愛よ来たれ

絶望

私は本物の絶望者かもしれない。
何故なら、自分のこと何かしたいと真剣に思えないからです。
いい加減にしか思えない。求めることもできない。
結婚したいのは、今よりほんの少しでも楽に生きられるようになりたいからです。
今よりほんの少しでも良い生活状態で生活したいからです。
これはただの欲望で本能からなる欲求です。
私は自分のことがいい加減なので、人に対するのも同じくいい加減です。
ただただ親の無償の愛に飢え切った赤子と同じです。
相手が親の愛に劣るときには、赤子が大声で泣き叫ぶように、怒りと憎悪と悲しみは爆発して、コントロールが利かなくなります。
相手をこれでもかと言うほど責めさいなめます。
相手からすれば、なんでこんなことで、そんな怒るの?ということで、私は死にかけながら訴えるのです。
自分の苦しみがあまりに激しいために、相手の苦しみが自分と同じところに来たと感じられるまでは、反省ができません。
そんな関係が続くと、相手も徐々に精神をきたしてきます。
私は苦しみに耐えきれなくなり、わざと自分から振られるような行動に出ます。
相手がもう耐えきれない、となるまで追い詰めるのです。
いま33歳で、今まで5人と付き合いましたが、どれもこの理由で別れてきました。
私は恋人を求めていますが、恋人の中に親の愛情しか求めていないのです。
言うなら、性行為と恋愛感情を求める親のような存在を求めているのです。
親は何より子が大事です。
何より自分を優先してくれることだけを望んでいるということです。
そんな人間がこんなところで結婚相手を探している。
自嘲をぬぐえないがしかし私は、それでも求めることをやめられない。
何故なら苦しいからです。
息をしているだけで、毎日が苦しくてならないからです。
親の愛を求めることは子の本能であり生きるすべです。
このような人間でも生きて行かなくてはならないために、愛を求めるしかできないということです。
愛を求めるのは、ただ飢えているからです。
飢えとはそれがなければ苦しくてたまらないというものです。
苦しいと余裕がなくなります。
人にやさしくする、人を思いやる、明るく元気でいる、これらはできなくなります。
ただただお腹がすいて食べるものがなく、相手が持っているならそれを奪ってでも食べたいと願う、これが餓えです。
相手を悲しませてでも、愛してほしいと懇願し続ける。
自分が苦しめられている限り相手の非を許すことができない。
「何故愛してくれないのか」ということだけで相手を憎み続ける。
私が恋愛に命さえかけているのは、愛がないと生きられない存在だからです。
愛がなければ生きていても生ける屍のようだからです。
外に出て、光が私に当たっても、なんの喜びも感じられないからです。
それは愛ではないからです。
私の求める愛ではない。
私の求める愛とは、たったひとつの、親の愛なのです。
私の親はどこにいるのでしょう?
どんなことがあろうとも、私という子を手離さない親に代わる人はどこにいるというのでしょう。
生きていても、生きている心地がないのです。
季節がいくつも移り変わろうと、私はそこに何をも見ていないのです。
何度目が覚めても、時間が過ぎて行かないのです。



っつうことをイギー・ポップの「イディオット」聴きながら赤ワイン飲んで書いてる俺は嬉しい生き物だなあっ。
俺は自分を愛してる。
それで、いいじゃないか。
俺は俺を愛してる。
俺が死ぬとき、それは俺の愛により、死ぬ。
俺は待ってる。
俺は、愛だけを、待ってる。
愛だけを。






関連記事