「アンチクライスト」の記事を書き終わった後また鬱と吐き気がやってきて横になって、少しうたた寝をして目が覚めてもまた恐怖と吐き気に襲われ酷く苦しかった。お父さんのことを想って少しだけ涙がこぼれた。涙を流すことに罪悪感を覚えた。恐怖と苦しみのなか朦朧としていつも真っ暗にして寝るのに今夜も闇が恐ろしかったから豆球を点してたその天井を見上げていた。隣から話し声が聞こえた、酷く不快で怖かった。しかし朦朧としているとある確信めいた声が自らの内部から発せられた。それと同時にさっきまでのつらい吐き気が一瞬でやんだ。不快だった隣の声もやんでいる。静まり返った夜の空気は本当に安らかでありがたかった。私の内部にわたし自身が疑う必要性もないほどに全身から信じられる声として響いたその言葉は、その病み上がりのような安心感に満ちたわたしと意識のない狂気を以て調和していた。
これは3月2日の夜のことだけど、一日経った今でも想いは変わらない。
わたしのなかに、もう恐怖はない。悲嘆と苦痛と絶望さえ、どこかへ逃げて行った。暗い森の中を裸で駆け抜けて行った。
わたしは、さっき二度目にアンチクライストを観た。わたしはもう闇を怖れない。なぜなら、わたし自身が、もう闇に融け込み始めた。
ここには闇がある。わたしをけっして置いてけぼりにはしない闇がある。
『わたしはずっと、お父さんに殺されることだけを望んでいた。』
町田康の「告白」をぱくった「天の白滝」は意識のないまま書き連ねて何故か父親と娘の近親相姦劇になったことからも私の本望が今初めて気付いたわけではなかったことがわかる。どのような結末へ向かうか私はわかっていた。前世では既に互いに殺めあったとした。
世界で最も愛するお父さんに殺されることが私の一番の救いだと確信するからわたしはもう吐き気もしないし恐怖も感じない。
わたしはなにより信じる。
わたしを信じる闇に眠らせ頭を撫でてくれたのはお父さんしかいない。
わたしの苦痛を鎖を恐怖を解き放とうとするのはお父さんしかいない。
たとえ、それが悲しい子の親への狂気であったとしても。
愛は狂気ではないと何故言えるだろう?
わたしはたとえお父さんに赦されたとしてもわたしはわたしをけっして赦さないのだからわたしが生きている以上わたしはわたしを苦しめ人を苦しめる。
わたしを解き放つことができるのはお父さんしかいない。
お父さんだけがわたしを解き放つことができる。
わたしをあらゆる苦しみから解き放ちたいと願うのは誰よりお父さんなん
わたしはなぜまだ生きているのだろう。
なぜお父さんのいない世界で。
なぜ笑ったり怒ったり泣いたり悲しんだりしているんだろう。
どんどん忘れていくばかりなのに、生きていても。
忘れないために生きていると言えるの?
つらいから思いだすことも避けてるくせに。
死んだら楽になる、楽になれる日を待ちわびている、そうじゃないの?
お父さんを思い出すことが恐怖なんだろう?
恐怖から逃げている。
暗闇の森の中を裸で逃げて行ったのは、私だ。
そして逃げて行ったところでわたしが出会ったのはお父さんの幻。
わたしはお父さんの幻に向かって怒り狂い、泣き叫んだ「なぜ私を愛してくれないの?!」
お父さんの幻は私を知らない。わたしはそれでも叫び続ける「なぜ私を見捨てるの?!」
お父さんの幻に掴みかかって押し倒し拳を体へ何度も叩きつけて叫ぶ「なんでなんでなんでなんで!」
恐怖から逃げるということは、恐怖が逃げたそこで待ち受けているってことじゃないか。
恐怖から逃げるために恐怖に会いに行ったんだ。
恐怖から逃げるためにわたしは暗闇の森の中に走って行き、静けさが安らかに漂う夜の森で落ち着きを取り戻し今これを書いている。