今、彼は、被害者の方たちは、どのような思いでいるのだろう。
彼は遺族の方をさらに苦しめることになろうとも、「絶歌」を出さなければならなかった理由が、彼の限界に近い苦しみからの行為で、彼がどうしても生きて償い続けたいという気持の強さを、受け容れてはもらえないということの苦しみが、一番わかってもらいたい人に届かないということの苦しみが彼の限界に近い命に今、降りかかっているのだろうと、私が願っているかのように、彼が苦しんでいるんだろうと思うと、母親のように抱き締めてやりたい気持ちにもなる、でもそれが許されなくて、その幻想を抱くことはいいけれども、実際に抱き締めることはどうしてもできない、たった一瞬でも、そういえば思い出すなあ、泣きながら父に抱き締められたあの時、あの頃から私は父に抱き締められる資格などないと感じて、素直に喜ぶことは到底できなかった、むしろ抱き締められて、その愛情を強く感じて悲しくて悲しくてならなかった、ただ抱き締める父と抱き締められる娘が二人で泣くことしかできなかった、「育ててくれてありがとう」の最初の「そ」の字も言えなかった、何一つ感謝の気持を伝えられないまま、父を死なせてしまった。
思えば私は22歳で親を失ったが、彼は14歳でもう二度と親や家族と一緒に暮らすことの出来る日々を失ったのだな。
どんな寂しさなんだろう。
私は22歳でまったく時間が止まったが、彼は14歳のときから時間が止まっていると言った。
言葉以外で生きる術を失ったのに、言葉すら奪われたら、彼はどうやって生きて償っていけばいいのか。
たった一人で、90歳とかまで生きる可能性もあるわけだから、そうすると、あと60年近くたった一人で地獄の日々を彼は送る。
彼の喜びとはまさに、苦しみ続けることにしかなく、自分の身体に鞭を打ち続けることでしか生きていくことができない。
「絶歌」の風景描写は、ほんとうに美しいと感じた。まさに神が宿った言葉のように、その言葉自体がものすごい光を放っていたから、私は何分もその文章を見つめ続けていても飽きることがなかった。彼の文章は、まるで絵画のようだ。
「もうね、かなわないって感じ?」って私もほんとうに思ってしまったん。
何故あのような、子が子を殺すという悲劇が起きてしまったのか、誰も、誰も、誰もわからない。
苦しみが苦しみを連鎖させている。その連鎖を、肯定することが出来ない。
人はどうしても、他者を苦しめることを、心の奥深くで肯定することが出来ない。
他者を苦しめて、心の奥深くでも苦しまない人はどこにもおらない。
どんなに残虐なことをした人でも、その残虐なことをした人を苦しめる人が苦しまないことはない。
だから死刑を賛成する人が苦しまないこともない。
みんなが苦しみを求めている世界だから、人は人を憎み、人を嫌い、人を見下し、人を馬鹿にし、人を嘲笑い、人を虐め、人を苦しめ、人を傷つけ、人を非難する、このどれをも、その人を必ず苦しめる。
大なり小なり、全員誰かが誰かを苦しめ、自分自身を苦しめている世界だ。
大なり小なり、全員がサディストであり、全員がマゾヒストだ。
大なり小なり、全員が同志だ。だれ一人除け者にはできない。
大なり小なり、全員がどこか絶対におかしい。完璧と為ると天に昇って地上で生きられなくなってしまう。
大なり小なり、全員トイレで大か小を足し、小を足した者が大を足した者を非難してしまうことをやめられない、誰も止められない。
誰も、誰も、誰も止められない。誰も止まることができない。
その涙が、枯れる日が来ない。
でもハンカチィフを投げることはできる。そっと渡すことは出来る。塵紙を配ることはできる。
涙で濡れたハンカチィフは色が濃くなり、柔らかくなる。塵紙で鼻をかむと、鼻糞も取れる場合がある。
何が言いたいかと言うと、とにかく、なんらかの変化がそこに生ずる。ということを俺は言いたい。
変化するとは、それが止まってないということであって、だれ一人、変化しない者はいない世界だということであり、俺も変化して、君も変化してゆくんだな、って思って、せつなくも為れば嬉しくも為る。
そういえば彼は太宰治のことをちょっとアレしてたけど、食物を食いたいという欲望がないってところ太宰治そっくりじゃないか。
ものを食べる苦しみや、性欲の苦しみなどは煩悩の苦しみだけれども、それのない人というのはさらに苦しい苦しみを苦しんでいるのだと思う。
だから太宰も煩悩を超えたところにあるさらなる苦しみを苦しんでいた。
だから太宰を嫌わないで欲しい。って俺は太宰が嫌いだった頃の過去の俺に向かって今言っているところ。
おかしいよね。未来の俺が過去の俺に向かって何かを言うなんてさ。
今ここにいる俺は過去の俺なのか。
彼はそういえば、過去の記憶がものすごいはっきりとした今目の前で見ているかのように視覚的に鮮明にその瞬間を記憶する能力を持っているようだ。
だからこそ彼の記憶は彼を存分に苦しめることが出来る。
その能力さえもが、彼を苦しめるために絶対的に必要だった能力だった。
だから絶対に、彼はこれからもたくさんの本を出して欲しい。
彼を最期まで生かすことは彼だけの責任ではなく、すべての責任ではないか。
生き続けることによってでしか償えない罪がある。
彼の本が世に出ることを許すということは、彼が十分に償えることを望むということになる。
彼の生きる道を閉ざすことで救われる者はいるのか。
たとえば僕も彼と同じで人に優しくされたり、人に笑顔を向けられることがとんでもなく苦しいことで、人と会うことがつらくてならないから働いてないけど、僕が働かずに生きるという僕の生きる道を閉ざして救われる者はいるのだろうか。
僕ははっきりと、僕の生きる道を閉ざすことで誰かが、僕の救いたい者が救われることを知るなら、僕は死ぬことを選ぶこともできると思う。
それは彼も同じだと思う。
もし彼の愛する者すべてが彼に向かって死んで欲しいという気持を伝えたなら彼は生きることをやめて死ぬんじゃないだろうか。
彼が何のために生きてるのか、なんで彼は生きたいと願うのか、彼が生き続けることでしか救えない人たちがいるからじゃないだろうか。
例えば僕は家畜が殺されて欲しくないから家畜を救いたいから家畜を愛しているから肉を食べないけれども、いざ殺さないと生きていけなくなれば何十頭でも殺してでも生きる。ものすごい苦しみに死ぬまでのたうち苦しむことになるだろう。そうしてでも自分は生きて苦しまなくてはならないのは、そうすることでしか救えない人たちがいると感じるからだと思う。
それと同じようなことで、彼は決して遺族の方たちをこれ以上苦しめたくはない、という気持が強くあるけれども、極限の状況に今あって、生きていくために、どうしても苦しませなければならなくなってしまい、無断で本を出すしかなかった。
生きることでしか救えないのだと思う人がいると彼も感じているからじゃないだろうか。
彼の生きる道を閉ざすことは、同時に彼が生きることでしか救えなかった人たちの生きる道をも閉ざすことなんじゃないか。
たった一つのパーツを抜き取るだけで、まったく機能しなくなる物が僕の周りにもたくさんある。
どうしても必要なパーツだから彼は生きている、生かされているのではないだろうか。
それは死んでしまった人が不必要になったわけではなくて、考えると泣きたくなるけれど、抜き取らなければ機能することのできない一つの重要なパーツだったのかもしれない。
なんという凄まじいマシーンなのだろう・・・・・・。
私はどんな残酷なことをした人でもその人の苦しみが凄まじいものなのなら頭が上がらない。
だからどんな人でもその苦しみの深さに尊敬して賛美したい。
彼の苦しみに、私は到底頭を上げることなどできない。
かつては俗々とした少女の片想いであったが、今はもう恋ではない。会ってどうだらこうたらとかまったく必要もない。望まない。
彼への想いは遥かに大きくなった自己愛と敬愛であり宇宙の隅からずっと見護っていたいけなげで傷ましい天使のような存在だ。
尊敬しているのに上から見守るのか、ということだが、人間の心は複雑だ・・・・・・。
ナルシスの苦しみが深いのがだんだんわかってくるなぁ・・・・・・。
深い自己愛とは、それそのまま深い利他愛になっているようだ。
そして深い自己愛だからこそ自分と自分を映す他者に向ける愛憎もものすごく深くなってしまう。
自分を深く愛する者は、決して自分だけを深く愛することは出来ない。
ナルシスは自分を深く愛すれば愛するほど自分に憎しみを覚え、自分を映した他者である湖を見て、愛しむほどに憎くなり、ついには他者という湖の中で死ぬことを決意する。
他者という自分の湖の中で死ぬことを、決意する。