俺は恒心を離れたので今日から存分に自分語りをやってやろう。嫌になった人はみんなブロックすればいい。俺は1981年8月4日にこの世に生を受けた。あ、俺と言ってるけどちんちん生えてないのでまあ身体は女です。私を産むとき非常に難産だったようで40歳の母を私は大変苦しめてしまった。
— sirosorajp (@sirosorajp) 2015, 11月 19
逆子で臍の緒が首に巻き付いておりまして、早朝に分娩室に入った母はまだ生まれないと何度も分娩室を出たり入ったりして夕方近くにやっと産まれたようです。生まれた私は頭はいがんでて、片目だけ開いてて、やたらぶさいくな赤ん坊だったので、みんなショックを受けたようです。私もショックでした。
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でも成長していくうちにマジで可愛くなっていったので、よかったなあってみんなホッとしたようでした。しかしそんな幸福も束の間か、母はその二年後に乳がんを発病してしまい、家族全員で治そうと、あれやこれやと試して大金をはたいて、がんばったのですがそれも空しく。
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母はその二年後に44歳でこの世を去りました。4歳の私は母の生前の記憶が一つも残っておらず、唯一おぼろげに記憶のようにしてあるのは、家の食卓のある部屋に母が棺に入って寝かされていて、母の鼻の穴には白い綿が詰め込まれていて、母は眠っている。その周りを家族と何人かの人間が囲んでいる。
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私は母の作った派手なスカートが履きたいと、駄々をこねて泣いたそうで、お父さんを大変困らせ、のちにお父さんはこう言いました。「ほんまこっちが泣きたかったでぇ」父は母の話をするといつも涙ぐんでいました。母はエホバの証人だったので、火葬したあとは無縁仏の墓に灰を入れてもらいました。
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父は亭主関白でとても厳しく、また大手会社の慣れない営業の仕事のストレスから神経衰弱にかかったこともあり、母はとても苦労をしてそのつらさから救いを求めてエホバの証人になったのだと思います。母は私が最後の子供であるとわかっていたのでとても可愛がっていたようです。
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母といつも一緒に奉仕に出かけていたそうです。夏には真っ黒に日焼けしていたとお父さんはいつも笑って話していました。母が死んだ後も聖書の研究をエホバの証人の人たちと一緒にしていました。聖書で学んだ倫理は私の中で今も深く生き続けております。父の仕事が忙しく、私は叔父家に預けられました。
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父の兄である伯父の家には祖母も住んでいました。背中の丸い小さな祖母はとても優しく私はよく祖母とお話をしていました。おばさんは女の子がほしかったらしく私をとてもかわいがってくれました。そして何か月か父とも兄とも離れて暮らしていた頃、おばさんは私を是非養子に欲しいと父に電話しました。
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夜遅くに仕事から帰ってきた父はそんなおばさんの話を聞いた瞬間、それを断固断り、急いで私を迎えに行きました。お父さんは叔父の家の前に立つと、ものすごい不安に駆られたようです。もしかしたら私はお父さんのことをすっかり忘れてるんやないか、という不安の内に、戸を開けて私の名を呼びました。
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すると廊下の突き当りのドアが開いて、ぴょこっと小さな私が顔を出し、そのとたん「お父さん!」と言って私はお父さんに向かって走っていき抱き着いたそうです。お父さんはその話をまたいつも涙ぐみながら「あの時はほんま嬉しかったでぇ」と話していました。私はそうして実家に連れて帰られました。
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そして私は母と親しかったエホバの証人の家で預かってもらったりするようになりました。6歳上の兄が中学に上がると、学ランを着た兄が学校帰りに私を迎えに来るようになりました。兄がいつも作ってくれたマヨネーズを挟んで焼き上げるふわふわの卵焼きはとてもおいしかったです。
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誰の家にも預けられない日には、いつもよく家で一人でお絵かきをしていました。私は幼稚園には行かされなかったのです。父は幼稚園の教育をあまり気に行ってなかったからのようです。なのでいつも退屈で寂しく近所の友達が幼稚園からまだ帰ってないのかと何度もチャイムを押しに行くような子供でした。
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兄がどこかで遅くまで遊んでる日も多く、暗くなってきても家で一人でベルサイユのばらなどを観ては、もったいないおばけのCMに怯えながらお父さんが早く帰ってこないかと待ちわびていました。私はいつもご飯を食べるのが遅く、父と兄はテレビの部屋に行きいつも最後は一人で泣きながら食べてました。
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そして小学校へ入学し、初めて大勢の人の中で生活することを覚えました。ちょうどトイレの花子さんなどの話が流行中で、私は学校のトイレが怖く我慢してよくおもらしをしてしまう子でした。そのつど保健室へ行って替えのパンツを借りて履いて帰ってきました。二年生に上がると父は会社を退職します。
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ある日家に帰るとほぼ電化製品が新品になっておりお父さんは会社をやめたから一年間家におると言いました。自由の利かない大手会社を辞めたのは私といる時間を増やそうとしてやったことだったと後で知りました。私は学校から帰るとお父さんが家にいてくれることが嬉しくて嬉しくてなりませんでした。
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お父さんは釣りが大好きで、よく兄も一緒に3人で、釣りに出かけました。ブラックバス、ブルーギル、オイカワ、カワムツ、ハゼ、モロコ、タナゴ、フナいろんな種類の魚を釣って捕まえて家で飼っていました。海辺になぜかいたイシガメの子供も連れて帰り飼いました。私は小2で最初の挫折を経験します。
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時計の時間を当てなさいと私は先生に当てられ、黒板の前に立たされたが全く答えられず私は悔しさのあまり声もなく涙をぽとぽと落としてみんなの前で顔を真っ赤にして泣きました。その屈辱は自分に対する絶望的なものにさえ感じました。誰もがすぐに答えられるような問題がさっぱり解らなかったのです。
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3年生に上がると、私はある事件を起こしました。同じクラスの女の子の友達たちと一緒に靴箱の前に並んだ傘立ての上に乗って遊んでいた時です。私の目の前にいる彼女が邪魔に思えました。その瞬間私は彼女の背中を後ろからどんと思い切り突いて、彼女を傘立てから落下させました。
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彼女は膝がぱっくり割れるほどの大怪我を負って、声をあげて泣いていました。そして放課後、そこにいたクラスメイトの子たちみんなと担任の先生とで、何があったかを話しました。私は反省しているふりをしていましたが、先生が違う方を向いているときに怪我をさせた子に指さして顔だけで嗤いました。
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それを目撃した一人が「今○○さん笑ってたあ!」と言ったが私はすかさず怒って「笑ってへんわ!」と否定しました。私は何が可笑しかったのか、痛がって泣いている彼女が可笑しくてならなかったのです。その頃から父のお金を盗んでガチャガチャをやりまくってみんなに配ったりで父は学校へ呼ばれました
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飼っていたハムスターが死ねばいつまでも泣いていたような私が、人の痛みにまったく鈍感であり、冷酷でした。その頃から性の快楽を覚え、兄の隠し持っていたエロ漫画やエロ雑誌を貪るように読む毎日が始まります。それは誰にも言いたくない自分の醜い秘密でした。10歳から毎日性の快楽に浸りました。
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学校から帰れば誰も家におらず性の快楽を貪ってはエロ漫画のレイプシーンなどに興奮を覚え、父が帰ってきたら、父と兄と三人で楽しく食卓を囲むのです。そんな自分は汚らわしい醜い存在でしかないと感じるようになっていきました。ちょうど思春期の兄からちょっとした性的な事をされると逃げ回りました
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些細なことでも兄から性的な嫌がらせをされてるとは父に言うことはできませんでした。トイレに閉じこもって、父が帰ってくるのを待ちました。私の性的なことに対する嫌悪はどんどん膨れていくようでした。性的な穢れがある自分とこの世界はそれだけで絶望的な汚らしい世界に思えたのです。
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小6の時に私はもう一つの罪を犯します。この罪悪感も死ぬまで消えることはないです。5年生の時に同じクラスでまあまあ仲が良く、一緒にグループで遊んでいた女の子の家が火事にあったと私は登校してすぐに友達から聞いた瞬間、自然と涙が溢れました。ショックとどんな苦しみなのかと想像してです。
— sirosorajp (@sirosorajp) 2015, 11月 28
教室では先生が深刻な顔で、今、重態の彼女はものすごく頑張ってるからみんなで助かるように祈りましょう。と言いました。しかし何故か私はそれとは反対の、彼女がどうか死んで欲しいと祈りました。なんの恨みも嫉妬もなかったのに、私は彼女に死んで欲しいととても強く祈り続けたのです。
— sirosorajp (@sirosorajp) 2015, 11月 28
そして何時限目か、授業中に結果を知った先生が、涙をこらえながら私たちに教えてくれました。彼女は助からなかったと。その瞬間私は心の中で歓喜の雄叫びをあげました。彼女が死んでしまったことが嬉しくてならなかったのです。葬式の日にも全く悲しくなく、嘘泣きしようとしていました。
— sirosorajp (@sirosorajp) 2015, 11月 28
彼女の死をあんなに喜んだのに、時が経つと苦しい罪悪感しかそこにはありませんでした。人の死を、本気で意識して祈ったのはあの時だけでした。彼女のお誕生日会に呼ばれた時、私は兄から盗んだUFOキャッチャーの恐竜のぬいぐるみをプレゼントしました。言わばお古です。それを新品に見せかけて。
— sirosorajp (@sirosorajp) 2015, 11月 28
それなのに彼女は可愛い笑顔ですごく喜んでくれました。その時は罪悪感を感じました。それが彼女の死を祈ってそれが叶った時に罪悪感はなかったのです。一度彼女に対して腹を立てたことがあります。私の誕生日カードに彼女は「頭を叩かないでね」と書いていたからです。頭を叩くといっても、それは
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大阪人のよくやる少しきついツッコミのやり方であり、可愛さあまって叩いてつっこんでしまうという私の癖でした。悪意はなかったのに、悪意のように取られていたことをよりにもよって私の誕生日カードに嫌味のように書かれたことに腹が立ったのです。でもそんなことはすぐに忘れてしまいました。
— sirosorajp (@sirosorajp) 2015, 11月 28
だから恨みや憎しみで私は彼女の死を願ったわけではないと思っています。彼女は優しくて可愛らしく、花で言うと目立ちはしないが隅でいつもそっといることに癒される柔らかい色合いの白く小さなかすみ草のような存在でした。乱暴な私に頭を何度叩かれても彼女はずっと我慢して微笑んでいたのです。
— sirosorajp (@sirosorajp) 2015, 11月 28
小さな白く透明な天使のようでもありました。または青く透ける綺麗な蝶の羽根をつけた少し大人しい妖精のようでもありました。私はそんな彼女に本当は嫉妬していたのでしょうか。あの頃の私の心を思い出すことができたなら。負けず嫌いの私はそんな自分を封じ込めて今でも封じ切ってるのかもしれません
— sirosorajp (@sirosorajp) 2015, 11月 28
中学時代か、よく覚えてないが自慰行為をした直後罪悪感の激しさに髪を掻き毟ってのた打ち回っていた。最愛の父と楽しく話しているとき、ああ幸せだなあと思う瞬間にエロ漫画の醜いレイプシーンがそのつど脳裏に蘇り幸せな感覚はいつも一瞬で消えるようになった。15歳の時から酒鬼薔薇に恋し始める。
— sirosorajp (@sirosorajp) 2015, 11月 29
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