隠されたる福音



ユダの福音書というものをあなたは知っていますか。
わたしは昨日、初めて知りました。
感動と衝撃の嵐です。

こちらはもうちょっと長い、そして吹き替えバージョンです。




あなたはこれを見てどう思いますか。
私の心は感激に震えている。
何故ならわたしはそれを信じたかったからです。
わたしはそれまで想像していたのです。ユダはイエスを裏切った訳ではない、ユダは誰よりも一番にイエスを愛していたために、イエスの計画に一躍買ったのだと。
私の想像はほぼ間違いでありませんでした。

ユダはイエスを裏切った自分に対し苦しみ自殺したのではなく、イエスを心から愛し、イエスを心から信じて、そして何より真理に目覚める力を与えられ、犠牲となり石打ちの刑に合い死んだのです。
そしてイエスも非常に苦しい刑を与えられて死にました。
なんて悲しく美しい話なのだろうか。そう思うでしょう。
私もそう思います。彼らの眼は完全に開かれていたが、それでも死の間際の苦しみは凄まじいものだったでしょう。

「シルバーバーチの霊訓―地上人類への最高の福音> 10章 幼児期を過ぎれば、幼稚なオモチャは片づけるものです から「イエスという人物を指さして“ごらんなさい。霊力が豊かに発現した時は、これほどの仕事ができるのですよ”と言える、そういう人物だったと考えればよいのです。信奉者の誰もが見習うことのできる手本なのです。しかもそのイエスは、わたしたちの世界においても今、わたしの知るかぎりでの最高の霊格をそなえた霊であり、自分を映す鏡として、イエスに代わる霊はいないと考えております。」

イエスの霊格はシルバーバーチが知る中では最高のものであるらしい。
しかし、上には上が気の遠くなるほど存在しているのである。
それが、このようなフラクタル(図形の部分と全体が自己相似になっているものなどをいう)だ。
考えてゆくと失神してしまいそうなほどの無限の世界であることを、わたしたちはいつか本当の心で実感する日が訪れる。


で、今日の勉強はここで終わりって感じでいい感じにまとまったのですが、私の宿題はまだまだ山ほどあるのです!
しかし、あれだね、イエスという人は子供のように無邪気で天衣無縫であり、またよく笑う人だったというのは実に幸せな気持になるものだね。決して高圧的な態度で人々に教えを説くことがなかったのである。

はい、では次は、ユダの福音書が見つかりましたが、他にも隠蔽されてしまった福音書があります。
それはマグダラのマリヤの福音書である。
マグダラのマリアによる福音書
ここでは古来から続くグノーシス派(後にキリスト教異端派と呼ばれる)が、正統派と言われてきた私たちの知る聖書からは抜き去られたマグダラのマリヤの福音書を教義として用いていたということから始まり、そしてその福音書の内容を示しあらゆる観点からそれを解析し深く概説されている。


『 救い主(イエス)が言った、「罪というのは存在しない。本性を真似たこと、例えば姦淫をあなたがたが行うと、これが罪と呼ばれるが、存在するのはその罪を犯す人、つまりあなたがたなのである。このゆえにこそ、つまりその本性の根のところへと本性を立て直そうとして、あなたがたの領域のいかなる本性のもののところへも、善そのものが来たのである。」』「マグダラのマリアによる福音書」より

イエスが示す姦淫とは、このページの作者は「「姦淫を行なう。」は比喩(メタファー)で、つまり心が物質的な次元に囚われると罪になるのだ。霊的な本質から浮気して物質界と交わることが姦淫である。」と述べる。
これを読んで、なるほどなあと思った。確かにイエスの言葉にはかなりの回数で姦淫という言葉が出てくる。

聖書箇所:マタイの福音書5章27節~
[27]『姦淫してはならない。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。 [28]しかし、わたしはあなたがたに言います。だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。

姦淫をそのままわたしたちはとりたがるが、しかし姦淫だけが私たちの悪い行いであるのではないことは私たちにも分かるであろう。そうか、これはすべての物質に囚われてはならないということである、か、なるほどなあ、と言われて気づくのは、聖書はとても例えがほとんどで難しいからである。シルバーバーチはあんなにわかりやすく説明してくれるのに、一体何故だろうと思うでしょう。
しかしユダの福音書のムービーを見てもわかるように、イエスは限られた人たちにだけ、重要なことを話しました。とある。
何故でしょうか?
それはイエスは未来も知る人だったからです。
つまりイエスは自分の語った言葉はどのように捻じ曲げられて民衆の間に広まっていくかをすべて知っていた為、民衆には考えて考え続けた者にだけ、真理を求めに求め続けた者にだけようやくわかるような難しい譬え(たとえ)で話したのです。
しかしもうその必要はない、自らこの世の真理に眼を向けようとするユダ、そしてマグダラのマリヤ、それからトマスにだけ真理をそのままわかりやすく話したのです。
しかしそれ以外の弟子たちには本当の真理を言いませんでした。それはそれ以外の弟子たちの目が濁っていた為である。
ムービーを見てもわかるように、明らかに悪そうな顔で弟子たちはイエスの言葉を聴く耳を初めから持たないということをイエスはわかっていたためです。
だから本当のことは、隠されて良い、しかしその教えは密なる場所で語り継がていくこともイエスはわかっていた。

聖書は間違いだらけであるということがわかった。しかしそこにはイエスの真の言葉がたくさん書かれてあることもわたしたちはその本質で見て、それを知っているのだ。

そう、星の王子さまでもゆうてたね、きつねが「さっきの秘密をいおうかね。なに、なんでもないことだよ。心で見なくちゃ、ものごとはよく見えないってことさ。かんじんなことは、目に見えないんだよ」

わたしたちがいくらあらゆる真理と言われるものをむさぼり読んでも、わかるのは脳ではなく、心だってことなんだ。
だから私が必死にここに毎日何を書いても、君の心が見ようとしないなら、何もここには書いていないのと同じだ。
そして本当のことは、君が本当に見ようとしないと、何も見えないんだ。

関連記事