「霜降り肉」の牛 盲目になることも 味と飼い方 揺れる農家
信濃毎日新聞 2011年6月11日(土)
その牛は、額の先で手を振っても反応がなかった。黒目は焦点が定まっていない。ほかの牛と体をぶつけることも多い。
「盲目の牛です」。ステーキなどの高級食材になる和牛を飼う県中部の50代の男性農家が打ち明けた。「おいしい肉にしようとすれば、こうした牛が出てしまう」と男性。
飼育中の約130頭のうち、1頭が完全に目が見えず、10頭弱は視力低下が進んでいる。こうした牛も人体への影響はまったくないとされ、普通に出荷される。
盲目になるのは、肉に「サシ」と呼ばれる白い脂肪分を入れようとして、牛の栄養が偏ってしまうことが原因だ。和牛の価格は、サシの入り具合で決まる。多くの農家の目標は、高値で取引される細かなサシが入った「霜降り」の牛を育てることだ。
そのため、農家は生後約1年半から数カ月間、ビタミンを多く含む牧草などの餌を抑え、穀物が中心の飼料で太らせる。これがサシを入れるために欠かせない技術とされる。「霜降り」という日本の食文化を支える生産者の知恵だ。
しかし、ビタミンは、視力維持に必要な成分。欠乏がひどくなると盲目になりやすい。足の関節が腫れて歩行に障害が出る場合もある。農家は症状が出ないぎりぎりのラインを模索しながら給餌する。しかし、一部がこうした牛になる危険性は残る。微妙なバランスの上に和牛生産は成り立っている―。そう表現する農家は多い。
和牛を百数十頭飼育する県北部の40代の男性農家は「消費者が生産現場の現状を知れば、肉を買ってくれるか分からない」と不安を打ち明ける。
この30年間、和牛を出荷する時、牛の背中に"お神酒"を掛けて送り出してきた。自分が生計を立てられることへの「感謝」。そして、高く売るために不健康な姿にさせる「申し訳なさ」。そうした複雑な感情を、牛を出荷するたびに確かめる。
この男性は、食肉処理など多くの中間業者が流通に加わる畜産は「農業の中でも生産者と消費者の距離が遠いと感じてきた」という。
それは、同じ畜産業の酪農でも同じだ。上伊那郡南箕輪村の酪農家、小坂忠弘さん(55)は、畜舎見学に来た小学生が、乳牛から乳を搾る現場を見て以来、牛乳を飲めなくなった、という話を数年前に酪農仲間から聞いて、頭から離れなくなった。
思い当たることがあった。国内では、広い牧草地を確保しづらく、多くの時間は乳牛を畜舎内で飼育するのが一般的だ。しかし、小坂さんは「多くの人が広い牧草地だけで乳牛を飼っていると思っているかもしれない」。畜舎も小学生の予想以上に汚れていたのかも・・・。
さまざまな考えが頭を巡った。小坂さんは、畜舎の清掃を小まめにして、「恥ずかしくない飼い方」を心掛けている。
消費者が思い描く畜産のイメージと現実のギャップ。そこに農家はおびえている。
信大農学部(上伊那郡南箕輪村)の准教授竹田謙一さん(39)=家畜管理学=が2年前に一般消費者300人余を対象に行ったアンケートでは、「飼い方に配慮された畜産物は値段が高くても買いたい」と答えた人が9割近くを占めた。
竹田さんは「消費者のニーズは農産物そのものにあるだけでなく、その出来上がる過程にもある。消費者のイメージに畜産現場を近づける必要がある」と話す。
畜舎の環境などは生産者が少しずつ改善することは可能だ。しかし、和牛を飼育する農家の多くは「牛が盲目になってしまうのは、『消費者が求める最高級の霜降り』を目指すためには仕方がないこと」とも言う。消費者が望むのは、味なのか、価格なのか、生産過程なのか―。すべてを満たすことができない場合は、何を優先すればいいのか。生産者には、消費者の姿が、はっきり見えていない。
信濃毎日新聞社編集局「農再生へ-自由化時代」
『「飼い方に配慮された畜産物は値段が高くても買いたい」と答えた人が9割近くを占めた。』
「飼い方に配慮された畜産物」を望むのは、病気になるような育て方をした牛の肉は食べたくないという気持ちと、せめて屠畜されるまでのあいだは、苦しい育て方をしてほしくない、という気持ちがあるのだと思う。
どうすれば「飼い方に配慮された畜産物」が増えて行くのだろうか。
霜降り肉が病気すれすれの牛の肉であることを知って買う人は少ないだろう。
知れば、買う人はものすごく減る。と同時に農家の収入も減る。
減っては暮らしていけないから、その事実を広めることができない。
しかし消費者は飼い方に配慮された高価でも美味しい肉を食べたいと思っている。
それは当然だ、メタボな牛は病気すれすれではなく、もうすでに病気の牛だから、霜降り肉を食べて健康な人はいない。
霜降り肉をたくさん食べるほど人間は病気にかかりやすくなる。病気にかかれば医療費がかかる。
病気になりたくて霜降り肉を食べている人はいないだろう。
霜降り肉を食べている人は、食べても病気にはならないと思って食べている。だから美味しいと思える。
しかし実際は食べているのは病気の牛の肉だ。
病気の牛の肉を売っているのだから、本当なら問題になって、病気の牛の肉は売らないように、病気になるような飼い方はしないようにと規制されるはずが、それはされない。
知っている人は少なくないのに問題となって、規制されない。
病気の牛の肉を人々は食べたくないと思っている。
霜降り肉は高価だ。でもおいしいから少量で満足できる。
しかし高いから、霜降り肉を買うとお金がなくなってその分、たくさんの肉は買えなくなる。
人々がたくさんの肉を買うほど、たくさんの牛が屠畜される。
つまり、人々が高価な肉を買えば買うほど、屠畜される牛の数は減るのではないだろうか。
減りはするが、霜降りにされる牛は、他の牛よりも病気がちで苦しめてしまう。
だからこれに気づいた人は、霜降りは買わずに、安い肉をたくさん買うかもしれない。
霜降り肉が売れなくなれば、屠畜の時以外に苦しむ牛も減る。
しかしその分、安い肉がたくさん売れて、屠畜される牛の数が増える。
人々は「飼い方に配慮された畜産物を高価でも買いたい」と思っている。
でも飼い方に配慮されていても硬くて不味い肉なら誰も買わない。
飼い方に配慮された霜降り並みの美味しい肉は、今のところない。
人々が「飼い方に配慮された畜産物なら、味は落ちても、高価であっても、買いたい」となれば、飼い方に配慮された味は落ちるが高価な肉が売れるのだから、農家は皆、そのような肉を作れば良いのだが、実際のところ、飼い方に配慮された味は落ちるが高価な肉を、人々は買おうとしない。
飼い方に配慮された美味しい高価な肉は、作れない。
しかし人々は飼い方に配慮された美味しい肉を高価でも売ってほしいと思っている。
農家の人たちは、毎日どのような混濁な苦しみを抱えて牛を育て、屠畜しているのだろうか。
誰も幸せではない。
病気になる育て方をされている牛たちも、病気になる育て方をしている農家たちも、病気になる育て方をしている牛の肉を知らずに食べている人たちも。
誰も誰も、だれひとり、幸せじゃない。
苦しみの連鎖から抜け出たかったのは、わたし自身なのである。
だからわたしは、せめて牛と豚と鶏を食べるのはやめたんだ。(乳と卵も極力買わない)
そして抜け出すために知った多くの苦しみの連鎖を知って、わたし自信も幸せになったわけじゃない。
別に幸せになるために肉を断ったわけじゃない。
ただ楽になりたかったんだ。
楽とは何だろう?
出産に立ち会い、生まれた時から可愛がりながらも病気になる餌を与え病気にして苦しんでいる牛たちを出荷する農家の人たちは霜降り肉が売れるおかげで食べていける。
霜降り肉は美味しくて御馳走だから一月に一パック買えたらいいほうだけど、本当に美味しくて幸せだと、病気の牛の肉であることを知らずに食べている人たちは、今もどこかで食卓を囲んでいる。
仕事があって、美味しいものが食べられる。でも幸せではない。
彼らは、楽なんだろうか。
そうも思えない。
病気の牛を出荷して、病気であることを内緒にしておいて、人々に美味しい霜降り肉を食べさせること。
病気の牛の肉とは知らずに高価な霜降り肉を一家団欒で楽しむこと。
それのどこが幸せで、楽で、喜びか。
幸せでも楽でも喜びでもない。
本当に苦しい苦しみじゃないか。
私は苦しみの連鎖から抜け出られたのだろうか。
畜肉、鶏肉を見れば人肉にしか見えず、解体されている牛を観れば、自分の家族が解体されていく錯覚に陥る。
私は苦しみの連鎖からほんとうに抜け出られたのだろうか。
もし抜け出られているのなら、抜け出られた場所から一体なにを言えばいいんだろう。
何を訴えれば、何を叫べばいいんだろう。
現に養殖の魚は抗生物質などの薬剤漬けだがそれでも食べている私が。
「天然のマグロは本当に美味い」と叫んだところで牛は病気のほうが美味いんだから。
盲目の牛は、そのまっ暗闇の中に何を見ているのだろう。
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