犠牲の夕暮れ

 屠殺場の映像です。肉を食べるというのはどういう事ですか?肉を食べ続ける人、是非ご覧になってください。It is a video of the slaughter.
Do you continue still eating meat?



まあ二度、三度ね、寝したんでほとんど忘れてしもうたんやが、ゆうとね、それはこんなんやったんね。

なんでだか知らぬんが、たっかいたっかい場所におって、下を見下ろせば、ひょー高、ちゅうて金玉も飛び上がるほどの高さゆうんやろか、まあそれくらい高い。
そこにね、いるねんけども、わたしのこれ立ってるこれなんやと思って見た、それは巨大なダムのような人口構造物なんだね。で、一番下、それは川である。
えっらい場所に自分おんのう、おもて、ふっと左を見たんだね。するとそこは土瀝青の斜面で、かれ枯れの水が極めて少ない水がその表面を流れていた、そしてそこに、ハゼがおった。ハゼといっても海におるようなでかめのハゼではない、池や川におる小さいハゼね、それが水がそろそろとしか流れていないその斜面にへばりついておった。
知っておりますやろか、ハゼっちゅうのんはなんでか斜面が好きで、可愛いわ、ほほほ、ほんで懐かしいなと思った。
よく父親と池や川で網でハゼすくてね、池なんかやと絶対土手の斜面にもんのようさんへばりついとるから、そこをずわあっと網ですくたらもう六匹くらいはいっぺんに掬える。小さいハゼやけどね、それは二、三センチとかの、それを家持って帰って大きい水槽入れて飼うんすわ、ごっつい可愛い、口が鱈子唇みたいなんででっかあてね、目は愛嬌のある目をしていてね、水槽コンコン叩いたら寄ってくるんだね、すごく可愛いからハゼは大好きな魚やった。
そこの斜面におったんは、川におるハゼやった、五センチくらいの、ハゼや、おもて見とったのね。水がちょっとしかないことが心配で、大丈夫なんかなぁおもて見てた。
すると、ハゼはちよよん、ぺた、ゆうてわたしのほうへ寄ってくるじゃあーりませんか。
ハゼっちゅうのはね、移動するときに、ちょっと地面から体浮かしてちよよんと離れて、またすぐに地面にぺた、とひっつく行動を見せるんだ、おもしろいよ。
そうやって、ちよよん、ぺた、ちよよん、ぺた、ちよよよよ、ぺた、ん、を繰り返してわたしのほうへ近寄ってきたハゼ。おお、近寄ってきたなあ、ハゼ。とおもて快くそれを眺めていたらば、ハゼは、あほやな、そいつが泳いでいく先には、グレーチングと呼ばれる網、格子状の鉄製溝蓋があり、そこに吸い込まれてゆくかとしているから、わたしは驚いて慌てて助けようとした。
しかし、出す手が遅く、ハゼはグレーチングの網の間に落ちていってしまった。
うわああああっ、とおもた。可愛い愛するハゼが落ちてしまった。
あれ、しかし、この下は川ではないのか、川に落ちたら助かるかもしれんばい、川に落ちてくれ!と心の中でわたしは叫んだ。
祈りながら、グレーチングの隙間から下を覗いた。すると、ハゼはその手前に広がっていた土瀝青の台の上に、べたんっ、と落ちた。
うわああああああああああっ、とまたわたしはおもた。
どないしょ、どないしょ、どないしょ、見ればその台の上にはあらゆる魚が干乾びて死んでおった、このままではハゼが死んでしまうではないか、どうしよう、どうしよう、わたしは見渡した、どうやったらそこに降りることができるかを探そうとした。
見ると、その台のすぐ前に、白い大きな横長の板が斜めとなって相対になっている、そしてその白い板の向かい合った下のところは一メートルほどの隙間が開いている。
その隙間に落ちたらば、わたしの体はこまくちゃとなってしまうことをわたしは知っていた。この川の中にある巨大なダムに似た人口建造物は実は巨大かまぼこ製造機械であったのである。白い板のすきまに魚をほうり込み、身を練り潰し、こねくりまわし、かまぼこを作るという恐ろしい巨大な機械で、白い板に挟まれた間を滑り落ちるともう生きては帰ってこられない恐怖のかまぼこ作りの機具である。
ひいいいいいいいっ、とわたしはおもた。ハゼがおる場所のすぐ前にその恐怖の投入口がある、てことは、ハゼを助けるのを一歩間違えればわたしはこまくちゃのわやや、練って練ってこねくりまわされたあげくにかまぼこにされるのである。
わたしは戦慄した。
そして悩んだ。しかしわたしが助けなければハゼは死んでしまう、いったい私以外に誰がハゼを助けることができようか。少し悩んだが、わたしは、ええい、ままよ!と一刻を争うし、ええわい、俺は自分の身よりもハゼを助けることが先決である、とものすごい判断を己に下し、だーーーーーーー!と心の中で叫んで、ハゼの元へ飛び降りた。結構距離があるのである。だからその飛んでいるときに突風でも吹けば、かまぼこと共に風に去りぬ、みたいなことになるのを承知、しかしわたしは飛んだ。
ハゼよ、ハゼちゃん、今から行くよ、待ってろ、待っとれ!
で、まあ、助かったんすわ、わたしは。かまぼこにならずに済んだのである。
ほっとしたがそれは、しかし、あのハゼはどうなったっけかの、ちょっとそこんとこが思い出せんのです。
どうなったんだろう、どうなったんだっけ、わたしは気付けば川の中に突っ立って巨大建造物を見上げておった。





と、ゆう夢ですわ。今日見たね。怖い夢やったね。
しかし思ったんだね、この夢はまるでわたしを試しているかのような夢だな、と。
つまり、この夢の重要ポイントは、わたしがハゼを無事助けてハーッピーエンドということではなく、わたしが自分を犠牲にしてでも、ハゼを助けるのか、もしくは自分を優先したがために助けようとしなかったのか、そこにあるんじゃないかと思ったんだね。だからそのあとのハゼが助かったか、助からなかったかは重要なことではなかった。助けようとしたか、助けようとしなかったか、が重要なのであって、そこを夢の中でわたしを聖霊たちが、もしくは、自分が、試してみたんじゃないかと思った。
前にもゆうたが、夢には見るパターンが二つあって、恐れることと、願うこと、どちらかを見る。場合が多い。恐れのほうが願う気持より大きくなった場合怖い夢を見てしまう。
反対に願う気持のほうが恐れの気持より増幅すれば良い夢を見る。
今日のこの夢は、両方入っているとも言えるだろう。自分がかまぼこになるかもしれない境地に立たされる、愛するハゼを身を犠牲にしてでも助けるか、助けないかの究極の立場をとらされる、これは恐ろしいことである。しかし、ハゼをとにかく助けたい、たとえ自分がかまぼこになってしまうとしても、ハゼをわたしは助けたい、という思いは願いの想いである。そして、そのどちらかが果たして、勝つのか?そこを聖霊たち、そして自分の潜在意識は冷静にそれを見守っていたと言えよう。

そして、わたしは、成功、した。夢、ではの。
これは、何にも代えがたい喜びなことを、YOUにもわかるかな。
わかってほしい、いつの日かわかるだろう。
わたしたちはそのような犠牲を自ら払うために生まれてきたんだよ。
Oh、それが、ぼくらに一番大事なもん、神、愛、Love、なんだ。






犠牲力を人民へ (異議無シ)

犠牲心を己れへ お願いしますわ
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