ビートたけしの死刑廃止論に「たけしさん、そりゃないよ…」と落胆の声
たけしは農業をすれば殺人が許されるとは言っていないし軽はずみに言ってるわけでもない、死刑存置論者は被害者の立場になれとよく言っているが、存置論者は加害者の立場に立てていないから自分のやれてないことを相手に求める棚上げになってしまっている。
でも廃止論者は加害者の立場にだけ立ってるわけじゃなく加害者の死刑によって被害者が救われないと思うからこそ言っている。
罪を償わずしてただ命を奪い返せば遺族は救われるのか、母親を父親に殺された大山寛人は父親が死刑確定になり、父親の死刑執行の日を恐れ打ちひしがれて生きている。
彼は被害者であり、加害者の家族だ、被害者と加害者の両方の立場に立つ彼は父親の死刑を望むことができない。
多くの遺族の方も加害者が自分の家族であった場合、同じように死刑を望まないのではないだろうか。
知らない人間だから死刑を望むというのは、家族であったなら大切な人間であった存在の死刑を望むということになる。
大切でなかったから死刑を望むということになる。
しかし実は相手は冤罪で本当の犯人は自分の家族だったとなれば途端に死刑を望むのは多くがやめるのではないか。
つまり人間は、自分の大切な者は死刑にしたくないが、知らない人間は死刑になって構わないという利己的な想いによって死刑を望み、死刑が行われ続けているということになる。
加害者が自分の大切な者の命を奪ったという利己的な行為を否定しながらも、大切な者を奪われた被害者の利己的な想いは肯定するというその利己を問題としないままで、果たして被害者は救われるのだろうか。
自分の愛する者だったなら代わりに自分が死んでやりたいと思ったかもしれないほどの存在であるその加害者を死刑にすることは、いったいどのような悲劇の連なりになっているかを考え続ける時間を一生失うほうが、果たして本当に遺族の救いとなるのだろうか。
利己に利己で返す、この利己の連鎖が人間を救うことができる一番の方法なのか。
救いとはなにか。
人間を苦しみから救うもの、それが利己であるのか。
自分の愛する者を殺した者を死刑にしたいということは、自分の愛する者の命を救うためなら他人の命を奪っても構わないということと同じになってしまわないだろうか。
自分の愛する者を殺した者を死刑にしたいが、自分の愛する者より他人の命を救う者があるだろうか、これはいないだろう。
自分の愛する者だけ助かって欲しいと願うこと、それが利己というものだ。
利己によって救われる者はいるか。
憎い者を死刑にすることで本当に救われる者はいるのか。
殺人を犯した人間の母親と父親が違う人間だったらまず殺人は犯さなかったが、その子供だけを死刑にして救われる者は本当にいるのか。
本当にいるなら私は会いたい。
人を殺して、本当に救われる者はいるか。
殺人者を殺して、救い出される存在はいるか。
殺人者を殺害することによって生きる喜びを取り戻すことのできる者はいるか。
死刑は死の刑でなく、殺す刑であるとみんなわかっているのだろうか。
勝手に死が訪れる刑罰ではなく、人が人を殺すという刑罰であることを、人が人を殺すことを望んでいるということをみんなしっかりと想像できてるだろうか。
国家に雇われた人間が人間を殺し続けているこの国にどんな平和な未来をみんな描くことができてるだろうか。
どんなに平和な未来を思い描いても、その国の隅では人間によって人間が罰として殺されている。
死刑のある平和な国。多くの人が望んでいる平和な日本。多くの人が望んでいる平和な国の死刑。
子供に「日本はどんな国なの?」と訊かれて「死刑のある国だよ」と応えたくないのに死刑を望み続ける。
死刑のある国日本の平和な未来を子供に描かせることもできないのに死刑を望み続ける。
人間の救いとはなにか、平和はどうしたら近づけるのか、戦争に反対しながら死刑を望み続ける、人間が人間を殺すこと、人間が人間を殺すこと、人間が人間を殺すこと、戦争と死刑と殺人事件、共通している、人間が人間を殺すことに違いない。
人間が人間を殺し続ける世界。
人間が人間を殺し続ける世界。
人間が人間を殺し続ける世界。
人間が自分と同じ人間という存在を殺し続ける世界。