怪段

今日はこのむし暑い一時を一寸ひやっとできそうなひとつの怪談話を暑中御見舞いして進ぜよう。
どこまでのぼっても辿り着けない階段があった。それはどこまでのぼってものぼってもまだまだ先があり、先っちょは雲にまみれて見えないほど高い。それでも人々はその階段の先に何があるのか見たさにのぼることをやめなかった。その階段は上ばかりに続いているのではなかった。下にも続いていた。しかし下になると地下になるので地面を掘るのは面倒臭かった。それでも人は階段が何処まで続いていてそこに何があるのか見たさに階段を下りることをやめなかった。人々は一生分の食料を小脇に抱えてのぼり、またおりた。すべての人が階段の途中で事尽きた。百年あってしても上にも下にも辿り着けない階段であった。
此処に一人の男があった。男は階段をのぼっている途中に疲れて階段に腰を下ろし一休みをこいていた。男は「あー疲れたなぁ」と独りごち、階段に頭をもたげぼんやりとしておった。
そこに現れるともない何かが上からくだってきよった気配がして男はうーんと首をそり返し階段の上のほうを見やった。
其処に一人の人間が下りてきた。
人間はずんどこと景気良く下りてきて男の頭上まで来ると言い放った。
「やあ、男、きみは男じゃないか」
男は起き上がって人間のつま先から頭の天辺までじろり見渡し返した。
「おお、人間、おまえは人間だな」
人間は鼻糞をほじくり、それをポーンと後方へ投げるとまた言った。
「きみってやつはほんに男さ、こんなとこで出会っちまってからに」
男は首と肩をぐりぐりいわしてこきゅこきゅした腕をぶんぶんして返した。
「おまえこそ人間だ、此処で会ったが百年目彼処で会わぬが千年目とはよく言ったものだ」
そう呑気に男と人間は交わしたが、こころうちでは、しかし困ったぞ、と互いにひりひりと胸を焦がしあった。何故困った。だって男は上にのぼりたかったし、人間は下におりたかったのである。何も困ろうこともあるまい、なに体を端に寄せて道を譲ってやりゃすむ話でィ。ところがそれは不可能であったのである。階段の幅は約30センチと非常に狭く、こんな狭いところをはじに寄せてみろィ、あっというまに仏様となって階段の天辺までのぼれるかもしれないね、そらいい案でィ、よしじゃあお先にっつってひょーいっなんてしないよ俺は馬鹿、と男は胸の奥底で思った。
男はひしゃげたような顔をつくろって言った。
「やい人間、おまえの魂胆を読んだぞ、おまえはここから俺を突き落とすつもりだろうがそうは問屋がおろさねぇ、問屋が下ろせねェもんを俺に下ろしてくれと言うのはわかるが、俺も下ろさねぇ、いや、下ろせねぇ」
人間ははははと余裕に笑い、小脇に抱えた袋から小豆を取り出すとこれをポリポリと食って返した。
「ははは、それはわいの心やおまへんェ、それはわれの心とちゃいまっか、わいはこう思ってたぜよ、われをこの先にゆかすためにゃぁこの命十遍、いや五十遍、いいや、百遍でもくれてやる、とこないにな」
男はぐっと顎に力を入れて踏ん張った、こころうちで「こいつ、できる」と感心してピョーウと口笛を吹きさった。男は小脇に抱えた袋から千枚の煎餅を取り出すと男の後ろの段の上にそれを積み言い返した。
「なにを言いやす兄貴はん、おまえはんの百遍分の命なんざ俺のこの卑小な命にゃ勿体無きでござんす、俺はおまえはんをこの下におろすためなら一千遍、いいや、一万編でもこの命を捧げるつもりでござる」
人間と男は束の間御釈迦様と同じ顔で微笑みあった。
はははははは、あははははは。
しかし男も人間もぴくともその場を動かなかった。人間は利口なその脳内で構想した。この男はなにを考えてるかわからないぞ、男にしゃがんでもらいワイがその上を跨いで渡ろうとしたそのとき、男が立ちあがりワイは真っ逆様に地獄逝きとくりゃかなわねェ、ここはその危険がないようにワイがしゃがんで男に渡ってもらうほうが賢い、ああワイはほんに賢いのオ、惚れ惚れするわこのワイ。人間はふるふる感激した目で男に言った。
「サアサ旦那はん、わいはこうして小さくしゃがんでいますよってに、そないだにポポーンとわいの上を跨いで先へ進んで御行きなさい」
男は、素直に涙を流して返した。
「おおきに、ほな跨がしてもらいまっさ、俺が渡り終えるまで動いたらあきまへんで」
「へえへ、じっとしていまっさかい」
男は人間の頭の上を跨ごうとしたそのとき、男は大きな屁をこいた、つい、うっかりと、その安堵から出てしまったのであろう。その臭さはとてつもなくたまらない臭さで人間は驚きのあまり我も忘れて転げ回った。当然、まだ跨ぎ終えていない男も人間の背中の上で同じく転び回った。
幸い階段から転げ落ちはしなかったが、男も人間もあまりに転び回ったので視界がぐるぐるとして必死に階段にしがみ付いてじっとしていた。そして人間と男は同時に目を開いた。人間と男は驚きのあまり失神しかけた。何故か、さっきまで上にも下にも延々と続いていた階段が男のケツの部分の階段の段を境に下が消えて無くなっていたからである。これはなんとしたことであろうか、男は上へのぼるばかりだから、別にいいけれども、これには人間は悲しんで呆然となって言った。
「先がないんじゃ、先に行けない、わいはこの先後戻りするばかり、こんな悲しいことはない」
男は人間に同情した。そして慰めの言葉を放った。
「そうは言っても仕方のあることか、戻ったところに何かがあるやも知れぬし、おぬしはだいたい上から下りてきたけど、いったいどこから下りて来たんだ、まさか天辺からじゃああるまいな」
人間は遠い日を思い返すように遠くを見やって言い返した。
「いや、わいは確かに天辺から下りて来たぞい、しかしその天辺がどういった場所か今となっては何一つ思い出せはしないのだ」
男ははははと空笑いをして階段の上のほうを覗いて言った。
「そんなことで下にくだったところでなんになるのか、おまえさんはまず来たところをはっきりと見てからでないと下が見られてもなんの喜びもないのではないか、おまえさんはきっと戻るべきなんだ、だから下が消えてしまったに違いなか」
人間はふふふと不気味な笑いをして言った。
「ああ、ほんにわれのゆうとおりじゃ、わいはまず来たところがどんなところか確かめたほうがよか、それに気づかせてくれよったわれの屁ィに感謝するぞや」
納得した人間は長い道のりのなかやっとここまで下りて来た階段の上のほうをのぞむとさきざきと階段をのぼって行った。男も着いて階段をのぼった。先は明るかった。何故なら人間が天辺から此処まで来たことがわかってるから、必ずこの命あるうちに天辺に着くはずだからである。そこがぼんやりとしたなにかわからない天辺であったとしても。
ところで男の残りの食料は先ほど自分の嘘の肝っ玉を本当らしく見せるために階段に積んでそのまま忘れて転げまわったときに落ちてなくなった千枚の煎餅のみであったが、男はそれにまだ気づいていなかった。
先は明るかった。
男と人間はそれを信じて階段をつんとこつんとことのぼりくさった。
先は、あかる、がった。
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