酒鬼薔薇は生後半年頃から母親からの体罰を受けて育ったようだ。
私はこれを知ったとき、言いようのない悲しみに襲われ、悲しみが消えない。
母親を非難する気持はまったくない。
彼が殺人を止める術を持たなかったように母親もまた我が子に体罰を与えるのを止める術を持つことができなかった人間だからだ。
誰が悪いというわけではない。ただただその宿命が悲しみの終わることのないほどすべてが包み込まれているのだと感じて、その底の知れない悲しみに私はなんのなす術も持てない気がした。
彼のような人間を悪として避けることは容易い。しかし彼の悲しみを知れないことがどのように人間の悲しみになるかを思うと、悲しみの連鎖とはほんとうに止まることができないのだろうと感じた。
私は悲しみが悪とは思わない。
子供が一心に母親の愛を求めるのは何故だろう。
母親から体罰を受けても元気に生きていく生き物はいるのだろうか。
小さいときに母ライオンから虐待を受け大きくなっても肉を一切口にせず野菜だけしか食べようとしない傷ついたライオンがいた。
生まれ持つ習性、本能、体のつくりや機能などを変えてしまうくらいの傷なんだと思った。
ライオンは肉を食べるのが当たり前なのに野菜しか食べないライオン。
人間は人間を殺さないのが当たり前なのに人間を殺してしまった彼。
彼は愛を求めていたのに愛は与えられなかった。
愛の代わりに痛い罰を与えられた。
子供はあらゆるものを求める、腹が空けば母乳を求め、ケツの周りが気持悪ければ気持悪いのをどうにか取り除いてくれと求め、暑ければ暑いのをなくしてほしいと求め、寒ければ寒いのをなくしてほしいと求め、何から何まで求めるが、それらすべてを与えられても、それでも子供は泣き叫ぶ、まだなんかあるのかと近づけば顔をくしゃくしゃにして泣いてばかりでわからないからとりあえず抱っこしてみる、すると途端に泣き止んでなんだか嬉しそうな顔でこっちをじっと見ている、ああ抱っこしてほしかったんだなと親は気付く。
愛は子供が生きるために必要不可欠なものなのは、それがなくては苦しくてたまらないからだ。
愛して欲しいと愛の飢餓から泣いていると彼は痛い罰を受けたのだろう。
苦しみにさらなる苦しみを与えられながら育った。
ほんの小さい赤ちゃんの頃から苦しみに耐えながら、けなげにすごく頑張って生きていた。
彼が愛を喪ったのは生後半年の時だった。
私は彼の悲しみに気が遠くなる。
悲しみの種は必ず悲しみの芽を出させ悲しみの花をつけ悲しみの実を実らせる。
まるで、悲しみがいつまでも終わることがないようにと祈るように。
彼は悲しみの子である。
彼の悲しみは彼が殺す生き物たちの悲しみに繋がった、彼の悲しみは彼が殺した子たちとその子を愛する者たちの悲しみになった、彼の悲しみは彼を愛する者たちの悲しみとなった、そしてそれらすべての悲しみは彼の悲しみを深くした。
ボクがわざわざ世間の注目を集めたのは、今までも、そしてこれからも透明な存在であり続けるボクを、せめてあなた達の空想の中でだけでも実在の人間として認めて頂きたいのである。
人の痛みのみがボクの痛みを和らげる事ができるのである。
彼が当時声明文に書いたこの箇所が、彼の悲しみの魂の叫びだ。
「人の痛みのみがボクの痛みを和らげる事ができるのである。」この「人」の部分を書き換える。
「僕の痛みのみがボクの痛みを和らげる事ができるのである。」
彼は快楽から殺したのではなく自分の痛みを別の自分を殺すことで和らげないでは生きていけないところに達してしまったからだ。
今回の「絶歌」出版もそうでしかないと感じる。
生物が、生物を苦しめなくしては生きていけないということは、決して自己中心的な自己愛だけで語れるものではない。
肉食獣は生きるために草食獣を殺さなくては生きていくことが出来ない。
それは利己的な悪からではない。
生きていかなくてはならないからだ。
私は何匹も発生したコバエはしかたなく殺す。なのにふとコップの水の中にコバエが浮いていたらすぐに助けてやる。
殺しては生かしている。殺し、そして助けている。
彼も犯行の合間に道で拾ったカメを持ち帰り可愛がって育てていたようだ。
でもこれを、大抵の人間はやっている。
可愛いペットは大事にし、家畜は殺されて仕方ないと目を瞑る。
肉を買う人がいなければ、家畜は殺されない。肉を食べる人が家畜を殺していることになる。
害もなく、可愛い者だけは愛するが、愛することの出来ない者は仕方なく殺しているのが我々だ。
生物を殺して生きることは、自己中心的な自己愛だけで語れるものなのだろうか。
殺さなければ生きていけなくなったなら、家族は護り、他人を殺してでも生きようとする、それが戦争だ。
自分の大切な者とまったく知らない他人、どちらかだけを助けてやると言われれば、自分の大切な者が助かって欲しいと祈る、その愛を非難できる者は少ないのではないだろうか。
極限にあった彼は、今の彼は、自分が死ぬか、人を殺してでも生きるか、人を苦しめてでも生きるか究極の選択の中、自分が生きるほうを選んだ。
他人の相手が死ぬか、自分が死ぬか、極限の立場に立たされたとき自分の死を選択する者だけが彼に石を投げよ、とイエスなら言ったのかもしれない。
愛されなかった子が更生するために唯一必要なものは彼を愛することにしかない、これを我々はどれほど重く受け止めることができるだろうか。