みなさんの中に今、絶対に傷をつけられたくないもの、存在があるでしょうか
もし、傷つけられたなら、それはまるで自分のことのように苦しく、
いたたまれない思いになるようなことが、あるでしょうか
私は自分の家族のことに対して侮辱されると、そのような思いになります
しかし、時には家族の悪口も書いたりはしました
しかし、心の中には愛で溢れているのです
先日、私の母はクリスチャンだと告白しました
宗教に対する偏見を持つ人の多い中、あえて書きました
しかし、私はそこで濁してしまったのです
それは愛する母を、母が信じてきたものを侮辱されはしないか
そのような思いで読む人がいないかと、いう不安から濁したのです
私はそこで濁すべきではなかったのです
初めから堂々と言うべきでした
母が入っていた、私の家族が勉強していた宗教とは、
悪い偏見を持っている人がとても多い、世界中で最も活動的、熱心であろう
エホバの証人という団体、宗教です
今小さな地震が起きました
神がイエスが怒っているのだろうかと、冷や冷やしました・・・
しかし、本当に怒るべきことは私がその名を濁して言ったことに対してでしょう
聖書など少しも重んじない人からしてみれば、
聖書は破り捨て踏みつぶせるものでしょう
しかし、私には聖書に書かれた事柄、神、イエス・キリストなどの存在は
とてつもなく神聖なものであり、それは幼い頃からの無意識に
そう学ばされたことからも来ているとは思います
それと同時に母の記憶を持たない私にとっての母は
まさにマリアのような聖母と同じ存在なのです
だから、その母が心から信じて敬い続けてきたエホバやキリストに対して
少しでも悪い思いを持たれることが、とてもやりきれない気持なのです
しかし、何の知識もない人たちは、世間からカルト宗教などと言われているもの
に偏見があって当たり前であると思います
カルトと言われる理由は、エホバの証人の人たちのあまりに純粋な忠実さです
一番には、きっと輸血を拒否することが上げられているでしょう
私も一時期、なぜ愛する家族の命よりも神が大事なのか、などと
疑問に思い続けていました
輸血をして、確かに助かる人はいるでしょう
しかし、輸血をしたことで亡くなった人もまた、多いという事実です
聖書にはほとんどが暗号的な言葉で語られているために
それを、これはこうなのだと解釈するのは、確かに危険だとは思っています
でも、輸血に関して、輸血することが正しいと思って輸血をして
亡くなった人が多いと言う事実を知らずに、ただ輸血を拒否する宗教は
カルトだとか、悪い偏見を持ってほしくはないです
私の思いでは、血はただ血という液体だけなのではなく
血の中には個人の全てが含まれているように思えます
その血が他人の中に入ると言うのは、それで変異に耐え切れずに
亡くなると言うこともあるんじゃないかと
そうでなくとも、輸血で病気に感染するのもまた多いのが事実です
エホバの証人も人口の血液に関しては個人の判断に委ねられています
自分が神に認められるために家族を救わない人はいません
実際、輸血をしなかったことで息子を亡くされた方の話など聞かされて
とても深い悲しみの中、自分のしたことは正しかったのだろうかと悩み続け
その苦しみは、私達には計り知れないものなのです
ほかに偏見の一つに、幼い子供のしつけに鞭を打つのは虐待だというのがあります
実際悪いことをすると私も兄もお尻が真っ赤に腫れるまで鞭で打たれましたよ(笑)
確かに幼い私にはものすごい恐怖でありましたが
打たれてきた本人の口から言わせてもらいますが、あれは
虐待や体罰などというものでは決してないです
叩いても大丈夫なお尻しか打ちませんし、むしろ
あの教育はよいものだと思いますよ
悪いことをすれば痛い目に合うというのが幼い頃から嫌でも
覚えさせられたわけですし(笑)
親の愛情はとても感じます、逆にそれほど怒られないことのほうが
子供にはよくない気がします
私自身は今は無信仰であり、生活のすべてを聖書の神に委ねてなどいません
しかし、神はいつでも私の中にいるのです
人が何か悪いことをして、悪いことをした、と思うとき
その人の中には神がいるのだと思います
愛のないことをした、これが愛かも知れない、と思うとき
その人の中には神がいる証拠ではないでしょうか
神を敬って生活してるわけでなくても、神はいつも私たちの中に存在しているはずです
神とは、良心であり、光、希望であり、愛だと思います
そして、聖書には神のみ使いの一人のサタンが悪魔だと書かれています
サタンは目に見えるものでなく、私たちの心の中に潜むのです
サタンとはネガティブなものを全て背負込んだ悲しく孤独な哀れな地上の神です
この地上はサタンによって支配されたも同然でしょう
毎日毎日どこかで人は憎しみ合い、殺し合っている現状です
そして、それだけでなく、この世のすべての愛のない事柄、
それも全てサタンの支配下に置けるものでしょう
私が今いる部屋に強い光が差し込んでいます
私はそれだけでとても深い感謝を覚えるのです
無信仰の人たちは、感謝する気持ちのないことが当たり前になっている人が多い気がします
太陽は上って当たり前だ、雨は降って当たり前だ、生きられて当然だなど
敬うことは人に愛を覚えさせてくれるはずです
太陽に、雨に、命に全てに愛を注げば、人は無意識に幸せな気持ちになり得ます
それは私は思うのです、神が聖書を通して私たちに言いたい全てではないでしょうか
愛を知ることは神を知ることに通じているのです
愛を知る人間は滅ぼされないと、神は決して脅しているのではなく
ただ私たちに愛の幸せを知ってほしいだけなのではないでしょうか
聖書にはどうしたら私たちが救われるかが書かれています
神が私たちを救うのではなく、私たちは自分で自分を救うのです
それ以外にこの世界の救いはあり得ないのです
ただ悪いことは犯さずに生きていればいいというわけじゃないということ
そこに愛がないのなら何の価値もない、と聖書でパウロも言っています
無関心である、傍観者である、愛のない全てが価値のないことであると
私も思います
愛は苦しみを賄うものであるゆえ
苦しみ嘆き悲しむ人は幸いであると聖書にあります
神の救いとは、神が自ら行う目に見える救いではなく
私たちの中にある愛の深さが救いであると言うことだと思います
前に載せたネットの聖書の文はエホバの証人が読んでいる新世界訳の聖書とは
違う新約聖書の文でした・・・
新世界訳には十字架の記載は一切ないです
キリストが打たれたのは一本の杭となっています
真理はともかくキリスト=十字架というような偶像的安易な
イメージに囚われずに済むこの訳は好きです
新世界訳は新しく訳された聖書です
新世界訳がネットで読めますhttp://www.watchtower.org/j/bible/index.htm
さて、世界の終りはたぶんきっともうすぐですよ、みなさん・・・
戦争、飢饉、地震、がいつ世界全てで起こってもおかしくないです
逃げ場などありません
そんな時こそ、嫌でも本当に自分の中に救いを見出さなくていけなくなるでしょう
救いは私たちの中にあります
もはや恐れることはやめ、悪の意味はなくなり果て、
何をすべきか、きっとわかるはずでしょう