私はいつの日からか、空を見上げるのも怖くてね。
一本の木を眺めるのでさえ怖い。
自分の目に映るもの、あらゆるものが怖くて、家でずっと引きこもって暮らしている。
それは自分の目に映るものがすべて自分の化身であり、そのすべてが私を責め苛んでくるから。
しかしすべてを恐怖するには、すべてを観望しているということになる。
で、自分はいったいこの自分に何を願望しているのかを考えたんです。
自分に対して、どんな自分だったら?
するとこれがどうしたことだろう。自分に対する願望はただ一つ、自分が地獄に落ちて苦しみ続けることだけだったんです。
つまり、恐怖の対照的となる願望の姿を願望しているために生まれる恐怖とは違ったというわけです。
自分が願望してるもの、そのものが、この恐怖だったわけです。
恐怖を私が願望して、恐怖しているわけです。
そしてこの恐ろしき論理は、すべての恐怖に当てはまるのではないかと私は考え中。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・考え中。
みなさんこんな夢を見たことはありませんか。
ああ!幽霊が出そうな場所やなあ!ここは!うわ!マジで出そう!こわ!幽霊出たらどないしょう!嫌よ嫌よ、怖いよ。なんて恐怖した瞬間に、ぬらりひょん、と幽霊の姿がそこに具現化、うわ、ワイが恐怖してしまったがために、ほんまに具現化させてもうたんやわ、ひえええっ、なんてことはありませんか?
しかしこんな夢も見たことはありませんか。
あっ、なんかイケヅラのタイプな男がおるな、あの方と、性欲のある限り、愛し合ってしまったりなんかして、そんな展開にならないかなと思っていたら、実際にそんな展開になって、あっ、これは自分がそれを願望したがために、まったくその展開通りにしてしまったんだ、と。
つまり、夢の中では、恐怖したことも願望したこともそのとおりに引き寄せてそれらが実際に夢の世界に起きてしまうということなんです。そういう構造をしているのが夢なわけです。
中には恐怖でもない願望でもないような意味の分からないことも起こりますが、それらは自分に理解できない脳の部分での自分の知らない自分の恐怖と願望の表れであるかもしれないわけです。
恐怖も願望も同じ念ずるということが起きてしまっていると考えられる。
ねんずる【念ずる】
①ある事柄・事態などの実現を強く思い願う。こうあってほしいと心の中で祈る。
「合格を-・ずる」 「子供の幸福を-・ずる」
②神仏の名,経文,呪文などを,心の中で唱える。 「仏ヲ-・ズル/ヘボン」
③苦痛・悲しみなどをじっとこらえる。 「中に心さかしき者,-・じて射むとすれども/竹取」
恐怖といえば、起きてほしくない、そうではあってほしくない、という思いから生まれる感情です。
願望は逆に、起きてほしい、そうであってほしい、という思いから生まれる感情です。
しかしなんで?なんで夢の中では起きてほしいことも起きてほしくないことも同じように起きてしまうのであろうか?
それは、念じてしまってるからなんです。
念ずる、というのは、願う、唱える、こらえる、というような意味があるが、どれも強い感情の強い念によって、その思いを抱くということです。
起きてほしくない!起きたら怖い!と強く思ってしまうことで、そこに強い念というものが生まれてしまい、その念によって、起きてほしくないものや表れてほしくない存在が現れてしまう。
夢の世界は、念の強さによって操作できる世界とも言えます。
何故ならば、起きてほしくない!と思う念よりも、それとは違うあれが起きてほしい!と強く念ずる思いがあれば、自然と、その強い念のほうが勝って、勝った念の通りに具現化させることができると言えるからです。
現に夢の中で恐怖の事態になっても、これは偽物である!消えるように!と強く念じることによって瞬く間に恐怖が消えうせるという展開の夢を何度も見たことがあります。
しかし、起きてほしくない!と思う念よりも、これが起きてほしい!と念ずる強さが弱くて負けてしまった場合は、当然、起きてほしくない恐怖の勝ちで、恐怖のありさまが具現化してしまいます。
例えば、薄暗いお屋敷に何故か自分がいて、いかにも怖い幽霊が出てきそうなシーンで、あっ幽霊でそう!と恐怖するのですが、それ以上に私を守ってくれる素敵でイケヅラで年収がすごい高い王子様が表れそう!と願望してしまえば、この恐怖と願望はこの世界で一瞬火花をバチバチと食らわし合って戦いますが、今回ちょっとした差で願望が勝ちましたので、即座に私を守ってくれる素敵でイケヅラで年収がすごい高い王子様が表れてくれて、私を出口へと誘ってくれました。やったあ!自分の欲望ってすごいな!と目覚めた後自己嫌悪に陥ったものの、まあおっとろしい幽霊に出くわすことは避けられたわけです。
で、ここからこの構造が夢の世界だけではなく、現実でも、同じ構造で成り立ってると考えられると私は思っているわけなんですという話になります。
そういえば引き寄せの法則というベストセラーを私はまだ読んでないのですが、もしかしてあれに同じようなことが書かれてるのかもしれません。近いうちに読んでみようと思います。
引き寄せの法則を知って、幸福になった、楽になった、なんて思った人が多いかどうか知りませんが、私が言ってることは、取り方によっては、人を地獄の底に突き落とすような考え方とも言えるのではないかと思います。
例えば、愛する者が死ぬことを恐怖している人は多いと思います。
これは、あっと思い出して、せや、と恐怖する、心配する、ということではなく、気が付けば恐怖しっぱなしだった、心配のしっぱなしだったということに気付くのではないでしょうか。
人もどんな生物もいつ何が起きて病気になったり、事故にあったりと、心配して恐怖しないではおられない存在だからです。
だから愛する者を愛するがゆえに、心配し続け、何か悪いことが起きたらどうしようと恐怖し続けてしまってる人は多いと思われます。
で、この現実世界といわれる世界が、実は夢の世界と全く同じ構造で作られている世界ではないと、否定できる人はいません。
私はこんな夢もよく見ます。自分の歯がボロボロになる夢。自分の顔があんまり酷く目も当てられないような姿になる夢。自分だけが裸で往来を歩いている夢。これらすべてが恐怖心から見てしまうわけですが、そういった夢以外にも、知っている人から殺されそうになって追いかけられる夢、警察から追われる夢、サイバーテロにより自分のパソコンが恐ろしいウィルスに侵されてしまう夢、そして家族の出てくる夢では家族が死んでしまう夢、すでに他界している父が夢で何度も死んでしまうという夢、愛する父が私を愛していなかったという夢、あらゆる恐怖が夢に現れます。
そしてそれらの恐怖には、恐怖の前提である願望というものが、果たしてあるのかどうかと考えてみるのです。
願望が勝つなら、そんな恐怖の夢は見なくて済みます。
自分の歯がボロボロになる恐怖よりも、自分の歯が奇麗になる願望を持っていて、その願望が勝つなら次に見るのはきれいな歯の自分の夢でしょう。
愛する父が死んでしまうという恐怖よりも、愛する父は元気に暮らしているという願望がいつでも勝っていたなら、もう夢の中で何度も父の死を見なくて済むのです。
もちろん、父が死ぬ年、愛する父が元気で暮らしてほしいという願望がまずあって、父が死んでしまうかもしれないという恐怖に私は毎日怯えて、泣いていました。
父はしかし私の恐怖の通りに、死んでしまいました。
そしてすべてが私を責め苛むように見えるように恐怖するようになりました。
その恐怖は私の願望でもあるのです。
恐怖と願望が同一のものとなったのです。
私は父が死ぬことを心の底から恐怖しました。
父が元気に生きることを願望する想いよりも強く、強く、恐怖して、念じて(強く願う、祈るようにして)引き寄せてしまったのです。
そして私の願望通りに、私を含めたすべてが私を責め苛んで、こう囁き続けるようになりました。
「死ね」と。
私は私と世界に対してこれ以上の願望はなく、またこれ以上の恐怖もありません。
私はわかってしまったからです。
私が願うすべてが、私の身に起きるのだろうと。
そしてこれは私だけではありません。
あなたもそうなのです。
- 関連記事
-
-
可笑しな夢 2016/01/22
-
上辺の世界 2016/01/19
-
怒涛の愛HASEKRSW 2016/01/10
-
橋が架かる 2015/12/30
-
不自然 2015/12/01
-
亡者 2015/11/28
-
masquer 2015/11/28
-
〈恐怖と願望〉 2015/11/23
-
神と罪〈願望と恐怖〉 2015/11/22
-
でらい愛 2015/11/22
-
女尊男卑男尊女卑〈ペニスを俺に出せこの野郎と魔女は言ったか?(無関係)〉 2015/11/16
-
「アイズワイドシャット」を観て〈上級階級者と恒心教徒の共通点〉 2015/11/09
-
対話から見えてくる離人症の影(もう一人の自分)の存在 2015/11/01
-
離人症とは〈主体と客体〉 2015/10/31
-
君のような。 2015/09/02
-