囚われの魂

町田康の本はなんでおもろくて癒されるのか、それは僕の師匠だからです。
ってそこで終わる話じゃなくて、じゃなくてっ、師匠、師匠、とこの2010年の11月から心の奥底で崇敬しながら師匠の話をブログで書くことがほんま少なかったなぁ、まぁ今日も別に師匠のことを意気込んで書こうと思ってるわけじゃないけども、まぁやることがなくなってしまって、ブログ書くしか起きてる時間を生産的に過ごせないので、なんか書こうとしてるだけなんですけどもぅ、ってそんなこと師匠にばれたら?ばれへんか、はは、なんでも好きなこと書いてこましたれ、話戻そ。

なんで師匠の本はおんもろくってぇかつ癒されちゃうのかぁ。
俺は思った、いいや、感じた、悟った。
師匠の本って阿呆なことばっかし書いてる、わけではないけども、体外が阿呆なことが多いけども。
ほんまに阿呆なだけの人間がおるのか知らんけども、おるとして阿呆な人間が阿呆なこと書いても、やっぱおもんない。
師匠の本がおもろいのは、師匠がとんでもなく鋭くて、その言葉はとんでもなく深いところから発せられたものだから、と僕が思うから。
そんな人間が、阿呆なことを書いて人を、僕らを笑わせようとしてくれている。
師匠自身阿呆な部分はあるから書いてる、でも阿呆な部分を隠さない、嘘は付かない、自分に対して、そうゆう感じ、それが面白い。
逆な話、真面目な人間が、真面目なこと書いても、おもんない、のはまあそうゆうことなんやろなと思いました。
僕は師匠から、いろいろな面白さ、面白み、深み、とにかく大切で面白いことばかり教わりました。
師匠は別に、人々を癒そうなんて思ってないかも知らん、けどはっきり言って、俺が知ってる中では、師匠ほどの存在が何処にもいません。

で、俺もやっぱりブログと言えども、言葉の表現というものをものすごく愛する一人として、どんなブログ書いたら、おもろいんかなぁ、っていつも考えちゃいます。
おもろいものを書きたい、書いて終わりのものじゃなく、人様に読んでもらい、おもろい、と感じてもらいたい。

やっぱり人間、なんちゅたかて、達者が何よりや。ってアベノ橋魔法☆商店街のあるみのせりふ、じゃなくっ、やっぱり人間、なんちゅたかて、人に喜び与えたいものなんかなぁ、って、ううん、喜びっていうか、影響?なんかしらの、影響、与えたい生き物ちゃんなのかなぁ、って思いますねぇ、今日。

まぁそんな感じで、俺は廃人ならば廃人ならではの言葉をみなさまに送ること、これぞ、俺の役目?使命?宿命?運命?何?まぁ、なんでもええけども、それが、俺の喜びでありますかね。
誰かこのブログまともに読んでるか、知らんけどね。
まぁ俺も一時期は小説家目指して小説応募して見事落選して即諦めました、っていや、書けるなら書きます、ただ今年は新潮見送りですねぇ、無理矢理書いてもしゃぁないしな、僕はとにっかく、無理矢理何かをすることに何の意味も見出せないのでやれない、だからこうしてなぁなぁな日常なんですけどね。
別になんやろなぁ、おもろい小説書いて、売れて、多くの人を面白がらせられること?そらまぁ、嬉しいことでしょうね、でも俺は、そこで、数じゃないってか、数なの?かなぁ、って思うんですよね、そうゆう意味において、小説でもブログでも人の表現というものの表れ場です、究極的、人は、多分、人を知りたいと思ってる、だから小説を読む、知らん人のブログを読む、そうゆう欲求において、同じかな、と思った、確かに誰一人にも評価もされない人の表現を読むのは気が折れる?くだらない先入観でね、人々が面白いと評価したものは面白いんだろうと言う先入観、でも俺はやっぱそれ、糞かなぁ、という気持ちにもなる、一人の表現に向き合うとき、相手も一人です、そこに、それ以外の何かがあるのは、ただ邪魔なものなんだと、気付き始めていた俺は、何が自分にとっておもろいものなのか、もっと自由でありたい、人々の目、評価、一喜一憂?人々の常識、価値観、是非、に一喜一憂?じゃなくっ、もっと深みの方へ、もっともっと、おもしろいところ、あるよ?それ、師匠が教えてくれた、僕に。
ずっとそれを伝え続けてくれる、深いほど、面白いんだ、君の囚われの魂も、渇いていないか?
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