布団に寝てて僕はふと浮かんだ。
この世から肉体的な苦痛をなくするには、この世から肉体的快楽をなくすればいいのではないか。
何故そう思うかと言えば、この世界にはあらゆるすべての存在が正反対に存在している対極に在るものを存在せしめている、という世界だからである。
例えば、一番わかりやすいのは悪と善、である。
これは悪をこの世からなくしたければ、善をこの世からなくしてしまえばいいし、
善をこの世からなくしてしまえるなら、悪はこの世からなくなるはずなのである。
闇をなくしたければ光をなくしてしまえばよろしい。
ですから、片方が片方だけで存在できない世界っつうのが、まあこの世界。
天国をなくせば地獄もなくなるよ。
僕はこの世に何を願うかって、そりゃあ一番に肉体的な苦痛がなくなってほしいということであった。
残酷すぎるからである、精神的な苦痛は限界が来れば発狂してさらなる苦痛は待ち構えているのは確かにわかっているが、肉体的な苦痛に限界が来ると脳内麻薬で痛みを緩和させる、もしくは痛みに耐えられずに気絶する、ということがあるかもしれない、しかし自分が経験できない以上、その痛みや苦しみの度合いがわからないのである。
精神的な地獄は僕なりに見てきたつもりだ、これこそまさに地獄だと思える時間を過ごしたことがあるが、なんとか耐えることはできた、それに精神的な苦痛とは在らなければならないもののように思う、それはさっき言った対極にある二極が絶対的存在しているからである。
精神的な苦痛の対極にあるものは、精神的な喜びである。
もし精神的な苦痛をこの世からなくしたいなら、精神的な喜びをこの世からなくせばよろしい。
精神的な歓びは、あってほしいものだ、だから精神的な苦痛はこの世からなくすことはできない。
しかし、どうであろう、肉体的な苦痛は必要なのであろうか。
それは、対極にある肉体的な快楽が必要だからということになるが。
肉体的な快楽がこの世にあるために肉体的な苦痛が存在しているからである。
では、肉体的な苦痛をこの世からなくすには、この世から肉体的な快楽をなくす以外にないだろう。
肉体的な快楽とは様々なものがある。代表的なものはなんといっても食欲と性欲であろう。
その他には、寒い日に温かいお風呂に浸かって「あ~気色ええなァ~」とか、
ふわふわした春の風に吹かれているとき、
酒や煙草やドラッグで神経を麻痺させているとき、
きついゴムの靴下を脱いでその圧迫から解放されたときや、長時間の我慢した便意に便器が与えられたときなどや、などや、しょうもないことから、おれはこれがないと生きられねェよ、などと生命を存続させるに必要不可欠なものまであるにあることだろう。
その肉体的快楽が在る為に、様々な肉体的苦痛が存在してしまうのである。
どちらかええ方だけ、と都合のよい話が到底成立できない世界に我々は生きている。
悲しいことだ、我々は肉体的な快楽を手放せないでいるから肉体的な苦痛からいつまで経っても解放されないのである。肉体的な快楽を思い出してみるとわかる。
それは一時のもので、一過性のもので、長く続かせることはできない、むしろ肉体的な快楽を求めてしまうために肉体的な渇望に日々人々は襲われて不幸になっているとは思えないだろうか。
僕は肉体的な快楽は必要だとは思えないが、やっぱり酒は飲んでしまうし美味いものは食いたいと思ってしまうし寒い冬にはゆっくりあったかいお湯に浸かりたいと思う。
しかしそれらすべての肉体的快楽を手放せないがためにこの世のあらゆる肉体的苦痛が消えないのである。
肉体的な快楽は必要ではない、必要なのは精神的な歓びだ。
徳を積むという言葉があるが、あれは精神的な喜びを積んでいくということだ。
精神的な喜びは肉体的な喜びのように時間が経てば消えてなくなってしまうものではない。
何故なら精神的な喜びは誰かを喜ばしたときや、誰かに感謝されたときや、誰かを心から愛することができたときに起こるからである。
それらは過ぎ去ればその喜びに渇望するということもない、あるとするならそれは何かを外に求めているからだ。
精神的な喜びはどんどん積まれてゆくが、肉体的な快楽はいっさい積まれてはゆかない、だからまったく同じ快楽を人は求め続けるのである。
全く同じものを求め続け生きるとは恐ろしいことではないだろうか。
昨日に食欲も性欲も十分満たされたが、しかし今日になって同じ飢えを感じ、また同じ食欲と性欲が満たされることを願う、これはあまりに悲しいことではないか。
肉体的な快楽をほっするのは、肉体である。
肉体が一人歩きをしている、ほら御覧なさい。そこに心が在ろうか。
僕は今日海老が食いたくてたまらなかったが、そんなことではダメだ、食欲に翻弄されてはダメだ、それに何より買い物行くのもしんどい、と言ってトマトソースのアレをアレしたニンニク生姜すりおろしと豆板醤少々のごま油とすりゴマの麺つゆのアレンジした素麺を食らったのである、結果どうなったか?十分満たされたのである、別に海老でなくともトマト素麺は十分美味かったし、また食べたい、ああまた食べたいよ、食べたい、ってそこまで思ってたら一緒やんけ、そこまでは思ってないはず、だからこれは肉体の欲求に勝って、美味い海老を食すという、食したい、という欲望渇望から解き放たれて少し楽になったような気がしないでもないかな。
だから何が言いたいのかと言えば、肉体的な欲求って結構誤魔化せるものではないか、ということだ。肉体的欲求とは生命維持に関係ないことであるなら、誤魔化せることができることであって、誤魔化す方法が見つかりさえするなら、人は誤魔化しながら肉体的快楽に餓えることなく生きていけるのである。
そんなことは言われんでもやっとるわボケカスごま塩、などと言わないでくれませんか、やってるのはええことじゃないですか、やりましょう、でもそれが自分が苦しいからやるってより、この世から全肉体的苦痛をなくするために、という意気込みでやらなくてはならない時が来た、ということに気づいてしまったために僕はこれを今日から頑張る以外ほかないのである。
こういったことにどんどん気づいていくと自分と戦う日々に明け暮れて他人と戦ってる暇がなくなるに違いあるまい。
まぁ魔界から毎晩誘われるかもしれないが、「いやぁだって魔界行くとしんどくなっちゃってからね最近、一時的な快楽十分間とそれによって引き起こされる倦怠虚脱が三時間とか割りに合わん、ってか、まぁ考えときますぅ」つって、やった、今日は俺は魔界への誘いを断れたようだ、その代わりにうめえ柿の葉茶飲んだろうな、柿の葉茶は断食中にええで、ええで、ええで、でででで、で~ん。