サカキバラは、彼は絶対に赦されたくないと望んでいて、絶対に自分を赦さない、自分を赦すことができない、自分が赦されることとは、自分が赦されないことよりずっとつらいことで、彼はもうずっと、自分をすべてが赦さないように。すべてが自分を憎み続けてくれることを切望している。
だから彼は無意識だとしても、自分が絶対に赦されない存在で在り続ける為に、絶対に赦されないであろう事を自らしてしまうのだと、私はそんな気がする。
遺族に無断で本を出し、決して出版をやめない態度は、彼が一生懸けて絶対に赦されない苦しみを地獄の底で苦しみ続けると宣告したことに他ならないのではないか。
彼は赦されたいと望んでいない。誰からも受け容れてもらいたいとは望んでいない。それは「絶歌」を読めば十分伝わってくる。
彼は一番に苦しめる方法を探している。どうしたら自分が一番苦しむことになっているか、彼は無意識であってもそれをわかっているはずだ。
でもそれは、決して一人で叶えることができない。
それは、彼が人を苦しめること以外に自分を苦しめることはできないことを昔から知っているからだ。
愛してもいない人を苦しめて、地獄の底でのた打ち回り苦しみ続けられる人はいない。
彼は、愛してやまない自分と同じ人間という存在を苦しめることでしか自分が苦しんで、その苦しみだけでしか遺族の苦しみを癒すことは出来ないのだと、どこかでわかっているのではないか。
これは矛盾だから、やめろ、というのなら、それは同時に、もうこれ以上は苦しまなくて良いと、彼に言ってることになる。
彼が苦しみたいだけ苦しめないということは、彼も遺族も誰一人も一生報われないということになる。
彼が自ら苦しみを求め苦しみぬくことが、何より遺族の苦しみを癒せる方法だと彼はわかっている。
彼が一番嫌われる方法をとったのは、それでしか遺族が救われないことを、自分も救われないことを心のどこかでわかっているからではないか。
彼の言う自己救済とは、自分を最も苦しめることでの救済の仕方だったことになる。
彼の自己救済とは、自分を今よりも地獄に突き落として、より苦しむことによって遥かに重い慙愧の念に自ら打ち砕かれようとすることに他ならない。
無断で本を出せば今以上に遺族を苦しめ、自分の大切な家族全員をも苦しめ、それによって自分が一番苦しむということを彼は誰よりわかっていたからこそ、そうするしか、彼の道がどこにもなかった。
彼に選択の余地など、どこにも存在し得なかった。
道がたった一つしかなく、あとは下が全く見えないほどの絶崖であって、絶崖に身を投げたほうが遥かに楽かと思う時もあったものの、そうすると誰一人救われないことを知っている為、それが絶対にできない、たった一つの道を行くしかない、それは絶対に苦しめたくない人を苦しめなくてはならない道であり、苦しめることでしか救えない道であり、殺生極まりない道しか彼の前に用意されることはなかったし、今もない、ずっとないだろう、彼が自分を赦すことをしない限り、彼はその道を身を引き摺るようにして、もしくは立ち上がることもできずに這うようにして進んでいる、そんな彼を見ても、誰も彼の罪を軽くすることができない、彼が赦されるようにと祈る人が在っても、彼の赦しとは、彼がどこまでも苦しみ続けることにしか在らず、彼はこの宇宙に赦されているからこそ苦しむことができる、彼以外の者が彼を赦さないと憎むこと、それがそのまま彼を赦していることになっている、彼は人から赦されてしまうほうが、彼は救われないからだ、彼は自虐行為をやってるのではなくて、彼は一番に他者を救える方法を知っている、彼は一番に自分を救える方法を知っている、彼は自分を一番に縛り付ける方法を知っている、ますます暮らし辛くなることだろう、それを彼は望んでいた、ますます生きることが苦しくなってくるだろう、彼はそれだけを望み、求めていた、それでしか、誰一人報いを受けることをできないからだ、すべてが彼を救うために存在しているし、彼もすべてを救うために存在している、各々いろいろなやり方ですべてが彼の救いに一役買っている、彼が命を愛さなければ命を殺さなかっただろう、無関心があるばかりだっただろう、私ものろのろ歩いては蹲ったりしているが同じような道しかない。しかし、生きるほどに生きたいという気持が湧いてくる。生きるほどに絶崖の深さが深くなっているような気がする。生きるほどに険しい道になってるけれども、まだまだ、まだまだ険しくなってくるということを私はひしひし、ひしひしと、まるで胸の中にヒシガエルをずっと飼っている感覚に、と思ったらヒシガエルじゃなくて、キリガエルとギシガエルだったようだ。きりぎし、きりぎし、きりぎし、って鳴いている。大合唱している。