存在することは損傷


南直哉(みなみじきさい)という禅僧が気になる


 
「自分」というのが自分の手に負えるものだと思っているのが大きな誤解ですよね。

「自分」は自分の手に負えない。

自己責任とか自己決定とかいう言葉は胡散臭いというのが私の実感です。

私は自己であるということは課せられているもの、刑罰みたいなものだと思っています。

なのに、わざわざ自分からそれを探すということは、自虐の極みだと思いますよ。

でも、自虐せざるを得ない理由もわかる。

おそらく、ある根源的な痛みを別の痛みで代償しているんだと思います。

先ほど申し上げたでしょう、存在することは損傷だと。

この痛みが消えないとすれば、別の痛みで代償するか、元の痛みに気づかないようにするしか道はない。




なかなか難しい内容だけれど、この人の言葉はすんなりと入ってくるのは
結構わかりやすい言葉でゆうてくれてるからだと思う、そこにかなり好感を持てる

思うに、仏教は(仏教を含む)あらゆる立場や考えの相対性を認めた上で、
「絶対確実な根拠」を持たぬまま、ある一つの立場(仏教者なら無常と無我の考え)
を選ぶべきだと、勧めているのです。この決断(私に言わせれば、賭け=「信」)こそが、
ニヒリズムの向こう側に出る営為でしょう。

これはすごいわかりやすいな、絶対確実な根拠を持たぬまま、ある賭けのようなものを
信じて虚無さえも超え行くとゆうことか、

すごい、難しいけれど、わかりやすい

仏教にも興味出てきてるし、よしこの人の本読んでみよう
それになんかこの人すごい人間くさくていいんだよなぁ

絶対確実な根拠を持たないで、ただ人にとって救いになる「信心」を持って生きる
生きにくい人生を少しでも生きやすくする為に、それが大切だからなんだろう


老師と少年とゆう本から、抜粋文を借りてきました
本当のぼくは誰ですか? 本当の自分を見失いかけた少年が、老師に問う。
人間とは何ですか? 自ら命を絶つことは許されるのですか?と答えを求める少年に
老師が言った言葉です。


善悪を言うのは意味がない。それは人の一時の判断で、なんら確かな根拠はない。
しかし、友よ。人は自ら死ぬべきではない。たとえ、それが悪いことでなくても、
その人にとって生きることが死ぬことよりはるかに辛いことだとわかっていても、
自ら死ぬべきではない

生きる意味より死なない工夫だ
聞け、自分が存在する。自分が生きている。そう思うか
ら、人は自分とは何かを問い、なぜ生きているかを問う。
しかし違うのだ
自分が存在するのではない。存在するのだ。自分が生き
ているのではない。生きているのだ。問いはそこから始ま
る。「自分」からではない
信じていることを忘れたとき、人は理解する
『自分』を脱落せよ、ならば問いは消滅する
欲望だけが生きていることの苦しみなのだ
大切なのは答えではなく、答えがわからなくともやっていけること


君が苦しいのなら、やがて救われるだろう

本当に苦しいのなら、こうして救いは必ず導き出されるだろう

救いを求めることはやめてはいけない

よく生きようと思わなくていい、破滅や死を自ら選ぶ前に

何もかもから離れてしまえばいい、自分も他人もこの世界の繋がり全ても

そうすればきっと楽になる、自ら苦しむ必要はないんだ

自ら苦しむことができるのは、自ら救うことができるからなんだ
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