エーリッヒ・フロムの『自由からの逃走 新版 』から抜粋文を張り付ける
自由は近代人に独立と合理生徒をあたえたが、一方個人を孤独におとしいれ、そのため個人を不安な無力なものにした。その孤独はたえがたいものである。かれは自由の重荷からのがれて新しい依存と従属を求めるか、あるいは人間の独自性と個性とにもとづいた積極的な自由の完全な実現に進むかの二者択一に迫られる。
人間は外界の位置構成部分であるかぎり、個人の行動の可能性や責任を知らなくても、外界を恐れる必要はない。人間は個人となると、独りで、外界のすべての恐ろしい圧倒的な面に抵抗するのである。
ここに、個性をなげすてて外界に完全に没入し、孤独と無力の感情を克服しようとする衝動が生まれる。
人間がみずからの良心のままに信仰を求めることを許さなかった教会や国家の権力に対する勝利ではあるが、一方近代人は、自然科学の方法によって証明されないものを信ずるという内面的な能力を、いちじるしく失ったことは、十分に理解されていない。
言論の自由はたしかに古い束縛にたいする戦いにおいて、重要な勝利ではあるが、近代人は、「自分」が考え話している大部分が、他のだれもが考えはなしているような状態にあることを忘れている。
われわれは、人間がかれになにをすべきで、なにをなすべきでないかを教えるような、外的権威から解放されて、自由に行動できるようになったことを誇りに思っている。しかしわれわれは世論とか「常識」など、匿名の権威というものの役割を見落としている。われわれは他人の期待に一致するように、深い注意を払っており、その期待にはずれることを非常に恐れているので、世論や常識の力はきわめて強力となるのである。
自我と人生とを信ずることができるような、新しい自由を獲得しなければならないことを忘れている。
人間や自然にたいする自発的な関係である。それは個性を放棄することなしに、個人を世界に結びつける関係である。この種の関係―そのもっともはっきりしたあらわれは、愛情と生産的な仕事である―は全人格の統一と力強さにもとづいている。それゆえそれは自我がどこまで成長するかの限界によって左右されるだけである
この難しすぎる文を自分の力で理解しようとしてみよう
自由とは何か、それは戦争も宗教もないこの国は特に自由な国だろうか
そこでは個人の独立が可能だ、何かの迷信に囚われることなく
自分の目的に沿って生きることができるだろう
その一方で自由な人は孤独になりやすく、不安で無力になりやすいのもわかる
『彼は自由というその重荷から、逃れ、
何か新しい依存や従属(強力なもの、中心となるものにつき従うこと)を求めるのか
あるいは、人間の独自性(他と違い、それだけに特有の性質)と個性にもとづいた
「積極的な自由の完全な実現に進むかの二者択一に迫られる」』←(これだが
ない気がする
誰もが何かに依存しながら、何かに従いながら、自分の独自性をそこから
見つけ出して行ってるからだ)
「人間は外の世界の位置構成部分(ってなんだ?人間がどの位置にいるべきかを組み立てた部分ってこと?)であるかぎり
個人の行動の可能性や責任を知らなくても、外界を恐れる必要はない←(そりゃないだろうと思う)
人間は個人となると、独りで、外界のすべての恐ろしい圧倒的な面に抵抗するのである。
ここに、個性をなげすてて外界に完全に没入し、孤独と無力の感情を克服しようとする衝動が生まれる。」
(社会に出て何かに圧倒されると、自分の個性などは捨てて社会に溶け込もうとして
そこで孤独と無力を克服しようと心は動く、とゆうことだろうか?)
「人間がみずからの良心のままに信仰を求めることを許さなかった教会や
国家の権力に対する勝利ではあるが←(これがまたわからない、人間の自らの良心とゆうものは
信仰を無理強いしようとする教会や、国家の権力に対する勝利である、とゆうことだろうか?)
一方近代人は、自然科学の方法によって証明されないものを信ずるという内面的な能力を、
いちじるしく失ったことは、十分に理解されていない←(これはわかりました、
宗教や目に見えない力を排除して生きるとゆうことは、それを失った、と言えるくらい
それは大切なことではないかと)
「言論の自由はたしかに古い束縛にたいする戦いにおいて、重要な勝利ではあるが←(一体何が
勝ちで負けなんだろう?言論の自由で失ったものもたくさんあるから、引き分けでいいと思うけどな)
近代人は、「自分」が考え話している大部分が、他のだれもが考えはなしているような状態に
あることを忘れている←(なんでそう思うんだろう?私がマイノリティだと
言われたのは何故なんだろう?私が考えていることを誰もが考えると当然思ってることは
おかしいことなのか?)
「われわれは、人間が彼になにをすべきで、なにをなすべきでないかを教えるような、
外的権威から解放されて、自由に行動できるようになったことを誇りに思っている←(誇りってなんだ
?誇りなんて必要なのだろうか?誇りとするなら、何々に誇りを持つのではなく
この世界でただ生きていることに誇りを持てばいい)
なんかだんだんエーリッヒに対しての否定文ばっかになってきたな、まあいいや)
しかしわれわれは世論とか「常識」など、匿名の権威というものの役割を見落としている←(これは
どうゆうことなんだ、世論とは、ある公共の問題について社会の大多数の賛同を得ている意見
常識とは、一般の社会人が共通にもつ、またもつべき普通の知識・意見や判断力
我々、って一体誰のことなんだ、そういやこれ抜粋文だから飛び飛びなんだ!わからないわけだ!)
われわれは他人の期待に一致するように、深い注意を払っており、
その期待にはずれることを非常に恐れているので、
世論や常識の力はきわめて強力となるのである←(やっと、わかった、我々とは社会に出て自分を
押し込めている人たちのことか)
「自我と人生とを信ずることができるような、新しい自由を
獲得しなければならないことを忘れている←(これはよおくわかった!みんなが安易に求める
自由は確かに束縛的なんだ、自分を縛っていることにも気づいていない人が多い
僕もその一人だし、気づいてもなかなか解くこともできない、でもさ
自分とその人生を信ずるのには、何が必要だろう?
知識?理解力?慈悲?自我を無くすこと?
そんなこと、わかってるよね、わかってるんだ、ほんとはみんな
愛しか、人を愛することでしか自由にはなり得ないってことを)
「人間や自然にたいする自発的な関係である。(自発的=物事を自分から進んで行うさま)
それは個性を放棄することなしに、個人を世界に結びつける関係である。←(自分の個性を認め
愛することで、それを世界に結びつける、世界の個を認める関係性だろうか?)
この種の関係―そのもっともはっきりしたあらわれは、
愛情と生産的な仕事である―は全人格の統一と力強さにもとづいている。←(ほら、愛情ってでてきたろ
う?愛は全てをひとつにして、何よりも力強さを持っている、ほんとにそう思う
なんだっていいんだ、それが愛なら、なんだっていい)
それゆえそれは自我がどこまで成長するかの限界によって左右されるだけである」←(成長がそうゆうこ
となのはわかってる、限界ってなんだろう、死のことかな?生きてる限り人は限りはないものな
生きてる限り人は愛を教わる、この大きくて生きてる日数通い続ける学校の生徒みたいなもんだ)
共存しているならば、共鳴しよう、何故か?
君が幸せに自由になれるように、ただそれだけ
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