「死刑でいいです」

山地悠紀夫は最期まで母を殺したことを反省することができなかった。
何故だろうか。
彼は母親の男関係に凄まじく嫉妬していたのではないだろうかと私は思った。
父親に育てられた自分がそうだったからだ。片親で育つとどうしてもそのような依存的な愛になりやすいのではないか。
私はそれでも父から愛されている感覚が充分あったが、山地はだんだんと母から愛されていないと感じるようになっていったのだと思う。
そしてそんな時に彼女ができて母への愛の欲求を彼女へと移そうとしたが、母への愛憎は増してしまった。
彼は母が自分より他の男を愛しているように感じていたのではないか。自分にはまったく心を開いてくれない、借金の理由さえ教えてくれない、でも他の男にはもしかして心を開いて自分には話せないことも話しているのだろうか、そう思う母が許せない。なのに母は彼女の携帯に頻繁に電話をかけてきて詮索しようとしている。自分でさえ母の詮索を思い留まって我慢しているのに、母はなんの気遣いもなく堂々と勝手に詮索をしてきた。自分だって母に心を開けないことは同じだけど、それでも詮索はしないという母への配慮と敬いがまだあった、でも母はそれすらなかった、本当に勝手に自分のことしか頭になかった、そんな思いが彼の中にあったのかもしれない。
彼には、母親を殺したことをどうしても反省できない理由があると思った。
何故なら、母を殺したことを反省することは、同時に母に愛されなかった自分を認めてしまうことだったからじゃないか。
彼が殺したのは紛れもなく自分を愛さなかった母親だ、しかしそれは同時に母に愛されなかった自分を殺したのではないだろうか。
母に愛されていないことを完全に認める前に、母に愛されていない自分を殺す以外になかった。
絶対に認めたくなかったからだ。
しかしそれを後悔して反省してしまえば、それは自分が母にやっぱり愛されていなかったことを認めることになってしまう。
愛されていないことを認めたくなかったから殺したのに、愛されていない自分を殺したことで、もう愛されていない自分は存在しなかったはずなのに、それを嘆いてしまえば、やっぱり愛されていない自分が今もいることを認めることになってしまう。それはどうしてもできなかった。山地はどうしてもそれをしたくなかったのではないか。
母親が憎いと何度もそこへ戻ってきたのも、それは母に愛されなかった(過去の)自分を憎み続けることしかできなかったからじゃないか。
自分を愛してくれなかった母を殺すことで母に愛されなかった自分を殺すことができた。
もうそれは過去のことで、自分を愛していない母はもういない、母に愛されていない自分ももういない、彼はそのように自分の感情をいっさい殺そうとし、根源にあった自己憎悪を表面的な自己憎悪に変化させ母を許せないとまるで壊れた機械仕掛けのように無機質さに溶かし込んだ心から発していたのかもしれない。
山地に感じる微かな不気味さはそこにあるのかもしれない。でもそんな彼も俯いて涙を流すこともあった。
人間は何をしても壊れきることができない存在の証しのような気がした。
このように手掛かりのない憶測ばかりしてしまうのも、彼が手記を残さずして死刑に処されてしまったからだ。
山地は手記を出したいという気持があったがそれが叶えられなかった。
惜しいと言わざるを得ない。
一人の人間の深い悲しみが世に知れ渡ることがなく終えたという無念の悲しみを我々はずっと悲しみ続けるしかできない。
浅い手掛かりだけから彼の人生をどこまで夢想して苦しむことができるか、自分の力に頼るしかない。
私は殺人者を夢想すればするほど、快楽殺人というものは存在しないのだということを感じている。
人を殺したいというほどの命に愛着を持った人間が、ほんとうに快楽から殺人を行うのだろうか。
結果的、殺人によって快楽を感じたとしても、それを行うきっかけは快楽欲求以前の働きによって行われていることは確かだろう。
結果にあった快楽は飽くまで結果の中に含まれていた一つの生理的な要素であって、それが動機になると私はどうも思えないのである。
連続快楽殺人とよく呼ばれるが、果たしてそれが快楽の飢えからなのか、自己破壊の飢えからなのか、快楽の飢えから自己破壊を試みるのか、それとも自己破壊の飢えから結果的それを行えたことによる快楽を感じているのか、後者の場合、快楽は動機ではないので快楽殺人と呼ぶのは違和感が否めない。
自己破壊欲求は自己憎悪という自己愛の愛憎から起こるもので、これが内に向かえば自殺になるが外へ向かえば殺人となる。
常軌を逸した快楽欲求とはセックス依存症やアルコール依存症、または過食障害などでわかりやすく自己憎悪からの自虐行為の欲求によって快楽の果ての自己破壊を試みる行為の欲求である。
つまり通常の快さを求めるような快楽欲求は決して常軌を逸しないものとなるのである。
快楽欲求本能が生物の生存するために必要不可欠なことからもこれを理解できるであろう。
それに反して常軌を逸する快楽欲求は生存を著しく拒む行為欲求から来ており、生存するための自己破壊欲求という矛盾した人間の心理はやがて放って置けばその生物の破壊に通じる一本の道になっていることからもやはり純粋な快楽殺人は私はないように思えるのだった。
よってどの殺人者も動機は快楽なのではなく、飽くまで自己破壊なのだということを私は言いたい。
快楽殺人という呼び名はただ快楽のために殺人を行ったと浅はかな偏見を呼びやすく、適当ではない。
しかし自己破壊殺人とでも呼ぶならその者の苦しみがいかに深いかを少しは想像してみる余地も生まれるのではなかろうか。
殺人者本人の言葉だからといってその言葉を鵜呑みしてはならない。
何故ならその者は自己破壊者だからだ。
自分が世に蔑まれ嫌悪と憎悪の目を向けられ続けるためならばどのような倫理から外れた言葉をも彼は話すだろう。
それよりは私はずっと意地を張って反省を試みなかった山地がふと隙ができたときに一度だけ涙を流したそのときの心情を胸に留めておきたい。
実際会ったらわからないが、やはり本人の手記ではない客観的な書物を読むだけでは残酷な殺人者に一縷の不気味さを感じることを拭うことが難しい。
殺人者の手記がどれほど貴重で大事なものであるかを改めて感じさせられる。
自分と同じ人間という存在を不気味に感じることは人間の根源的な苦しみのように思った。
何故ならそれは同時に自分の中にも在る不気味さに思えてならないからだ。
ほんとうにほんとうに冷酷で冷血な一滴の血も涙もない人間がもしかしているんじゃないか、その不気味さは自分の中に同じ不気味さが宿っているのではないかという恐怖に他ならない。
不気味な人間を自分とは全く別の関係ない存在だと排除するか、自分の中に潜む不気味さを見るように相手の闇を目を逸らさず見続けていくか、何を見たいか、何を見たくないのか、その自問自答を怠ることが実はほんとうの闇だったりする。
だから私は書き続けることをやめることが恐ろしいのだろうか。
見たいものだけを見続けることが恐ろしいのだろうか。
見たいものだけを見続けた結果、自分が闇の淵にふと佇んでいるのが見えないだろうか。
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