空を生きる

『龍樹論集』(中公文庫)から


『愚者は存在に普遍の実体を考え、あるとかないとかと倒錯する誤りのために煩悩に支配されるから、自らの心によって欺かれる。』

『存在に通じている人たちは、存在は無常であり、欺く性質があり、空虚であり、空であり、したがって寂離であると見る。』

「生じたものであるから「存在」といわれ、「存在」という語は「生成変化するもの」をさしている。

その「存在」はまた一刹那ごとに消滅する性質があるから「諸行無常」である。」

「世界は妄想である」 (『六十頌如理論』)

『あるもの(A)との依存関係によってあるもの(B)が生じた時、BはAから生じたのであって、BはAがなければ生じない。

「存在」と「無存在」、「生成変化するもの」と「生成変化しないもの」は寂静であり、涅槃である。』 ( 『空七十論』)

「存在は自然に生じるのではなく、また時からも、根本原質からも、実体からも、最高神からも、無因からも生じるのではありません。迷い(無明)と渇望とから生じる、と知るべきです。」 (『観誡王頌』)

「大乗は、施し、戒め、忍耐、努力、禅定、知恵、慈悲からなっています。

施しと戒めによって利他を、忍耐と努力によって自利を完成します。

禅定と知恵は解脱のためにあります。これが大乗の要点です。

仏陀の教えは要約すれば、利他と自利と解脱のためにあります。

それは六つの完全なる徳(六波羅蜜)の中に収まります。

それゆえに、これは仏説であります。」 (『宝行王正論』)

「貪りなどの煩悩は、本性上からして生成のはたらき(行)の深い森をさまよい、善なる側面のいのちを断ち、謬見などの視覚器官の洞窟を棲家とし、遠い昔から対象の風に愛着する心に付き従っているものである。」(『六十頌如理論』)

「この法を正しく理解しないならば、我意識が起こり、それから善・不善の業(カルマ)が生じ、善・不善の業から善・不善の(輪廻の)生存が生じます。

それゆえに、我意識を止息させる法が正しく理解されないならば、ともかくも、施し、戒め、忍耐の法に専念してください。」

「悪い行いをなす生きとし生けるもの(有情)たちは、等活、黒縄、極熱、衆合、叫喚、阿鼻などの地獄において、つねに苦をうけるでありましょう。」

「ある者は胡麻のように押しつぶされ、ある者は粉末のようにこなごなにされ、ある者はのこぎりで切断され、またある者は鋭い刃のあるぶかっこうな斧で引き裂かれます。」

「またある者は溶けた青銅の熱液に混ぜ合わされ、飲まされます。ある者は灼熱した刺のある鉄のとがった杭につながれます。」

「ある者は鉄牙をもった獰猛な狗に襲われて手を空中にあげ、ある者は力なえて鋭い鉄のくちばしと恐ろしい爪をもった鷹にさらわれます。」

「ある者は虫やかぶと虫、また幾万という蠅や蜂や蚊などの、ふれると耐えがたい大きな傷を与えるもののえじきとなって、ころげまわって苦痛を訴えます。」

「ある者は燃えさかる石炭の塊の上で絶え間なく焼かれて口を大きく開け、ある者は鉄製の釜のなかで、ちょうど実がさかさまになっている瓢箪のように、煮られます。」 (『観誡王頌』)




「愚かな心を持つ人たちは「この世界は空(虚無)である」ととらえ、「この世界が空であるならこの世界に何の必要があろう」といって、かならずなしとげねばならない善の道に進まなくなる。

したがって、この人はまた、たとえば翼がまだはえていない鳥が自らの巣を捨てて飛ぶように、破滅するであろう。」

『寂離の意味を知らず、ただ聞くことだけをおこなって福徳をなさないならば、このような下劣な人びとは破滅する。』
(『六十頌如理論』)

「この法は、正しく理解されないときには、明知のない人を破滅させます。

その人は虚無論(無見)の不浄の中に沈むからです。」
『原因と条件とから生起したものを真実であると妄想すること、』『それが迷いであると、師(仏陀)はいわれる。

それから十二支が生じる。』

『真実を見ることから「存在」は空である、とよく知るならば、迷いは生じない。

それが迷いの滅である。そのことから十二支は滅する』
(『宝行王正論』)








龍樹が説いた空という理論は、頭で考えるとこんがらがってきてわからなくなってきてしまう。
それは人間の知識を超えたところに存在しているからかもしれない。
しかし竜樹は決定的な一事を言っている。

「世界は妄想である」と。

わたしはこれがすべてなのかもしれないとも思っている。
しかしそれが、そう思いたいことなのか、本質の部分でそれを知っているからなのか、それはわからない。
あらゆる情報がはびこりすぎているために、人は不幸にもそれらに操られて生きている部分が大半である。
しかしわたしたちの本質はその情報を超えるところに存在している。
わたしたちの本質は、死と虚無を恐れるのである。
本質が抱く妄想である。
そして、本質が求めるもの、それは死と虚無のない世界である。

わたしはそれがすべてだと思っているのだが。
つまり、この世界は死を望まなかった。だから存在している。それだけなのである。
そして良く生きたいなら良く生きることが出来る。
逆に悪く生きたいなら悪く生きられるのである。
わたしたちは求めるものだけが与えられる。
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