夕暮れ時、窓が開かれたその部屋に何かが
入ってゆき、また出て行った
女は仕事から帰るとドアをバタンと閉め
鞄を床に放り投げ
「ただいま」
と誰もいないように見える部屋でぼそっと言った
生きたものはそこにいないように見えたが
木でできた椅子には何かが座らされている
女は小さなテーブルの上に置かれた今日の朝に置いたままの
コップを手に取り台所に行き洗おうとしたその時
白い蛍光灯に照らされたコップの中で何かが光ったように見えた
女は眼を細めてそのコップの中を蛍光灯の下にもって行き凝視した
するとコップの中に僅かに残っていた水の中になにやら小さな丸いものが
あるように見えた、なんだろうと思い女は考えたが
それは綺麗なまん丸の卵のように思えたので
何かの卵なら、これは何かが孵るかもしれない
そう思って女はそのコップをまたテーブルの上に置いた
それを椅子に座るものは見ているようだった
何日かが過ぎて行った
女は仕事から帰った時と朝起きた時、それ以外にも何度も
コップの中を見た
特に変わらないそれを見ながら女は待ち続けた
椅子に座るものも何かを待ち望んでいるように見えた
ある日、女は相変わらずぶっきらぼうに帰ってきた
帰ってくると最初に必ず女はコップの中を見る
「あ」
コップの中には何か蠢くものがいた
これは、なんだろうと女は思った
女は少しの間考えていた
その間女の顔は嬉しそうだった
椅子に座るものもまた嬉しそうにも見えた
「これは、ヤゴだな、きっと、うん」
女は図書館に調べに行こうと立ち上がり、もう閉まっていることに
気づきがっかりと腰を下ろした
なにを食べるんだろう、と女は考えていた
ヤゴだから、チクワや魚だろうか、そう思った女はいそいそと
買い物に出かけた
女の部屋には椅子に座るものと、ヤゴだけがぽつんといた
女は急いで帰って来た、鞄をそっと床に置き
ヤゴに向けて「ただいま」と嬉しそうに優しく言う
早速買ってきたちくわをコップの中に入れてみた
ヤゴは少しの間、ちくわのそばでじっとしていたが
ちくわに興味を持ちだしたのか、それを両手で器用につかみ
食べるかと思ったが食べはしなかった
女はその光景をじっとずっと見ているのだった
椅子に座るものもまたじっと見ているようだった
明日図書館に行って調べよう、あともっと大きな入れ物を買って来て
そこに入れようと女は思った
休みなのに女は珍しく朝早くに起きて、まずコップの中を見た
そして「おはよう」と言った
女は朝食を摂って図書館へ向かった
何冊も本を持ってきて机の上に広げ猫背になって
必死に調べていた
いくらか時間が過ぎて、女はバタバタと本を棚に直し
ひとつの本を借り出して、そのままいくつかの店を梯子して
部屋に帰って来た
「ただいま」
女は買ってきたミミズを小さく切りコップの中に入れた
ヤゴはそれを食べだした
女は嬉しくて椅子に座るものに笑いかけた
椅子に座るものもまた笑っているように見えた
ゆるやかに笑顔が戻ってきたその小さな部屋の中でも
時間はいつも通り過ぎて行った
小さかったヤゴは脱皮を繰り返し大きくなっていった
かつて女の冷め切っていた心もヤゴの成長につれて愛しさが募っていき
温かいものが生まれて同じように成長して行くようだった
椅子に座るものもそんな女の変化を見ながら温かさを宿して行くようでもあった
女はヤゴが自分のそばにずっといられるわけでないことをわかっていた
一層募る愛しさをどうすることもできずに抱いていた
幸せなのに悲しいその静かな時間の中で女は何度か泣いていた
椅子に座るものもそんな女とヤゴを見ながら泣いているようにも見えた
何日か経ったある昼に女が起きるとヤゴの姿がどこにもいなかった
女は涙をポトポト落としながら部屋中を探した
椅子に座るものも不安の色を濃くしているようだった
女は一時間近く探し回ったあと、カーテンに何かが付いているのを見つけた
そこには羽化したばかりのヤゴがいるのだった
薄く水色に染まったその透けるような翅を身に付けた姿の変わったヤゴは
立派なトンボになっていた
トンボを見つめながら女は深く安堵して寂しい思いが溢れてくるのだった
椅子に座るものもまた安心したように座っていた
トンボは時間が少し経つとだんだんと澄んだ青い色になっていき
やがて部屋の中を飛び回り始めた
女はそのトンボの美しさに目を奪われずっとその姿を目で追っていた
椅子に座るものもそれを眺めているようだった
もう昼をとうに過ぎ夕方がやってくる時間が来ていた
女は何かを決意したように、入れ物を持ってきてそこにトンボを
入れようとして、それは難しいかもしれないと思ったその時
トンボは女の肩の上にそっと止まった
「そうか、おまえ、わかってるんだな」涙声でそう言った女は
トンボに手を伸ばすと、トンボは女の手に止まり入れ物の中に入った
外に出ると空は茜色に薄く焼けて来ていた
近くの河原のある場所まで女は歩いて行った
草原がずっと広がり向こうには山の見えるその場所で
女は入れ物の蓋を開けた
トンボはすぐに飛んで行くかと思ったが、なかなか出てこない
女がトンボをつかもうとすると、トンボは少し飛んで女の手の甲に止まった
なかなか飛び立とうとしないトンボに女は涙でぐしゃぐしゃの顔で叫んだ
「幸せになるんだ!おまえは、さぁ」
それでもトンボは飛ばない
女は悲しくて悲しくて泣き叫んだ
「おまえはこの大空の下で生きてゆくんだよ!」
「飛べー!!」
その瞬間トンボは飛び立った
少しの間、女の周りをぐるぐると回っていた
「ありがとう」
そう言った女からトンボは離れて遠くへ高く飛んで行った
女は夕陽に溶けて行くかのような小さくなってゆくトンボをずっとずっと目で追った
すると、どこからか飛んできた鳥がトンボに近づいてきて
トンボをクチバシで咥えてどこかへ飛び去って行った
女はその場で側にずっといた椅子に座っていたものの胸倉をつかみ叫んだ
「なんでなんだよ!」
「なんで?!なんとか言ってくれよ!」
それを黙って聞いている木でできた大きな人形は悲しそうだったが
何も女に言ってやることはできなかった
するとその瞬間女の周りをものすごい数のトンボたちが一斉に飛び出した
美しく夕陽に照らされ薄紫の空に向けてたくさんのトンボが飛び回っていた
女は夢を見ているように、黙ってその風景をずっと眺めていた
人形がもし、言葉を話せたのなら、何を言っただろう
「あのトンボは君と一緒に過ごした時間が幸せだったはずだよ」
そんな言葉をきっと言いたかったのかもしれない
このお話は多分2003年頃に私が見た夢を元に書いたお話です
もうその文は実家のパソコンにあるか、もう消えてしまったかなので
新しく書き直してみましたが、多分前に書いたものの方がよかったと思います
無駄な感情表現の個所などが少し増えてる気がします
夢は多分キセルのギンヤンマとゆう曲に感化されて見たのではと思います
トンボを草原の場所に持ってくる、そこからが夢のまんまのお話です
それまでは作りました
今日初めてyoutubeにキセルのギンヤンマを載せてみました
とても切ないこの曲が、最後このお話が映画になれば
エンディングに流れるといいなぁ、と想像してみる
トンボがそれから本当に大好き
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