉しそうに叫んでお父さんに向かってたたたたたっと廊下を走ってってお父さんに抱きついたようです。
 お父さんは、あのときは、めちゃくちゃ嬉しかったでえ、と涙混じりにいつも言っていました。
 そうして、お父さんはその夜のうちにわたしを家に連れて帰りました。
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