三十三
今日で俺、三十三歳になってんけど、まあだからなんなんだって話だけども、なんていうのか、まあ三十三歳ゆうたら、節目の年ですやん、適当ですけどまあ人間の寿命は百歳みたいなことにしておけばいいと僕は思ってるので、それでいうと百歳を三分割すると、三十三歳ということでいいんじゃないかと僕は思うので、だから僕は一生の三分の一を生きたということでして、まあそんなことはどうでもええんやけど、傘寿(さんじゅ)というと八十歳のことらしいけども、傘寿山(さんじゅさん)ではなく、三十山(さんじゅさん)の頂上に俺は登りつめたんやけど、そこから世界を見渡してみて、俺は、その地獄絵図を見渡して、俺は生きながら、自分の手足が切断されているのを見た、自分の喉が切り裂かれているのを観た、自分の睾丸を抜き取られて引き千切られているのを見た、自分の首をひねられて殺されているのを見た、自分の身体が生きながらミンチにされているのを見た、自分の首を切って逆さに吊り上げられているのを見た、自分の皮を意識が在る中で剥がされているのを見た、自分が毒ガスで20分かけて徐々に窒息していくのを見た、自分が拘束されてあらゆる地獄のような痛みの中で実験台にされているのを見た、自分が糞尿と抗生物質漬けの水の中で生まれてからずっと暮らしやがて水から揚げられて解体されているのを見た、狭い小屋の中でじっとして仲間が殺されていくのを眺めている自分の姿を俺は見ていた、三十山の天辺から観える景色は地獄以外の何ものでもなかった、星の数ほどの自分たちが毎日毎分毎秒耐え切れない苦痛の中殺されているこの世界、そしてそんな自分を見捨てて自分の欲望に負けて生きる世界の真上に俺、ぼーっと突っ立って、苦しい、っつって、自分が自分の欲望に勝てないから自分が苦しんでるのに、はやく自分が殺されない世界になってほしいって、俺は阿呆か、自分が殺すのをやめたら自分たちは殺されない、自分たちを苦しめて殺してるのは俺じゃないか、自分たちに違いないんだから、もう自分たちにしか見えないんだから、拷問されて、殺されているのを見て、苦しいなら、もうそれは自分でしかない、俺の肉体的な苦しみと痛みを俺自身が実際に痛みと苦しみを感じられないというだけだ、痛覚を失った身体の部分と同じだ、痛覚さえ戻るなら、俺も同じように激痛に呻くのだから、精神的な苦痛もまだ麻痺している、つまり三十三年生きた俺というのはあまりに俺の欠如した俺、俺の不足した俺、俺を実感できていない俺、俺の苦痛を俺自身が感じられていないという俺、なんという未熟な俺だろう、俺の感じられる俺と言うのはなんて薄っぺらい存在なのか、そうしてる間に俺が殺されてゆく、俺が殺されている、俺はいつまで殺すというのか、いつまで殺し続けるんだ、いったいいつまで俺は自分を殺し続けるんだ、自分を殺さなくても生きていける、俺はやっぱり、俺が苦しいのは嫌だ、と、三十三歳になった俺は、思った。