Do you continue still eating meat?
肉の入ったレシピの写真も、スーパーに並べられた肉も、肉を食べる人も、すべて汚らわしいと思うようになってきた。
見るのが苦しい。おぞましい。
肉は死体だ。
死体を食べるために食卓に並べたり、店に売られたりしていることが汚らわしく思える。
また肉を食べる人は実際に汚らわしいのだから、それは仕方のないことだ。
ほとんどの人が、それに気付かないで生きている。
かつてのわたしのように。
肉を食べる人たちが全員死んでしまえば、もう彼らは殺されずにすむ。
そんなことを考えてしまいそうで、自分が恐ろしい。
いったいどこへ行ってしまったのだろう。平和を望むわたしの心は。
これでは世界が滅んでしまう。わたしの世界は滅ぶ。
これではまるで、自分に逆らう人間をすべて滅ぼした旧約聖書の神だ。
退行している。
あかんではないか。
そう、これでは、あかん、わかっている。
わかっているが、肉を食う人が、どうにも、憎たらしくなってくる。
どうしてもわからない、なんぼゆうても肉を食うという人たちの顳顬に銃を宛てて死んでくれと言って撃ち殺しそうで怖い。
これはどういうことなんだろう。
つまり、これはこういうことだ。
もし、自分の愛する子供たち、または兄弟たち、家族たちが、毎日人々に殺され肉を食われていたら、自分の愛する存在たちの肉を食う人間たちが憎くてたまらない、殺したい、目の前にいたら本当に殺すかもしれない、この感情は極当たり前なのではないか。
ってことは、わたしはおかしい感情を持っているわけではない。
極、普通の人情を持って憎しみを抱いているのであって、それによって自ら苦しめられている。
しかし、殺されている彼らも兄弟だが、殺す食べる彼らも兄弟である。
つまり、ある兄弟たちを愛してしまったがために起こる、それ以外のどうもそこまでは愛せない兄弟に向けての憎悪である。
これは、贔屓だ。
何故なら人間はある者だけを愛し、ある者は愛さない、これでは駄目であるからだ。
まるで、駄目だ。やり直しだ。
それは、愛じゃない。執着みたいなものだ。
つまり、今のわたしのこの憎悪は、殺されて行く可愛い自分の兄弟を殺されたくないがためにそこに執着が生じてしまっている状態であって、執着、愛着を持ってしまったがゆえに起こった苦しみであり、憎悪である。
愛にならなければ、その憎悪は延々と続くであろう。
本質に目を向けなければ、この苦しみは延々と続く。
人々はそこへ向けることができる目がある。
気付こうとすれば、気付くことが出来る意識がある。
そう、それは、求める者には与えられ、求めない者には与えられない。
つまり、わたし次第。
あなた次第なのである。
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