我、破壊し尽くさん

町田 康さん講演 「内面の作成」




何種類もの人生 小説で体験

「何で小説書いてるの?」と言われます。正直言うと頼まれたからです。その前に詩を書いてたのも頼まれたから。その前は歌詞です。

 これは初め、変だと思われた。ロックの歌詞と違う文法というか、ロック的な、凶悪な感じとかのイメージから外してた。そういうのがおもしろくなかったので、それから派生して小説を書くようになったんです。

 小説とは何か。一つには内面を書くことと言えますね。しかし、内面って何のことだかわからない。そこで、ウィキペディアで調べてみると、「それがあることを分かりながらもそれそのものを決して知ることが出来ないというニュアンスで用いられる事が多い」とある。

 あるのはわかってんねんけども絶対に知ることができないものは書けない。そのとき、他人の内面やからあかんので、自分の内面やったら書けるのではないかと思いました。他人から見たら、自分は他人、読んでる人からみたら他人の内面を書いてることになる。

 ただ、自分のことをまじめに書こうとすれば、だんだんその内面というのがないんだってわかってくる。生まれてからのことを順番に並べるのは内面とは違う。じゃあ、どうやっているのか。つくってるんです。書きながら内面を無理やりに。書いていると、内面みたいなものが、ないものが生まれていってるんです。

 個性も、内面の作成とちょっと似ています。自分の純粋な世界をつくるって難しいことで、時々美しかったり感動したりもするけど、逆の面もある。自分の気に入ったものしか置いてない部屋みたいで、自分はすごく居心地がいい。だけど、ノイズとか、雑の要素を拒むということはその個性のなかにとじこもって、他人を知ることとはすごく遠いところに行ってしまうおそれがあるんですよね。

 自分の中に、いろいろな雑なもの、毒がまざってくることを歓迎したい。生きてると、つねに何かにまみれます。読書というのは内面を聖域に置かないことです。そうすることで決して知ることができないというものの、感触、気配を一瞬垣間見ることができるんじゃないでしょうか。

 小説家の稲葉真弓さんが谷崎潤一郎賞のインタビューで、「小説は、登場人物に託して様々な人生を描ける。本を書くたびに、生き直している気分になります」といっています。すごく深い言葉です。読者も小説を読むとき、何種類もの人生を生きていくっていうことなんですね。

1962年大阪生まれ。19歳でパンク歌手デビュー。97年に小説「くっすん大黒」で、野間文芸新人賞、Bunkamuraドゥマゴ文学賞、2000年には「きれぎれ」で芥川賞を受賞。その後も「権現の踊り子」が川端康成文学賞、「告白」が谷崎潤一郎賞、「宿屋めぐり」は野間文芸賞を受けた。






俺はほんまに我が強い。
動物占いも我が道を行くライオンだから、当たってるんだよね。
我が強いと言うのは自己中心的で我儘で自分の考えを押しとおし、押しつけるということではない。
それはただの僕の一面やんか。
我が強いと言うのは、俺は俺を強く知っていて、がそのために、俺はこれこれこうだ、とはっきりともの申すことができるので俺は俺と言うワレをしっかりと生きてる実感にみなぎるとして生きているのかなっていうか、どうなのかな。
ここでそう生きているって断言しないと我が強いなんて言われないし思われないし俺も思えないから、俺はまあここは断言しておきたいとこかなって思う時もあったのだろうかと我は思ふ。
俺はでも俺の感情も理性も俺だと思えないのでじゃあ俺ってなんのことなのかな。
俺は確かにやりたくないことは絶対にやりたくないし我慢してやったり言ったりしないし相手が傷つこうが苦しもうが俺は絶対俺を曲げないし俺はただ自然体でいることが一番楽なのでそうしてるだけ、我を通すとはしかしそういうことだと僕は思わないけど。
たとえば赤ん坊だって糞したい時に糞して乳飲みたいときだけ乳飲んで泣きたい時に泣いて笑いたい時に笑ってて自由奔放やりたい放題だがあれはまったく我を生きているとは言い難い代物だ。
大人になったってそれは同じじゃないか。
俺はアカン坊なのか。
俺は少し吹っ切れるところがある。
何故、俺がそこまで赤子のごとくに好き放題して生きられるのか。
俺はもしかしたら我を捨て切っているからではないのか。
己れを捨てる、世捨て人というのは捨てているのは世ではなく自己のほうではないのか。
世捨て人成る者自分を捨てなくては苦しいばかりだ。
自己を捨てることがつまり世を捨てることになっているのではないのか。
俺は人から我が強いように思われがちかも知れまい。強き我を持っていて我を生きていると。
俺はしかしこんな悲しいことを言いたくもないけれど、なんだか生きるほどにどんどん自分に興味を失っていくようだ。
何故だかは分からない。でもほんとうの感情だ。俺の内にたしかに在るような感情だ。
俺は自分に興味がない。
それでも小説を書きたい。
俺はいったい何に興味があって小説を書きたいのだろうか。
悲しいことかどうかもわからなくなるが、俺はみんなが自分探しの旅に出かけてるとき自分を捨てきる旅に出て必死になっているのかもしれない。
自分を捨て切らないと書ける小説がないとどこかで思ってるのかもしれない。
自分を破壊して行く旅に、自分を破壊していく度に、破壊して破壊して破壊しても破壊できない自分がいるのかどうか、それを試すために、俺は自分をこの自己を我を己れを内面を破壊し尽くさんわけにはゆかぬ、どうしてもゆかぬ、どうしても最後の最後の最後に残るものを破壊して一体なにが残るのかをこの我が目で見届けるまで死ぬわけにゆかぬ、糠湯。
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