今日も尿意を限界まで我慢して頑張って膀胱の限界を試して生きて欲しいと思います。
ABP109ってなんぼほど広告出しとんねんYoutubeは。
愛があるならいいと思います。
でも愛がないならだめだと思います。
僕に愛があるのかって?
それはボカアが決めるこったあじゃあないのだ。
それは僕に聞くことではなく自分の胸に聞いてな?
それは僕が決めることではないからな?
便秘にスピルリナはいいけどそれは僕が決めることではないからな?
『毎日が日曜日っていうのは毎日が地獄だということだ』とジョージ・バーナード・ショーのおいちゃんは言っておったがまさしくその通りであってこんなに楽園の仮面を被った地獄と言う生活はない。
まさしくその、というところを、まさし糞の、と書き換えても別段問題はなかろう。
別に便意があるのに糞便が出ないから「くそ」という字の連なりに過敏になっているわけではない。
みちたがあざらしちゃんのような顔と格好で眠ってるぅ。
お、俺の中に、あ、愛が、溢れてくるんや。
ど、どないしたら、え、えええんやろうなあああ、ああっ。
あ、そこの君、受ける皿持ってんの?
何って俺の愛ですがな、受け皿がないと、君に受け皿がないと、その胸の受け皿。
あれ?君の受け皿、穴開いたぁるやんかぁ。
俺の愛、何こぼしてんねん。
僕は僕の受け皿の補修に行ってくる。
とにかく頑丈にこしらえてください。
愛の受け皿を補修してきてもらった、これで僕は君の愛を受け入れられると思うんだ。
しかし人によっては愛の代わりに糞を入れられることもある。
胸の受け皿に糞を入れられると言葉通り胸糞悪い。
愛だと思ってたらその実、糞だった、ということもよくある。
こんなに僕は愛を受け入れる皿があるんだ、と思ってたら胸の辺りが何か臭い。
胸の中を覗いてみるとそこに居座っていたのは愛ではなく糞だったと言うわけだ。
「おまえ、なに愛みたいな顔しておんねん」と言うが糞は黙りこくっている。
ウンともスンともフンとも言わない、ただ糞は何か言いたげな上目遣いでこっちを見てすぐ横を向いて溜め息をつくのだ。
愛だと思っていたのに、愛だと思っていたのに、でもそれは向こうが悪いのではなくこちらが糞の受け皿しか用意できなかったからだから人を責めるなんてナンセンスじゃないか。
相手は愛を注いでくれたのに僕には愛の受け皿がなかった。
そうなのです、愛が欲しいといくら言っても自分に愛の受け皿がなければ愛を受け入れることができない。
もうおわかりですね、そうです、誰かを愛したらもれなく自分も確実に愛を受け入れることができよう。
つまり完結に言うと愛されて初めて愛することが出来るのでなくて愛すると初めて愛されることが出来る。
つまりこの宇宙のはじまりは、愛されて生まれたのではなく、愛することで生まれた世界なのだ。
宇宙の形は実は受け皿の形をしておると君は知らんかっただろうね。僕も知らなかったよ。
今初めて考えたからね。僕の今生まれたアイディーアだから。
「皿」という字の上にちょぼを載せると「血」になるだろう、なぜか解るかね。
実はそのちょぼは人間を表している、つまり愛の受け皿という宇宙の上に乗っかってちょっと倒れそうになりながらも頑張っている姿は人間そのものであって、それが死んで宇宙の面にバタンと倒れると人は宇宙の皿と一体になり人は「血」から「皿」に帰るというわけだ。
愛の受け皿という宇宙の上に立っている人間は宇宙に愛されている存在なのだけれども人間はなかなかそれに気付くことができない。
宇宙の受け皿とはまさしくゆりかごの形をしているのである。
ゆりかごとはゆらゆらと揺れる籠で宇宙の皿も絶えず揺れ動き続けている。
じっと止まっているより心地がよいからだね。
宇宙はいつでも宇宙に存在するすべての存在のために揺り動き続けている。
愛の受け皿の中にはもちろん愛が入っている。
それがわれわれである。
われわれは愛の受け皿の中に暮らしている。
どんなに多く、どんなに重くなろうと、絶対に全部入るこの上なくでかい皿だ。
信じられるか?
すべてを受け入れる皿が存在していることをだよ。
こっちが糞の皿でこっちが愛の皿というふうに分かれていない。
だからあの人は天国であの人は地獄行きだということもない。
愛されていると気付くことは、もうすでに、愛しているからだよ。
君の愛が宇宙のゆりかごを揺らしてその皿を愛でみたしてゆくんだ。
しかし満ちる皿はない。
宇宙は愛を求めている。
いつまでもいつまでも求め続けている。
それはぼくらが宇宙に愛を求め続けるからだ。
求めれば求め返される。
愛すれば愛し返される。
そう思うと僕の胸はあたたかみを持つ。
だから地獄を夢見ている。
“ワレ”と宇宙は僕に今日も微笑む。
サラをワレと言って君はいつかさらわれる。
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