君の幸福

「4日間何も食べていない。よりを戻す気がないなら私をブロックしてください。お願いします。」そう何度も何度も頼んでも彼はスルーを決めていたのに、私が最終決断で彼の実名をネットにさらして「これを消してほしかったら私をブロックしてください」と言えばすぐさま聞いてくれた。私はそんな彼のために一週間彼が美味しいと微笑んでくれる手の込んだ料理を作るのにがんばっていたことを思うと悲しくなる。一体お前の愛と俺の愛とどっちが強いと言えると思ってるんだ?おまえは。所詮そこまでの愛で良くも偉そうに自分が正しいと言った顔をできたものだな。俺はこの20日くらい酒とパンとインスタントラーメンしか食っていない。お前は何食ってんだ?どうせ肉や魚を食ってるんじゃないのか。またぷくぷくと太って醜い容姿に成り下がってるんじゃないのか。可哀相だけどお前は一度家畜になってみたらどうだ?首を切り落とされる苦しみを一度は知ったらどうだ。お前は何も知ろうとしないんだから。俺がどんなに苦しいと叫んでもお前は笑っていたんだから。俺に正しい顔をしたいっていうならさ、「アースリングス」を観たらどうだ?お前はそれをしないで自分の苦しみばかりに目を向けて俺の考えを怖いと言ったじゃないか。俺はでもおまえたちのような自分本位の幸福をまず追求する考えのほうが怖いんだ。お前はほんとに小学生のようだったから今から十年後にはまだ高校生なんじゃないかと思っている。成長を望むなら自ら苦しみを望むことだ。それらはお前に真の喜びというものを与えてくれるだろう。お前だって一度や二度は聞いたことがある筈だ。賢い人格者は誰もが言っているからだ。真の喜びとは自分の幸福よりも他者の幸福を願うことにあるのだと。人格者は誰も言っていないぞ、まずは自分の幸福を追求して、幸福の内に余裕が出てきたら初めて他者の幸福を願うことができるのだ、などと。言っているのはしかし大多数だ。お前の考えは大多数の考えだ。人格者のその考えに賛同するのは少数派だ。お前は今日明日家畜になったっていいんだよ。そうだろう?だってお前は家畜の肉を食べているんだろう?お前は今日自分が家畜にならない覚悟で家畜の肉を食っているのか?違うだろう?そうだというのか?そうだと言うのならお前は本当に一度「アースリングス」を観たらどうなんだ。お前は言ったじゃないか、「ただ死ねないから生きてるだけなのかもしれない」と。生きる喜びがあれば、そんなことは思わない。いいや、生きる苦しみがあれば、もっともっと強い苦しみがあるなら。生きる苦しみとは自分の苦しみだけじゃないから、人は漠然と絶望に陥るんだ。他者の苦しみが関係しているのに、それをわかってて、見るのがつらいと言って見ることを避けているからだ。そこに絶望があるんだ。本物の絶望が。他者の苦しみに真剣に目を向け出したら、もう人はただただ打ちのめされるばかりだ、それまでの苦しみを超えるものが確かに存在しているということだ。そうなるとその時点でもう自分だけの幸福など追求することができなくなる。今すぐになんとかしなくちゃいけない!と切迫するからだ。お前の首を切り落としてやるから来い。と言ってもお前は嫌がるだろう。でもお前はそれをしているんだ。お前の嫌がることをお前はしているんだ。何故自分は嫌なのに他者にはしていいんだろうな。お前は悔しくないのか。自分に対してだよ。他者の地獄に目を背けて自分の欲望を優先している自分に対して。俺は自分に対して悔しくなったんだ。と同時にそれに気づけるための苦しみが自分に与えられてきたことに感謝した。他者の苦しみに気づくには自分の苦しみがどうしても必要なんだとわかったんだ。それも俺には30年余りの苦しみが必要だったことになる。苦しみ続けないと気づけないってことなんだ。30年も、母親が死んでからにしたら26年だ。26年苦しみ続けないと気づけない他者の苦しみだったんだ。26年苦しんでようやく気付けた。俺はその間には父親の死という地獄の経験をした、その8年後にようやく気付いたんだ。本当の地獄を経験しても8年かかったんだ。たやすく気づけることじゃないってことを言ってるんだ。これは、自分が幸福になってからようやくその余裕で気づけるというたぐいのものではないということなんだ。ざっと俺では26年間の苦しみがどうしても必要だったと思う。苦しみがほぼ占める26年間だ。26年間の絶望と言ってもいい、26年間の絶望の時間が俺にやっと、やっと他者の苦しみに目を向けさせてくれたんだ。真剣に目を向けさせ、俺という生物に自分に近い哺乳類と、鳥類の肉を食べないことをまず、やめさせてくれたんだ。そして、その5カ月後には食欲に負けて魚介類を2年半余り食べ続けたが、また菜食に戻って、戻るともう魚介類を思い浮かべるだけで生臭さを感じる。食べたいという欲望が食べたくないと言う気持ちに負けるんだ。生理的に受け付けないと言うところまで来れるんだ。人は。無理じゃないんだよ。血を流すということが平和に繋がることができないんだ。誰かの血を流すということが。誰かの血は誰かの涙だ。屠殺の前に涙を流す生き物は牛だ。うちのうさぎのみちた、3月8日で7歳になったんだ。鬱がひどくて写真一枚取れなかった。人間で言うと58歳くらいらしい。もうシニアのフードをあげている。彼は抱っこするだけでものすごく嫌がるんだ。捕まえられるということが=殺される、ということだと本能的に知っているからだと言われている。触ると温かく、柔らかい。こんな温かい生き物を毎日殺して解体して何故食べなくちゃならないんだろう?君はうちに来てみちたに触れたことがあった?僕は見なかったけど。君は動物が好きだと言っておきながら触ってくれなかったから本当は好きじゃないんじゃないかと思った。触るとふわふわしていてあたたかいんだ。僕よりずっと小さな生き物だけど、毎日懸命に餌を食べて水を飲んで排泄をして生きている。何故だろう?それは生まれてきたからなんだ。この子が2年生きて、食肉に回されたなら、もうこの子は毎日懸命に餌を食べて水を飲んで排泄をして生きることはない。生きる時間がもうないからなんだ。あと長生きすれば10年生きられたかもしれないけど、その10年が人間の味わうたった20分程度で終えられたからなんだ。たった20分の味覚のために、この子の生きる10年が消えてしまったんだ。消えてしまうんだ。たった20分と10年を引き換えに。牛なら20年以上生きるようだ。でもたった20ヶ月ほどで肉にされてしまう。20年の牛の生きる時間と20分の味覚は釣り合うものなのかな。僕は君に「一緒に今度アースリングス観ましょうか」って言ったらすかさず「はい」と言ってくれた時すごくうれしかった。でももう別れてしまったから一緒に見れないね。もう君に会えないのだと思うといつも涙が止まらなくなる。7か月恋人でいたのにたった一週間しか一緒に時間を過ごせなかったことを思うと悲しくて仕方なくなる。僕は苦しみが足りないんだ、だから人にやさしくできない。僕はもっともっと苦しみが必要なんだ。だって結局は他者にやさしくできることこそが自分の幸福なんだ。君の幸福なんだよ。
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