前の記事で人は愛がなければ死んでいるも同じだということについて僕もそのとおりだと言った。
では、愛とはなんなんだろうか、どのようなものだろうか。
聖書では愛であるものがどのようなものであるかあげられている。
コリント第一の13章4節から7節である。




愛は寛容(辛抱強い)であり、

愛は情け深い(親切である)。

愛は妬まず、おごらず(自慢せず、高ぶらず、誇らず)

みだりな振る舞いをせず(礼儀に反することをせず)

自分の利益を求めず、苛立たず、傷つけられてもそれを根に持たず

不義を喜ばずして真理の喜ぶところを喜ぶ。

愛はすべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える。





よく、自分に誇りを持て、みたいなことを聴くことがあるが、それは大きな間違いであることがよくわかるだろう。
誇りなんてものは高慢、自慢、高ぶりの一種であって、自分のいいところを自分で満足していったい何になるのであろうか?それから、自分でなくとも、身内、身近な人がすごい人で、その人を誇りに思うと言うのも間違っている。自分たちのすごさに喜んでいて、いったい人は何ができるのだろうか。なんにもできやしないさ、誇ってるうちは。まず、愛は自分のいいところなんて見ない、ただただ、自分の未熟なところと、人のよいところだけを見ているのではないだろうか。僕らがどれほど、僕がどれほど、愛がないか、愛でないからこそ、僕は愛になれるよ、さあ、死んだ肉、僕たちは、皆、死んでいる肉だ、死んでいるから、生きることができるよ、すべてが、この世のすべてが希望だ。絶望の絶えない希望だ。絶望を耐える希望。
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