『屍を見出した者に、この世はふさわしくない。』

贖い 生贄 ヴィーガン 利他愛 イエス Wes 牛頭天王 牛の首 悪魔崇拝 日ユ同祖論

yuzae1981

神はひとり子とすべての人を同等に愛しておられる。そして神は人々に「殺すなかれ(殺してはならない)」と言っておられるのである。その神に、どうして罪を着せるのか。人々は、一体、どれだけ、「神の子」たちを残虐に殺しつづけ、神を悲しませ、苦しませてきたのかを我々は知らねばならない
12-08 18:14

その慈愛深き神が、《ご自分が最も忌み嫌われる異教の方法を採用されねばならなかった。》神ヱホバは、すべての人々に、御自分の愛(真の愛)を手本として示す為、ひとり子イエスを《生贄の羊》として、捧げられた。此処に在る神の愛を、人は理解することができる。
12-08 18:14

「人間の罪を解決する」とは、即ち、"自分が他者に対して与えたその痛み(罪)を、みずから望んで、それと同じ《痛み》を経験し、その人が真に《赦される(自分自身を赦す)》"ということである。神は、親鳥の心情、その心の痛みにまで配慮されていた。そして人々が幸福に長生きすることを望まれた
12-08 18:14

それ故の痛みを深く覚える心情を表している。その神が人間の罪を解決されるためには、ご自分が最も忌み嫌われる異教の方法を採用されねばならなかった。それがモリヤの山で、アブラハムがイサクをささげる行為であった。それは、ゴルゴダの十字架にご自分の独り子をささげられる行為に通底する。》
12-08 18:14

モレク神へ、自分の子を供犠(くぎ)する礼拝であった。「また、あなたの子どもをひとりでも、火の中を通らせて、モレクにささげてはならない。あなたの神の御名を汚してはならない。わたしは主である」(レビ記18:21)と厳しく禁止しておられる。この2つの聖句は、いずれも神の愛とあわれみ、
12-08 18:14

配慮されている。この聖書箇所は、神が痛みに敏感な感受性豊かな方であることを、われわれに示しておられるところだ」と指摘されている。この聖書箇所を発見された北森博士のセンスにも深い感動を覚えた。そんな小鳥の心にも配慮される神が、最も忌み嫌われたのが、カナン地方で専ら行われていた、
12-08 18:14

入っていて、母鳥がひなまたは卵を抱いているなら、その母鳥を子といっしょに取ってはならない。必ず母鳥を去らせて、子を取らなければならない。それは、あなたがしあわせになり、長く生きるためである」を北森師は引用され、「主はこれほどまでに、母鳥の心情を大切にされている。親の心の痛みに
12-08 18:14

聖書の中の気になる人物―イシュマエル(3)アザゼルのやぎとは誰か 臼井勲https://t.co/ZoV5AuyzzS《その本(北森嘉蔵博士の『旧約聖書物語』)の中で最も僕を感動させたところは、申命記22:6、7の神の命令「たまたまあなたが道で、木の上、または地面に鳥の巣を見つけ、それにひなか卵が
12-08 18:14

生命を殺戮してきた人間たちに完全なる《報復》を行っていることになり、それによって、人々の罪を赦し、《報い(罪の清め)》を与えられているのである。
12-08 16:23

そうすることでようやく、《贖い(神に生(いのち)を捧げる)》儀式は成立する。《贄(にえ)》とは、神または天皇に供する食物の総称だ。神々に捧げる《生贄》とは、人類による自分たちの神への《罪》の《贖い》の為のもののことである。そうすると、神々は決して悪魔ではなく、好き勝手に
12-08 16:23

僕はそれらすべて、神々が人間たちに対して、《贖い》を要求しているのだと考えている。即ち、生贄として捧げているのは、動物たちに生まれ変わる(転生する、または魂を乗り移らせて畜生の肉体的感覚を通して生きて殺される)ことを、その神と約束(契約)する《人間(自分)》たちなのである。
12-08 16:23

降らせるのだと人々は信じていた。《殺牛祭祀》が行われていた場所では《牛頭天王》が奉られている。牛頭天王は《祟り神》として恐れられ、崇拝されて来た。《生贄の儀式》は僕たちが想像する以上に深い意味が隠されていると考えている。ただの利己的意図による「悪魔崇拝儀式」ではないだろう。
12-08 16:23

今も絶滅危惧種を“生贄”に捧げる諏訪大社の謎を徹底解説! 日ユ同祖論とも奇妙なリンク https://t.co/2fXqjJPE9z 《殺牛儀礼》において池に殺した牛の首を放って血で神聖な場所を穢し、そこに住まう水神を怒らせることで旱魃時に雨を降らせていたという。神はその穢れを早く洗い流そうと雨を
12-08 16:23

そして、生贄役の「おこう」は、後に神官によって解放されるという不思議な儀式であったという。なお、諏訪大社の「生贄の儀式」で、かつては人間の胎児も捧げられていたという噂もあるが、真偽は定かではない。》
12-08 16:23

大きく裂けた鹿がいる」神様が矛で獲ったものだと考えられていた。江戸時代以前の御頭祭では、少年を“象徴的に”生贄として捧げる儀式も存在した。「おこう」(御神または神使)という役割を課された少年が「御贄柱(おにえばしら)」と呼ばれる柱に縛りつけられ、そばに小さな刃物が置かれる。
12-08 16:23

4月15日に諏訪大社上社で行われる「御頭祭(おんとうさい)」《縄文時代から稲作伝来以前の狩猟採集民が行なっていた現在は簡略化されており、捧げられる鹿の頭は剥製5頭のみのよう江戸時代、本物の鹿や猪、兎などが生贄にされていた諏訪大社七不思議の1つとして「生贄の鹿の中に、必ず耳が https://t.co/dUsVYgYF9S
12-08 16:23

RT @kuu331108: 政府 データベースは、Covidワクチンによる癌報告の10,000%増加を示しています・流産-279%の増加。・高血圧(ハイパーテンション)。2,281%の増加。・神経系の病気:1,048%増加、そして癌:296%増加|あかいひぐま @a
12-08 15:38

どうすれば他者を救えるだろうかということに焦点を合わして生きる事になるからなんだ。その意識で生きる人は自分の苦しみから逃避する為に自殺する(自分を殺す)という考えはなくなる。
12-08 15:33

子どもたちの自殺が増加しているという最悪な悲劇を人類がヴィーガンへ移行してゆくことで減らしてゆくことができるであろう。何故ならヴィーガンとは食べるもの着るものなどを変えてゆくと同時に最も意識の在り方、思考が変化してゆく。自分のことで苦しみ、悩む以上に、 https://t.co/PAnYDR2Ctp
12-08 15:33

《殺される者たち》すべての苦しみは、ぼくたちすべてのぼくたち自身の苦しみだからである。
12-08 13:21

二は、自分自身をみずから拷問処刑にあわせること以上に、苦しく、厳しいのだと説いているのである。だから"この地獄の世"において、だれひとり、真に救われる者は存在しない。即ち、すべての存在は、〖血みどろの絶叫と断末魔が響き続ける屠殺場〗へ延々と繰り返し向かうだろう。
12-08 13:21

血みどろの地獄は永久的に続いてゆく。イエスは真に人々に対し、一《救われる道》二《救われない道》この二つの選択肢だけがあるのだと深刻に説き続けている。そして一は、二よりも、「くびきは負いやすく」そして「優しい」と言った。二が、どれほどの苦しみにあるか、想像できるだろうか?
12-08 13:21

いる。しかし屠殺場の様子を愛の意識によって見つめ続ける人が気づけないはずはないように、この世は《真の地獄の世》である。そして人々がイエスの愛(どんな苦しみがあってもすべての救いの為にみずからを犠牲にしようとする意識)に生きることができないならば、存在にとってのその悍ましい
12-08 13:21

イエスが説き続けて来たものは、「決して優しくなどない」のだと想う人は多いかもしれない。何故ならイエスは全ての人に対して、自分の行く末と全く同じもの(自分をみずから十字架に掛ける)(自己犠牲の愛を示して死ぬ)ことを求め、別の方へと人が行くとき、そこには安息が存在していないと説いて
12-08 13:21

イエス―汝に祝福あれ―が言った。「この世は橋である。/渡って行きなさい。/しかしそこに/棲家(すみか)を建ててはならない。」北インドの遺跡の街ファテープル シークリーの城門アーチの刻文の言葉42イエスは言われた。”過ぎ行く者たちのようになれ”(過ぎ去りゆく者となりなさい)。
12-08 13:21

90イエスは言われた。”私のもとに来なさい、私のくびきは負いやすく、私の支配は優しいからである。そして、あなたがたはあなたがた自身に安息を見いだすであろう”くびき(軛、衡、頸木)とは、牛、馬などの大型家畜(輓獣)を犂や馬車、牛車、かじ棒に繋ぐ際に用いる木製の棒状器具
12-08 13:21

"彼らはそれらを足で踏みつけ、向きなおってあなたがたに嚙みついてくるであろう。"(マタイの福音書第7章6節)」https://t.co/ITvcVsH5me
12-08 12:14

ある為、彼らには死体が必要なのです。彼らは自分の死体を延々と求めつづけているのです。もはや、死んでいる死体に、生きている者の声(訴え)は聴こえない。聖なる物を犬に与え、豚に真珠を与えてもその価値が理解できないのと同じである。
12-08 12:14

イエスは応えた。「多くの者が、あの男の死体を真に味わって、悦びのうちに喰らうだろう。真に聴く耳を持つ者は聴きなさい。それが此の世の本質である。その死体を食べ続ける者で、生きている者はいようか。彼は死んでから、彼の死体を食べる。生きている者には、死んだ者は必要ないが、彼らは死体で
12-08 12:14

に、あなたがたの真に休まる《安息》の場所(御国、真の愛の存在する場所)を求めなさい(見いだしなさい)。」一人の弟子が、イエスに言った。「主よ、あの子羊(あの男)がどうにか自分自身(子羊)を殺して自分の死体を悦んで食べる、またはだれからも食べられることのないことを祈ります。」
12-08 12:14

どういう譬えでありましょう。」イエスは、澄んだ美しく悲しい眼でその子羊を見つめながら弟子たちに言った。「あなたがたは、自分の食卓に、自分の死体を載せ、それを悦び、そしてその死体を味わって喰らう、もしくは喰われることがないように、あなたがたが《生きている》うちに、"自分自身"のため
12-08 12:14

いて、子羊をどうしようとしているのか。」「彼は子羊を殺して食べようとしているのです。」イエスは言った。「彼が生きている間、彼は彼を食べないであろう。だが彼が自分を殺し、自分が死体となるときにのみ、彼は自分を食べるであろう。」「主よ、真にそうする他ないでしょう。しかし、それは
12-08 12:14

後戻りができない(蘇ることができない)状態を意味しているとも考えられる。精神が完全に崩壊してしまった人が、もう何をしても正常な精神に戻れないことのように示されている。一人の男が、子羊をユダヤ(商人の町)へ連れてゆこうとしているのを観て、イエスは弟子たちに言う。「彼は子羊の傍に
12-08 12:14

自分を犠牲にし、みずから十字架に掛けられて死ぬという受難を引き受ける神(光)の子を表している。その人々が《生ける(生きている)者》であり、自分がその"いのち"を喪失し《屍》となってから見ようとしても見い出せない事を意味している。つまり、此処で言及されている《死(屍)》とは、最早
12-08 12:14

(彼はそれを食べるであろう)”。彼らは彼に言った。”彼はそうするほかありません”。彼は彼らに言われた。”あなたがたが屍となって喰われないように、自分自身の為に、安息のうちに(その)場所を求めなさい(見いだしなさい)。”イエスが《子羊》と言う時、それは神の愛(利他愛)に生きて
12-08 12:14

見た。彼(イエス)は彼の弟子たちに言われた。”この男は小羊をどうしようとしているのか”。彼らは彼に言った。”彼はそれを殺して食べようとしているのです”。彼は彼らに言われた。”それが生きている間は、彼はそれを食べないであろう。しかし、彼がそれを殺し、それが屍になるときにのみ
12-08 12:14

https://t.co/5kinZXGUrL59イエスは言われた。”あなたがたが生きているあいだ、生ける者のほうを見よ(注視せよ)それは、あなたがたが死んだとき、彼を見ようとしても見ることができない、ということがないためである”。60ひとりのサマリヤ人が小羊を連れてユダヤに向かっているのを彼らは
12-08 12:14

生きてはいない人は、だれをも非難する資格も、裁く権利もない。彼らは皆、盲目で、自分を知らず、永遠の救いを信じることも求めることもない虚無主義者だからである。真に生きている人はすべての罪びとに対して、非難し、裁こうとするのではなく、その堪え難い悲しみと苦しみに寄り添い続ける。
12-08 08:53

この世の本質は、生きてはいない《死体》だと言われた。見よ、誰もが利己的に他者を犠牲にしてでも自分の快楽(悦び、幸福)を貪って虚しく死体として生きて虚しく死に、真に死体となる。イエスはそう言っているのだ。だが人が《真の愛》に目覚めるとき、人は初めて生きる(息をする)。
12-08 08:53

その者にとって、この世は相応しくない。』《屍(しかばね)》とは、《死体》生物が死を迎え、その生命活動を停止している状態の体を表す。「愛がなければ、人は死んでいるのと同じである」この言葉は多くの存在が発してきた。生きた者に比べ、死んでいるその屍は、虚しい。
12-08 08:53

https://t.co/6cIqqOz13Dhttps://t.co/QPTcf0krr8《イエスは言われた。”この世を知るにいたった者は、屍を見出したのである。そして、屍を見出した者に、この世はふさわしくない”。》トマスによる福音書 五六『この世の本質を知った者は、"それ"が屍であることを見出した。
12-08 08:53

僕は「殺人(肉食)」をし続ける人が何故、殺人者を非難し、裁く資格があるのか?と人々に問うている。
12-08 08:20

僕は多くのヴィーガンが決して《(自分を迫害する者も含めた)見知らぬ他人を自分を犠牲にしてでも救いたいという利他愛》には目覚めていないことを知っている。その彼らにも同じく、どのような残虐な殺人者も非難する資格も裁く権利もない。無論、罪深い愚かな僕にもそんな資格も権利もない。
12-08 08:20

僕はヴィーガンだけが殺人者を非難できる資格があるなんていう事を決して訴えていない。殺人者を非難する資格があるのは真の覚者だけだ。しかし彼らは殺人を犯した者を非難するという愚かで無慈悲な行為をしない。寧ろ心から憐れみ、彼らが救われるように自分を犠牲にする意識のなかに生きている。
12-08 08:20

利他愛に生きるとは、真の自分自身(本願)に生きるということ。それは全く容易でもなければ容易であってはならない。真の利他愛を実践しているチベットの賢者は敢えて苦しむ人に働きかけない。一度助けても彼らは必ず地獄の苦痛を味わうからだ。それは(真の己に背く)利己愛を選んでるからだ。
12-08 06:37

もう何一つ慈悲も敬意も存在しない人たちからの言葉を読み続けるのはたくさんだ。彼らは自分自身に向かってナイフで滅多刺しにし続けていることを知るべきだ。僕はWesの最後の殺人を表現した頃からかなり鬱が酷くてストレスが限界値にある。僕は彼らには何一つ訴えてはいない事を知ってくれ。
12-08 06:09

つまり、目覚める段階に来てはいない人たちには何も繰り返し説くことはなかった。それはただの労力の無駄遣いになるからだ。僕の言葉の全ても聴く耳を持たぬ人たちに向けては何も発されてはいない。彼らは真に自由に利己愛を貪り続けた後に、真の地獄に落ちることをひたすら望み続ける人たちだ。
12-08 05:44

一人一人が自分自身を救ってゆくことでしか、この世界を救ってゆくことはできない。ヴィーガンになるとは、まず人が自分自身を救うことに目覚めることだ。そしてその次には利他愛に目覚めなければ自分もだれも救うことはできない。イエスもずっと同じことを説いてきたが、聴く耳を持たない人たち
12-08 05:44

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