僕は今思い出しても、なんであんなことしたんかまったくわからんのやけれども、小3のとき同級生を傘立ての上に乗っかって一緒に遊んでいたときに、故意に突き飛ばし突き落として膝ぱっくり割れるくらいの大怪我をさせてしまったことがある。
まったくわからない、何を自分は考えてあんなことをしたのか。しかもそのあとまったく罪悪感のない様子でヘラヘラと笑っていてそれを他の子に指摘されて猛烈に否定して逆切れした。
なんであんなことしたんやろってことが誰でもあるとは思うのだけれども、思えば、あのとき打ち場所が悪かったら彼女は死んでしまってもおかしくなかったわけだ。
そうすると僕も間違いなくモンスターとかサイコパスとか呼ばれていたのではないか。
殺すつもりで突き落とした覚えはないけれども、何かあの瞬間を思い出すと、やはり恐ろしい。
サカキバラは怯えながら殺人を行った。と言っていた。
私はあの瞬間怯えがあっただろうかと思い出すのだけれども、ちょっとなかった気がする。
何か、ものすごい面白がって魔が差すとはああいう瞬間だとは思うが、悪魔が瞬間的に乗り移って楽しんで突き落としたような感覚を覚えている。
彼の場合は魔が差しながらも怯えを感じていたわけだ。
これは明白なる良心というものが当時からあったという証拠だ。
良心がありながら、それを止める術を一切持つことの出来なかった戦慄的な苦悩を、幼い彼はどうにか生きていくために必死に押さえ込み、心を死にすることでなんとか耐えようとしたのではないか。
最初に猫を殺したのは、彼が小5のときで、そのときも一番最初に殺めた猫に大きな怪我を負わせたことを知ったとき「なんてことをしてしまったんだ」という彼の良心が深く存在していたことのわかる感情が書かれている。
そのような良心は、私は意識しているか、していないか、だけですべての人に内在されているものだと思っている。
だから当時の私が本物のサイコパスであり、彼はサイコパスなどではなかったことを言いたいわけではなくて、サイコパスなどという存在はどこにもおらないということを私は言いたいのである。
良心を意識しながら殺すことをやめられない、これはとてつもない苦痛で、それに耐えることの出来る者にしか与えられない厳しくてならない試練に私は思った。
だから誰がなんと言おうと想像をはるかに超えるであろう彼の苦しみの深みが本物である限り、私は彼に対して頭を上げることができない。
彼の姿は、自分の未来の姿なのではないかと思える。
そのように、人は重苦しくてならない試練をひとつひとつ達成してゆく生き物としてこの明かされることのない世界にぽつんとひとり孤独に存在し続ける存在なのではないか。
誰一人、好きで人を苦しめていない、他者を苦しめていないのだということを私は「絶歌」を読んで深く確信に至った。
だから何をしても赦され、苦しまなくてもいいということを私は言ってるのではなくて、むしろその真反対の、だからこそ、人はどこまでも自ら苦しみ抜こうとする存在なのだということを言いたい。
私は彼がそれと同じようなことをを心のどこかで感じているような気がした。
多くの人に非難され続けるという苦しみが、試練でなくしてなんだろう。
世間が彼をモンスターにしたのではなく、彼は自分を止めることのできない耐え難い恐怖と苦しみに耐え続けることの出来るように、自らを彼自身がモンスターにしたのではないか。
自分は欠陥人間どころか、この世には存在してはならない人間なのだと信じることで彼が小さいころから血にまみれながら生き抜こうとしてきたのだと思うと、けなげでならず、どのように目を背けたくなる残虐な行為がそこに書かれてあっても、私は彼に恐怖を抱かなかった。
私は「絶歌」を読んで、心からあまりに深く感動したのである。
そしてとてつもなく、それからずっと悲しくて為らない。
彼は最近になってようやく命を愛でることを始めたのではない。
彼はいわば、幼い頃から命に取り憑かれていた。命を愛してやむことのできず、愛しいほどに知りたいという想いをやめられなかった。限りなく命を知ろうとした。
生命をあまりに真摯に、一途に愛するということが、それそのまま生命に優しくする、生命を殺さない、ということには繋がらないのだと知った。
蝶の美しさに取り憑かれた者が、蝶を捕まえて愛でたあとに殺して採集するのと同じなのだろう。
魚の魅力に取り憑かれた人が、魚を痛い針で釣り上げ、殺して食べることと同じなのだろう。
対象を愛し夢中になるほどハンターのように追い掛けて、その命を自分のものにしたくなる。
残酷に、殺してしまうことがあるのだろう。
彼の愛があまりに深いと証明できるひとつが、あの細密で全く完璧な風景描写を目にした瞬間の目を離せないほどの美しさだった。
私はこれまでほんの数回だけ、そのような神懸かった言葉に出会ったことがある。
町田康はなんべんもある、そしてウィリアム・バロウズの「裸のランチ」にもある。
何十分と眺めていてもまったく飽きの来ない文章に出会ったあの喜び、それがたった一行でもあるなら、わたしはものすごくその本を評価する、何故ならたった一行ですら、滅多に誰も書くことができないからだ。
物を書いたことのある人にはよくわかると思うが、風景描写も心理描写も、ものすごく、ものすごく難しい。
ほぼ大体の作家が、読んでいて早く終わらないかなっていう風景描写しか書けないし、またごく凡庸な心理描写しかできない。
そう思う私の心が凡庸だからだろうと言われたらそれまでだが、というか自分の小説自体が凡庸じゃねえのって言う人があるとは思うが、自分の小説すべてが凡庸だと感じていたなら小説など書けない、わたしが評価しなくて誰がする、だから私は本が好きなのに、だいたいの本が読んでいて苦痛な描写のだらだら続く本が多い。
だから何が言いたいかと言うと、彼は小説家にならなくちゃいけない人だと私は切に思う。
何故なら、小説で人の命を救うことも私は可能だと思っているからだ。
本当に感動した物語とは、人を生かし続けるくらいの力があると私は感じている。
命を奪った者が、小説でしか人の命を救えないのだとしたら、これは誰が何を言おうと書かなくてはならない。
そういう無意識の使命感が彼の中に在るように思う。
彼の生きる道とは、誰かの生きる道に他ならない。
私は彼の苦しみ、彼の悲しみが本物(愛)である限り、彼を全面的に全体的に頭の天辺四指の先端まで肯定し、擁護し続ける。
それが自己愛というものだ。
彼が決して赦されないことを、彼が決して己れを赦さないことを祈り続けること、それが自己愛というものだ。
私は彼を殺さないとは思うが、彼の生ある限りの地獄を望み続けることの自己愛を彼が持ち続けるように祈る。
私を映す彼を映した私を映し返す彼が持ち続けるように切に、切に、祈る。