神と罪〈願望と恐怖〉







人間っていうのは何か、人間を、生物たちを、この自然、地球、宇宙をすべてを幸福にせんければならぬ、みたいな気持ちが本能的にあるのではないかと思うんですよ。
つまりそれらを幸福にすることこそが、人間の正しい行いであるのだという想いです。

和菓子賞、失敬、我が師匠 町田康はそれが、「超越的な存在、神のようなものに対する恐怖心が、何か正しいことをやらなきゃいけないという思いの根底にあるのではないか」と言っていたが、ゆうとったが、
私が思うに、恐怖ってのは、その対象に対するなんらかの正しきイメージが前提としてないと、起こらないのではないのか、という気がするんです。

例えば幽霊に対する恐怖なんてのは、それが何者かわからないから、得体のしれない存在だから、と捉えることはまあできるでしょう。
しかしそげなことを言っていると、この世界、人間、生物体、あらゆるすべてが意味不明でなんでここに存在してるかわからないものであり、しかしそれが意味が分からないからと言って、すぐさま恐怖するということもあまりない。
何者か実のところわからないのに、わかってると思い込んでることで恐怖しないで済んでいる。
幽霊は目にはっきりと見えないし、人間や生物以上に何を考えてるかさっぱりわからないから恐怖なんだと言うが、そんなことは思い込みでしょう。
目に見えないと言うならば、空気や風やガスや電気エネルギーなどすべて目には見えない物質であり、それら全部を恐怖するのかというとみんな特に恐怖しない。
では何故に幽霊を人は恐怖するのか。
何故に人は神のようなものを恐れ、畏怖するのか。
それはその対象物に対しての無意識の部分での願望が存在しているからではないだろうかと私は思ったのである。
幽霊を恐怖するのは、幽霊は悪いことをする存在ではあってほしくないという願望、良い存在であってほしいという思いがあって、それが裏切られるのではないかと心配する気持ちから恐怖が芽生えるのではないだろうか。
良い存在であってほしいが、良いことをせずに悪いことをしてくるのではないかという懸念が膨れ上がり、起きてほしくないことが起きてしまうという恐怖へと変わってしまうのである。
つまり何が言いたいかというと、恐怖というものは、まずそれより先に対象物に対する願望がなくしては、感じ得ない感情なのではないかと。

これは死に対する恐怖も同じである。人は死にたくないという生きたいという願望があるために、死は終わりではないかと恐怖するのである。
死とは何かわからないからという漠然とした恐怖なのではなく、死は終わりであってほしくないという強い願望がまずあって、人は死を恐怖するようになる。
願望と恐怖というものが必ずセットでもれなくついてくるという理論である。

なので、その論理を神に対する恐怖、畏怖の説明をすると、上に張り付けたTwitterで言ってる事、
「神は絶対的な正しさであってほしいと。そう願望して畏怖するからには神に支配されたる我々はそれに逆らったときは正しいところに神によって導かれたいという願望がまたあり、それが罰されるという恐怖となる」
ということを私は思っているのである。

そしてそれは、その恐怖とは、神に対する願望心が大きければ大きいほどに恐怖もまた大きくなるのだと私は言えよう。
つまり、神に対する願望の大きさによって、自分の罪の大きさと自分に与えられるべき罰の大きさを変えてゆくということである。
己れの罪を知るものは神であり、己れの罪を裁くものもまた己れの見る神であるからである。
これは信仰する神だけではなく、自分の内にいつも感じている罪の意識と言っていいだろう。
罪の意識というものが、罰の恐怖となり、その意識によって自分は神のような存在を認めてしまっていることと同じことになるというわけである。

罪の意識というもの、それが自分の内に在る神なのである。
なので、罪の意識を感じるのに、俺は神の存在を否定するなんて言ってるのは滑稽である。
そして罪の意識を感じる以上、その罪は罰されるべきものであると感じるのが人間である。
しかし人は時にこう思うのである。何故わたくしめがこのような悲惨な目に合わねばならぬのか、と。
何故かというと、そう思うのは、自分の罪の意識を意識下で意識していなかったために、自分の身に罰が与えられたかもしれないとは思わないで、自分の罪に見合っていない罰を受けていると思ってしまうためである。
しかし罪の意識というのは深い根の部分に存在しているために、自分の行いを何度も吟味して思い起こせばそれなりの罪というものはどんな人間であろうと見つかってしまうものだと私は思っている。

いいや待ってくれ、と、俺はここまでの罪は犯してなどいないよ、と言うのなら、君は少し勘違いをしていないか?と俺は言ってやるのである。
君は自分の悲惨な状態に今置かれてしまってることを、何故神の罰のように感じたのだい?
それは君にとって罰ではなくて必要な試練であり、これによって自分は一つ視界が広がるのだと何故思わなかったのだ?
君はこれが神からの罰であると感じながら、なぜ自分がここまでの罰を被ってるのだ、などと言っているわけだ。
君が、神からの罰だと感じるのは、君に罪の意識があるからじゃないの?
罪の意識を感じてるのに、認めたくないと、なぜ認めようとしないんだ?
なぜ自分はこんな苦しみばかり、神は残酷だという人がいるが、何故、神によって自分は苦しめられてばかりいると思っているのだろう?
それは、神を都合よく理想化してるからだよ。
神を自分にとって都合よく願望したために、都合の悪い神からのお仕置きばかり受けてるのさ。
自分が何を犯しても神は許してくれる、神は自分を叱らないなんて願望してしまってるからなんだ。
でも自分の罪をほんとうに意識していないならば、神からの罰だなんて思うことはない。
罪を意識しているのに、神はなぜ自分にひどい罰を与えてばかりなんだ、なんて言ってるのさ。
もう一度復習すると、罪を意識するのは、神が正しい存在であってほしいと願うから。
神は正しいと願うために、自分が罪を犯したときは、ぜひ神によって罰されたいという願望もそこに同時にある。
そして人々は様々な罪の意識に苦しむ。
それなのに罰されたと感じて、神はあまりに厳しいなどと思ってしまう。
でも自分が神に対して、何一つ正しさを願望しなければ、そこには罪もないし、罰もない、神に対する恐怖も畏怖もない。
何をしようが、自分に罰は下りない、そう信じて生きていけるよ。
何を見ようが、何を願望しようが、何を恐怖しようが、君の自由さ。


悪魔崇拝をしている彼に実際会って僕は運よく話を聞けた。
「君はなぜ悪魔を崇拝しているの?」
彼はほがらかな白い笑顔でこう応えた。
「僕の中に存在していないから」
「君の中に悪魔は存在しないの?」
「うん」
「教えてくれてありがとう。僕の中には悪魔がいるんだ。君を今ここで殺して食べてもいい?」
彼はまた白い笑顔でほがらかに応えた。
「いいよ」
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